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2011年8月31日 (水)

そもそも『教育』とは何だろう(4)

『脳』の機能は、生物としての身体を制御する基本機能と、最も『人間らしさ』を発揮する『知的、精神的領域』を制御する機能とに分かれます。前者は、産まれた時にほぼ完成していますので、『教育』が関るのは、後者の機能です。

何度もブログに書いてきたように、『知的、精神的領域』は、『理』と『情』の複雑な絡み合いで実現されます。『情』は、根元は本能として継承されたものですが、それでも産まれた後の『外部環境』との関り合いの中で、感性の度合いが異なってくることが、研究の結果分かっています。特に、3歳から5歳までに、どのような『外部環境』と接したかで、その人の『情』のレベルが大きく異なってしまうことが判明しています。周囲の『愛情』なしに育つと、将来『愛情』や『思いやり』に疎い無表情な大人になる可能性が高いということです。

梅爺は、『幼児期の情操教育(両親も関る)』に、日本が国家的なプロジェクトとして投資し、最先端のシステムや方法論を率先して導入して欲しいと前から願っているのはこのためです。『思いやりのある社会』を目指すなら、『急がばまわれ』で、これが最も有効ではないかと考えています。『子供手当』や『高校の授業料国家負担』が『心の豊かな日本人』をつくる有効な政策であるとは思いません。

『青少年期』の『理』の機能を成熟させるための『教育』も勿論重要です。『理』が成熟すると、『他人のことも考え、行動する』つまり、『情』による身勝手な判断を抑制する人間になるからです。人間は、もともと生物の一種に過ぎませんから、放っておけば『自分にとっての都合の良し悪し』だけで行動する本能を持っています。これを抑制できるのは、『理』の能力を高めるしかありません。釈迦のいう『煩悩の解脱』も、キリストのいう『汝の敵を愛せよ』も、『理』があって始めて理解できる世界です。

『知識』を多く獲得することが、『教育』であると多くの人は信じているように見えますが、梅爺は必ずしも賛成ではありません。勿論、大人として生きていくための『基礎知識』を叩きこむというレベルの必要性は否定しませんが、人生で遭遇する大半の問題は、きまりきった答がないことを考えると、問題に遭遇した時に、どう対応するかという一般的に通用する方法論を繰り返し教えることの方が重要であると考えています。このためには、『問題には必ず正しい答がある』という錯覚から脱却することが必要です。万人が納得する『正しい答』がある領域は、『自然科学』の領域に限定されています。

万人が認める正しい答がなくても、私たちは目の前の問題を、自分で判断し前へ進まなければなりません。誰と結婚するのが『正しい』か、などと考えていたら、いつまでも結婚できません。自分の『知識』を総動員して考えて結論を出しても、人は間違いを犯します。その間違いに気付いた時に『どうするか』が次の問題であると割り切るしかありません。

人は、自分の問題や疑問に遭遇すると、必要な『知識』は自分で探そうとします。目的もなく『知識』を詰め込むような行為は、あまり有効な方法ではないように思います。つまり、問題や疑問に立ち向かう一般的な姿勢や、方法論さえ教えておけば、自ら『知識』に関する学習は実行するものであると梅爺は楽観的に考えています。

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2011年8月30日 (火)

そもそも『教育』とは何だろう(3)

動物の中で、産まれてから『大人』になるまでに、最も時間を要するのが『人間』です。生殖能力を獲得した状態を『大人』と言うのであれば、10年から20年を要します。普通に考えれば、これは『生物』として、不利な条件であるはずですが、現実には永い時間を必要とすることには、それなりの『理由』があるはずです。すぐに思いつく理由は、生物の『種』として、それが結果的に『生き残る』ために有利な条件として、生物進化の過程で『選択』されてきたのであろうということです。

『大人の脳』になるまでに時間がかかるので、それに合わせて『大人の身体』になるのも遅らされているのではないかと梅爺は推測しています。『大人の身体』になるまでの期間を短縮するだけなら、将来『科学』は、その方法を比較的容易に見つけるかもしれません。しかし、それを採用するかどうかは、人間を総合的に幸せにするかどうかを判断することにかかります。原子力エネルギーを利用するかどうかと同じようにな問題で、『科学』に責任があるわけではなく、人間の『知恵に依る判断』に責任があります。

何故『大人の脳』になるまで時間がかかるのかを現象的に説明するのは簡単で、大容量で、驚くほど複雑な機能の集合体である『脳』を保有しているからです。それならば、胎児のうちに『脳』を完成に近い状態にしておけば良いではないかということになりますが、そうはいかない理由があるはずで、それは、『脳』を成熟させる多くの要因が、産まれて後の『外部環境』との関りに依存しているからではないでしょうか。そしてこのことに深遠な意味が隠されているように感じます。

この『産まれた後の、外部環境との関りの中で、脳は成熟する』ということが、『教育』を考える時の原点ではないかと思います。先天的に優秀な『脳』を持っている人もいるに違いありませんが、後天的な『脳』の成熟プロセスが、普通の人の人生にも大きな影響を与えるのであるとすれば、『適切な教育』は、極めて重要な意味を持つことになります。

『脳』を成熟状態に近づけるということは、どういうことなのかを理解して始めて『教育』の内容が決まるのではないでしょうか。経験則で『読み、書き、ソロバン』が『教育』であると考えるのは、少なくとも論理的な対応ではないように思います。

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2011年8月29日 (月)

そもそも『教育』とは何だろう(2)

国民の平均的な『教育レベル』の高さが、その国の『国力』や『将来』に大きな影響を持つことは、自明のことです。個人が、『教育レベル』を利用して、自分に適した多様な分野へ挑戦できる環境が、人間らしく生きる条件であり、そういう個人が集まった社会は、柔軟で強い社会と言えるからです。

教育の目的は、為政者や権力者に都合がよい型にはまった人間を創ることではなく、向上心旺盛な『型にはまらない人間』を創り出す基盤作りに手を貸すことではないでしょうか。しかし、歴史を顧みると、教育は『型にはまった人間』を創り出すことを目的にしてきたように見えます。

明治政府は、『教育』に多大な投資をしたことは称賛に値しますが、『富国強兵』を支える人材を産み出すことを目的としました。現在でも、社会主義や、特定の原理主義的な宗教を基盤とする国は、今でも『洗脳』ともいえる『学習』を国民に強いています。これは、時代や状況の背景を考えると、一見『理』に適っているようにも見えますが、むしろ、最後には多くの弊害を産み出すことにもなります。大衆を、『教育』で、都合のよい人間に変えることができるという考え方は、為政者や権力者の思い上がりです。親が子供を最後まで自分の価値観で規制できると考えるのも、親の思い上がりです。

