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2012年1月31日 (火)

『横浜フォーラム』200回記念新年会

梅爺の大学時代の合唱仲間(同期生)である畏友Mさんが主宰する私的会合『横浜フォーラム』が記念すべき200回を迎え、新年会を兼ねて盛大に開催されました。(1月28日、東京駅隣接JR東日本サピアタワーのコンファレンス・ルーム)

原則月1回の開催で、200回を迎えると言うことは、単純に計算しても16年以上かかるということですから、まさに『偉業』です。この間一人で継続維持に努力されてこられたMさんの情熱あってのことで、頭がさがります。

『横浜フォーラム』は、いまでこそ、異業種に携わってこられた人たちの交流の場になっていますが、最初は、Mさんはじめ、『化学』業界の『エンジニアリング・プラスティック(エンプラ)』に関係する技術者の会合仲間が母体となって発足したものです。その頃、会合は横浜の居酒屋で開催されていたことから、『横浜フォーラム』と命名されました。

『ただの飲み会では芸が無いでしょう』との奥様のご意見にMさんが発奮し、『飲み会、講演会、意見交換会を兼ねた会合』の現在のスタイルが確立しました。講師としてMさんの同窓生(金沢大学付属中学、高校)、大学時代の仲間(東京大学、教養学部、工学部応用化学科、男声合唱団)、その他Mさんの知人、『横浜フォーラム』メンバーの知人などが、次々に招聘されるようになりました。講師には『横浜フォーラム』のメンバーの資格も与えられますので、メンバー数は徐々に増えて、現在100人弱に達しています。講師には、その都度Mさんから『お名前織り込み狂歌』が進呈されることが恒例になっていて、その見事な出来栄えもメンバーにとっては楽しみの一つです。このメンバーでゴルフを楽しもうと言うことにもなり、『横浜フォーラム:教養学部(通常の例会)』の他に『横浜フォーラム:体育学部』も別途開催されることにもなりました。梅爺は、現役引退と同時に『ゴルフ』も引退してしまいましたので、『体育学部』には籍をおいたことがありません。

梅爺が最初に講師として招聘されたのが、1997年ですから、バリバリの現役時代でした。その後現在まで3回の講師を務めましたが、メンバー仲間には6回講師を務めた方もおられ、梅爺は遠く及びません。梅爺の会合への出席回数は85回(出席率42.5%)で、メンバーの中では上位に属するようになりました。しかし、193回(出席率96.5%)のYさんに比べると、これも到底自慢できるものではありません。

今回は記念すべき会合でもあり、三菱重工の現会長、佃和夫氏に『日本の新成長戦略』という演題で講演をいただきました。日本の将来に大きく関る産業界のリーダーのお一人である佃氏の、腹蔵の無いお話は感銘深いものでした。『日本のものつくり文化の原点は棚田稲作にある』というユニークな視点が特に印象的でした。『皆で協力する』『創意工夫する』文化を継承していけば、新しい産業分野(農業やサービス業など)でも、世界に太刀打ちできるという元気づけられるお話でした。佃氏の奥さまは従来から『横浜フォーラム』メンバーの一人で、過去に2回講演をしていただいています。

会合の最後は、サピアタワーの27階にある展望レストラン(メトロポリタンホテル)に移動し、眼下の東京駅を含む夜景を楽しみました。このビル(JR東日本ビル)の現社長のIさんも、メンバーのお一人で、今回の記念会合の開催を支援くださいました。

Mさんの『情熱』が、多くの方の共感を呼び、『絆』が広がっていくのをみるのは、嬉しいことです。

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2012年1月30日 (月)

信ずる、疑う(4)

理性で判断できないことを、そのまま放置できず、『信ずる』か『疑う』かを選択しないと安心できない人間は、同様に、何事も『正しい』か『間違い』と決めないと、やはり安心できない習性を持っているように思えます。

従って、『信じた』ことも、『正しい』か『間違い』を決めないと気がすまないという矛盾した行動にでるのも無理からぬことかもしれません。しかし、昨日も書いたように、もともと『正しい』か『間違い』かを、普遍的に判断できないから、『信じた』わけですから、この行動はやはり矛盾していると言わざるをえません。

『信じた』ことが普遍的に『正しい』と思い込んでしまうと、それを『信じない』ことは『間違い』ということになり、多くの人間関係や、国際関係で対立や紛争を巻き起こす原因になります。これによる悲劇は、歴史上繰り返され、今も続いています。『自分の信じたことは、正しいと信ずる』というように、『信ずる』が、2段構えで利用されるわけですから、実にややこしい話になります。

たとえ2段構えであり、3段構えであろうが、個人が『信ずる』ことは、他人がとやかく言う話ではありませんが、『信じた』人が、それを『普遍的に正しい』こととして、他人にまで影響を及ぼすことは、問題を生ずることになります。しかし、人間は、『信ずる』ことを、自分の中だけで、止めておくことができない習性に強く支配されているように見えますので、『信ずる』と『正しい』は、今後も一緒に論じられ続けられるのかもしれません。梅爺も『信じた』ことを『正しい』と、主張する議論を、気がつかずにしていることが度々ありますので、偉そうなことは言えません。

『信ずる』『疑う』の領域以外の対象に対して、人間が理性で『正しい』『間違い』を見極めようとする行為は、梅爺は、当然のことと考えています。科学者は、自分が抱える疑問に、普遍的に『正しい』回答を得ようと努力をしています。『これが自分の信ずる回答なので、あなたも正しい解答であると信じなさい』などと科学者が言えば、嘲笑の的になるだけです。科学者は、誰もが、もはや『信ずる』必要のない、普遍的な回答を見出そうと努力をしていることになります。

全ての科学者が、『科学教の信者』なのかどうかは、梅爺は分かりませんが、宗教の信者を蔑む権利は誰にもないと同様に、仮に『科学教』が存在するとしても、その信者を蔑む権利は、誰にもないのではないでしょうか。

宗教は、『信ずる』世界であり、芸術は『感ずる』世界ですので、普遍的な『正しい』『間違い』は適用できない領域です。しかし、科学は、まさしく『正しい』『間違い』を決する場であり、『信ずる、感ずる必要のないもの』を見つけようとしているわけですから、共に『立場』の違いを認めたらどうかと、梅爺は願っています。宗教で科学を律することは意味がないように、現状のレベルの科学で宗教を律することもまた、できないと梅爺は感じています。ただし、宗教が『正しい』と主張してきたいくつかの事柄を、科学が『正しくない』と証明したものも沢山あり、この傾向は今後も続くことになりそうです。科学は宗教を否定するためにあるものではありませんが、結果的に、理性で宗教に疑いを持つ人が増えるのは否めません。その意味で、いつまでも宗教と科学は無縁とは言い切れません。特に人間の脳の『情』の領域を科学が解明した時には、宗教は、岐路に立たされるかもしれません。宗教の本質である『心の救い、心の安らぎ』は、『情』の世界の現象であるからです。『情』の世界が科学で解明されていない現状では、宗教と科学が、相手の存在が『気に入らない』と、大人気なく誹謗しあってみても、得るものは少ないように思います。

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2012年1月29日 (日)

信ずる、疑う(3)

数年前に、梅爺の長兄Q翁が、ブログの中に、日本の大学の先生には、『「科学教」を信ずる人が増えている』という発言を紹介していたことを思い出しました。増えているかどうかは別にして、『「科学」は究極において、人間の全ての疑問に答えてくれる』と『信じて』いる方がおられることは不思議ではありません。何故なら、、『「科学」は究極において、人間の全ての疑問に答えてくれる』かどうかは、現状では、誰の理性をもってしても判断できないことですから、『信ずる』か『疑う』しか対応の方法がないからです。

梅爺も、当然このことを判断することはできませんが、強く『信ずる』ことも、強く『疑う』こともできずに、『うーん、参ったな』と、優柔不断な対応にとどまっています。『かなりの疑問に科学は答えるであろう』ことは『信じて』いますが、『全ての疑問に科学が答える』かどうかは、『疑って』いるというのが正直な気持ちです。

梅爺が、大変厄介だと思うのは、『信ずる』『疑う』という話を、『正しい』『間違い』という議論に結びつけることです。もともと、『正しい』か『間違い』かが判断できないからこそ、『信ずる』『疑う』の選択をしているわけですから、ここに、『正しい』『間違い』を持ち込むのは、そもそも、場違いなのではないでしょうか。

『地球は宇宙の星の一つで、太陽の周りを廻る惑星である』という、科学が見出した『事実』は、科学がそう結論付けた論理やプロセスを肯定する限り、私達は『知っている』ことで、よほどへそ曲がりな人でもなければ、『信ずる』『疑う』ことの対象にはなりません。そして、このように『信ずる』『疑う』の対象にならないことは、『正しい』『間違い』の議論の対象になります。

『信ずる』ことは、とりもなおさず、その人は『正しいと信じている』ということですが、そうであるからといって『信じている対象』が、他の誰にとっても『普遍的に正しい』と議論を飛躍させることはできないのではないでしょうか。

『普遍的に正しい』ことを証明しようとすれば、『対象』を『信ずる』領域から、『知る』領域へ引きずり出す必要があります。それができない『対象』は、『正しい』『間違い』を議論しても空しいと梅爺は考えています。

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2012年1月28日 (土)

信ずる、疑う(2)

人間は、自分の理性で判断できない事象に遭遇すると、判断しないままの状況で放置することが不安になり、『信ずる』か『信じない(疑う)』か、どちらかの選択をします。例えば、見知らぬ人と遭遇し、その人と何らかの関係を結ばなければならない時には、有利な関係が結べる信頼が置ける人と『信ずる』か、自分に害になる人と『疑う』かどちらかを選びます。

どうしてこのような資質を保有しているかは、不思議ですが、生物として生き残るために、『次の行動』を起こす必要があるためではないかと梅爺は想像します。上の例では、『見知らぬ人に従うか』『見知らぬ人から逃げる』かを、決めないと、『自分の身が不利なこと(または有利なこと)が起こる』可能性があることを、本能的に感じ取るためと言うことになります。

これは別に、人間だけではなく、我が家で飼っていた犬も、散歩の途中で見知らぬ犬に出会うと、咄嗟(とっさ)の判断で、なつくか、吠え掛かるかの判断をしているように見えました。

理性で判断できないことは、一切信じないなどと、豪語している人も、日常の生活では、瞬間的な『信ずる』『信じない(疑う)』を繰り返しながら、生きているのではないでしょうか。

例えば、人生の進学、就職、結婚なども、自分の選択しようと思う、学校、会社、伴侶が、自分にとって唯一最善のものであるなどということは、どんなに理性を振り絞っても、『判断』できるものではありません。従って、前進するためには(行動を起こすためには)、自分にとって不利はないだろうと最後は『信ずる』しか方法がありません。

人間の、資質は、一人一人全て異なっているわけですから、同じような事象に遭遇しても、ある人は『信じ』、ある人は『疑う』という状況が発生しても、少しも不思議はありません。しかし、人間は一方において、他人も『自分と同じ』にちがいないと勘違いすることが多く、自分と同じ行動をとらない他人が理解できなかったり、時には非難をします。

誰もが理性で判断できることを、理性を欠いているために一人だけ異なった判断をし、行動する人は非難されるのはしかたがないことですが、理性で判断できないことに遭遇した時には、人によって『反応が異なる』のは、しかたがないことであり、当然なことでもあろうと、梅爺は考えています。つまり『信ずる』人と、『信じない(疑う)』人に、分かれる事態は、認める必要があると思っています。

