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2011年9月30日 (金)

周恩来(1)

NHKBSプライムチャンネルで、4日にわたり、『周恩来』を回顧するドキュメンタリー番組が放映され、梅爺は身を乗り出して観ました。

死後35年が経過して、姪や甥等の親族、当時の秘書達、護衛、看護婦などが、沈黙を破って生前の『周恩来』の人物像を語った内容を編集したもので、『周恩来』が、一言でいえば『偉大な人間』であったことが確認できました。

ここで梅爺が『偉大な人間』と表現したのは、『間違いを犯さない正しい行いに徹した人、正義に殉じた人』という意味ではありません。人は『神』や『仏』ではありませんから、『その時点では分からないこと』に囲まれていて、それでも、何らかの選択をしながら生きていかなければなりません。分からないことを選択するわけですから、後刻『適切な選択でなかったこと』が判明するのは仕方がないことです。人間である以上、どんな立派で、偉い人でも、『適切でない選択』から逃れることはできません。

むしろ、『自分が分からないにもかかわらず、生きるためにある種の方向を選択している』と認識し、その選択がもたらす負の部分を思いやって苦悩する人間が『偉大な人間』です。自分の判断は『正しい』と信じて疑わないだけの人間は、凡人です。

『周恩来』の親族や側近たちが、今まで口を閉ざしてきたのは、『周恩来』を賞賛すると、相対的にそれは『毛沢東』を誹謗することになり、中国の国益に反し、近世史の汚点をわざわざ明るみに出すことになり、好ましくないと考えたからかもしれません。または『中国共産党』から、供述をしないように強要されていたのかもしれません。

今回のドキュメンタリー作品をつくるにあたっては、中国政府の許可を得てのことでしょう。それもあってか、関係者は『生々しい話』を公開しています。勿論、『周恩来』の関係者たちですので、やや美化して過去を語っている面がないとは言えませんが、それを差し引いても『周恩来』が『偉大な人物』であったという梅爺の感想は変りません。

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2011年9月29日 (木)

しはん坊の柿のさね

上方いろはカルタの『し』、『しはん坊の柿のさね』の話です。

『しはん坊』は『けちん坊』のことで、『柿のさね』は『柿の種』のことですから、そのまま解釈すれば、『けちん坊は、役に立ちそうもない柿の種までも、捨てられずに貯め込んでしまう』ということになります。極端な例として、テレビで時々、ゴミが捨てられずに、『ゴミ屋敷』化した家に住んでいる人が紹介されます。『他人への迷惑』『非衛生』などへの配慮より、『捨てない』ことにこだわるのは、何故なのか、梅爺には見当もつきません。脳が異常なのか、正常から少しずれているだけの状態なのかが気になります。後者ならば、誰もが『ゴミ屋敷』の住人になる可能性を秘めていることになり、他人事(ひとごと)ではなくなります。身の回りの不要なものを捨てる『断捨離』などという言葉がはやっていますが、つい『もったいない』と考えてしまい、対応はやさしくありません。

ひろく解釈すれば、『人は、他人にはどうでもよいように見えることに、こだわる習性がある』ということでしょうか。心理学には『確証バイアス』という言葉があり、『人は、一度思いこんでしまうと、その考え方を基準にして全てを判断するようになってしまう』という意味です。

従って、『客観的に物事を観る』などという行為は、至難の業であることになります。人は自分の物差しで、はかっていながら、『客観的』であると勘違いしていることになります。

一人の人間の『ズレ』ならまだしも、人間社会はある『空気』が創り出されると、社会全体が『ズレ』ることにもなりかねません。真珠湾攻撃の後、アメリカに住む日系アメリカ人は、法的にはアメリカ人であるにも関らず、『潜在的敵対行為の実行者』として、『強制収容所』へ送られました。1978年、日系アメリカ人として始めてアメリカ閣僚になったノーマン・ミネタ議員等の努力で、アメリカは、日系人に対する『不当な差別』を謝罪し(レーガン大統領)、補償金を支払う法律を可決しました。40年も後の事です。『9.11』事件の後、アメリカに住むアラブ系アメリカ人は、全て『仮想的テロ実行犯』として白眼視されました。

人間は、『自分はズレているかもしれない』と疑っていては、何も行動できなくなりますが、そうかといって疑わないと、個人的にも、社会的にも、『トンチンカンで手に負えない行為』に走る危険性を秘めています。『疑う』『信ずる』だけなら、誰でもできますが、微妙なバランスが取れる『器量』が大きい人はそうそういません。勿論、梅爺も自信がありません。

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2011年9月28日 (水)

絶海の孤島『トリスタン・デ・クーニャ』(4)

番組を観ていて、島民が外から訪れた人たちに対して非常に『シャイ(恥ずかしがり屋)』であることが分かりました。テレビの取材でインタビューをしようとしても、避けようとします。

島民は267人しかいないわけですから、島民同士は誰もが顔見知りで、誰が何をしているかも分かっています。この島では『秘密』を抱えて生きることはできません。助け合って生きていますので、島には『犯罪』などはありません。警察署や留置所もあって、警官の役目を負った人もいますが、近海の船上で起きた殺人事件の犯人を一度拘留したことがあるだけで、島民が留置場へ拘留されたことは無いとのことでした。この警官役の人は、イギリスで警官の訓練を受け、そこで就職できたにも関らず、自分の意思で島へ戻ってきました。

島民が『シャイ』なのは、部外者を嫌ったり、自分たちの生き方を恥ずかしがっているわけではなく、見知らぬ人へ対応する経験が普段ないために、戸惑っているだけではないかと梅爺は想像しました。逆に私たちは、見知らぬ人との対応をしないと生きていけない環境を日常体験していますので、『見栄を張ったり』『図々しく振る舞ったり』する習性が身についてしまっているのではないでしょうか。

1961年に、島民の住む場所に近い所で、火山が噴火し、一時全員が島を離れてロンドンに避難せざるを得ない状況が発生しました。2年後に、島へ戻るかどうかを決める島民投票が行われ、90%の人たちが島へ戻ることを選びました。便利なロンドンの方が生活しやすいだろうと私たちは想像してしまいますが、島民は興味深いことに『イギリスの生活にはウンザリした』と述べています。

現在島の小学校には28人の生徒が通っていますが、誰もが『この島を離れたくない』と答えています。

『住めば都』で、人間は誰もが生まれ育った故郷への帰属意識が刷り込まれてしまう習性があるとも言えますが、この島には、人間の本能が求める『本当の自由』があるからではないかと梅爺は想像しました。

文明がもたらす利便性や、富や地位から得られる優越感の他にも、人が幸せであると感ずる要因はあると、梅爺は再確認できました。『トリスタン・デ・クーニャ』の生活がコミュニティの『理想郷』であるなどと過大評価するつもりはありませんが、人間が生きる選択肢の一つに、このような生き方があることだけは確かです。

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2011年9月27日 (火)

絶海の孤島『トリスタン・デ・クーニャ』(3)

入植者のリーダーであった、ウィリアム・グラス(最初は英国の駐屯兵として島に赴任)は、『コミュニティーの掟』を書き残しています。基本的な考え方は、『平等』です。『入手できる食材などの物資や収入は平等に分配する』『必要な使役は平等に負う』『階級をつくらない』などが明記されています。島は、現在でもこの『掟』を守って運営されています。

島の牧草の量は限定されていますので、牛や羊の数も限定しています。牛や羊は基本的には共同財産ですが、たとえば羊は、名目的に2頭/人の割合で島民が所有していることになっています。特定の場所の牧草だけが食べつくされることがないように、巡回放牧などの『知恵』も働いています。

主食の一つである『ジャガイモ』も、人口に見合う作付面積の畑で、共同作業で栽培されています。島の収入の大半は、近海でとれる『ロブスター』を輸出することで賄われています。勿論、成人の男達は、共同で漁にでます。この他の収入源は、『島の記念切手』を世界中で販売することで、収集愛好家の間では、貴重な切手であるらしいことを知りました。これらの収入は、『平等』に、島民に分配されます。

島には、日用品を売る店が1軒ありますが、この倉庫には緊急時の物資が備蓄されていて、万一の時には『平等』に分配支給される準備ができています。

『トリスタン・デ・クーニャ』は、理想的な『共産社会』であるように見えます。267人と言う人口や、環境の規模がそれを可能にしているのであろうと思いますが、文明社会で実践された『共産主義社会』は、挫折したり、修正を余儀なくされているなかで、ここでは『共産社会』がうまくいっている理由は、他にもあるのでしょう。

多分、ここでは『共産主義』と『権力闘争』が結びついていないからなのではないかと思います。この島には『スターリン』『毛沢東』『金日成』はいません。

逆に、この島を『自由経済、資本主義』で運用しようとしたら、争いが起こり、島の生活は成り立たなかったとも言えます。

『資本主義』と『共産主義』のどちらが『正しい』か、などという議論は、あまり意味がないことで、人間は、『生き延びる』ために必要なら、なんでも採用する柔軟な対応能力と知恵を持っていることが分かります。『トリスタン・デ・クーニャ』の島民は誰も、『自分たちが共産主義の信奉者である』などという実感は持っていないにちがいありません。生きるためにこの方法が最善であると考えているだけなのでしょう。

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2011年9月26日 (月)

絶海の孤島『トリスタン・デ・クーニャ』(2)

『トリスタン・デ・クーニャ』は、地球の歴史上、いつ火山で出現した島なのかは梅爺は分かっていませんが、少なくとも数千万年は経っているとすると、人類が初めて到達したのは19世紀の初頭ですから、大半の時間は『無人島』であったと推測できます。しかし『無生命島』であったわけではなく、現在この島にしか存在しない動植物が50種ほど確認されているということですので、隔離された環境で、『生物進化』が行われていたことになります。地球上に、一度灯(とも)った生命の火種は、ちょっとやそっとのことでは、消えないほどしたたかなものであることが分かります。

この島の『生物進化』も、興味の対象ですが、それよりも、『人間が、制約された環境で、どのようなコミュニティを形成するのか』が梅爺には一番興味をそそられることです。アマゾンの密林の中で発見された未開の部族とは異なり、ここに入植した人たちは、あらかじめ、文明社会でも生活できる『文明の素養』を身に付けた人々であることが特徴です。読み書きができることは当然として、19世紀に人類が獲得していた、自然科学、人文科学の基礎知識をもっていました。