人間の尊厳を認めると言うことは、その人が自分のことを、自分で考えて、自分で決めていくことを認めることではないでしょうか。しかし、これは、『成熟した大人の判断能力』を前提としますので易しいことではありません。個人と社会の関係が、『倫理』『道徳』などの規制条件となって働きますから、個人の自由勝手な行動が全て許されるわけではないからです。

『成熟した大人の判断能力』を身につけさせることが『教育』の目的で、『特定の価値観に縛りつけられた人』を創り出すのが目的ではないことは理解できますが、『成熟した大人の判断能力』の基盤を定義することは、難しいことに気付きます。

『成熟した大人の判断能力』は、『理で情を抑制できる能力』『知識を利用して、独創的な推論ができる能力』であろうと想像できます。知識は独創的な推論を行う手段であって、それ自体は目的ではありません。梅爺は、自分の疑問に自分の推論で仮説を求めようとする時には、必要な知識を自分で探そうとします。利用されることがない知識を、いくら蓄えてもあまり意味がありません。人は、必要ならば知識を探し求めます。

自分の疑問に、自分の推論で対応しようとする基礎的な対応訓練を繰り返し手助けすることが『教育』の基本であろうと思います。

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2011年8月28日 (日)

そもそも『教育』とは何だろう(1)

梅爺は、畏友Mさんが主宰する『横浜フォーラム』という私的会合のメンバーで、月に一度、色々な分野の専門家の講師の話を拝聴し、飲み食いしながら仲間で意見交換することを楽しみにしています。

8月26日の『横浜フォーラム』は、元サンケイ新聞の論説委員で、日本の教育の現場の問題に詳しい池本薫氏が講師で、『日教組の功罪』という話を拝聴することができました。池本氏が、『横浜フォーラム』で講師を務められるのは今回が6回目で、近々200回を迎える『横浜フォーラム』の中で、6回講師を務められた方は池本氏を含め2人しかおられません。池本氏は座談の名手で、その語り口に、つい引き込まれてしまいます。因みに梅爺は、3回講師をお引き受けし、『ITに関連する話』『ブログ執筆に関する話』などを、臆面もなくしてきました。

文部・科学省と、教育現場との関係を永年にわたって観て来られた池本氏は、『日教組(日本教職員組合)』の、組織としての歴史的変貌、現在抱えている問題点などを、詳細データ資料を準備してくださって、分かり易くお話し下さいました。

『日教組』は、尖鋭な左翼思想のリーダーに率いられた先生の集団で、『日ノ丸』『君が代』は、過去の軍国主義の亡霊が付きまとうものとして採用を拒み、何かにつけて文部・科学省の方針には反対し、日本の教育現場を、生徒そっちのけのイデオロギーで混乱させる困った団体という先入観念を梅爺はボンヤリもっていましたが、池本氏のお話を聞いて、『ことはそう単純ではない』ことが分かりました。人は『浅い知識』『世間の風評』『先入観念』で、大変な『誤認』をしてしまうもので、梅爺の『日教組認識』は、まさにこれに類することが分かり恥じ入りました。

勿論、梅爺の『日教組』評価が、一転して『実は素晴らしい団体である』と変ったわけではありません。

この問題をもっと深く理解するには、そもそも『教育とは何か』『教育で日本の将来はどう変わるのか』『普遍的で、理想的な日本人の国民像とはどんなものなのか』『学力を何で評価するのか』『行政と現場の教師の役割分担はどうあるべきなのか』『その時々の政治や経済に影響を受けにくい教育体制は存在するのか』『教職者は他の労働者と同等の権利を保有するのか』『知識と創造能力との関係はどうあるべきか』などなど、多くのことを総合的に考え、自分の考え方を整理しなければ、迂闊なことはいえないということを痛感したということになります。

煎じつめると『人間を教育するとはどういうことか』というテーマを与えられ、『知的冒険』を開始するきっかけを与えていただいたことになります。『教育』は、梅爺がブログで何回も取り上げてきた『人間の脳』の問題へ結局辿りつくのではないかという予感がします。

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2011年8月27日 (土)

盲の垣のぞき

上方いろはカルタの『め』、『盲(めくら)の垣のぞき』の話です。

眼が見えないはずの盲人が、好奇心に駆られて垣根の隙間から中をのぞいている様子が想像できて、つい笑ってしまいます。そして、この盲人の興味の対象は一体何だろうと、あれこれ考えてもしまいます。

最近では『盲(めくら)』は差別語として、公共的な場での表現は自粛することになっていますが、『盲人』なら許され、『盲(めくら)』は許されないなどという形式主義は、いかがなものかと梅爺は感じています。根拠のない優越感で、相手を見下す態度と、『言葉』は無関係ではありませんが、『言葉』だけを自粛してみても、不遜(ふそん)で思いやりない態度が払しょくされるわけではありません。言葉使いに問題がなくても、不遜な人間は世の中には沢山います。

この諺は、人間は『盲(めくら)』でなくても、『盲の垣のぞき』のような行為をするものだと諭(さと)しているのであろうと梅爺は受け止めました。

つまり、その人の理解能力をはるかに越えたような問題にまで首を突っ込み、拙い自分の知識だけで、全体を理解できたと勘違いすることがあり、自分だけで得心しているならまだしも、自分の勘違いを、他人にまで強要する困った習性を人間は持っているということではないかと思います。

『梅爺閑話』も、梅爺の勘違いを、得意げに披露していると言われれば、まさに『盲の垣のぞき』そのもので、反論の余地はありません。

周囲を好奇心で観ようとするのは、人間だけではなく動物に共通な本能です。何か変ったものに遭遇した時に、それが『自分にとって都合のよいものか、都合の悪いものか』を判別する最初のきっかけが好奇心であるからです。我が家で飼っていた犬も、梅爺が普段と異なった行動で接すると、好奇心にあふれた目つきで、梅爺の真意を理解しようとじっとみつめることがよくありました。

好奇心から、物事に首を突っ込むことは、本能として避けられないことですが、本当に理解するためには、相応の理解能力が必要であることも承知していなければなりません。

好奇心と理解能力は、時にバランスが取れていないことを、折に触れて思い起こし、自戒しながら『梅爺閑話』を書いていこうというのが、『盲の垣のぞき』から梅爺が得た教訓です。そこまで配慮しても内容は依然不遜であると非難された場合は、平謝りに謝るほかありません。

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2011年8月26日 (金)

畏れ知らずの仏教論(8)