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2012年1月27日 (金)

信ずる、疑う(1)

人間は、自分の理性の範囲で理解できない事象に遭遇した時に、『信ずる』または『疑う』という行動にでます。何故このように振舞うのかは、『安泰を求める本能があるから』などという仮説はあるにしても、現時点では、完全には理解できていないことの一つです。

前に、『「懐疑」と「鵜呑み」』というブログを書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-7dfc.html

今回は、少し視点を変えて、同じことを考え直してみたいと思います。

『信ずる』『疑う』という対立する行動をとれる能力を保有しているのですから、『信じながら疑う』『疑いながら信ずる』という、矛盾した状態も論理的にはありうることになりますが、どういうわけか、そういうケースは少なく、多くの人は『信じて疑わなくなる』『疑って信じなくなる』と、どちらか一方に重きを置いた行動に走ります。脳にとっては、それが『安心』できる安定した状態なのでしょう。

一旦、『信ずる』か『疑う』に傾いてしまうと、人は、その『視点』で今度は、他の事象にも対応しますので、自分の視点にとって都合のよい事象には、『ほれみろ、やっぱりそうだろう』と鋭く反応しますが、都合の悪い事象は、無意識のうちに避けたり、無視したりします。『私心なく、公平に世の中に対応する』などということは、常人にとっては、無理難題であることが分かります。『信じていることを疑ってみる』『疑っていることを信じてみる』ということが、柔軟にできる人は、大変器の大きい人ということになります。梅爺は、凡人の最たるものですから、『梅爺の色眼鏡』で、世の中を観ているにちがいありません。

『信ずる立場』から『疑う立場』へ、または『疑う立場』から『信ずる立場』へ、移行することは、そう簡単にはできないように、人間の脳はできているように思えます。しかし、『信じていたものに裏切られる』ことや『疑っていたために大きな損失をこうむる』などの、手痛い経験をすると、人間は一転して今度は『何もかも疑うようになる』や『闇雲(やみくも)に信ずるようになる』と、極端から極端へ走る傾向も持っているように思えます。

詐欺師が、疑い深い人間さえも、巧妙に騙すのは、人間のこういう性質をうまく逆手にとるからです。

現実の世の中は、『信ずる』だけで、または『疑う』だけでは生きて生けないようにできているように思えます。『信じる』『疑う』の選択が後刻、正解と判明することも、不正解と判明することもあることを覚悟しておく必要があります。自分の責任で選択したことですから、いずれにしても結果を他人のせいにすることはできません。

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2012年1月26日 (木)

地球外生命体(6)

地球外生命体は、宇宙で『水(液体)』の存在する環境を探すことでもあります。土星の衛星『エンケラドス』のように、本来『水』がないはずの所に、特殊な条件が重なって『水』が存在かもしれない、というような星を探すより、地球のように、『恒星(地球の場合は太陽)』からの距離が『水』の存在を可能にしている『惑星』を探すほうが、効率の良い話です。

この『恒星』からの距離で『惑星』に『水』の存在を可能にする領域を『ハビタル・ゾーン(生物生存可能領域)』と科学者は呼んでいます。したがって、地球外生命体を探すことは、『ハビタル・ゾーン』に『惑星』の存在する『恒星』を探すことと言いかえることができます。

2010年に、地球から20光年離れた『恒星(グリーゼ581)』の『惑星(グリーゼ581g)』が『ハビタル・ゾーン』を満たしていることが見つかりました。アメリカの科学者が15年間観測を続けて見つけたものです。東京工大の井田教授が、『惑星』が出来上がるプロセスをコンピュータでシュミレーションした結果、『惑星(グリーゼ581g)』は、表面が全て『水(海)』で覆われている星であるらしいことが分かりました。『地球』のように陸地は存在しないということです。

『恒星(グリーゼ581)』とその『惑星(グリーゼ581g)』は、誕生してから100億年を経ていることも分かりました。『太陽』『地球』の歴史は46億年ですから、倍も長いことになります。100億年は、生物進化には十分な期間ですので、『惑星(グリーゼ581g)』の『海』と、ひょっとすると『空』には、沢山の『生命体』が存在している可能性が高いと科学者は推定しています。『惑星(グリーゼ581g)』の大気密度は地球の100倍で、『生命体』が『浮遊』しやすいと考えられるからです。100億年の進化可能期間があったとすれば、『生命体』はバクテリアのような原始生物ではない可能性も高いことになります。

現在では、天体観測データをコンピュータが画像処理することで、自動的に『ハビタル・ゾーン』の条件を満たす『恒星』『惑星』を見つけるプログラムさえも出来上がっています。宇宙は、無数の銀河、『恒星』で満ち溢れているわけですから、今後続々と『地球外生命体』が存続する可能性の高い『惑星』が発見されることでしょう。

科学者の多くは、『地球外生命体が存在しない』という主張の方が不自然と考え、更に人間のような高度な『知性』をもつ『生命体』が存在しても少しもおかしくないと考えているようです。

地球の生命体は、海底1500メートルにある『熱水噴出口(300度の温度)』近くで『超好熱メタン菌』として、30億年位前に最初の産声を上げたのではないかと、推定されています。地球外生命体は、どのように誕生するのかは、更に分からないことですが、『水』『高温、高圧』『生命体を作り上げるのに必要な素材(元素)』と言う条件がそろっていることではないかと考えられます。地球外生命体は存在するにしても、見かけは地球の生命体とは、似ているとは限りませんが、構成素材は宇宙環境である以上、ありきたりの元素でできた素材であろうと思われます。

宇宙は、まだまだ謎だらけです。

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2012年1月25日 (水)

地球外生命体(5)

いくら現代科学が進んでいるとはいえ、宇宙に1千億個も存在する全ての銀河の『恒星』やその『惑星』、そしてそのまた『衛星』を特定することは不可能に近いことが分かります。それでも、地上に設置した高性能天体望遠鏡、人工衛星に搭載した望遠鏡(ハッブル望遠鏡)それに、コンピュータの画像処理プログラムを駆使して、科学者は『地球』に似た環境を持つ『惑星』『衛星』の発見に努力を傾注しています。『地球外生命体は存在するのか』という、人類の素朴な好奇心が、科学の原動力の一つになっています。

NHKBSプライムチャンネルの科学番組を観ていて、科学者は『火星』以外で候補となる『惑星』『衛星』を見つけ始めていることを知りました。

その一つは、太陽系の惑星『土星』の衛星の一つである『エンケラドス』です。『土星の輪』は、氷の塊(かたまり)が寄せ集まってできていると考えられていますが、その外側にも『Eリング』と呼ばれる薄く見える輪(これも氷でできているらしい)があり、『エンケラドス』は、この『Eリング』の中に位置します。

『土星』は太陽からの距離を考えても、液体の『水』が存在するとは考えられませんので、その衛星『エントラゲス』も、氷で覆われていると考えるのが常識的です。ところが1997年に打ち上げられ、7年かけて『土星』に近づいた『無人土星探索機カッシーニ』から送られてきたデータを解析して、『エントラゲス』の表面から今でも高さ100キロメートルにも及ぶ『間欠泉(ジェット)』が噴き出していることが判明しました。『ジェット』の存在は、『エンケラドス』の内部に何らかの高圧ガスが存在することを意味します。さらに『ジェット』の主成分は微細な氷の粒であることが分かり、総合すると、『エンケラドス』内部の『水(液体)』が水蒸気になって噴き出し、宇宙空間で氷の粒になって、これが『Eリング』をつくりだしたと推定できるようになりました。

常識的には『水』が存在するはずがない環境で、何故『エンケラドス』内部に『水』が存在するのかは不思議ですが、科学者は『土星』と『エンケラドス』、そして『エンケラドス』の外側を回る衛星『ディオーネ』の相互の位置関係(周期的に変る)で、『エンケラドス』内部の地殻は引力で変形し、その摩擦熱が『ジェット』を作り出していると推定しました。物理法則が不思議のもとを解明したことになります。

『エンケラドス』内部に『水』が存在するから、『生命体』が存在すると論理飛躍はできませんが、『地球』の氷河の氷の中や、極地の氷やその下の海の中に、微生物が存在することは分かっていますので、『エンケラドス』にもその可能性があるという表現は、一概に間違いと否定はできません。

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2012年1月24日 (火)

地球外生命体(4)

地球の生命体は、『生物進化論』を肯定する限り、人間も含め、『最初の単細胞生物』を祖先として、数億年以上の進化プロセス(世代交代)を経て、現在の生物(動物、植物、細菌)へ枝分かれしてきたことになります。人間の『時間感覚』の中で常識的に起こりうる『変化』とは程遠い変容を遂げていますので、多くの人にとって『生物進化論』は直感的に受け容れ難く、『本当かなぁ』と言いたくなりますが、『理』で考える限り、これ以上の説明方法は見つかっておらず、現に、観測や研究で次々に判明する個別事象も『生物進化論』に矛盾していません。時代的にダーウィンの前後では、人間の科学視点が一変しているわけですから、ダーウィンがいかに偉大な科学者であるかが分かります。

科学者は、地球の『生命体』の出現と進化と同じことが、地球外でも起こりうるかどうかを検証しようとしています。つまり、『地球の生命体』という特殊ケースから、『地球外生命体』を『演繹』しようとしていることになります。平たく言ってしまえば『地球に起こったことは、地球外でも起こるに違いない』と推測しています。『地球の生命体』とは全く異なった想像を超えた『生命体』が、地球外には存在するかもしれませんが、それを追いかけているわけではありません。

この論法で、『生命体』が存在する必須の条件として『水』の存在を挙げています。気体(水蒸気)や固体(氷)ではなく液体の『水』が存在するためには、酸素と水素という素材が存在するだけではだめで、温度範囲や気圧がある条件を満たさなければなりません。

従って、科学者は、地球外の宇宙で、『水』が存在する条件を満たす『星』を先ず探し始めました。具体的には、宇宙に存在する恒星(太陽もその一つ)の周囲をまわる『惑星』の中に、条件を満たすものがあるかどうかを探すことになります。『恒星』そのものは、太陽のような高熱の世界ですから『生命体』の存在候補から除外していることになります。

とは言え『恒星』は銀河の中に無数と言って良いほどの数が存在し、その銀河も宇宙には1千億個存在するわけですから、『恒星』の周囲を回る『惑星』を特定することは、砂浜の砂粒の中から、一つだけ特殊な砂粒を見つけるような作業になります。

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2012年1月23日 (月)

地球外生命体(3)

古代の人間にとって、天体で『大きく見えるもの』は、『太陽』と『月』でしたから、これらが不思議の対象となりました。不思議の対象は『神』であるという説明を人間の『推論能力』は思いつきますので、世界各地に『太陽神』『月の神』の神話は存在します。『太陽神』は『昼を支配する神様』『生きる力の源』であり、『月の神』は『夜を支配する神様』『安らぎの源』ということになります。やがて、コミュニティの支配者である王は、自らを『太陽神の化身』であると主張するようにもなりました。

夜空にきらめく幾多の星も、古代人には不思議の対象でしたから、これも神話になりました。『星座』などがその名残です。しかし中には星の運行を観ていて、『周期』があることに気付く『頭の良い』人間も出現します。自然の摂理を『ルール(パターン)』と結びつけてとらえる最初の行為で、『科学』の始まりともいえます。正確な『暦(こよみ)』も、これで作り出されました。『古代エジプト文明』や『インカ文明』は、驚くほどの『天体に関する知識』を保有していたと考古学者は考えています。