更に、便利な文明社会を放棄してまでも、人は何故この自然だけの島に住むことを選択するのかも興味深いことです。文明は、利便な生活をもたらしますが、それと同時に、複雑な階級社会も生み出し、時に争いや戦争までも引き起こします。『身の安泰』『心の安らぎ』を希求する本能からみると、文明はストレスの原因であることが分かります。現在の日本を観れば、このストレスに耐えきれず、心の病に苦しむ人が急増しているように見え、引退後は少なくとも『のどかな場所』で生活したいと願う人も増えていますので、19世紀の初頭でも『文明のストレス』から解放されたいと考えた人たちが、『トリスタン・デ・クーニャ』へ入植したのであろうと推測できます。

自然とともに、自然の中で生活することに、人間は『心の安らぎ』を見出す本能を保有しているように見えます。都会の中に、『疑似自然』である公園をつくったりするのはそのためなのでしょう。自然がほどよく残る都会が、人間にとっては望ましい環境なのでしょう。『利便な生活を求める』のも、一方において人間の本能ですから、『自然の中の心安らぐ生活』との間でどのようなバランスをとるのかは、重要な選択になります。仕事の都合で、偶然住み着いた青梅を、梅爺が気に入っているのは、そのバランスが、まあまあうまく取れているためなのだと気付きます。

『トリスタン・デ・クーニャ』に入植した人たちは、『心の安らぎ』を第一に優先した人たちであったとしても、最低限の生活が成り立たなければ、生きてはいけません。完全に自給自足できれば別ですが、どうしても島の外の世界から物資の一部を調達しなければならないとなると、収支が成り立つ『経済のしくみ』も作り上げなければなりません。

『コミュニティの掟(おきて)』『経済のしくみ』はどうなっているのだろうと、梅爺は興味津津で番組を観続けました。

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2011年9月25日 (日)

絶海の孤島『トリスタン・デ・クーニャ』(1)

南大西洋に浮かぶ絶海の孤島『トリスタン・デ・クーニャ』を紹介する番組がNHKBSプライムチャンネルであり、録画して観ました。世界一孤立した有人島としてギネスブックにも載っている島であることを始めて知りました。地理的に珍しい島の存在を知識に加える興味もさることながら、絶海の孤島で形成される『特殊な人間のコミュニティ』に強い興味を抱きました。太古から無人島であった島に、近世になってから、ヨーロッパ系白人種が入植して住み着いた島で、現在住民人口は267人です。環境条件に厳しい制約がある時に、人間という生物種はどのように柔軟に対応できる能力を持っているのかを知る手掛かりがありそうだと感じました。大陸の都市に住めば、もっと便利な生活が可能であるにも関わらず、どうして住民はこの島に愛着を持つのだろう、ということも知りたくなりました。

『トリスタン・デ・クーニャ』は、南アフリカのケープタウンから、西へ海上2800キロメートルのところに、ポツンと存在する英国領の島です。大きさは日本の小豆島(しょうどしま)程度です。セント・ヘレナ島からは、南西2100キロメートル、南米のリオ・デジャネイロからは南東3400キロメートル離れています。休火山の山頂のみが海につきでているお椀を伏せたような地形ですので、陸と海の境はほとんど絶壁で、大型船が入港できるような港はありません。勿論、陸地にも飛行場もありません。交通路は、ケープタウンから、年に10回だけ、物資や手紙を届けるために運航される貨物船に便乗するしかありません。貨物船は、島から300メートル離れた所に停泊し、そこからは小舟に乗りかえて、島へ向かいます。この貨物船は、1週間程度後に引き返してしまいますので、短期滞在はこの期間に限定されます。

1816年に、セント・ヘレナ島に幽閉されたナポレオンが脱走しないように見張る目的で、英国がこの島に駐屯兵をおいたのが、有人島としての島の歴史の始まりです。1年後に、駐屯兵が引きあげた時に、何人かの兵士が島に残り、家族も呼び寄せて本格的な生活を営むようになりました。その後、船が難破して漂着した船員などの一部もこの島が気に入り、家族を呼び寄せて住みつくようになり、5ケ国7組の夫婦が、現在の住民の先祖となりました。

英国領ですが、役人が派遣されている様子はなく、住民の大幅な自治権が認められています。電力や上下水道などの生活の基盤や医療体制がどのように実現されているのかは、説明がありませんでしたが、少なくとも、電気は供給されていて、衛星テレビや、衛星を利用したインターネットを住民は利用していました。インターネットが利用できるようになって、手紙の数は大幅に減ったと島民は語っていました。それでも、車や小型船の燃料や、食料品、衣料など、どうしても輸入に頼らなくてはならないものが沢山あり、貨物船が欠航になったりすれば、厳しい生活を強いられることは容易に想像できます。島にある教会には、ケープタウンから老牧師夫妻が派遣されていました。

島全体の経済はどのように維持されるのだろう、何故このような不便な島に人間は愛着をもって住み続けようとするのだろうと、梅爺の興味はふくらむばかりでした。

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2011年9月24日 (土)

グヴィーの『レクイエム』(3)

テオドール・グヴィーは、19世紀フランスの作曲家ですが、残念ながら『著名な作曲家』の仲間入りをしていません。梅爺も今回初めて認識することになりました。何故、グヴィーが評価されないのかには諸説あるようですが、一つは産まれた場所が、フランスとドイツの紛争が絶えない所で、当時はドイツ領であったことが原因していると言われています。それ故に23歳までフランス国籍が得られず、外国人であると言う理由で、パリ音楽院から入学を拒否されました。音楽は独学で学んだと言われていますので、著名な『後ろ盾』がなかったことが、評価されない一つの理由であったのかもしれません。当時『劇場で演奏される音楽』が、パリでもてはやされていましたので、それを指向しないグヴィーの音楽は、評価されなかったという説もあります。

7つの交響曲、24の管弦楽曲など、200以上の作品を残していますが、永らく埋もれたままになっていました。没後100年以上経った1994年に、フランスで『レクイエム』の楽譜が発掘され、演奏されて、一躍脚光を浴びることになりました。日本では今回が初演ですから、芸術の評価には、運、不運が付きまとうものであることが分かります。

華麗な旋律、ドラマティックな表現など、梅爺には、他の大作曲家の『レクイエム』に比べて遜色がない作品であると感じました。静かに始まり、静かに終わると言う構成も新鮮でした。多くの『レクイエム』では終曲の『Agnus Dei(神の子羊)』は荘厳に盛り上がって終わるのが普通であるからです。

静かに始まり、静かに終わるというのは、演奏家や合唱にとっては難題で、『音出しを合わせる』『最後まで音の緊張感を保つ』に苦労します。今回の演奏にも、その苦労のあとが見えました。

特に4人のソリストの、声量、声質のバランスが見事で感心しました。4人で一緒に歌う時と、一人で歌う時に、微妙な配慮が行き届いていて、さすがにプロと感銘を受けました。バスを担当した成田真先生は、梅爺が普段発声を教えていただいている大先生ですので、力量は十分承知していましたが、あらためて豊かで美しい声に感動しました。

指揮者の郡司博氏は、いつもながらのエネルギッシュで情熱的な指揮ぶりで、演奏し終わった時に、全てを出しつくしたという感じが聴衆にも伝わりました。

3時間にも及ぶ、長時間の演奏会でしたが、満足して帰途につきました。

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2011年9月23日 (金)

グヴィーの『レクイエム』(2)

キリスト教(カトリック)が布教に成功してきた背景には、芸術や建造物が大きく寄与しています。勿論、他の宗教も芸術や建造物を布教に利用していますが、特にキリスト教(カトリック)は、音楽を利用するレベルが際立っています。そのお陰で西洋音楽は、高度なレベルへ進化してきたとも言えます。

薄暗い大聖堂の中で、ステンドグラスから差し込む虹色の光や、微(かす)かな蝋燭(ろうそく)の光に照らされながら、天上から降り注ぐようなパイプオルガンの音色や、聖歌隊の歌声を聞けば、『天国や神の国は、きっとこんなものかもしれない』と多くの人がひれ伏すことになったであろうと容易に想像できます。

大変へそ曲がりな梅爺は、宗教が無ければこのような『雰囲気』は存在しないとは考えていません。逆に宗教が、実にうまくこの『雰囲気』を利用していることに感心しています。人間は、日の出を見たり、深い静かな森の中に入ったりすると、『何かを感ずる』ように脳ができています。特定の宗教の信仰を持たない人でも何かを感じます。永い永い生物進化のプロセスで、受けついできた習性が関与しているものと考えられますが、現代科学もその原因を解明できていません。『何か』は、『自分が生かされているという感謝の念』であったり、『穏やかな心がもたらす安らぎの念』であったりしますが、常人にはこれを『言葉』で表現することは難しいことです。芭蕉のように表現能力に秀でた人は、『静けさや岩にしみいる蝉の声』などと表現します。宗教基盤を持たない日本人が、宗教曲という『雰囲気』に『何か』を感じ、それが大切なものと感じているのは、そのためと梅爺は推測しています。イスラム世界では、キリスト教の宗教曲は、『異教の音楽』という『理』の判断が先行しますから、最初から受け容れられないにちがいありません。日本人がキリスト教の宗教曲を好むのは、特定の宗教に強く制約されていない『宗教的に無節操』な社会基盤に起因するのではないかと、逆説的に考えてしまいます。

今回演奏された3曲は、作曲家の個性、作曲された時代背景が異なっていて、それぞれに楽しむことができました。ラターは、イギリス人の現代の作曲家で、『グロリア』は、アメリカ、ネブラスカの合唱団からの委嘱で作曲されたものです。金管楽器とパーカッションという近代的な音色と、ジャズを想起するような、いかにもアメリカ的なリズムが伴奏の特色です。唯一宗教性を高めるためにオルガンが使われていると感じました。今回の合唱は、男女の声量比もバランスがとれていて、安心して聴くことができました。