釈迦が説いた内容と、現在の仏教の各宗派が説く内容は、共通点が無いわけではありませんが、むしろ異なっていることが多いために、仏教に疎い梅爺は戸惑ってしまいます。

梅爺の拙い知識で、間違っているかもしれませんが、釈迦は要約すれば『人間は内なる煩悩(邪悪を生みだす心)を排除して、同じく内なる仏性(善良な心)を尊重すれば、心穏やかに生きることができる』と説き、それを実現するための方法論までも示そうとしているだけで、宇宙空間のどこかに、絶対的な神や仏が存在するとか、死後の魂の救済(極楽往生)などには言及していないように見えます。あくまでも『生きるための規範(方法論)』を示そうとしています。これだけを取り上げれば、現代科学が『脳』に関して獲得している知識と矛盾することは何もありません。既に何度も書いてきたように、生物進化の過程で、『生き残りのためなら何でもする』状態から、『良い結果をもたらすもの(善良)』と『悪い結果をもたらすもの(邪悪)』を抽象概念として区分し、推量する能力を獲得した人間にとって、心の中に『善良』と『邪悪』が今でも潜在的に残っているのは当然と言えます。『悪い結果をもたらすもの』は、脳に『不安』というストレスになって作用しますから、これを排除すれば、『心の安らぎ』につながるということも、理に適っています。

釈迦と同じように振舞おうとすれば、心の安らぎを得るためには、『出家』して煩悩を排除する修行を積む必要があり、これを実行した人だけが『救われる』ということになります。ミャンマーなどの『仏教』はこの考え方を今でも踏襲しており、『上座部仏教(小乗仏教)』と区分されて呼ばれます。『出家』してしまうと、生活の糧を得る方法がなくなりますから、『在家』の人たちの『お布施』を頼りにせざるをえなくなります。人間が『生きる』ことは、精神世界だけの話ではないという現実的な問題を抱えます。

これに対して、『出家』しない『在家』の人も、『仏教』を信ずれば『救われる』という考え方を人間が思いつくのも当然の成り行きです。この考え方は『大乗仏教』と区分され、日本にもたらされた『仏教』と、その後の日本の『仏教』はこの流れに属しています。

『大乗仏教』は、布教の過程で、各地の土着の宗教や、呪術の様式を取り込み、『曼荼羅』などの、『何やら秘密めいた世界』を強調するものに変容していきます。キリスト教が庶民には理解が難しい『ラテン語』で聖書を記述したように、『大乗仏教』も経典を、庶民の言葉ではない『サンスクリット語』で記述したことが、神秘性を生みだしたと言われています。庶民は、『良くわからないが、なにやらありがたいので、信じて救ってもらおう』ということになるのは、洋の東西を問わないことになります。死後の世界の救済は、庶民にとっても更に有難い話で、どの宗教も結局この考えを採用するようになります。

庶民も救済の対象にすると、宗教は『形式・儀式』を重視することになり、逆に自ら努力をする人だけを救済の対象とすると『修行』を重視することになります。結局、庶民を救済するために、一部の人が修行を積んで聖職者になるという形式に、ほとんどの宗教が落ち着くことになるのではないでしょうか。

『仏教』は何故インドから東(東南アジア、東アジア)にだけ布教が進み、西(中東やヨーロッパ)には布教が進まなかったのであろうかなどという基本的な疑問が梅爺にはまだありますが、こんな調子で『仏教論』を書いていると、いつまでも続くことになりそうなので、ひとまず今回はここまでとします。

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2011年8月25日 (木)

畏れ知らずの仏教論(7)

どの宗教も、次第に『考え方の違い』が露見して、枝分かれし新しい宗派が生まれます。そして、どの宗派が『正統』なのかを巡って、抗争が起き、時には『自分以外は異端』と決めつけて、殺し合いにまで発展します。しかし『仏教』に限っては、そのようなことはないと、よく言われますが、本当にそうなのかどうか、『仏教』の歴史に疎い梅爺には、即断ができません。

確かに釈迦の『原始仏教』は、『自分の中にある仏性を大切にしなさい』と言っているわけですから、あくまでも『自分』の問題で、他人に干渉することは起きにくいようにも見えます。その後『曼荼羅』や、『如来』『菩薩』『明王』『天部』など、数え切れないほどの『仏』に枝分かれしてしまいましたので、自分の好きな『仏』を、選り取り見取りで選ぶことが可能になり、他人が自分と異なった『仏』を拝んでいても気にならないとしても肯けます。特に日本人は、元々『八百万の神々』を認める、『一神教』とは異なった精神基盤ですので、他人が何を拝もうと、不自然とは思わなかったのでしょう。

こう考えると、確かに『仏教』は、『異端抗争』が起きにくいのかもしれません。しかし、仏教が政治権力と結びついたり、権力者への反逆する集団になった場合は、弾圧、殺戮の対象になりました。織田信長の一向宗弾圧などが有名です。寺側も、『僧兵』などで防御対抗しますので、『仏教』は血なまぐさくないとは必ずしも言えません。

人類の歴史の大部分の時代は、宗教は『権力機構』と結びついたものでした。権力者は、宗教を利用して民衆を治めようとしましたし、宗教も、権力者の庇護の下で、繁栄と安泰を求めようとしてきました。しかし、権力と宗教の結びつきは、弊害も大きく、特に宗教が、権力を振りかざす階層組織になったり、堕落、腐敗するきっかけになってきました。政治と宗教を分離するという考え方は、近世以降の発想ですが、実態は今でも政治と宗教は完全に分離できているとは言えません。

ロシアのプーチンは、『ロシア正教』を利用して『愛国心』を国民へ求めていますし、宗教の最高指導者の同意がなければ、国の方針が決まらない中東のイスラム教国家もあります。政教分離を憲法でうたっているアメリカも、何かあるごとに大統領は『アメリカに神の御加護を』と唱えます。中国にとって、チベット支配の邪魔になる存在が、インドへ亡命しているダライラマです。日本の政党『公明党』は、『創価学会』が基盤であることは誰もが知っています。聖職者は『霞を食べて生きていける』わけではなく、宗教も、政治、経済と無関係には存続できないことは明白ですが、どのようなバランスを保つべきかは、易しい判断ではありません。

現在の日本の『仏教』の多くが、『人々の苦悩を救済する』という本来の目的より、葬式、法事、戒名発行の時だけ人々が利用する対象になっていることを憂いる人が沢山いますが、梅爺のような部外者が想像しても、現代社会において『仏教』を信仰中心の本来の組織へ変貌させることは、容易ではないように思えます。

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2011年8月24日 (水)

畏れ知らずの仏教論(6)

釈迦は、『この世の生きる苦しみを超越するにはどうすればよいのか』を、理性で考え続けた哲学者のように梅爺には見えます。『先ず仏ありき』から開始したのではなく、苦しい修行や瞑想の末に、自分の中にある『仏性』という重要な抽象概念を見出したことになります。他の宗教が『先ず神ありき』を前提としていることと大きく異なるように思えます。釈迦の思考は、ギリシャの哲学者にも劣らない素晴らしいもので、梅爺は感服してしまいます。