『太陽』は、天の川銀河系の恒星の一つ、『地球』は『太陽』の周囲をまわる惑星の一つ、『月』は『地球』の周りをまわる衛星であり、それらの位置関係は相互の引力(重力)で保たれているなどという科学知識を人類が獲得したのは近世になってからのことです。

古代人は、『太陽』『月』『星』と、『神』や仮想上の『いきもの』を関連付けて考え、神話や民話を作り出しましたが、近代人は、これらを『神』の対象として考えなくなった上に、地球外にも『生命体』が存在するのではないかと、科学的な知識をベースに推定し始めました。

太陽系で『地球』の外側軌道をまわる惑星『火星』を、まず『生命体』存在の候補と考えたのは当然で、火星人発見の期待が高まりました。『生命体』には『水』が必須の要因ですので、『火星』に『水』が存在するかどうかがカギとなります。『火星』表面に、かつては大量の『水』が存在した痕跡はありますが、現在は少なくとも地表近くには大量の『水』は無いことが、無人探索機による観測データから分かっています。しかし、火星人はともかくとして、バクテリアのような生物が存在するかもしれないという期待はまだ残っています。

2030年代半ばまでに、『火星』の有人探査を実現すると、オバマ大統領は宣言していますので、その時には『生命体』の有無も明らかになることでしょう。

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2012年1月22日 (日)

地球外生命体(2)

ビッグバン(現在の宇宙の始まり)から約90億年後に、地球は太陽の惑星の一つとして産声をあげたというのが、『科学』の定説です。今から46億年位前のことです。勿論誕生したころの地球は、灼熱の星で、現在の地球環境とは程遠いものでした。

宇宙の星は、宇宙に漂う『ガス』と『塵(ちり)』が重力で寄せ集められて『誕生』しました。地球も例外ではありませんので、地球を作り上げている材料は、元素レベルでみれば、他の星と変わりがありません。つまり、ビッグバン以降に作り出された宇宙の標準素材である各種元素やその組み合わせ物質だけでできています。

人間も含め、地球に出現した『生命体』も、地球で手に入る『材料』でできているのは当然のことです。科学は『生命』のしくみの全てを解明できているわけではありませんが、人間を構成している元素の種類は判明しています。それらの元素は、宇宙の存在するありきたりの元素にすぎません。人間は、『精神世界』を保有するために、『自分だけは特別な存在』であると思いたくなりますが、素材は『特別なもの』ではありません。しかし、ありきたりの素材でできている人間に、何故『精神世界』が存在するのかは、現代科学も明確には解明できていません。梅爺は、『精神世界』は、『脳の情と理のせめぎ合い』が高度に進化した世界であると想像していますが、勿論個人的な『仮説』にすぎません。『情』は本来生物が生きようとする原始的な本能と関係しており、『理』は『情』が作り出すストレスを緩和するために『因果関係』を推定しようとする能力として、後から獲得したものであろうという想定です。人間にとって未知な世界は、宇宙だけではなく、実は『人間の脳のしくみ』はその最たるものですから、多くの科学者が、この謎を解明しようと取り組んでいます。

謎に包まれた『精神世界』は、『脳のしくみ』と関連していると、梅爺同様に科学者は考えています。そして、科学者は『脳のしくみ』を解明することは『聖なる領域を犯すこと』とは考えていません。『宗教』『芸術』『哲学』などは、『精神世界』が作り出していますので、『脳のしくみ』が解明されれば、『パンドラの箱』を開けてしまうように『アッと驚く事実』が明るみに出て、『神』『美』『情感』などの概念の観方が変る可能性も秘めています。『精神世界』は、いつまでも『聖なる領域』にしておいて欲しいという保守的な願望と、真実を知りたいと言う革新的な好奇心のせめぎ合いですが、人類は結局好奇心を優先するのではないでしょうか。好奇心による試行錯誤が、人間の基本的な本能の一つであろうと、梅爺は推測しています。

『地球外生命体』が存在するとしたら、それは宇宙のありきたりの元素で構成されていると推測できます。地球に『生命体』が出現したのですから、宇宙のどこかに『生命体』が出現してもおかしくないとこれまた推測できます。問題は、地球と似た環境が、宇宙のどこかに存在するかどうかで、その存在が確認できれば、『地球外生命体』の存在は、高い可能性で推測できることになります。

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2012年1月21日 (土)

地球外生命体(1)

梅爺は、人類が『文明』を獲得してから未だ5000年しか経っていないことを『短い』と感じ、それにくらべて自分が生きてきた70年は、なんと『永い』ことかと思います。『科学』の目覚ましい進歩の大半は、ここ50年以内の成果ですから、梅爺が鼻たれ小僧であった頃には、人類は一人として『宇宙の始まり(ビッグバン)』『生命のカラクリ(遺伝子構造、細胞や脳のしくみ)』などの知識を持ち合わせていなかったことになります。

梅爺が小学生の頃には、『飛行機で世界を旅する』『自分で自動車を保有し、運転する』『携帯電話を持ち歩く』『高解像度のカラー画像、立体音響をテレビで楽しむ』『世界中をつなぐインターネットを利用する』などという生活が、自分の将来に待ち受けているとは夢想もしませんでした。勿論、爺さんになってブログを書き続けることになろうとは考えてもいませんでした。

こう考えると、梅爺が学校教育で習った『科学知識』は、全てではないにしろ大半は『古くて役に立たない』ことが分かります。社会人になってからは、『仕事が忙しい』という口実で、最新科学の勉強を怠ってきましたから、梅爺の古い『科学知識』で世の中を観たり、判断したりするのは、あまり意味が無く、時に弊害ももたらすと感じています。

梅爺が子供のころから、『宇宙人』という考え方はとっくにありました。『想像』『推論』に長(た)けた人類は、科学知識が無くても、色々なことを思いつくもので、『宇宙人』はその一つと言えます。しかし、その後梅爺は、SF小説を読み、宇宙冒険の映画を観て、『どうもこれは胡散臭(うさんくさ)い』と『感じる』ようになり、『宇宙人などは存在しない』と言う考えに傾いていました。

ところが、最近の科学者の多くは、『地球外生命体は存在する』と考えるようになっていると知り、梅爺の古い『科学知識』は、やはりあてにならないと痛感しました。勿論ここでいう『地球外生命体』とは、必ずしも人間のような高度な知性を保有する生物という意味ではなく、バクテリアのような、原始的な生命体も含めての話です。

どうも科学者は、『神』が存在する確率より『地球外生命体』が存在する確率の方が高いと考えているようなのです。

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2012年1月20日 (金)

NHK擁護論(4)

恥ずかしいことに、梅爺は一貫して『NHK擁護論者』であったわけではありません。仕事の現役時代は、テレビを落ち着いて観る時間はあまりありませんでしたので、NHKと民放の比較もできず、『NHKが無くなっても困らないだろう』と考えていました。

年金生活になり、ブログを書くようになって、ネタ漁(あさ)りにテレビを録画して観るようになり、はじめてNHKのありがたさが理解できるようになりました。人間は、自分の利害に関係しないと思うものには、無関心であるということの典型的な事例です。

『メディア』が権力の『御用機関』になって、庶民を洗脳して好ましくない状況を創り出していく事例は、あとを絶ちません。ヒトラー等がその典型例で、女性映画監督レニ・リーフェンシュタールを利用して、『信念の勝利(ナチの結党集会の記録映画)』『オリンピア(ベルリン・オリンピックの記録映画)』などで、自分を神格化して見せました。戦後、ユダヤ人の大量虐殺へ突き進んだナチへの協力者として、レニは弾劾を受けますが、彼女自身は、『あくまでも芸術表現に徹したまで』と、自己弁護をし、101歳で亡くなるまで、決して表向きは自分の非を認めませんでした。彼女の本心は分かりませんが、『芸術』といえども政治の道具になる危険性は、芸術家は心得ておくべきでしょう。

独裁者や一党独裁が支配する国の『メディア』は今でもこの危険性をはらんでいます。北京オリンピック開会式の華やかな演出や、一糸乱れぬ団体演技は、レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』同様、世界の人たちの眼を中国の現実から逸らすためのものではないかと、梅爺は感じました。

独裁国家でなければ『メディア』は健全かというとそうとは限りません。第二次世界大戦の前に、日本の新聞の大半は『戦争支持』を表明していましたし、9.11の後、アメリカの『メディア』の大半は、ブッシュ大統領のアフガニスタンやイラク侵攻の政策を支持していました。

民主国家で、『メディア』が政府の管轄下にあることは不自然のようでもありますが、節度ある関係が保てれば、『商業主義』の弊害から『メディア』を守る方法として、『悪い』とは言い切れません。イギリスの国営放送である『BBC』は、世界で最も優れた『教養啓蒙番組』を沢山制作し続けています。『NHK』の努力も、梅爺は多とします。現状の日本の体制の中で、『NHK』が単に政府の『御用機関』になる危険性は少ないと思います。国民もそれを排除する能力を持ち合わせていると考えるからです。税金に準ずる『視聴料金』支払いを義務付けるのは怪しからんなどとは、少しも考えていません。国民の知的欲望や、知的向上心に応えててくれる優れた番組を沢山提供して欲しいと願っています。

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2012年1月19日 (木)

NHK擁護論(3)

『メディア』は、庶民を啓蒙する手段でもあると同時に、庶民を洗脳する手段にもなりえます。『メディア』に携わる人たちが、この二面性を正しく理解していて、大きな偏りが生じないように、常に注意を怠らないようにすることが、そしてそれがある程度実現できていることが、文明度の高い社会であることの証左になります。日本は、理想的とは言えないまでも、相対的には世界の中で高いレベルに達している国家の一つです。

『メディア』に偏りが生ずる要因には、『権力の介入』『商業主義の介入』『関係者の無知』などがあります。『関係者の無知』は、自分は無能ではないと思い込んでいる無能者が、自分が正しいと思うことは正しいと、これまた勘違いして情報を流すことの弊害を指します。『インターネット』は優れた『メディア』ですが、誰もが情報を提供できるということでは、この弊害が顕著に現れるデメリットも包含しています。情報の受け手が有能ならば、『いかがわしさ』を見抜けますが、多くの人は『メディア』で表現されたことは正しいと鵜のみにしますから、大きな弊害を生じます。高い能力と志をもった人が、プロとして『メディア』の仕事に携わるしくみになっていることが、文明国家の条件です。

『情報社会』では、『情報』を保有できる人とできない人との間に『格差』が生じますが、『情報』の中身や本質を自分なりに判別できる能力を保有するかどうかでも『格差』が生じます。思考を放棄して、安易に『情報』を手に入れようとすると、大きな陥穽(かんせい)に遭遇する可能性が高まります。自ら考える訓練が『情報社会』の教育の基本となる所以(ゆえん)です。

『メディア』の運営を、民間にゆだねることで『権力の介入』は避けることはできますが、今度は宿命的に『商業主義の介入』が起こります。スポンサーである広告主に気を使ったり、売上増加を最優先するために、俗受けを狙ったりして、情報の『質』が劣化する可能性が高まります。