ハイドンは、オーストリア18世紀の著名な作曲家で、『交響曲の父』と呼ばれています。彼自身信仰深い人で、10曲以上ミサ曲を書いていますが、今回演奏された『戦時のミサ』はその一つです。『戦時のミサ』という命名は、ハイドンが行ったものではなく、後の研究者が、この曲にはハイドンの『反戦の意図』が込められていると判断したためです。作曲された時期、オーストリアがフランスやドイツからの軍事侵攻に怯えていた時代で、『明るさ』が特徴のハイドンとしては珍しく『不安感』が表現されているというのが、後の研究者の主張ですが、今回の演奏を聴く限り、梅爺は『神への畏敬、賛美』が主体であるように感じました。今回の合唱は男声メンバがバランス的に少なく、オーケストラとの関係でも、男声部が少し弱いように感じました。

お目当てであった『グヴィーのレクイエム』は、大変感動的でした。日本初演と言うことですので、勿論聴くのは初めてで、貴重な体験となりました。長くなりますので感想は明日記載します。

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2011年9月22日 (木)

グヴィーの『レクイエム』(1)

9月20日、東京の『サントリーホール』で開催された宗教曲中心の演奏会を梅婆と拝聴に出かけました。『認定法人NPOおんがくの共同作業場』と『オラトリア・シンフォニカJAPAN財団』の設立10周年記念の演奏会で、以下の3曲が演奏されました。

ラター『グロリア』
指揮 右近大二郎 合唱 OSJフェスティバル合唱団

ハイドン『戦時のミサ』ハ短調
指揮 牧野成史 合唱 所沢バッハ・アカデミー/横浜モーツェルト・アカデミー

グヴィー『レクイエム』
指揮 郡司博 合唱 東京ライエンコーア/東京オラトリオ研究会

いずれも、オーケストラは、『オラトリオ・シンフォニカJAPAN』が担当し(『グロリア』だけは、金管楽器、パーカッション、オルガンだけの特殊編成)、各曲目には、プロの声楽家の方々が、ソリストとして参加しています。

梅爺と梅婆のお目当ては、グヴィー『レクイエム』の合唱に参加される畏友Uさんご夫妻の熱唱を拝聴することでしたが、更にこの『レクイエム』には、梅爺が所属している男声合唱団『アカデミカ・コール』のボイス・トレーナーを務めてくださっている成田真先生が、ソリスト(バス)として加わっておられますので、一層親近感をもって拝聴することになりました。『アカデミカ・コール』は、アマチュアの『爺さん合唱団』ですが、合唱指揮の大権威である三澤史洋先生、声楽のプロ中のプロ成田真先生のご指導を仰ぐと言う、分不相応ともいえる恵まれた環境の合唱団です。なんともありがたい話です。

Uさんご夫妻が合唱で参加される宗教曲中心の演奏会を毎回拝聴しながら、必ずしもキリスト教(カトリック)文化が社会の底辺まで根付いていない日本で、『何故これほど宗教曲が好まれて演奏させるのだろう』と、不思議に感じてきました。キリスト教文化を基盤とする西欧社会で、『ミサ』『オラトリオ』『レクイエム』が演奏されるのは自然なことですが、そのような基盤のない国で、これほど宗教曲が演奏されるのは、ひょっとすると日本だけではないでしょうか。宗教曲演奏に参加するオーケストラの数もさることながら、合唱に参加するアマチュア合唱団の数は、世界に類をみないのではないかと思います。今回だけでも5つのアマチュア合唱団が参加していて、いずれもラテン語という普段馴染みのない言葉で歌うわけですから、驚きです。

日本人は、宗教音楽を、音楽の一つのジャンルとして、純粋に受け容れていることになります。勿論、副次的に宗教的な意味は理解しようとしますが、宗教音楽から得られる『感性』を純粋に評価しているのではないかと推測できます。

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2011年9月21日 (水)

映画『東京物語』(4)

『東京物語』では、尾道(広島県)に住む老夫婦が、東京に住む子供たちを訪ねて上京します。しかし、久しぶりの『親子水入らずの楽しい再会』は待ち受けていませんでした。勿論老夫婦も『やっかいをかける』ことは承知しており、子供たちも『両親に東京を楽しんでもらいたい』という気持ちはありますが、子供たちにも『現実の生活』があり、老夫婦は『疎外感』を覚え始めます。基本的には『善意』の人たちだけなのに、ちょっとした『価値観』の違いが、大きな『悲劇』の原因になるという、梅爺好みのストーリィ展開です。本当の『悲劇』は、『悪意』のかたまりのような人物が登場しないドラマで構成されます。

東京には、自宅で町医者として医院を営む長男(山村総)夫婦(子供は小学生くらいの男の子二人)、美容院を営む長女(杉村春子)夫婦(観るところ職の無い髪結いの亭主と二人暮らし)、一間のボロアパートで一人暮らしの戦死した二男の嫁(原節子)が住んでいます。当時の日本の家屋環境ですから、老夫婦のための『客室』があるわけではなく、寝る場所の確保からして大変です。長男宅では、勉強部屋を取り上げられた孫たちがあからさまにむくれます。

長男、長女は、老夫婦に東京のバス観光を楽しんでもらおうと思いつきますが、自分たち夫婦は時間の都合がつかず、次男の嫁に付き添いを頼みます。次男の嫁も、このために仕事を休むことになります。

更に、長男、長女は、お金を工面して、老夫婦に『熱海旅行』をプレゼントします。『温泉でのんびりして来てほしい』は表向きの口実で、自分たちで面倒をみることができないために、体(てい)良く、責任回避しょうという魂胆です。しかし、老夫婦は泊まった熱海の旅館で、宴会客の騒音で寝不足になり、一泊しただけで東京へ帰ってきてしまい、長男、長女の思惑ははずれます。

長女の『小賢しく色々発案する様子』『思い通りに事が運ばない時の仏頂面』など、杉村春子の演技が出色です。映画では原節子の『善良さ』と、杉村春子の『意地悪さ』が対比して描かれますが、梅爺は杉村春子のような人間を心から軽蔑することができません。自分もいざとなれば自分中心な言動をとらないとは限らないからです。

東京への旅で体調を崩した母親は、尾道へ帰ってすぐに亡くなります。東京や大阪(サラリーマンで独身の三男が住んでいる)から子供たちも葬式に駆け付けますが、葬式が済むと皆『忙しいから』と、そそくさと帰ってしまいます。帰り際に、長女はチャッカリ母親の着物を『形見分け』と称してせしめ、『困ったわね。私はてっきりお父さんのほうが先に逝くものとばかり思っていたのに』などと本音を口にします。

それでも最後まで残った次男の嫁も、東京へ帰り、年老いた父親と独身で学校の教師をしている二女(香川京子)の二人が、尾道に残されます。口数の少ない父親故に、なおさら大きな悲しみが伝わってきます。役者の演技と、ありふれた風景で、人間の奥深い心情を表現する小津監督が、世界から高い評価を得るのは当然であろうと思いました。

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2011年9月20日 (火)

映画『東京物語』(3)

小津安二郎の映画には、『英雄』や『偉人』は登場しません。どこにでもいそうな『庶民』が、ありふれた言葉の『会話』を交わします。唯一『非現実』があるとすれば、役者が美男美女であるということです。映画を観る人には、『あの原節子が庶民を演じている。そうか原節子も普通の人間なのだ』と親近感を持つと同時に、感情移入して、自分が登場人物になった時には、想像の世界で自分も原節子になれるわけですから、悪い気はしません。映画もビジネスですから、制作者は、したたかにこれを計算に入れています。

複雑に体系化された『言葉』を、コミニュケーションの手段として保有する人間という生物は、生物の中では特異な存在ですが、それでも『言葉』は全てを表現できるわけではありません。強力な補助手段であるにはちがいありませんが、絶対的な表現手段ではありません。『はじめに言葉あり。言葉は神なりき』という聖書の教えは、西欧の文化の基盤になっています。人間の精神世界は何によって進化してきたのかを示唆する鋭い洞察ですが、『言葉』は何でも表現できる絶対的な手段であるという『誤解』も生じかねません。しかし、『言葉』が、ある程度『正しい』ことを伝えることができるのは、『理』の世界の一部だけで、人間の心の大半を占める『情』の世界の表現手段としては『言葉』は万全ではありません。『悲しい』という表現で、『悲しさ』のすべてが表現できません。

日本にも『言霊(ことだま)』という考え方がありますが、これは『言葉には、不思議な力がある』ということを言っているだけで、『絶対的な神である』と受け取ってはいません。東洋の漢字文化の世界では、『言葉は大切に扱うべきもの。しかし言葉の表現には限界がある』と受け止めているように梅爺は感じます。この一見矛盾した言葉の性質を、最大限に利用して『読む人に広大な世界を想起させる』、俳句のような短い表現手段が日本には現れました。俳句の限られた制約の中で、広大な精神世界を生みだすことに価値があります。制約された世界であるからこそ、反って広大な世界が表現できる、という発想は、普通の西欧人には思いつかない文化ではないでしょうか。

小津安二郎は、『ありふれたしぐさ、ありふれた言葉』で、人間の心の奥の不思議な世界を表現しようとしているように思います。大袈裟な演技や、名せりふが続々登場することはありません。『映画』故に表現できる一つの手法で、小津監督のこだわりであったのでしょう。同じ巨匠と言われる黒澤明監督の映画と、決定的にちがった印象を私たちが受けるのは、このためです。

梅爺は歳をとって、『ありふれたようにみえるものの奥に潜む、悲しさ、寂しさ、優しさ』を少しばかり感じ取ることができるようになりました。『東京物語』の素晴らしさが分かってきたのも、そのためなのでしょう。永生きできて、よかったと思うことのひとつです。

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2011年9月19日 (月)

映画『東京物語』(2)

この番組の解説の中で、山田洋次監督は『若いころは、小津安二郎監督やその作品はつまらない』と感じていたと述べておられます。梅爺も若い頃は、小津作品が素晴らしいとは、感じませんでしたので、『あの山田監督でさえ、そうだったのか』と少しほっとしました。

しかし、山田監督は『日本の映画100本』の最初に『東京物語』を選び、この映画は日本映画史上最高の傑作と、海外からも評価されています。

非日常的な波乱万丈のストーリー展開は、映画の『面白さ』の要素で、若い頃は、これを優先して映画を評価してしまいますが、なにげない日常の中に、『人間の本性』をあぶりだして見せるのも映画に一つの要素で、小津監督は徹底してこれにこだわりました。山田監督も、梅爺も人生の年輪を重ねて、始めて小津監督の『意図』が理解できるようになったということでしょう。