たとえば、釈迦が菩提樹の下で瞑想し得た『この世の真理』は、『縁起(えんぎ)』で、これは『いかなるものも独立しては存在しない。常に他のものと相互に関係をもっている。そしてその時々の環境条件で変わり続けていく(諸行無常である)』と定義、説明されています。この考えは、『自然の摂理』には『動的平衡』が関与していると説く分子生物学者の福岡伸一先生や、『自律分散処理』が関与していると勝手な主張をしている不肖梅爺と『まったく同じ』ことを言っているように思えます。2500年前に、既に『自然の摂理の真髄』を見抜いていたことになります。

さらに、人間が『苦しむ』原因は、『無明(無知、迷い)』で、それゆえに物事に『愛(愛憎の念)』をもち、固定的な考えに『取(執着)』するからだと、喝破しています。ここで云う『愛』は、西欧文化の『愛』とは必ずしも同じ意味ではないように感じます。こういう人間の習性は、脳の生物進化過程を考えれば、説明がつくと小賢しく論じている梅爺の考えとこれも類似しています。生物進化論などが、存在しない時代に、自らの理性だけで人間の習性の本質を見抜いていることに驚きます。何よりも、思考プロセスが論理的であり、哲学的ですから、梅爺は何の違和感も覚えません。

釈迦はこれらの考えを進めて、この世の4つの真理『四諦(苦諦:くたい)(集諦:じったい)(道諦:どうたい)(滅諦:めったい)』を導き出し、『苦』を消滅させるために、八つの方法『八正道(はっしょうどう)』を実践する必要があると説きます。

(1) 正見(しょうけん)      ;正しくものを見る
(2) 正思惟(しょうしゆい)   :正しく思索する
(3) 正語(しょうご)       :正しく言葉を使う
(4) 正業(しょうぎょう)     :正しく生きる
(5) 正命(しょうみょう)     :正しく暮らす
(6) 正精進(しょうしょうじん)  :正しく努力する
(7) 正念(しょうねん)      ;正しく理想を掲げる
(8) 正定(しょうじょう)      :正しく精神統一する

ここまで来ると、さすがの梅爺も、『おっしゃるとおりですが、私にはとても実践できません』と及び腰になります。しかし『完全は期待しないから、すくなくとも、これを念頭に置いて生きなさい』ということなら、『仰せのとおりに』と従いたくなります。釈迦の思考は、分類を用いた本質を提示する推論の常道であることがわかります。

このような釈迦の簡素で普遍的な教えが、仏教の布教過程で、なぜ『曼荼羅の宇宙観』のような複雑なものに変貌していったのかは、興味がありますが、一言でいえば、土着の呪術や宗教と結びついて『あの世(死後の世界)』の話を持ちこんだ結果ではないかと思います。キリスト教が、『キリストの教え』だけにとどまらず、ユダヤ教の聖典を旧約聖書として取り込んだために、『三位一体の神』やら『天地創造』やらと、苦しい説明を強いられるのと似ているのかもしれません。人間は『死後の世界』を保証してもらわないと、安心して死ねないのでしょうか。死後にまで『安泰』を願うほど強欲なのでしょうか。

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2011年8月23日 (火)

畏れ知らずの仏教論(5)

釈迦の教えが根本にあるとは言え、現在の『仏教』の宗派の説く教義や仏の世界は、多様に枝分かれしてしまっていて、とても一つの宗教として分類できないほどになってしまっています。仏教の歴史や知識に疎い梅爺は、『仏教』は一つの宗教体系であると思い込んでいたために、理解が進まなかったような気がします。

奈良時代に日本へもたらされた当時の『仏教』は、当然『中国の仏教』の模倣でしたが、やがて中国で勉強をして帰国した、空海(真言宗)、最澄(天台宗)が『開祖』となって新しい宗派が生まれ、その後の平安、鎌倉時代にも、日本人の『開祖』が次々に新しい宗派を開き、中には、日本に昔からあった土着の信仰形式をとりこむもの(修験道のような)もあらわれて、『仏教』は『日本の仏教』になっていったといえるのではないでしょうか。

当初日本へもたらされた『中国の仏教』でさえも、釈迦の説いた『原始仏教』とは、かなり異なったものになってしまっていたはずです。布教の過程で、ヒンズー教や、土着の呪術的な信仰とも結びついていたものが中国へ入り、さらに中国では中国の思想や土着の宗教とも結びついて変貌をとげていたにちがいありません。

したがって現在世界の各地に存在する『仏教』は、『インドの仏教』『チベットの仏教』『タイの仏教』『中国の仏教』『日本の仏教』と異なった様式の宗教になっていると考えたほうが、理解しやすく実態に即しているように思います。

梅爺のつたない知識で、間違っているかもしれませんが、梅爺には釈迦の説いた『原始仏教』の教えが、最も受け入れやすいと感じます。釈迦は、『この世』で、生きる苦しみにどう立ち向かうかを、哲学的に深く理性で考えた人として共感できることが沢山あるからです。『西方十万億土の極楽浄土の主、阿弥陀如来』やら『東方浄瑠璃世界の主、薬師如来』などという『あの世』にかかわる話は、後の『仏教』が土着の宗教と結びつき『密教』『大乗仏教』の思想になっていく過程で、付け加えられていった話で、釈迦が語ったものではありません。

『この世』の生き方を中心に説いた釈迦の教えは、単純でありながら奥深いものですが、その後の仏教は、あまりに雑多な世界を取り込んだために、反って分かりにくくなってしまった、というのが梅爺の率直な感想です。仏教の世界に、もう一度原点の『釈迦の教え』に立ち戻ろうという動きがあるのかどうか、梅爺は知りませんが、そういう考え方があっても良いように思います。

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2011年8月22日 (月)

畏れ知らずの仏教論(4)

『神や仏の教えは正しく、それを表現した開祖の言葉や聖典の内容は正しい』という『命題』を、『理』の世界で観て、論理的に『真』か『偽』かと論ずることには無理があります。したがって、宗教の出発点はこれを『正しい』と信ずることから始まります。世の中には、『理』だけで正しいとすることがきないことは沢山ありますから、人間は『信ずる』という行為を必要とします。そうしないと前に進めないからです。

純粋に、『開祖の教え』だけを『信ずる』行為が継承されれば、宗教における宗派の枝分かれなどは生じないはずですが、現実に宗派が分かれていくということは、『信ずる』という『理』を排除した行為で最初は対応した内容に、その後、関係者が『理』による批判、修正を加えたことを意味します。