総合的に観て『ドキュメンタリー番組』や『教養啓蒙番組』の『質』で、NHKが民放各社に勝っていると梅爺が感ずるのは、民放各社が『商業主義』を優先せざるを得ないためではないかと思います。刹那(せつな)的な笑いを売り物にするバラエティ番組は、肩が凝らず息抜きになり、何よりも安定した視聴率が稼げますから、民放各社はこぞってこれに走ります。ついには『おバカ』を売り物にするタレントや、学芸会の延長のような歌や踊りを披露する『グループ』が現れ、視聴者も『カワイイ』と叫んでこれを受け入れたりします。あの程度でもてはやされ、しかも金が稼げるのなら自分も『タレント』になりたいと、『タレント(才能)』をもたない若者が夢想するようになります。テレビ時代が到来した時に、評論家の大宅荘一が、その本質を『一億総白痴化』と喝破(かっぱ)しましたが、まさしくそのとおりに日本社会は成りつつあるように感じます。

梅爺は、全ての番組が『教養啓蒙番組』であるべきだなどと、主張するつもりはありません。低俗か、低俗でないかを選んだり、どちらを好むかは視聴者に任されている社会が健全であると思うからです。『石』の中にあってこそ『玉』は輝き、貴重さが分かるとも言えるからです。しかし、低俗な『本』『芸能』『映画』『テレビ番組』『インターネット・サイト』だけしか存在しない社会、つまり『石ころ』だけのような社会は、健全とは言えません。

NHKが『テレビ番組』の世界で、全てが一方的に低俗に流れないようにバランスを保とうとしている姿勢は、現在の日本社会では貴重な存在であるように感じます。『視聴料金は払いたくない』『チャンネルは沢山あり、NHKが無くても困らない』というような主張で、『NHK不要論』があることは承知していますが、梅爺はこれ以上の『総白痴化』はゴメンですので、NHKを擁護したいと考えています。

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2012年1月18日 (水)

NHK擁護論(2)

歴史上、人間社会は『情報メディア』の出現と普及によって、大きな影響を受けてきました。『文明』の発展は、『メディア』の普及で促進されたとも言えます。人間は、先ず『絵』で、仲間内の情報共有、感情共有を実現し、後のために記録して残すという方法を見つけました。古代人が、洞窟の内壁に残した『絵』は、単なる暇つぶしの落書きではなく、仲間内では、ある『意味』をもった情報であったものと推測できます。多分、原始的な『宗教』や、『宗教』の儀式との関連も深いのでしょう。

やがて、人間は『言葉』を『文字』として記録する方法を思いつきます。『文字』を記録できるものなら、『石』『粘土板』『木版』『亀の甲羅』『羊皮紙』などなんでも利用しましたが、ついに『紙』を発明し、更に『印刷技術』が加わって、『本』の量産が可能になりました。『印刷技術』が普及する前は、人間が手で『写本』を行っていましたので、『本』は大変貴重なものでした。

『本』を沢山所有していることは、『情報』を沢山所有していることでもあり、また富の象徴でもありましたので、権力者は『本』の蒐集(しゅうしゅう)を競い合いました。エジプト、プトレマイオス朝がアレキサンドリアに建造した『図書館』とその蔵書の数は有名で、当時世界の知恵の全てが、アレキサンドリアに集まっていると言われていました。『図書館』と言う言葉で、私たちは身近な『図書館』を思い起こし、『ふーん、そんな昔に図書館があったのか』と、理解したつもりになりますが、必ずしも正しい理解とは言えません。権力者が権力を誇示することが主目的であったということです。

『本』は、その後『雑誌』『新聞』などと新しい『メディア』に発展していき、それらには、文字情報以外に、静止画情報(写真など)も掲載されるようになります。

動画情報を伝える『映画』や、音声情報を伝える『ラジオ』の出現を経て、全ての情報を網羅した『テレビ』や『インターネット』が出現し、現在私たちはその恩恵にあずかっています。

私たちが当たり前に利用している『情報メディア』は、少し前までは『存在しなかった』ことを認識しておくことは重要なことです。江戸時代の日本人、明治時代の日本人の『情報環境』は、現在とは異なっていることを前提に考えないと、その時代は読み解けません。『キリスト』の時代のユダヤ、『釈迦』の時代のインド、『孔子』の時代の中国の社会情勢も、その時代の『情報環境』を想定しないと読み解けません。

人間の大半の歴史の中で、『メディア』は、権力者が庶民をコントロールする手段でした。北朝鮮の国有テレビを観れば、もっともらしい口調のおばさんが将軍様やその後継者を讃えるニュースを流していますので、世界には『メディアは俺のものだ』と思い込んでいる権力者がいまだにいることがわかります。日本も『庶民を啓蒙する手段』というより『政府が情報を統制する目的』で、国営放送(NHK)が誕生しました。

こういう視点から、『NHKの役目はもう終わった』と主張する人たちがいますが、梅爺は、『市場原理、商業主義』だけで、『メディア』の経営が行われることには賛成しかねます。『メディア』には、『政治の手段』『金儲けの手段』だけであってはいけない要素があると思うからです。

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2012年1月17日 (火)

NHK擁護論(1)

梅爺は、ブログのネタを、NHKのテレビ番組から沢山得ています。年金生活の爺さんで、好きなだけテレビを観る時間があるというだけのことですが、仲間の爺さんの中には、『忙しくてテレビを見る時間が無い』とおっしゃる方もおられますので、爺さんが全て『テレビっ子』であるとはかぎりません。

そんな梅爺でも、『リアルタイム視聴』をしているのは、『ニュース』と『スポーツ番組』くらいで、その他お気に入りの番組は、文明の利器である『録画装置』に撮り貯め、『タイムシフト視聴』をしています。筆記道具とメモ用紙を手元に置いて、気になるところは、『繰り返し再生』で確認して、メモをしながら観ています。それほど重要と思えない部分は『2倍速』で観ますが、最新技術で『音声』もそれなりに同期するしくみになっていて、効率がよく、助かります。また、デジタル録画技術の進歩で、画質を大きく劣化させることなく、再生できますから、昔の『テープ録画』のような、『画質劣化』を我慢することもなくなりました。安価で大容量の『ハード・ディスク装置』が入手できるようになり、圧縮記録再生技術も向上しましたので、梅爺の環境では、トータル200時間程度の、『録画時間』が確保されています。どうしても、長期保存したければ更に『ブルーレイ・ディスク』や『DVDディスク』にコピーして残すこともできます。なんとも素晴らしい時代に年金生活を迎えたものだと、大いに満足しています。

梅爺が好んで録画しているのは、『ドキュメンタリー(歴史懐古など)』『人物インタビュー』『映画』『音楽(オペラ、ミュージカル、オーケストラ)』『美術(名画解説)』『科学(自然、生物、生命、宇宙)』『古典芸能(落語、講談)』などで、NHKのBS放送チャンネルが大半の対象になっています。

『事業仕訳』で、NHKのBSチャンネルが、三つから二つに削減されたことを梅爺は大変遺憾に感じています。

何故NHKが梅爺の視聴対象になるかと言えば、理由は簡単で、同じような質の番組が、『民放チャンネル』には無いからです。あったとしても、それはイギリスの国営放送BBCや、アメリカの専門局(ヒストリー、ディスカバリーなど)が制作した番組の受け売りが大半で、極端で失礼な言い方をしてしまえば、民放各社は『教養番組』を企画、制作できる自社スタッフをほとんど擁していないのではないかと推察しています。梅爺の観たいような番組は、視聴率が稼げず、商業主義では割に合わないということなのでしょう。

このような現状を観ると、『NHK不要論』には反対を唱えたくなります。日本人の全てが、同じような『娯楽バラエティ番組』だけを望んでいるわけではありませんし、そのような国になることは望ましくありません。

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2012年1月16日 (月)

京に田舎あり

上方いろはカルタの『ん』、『京に田舎あり』の話です。

『梅爺閑話』は、約5年前に、江戸いろはカルタの『い』、『犬も歩けば棒に当たる』から開始しましたので、自分でも想像していなかった時間をかけて、『江戸いろはカルタ』と『上方いろはカルタ』の全てについて、感想を書き終えることになります。ここまできたからには、ついでに今度は『尾張いろはカルタ』に挑戦しようかとも思いましたが、似たり寄ったりの感想になりそうなので、『いろはカルタ』については、これで筆をおくことにしたいと思います。

『いろはカルタ』は、日本語の特性を利用して、庶民が処世訓として日常使ってきたものですから、日本人の『考え方』『生き方』を端的に表現していて、梅爺は、そのレベルの高さを誇りに思います。

処世訓ですから、必ず『理』を踏まえていることになりますが、そこに『情』の表現をからめて、『理』と『情』が渾然一体となっているところが魅力です。『理』は究極的に『真』か『偽』かを論ずることですが、それに『滑稽(可笑しさ)』を加えると、味わいが大きく変わってきます。人間は『理』だけで生きているわけではないことを考えると、『滑稽』を加味したくなる気持ちが分かります。『正しいこと』『真面目なこと』と『滑稽』は、紙一重であることは、チャップリンの映画を観れば分かります。日本の『いろはカルタ』は、日本の庶民が、人間の本質を鋭く見抜いていたことの証左であろうと思います。『正しいこと』『真面目なこと』を茶化しているわけではなく、その価値を認めた上で、『でも視点を変えると、こうも見えますよ』と指摘しています。『律儀者の子だくさん』などが典型的です。

さて、本題の『京に田舎あり』ですが、日本語には『ん』で始まる言葉が無いために、『江戸いろはカルタ(京の夢大阪の夢)』と同様『上方いろはカルタ』も『京』をあてています。『終り』を東海道の『終点(京三条大橋)』と関連付けていると言われますが、梅爺は本当のことは分かりません。

都である『京』の中にも『田舎』の部分がありますよ、ということは、『物事を一つの言葉でくくって見てはいけませんよ』という意味になります。政治論争で『アメリカ一辺倒はけしからん』などと主張をよく聞きますが、まさしく『京に田舎あり』とたしなめたくなります。私たちは、『日本の農業』『現代の若者たち』『日本の官僚』などと、一つの言葉でくくって、論じたがりますが、一度立ち止まって反省してみる必要があるのかもしれません。

永い間、『江戸いろはカルタ』『上方いろはカルタ』に、お付き合いいただきありがとうございました。

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2012年1月15日 (日)

新春番組『日本の将来』(8)

ダワー氏とマコーマック氏が共通して提言していることは、『日本は、外交や安全保障で、アメリカだけに強く依存する国家から抜け出すべきだ』ということです。西欧の先進国は、『日本は経済的には依然大国であるけれども、政治的には自立した国家とはいえない』とホンネでは見ているという辛口の表現もありました。

冷戦時代には、共産主義勢力の拡大を阻止する『大義』を掲げてアメリカは行動し、それを支える体力もありましたが、今や相対的に国力は衰え、『民主主義の旗頭』役よりは、端的に自国の経済に都合のよい行動、自国を防衛する行動を優先する、『普通の国家』になりつつあるように見えます。したがって、『中国』との関係は、『ソ連』の時のような全面対決ではなく、抜き差しならぬ相互依存型になっています。オバマ大統領が、『TPP』や『アジア地域対応』を重点施策に変えたのは、なりふり構わず『アメリカの国益』を求めてのことです。『日本』はアメリカにとって依然重要な国家であることには違いがありませんが、アメリカの視野に『日本』だけがあるわけではないことを承知しておくべきです。