『東京物語』を観て、小学生が『つまらない』というのは自然ですが、『つまらない』という老人がいたら、そういう方とは、あまりお付き合いしたくないと梅爺は感ずるでしょう。

『東京物語』は、『家族の絆』の変化の中で、翻弄される老夫婦の話が主体で、これを演ずる笠智衆と東山千栄子の淡々とした演技が、何とも秀逸です。能弁な会話ではなく、『あー』とか『そうか』とかいう言葉だけで、夫婦間の思いやりが伝わってきます。

この映画では、老夫婦が、実の子供たちから、なんとなくうとまれて、寂しさをつのらせていきますが、戦死した息子(次男)の嫁(原節子)が、本当の子供より優しく老夫婦に接しようとします。

しかし、小津監督は、本当の子供たちは『悪い人間』、戦死した息子の未亡人の嫁は『良い人間』と単純に描き分けているわけではありません。実の子供たちにも、優先せざるを得ない自分たちの生活があることを、暖かい目で描いています。尽くしてくれた次男の嫁に、老夫婦は『あなたは優しい人だ』と感謝の念を伝えますが、この嫁は『いいえ、私はそう言っていただけるような立派な人間ではありません。本当はずるい人間なのです』と答えます。

この誰が見ても素晴らしい嫁が、自らを『ずるい人間です』と答える場面がこの映画のハイライトであると梅爺は感じました。

自分は邪悪な人間であることを認識している人が、最も善良なひとであるという、小津監督のメッセージが伝わってきます。

自分は善良であると信じて疑わない人は、確かに魅力的ではありません

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2011年9月18日 (日)

映画『東京物語』(1)

NHKBSプライム・チャンネルで、『山田洋次監督が選ぶ日本映画100本』の放映が2年がかりで始まり、初年度の今年は『家族』をテーマにした作品が紹介されています。『映画大好き爺さん』の梅爺は、楽しみに録画して観ています。

社会の状況、政治体制、文化や貧富のレベルが変れば、『家族の在り方』も変わるのは当然です。現代に産まれた日本の子供たちは、自分が置かれた『家族環境』しか知りませんから、それが『家族』というものだと受け止めているに違いありません。

しかし、70年も生きてきた梅爺のような日本人は、昔の『家族』を体験していますので、日本人の『家族』の価値観が『変ってしまった』と感じます。『昔の日本の家族は、もっと強い絆で結ばれていた』と、現代を嘆くのは、昔を知っているある年齢の大人たちです。

『昔は良かった。現代はヒドイ』という評価は、どの時代の老人にも共通する口癖です。現在の子供たちも、年寄りになれば必ずそうつぶやくにつがいありません。

裕福な環境で生活することが『幸せ』であると人間は考える習性を持っています。生物として、本能的に『安泰』な環境を求める習性ですから、当然のことです。ただ、人間のややこしい点は、『身体の安泰』と『心の安泰』の両方を求めるようにできていて、『身体の安泰』は『心の安泰』を必ずしも保証する要因ではないということです。というよりも、時に両者は、相反(あいはん)する要因にもなります。

他人より裕福でありたいと願えば、他人を排除することになります。そして『自分の力で自分は生きている』と思い上がるようになります。しかし、人類にとって『自然と協調して生きる。群をなして相互依存しながら生きる』ことが、永い間生き残りの条件でしたので、本能的にそれを求める習性も残っています。自然の摂理や、周囲の人たちとの絆で、自分は『生かされている』と感じた時の方が、人は『心の安泰』が得られます。

『身体の安泰』と『心の安泰』は両方必要であり、そのバランスをどのように考えるかが、人の『生き方』そのものになります。時代や環境の変化の中で、そのバランスを考え続けなければなりません。『昔は良かった』といってみても、環境を昔に戻すことができない以上、『くりごと』に過ぎません。

山田洋次監督が、最初に選んだ作品は、小津安二郎監督の『東京物語』でした。1953年の映画です。梅爺は前に何度もこの映画を観ていますが、あらためて観て、素晴らしい映画であることを再認識しました。それに、『デジタル・リメイク版』ということで、デジタル技術で、ノイズカットされていて、美しい映像も楽しむことができました。

60年前の日本人の『暮らし』『日本語』『価値観』は、まるで別世界を垣間見るような体験ですが、この映画は、『家族の絆』が失われていくことへの問題提起が主題です。映画の中で老人は、現代の老人同様に『昔は、こうではなかった』と呟いています。老人が『阻害されている』と感じ、『寂しい』気持ちになるのは、現代に限ったことではありません。しかし、よくよく考えてみると、社会のしくみが基本的に『老人最優先』ではないのはしかたのないことです。従って、嘆き悲しんでばかりいる老人は、カワイイとは言えません。老人にも『節度』と『品位』は求められます。

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2011年9月17日 (土)

生物進化論(4)

『単細胞生物』は、細胞分裂で増殖を行います。それでも個々の『単細胞生物』には『生と死』がありますので、『世代交代』で、種の存続がはかられるという点では、他の生物と同じです。

やがて、『単細胞生物』の中には、同種の者同士が結び付いて『集団(コロニー)』を形成するものが出現します。この細胞同士を結び付けるものは、個々の『単細胞生物』が作り出す『コラーゲン(タンパク質)』であることも判明しています。現在にまで、このしくみを継承しているのが『海綿』です。生き残りのために『コロニー』を形成した方が有利という資質は、その後、他の生物にも継承され、現在でも『蟻』や『蜂』の世界に見られます。人間も、群をなしていないと『絆を失って』不安になるのは、この『コロニー』希求の資質(本能)を受け継いでいるのかもしれません。

人間のような複雑な多細胞生物は、勿論、『単細胞』の単純な『コロニー』としてできあがっているわけではありません。細胞内に遺伝子構造を保有する生物は、人間も含め『真核多細胞生物』と呼ばれます。原始的な生物の遺伝子は6~7ケなのに対して、人間は3万ケ近い遺伝子を保有しています。

卵子と精子の出会い(受精)で、遺伝子組み換えが起こり、以降その遺伝子情報に基づいて、目的別の70兆個の細胞が作られて、一人の『人間』が形成されます。『単細胞生物』から、このような複雑な『多細胞生物』ができるなどということは、想像を絶する話ですが、『生物進化論』という学説のみが、それを理論的に説明可能にしています。また、『生物進化』の過程で、動物が獲得した『ミトコンドリア』、植物が獲得した『葉緑体』が、生物の『生殖(有性生殖により自己相似構造の子孫を産み出す)』、『生命維持(エネルギー摂取)』『老いと死』に深い関係を持っていることも次第に分かってきました。

『生物進化論』は大筋で、矛盾がないことは分かってきていますが、詳細部分も全て解明されているわけではありません。多くの科学者が挑戦していますから、今後も大きな進展があると予想されます。

著名な『生物進化論』の研究者であり、無類の無神論者でもあるイギリスのリチャード・ドーキンスの『生物進化論』の解説書『The Greatest Show on Eearth(地上最大のショー)』という英文の本を購入済みですが、未だ読んでいません。きっと、多くの驚きに遭遇できるものと読むのを楽しみにしています。この著者の『The God Delusion(神という幻想)』については、前に紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/the_god_delusio.html

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2011年9月16日 (金)

生物進化論(3)

無機質の素材だけで構成されていた30~40億年前の地球に、何故『生命体』が誕生したのかは、現代科学でも明解に説明できていません。海底の地殻をマグマが破って噴出した時に、その周辺の熱や噴出物質を利用して、タンパク質や核酸などの生命体素材が出来上がり、ついに『生命体』が産まれたという説が有力ですが、実験で誕生の瞬間が再現されているわけではありませんから、あくまでも『仮説』です。

最初の『生命体』は、『単細胞生物』であったと言われています。梅爺は、最初の『生命体』の出現と同時に、着々と『生物進化』は開始されたのであろうと推測していましたが、実はそうではなく、その後約30億年の間、地球上の『生命体』は『単細胞生物』に止(とど)まっていたらしいことを知りました。

地球は、最初灼熱の惑星でしたが、今度は一転して『全球凍結』という大氷河時代が到来します。この時深海の海底まで全て凍ってしまったのかどうか、梅爺は理解していませんが、とにかく、『生命体』は絶滅の危機に瀕したことになります。現在北極や南極の氷の中にも微生物が存在していることが分かっていますので、一部の『生命体』は、この過酷な環境時期も生き延びたと推測されています。

約6.3億年前に『全球凍結』は終わり、その後本格的な『生物進化』が開始されます。特に、5億年前のカンブリア紀と言われる1200万年程度の期間に、急速な進化が実現したと言われ、これは『カンブリア爆発』と呼ばれています。『全球凍結』以前の30億年間、ほとんど進化がみられなかった『生命体』が、何故カンブリア紀に、急激な『生物進化』を開始したのかは、梅爺は理解できていません。『生物進化』の進行の速さには、『突然変異』以外の要素があるのかもしれません。ひとつのきっかけが、ドミノ倒しのように、他へ影響していったのであろうと思いますが、不思議な話です。この時代、海底生物として有名な『三葉虫』が出現します。『三葉虫』だけでも5万種以上存在したと考えられています。『三葉虫』は、『捕食』活動をするために必要な5千個以上の微細な複眼で構成される複雑な『眼』をもっていたことが分かっています。『捕食』する方は、それに適した機能を進化で獲得し、『捕食』される方は、身体の周りに刺を備えて身を守るなどの構造を進化させていきます。

現在のエビなどに継承されている『外骨殻生物』は、やがて一部が身体の中に骨格をもつ『脊椎生物』へと進化し『魚類』が誕生し、陸上へ進出して『爬虫類』『鳥類』『哺乳類』となり、『哺乳類』から『霊長類』が枝分かれし、ついに『人類』が登場することになります。私たち現生人類にいたっては、たった17万年前に先祖がアフリカに出現したわけですから、千両役者のように、満を持して最後に舞台へ登場したようなものです。それにしても、途方もない『準備期間』をかけたものです。

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2011年9月15日 (木)

生物進化論(2)