人間の脳は、『理』だけでも、『情』だけでも生きていけないようにできていることを端的に示しているのではないでしょうか。『無条件に信じている』はずなのに、いつのまにか『このように変更したい』と自己主張して、新しい宗派が生まれます。宗教という、高度な精神世界を扱う世界も、この『信じ、疑う』という人間の『性(さが)』の影響を受けることになります。

『理』だけで論ずることができる世界は、誰もが『同じ理解』に到達できますが、少なくとも『情』が絡む事象については、各人が異なったレベルで感じ取っていることになりますから、『同じ考えを共有できているかどうか』は確かめようがありません。同じ音楽を聴いて、二人の人間がともに『感動した』と云ったとしても、『感動の対象やレベル』が同じであるとは限りません。しかし、私たちは多くの場合、『感動が共有できた』と勘違い(錯覚)します。

仏教の高僧が『悟りを拓いた』と云ったとしても、『到底悟りは拓けない』と感じている梅爺には、追体験のしようがありません。抽象概念を対象とする宗教や芸術の世界では、自分が会得した『感覚』は、自分にとって意味があるだけで、自分の『感覚』を『正しい』として、他人に強要したりはできません。

マクロに、他人と似た『感覚』を共有できるとは言えても、ミクロには『感覚』は異なっていることを理解することが大切です。所詮自分だけが頼りの、宗教や芸術の世界でも、人間は本能的に他人との『絆の共有』を求めようとするという矛盾を抱えているように思います。『絆は幻』と『理』では分かったとしても、それを欲する気持ちは排除できません。人間の脳がそのような仕組みにできていると言ってしまえばそれまでですが、人間は何とも『厄介な生きもの』であることをあらためて痛感します。

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2011年8月21日 (日)

畏れ知らずの仏教論(3)

70年もこの世に生きてきた梅爺が、『仏教』の本質を理解していないのは、梅爺の努力が足りないことは確かですが、『仏教』側にも問題があるのではないかと感じています。現在の日本には、『13宗56派』の『仏教』があると言われています。日本だけでこの数ですから、世界にはもっと多くの宗派があることになります。同じ釈迦の教えから派生したとは言え、これだけ色々な『仏教』があると、何が何だか分からなくなり、理解しようと言う気持ちも萎えてしまうのは、やむを得ないのではないでしょうか。『選(よ)り取り見取り』は人間にとって、必ずしもハッピーなものではないことが分かります。

『キリスト教』も、『カトリック』『正教(オーソドックス)』『プロテスタント』と枝分かれしていて、『プロテスタント』も沢山の派に分かれていますから、同様であると言えますが、まだ『聖書』という根っこの部分を共有していることで、辛うじて一体感があるように感じます。『仏教』にも『経典』があるではないかということになりますが、布教の過程であまりにも膨大な量に増えてしまっていて、とても凡人には全貌を掌握できません。

どの宗教も、『開祖』の教えが、純粋に継承されずに、次々に枝分かれしていくのは、人間の脳(脳神経のネットワーク)が各人異なっており、『私はそうは思わない』という人間が必ず出現するからなのでしょう。科学のように、反駁できない『事実』では、『真』か『偽』かの白黒をつけることができますが、宗教の世界は『信ずる』という行為に立脚していますので、逆にいえば白黒の決着はつけ難いことになり、『私はそうは思わない』という人間が出現するのは当然と言えます。一方人間の脳は、『他人と同じように考えていれば安泰である』という『安泰希求の本能』もあり、実に複雑です。人間は、他人の色に『染まりたい』と『染まりたくない』という矛盾した本能を両方保有しているように見えます。

アメリカのユタ州、ソルトレーク・シティは『モルモン教(キリスト教の新宗派)』の総本山があり、ほとんどの住民がモルモン教徒であると言われています。個人主義が強いと言われているアメリカ人の社会が、『モルモン教』一色に染まってしまうことは梅爺にとっては興味深いことです。

日本でも、『仏教』の宗派の総本山がどこにあるかで、その地域でその宗派の勢力が強い現象がありますから、人間社会は『一色』になり易いという傾向のほうが強いのかもしれません。群(むれ)をなすことで生存の可能性を高めてきた人間と言う生物が、『絆を安泰の要素とする』のは当然で、これが『一色』を好む背景要素ではないかと梅爺は推測します。

しかし、『一色』は、場合によっては『安泰』にとっては危険な要因でもあり、変化への対応のために、新しいことへ挑戦しないと生き残れない場合もあります。『保守』と『革新』は、対立概念でもありますが、人間には両方の対応能力が必要になります。少し前に『誰がチーズを動かしたのか?』という大人のための童話がベストセラーになりましたが、内容は『保守』と『革新』のバランスを論じたものでした。

宗教が枝分かれしていく背景には、『従来のままでは飽き足らない。新しいことを云いだしたくなる』という人間の習性が働いているように見えます。釈迦は草葉の陰で、『わしは、そのようなことは云っておらんぞ』と嘆いているかもしれません。

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2011年8月20日 (土)

畏れ知らずの仏教論(2)

『仏教』は、『宗教』であるという定義に異を唱える方もおられます。つまり『仏教』は、『釈迦』が人間の本質を哲学的に思索したもので、『哲学』とは言えても、『宗教』とは言えないと言う主張です。『宗教』は、宇宙空間のどこかに『神または神々』という絶対的な存在を肯定する(信ずる)ものと定義すれば、釈迦の教え(原始仏教)は、確かに少し趣が異なります。

釈迦は、何不自由のないインドの王国の王子として育ち、結婚もして子供にも恵まれながら、人間は『病、老い、死』から逃れられず、『この世は地獄で、生きることは苦しみである』であると感じて、全てを捨てて『出家』し、修行や瞑想を重ねて、ついに『苦しみ』を超越するには、人間の心に巣食う『煩悩』から『解脱(げだつ)』する必要があることを悟ったと伝えられています。『悟りの境地』と言われる『煩悩』からの『解脱』は、自分の中の仏性と一体化する(仏になる)ことだと釈迦は悟り、自らそれを実現した特別の『人間』ということになります。特別の『人間』ではありますが、『人間』であることには違いがありませんので、やがて弟子たちに惜しまれながら『入滅(死を迎える)』することになります。