それにアメリカは、1%の富める人たちが、金儲けのためなら戦争も辞さないというあくどさで振舞い、99%の貧しい人たちを『占拠(ダワー氏の表現)』している、『民主主義、資本主義』がゆがめられてしまった国ですから、『日本』がこれを模倣したり、追従するのは滑稽です。

そうは云うものの、『アメリカ依存からの脱出』は、具体的には易しい話ではありません。自衛、安全保障のための出費は増えるかもしれませんし、アメリカの嫌がらせもふえることでしょう。それを、アジア諸国との、経済的、政治的、文化的交流を密にすることで、補っていく必要があります。このような、したたかで洞察力に富んだ大人の振舞いができる指導者を、現在の政党の人材に期待しても無理なような嫌な予感もします。直感的に云ってしまえば、このようなリーダーとしての総合能力をもった人材は、政界や学界ではなく、日本の産業界、経済界に多く存在しているように思います。外国の異文化との付き合い方も心得ています。経済的に日本が大国とみなされるようになった基盤は、このような人達の努力でもたらされました。失礼ながら政治家や官僚のお陰ではありません。しかし、残念ながら産業界の有為な人材は、政界をホンネで軽蔑し、今までは近づこうとしませんでした。まともな日本人からみて政界が『別世界』になってしまっているところが、日本の悲劇ともいえます。

アジア地域の『安全保障』は、『日米安保条約』のような2国間協定ではなく、『多国間、多国籍の関係』で成立するものであるというダワー氏の洞察は、当たっているように梅爺は思います。

アジア諸国から尊敬される『民主国家』に、日本が変貌していけるかどうかが、『日本の将来』の鍵を握っていそうです。

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2012年1月14日 (土)

新春番組『日本の将来』(7)

外国の人たちと比べると、日本人は『細部にまでこだわる習性』が強く、日本人自身はあまり気付いていませんが、外国人は『驚く』ことになります。交通機関は、ダイヤ通りに正確に運行され、新聞の関連記事は、キチンと1ページの中に編集収納され、テレビ放送で、番組と番組の間で『暗転(隙間の無駄なブラックアウト)』はなく、電力の周波数、電圧変動や瞬停もほとんどありません。日本人が『当たり前』と思っているこれらのことは、外国では『当たり前』ではありません。

江戸時代や明治の初期に、庶民が日用品として使っていたものに施されていた繊細な装飾に、外国人は驚嘆しました。外国では、王侯貴族の間では、高価な装飾が、調度品や食器に施されることはあっても、庶民が日用品にまで、その様な繊細な『美意識』を反映させることは無いからです。

経済成長期の日本の産業は、この『細部にまでこだわる習性』を最大限に利用して、『品質、使いやすさ、デザイン』等で圧倒する商品を作り出し、世界の市場を席巻しました。購入時から完璧に機能し、油漏れのない『日本車』がアメリカで売れるようになったのは当然のことです。

つまり、日本人は『目的が判然としている』ことは、『細部にまでこだわって』見事に達成する能力は極めて高いと言えます。スポーツや芸術の分野でも世界に通用する人達が出てくる背景には、日本人のこの習性があるように感じます。何故このような習性を保有するようになったのかは、梅爺の興味の対象ですが、それは差し置いても、この特性は『長所』として活かすにこしたことはありません。

逆に云うと、『目的が判然としない』状況では、日本人の長所は削がれやすく、また残念なことに、曖昧な状況下で『目的を判然とさせる』ことも、得意ではないという『短所』が日本人にはあるように思えます。『情』には繊細に反応しますが、『理』で徹底推論することを『面倒がる』習性が強いのではないでしょうか。そのため梅爺のような『屁理屈爺さん』は、敬遠されることになります。

未曾有の困難に遭遇している現在、『どのような国家へ向かうのか』という目的が判然としていないことが、復興を阻害し、または無駄な努力をしてしまうことにつながっているように思えます。

『アメリカだけに依存しない』『経済成長だけに依存しない』『原子力エネルギーだけに依存しない』という新しい『国策』を掲げた『日本』は、一体どのような『国家』なのかを、政治指導者は国民へ具体的に提示しなければなりません。それは『昔へ戻る』ことではないことも、明示すべきです。『変化』には『苦痛』も伴いますから、問題を被災地や、基地のある沖縄だけに限定せず、全ての日本人に、『変わる』ことへの責務と自覚をうながすことが必要です。現在の政党には、これらが期待できないのなら、『大衆』の草の根運動から、あたらしい体制や指導者を模索することも必要になります。ダワー氏やマコーマック氏が、日本へ期待していることは、このようなことなのでしょう。

政府の『復興支援政策』も勿論重要ですが、『目的が判然とすれば』、日本人は細部にまでこだわって、それを自ら達成する能力を秘めていますから、無駄のない『復興』へ向かって歯車は良い方向へ噛みあうのではないでしょうか。

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2012年1月13日 (金)

新春番組『日本の将来』(6)

1945年に、日本は敗戦を迎えました。数100万人が命を落とし、都市の多くは焦土と化しました。その後、日本は世界の人たちが『奇跡』と呼ぶ復興を成し遂げ、今日に至っています。全てを失った状態から復興を果たした主役は『日本人』ですから、『日本社会の特徴』『日本人の精神構造』を研究対象とする外国人が出現し、『敗北を抱きしめて』を著わしたダワー氏もその一人です。

『敗戦』と『東日本大震災、原発事故』を、単純に比較して論ずるのは、無神経であり慎むべきことと思いますが、『今度も日本は復興するだろう』と世界の人が観ている背景には、過去の復興があるからです。

1951年に、日本は『サンフランシスコ条約』に署名をし、国際的に『国家』の一員として復帰しました。しかし、これがその後日本の『国策』の一つに定着してしまった『外交、安全保障におけるアメリカ依存』の始まりとなりました。『日米安保条約』が締結され(締結させられ)、米軍の日本駐留を認めることになりました。アメリカにとっては、『同盟国日本を守る』ことがホンネではなく、アジアが『共産主義』に染まらないように、日本を軍事前線基地として利用しようとしたことになります。しかし、冷戦終了後、アジアの政治地図は『日米安保条約』締結時とは大きく変わってしまい、現在『中国』『北朝鮮』は軍事的には脅威であるものの、アメリカにとっては、『中国』を含むアジアは、自国の疲弊した経済を立て直すための地域であるという認識に変わっています。ヨーロッパはもう期待できないとの、なりふり構わぬ判断も働いているのでしょう。中国のミサイルの射程範囲にある『日本の米軍基地』は、アメリカにとっては価値が薄れ、最近では、射程外ギリギリのオーストラリアに駐留基地を設営開始しています。つまり、日本が『方思い』で、すがりつこうとしても、アメリカはホンネで日本を従来ほど『特別の国』とみなしていないということになります。

そうはいうものの『米軍駐留』は、日本の安全保証のために今までは機能し、朝鮮戦争による特需なども幸いして、日本は、『経済成長』を『国策』の一つに据えることになりました。『経済成長』は1989年の『バブルの崩壊』で、とん挫し、その後日本経済は長いトンネルから脱出できていません。

『経済成長』や『豊かな生活』を支えるためには、豊富なエネルギーが必要になり、『原子力エネルギーへの依存』も、『国策』の一つになりました。しかし、今回の『原発事故』で、この『国策』への疑問が高まりつつあります。

こう観てくると、日本の国策の三本柱であった『外交や安全保障におけるアメリカ依存』『経済成長依存』『原子力エネルギーへの依存』は、ことごとくとん挫しつつあることが明白です。

『少し前の日本の状態へ戻そう』という考え方は、梅爺のような素人が考えても、無理がありますし、現実に『昔へ戻る』ことは不可能ではないでしょうか。『昔へ戻る』という考え方を断ち切り、『新しい日本へ変わる』ことが『復興』ではないかと思います。ダワー氏も、マコーマック氏も、日本が従来の『国策』とは異なった『国策』を掲げる『国家』へ変貌することを期待しています。しかし、残念ながら日本の政治指導者は、依然として『昔へ戻る』夢を捨てきれずにいて、国民の多くもそれを期待しているように梅爺には見えます。

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2012年1月12日 (木)

新春番組『日本の将来』(5)

日本通のアメリカ人、『ジョン・ダワー』氏と、オーストラリア人『ガバン・マコーマック』氏の『震災後 日本と世界への眼』という対談は、タイトル通り『世界が抱えている問題』を論じ、その中で『震災、原発事故を含め日本が抱える問題』に日本がどのように対応すべきかを論ずるという内容でした。

1992年に、日系アメリカ人の経済学者『フランシス・フクヤマ』氏が『歴史の終わり(The End of History and the Last Man)』という著作を発表し、話題になりました。梅爺も分厚い英語の原書を当時、奮闘して読んだ記憶があります。決して易しい内容の本ではありませんでしたが、煎じつめれば『資本主義』と『民主主義』が、人類が試行錯誤の末に見出した最強の社会システムで、今後代替のシステムは出現しないというと言う趣旨であったように記憶しています。勿論、理想のシステムと言っているわけではなく、欠陥も包含しているけれども、基本的にこれに代るシステムは見いだせないということだと理解しました。当時は、ソ連や東ヨーロッパの『共産主義』が崩壊した直後のことですから、この本は、ある意味で『アメリカの勝利』を宣言したようなものでした。

ところが、現在は、『資本主義の危機』が叫ばれる状態になっています。ここでいう『資本主義』は、厳密には『グローバル金融システムという資本主義』のことで、『資本主義』を捻じ曲げた『妖怪』のようなものですから、フクヤマ氏の主張は間違っていたとは言えないのかもしれません。何事にも『矩(のり)』があり、これを越えると悲惨なことになるという教訓ですが、『矩』を越える要因は、いつも『人間の果てしない欲望』であることが、悩ましい話です。実態経済とは遊離した『金融システム』の暴走が、世界経済を危機的状態へ向かわせてしまいました。この暴走に手を貸した一つが『IT(情報処理システム)』ですから、その仕事に従事していた梅爺は暗い気持ちになります。

『国際金融システム』の暴走で、『民主主義』と『資本主義』は今危機にさらされている、という共通認識から、ダワー氏とマコーマックの対談は始まりました。『金融システム』『戦争』『テロ』などという暴走は、『一部の人間』で引き起こされてしまい、社会全体が、『後追い』でこれに対応しなければならないという事態が、『民主主義』の体制下でも発生しているわけですから、確かに『民主主義』の危機であるという表現はあたっています。

日本の場合は、これに『1000年に一度の大災害』『原発の事故』が加わって、八方ふさがりに追い込まれていて、日本の『民主主義』の本質をとわれるような事態になっています。これを機に、日本が『高度に進化した民主主義』のモデルを創り出し、世界に模範として示してほしいというのが、ダワー氏、マコーマック氏の期待であることが分かりました。日本人は、それを可能にする資質を秘めているという、お褒めの言葉もありました。

しかし、日本が大きく変わるチャンスのの『窓』は、大震災、原発事故の後のある短い期間しか開いておらず、もたもたしていると『窓』はしまってしまうというダワー氏の指摘がありました。『のどもと過ぎれば』の例えのように、時機を逸すると、また昔の日本に戻ってしまうと言う警告です。

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2012年1月11日 (水)

新春番組『日本の将来』(4)