前に『光合成』についてブログを書いた時に、『真核細胞生物(遺伝子を持つ多細胞生物)』として、動物と植物はどちらが先に出現したのだろう、と疑問に思い、推測を書きましたが、地球上最初の『生命体』である『単細胞生物』が、海底噴火の熱と噴出物質(各種元素で構成される)で、『偶然』つくられたという説が現在有力ですので、そうであるとすれば『動物』が先かなとも考えてしまいます。『植物』の特徴が、『光合成』によるエネルギー摂取であるとすれば、深い海底には太陽の光が届かず『光合成』は無理と考えられるからです。

しかし、『ミトコンドリア』を利用した『酸素呼吸』によるエネルギー摂取が『動物』の特徴とするなら、深海は酸素濃度が低く、最初の多細胞生物が『動物』であったとも断言できません。要するに、後の『動物』『植物』の分類には当てはまらない『生物』が最初に誕生したということなのでしょう。逆にいえば、『動物』『植物』という区分けは、後に出来上がったということなのでしょう。

当時海底であった場所が隆起して現在は陸地や山岳地になっているところから発見された生物の化石の中には、『海底から生えた植物の葉っぱ』のように見えるものがあります。つまり『光合成』は行っていないにしても、海底に一部が固定されていて動かないと言う点では『固定生物』であり『植物』そっくりです。これも逆にいえば、『植物』に最初の『海底生物』の特徴が受け継がれているということになります。

その後、外骨殻を持ち、足(節足)をつかって海底を動き回る生物が出現しますので、これは『動き回る』という点で『動物』に似ています。

最初『植物』に似ている時代は、身体の表面から海水の栄養分を吸収し、生命活動を維持していたのが、動き回るようになると、海水からの栄養分だけではエネルギー摂取が不足し、他の生物を『餌』として食べる『捕食』機能が必要となって、『口』や『眼』ができあがっていったと考えられます。動き回る時の、前方に『頭』があり、頭に『口』『眼』『鼻』『耳』がついているのも、結果としては合理的な選択です。

永い期間、海中だけに存在していた生物体が、やがて陸上へ進出し、『植物』は『葉緑体による光合成』を、動物は『ミトコンドリアにようる酸素呼吸』を獲得し、地球は生物体で満ち溢れることになります。生物の陸上進出は、画期的な出来事であったことが分かります。しかし、深海時代に生物が獲得していた各種の機能、特徴は現在の『植物』『動物』にも見事に継承されています。

地球上のすべての動植物の先祖は『同じ』という『生物進化論』の説明は、多様に枝分かれしてしまった現状からは突飛に聞こえますが、他に説明する理論が見つからない限り、有力です。『人間』は、『生物進化』の最後の最後に出現した『種』ということになり、当然先祖の多くの生物種の特徴を継承しています。優れた『脳』の思考機能を獲得し、複雑な『精神世界』を持っていることは大きな特徴ですが、生命活動の維持については、他の生物と何ら変わることがありません。

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2011年9月14日 (水)

生物進化論(1)

4年前に梅爺がブログを書き始めた頃、『生物進化論』に詳しい知識を持ち合わせていませんでした。むしろ釈然としない気持ちの方が強く、疑っていたと言った方がよいかもしれません。人知を超えていると思われるほどの『生命体』の見事なしくみが、『偶然に出来上がる』とはとても思えないと感じていたからです。しかし、色々なテーマのブログを書くことで、少しずつ理解が進み、今では、『生物進化論』を、基本的には受け容れることができるようになりました。もっとも、全ての疑問が解消しているわけではありません。

疑っていたもう一つの理由は、進化が見受けられる生物と見受けられない生物が存在するのはどういうことか、ということでしたが、これは、『偶然に依る遺伝子の突然変化』『世代交代』『環境の変化』の条件がそろった時だけ、生物進化は進行する可能性を秘めており、『環境の変化』が少ない時には進行しないという単純なしくみを理解できたことで、謎が解けました。環境の変化に、有利に適応できるような遺伝子を偶然獲得した生物の子孫だけが、生き残ったという話で、進化ではなく退化することもあることも、これで説明がつきます。私たちが今目にしている生物は、一握りの勝ち残り組の子孫であり、この進化の裏側で、膨大な数の生物種が、生存に失敗して絶滅していることに気付かされます。人類も私たち現生人類(ホモ・サピエンス)以外は、全て絶滅しています。

生物進化の過程で獲得した『結果』だけをみると、生物の組織や構造は、極めて合理的にできているように見えます。動物の『口』の近辺に『鼻』があるのは、食べ物を嗅ぎわけるために合理的な配置ですし、眼球が2個、耳が2個という構造も、獲物や敵との距離を立体的に把握するのに合理的です。このような見事な配置や構造が、『偶然』できるはずがないと思いたくなり、そう思うとこれをデザインしたのは『神』しかいないという推論になりがちですが、実際は、全てが『偶然』から始まったことです。『数え切れないほどの試行錯誤の繰り返しと、数え切れないほどの世代交代』は、私たちの時間感覚ではピンときませんが、『生物進化』は、気の遠くなるような時間を要する『目的が存在しない変化(動的平衡)』なのです。結果として合理的に見えるのは、合理的な構造がその時点の種の存続に適していたからに過ぎません。それを裏付けるように、原始的な動物の時代には、眼球が5個ある生物の化石も見つかっています。

地球上に存在する全ての生物の存在を、一元的に説明できるのは『生物進化論』しかありません。ダーウィンの頃には解明ができていなかった遺伝子のしくみが判明し、人間とチンパンジーでは、たった3%の遺伝子の違いしかないことも分かって、『生物進化論』は更に強固な裏付けを獲得しました。人間だけは、特別の存在であるなどという説を、合理的に説明する他の方法は残念ながら見つかっていません。

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2011年9月13日 (火)

身は身で通る

上方いろはカルタの『み』、『身は身で通る』の話です。

解釈のしかたで、色々な意味が読み取れ、『人間の生き方』を示唆するなかなか秀逸な諺です。

現状は自分の『器量』の反映で、丁度バランスがとれていると考えれば、『天才バカボン』の父親のように、『それで良いのだ』と達観して生きていけるという解釈が思い浮かびます。

ブログを書き始めた頃に、『お前はお前で丁度良い』という『佛さまの言葉』を紹介したことがあることを思い出しました。

(佛様のことば)

お前はお前で丁度良い
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度良い
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度良い
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度良い
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くも無い
お前にとって丁度良い
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度良い
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下も無い
死ぬ日月さえも丁度良い
佛さまと二人連れの人生丁度よくないはずがない
これでよかったと戴けた時億念の信が生まれます
南無阿弥陀佛

不遜にならず、卑下もせず、ありのままの自分を認めれば、人は生きていけるという教えですが、現実はなかなかそうはいきません。自分の能力はこんなものではないと幻想を抱いたり、自分は不当に扱われていると、それを他人のせいにしたりしながら梅爺のような凡人は生きています。そして、挙句の果てに『現状を全て肯定してしまうことは、向上心を自ら放棄することではないか』などと、屁理屈をいったりします。

『これで丁度良い』と『理』で自分を説得しようとしても、自分の中の『情』は、『丁度良い』とは感じていないというように、人間の脳は、厄介にできています。そう考えれば、この諺は、『情に振り回されずに、理で自らを律しなさい』といっているようにも受け取れます。

『身は身で通る』のもう一つの解釈として、『人間は、結局自分本位に生きていくものだ』ということが思い浮かびます。

煎じつめれば、己が一番可愛いと言われてしまえばその通りですが、人間は、そのような本性を、『理』で抑制できるところが、『素晴らしいところ』と言えますので、本性は本性として認めた上で、理性を重視し、『自分本位で何がいけない』などと居直らずに生きていきたいものです。

日本人は『哲学』が苦手などと言われますが、庶民でさえも、人間の本質を鋭くとらえているこのような諺をみると、そのようなことはないと誇らしく感じます。

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2011年9月12日 (月)

空海と密教(10)

『空海』は、四国(現在の香川県)の郡司の息子として生まれ、18歳で京都の大学寮に入りますが、学問内容に飽き足らず、近畿や四国の山中で修行に励みます。知識を増やすことより、哲学的思索を好む性癖は梅爺も同じで、親近感を覚えます。四国室戸岬の岩窟内で修行していて、視界に入るものが、空と海ばかりということから、自らを『空海』と名乗るようになったと伝えられています。この命名の発想もなかなか洒落ています。

24歳で『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著わします。これは、仏教、道教、儒教を比較し、仏教が最も優れていることを指摘する内容で、難しい内容を、対話形式と言う斬新な表現で分かり易く伝えようとする形式であると、番組では解説がありました。梅爺も、『神とは何か』を『夢の中の神様との対話』というブログで表現しましたので、この発想にも親近感を覚えます。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-4845.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-d046.html

中国の唐で勉学に励んだのは、31歳から33歳までです。『虚しく往きて実ちて帰る』と自ら述べていますから、大満足の留学であったのでしょう。前にも書きましたが、たった2年間で、見るもの聞くものに興味を示し、その本質を見抜いて吸収していく能力は、見事というほかありません。『空海』のような偉人と梅爺のような凡人の違いは、この能力の差にあります。

その後、日本での『真言密教』の布教に尽力します。朝廷との関係も良好で、43歳の時に高野山を修験場とすることの許可を得ています。『空海』が唐から帰国後、中国の『真言密教』は、唐の朝廷からの迫害の対象になり、衰退していますので、インドで始まった『真言密教』の真髄を最も継承しているのは、日本なのかもしれません。

『真言密教』は、釈迦が唱えた初期の『仏教』とは、似て非なるものに変貌しているという指摘の是非は別にして、『空海』は、偉大な思想家であることは間違いありません。

61歳で亡くなり、死後、醍醐天皇から『弘法大師』の呼び名がおくられました。『空海』の出身地である四国の霊場巡りは、今でも人気があり、『お遍路さん』は、『同行二人』(お大師様といつも一緒)を心のよりどころにしています。高野山では、今でも『空海』の霊は生きていると考えられていて、毎日欠かさず食事が供えられています。

霊が今でも生きているかどうかはともかくとして、『空海』が、1000年以上日本人の心の中で生き続けていることは素晴らしいことです。

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2011年9月11日 (日)

空海と密教(9)