釈迦は、人間は誰も『煩悩』と『仏性』を内に抱えているとして、『煩悩』を排除して『仏性』と一つになることを、『悟る(仏になる)』ことだと説いたことになります。他の多くの宗教では、『神(または神々)』は、人間とは別の存在で、『人間は神にはなれない』という前提で教えが成り立っていますが、釈迦は、『誰もが自分の中の仏性と一体化できる(仏になる)可能性がある』と説いたわけですから、これは大きな違いで、この違いをもって『仏教』は、『哲学的思想』とは言えても、『宗教』とは言えないというのなら、一理があるように思います。いかに『煩悩』を『解脱』しようとするかが問題(目的)で、結果として『解脱』できれば『仏になれる』といっているように梅爺には見えます。つまりたとえ『解脱』できなくても、その努力には意味があるということになります。

梅爺にも、釈迦は偉大な『哲学者』であるように見えます。今風に云いかえれば『煩悩』は『邪悪な心』で、『仏性』は『善良な心』ということになり、何故人間にはこの両方の心が宿るのかは、梅爺は何度もブログに書いてきました。人間は『邪悪』『善良』という『抽象概念』を考え出して、区分けできるようになりましたが、本来人間は生物として、生き残りのためなら『どんな行為も辞さない』習性を秘めている(本能として持っている)ためにであろうと推察しています。人間だけが『邪悪』『善良』という区分を作り出せる能力を持っていると云いかえることもできます。『邪悪』を排除して『善良』だけの存在に人間はなれるのかどうかは別として、人間は、生物として『邪悪』と『善良』という矛盾するものを内面に持つ存在であるように宿命付けられていますから、少なくとも『出来るだけ邪悪を排除して、善良に従って生きなさい』という教えなら、梅爺は全く異存がありません。

『生物進化』や『脳の進化』に関する科学知識を持っている梅爺なので、このような分析ができますが、釈迦の時代には、それがありませんので、得体のしれない『煩悩』を克服するために、釈迦は悪戦苦闘したことになります。

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2011年8月19日 (金)

畏れ知らずの仏教論(1)

梅爺は、ブログの中で、何回も『神』や『仏』を話題にしてきました。それ以前は、ほとんど無関心に過ごしてきた対象に、どうしてこのようにしつこくこだわるのかは、我ながら不思議で、ブログを書くことで、発見した『自分の一面』です。

もっとも、梅爺の興味の対象は、『神や仏の教え』や『教義の体系』では必ずしもなく、『何故人間は、神や仏という概念を生みだすのか』『何故人間社会は、宗教を必要とするのか』というような基本的な疑問が中心ですから、なんとも畏れ知らずの話です。

云いかえれば、『自然界には神や仏は存在しない』という『命題』は、『真』であろうと推定していて、『神や仏(と言う概念)』『宗教(教義)体系』は、全て『人間(の脳)が創造したもの』と考えると、自分なりに得心がいくことが多いと考えているということになります。益々もって畏れ多い話です。

現生人類のどの人種、部族も歴史をたどれば、『神や仏の概念』『宗教体系』を保有していることから、『人間の脳は、必ず神や仏の概念、宗教体系を生みだすようにできている』と考えています。生物進化の過程のなかで、いつの時点からかそのような遺伝子を継承するようになったのであろうと推測しています。信仰に厚い方は、『神や仏が本当に存在するから、人間がそれを見出したのだ』と反論があることは承知していますが、梅爺はそうではなく、『人間の優れた推論能力が、神や仏と言う概念や、宗教体系を生みだした』と考えています。『神や仏』は、『愛』『正義』『平和』といった抽象概念と同様で、人間社会にのみ通用する概念で、もし人類が地球上からいなくなれば、これらすべては存在しなくなると考えています。

自然界は冷徹な『自然の摂理』で変容を繰り返していますが、そこには絶対的な『神や仏』『愛』『正義』『平和』などという実態は存在しないと考えた方が、色々なことが理に適っているように見えます。

梅爺は、これら人間が作り出した『抽象概念』は無意味であると主張しているわけではありません。むしろ人間社会にとっては、極めて重要なもので、人間社会の維持、存続に必要であるが故に生みだされたと考えています。ただ、人間の脳の中にある『概念』であるから、自然界にも存在すると敷衍(ふえん)して考えることに無理があると思っています。

『キリスト教』については、なけなしの知識で、色々な感想をブログに書いてきましたが、日本人として身近であるはずの『仏教』については、ほとんど知識を持ち合わせていないことを痛感し始めました。そこで、無知を承知で『畏れ知らずの仏教論』を書いてみようと思い立ちました。支離滅裂になりそうな予感がしますが、そういうことを繰り返し、よくご存知の方々からのご批判も受けながら自分なりに少しづつ理解が深まればよいという前提です。

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2011年8月18日 (木)

不都合な真実(3)

世の中は、関係者が主観的に『不都合』と感ずる真実(事象)で満ちています。日本人にとっては、『国家財政が破綻の危機にある』『少子、高齢化社会へ向かっている』『頼もしい政治リーダーが見当たらない』『国民の多くが異文化との共存に不慣れである』『日本の不動産を中国マネーが買い漁っている』などがこれにあたります。

しかし、アメリカ人は、これら『日本人にとっての不都合』を、それほど切実な『不都合』と感じていないに違いありません。しかし、アメリカ人にはアメリカ人の『不都合な真実』が沢山あるはずです。個人レベルで、誰もが『不都合な真実』を抱えているように、どの国家も、その国家の『不都合な真実』を常に抱えています。

勿論、『人類共通』の『不都合な真実』も沢山あります。人類の行動が引き金になっているかもしれない『地球環境の変化』や、人類を絶滅しても余りあるあるだけの『核兵器』を所有していることなどはその代表です。人類の能力では制御できない、『氷河期サイクルへの突入』『地殻移動による大地震の発生』『小惑星(大きな隕石)との衝突』などは、『正確に発生時期を予測できないだけで、いつ起きてもおかしくないこと』と考えられています。

未だ起きていないことを『真実』と言って脅かすのはやめろとお叱りをうけそうなので、『既に起きている』ことの例を挙げれば、『東日本大震災』は勿論のこと、『現生人類の男性のY染色体がドンドン痩せ細っている』などがそれにあたります。このまま推移すれば、現生人類の『生殖機能』は危機に瀕することは目に見えています。

これは別に『女性が強くなって、男性が弱体化した』からでも、『人間の罪を神が罰している』からでもありません。生物進化の過程で、哺乳類が選択した両性に依る生殖という方式の『避けがたい欠陥』に過ぎません。魚類の中には、都合よく『性転換』できる能力を、進化の過程で獲得した種もありますが、哺乳類には見当たりません。男の子は父親のY染色体を受け継いでいきますが、ある確率でコピーミスが発生し、劣化する危険をはらんでいます。X染色体にも同じことが起きますが、こちらは両親のX染色体2本を比較して、コピーミスの修復が可能です。Y染色体は父親のものしかありませんので、比較修復ができないという仕組みになっているということです。コピーミスが起きる確率は低いのですが、それが何万年も繰り返されると、『顕著な劣化』になってしまい現在にいたっています。人工的にY染色体の、劣化を防ぐ科学的な方法は、未だ見つかっていません。