『西部邁セミナー』は、全員基本的には『日本の現政権を、無能と糾弾する』という点では一致していますので、『討論』ではなく、『確認』の座談会になっていました。3人の40歳前後の若手学者は、日本の一流大学を卒業し、外国の一流大学に留学したり、一時官僚職を経験したりされておられる、『超エリート』の方々です。

3人に共通する考え方は、『人間の共同体(コミュニティ)には、文化、風習といった個性があり、複数の共同体を一つの画一的なルールで統一すると必ず破綻する』『共同体が永年かけて作り上げてきた文化、風習を破壊するのは簡単であるが、後で後悔して元へ戻そうとしてももう戻らない』ということらしいと梅爺は理解しました。つまり『創造的破壊』などと粋がって、現状を破壊すると、取り返しがつかないことになるので慎重であるべきだと、『保守的』思考が強いと感じました。

歴史を観れば、複数の共同体を一つにまとめて、ある程度うまく対応した、またはしているのは『ローマ帝国』と、現在の『中国』くらいで、『ソ連』『ユーゴスラビア』をはじめ多くは、結局元の共同体へ逆戻りしていますので、上記の『仮説』には説得力があります。何よりも現在の『EU』の混乱を観れば、『そうだ』と云いたくなります。『中国』も、いつまでも分裂の危機を回避し続けられるかどうか保証がありません。『アメリカ』は多民族が一緒に暮らす国ではないかという指摘があるかもしれませんが、『アメリカ』は白紙の上に国を築いていった特殊な例です。

複数の小さな共同体をまとめて一つにすればより強くなるという考え方は、経済活動や軍事活動を主体とする共同体にはあてはまります。『企業の合併』などがそれを示しています。しかし、この場合も、合併する二つの企業の元々の文化が異なって、混乱が生ずる障害を克服しなければなりません。

『保守的な考え方』を軽んじてはいけないという主張には、勿論一理がありますが、人間社会は、どうしても『変えなければならない』事態が存在することも配慮しなければなりません。『変えてはいけない』のか『変えなければいけない』のかの判断は、残念ながら熟慮しても人知の及ばないことである場合が大半です。

特に政治指導者は、『軽はずみな決断』は避けようとしながら、どうしても『勇気ある決断』をしなければならない事態に遭遇します。その場合には、『何故自分がこの選択をするのか』を、大衆に語りかけなければなりません。大衆がそれを受け容れるか、受け入れないかを決めるのが民主主義ではないでしょうか。

現在の日本の政治指導者に欠けているのは、この『大衆に語りかける』能力ではないでしょうか。『語りかける』ということは、『単純な政治的フレーズ』を繰り返して、大衆を扇動することではありません。大衆も、『単純な政治的フレーズ』に騙されない洞察力を必要とします。

日本の大衆は、『単純な政治的フレーズ』に惑わされないレベルに達しているとは残念ながら言えません。『構造改革』『グローバル社会への適応』などという『フレーズ』の、真意を洞察しないで、踊らされているように見受けられます。

政治指導者も、大衆も、その能力を高める努力をしないと、八方ふさがりからは抜け出すことができません。せめて『未曾有の困難』が、日本を一段高い民主国家へ変える好機になって欲しいと、梅爺は願います。

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2012年1月10日 (火)

新春番組『日本の将来』(3)

『西部邁セミナー』番組の内容について、少し生意気に批判がましいことを昨日は書きましたが、『全体としての印象』を述べたまでで、視聴するに値しないなどと畏れ多いことを云いたいわけではありません。むしろ、発言内容の多くに、梅爺は啓発されました。特に、本質理解を追求する上で、徹底的に『言葉の、そもそもの意味』にこだわる姿勢は、『本当の教養』とはこういうことなのだろうと教えられました。『自分の独創的な本質理解』を『普遍的な言葉』で表現するのが、真の教養人なのでしょう。借り物の『他人の理解内容』を、借り物の『他人の言葉』で、さも得意げに開陳する人は、博識とは言えても『教養人』とは呼べないのかもしれません。西部氏は、過去の教養人の『表現』を多く引用する癖がありますが、ご自分の考え方(洞察)の表現を補強する手段としてですので、単なる『博識の開陳』とは違います。

こういう人に接すると、生半可な『言葉』の理解で、怪しげな仮説を展開している梅爺は、『梅爺閑話』を書くことが怖ろしくなりました。無能さの露呈として、笑ってお許しいただくことを期待するしかありません。

いつの時代でも『教養人』の苛立(いらだ)ちは、『社会が教養の無い大衆によって牽引されている』という認識に起因しています。今回の座談会でも、『東日本大震災、原発事故への対応』『TPPへの対応』で、政治責任者の『無能、無策、無責任』が糾弾されていますが、云いかえれば、政治責任者が『教養の無い大衆と同じ』とみなされているからです。

『自分は教養がない』と認識できている人は、矛盾するようですが『教養とは何か』をわきまえているわけですから『教養の無い人ではない』ということになります。『自分はそれなりの人物である』と考えている人の多くが、客観的には『教養の無い大衆』であるということが問題なのでしょう。全員が『教養人』で構成される社会は、望むべきもありませんし、一方『教養が無い大衆』は、全て人間として存在価値が無いとも言えません。『教養をベースに洞察力に富んだリーダーが、教養には疎遠の大衆を導く』という構図が人間社会の理想なのかもしれませんが、現実にはこれも簡単な話ではありません。政治は、宗教のように『全能の神が、罪ある私たちを導いて下さる』というような統一した図式で律するわけにはいきません。

西部氏は『大衆論』を従来多く論じてきた方ですので、スペインの思想家オルテガの『大衆は、大衆でないものを徹底して憎む』という言葉を座談会の中で引用していました。確かに、大衆は有意な人材を、何らかのレッテルを貼って忌避、排除し、挙句の果てに『人材がいない時代になった』などと嘆く困った習性を持っています。一方、大衆からわき起こる『草の根運動』が民主主義の原点であるなどと、持ちあげられることもあります。人間同様、大衆も『愚かな側面』と『賞賛すべき側面』を両方持ち合わせているということなのでしょう。『大衆』を善い、悪いだけで一方的に評価すると間違いをおかします。

個々の議論には、『なるほど』と肯くものがありましたが、座談会の最後は、『現在の日本は、議論、思考の体力を失っている』『込み入った問題こそ、深く考えて解きほぐすべきだ』というようなまとめ方で終わってしまいまいた。これでは『病気を治す体力に欠けている』といっているのと同じで、八方ふさがりの状態から抜け出すための具体的な提言に至っていません。何故病気になったのかを、詳しく解説していただくことは、無意味ではありませんが、治癒には役に立ちません。

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2012年1月 9日 (月)

新春番組『日本の将来』(2)

人間社会の本質は、人間は『一人一人が異なっている』ということを抜きにしては考えられません。くどくなって恐縮ですが、何故人間は『一人一人が異なっている』のか考えてみました。

地球上で、『有性生殖』によって子孫を残す生物の『親』と『子』は、『種』の視点からは『同じ』と言えますが、細部の性質は、『親』と『子』といえども『同じ』ではありません。地球上には70億人の『ホモ・サピエンス種』が現在生存していますが、『容貌』『考え方』『感じ方』『才能』は、厳密にいえば全て異なっています。

何故、このようなことになるかの理由は、かなりのレベルで『科学』が解明しています。人間の遺伝子の数は3万個程度と言われていて、『子』の遺伝子配列は、両親の遺伝子配列の『偶発的な組み換え』で決まり、これが『容貌』『考え方』『感じ方』『才能』を決めているからです。ここで梅爺は『偶発的』という言葉を使いましたが、『梅爺には偶発的に見える』という意味です。数億ケの『精子』の中の、どの一つが『卵子』と結合するかや、その時どのような遺伝子組み換えが行われるのかは、あらかじめ予測不能と思うからです。人間にとって『あらかじめ予測できないこと』にも、結果的にある『帰結』がもたらされますが、これは『自然の摂理』のひとつである『動的平衡』がもたらすものであると梅爺は考えています。『宇宙』の営み、地球の地殻や気象の変動なども、『動的平衡』で変容し続けていると考えています。『帰結』は『神のご意思』が働いたものという、別の説明のしかたが存在することは分かっています。もしそうなら、『神のご意思』には、『人間に不都合なこと』が沢山含まれることを認めざるを得ないことになり、『神は人間を愛して下さる』という説明が困難になります。『愛するが故に、試練を与えてくださる』などという説明は、試練(天災、病気、事故)で亡くなってしまう人たちのことを考えると、失礼な話で、迂闊には受け容れることができません。

一人一人が、異なった『容貌』『考え方』『感じ方』『才能』を保有していながら、人間は生き残りのために『群をなして』生きていく必要があるという宿命を負っています。つまり、『群』を優先すれば、『個』の違いは抑圧せざるをえないという状況を強いられます。この矛盾が、人間や人間社会を、魅力的にも、愚かしく見えるものにもする要因になります。

『西部邁セミナー』に参加した3人の『社会学』の学者は、上記のような『人間社会の持つ本質的特性』を理解されておられるはずですので、現在の政権を担当する『政治指導者たち』の『無能、無策、無責任』を糾弾するのも結構ですが、むしろ『何故、日本は無能、無策、無責任の人が政治指導者になってしまうのか』『逆に有能、有策、有責任の人を選別する方法はあるのか』を『社会学者』としては論じていただきたいと願います。

『無能、無策、無責任』な指導者故に、多くの人たちが、『見捨てられ、死んでいく』ことを、『許せない』と怒ることは、梅爺でもできますから、お任せいただいて、『社会学者』らしい、斬新な提言を期待します。そして、ちょっぴりでもよいですから、自分たちが『社会学者』として生きていける環境は、『無能、無策、無責任な指導者』が作り上げてきたものかもしれないという、ことにも思いを馳せ、感謝することも考えていただきたいと思います。『同調できる人たち』が集まって、『同調できない人たち』を血祭りにあげるだけの行為は、『社会学』的にも、生産的であるとは言えないように思います。

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2012年1月 8日 (日)

新春番組『日本の将来』(1)

正月にテレビで放映された、2つの『日本の将来』を論ずる番組を観て、梅爺は色々と考えさせられました。

一つは、TOKYO/MAXチャンネルで放映された、『西部邁(にしべすすむ)セミナー』で、西部氏が司会を務め、『中野剛志(なかのたけし:京大、社会学者)』、『柴山桂太(しばやまけいた:滋賀大、社会学者)』、『施光恒(せてるひさ:九大、比較社会文化学者)』の40歳前後の気鋭の学者3人が『今後の日本はどうあるべきか』を議論した番組でした。

もう一つは、NHKBS1チャンネルで放映された、日本の近現代史に詳しい、アメリカの『ジョン・ダワー(MIT)』と、オーストラリアの『ガバン・マコーマック』の、『震災後 日本と世界への眼』と題する対談番組でした。ダワー氏は『敗北を抱きしめて』という著作で、敗戦後の日本の社会構造と精神構造を論じ、ピューリッツァー賞を受賞した学者で、マコーマック氏は『属国』という著作で、日本のアメリカ依存政策を批判したことで有名な学者です。マコーマック氏は、奥さまが日本人ということもあり、日本語も堪能です。