この番組で、『密教』の主要経典が『仁王経』と『理趣経』であることを知って、梅爺は興味をそそられました。

『仁王経』は、仏を信ずる帝王の心得のようなもので、いわば『帝王学』の教科書のようなものなのでしょう。今でこそ、『政教分離』の考え方は、近代民主国家の『常識』ですが、人類の大半の歴史は『政教一体』が『常識』であったと認識する必要があります。歴史は、その時代の人間の眼で観ないと本当の理解はできません。現代人の眼で、『マチガイ』であったなどと言うだけでは安易すぎます。歴史上、宗教の興廃は、権力者の庇護の有無に深くかかわっています。『衆生(しゅじょう)の救済』は、宗教の重要な側面ですが、それだけが全てではありません。キリスト教は、ローマ帝国の国教になっていなければ、今日は無かったかもしれません。日本でも、『仏教』が朝廷の庇護を受けなければ、奈良の東大寺や唐招提寺のような立派な伽藍(がらん)は建立できなかったはずです。『弱き衆生(しゅじょう)の信仰心の結集』で建立されたわけではありません。人間や人間が作った組織が生き残るためには、手段を選ばないという習性は、本能に根ざしていますから、宗教といえども、権力との結びつきは、歴史を観れば否定できません。

『仁王経』よりも、更に『理趣経』には興味をそそられました。あからさまに言ってしまえば、『理趣経』は、人間の『性愛の欲望』を、生きるエネルギー源として肯定している教えであるからです。『妙適(男女の交わり)』『欲箭(異性への関心)』『愛縛(愛情の独占)』『適悦(快楽の高まり)』などが、人間の活力の源であることを教えています。『食欲』や『性欲』などを、『煩悩』の最たるものとして、その解脱(げだつ)に苦悩したであろう『お釈迦様』が聞いたら腰を抜かすのではないでしょうか。

『食欲』や『性欲』は、生物としては自然の摂理の一端ですから、これを全面否定しては、個人が生きていくことも、人類が子孫を残して存続していくこともできません。徹底抑制は不自然ですし、そうかといって自由奔放を許容することは、個人的にも社会的にも、必ずしも好ましいとは言えない状況を惹起します。『食欲』や『性欲』の存在を直視して、それとどう付き合うか、つまり節度のレベルを考えなさいという教えの方が自然で受け容れ易いように思います。キリスト教は、『原罪』という『罪の意識』を信者に求めていて、これも一つの考え方ですが、むしろ、生きるために必要なものと明るく認めた上で、節度を欠いた場合に弊害が多くなることの理解を求める方が自然のように梅爺は感じます。

『理趣経』は、人間の本性(ほんしょう)を見事に洞察していると賞賛したくなりますが、これはインドに古代から伝わる『カーマ・スートラ(性愛の教典)』や、『ヒンドゥー教』の大らかな性愛許容の考え方を継承しているのではないかとも想像しました。あらゆる『煩悩』を排除しようとした釈迦の『原始仏教』から『密教』は、大きく枝分かれしているように梅爺には見えます。

『空海』は、当然『理趣教』を理解していたはずですから、『空海』が人間の本性をどのように洞察、理解していたかは、間接的にうかがい知ることができます。

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2011年9月10日 (土)

空海と密教(8)

『空海』は、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と並び、古来『三筆』の一人とされています。日本人は、『三大夜景』やら『三大美女』やらと、やたらにトップ・スリー(Top3)を決めたがるのは、何故なのでしょうか。旅先の土産屋で『これは、日本三大銘菓のひとつです』などと言われると、つい買わなければいけいないような気になってしまいます。

番組の中で、現代の有名な書道家が『空海』直筆の書を観て、感嘆の声をあげるほどですので、傑出した『書家』であることは間違いないのでしょう。明らかに中国の名筆とされる『王義之』の書から学んだ跡がありますが、『空海』の個性が加えられているとのことでした。梅爺が感心したのは、書道家が観ると、『空海』のその書を書いた時の、心の動きなども、ある程度想像できるらしいことでした。プロの洞察力は驚くべきものです。

『書』は、単に『意味』を伝える『理』の媒体だけではなく、『情』に訴える媒体でもあることが分かります。漢字は象形文字であるが故に、『情』を伝える媒体としては、有利な条件を備えています。『書』は人柄や教養の度合いまでも表してしまうものですので、悪筆の梅爺は、この点では不利な人生を歩んできました。達筆な女性は、それだけで魅力的ともてはやされます。勿論美女で達筆ならば、鬼に金棒です。

『空海』は、この『書』がもつ特性を心得ていたと推測できます。目的によって、書体を微妙に変えていますし、時には、その当時中国でさえも廃(すた)れてしまっている古い書体である『飛白体』『雑体書』なども使っています。多分唐にいた時に、この書体の存在を知り、日本へ持ち帰ったのでしょう。たった2年間の唐滞在の間に、接したものの本質を見抜いてしまうアンテナ感度と洞察力は驚くばかりです。梅爺も好奇心では人後に落ちませんが、『空海』にくらべれば『明き盲(あきめくら)』同然です。

『空海』にとっては、『曼荼羅』同様に『書』は、『言葉だけでは伝えられない何かを伝える手段』であったのでしょう。漢字の原点は、自然崇拝(アミニズム、シャーマニズム)と関連していて、『密教』で、『言葉以上の何か』を伝えるには、有利な文字媒体なのかもしれません。現代でも『書』は芸術の領域の一角を占めています。

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2011年9月 9日 (金)

空海と密教(7)

『空海』が日本へ紹介した仏画『曼荼羅』は、『両界曼荼羅』と言われるもので、『胎蔵界曼荼羅』と『金剛界曼荼羅』の2枚で構成されます。それぞれに『大日経』『金剛頂経』という『経典』の内容を、具視化したものと言われ、別々にインドから中国へ伝わったものを、『空海』の師であった『恵果』が、一対のものとしたと伝えられています。『胎蔵界曼荼羅』は、太陽の化身『大日如来』を中心とした仏の世界(宇宙観)を表現したもので、『金剛界曼荼羅』は、『悟りへのプロセス』を表現していると考えられています。

1800にも及ぶ仏や仏の化身が、幾何学模様に配置されており、思いつきで、ただ沢山の像を描いたのではなく、『密教』の奥義が絵で表現されています。『恵果』は、『密教』の奥義は、言葉だけでは表現できないと考えて『両界曼荼羅』を完成させたと伝えられていて、『空海』もこの考え方を踏襲しています。

『空海』の素晴らしさは、この平面的な『曼荼羅』図の世界を、立体構成にして、自分が嵯峨天皇から管理を任されていた京都『東寺』の『講堂』の内部に構築して見せたことです。『立体曼陀羅』という発想が『空海』の才能を示唆していますが、当時これを目にした人は、自分たちが考えてもみなかった異次元の世界を垣間見たような気持ちになって、ひれ伏したのではないでしょうか。

『憤怒の形相』の5大『明王』像に日本人は始めて接し、『慈悲』だけではない仏の一面を知り、これも驚きであったに違いありません。何よりも『慈悲』の仏像しか彫ったことがないそれまでの日本の『仏師』は、『立体曼陀羅』をつくるように『空海』から言われて最初は戸惑ったのではないでしょうか。

しかし、仏師が作り上げた『天(梵天、帝釈天、持国天、増長天)』や『明王(不動明王など)』は、見事な出来栄えで、日本の仏師たちの優れた潜在能力を知ることができます。

『慈悲』と『憤怒』は、母親の優しさと父親の厳しさを示唆するもので、人間を諭し導くには、両面が必要であるという解釈をする人もいます。わかりやすい説明ですが、『天』や『明王』は、インドの『ヒンドゥー教』の神々を、仏の守護神として、取り込んだもので、もともと『恐い顔』をしていたものが継承されているということなのではないでしょうか。

科学知識を持たなかった時代のインドや中国で、賢人たちが、『世界(宇宙)はどのようにできているのだろう』『自分が生きているということはどういう意味があるのだろう』と思索を深め、推論能力、想像力を最大限に発揮して辿りついたのが『曼荼羅』の世界であったと考えられます。

現在の科学知識で観れば、多くは荒唐無稽に見える世界ですが、『曼荼羅』の世界には、『理』で間違いと言うだけではすまされない、『形而上学的な深い意味』が込められているために、現代の人たちも魅了するのでしょう。

従って『曼荼羅』を『理』の世界で観ても、あまり意味がありません。これを観て人間の精神世界が何かを感ずるのであれば意味があることになります。音楽を聴いて、何かを感ずることに意味があるのと似ています。音楽を『理』で解説することはできますが、音楽の本質はそれだけでは伝わりません。

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2011年9月 8日 (木)

空海と密教(6)

『空海』が日本を発つ前に、『密教』についてどの程度の知識を有していたかは分かりません。したがって、新しい『仏教』の知識を得ようと唐に赴いて『密教』に遭遇したのか、最初から『密教』のことを学ぶことを目的としていたのかは、梅爺には分かりません。

驚くべきこととして分かっていることは、当時唐で『真言密教』の最高僧であった『恵果』に弟子入りし、たった3ケ月で、全てを学びとり、『潅頂(かんじょう)』の儀式を経て、No.2の座を得たことです。『漢字』という共通媒体があったとは言え、日常の言葉は異国語の世界ですから、驚くほかありません。

そのまま、唐へ留まれば、唐での活躍も保証されていた環境で、それでも『空海』は日本へ帰国することを選びました。日本からの留学僧は、少なくとも20年程度中国へ止まることが約束事でしたが、『空海』は2年の唐滞在だけで日本へ帰国します。九州へ着いた時に、『約束違反』として大宰府に止まるように命じられ、京の都へ入ることが許されたのは3年後のことでした。

『空海』は、日本で『真言密教』を布教するために、『経典』『仏画(曼荼羅)』『法具(儀式用の道具)』を持ちかえりました。

この時代の『宗教』は、庶民の救済と言うよりも、国家権力と結びついて『鎮護国家』を推進することでした。天災、疫病、飢饉から国家を守るには、『宗教』しか手段がないと考えられていたからです。『仏教』だけではなく、『陰陽師(おんみょうじ)』などという、呪術師も、政治に大きな影響を与えていました。