『不都合な真実』は、生物種を絶滅に追いやることもあれば、『進化』を引き起こす引き金にもなります。人間が、ストレスで参ってしまうこともあれば、ストレスをバネにして、大きく成長することもあるという話に通じます。わけ知り顔に『人類の将来は暗い』というのが、梅爺の本意ではありません。自然界は人間にとって直視せざるを得ない『不都合な真実』を包含しているとだけ言いたいだけで、生きる努力が無意味であるなどと言うつもりはありません。この『不都合な真実』は、『理』で解消方法をみつける可能性は残されていますが、人間の『願い』や『祈り』といった『情』では残念ながら解消できません。しかし、『情』は本能ですから、人は切羽詰まれば『願い』『祈る』ようにできています。人間の脳のしくみは実に厄介です。

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2011年8月17日 (水)

不都合な真実(2)

宇宙の創生から今日に至る過程、生命の創生から今日に至る過程に関して、人類は多くの『知識』を獲得しましたが、それは、ごく最近のことです。現生人類の歴史(17万年)を1年間に例えれば、知識を獲得したのは、大晦日の夜の、翌年を迎える数時間前(3~5時間程度)に過ぎまません。同じ時間軸で、旧約聖書が書かれた時点(3000年前と仮定)をプロットしてみると、12月25日頃となります。つまり『天地や人間は、全知全能の一人の神が創った』という考え方でさえも、大半の現生人類は、持ち合わせていなかった期間のほうが永いことが分かります。

人間は、一度信じたことを、マチガイと認め、新しい事実を受け容れることが容易ではないようにできています。認めたくないという『情』が強く働くからです。理屈屋の梅爺も、この習性に悩まされ続けて生きてきました。少しはしたない言い方をお許しいただければ、政治や宗教は、この人間の習性を、洗脳という手法でうまく利用してきたのではないでしょうか。『断定的な主張を繰り返せば、たとえそれが嘘でも、民衆は信ずるようになる』と豪語したナチスのゲッベルスのような人間は言語道断にしても、『自信たっぷりに話す人』に出会うと、『そうかもしれない』と人は思い始めます。特に自分の中に『判断の基準』ができていない場合は、そうなりがちです。

昔の人にとっては、『天地や人間は神が創造した』と教えられれば、反論する知識を持ち合わせていない以上、信ずるのは当然のことです。梅爺は、このような反論が難しい『考え方』を思いついた人間の能力に感服します。旧約聖書の著者も、民衆(ユダヤ人の同胞)を騙(だま)そうと言う魂胆はなく、自分の理性で推論した『考え方』を、自分でも『信じていた』に違いないと思います。

しかし、少なくとも、理性で説明ができ、納得もできる『知識』を獲得したら、それを最大限に利用して、次なる『知識』を獲得するステップへ向かう方が、『より人間らしい行動』ではないかと、梅爺は思います。文明は、それで進展してきたからです。ただし、新しい『知識』は、人間の『情』にとって『不都合な真実』である場合も存在することを覚悟する必要があります。

科学がもたらす新しい『知識』は、それ自体は峻厳な事実に過ぎず『不都合』な存在ではありませんが、人間にとっては『不都合』なこともあるに違いないということです。物理学の知識は『不都合』ではありませんが、それを応用した『核兵器』は『不都合』です。放射能は自然界では『不都合』な存在ではありませんが、生物にとっては『不都合』なものです。人間は自分を『安泰』に保とうとする、『情』や本能を持っていて、新しい『知識』が、これを脅かすことがあるに過ぎません。

現生人類は、次々に襲いかかる『安泰』を脅かす『不都合』な環境や状況を回避したり、克服したりして生き延びてきたわけですから、これからも、そうであり続ける必要があるのではないでしょうか。『安泰』を脅かす要因が存在しない『平和な状況』の持続を、人間の『情』は特に希求しますが、残念ながら、それは人間の頭の中にだけ存在する世界で、現実には存在しないのではないでしょうか。自然現象である天災の発生や、個人に待ち受けている『老い』『病気』『死』を考えても、そうであろうと推察できます。『不都合』であっても、『安泰』を脅かす要因との、絶え間ない『闘い』が、人間が生きているということの証左なのではないでしょうか。

『誰もが安心して暮らせる平和な社会実現』などという、政治スローガンは、梅爺にはしらじらしく思えます。

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2011年8月16日 (火)

不都合な真実(1)

数年前、元アメリカ副大統領のアル・ゴアが編纂した『不都合な真実(Inconvenient Truth)』という著書や、それをドキュメンタリー風に映像化した映画が話題になりました。地球温暖化に警鐘を鳴らした内容で、アル・ゴアはこれでノーベル平和賞を受賞しました。

人が『不都合』という言葉を使う時には、『私にとって、我々にとって、日本人にとって、人類にとって』という意味が暗黙のうちに含まれています。『地球温暖化』は『人類にとって不都合』ですが、『灼熱の時代』『氷に覆われた時代』を経てきた地球にとっては、平均気温が数度上昇することは、特別『不都合』なことではありません。

アル・ゴアもこの程度のことは承知の上でしょうから、彼の言いたいことは、『今度の地球温暖化は、自然現象だけではなく、その原因に人類の所業が関与しているからからこそ罪深いのですよ』ということでしょう。

『そうだ、そうだ。私もそうではないかと思っていた』と相槌を打ってみても、自分もその所業に加担している一員である以上、他人事(ひとごと)のように、『人類を非難』するだけでは済まされません。天に唾することになるからです。

人類にとって『不都合な真実』は、『地球温暖化』だけではありません。『人間は、神が神に似せて創ってくださったもの』という考え方は真実ではなく、『人間は、数十億年かけて、単細胞生物から生物進化した生物種の一種』という科学が明らかにした『真実』も私たちを戸惑わせます。

戸惑う原因は、現生人類が現在までに進化してきたプロセスや、進化の引き金になった要因を知ると、それは『死や絶滅に対する恐怖』と『偶然の幸運』に支配されていて、裏側に『愛』や『善』といった『聖なる意図』、つまり『神の存在』は感じられないからです.。

地球上に出現した『生命の灯』を、一度も絶やすことなく脈々と継承してきた結果、現生人類が存在すると観れば、『神の御恵み』に他ならないと言いたくなりますが、生物進化は、『過酷な環境変化に、突然変異という偶然の幸運で対応し、乗り切ってきた結果』ですから、乗り切ってきた生物種の末裔の私たちは、『神の御恵み』として感謝できますが、その背景で、膨大な数の生物種が死滅し、絶滅していったことを考えると、それらの生物種には『神の御恵み』は無かったということになってしまいます。神は、公平で、全てに愛を注いでくださる存在と考えれば、これは説明がつきません。現生人類だけが、神に愛される存在であるというのは、『都合のよい解釈』すぎるような気がします。