前者は、『日本人による日本論』であり、後者は『外国人による日本論』ですから、対比という意味でも興味をそそられました。

『西部邁セミナー』は、西部氏の飄々(ひょうひょう)とした語り口ながら、本質をついたシニカルな指摘が魅力で、番組の司会でもそれが発揮されていましたが、座談に参加した3人の学者は、いずれも西部氏のお気に入りの人達らしく、結果的に『現在の日本の政治リーダー』達の無能、無策ぶりを、これでもかこれでもかと、手を替え品を替えて糾弾することに終始することになり、はじめは梅爺も『そうだ、そうだ、日本の政治リーダーは、恥ずかしいほど無能だ』と同調しながら観ていましたが、最後は、『これでスッキリした』と溜飲をさげる気持ちにはなりませんでした。『彼らは無能だ』と言い張ることは、相対的に『自分たちは有能だ』と言っていることに等しく、確かに西部氏を含めた4人は、とびっきり頭がよい人達であることは、梅爺も認めますが、感情的な蔑(さげす)みに近い表現ばかりを聞かされ、それに同調している自分にも気付いて、少々気持ちが滅入ってしまいました。人間は『あいつはアホで、私は偉い』と云えば云うほど、他人からは『偉く見えない』ものです。

4人に共通していることは、『本質(考えの土台)』を議論しようとすることに、日本人の多くや政治リーダーが、興味を示さず、物事を皮相な単純さで割り切ってしまうことへの苛立(いらだ)ちで、このことについては梅爺も共感します。西部氏はこれを『精神の小児病』と表現していました。たとえば『自由』とはなにかという本質を議論したり、理解しようとせずに、『自由』という言葉を乱用する風潮のことです。西部氏は、それを戒めるために『自由は不自由の限界(きわ)で生ずる』という福沢諭吉の洞察を引用していました。

西部氏は、竹中平蔵氏がことのほかお嫌いのようで、竹中氏の『私の思想の根幹はワクワク感である』という著作の中の表現を茶化していました。確かに『理』であるべき思想の根幹に、『情』の『ワクワク感』などという言葉を使って、読者を煙に巻こうとする発想は梅爺も好きにはなれません。西部氏は、『言葉』の揚げ足どりをしているのではなく、この程度の表現しかできない人は信用できないということなのでしょう。しかし、あえて竹中氏を弁護すれば『思考のきっかけは好奇心である』とおっしゃりたかったのでしょう。

3人の学者は、いずれも『社会学者』ですから、『グローバル資本主義』『経済至上主義』が、現在世界の各地で起きている深刻な問題の元凶であることは、『誰の眼にも明らか』なのに、それでもまだ『TPP』交渉に参加を表明する日本の政治リーダーの神経が分からないと、口をそろえて糾弾していました。この議論だけからは、『TPPにさえ近づかなければ日本は生きていける』と誤解しそうになりますが、深刻な問題は『日本は既に重病患者である』ということではないでしょうか。藁(わら)をもつかむ思いで『TPP』にすがろうとしても、更に死を早めるだけという議論はわかりますが、そうであれば、『別の藁』があるのかどうかも議論しなければなりません。日本は既に『重病の患者』であるという認識が最重要で、『TPP』交渉へ日本が不参加さえ表明すれば、一安心というわけではないように思います。

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2012年1月 7日 (土)

狼はいかにして犬になったのか(6)

番組の中で、福岡伸一先生は、『人間は家畜化された猿なのかもしれない』というようなコメントをなさいました。勿論、人間が人間を家畜化するというのは論理矛盾ですから、福岡先生は、そのようなことは100も承知で、『衝撃的な可能性を示唆』するために、このような表現(レトリック)を使われたのでしょう。

梅爺は文字通り『眼から鱗が落ちる』ような衝撃を受けました。私たちは、人間の方が猿より高等な生物であると思い込んでいますので、ある時偶然、高度な知性へと進化していける可能性を秘めた猿の種が突然変異で出現し、その子孫が人間という新しい種の先祖になったと想像してきました。

人間とチンパンジーの遺伝子配列の違いは、2~3%に過ぎませんから、この小さな違いの中に、『高度な知性へと進化した秘密』が隠されていると推測してきました。

しかし、全く視点を変えて、『ある時偶然、大人になる時期が他の猿よりも遅れ、大人になっても子供の時の習性を強く残した猿の新種が出現』し、その子孫が人間になったと考えると、従来の『生物進化論』だけでは説明が難しかった多くの謎が一気に解ける糸口が見えてきます。福岡先生が、示唆されたのはこのことなのでしょう。

『大人になる時期が遅い』という性質は、生物の生き残りの目的のためには、むしろ不利な条件で、『進化』というより『退化』かもしれません。しかし、結果的に、『好奇心旺盛で、周囲と敵対せずに、それを受け容れて利用しようとする子供の性質』を大人になっても保有している猿の新種は、更に因果関係を推測する知的能力を強化して、人間になっていったという仮説が可能になります。『人間は大人になっても子供の時の性質を強く残した猿である』という仮説で、一見不利な条件が結果的に有利に作用したという見方が可能になります。

『大人になる時期が遅い』という現象は、遺伝子配列の違いではありませんので、それだけでは説明がつきません。遺伝子が、それぞれの機能を発現する条件やタイミングが、何らかの他の要素でコントロールされていると考えざるをえません。遺伝子配列は、私たちが遺伝で受けついだ『基本プログラム』ですが、この『基本プログラム』を実質制御する他の『サブ・プログラム』も存在し、同じく遺伝で受けついでいると推測できます。この『サブ・プログラム』の正体を解明しようとするのが『エピ・ジェネティックス』という学問分野であるらしいことを知りました。

細胞に含まれるDNAの螺旋(らせん)構造の中で、『遺伝子情報』は数%で、残りの大半は『ジャンク(ガラクタ)情報』と呼ばれてきましたが、これは不要なガラクタなどではなく、重要な情報なのではないかと梅爺は勝手に想像しました。不要なものを大量に保持し続けているとは考えにくいことですので、DNAの中に『基本プログラム』も『サブ・プログラム』も含まれていると考える方が合理的であるように思います。

猿が高度な知性を求めて進化し、人間ができたのではなく、子供の時の性質を色濃く残すという違いが偶然生じて、その結果が、高度な知性を産み出すことになったという説明の方が、梅爺には得心がいきます。自然界を支配する『動的平衡』のルールが偶然産み出した生物が人間である、という従来の主張と合致するからです。人間は、『神が、神に似せて創った特別な存在』であるという説明より、梅爺にはこのほうがしっくりきます。

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2012年1月 6日 (金)

狼はいかにして犬になったのか(5)

犬の先祖は狼であることは間違いないとしても、現存する犬の中には、あまりにも狼と容姿が異なっているものが多く、不思議な話です。原因を『突然変異』とするには、狼が犬になってからの1.5万年は、短すぎるからです。遺伝子組み換え時に『突然変異』が起きる確率は1回/1億回が平均と言われてますので、『突然変異』が頻繁に起きたと言う説明は無理があります。

しかし、人為的な交配の繰り返しで、『子供の特徴』を強く残した新種が出現したと考えると、ある程度納得できる説明が可能になります。ロシアのキツネによる研究がそれが可能であることを実証しています。人になついた『エリート・キツネ』は50年にも満たない期間で出現しました。1.5万年あれば、十分に犬の新種を作り上げることは可能です。

犬の種類の中には、『足が短い』『尻尾が立って巻いてる』『毛質が巻き毛である』『鼻が短い』『耳が垂れている』など、狼とはかなり異なった容姿のものが存在しますが、これらは『子供の時代の特徴』として共通しています。キツネの研究でも、『エリート・キツネ』の骨格や、眉間(みけん)に白い毛が残っている特徴は、『子供の時代の特徴』であることが判明しています。

『生物進化』は、『ラマルク(環境適合)』『ダーウィン(自然淘汰)』『メンデル(遺伝子)』『ド・フリース(突然変異)』などの説を経て、現在では遺伝子の解明にいたり、科学のゆるぎない定説になっていますが、たった1.5万年の間に、次々に犬の新種が出現することを説明するには、未だ何かが欠けています。ロシアのキツネの研究で浮かびあがってきた『エピ・ジェネティックス(遺伝子が機能発現する時期に影響を与えている要因の研究)』は、その欠けているものを埋める可能性が高いものとして期待されます。

現生人類も、たった17万年の期間に、『黒人種』『白人種』『黄色人種』と容姿が異なるように枝分かれした経緯を、従来の『生物進化論』だけで説明するのはかなり困難です。17万年は人類の時間としては永い時間帯ですが、従来の『生物進化論』だけを適用するには、あまりにも短い期間すぎるからです。

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2012年1月 5日 (木)

狼はいかにして犬になったのか(4)

ロシアの科学者は、人なつっこい『エリート・キツネ』の性質は、野生の子狐の性質が、大人になっても残っているためではないかと気付きます。『好奇心が警戒心に優っている』『甘え鳴きする』『しっぽを振る』『しっぽが上に立って巻いている』『寝転がってお腹を相手に見せる』『本気で噛まない』などです。

前に我が家で飼っていた犬のことを思い起こすと、すべてこれらの性質は共通であることがわかります。動物の子供は、周囲への警戒心より好奇心が勝り、動くものを追いかけたり、『じゃれ』たりします。『痛い目に合う』経験がなく、『恐いもの知らず』に振舞います。人間の赤ん坊も、手にとれるものは何でも口に入れようとしたりしますから同じです。

動物の子供は、『自分の力だけでは生きていけない』ことを本能的に察知しますので、面倒をみてもらうために周囲の関心をひく必要があり、甘えたり、自分が無害であることを示そうとします。『甘え鳴きする』『しっぽを振る』『寝転がってお腹を相手に見せる』『本気で噛まない』などがそれを示しています。

動物も人間も、子供は『無邪気』であり、それが『可愛さ』をひきたてますが、生物進化の視点で観れば、『無邪気』は『生き残るための方策』という側面をもっていることが分かります。ライオンやトラといった猛獣も、子供の頃は人間を警戒せず、人間に危害を与えません。動物も人間も、『大人』になると、経験や学習によって取得した知恵が勝るようになり、『無邪気』さが薄れていきます。猫も大人になると、興味が減退し、あまり『じゃれ』なくなります。

ロシアの科学者は、『エリート・キツネ』の性質は、『大人になるタイミングが遅れたか、逸した』ために生じたものと推察しています。普通のキツネも『エリート・キツネ』も遺伝子配列は同じですから、何らかの理由で、遺伝子が実効を発揮するタイミング(大人になるタイミング)に差異が生じていると考えざるを得なくなります。

同じ遺伝子配列を持つ『汎用細胞』が、外部条件によってあるタイミングで特定の身体部位の細胞へ変わっていくことは科学的に分かっています。このことからも、遺伝子配列の実効発現時期に影響を与える他の要因が存在すると推測できますが、具体的にその『情報』はどのように受け継がれているのか、要因そのものの正体は何かは残念ながらまだ解明されていません。この解明を目指すのが『エピ・ジェネティックス』という学問分野であるとすれば、私たちはこの分野の成果から眼を離すことはできません。

『汎用細胞』を創り出す方法は、世界に先駆けて日本の科学者が見つけていますが、これを人為的に特定身体部位の細胞へ変えることが可能になれば、従来難病としてあきらめていた症状の克服につながるかもしれないからです。

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2012年1月 4日 (水)

狼はいかにして犬になったのか(3)

狼が犬になった経緯を、科学的に解明できるかもしれない研究が、ロシアの科学アカデミーに属する研究所で行われていることを、番組を観て知りました。福岡伸一先生が現地を訪問し、ロシアの研究者にインタビューし、日本の視聴者向けに分かり易く解説してくださいました。