『空海』は『鎮護国家』の儀式を『密教』で執り行い、朝廷に認められ、嵯峨天皇から京都『東寺』の運営を任されます。『密教』の修験道場の場を、高野山に造営することも許可されます。当時日本の仏教界のトップは『最澄』(比叡山延暦寺が本拠地)でしたが、『最澄』は『密教』を学ぶために、年下の『空海』に弟子入りしています。『空海』の名声は不動のものであったのでしょう。『最澄』と『空海』は、手持ちの経典を見せ合うなど、最初は良好な間柄でしたが、やがて疎遠になっていきます。両雄並び立たずは世の常とは言え、少し寂しい話です。

『空海』が日本に初めて持ちこんだ『曼荼羅』の世界は、当時の人々には、衝撃的であったと想像できます。それまでの『仏像』は、慈悲を体現した如来像、菩薩像でしたが、『密教』では、憤怒の形相の『明王』像なども、仏の化身として紹介されたからです。

人間の心は、優しい仏の『慈悲』だけでは救済できないと『空海』は見抜いていたからであると、番組では何度も繰り返していました。『空海』が、人間の本性を鋭く洞察していたという推測に、梅爺も異論はありません。

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2011年9月 7日 (水)

空海と密教(5)

インドにおける初期の『仏教』の布教は、容易ではなかったことは想像に難くありません。『ヒンドゥー教』『バラモン教』が、既に庶民の信仰の中心であったからです。そこで、『仏教』は生き残りのために、『ヒンドゥー教』の神々が、仏に帰依(きえ)して仏の守護神になったという話を作り上げます。『ヒンドゥー教』の聖職者たちは大いに憤慨したでしょうが、庶民にとっては『仏教』は、突如分かりやすい世界に変貌したのではないかと想像できます。

『ヒンドゥー教』の神々を従えた中心となる『神』が必要になりますので、『密教』では、太陽神『大日如来』をこの位置に据えました。そして、守護神達も『実は、大日如来の化身である』という説明を加えるにいたりました。沢山いるように見える『神々』も、実は一人の『神』の化身であるという主張ですから、『多神教』と『一神教』が矛盾しないという、見事な論理ということになります。キリスト教でも、『父(神)と子(イエス・キリスト)と精霊』は、『三位一体(さんみいったい)』であるという説明を採用しています。矛盾に窮した時は、『実は、それらは同じものなのだ』と権威で断定をすれば良いと言うことで、断定ですから庶民は『本当ですか』と質(ただ)すわけにもいきません。

『ヒンドゥー教』など、世界の土着宗教の多くは、『自然の恵みを司る神々との一体感』という自然崇拝が基調になっています。自然が生死を決める環境の中で生きているわけですから当然のことです。『密教』は、『太陽(大日如来)』を中心に据えた、『宇宙観』を表現していますから、自然崇拝という人間の本能に近い感覚も満足させるようになったといえます。『お釈迦様』の『形而上学的な教え』は、難解と感じた庶民も、太陽の化身『大日如来』という話は分かり易かったものと思います。その分『密教』では『お釈迦様』の影は薄らいでしまいました。『密教』は『仏教』といえるのかと、梅爺が疑いたくなるのは、そのためです。

更に『密教』では、仏の世界の全貌を『文字』ではなく『絵』で表現して、感覚的に庶民に伝えようとしました。『曼荼羅(まんだら)』がそれです。『文字だけでは伝えられないものがある』ことを見抜いた見事な手法で、キリスト教も、絵画彫刻、音楽を、布教手段として有効に利用してきました。イスラム教は、全ての偶像を布教手段とすることを禁じていますが、祈りや説教には音楽的要素を採用しています。コーランを全部暗誦し、お経のように節をつけて唱える『教育』が神学の授業で行われています。『宗教』は、文字だけで表現するのが難しい世界であるという共通認識は、興味深い話です。基本となる『信ずる心』は『情』であり、『情』は、文字だけでは表現が難しいということなのでしょう。

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2011年9月 6日 (火)

空海と密教(4)

人間が本能的に抱く『大きな疑問』の一つは、『自分は何者で、何のために生きているのか。自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか』ということではないでしょうか。『哲学』は、この問いへの回答を求めた苦闘の歴史とも言えます。

幸運なことに、現代に産まれた梅爺は、『宇宙の成り立ちのしくみ』や『生命の成り立ちのしくみ』について、完全ではないにせよ、かなりの『科学知識』を獲得しています。『ビッグバン』『アインシュタインの法則』『量子力学』『生物進化のプロセス』『DNAなどの生物分子学』がそれにあたります。

当然梅爺は、上記の『大きな疑問』について考える時に、この『科学知識』を活用します。言いかえれば、これらの『科学知識』を持たなかった時代の人たちより、ずっと有利な状況に身を置いています。

『ソクラテス』『孔子』『釈迦』『イエス・キリスト』『ムハンマド(マホメット)』が持ち合わせていなかった『科学知識』を梅爺は持ち合わせています。しかし、このことで梅爺の方が、『賢い』とは言えません。これら偉人達の多くは、『形而上学的な世界』への深い洞察を提示していて、『形而上学的な世界』は、現在の『科学知識』をもってしても、説明しきれる世界ではないからです。たとえば、『人が生きている』ということは、どういうことかを『科学知識』を用いて、物理的、化学的現象として説明はできますが、『人が生きることの意味何か』を『科学知識』で説明することは困難です。

過去の偉人達が素晴らしいのは、現代でも通用する『形而上学的な洞察』を提示していることにあります。一方、偉人たちは、持ち合わせていない『科学知識』の領域も、自分の『推論能力』で埋めようとしているところがあります。聖書の『天地創造』、密教の『曼荼羅の宇宙観』などは、現代の『科学知識』では『間違い』であることが説明できます。しかし、このことで、私たちは聖書や曼荼羅の全てを否定することはできません。なぜならば、聖書や曼荼羅には、『形而上学的な洞察』が含まれているからです。

過去の偉人たちの洞察の内容を、現代の『科学知識』で判別できるもの(多くはマチガイと判別できる)と、判別できないものに区分し、判別できないものが現代でも意味を持つ内容かどうかを考える必要があります。

『空海』や『密教』には、この『現代でも意味を持つ洞察』が沢山あることを、番組を観て確認できました。現代でも多くの人が『空海』に魅力を感ずるのは無理からぬことです。

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2011年9月 5日 (月)

空海と密教(3)

『密教』の開祖が誰なのか、梅爺は理解していませんが、発祥の地がインドであることは確かでしょう。初期の『仏教』は、既存の『ヒンドゥー教』『バラモン教』から迫害をうけ、必ずしも順調に布教できたわけではありません。『お釈迦様』の教えは、人間の精神世界の本質を説いたもので、現代流に表現すれば、『哲学的、形而上学的思索』を表現したものですから、土着の神話、形式的な儀式などで構成されている『ヒンドゥー教』『バラモン教』に慣れ親しんだ人たちには、新鮮であったにせよ、難解なものでもあり、戸惑ったことであろうと想像できます。いつの時代でも、『哲学的、形而上学的な思索内容』は、大半の人たちから『難しくて分からない』と敬遠されるものです。一方『悪いことをして死ねば地獄へ行く』というように、具体的な説明を受けると、その真偽を疑わずに信じます。

『お釈迦様』の出現は、『ユダヤ教』の世界に、形而上学的な『普遍の愛』を説く『イエス・キリスト』が出現した状況と似ています。『普遍的な愛』だけでは、多くの人は理解できませんから、『イエスは、私たちの罪の身代わりで死んでくださった』という具体的な説明が、布教のために使われました。

インドにおいて『仏教』は生き残るために、既存の『ヒンドゥー教』『バラモン教』の世界を取り込もうとしました。現在の『仏教』には、『如来』『菩薩』『天』『明王』など、沢山の『仏たち』が存在しますが、元はと言えば『ヒンドゥー教』の神々が『仏に帰依し、仏の守り神になった』ものと考えられます。『お釈迦様』の哲学的な教えより、このような『神話』の世界の方が『一般の人たち』には分かりやすいといえばそれまでですが、『お釈迦様』は草葉の陰で、『おいおい、換骨奪胎にもほどがありはせんか。わしは、その様には言ったつもりは無いぞ』と苦虫をかみつぶしておられるのではないでしょうか。

このような涙ぐましい努力をしても、インドにおける『仏教』に対する迫害は収まらず、生き延びる道を求めて、中国や、東南アジアへと布教を強めていったのではないでしょうか。これも、パウロのキリスト教が、本拠地ユダヤでは受け容れられず、近隣の外国や、ローマにまで布教を開始したのと似ています。

『密教』は、土着の宗教との融和で産まれたと言えますが、土俗な宗教にはなかった、『精神世界の新しい表現を提示』している点で、むしろ『仏教』とは異なった『新しい宗教体系』であるように、梅爺には見えます。『曼荼羅』がそれにあたります。

『空海』が訪れたころの唐の『長安』では、皇帝がどの宗教を支持するかで、特定の宗教の盛衰はありましたが、基本的には庶民の『信仰の自由』が認められており、『密教』のほかに『回教(イスラム教)』『儒教』『道教』が共存していました。その中から、『仏教僧』であった『空海』が、『密教』を選択したのは当然とも言えますが、好奇心にあふれた『空海』のことですから、他の宗教にも興味を抱き、その本質を理解した上で『密教』を選んだのではないでしょうか。

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2011年9月 4日 (日)

空海と密教(2)

勿論梅爺は『密教』について、ほとんど何も知らない人間ですが、その梅爺がなけなしの知識を総動員して考えてみても、『密教は仏教といえるのか』という疑問を払拭できません。『密教』の世界観の中心は『大日如来(太陽)』であり、仏教の開祖の『お釈迦様』は、『どこへ行ってしまったの?』という素朴な疑問が残るからです。

『密教』においても、『煩悩』を断ち切って『悟りの境地』に達することを究極の目的としていますから、これは『お釈迦様の教え』と同じと言えないことはありませんが、秘密めいた儀式で、『真言(しんごん)』を会得したものだけが、特別の資格を得たり、『悟りの境地』に達するというような考え方は、『お釈迦様の教え』とは乖離(かいり)しているように感じてしまいます。お釈迦様は、人間の思考を追求しているのであって、表面的な形式や儀式を重視しているとは思えません。

『宗教』において、開祖の教えが、全ての人に公平に公開されるのは当然のことと思いますが、歴史をたどってみると、必ずしもそうともいえません。開祖の周囲に特別扱いされる『弟子』や『使徒』がいたり、開祖の教えを一般の人へ仲介する『僧侶』『神父』『牧師』『師』などという、特別の資格をもった人たちが存在します。特別の資格をもった人だけが理解できる言葉(キリスト教におけるラテン語など)が使われたりしました。一般の人たちは『蒙昧(もうまい)』で、レベルが低いので、これを導くための『蒙昧』ではない仲介者が必要であるという論理は、分からないではありませんが、仲介者が『自分はエリートである』と勘違いして、権威を振りかざしたりすると、『宗教』の堕落が始まります。

人間には、『自分を有利な立場に置いておきたい』という、生物としての本能があり、これが『優越感、劣等感』という『情』を喚起します。その結果、『宗教』においては、『開祖の教えに隠されている本質を理解しているのは私だけである』と主張する人や集団が現れます。キリスト教の歴史で、正規の『新約聖書』に採用されなかった『トマスによる福音書』を信奉した人たちは、それに該当するように思えます。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-8d5a.html

『宗教』において、『開祖』『特別の仲介者』『一般の人たち』の関係がどうなっているかを検証してみると、その『宗教』の特質が明確になるように思います。

『密教』の場合、『開祖』は誰なのかが判然としません。『お釈迦様』とするには、かなり無理があります。『空海』は、『密教』の定める認定試験ともいえる儀式を全てクリアした(『灌頂(かんじょう)』を与えられた)、『特別の仲介者』であることは確かです。その『空海』が、日本へ帰国して、悩み苦しむ『一般の人たち』にどのように接したかが、梅爺の興味の対象です。今でも『空海』が『お大師様』として、多くの人たちから慕われている秘密が、そこに隠されていると思えるからです。

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2011年9月 3日 (土)

空海と密教(1)

少し前に、梅爺は『畏れ知らずの仏教論』というブログを書いた時、9世紀の初めに『空海』が中国から持ち帰った『密教(仏教の宗派)』や、その布教の重要な媒体である『曼荼羅』について、『インドの土着宗教と結びついた、なにやら摩訶不思議な世界』といった程度の、軽薄な認識で済ましていました。

しかし、NHKBSプレミアム・チャンネルで、3晩にわたり放映されたドキュメンタリー特集『空海(至宝と人生)』を録画して観て、以前の梅爺の認識は、無知とは言えあまりに浅薄過ぎたと反省しました。新しい知識が増え、同じ対象を観る自分の考えが深まると、目の前に思ってもいなかった新しい世界が迫ってきます。これこそが『知的冒険』の醍醐味で、梅爺が『梅爺閑話』を、恥を承知で書き続けている原動力です。しかし、既にご存知の方からすれば『何をいまさら』ということに違いなく、まことに恐縮です。

梅爺は、司馬遼太郎の『空海の風景』という小説を読んだことがありますので、9世紀に『空海』という傑出した能力を持つ日本人が存在した程度の知識は持ち合わせていました。

小説を読んで、まず梅爺が驚嘆したのは、『空海』の飛びぬけた外国語能力でした。『空海』が留学僧として参加した『遣唐使』は、4艘の船団でしたが、無事中国へ到着したのは2艘だけという過酷な船旅でした。『空海』が乗った第1船は、現在の福州に漂着しましたが、海賊と疑われて50日間上陸を差しとめられました。その間、日本側の責任者である遣唐大使が、中国の役人に、書状を送り、事情を説明し上陸を嘆願しましたが、なかなか受け入れられませんでしたが、『空海』が代わりに書状を書いて提出しなおしたところ、その見事な文章に中国の役人が驚いて許可が下りたという逸話が残っています。当時、日本にはまだ平仮名や片仮名がなく、身分の高い人たちや僧侶は、『漢文』で書状を書く習慣であったとはいえ、『空海』の『漢文』や『書』のレベルが非常に高かったことが窺えます。

その後、7ケ月を経て、『空海』は唐の都『長安』へたどり着きます。最初に、『密教』を学ぶベースとしてインド人の僧から、梵語(サンスクリット語)を2ケ月学び、その後、中国密教の最高位の僧であった、青龍寺の『恵果』から、3ケ月で密教の全てを学びとり、後継者として免許皆伝となっています。

梅爺は、40歳を過ぎてから仕事でアメリカへ出向くことが多くなり、英語で苦労した体験を振り返り、いくら『漢字』という共通基盤があったとはいえ、『空海』の語学対応能力に驚嘆するばかりです。

外国語ばかりではなく、形而上学的に難解な『密教』の真髄をすぐに理解してしまう『空海』は、日本の歴史のなかでも指折りの『スーパー日本人』であったと言えるのではないでしょうか。

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2011年9月 2日 (金)

そもそも『教育』とは何だろう(6)

『教育』の目的は、色々なことを沢山知っている人をつくることではなく、色々な状況に自らの責任で対応しようとする人をつくることであろうと思います。そして常に自分の『理(智)』と『情』のレベルをバランス良く高め、そのことに『生きる喜び』を感ずる人を増やすことではないでしょうか。更に、人間は『群をなして生きていく生物』ですから、群の中の『絆』が大切になります。『絆』は、『理』と『情』のバランスや、『自分の考え』と『相手への思いやり』のバランス無しでは保てません。

池本氏の『日教組』の話をうかがって触発され、梅爺の思考は、あらぬ方向へずれてしまいました。『日教組』の話に戻れば、現場の先生たちが、自分たちの基本的な権利が侵害されないように結束することに反対ではありません。『教師は聖職である』などという精神論も好きではありません。しかし、『教育の本質は何か』を優先して考え、誇りをもって提言をし、自分達も研鑽を怠らない人たちの集団であって欲しいと願います。先生が自らの『理』と『情』のバランスを高めようと努力する姿が、生徒たちには何よりの『お手本』になるからです。『教育指導要綱』だけに従順に従うものの、能面のような無表情の先生は、生徒の尊敬の対象にはなりません。先生が、個人的にイデオロギーや宗教などの『信条』を持つことは許されることですが、それを生徒に強いることは避けるべきです。『信条』は、大人になって自分で選択するもので、教育途上にある青少年を洗脳するのは好ましいことではありません。極端な場合、イスラム原理主義の人たちが、聖戦と称して、青少年に自爆テロを美化して教え込むような弊害を産むことになりかねないからです。日本にも『神国日本に身を捧げる少国民、青少年』育成を優先した時代がありました。

北欧では、『先生は最も高い人間的資質を求められる難しい職業』で報酬も高いと言われています。次の世代の人材を作り上げるには、その社会の優秀な人材がその責務を担うべきという考え方が根付いているのでしょう。

『日教組』は、『教育現場のプロフェショナル』として、生徒や父兄は勿論のこと、国民からも信頼される集団になって欲しいと願います。日本の将来に、最も深くかかわっている職業が『教師』であるからです。

文部・科学省の官僚に反発するだけであったり、理不尽なことを主張する父兄に怯えて逃げ腰になったり、自分たちの利権を守ることだけに腐心しているようであれば、残念ながら、尊敬や信頼の対象にはなりません。『自信を失った先生たちの姿』など、リーダーシップの無い政治家同様に、国民は見たくもありません。

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2011年9月 1日 (木)

そもそも『教育』とは何だろう(5)

日本の学校教育では、与えられた問題に『正しく答える』ことが求められます。逆にいえば、『正しい答』が存在す『問い』が、問題として提示されます。これを繰り返すうちに、私たちは、問題や疑問には、必ず唯一の『正しい答』が存在するという錯覚を持ってしまいます。しかし、私たちが日常生活で遭遇する問題や疑問の大半には、『唯一の正しい答』は存在しません。本当は存在するのかもしれませんが、それを特定できる能力を残念ながら人間は持ち合わせていません。

それでも、問題や疑問は放置できませんので、自分の能力の範囲で思考し、対応します。いくら考えても、分からない場合は、『直感』というあまり論理的でない手段で、対応策を決めます。後々、対応策が適切ではなかったことが判明したりしますが、それは『しかたがない』ことです。

何でもかんでも『直感』だけで、対応するというのでは芸がありませんので、『問題や疑問の対応策を求めるための、一般的な手法』はないものかと考えます。

その一つとして、企業教育では『ケース・スタディ』がよく用いられます。アメリカのビジネス・スクールで考え出された手法で、『問題となる仮想の状況』が提示され、生徒は、自分の能力を尽くして『対応策』を考え、先生に提示します。先生は、生徒が思いつかなかったような『視点』を指摘して、他の『対応策』の可能性を示します。生徒は『なるほど、そういう視点もあるな』と気付き、別の問題に遭遇した時に応用しようと考えます。『ケース・スタディ』には『正しい答』はありませんが、訓練を繰り返すことで、生徒の多様な視点で、問題を考える能力を高めていきます。北欧の『考える能力を重視する学校教育』では、この『ケース・スタディ』に似た手法が採用されています。こういう教育では、先生の『個人的な能力』が重要な要素になり、『教科書』や『教育指導要綱』などは、あまり重要ではありません。

日本で考え出された『KJ法』などは、どんな問題にも適用できる優れた『思考支援手法』です。『KJ法』は、正しい答を見つける手法ではありません。十人十色の『対応策』が考えだされることになりますが、少なくとも、個々にその『対応策』にいたった思考経緯を記録し残すことができます。その結果、後に対応が適切ではなかったことが判明した時に、思考経緯のどの部分が不適切であったかは、検証できます。

最低限の『知識』を植え付けることも必要ですが、『教育』の本質は、必ずしも答が分からない問題や疑問に、自分で対応できる基本能力を高めるように手助けしてあげることではないかと梅爺は考えています。それを繰り返すことで、自分の対応に責任を負うことも理解し、他人が別の対応をすることも許容するようになります。そして何よりも、自分で考えることの『楽しさ』に気付き、必要な『知識』は自分で学ぼうと言う学習意欲が湧いてくるはずです。

『梅爺閑話』は、まさに、個人的な思考経緯を開陳しているだけのことで、ネタ切れにならないのは、周囲に『自問自答』したくなる問題や疑問が沢山あるからです。もし、ブログで梅爺の『知識』だけを開陳しようとしたら、すぐにネタ切れになるに違いありません。梅爺は、思考プロセスを楽しむ性癖はありますが、他人に誇れるような『知識』は、それほど持ち合わせていません。

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