冬季に厳寒となるロシアでは、キツネの毛皮が必需品で、ソ連時代から、大量の人工飼育が、専用の飼育場で行われていました。キツネはイヌ科の動物ですが、犬のように人間になつくことはありません。人間を『敵』として警戒し、近づけば人間を威嚇する態度をとる本能を代々受け継いできています。北海道のキタキツネも、人間のペットにはなりません。

このキツネ飼育場では、数千匹のキツネが飼われていますが、その中に『比較的人間に興味をもって、近づこうとする態度を見せるキツネ』がいることに科学者が目をつけました。大半のキツネは、人間が近づけば、檻(おり)の遠い部分に逃げて、歯をむき、唸(うな)って威嚇する態度をとるだけですが、人間に興味を持つキツネは、警戒しながらも確認しようと、にじり寄るような態度を見せます。人間から観ると、比較的『おとなしいキツネ』ということになります。

科学者は、この『おとなしいキツネ』だけを選別し(メス100匹、オス30匹)、『おとなしいキツネ』同士を交配して子供を産ませ、またその子供のなかから『おとなしいキツネ』を選んで交配するという研究を、ソ連時代から現在まで50年間継続してきました。

興味深いことに、4世代目には、『人間を見てシッポを振るキツネ』が登場し、5世代目には『人間を噛まないキツネ』が登場しました。科学者は、生まれつき『ひとなつっこいキツネ』を『エリート・キツネ』と呼び、30世代目には、なんと49%のキツネが『エリート・キツネ』になりました。

現在ロシアでは、この『エリート・キツネ』が、ペット用に一般に売り出されていて、一般家庭で犬と一緒に飼われている様子が紹介されましたが、その行動は全く犬と変りませんでした。外見はキツネですが、飼い主に甘え、『お座り』や『待て』の命令に従い、本気で人間を噛むようなことはしません。ロシアでは、野生のキツネの『家畜化』に、たった50年で成功したことになります。

古代の人たちは、これほど効率よく犬の『家畜化』に成功したとは思えませんが、この科学実験は、『家畜化』が可能であることを実証したと言えます。現代科学は、単に『交配繰り返し実験』にとどまることなく、遺伝子配列の確認なども行いますので、福岡伸一先生の専門分野である『分子生物学』の視点からも、『新事実』が明らかになる可能性を秘めています。

ロシアのキツネの研究で分かっていることは、『普通のキツネ』も『エリート・キツネ』も遺伝子の配列は同じであるということです。同じ遺伝子配列なのに、明らかに性質の異なったキツネが出来上がるわけですから、科学はこの原因を究明し説明したくなります。現在の仮説は、遺伝子を活性化させるタイミングに違いがあり、このタイミングを決める何らかの要因(情報)も、世代交代で受けつがれているというものです。残念ながらこの要因の正体は解明されていません。この要因を探る研究分野は『エピ・ジェネティクス』と総称されていることを知りました。『エピ・ジェネティクス』は今後、大注目すべき研究分野です。キツネばかりではなく、何故『猿』が『人』に変ったのかも判明するかもしれないからです。

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2012年1月 3日 (火)

狼はいかにして犬になったのか(2)

人類が『家畜化』に成功したもっとも古い動物は『犬』で、1.5万年程度前のことと考えられています。『豚』『牛』『猫』は1万年前、『鶏』は8千年前、文明に最も寄与した『馬』は5千年前と推定されています。日本に『家畜化』された『馬』がもたらされたのは、弥生時代以降ということになります。

『犬』の先祖は『狼』であることは、遺伝子配列が同じで、相互に交配も可能であることから分かっていますが、一体何が起こって『狼』の一部が『犬』になったのかは、必ずしも分かっていません。少なくとも、人類側の『意図』が関与しているであろうことは想像できますが、その『意図』も『食肉用』『番犬用』『愛玩用』などと想像するしかありません。

NHKBSプライムチャンネルで、『狼はいかにして犬になったのか』を解説する番組があり、梅爺が勝手に私淑(ししゅく)している分子生物学者の福岡伸一先生がコメンテータとして登場することもあって、録画して観ました。

『狼』の社会には、厳格な序列があり、序列の低い狼は、餌にありつけないことがあって、やむを得ず空腹の狼が、人間の住む環境に近づいて餌を漁ろうとした時に、『餌付(えづ)け』をしようと思い立った人間がいて、両者の関係が始まったというのが推測ですが、どうもこれだけが理由なのかどうか梅爺にはわかりません。親にはぐれたか、親に死に別れた狼の子供を人間が偶然見つけ、育て始めたなどというストーリーも思いつきます。いずれにしても、『人間は敵ではない』『人間と一緒の方が都合がよい』と本能で感じた狼が、『犬』の先祖であろうと思います。

それにしても、現在世界で飼われている『犬』は多種多様で、外見だけ見ると、先祖が『狼』であるなどとは、とても想像できないほどです。『ダックスフント』のように足が短かったり、『ブルドック』のように鼻がひしゃげていたり、『ポインター』のように白黒の斑(まだら)模様であったりする『犬』は、どうしてできあがったのだろうかと不思議に感じます。

人間と犬の関係が始まってから、たった1.5万年しか経っていないことを考えると、この期間に、『生物進化』が著しく進み、種の多様化が実現するとは考えられません。現在の『科学』では未だ解明されていない『何か』が作用していると考えたくなります。この番組ではその『何か』を示唆する解説があり、梅爺は、大いに興味をそそられました。『犬』だけではなく、『現生人類』が、短期間(生物進化の視点で)に、黒人種、白人種、黄色人種に分かれていったプロセスも解明できる可能性を秘めていると感じたからです。

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2012年1月 2日 (月)

狼はいかにして犬になったのか(1)

野生の動物を、『家畜化』することに成功したことが、人類が『文明』を進展させる大きな要因の一つになったという学説を、生物学者でもあり歴史学者でもあるアメリカのジャレド・ダイヤモンド博士が述べておられることを前に紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-5d16.html

地球上で、人類が『文明』を開花させた地域が、ユーラシア大陸に集中している理由が、上記の『家畜化』の対象となる動物と、同じく『農耕化』の対象となった野生植物(麦、米など)の原種が、ユーラシア大陸に偶然存在していたことによるものだという主張です。

そう言われてみて梅爺も始めて認識したことですが、人類の『原始文明開化時期』の南北アメリカ大陸やオーストラリアには、『家畜化』の対象となる動物(特に大型哺乳類)がほとんど存在しませんでした。南米大陸の『リャマ』だけが例外です。

南北アメリカ大陸やオーストラリアにも、それより以前には、大型の哺乳動物種が沢山存在していたことは、化石などから判明しています。面白いことにオーストラリアには、『有袋類』の『ライオン』や『狼』が存在していたことも分かっています。『有袋類』は今やカンガルー等にその特徴が残っているだけですが、もっと広汎な『有袋類』の進化が、オーストラリアには存在していたことが分かります。

しかし、南北アメリカやオーストラリアの大型哺乳類は、その後絶滅しています。現生人類がその地へ到達した頃と期を一(いつ)にしていますので、現生人類の捕食対象になったことが、絶滅の理由の大きな要因と推測されています。

アメリカの西部劇でインディアンが馬を乗りこなしているのを観て、北米大陸にはもともと野生の馬がいたのだろうと梅爺は想像していましたが、そうではなく、スペイン人が始めて持ちこんだ馬の一部が、その後野生化し、インディアンが再利用したものであることを知りました。中米、南米に栄えたマヤ文明、インカ文明の人たちも、馬は知りませんでしたから、スペインの騎馬隊を始めて眼にして驚愕したことになります。オーストラリアやニュージーランドが『羊大国』になったのは、近世以降に羊がもちこまれてからのことです。

『動物王国』のアフリカで、『家畜化』がほとんど成功していないのも不思議な話ですが、人間と動物が、一緒に進化したために、動物が『人間を警戒する性質』を遺伝的に受けついでいるためと考えられています。

一方、ユーラシア大陸では、動物だけの世界に突然人間が進出したために、動物側に『人間を警戒する性質』が無かったことで、動物の絶滅が速まると同時に、『家畜化』も進んだ理由ということになります。『本当にそんな単純な話なのかなぁ』と梅爺は100%納得したわけではありませんが、『ほとんどの家畜化』はユーラシア大陸で始まったという『事実』は、確かなことと考えざるをえません。

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2012年1月 1日 (日)

正月

梅爺は、子供の頃、学生の頃、社会人として働いていた頃は、『正月』を待ち望む気持ちがありました。具体的に、『正月』にしかできないことを心待ちにしていたのではなく、煩わしい『日常』から心が開放され、『非日常』が体験できるという期待があったからです。

人間の『脳』は、実にわがままにできていて、同じような『日常』が続くと、それを『煩わしく』感ずるようになります。『日常』が、自分を縛りつけていると感じ、それから解放されることを夢見ます。『正月』『旅』『祭』などは、『開放』の象徴となります。ところが、人間には逆の一面もあり、『日常』の同じパターンを繰り返すことが『安泰』であると感じ、そこから一歩外へ出ることを逡巡することもあります。個人個人『脳』は異なっていますので、やたらに『日常』を忌避する人もいれば、『日常』に執着するする人もいます。梅爺は、その場その場で、都合よく『日常』を忌避したり、執着したりと、実にチャランポランな性格です。

更に人間の『脳』がややこしいのは、『非日常』が継続すると、それが『日常』になってしまうということです。つまり『日常』は相対的な環境にすぎないということです。『正月』休みの最後には、あれほど『煩わしい』と忌避していた『学校』や『職場』へ戻りたいと言う気持ちが湧いてきたりします。

同じ状態が継続する『日常』は、人間にとっては、『安泰』を保証してくれるものであると同時に、『退屈』という『安泰』を脅かす要因(ストレス)になるという二面性を持っていると言うことなのでしょう。浮き世の辛さを『日常』的に体験し続ければ、死後は『天国(極楽)』で過ごしたいと希求しますが、『天国』に長期滞在すれば、その『日常』が苦痛(退屈)になるのではないかと、不信心で、へそ曲がりな梅爺は推測しています。

全てが相対的なものであるなら、『現状』を『天国』であると考えて、ありがたく感謝して生きている以外の『幸せ』は無いのではないでしょうか。つまり『生きていられる』ことを『天国』と想定する以外に、『天国』は存在するという保証は無いように思われます。

毎日が隠遁爺さんの梅爺には、『正月』は『非日常』ではなくなってしまいましたので、『正月』に特別の期待はなくなりました。『日常』にささやかな『非日常』を持ちこむために、『梅爺閑話』を書いています。身体は若いころのようには動かなくなりましたが、心は広大な未知の世界を自由に旅している気がするからです。毎日ブログを書くと言う行為は『日常』ですが、書く内容は『非日常』であるということで、梅爺は『脳』のバランスを保っていると言えそうです。ささいなことでも『日常』の中に『非日常』を見出す努力が、ストレス解消の決め手になります。梅爺も現在の『世相』や『事件』の真相を、人並みに知りたいと思いますが、それにも増して『知りたい』ことが沢山あり、興味が尽きませんので、『世相評論』は他のブログ執筆者にお任せして、自分は『変なことに、変な興味を持ち、変な表現をする、変な爺さん』で、今年もあり続けようと思っています。

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