たとえば、6500万年前に、メキシコのユカタン半島に大きな隕石が落下しなければ、恐竜は絶滅することがなく(厳密には絶滅していない。鳥類は恐竜の子孫という説が現在有力ですが)、恐竜が絶滅しなければ、その後の哺乳類の隆盛はなく、哺乳類が有袋類と有胎盤類に分化しなければ、サルは出現せず、サルが出現しなければヒトは出現せず、ヒトの脳が発達進化しなければ、現生人類のような『理』と『情』を操る生物種は出現しなかったことになります。『偶然の幸運』の連続が私たちを出現させたとしか言いようがありません。ということは、歴史を巻き戻して、ある時点から時間を再度進めても、再び地球上に人間が出現するとは限らないということになります。そんなあやふやなシナリオが、『神のシナリオ』であるとは思えません。

ヒトは、他の生物の餌食になったり、自然環境の変化で、何度も絶滅の危機にさらされ、多くの種は本当に絶滅しましたが、幸運な突然変異で何とか切り抜けた最後の種の一つが、現生人類へと『生命の灯』を継承してくれたことになります。

自然の摂理の基本は、抽象的、主観的な価値観が混入しえない『動的平衡』であり、そこに『偶然の幸運』が積み重ねられて私たちは存在しているというのが、梅爺の基本認識です。その自然の摂理を創り出しているものこそが『神』であるという定義ならば、反論はできませんが、少なくとも宗教の教義が定義する『神』は、人間にとって『都合が良い』想像の産物で、『不都合な真実』とは無縁なもののように感じられます。『不都合な真実』にも、人間の理解を越えた『神の意図』が関与しているなどという説明は、『理』では受け容れがたいものです。

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2011年8月15日 (月)

Steve Berry『カール大帝追跡』(6)

スティーブ・ベリーという歴史ミステリー作家は、読者を虜にする職人技とも言える才能の持ち主で、ダン・ブラウンとともに現代アメリカを代表する人気作家です。歴史的事実とフィクションを組み合わせですから、読者は荒唐無稽とは知りながら、『でもそういうことはあるかもしれない』と、つい乗せられてしまいます。適切な表現ではないかもしれませんが、『ウソ』と『ホント』の話を混ぜ合わせて『ホントらしい』話をでっち上げる『稀代の詐欺師』のようなものです。二人とも読者の好奇心や野次馬根性をくすぐる点では共通ですが、梅爺はどちらかと言えば、スティーブ・ベリーの『話題の提示内容』『文体』が好きです。

スティーブ・ベリーの場合は、『アレキサンダー大王の墓』『テンプル騎士団の謎』『銃殺されたロシアロマノフ王朝最後の皇帝一家の悲劇(王女アナスターシアの謎)』『スペイン、クロアチアの寒村で起きたマリヤ降臨の奇跡』『サンクトペテスブルクの宮殿から消えた琥珀の間の謎』と、1作ごとに、全く異なった『話題』をとりあげますので、その博識にまず驚いてしまいます。事前の下調べだけでも、大変な労力であろうと、つまらぬことまで考えてしまいます。

アメリカの読者を前提にしていますので、アメリカ人の主人公が活躍し、活躍の舞台も、ヨーロッパだけではなく必ずアメリカも登場するように仕組まれています。妙齢な美女も登場させるというサービスも怠りません。

今回の『カール大帝追跡』では、南極大陸での『超古代文明の遺跡』発見という大団円へ向けて、登場人物たちは、ドイツ、アメリカを舞台に、ハラハラドキドキの活躍を展開します。過去の『ナチスドイツによるアーリア人種の祖先を探索(史実)』や『アメリカの秘密工作に使われた小型原子力潜水艦失踪の謎(フィクション)』が巧みに物語へ組み込まれ、自分の出世や欲得のためなら、殺人も辞さない悪徳軍人や政治家、それに雇われる『証拠を残さないプロの殺し屋』が、これでもかこれでもかと物語を盛り上げていきます。複数の同時進行の別々の話が、一つに結びついていくという表現手法も、スティーブ・ベリーの特徴です。

梅爺は、物語の面白さよりも、主題として選ばれた『超古代文明は存在したのか』という謎に惹かれて、この本を読みました。『超古代文明』は、考古学の定説としては認められていませんが、梅爺は無責任に、そのうちとんでもない『証拠』が発見されて、人類の歴史が書きかえられることがあるかもしれないと密かに期待しています。まさしく『好奇心』『野次馬根性』のかたまりの読者ですから、スティーブ・ベリーのような作家の術中にかかれば、ひとたまりもありません。

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2011年8月14日 (日)

Steve Berry『カール大帝追跡』(5)

ナチスドイツは、『純粋なドイツ人種は、多民族より優秀である。なぜならば、アーリア人種の血統を一番強く受け継いでいるからである』という、根拠のない身勝手な論理を主張しました。何をもって『純粋なドイツ人種』『アーリア人種』と定義するのかも曖昧(あいまい)な上に『アーリア人種は優秀な人種』という科学的な根拠もありません。自分だけが優秀であると勝手に思い込むだけならまだしも、『ユダヤ人は悪魔の血を引く民族』と、これまた勝手な比較論理を主張し、600万人ものユダヤ人をホロコーストで死へと追いやりました。人類史上、国家が犯した最悪の犯罪行為で、『理性の歯止めがかからなくなった人間の集団は、これほどまでひどいことになる』という実例を歴史に残してしまったことになります。

『ドイツ人はアーリア人種の血を引いていて優秀』という考え方は、音楽家のワーグナーも信奉していたと言われていますから、ナチスは、その考え方を利用したことになります。現在では学術的に『アーリア人種』というものの存在は、必ずしも認められていません。元々『インド・ヨーロッパ語圏』の言葉は、同じ根元から枝分かれしたという言語学の学説が存在し、それがいつのまにか最初の根元の言語を話してたのは、白人の『アーリア人種』であるという話にすり替わり、『アーリア人種は他の人種より優秀』という尾ひれがついたに過ぎません。ヨーロッパ系白人種の中に、『自分たちは、黒人種や黄色人種より優れており、人類の文明の牽引をしてきた』という、優越感があり、『アーリア人種』説を受け容れ易い土壌があったのでしょう。

『カール大帝追跡』という小説では、カール大帝の墓から、謎の記号のような文字で書かれた古文書がみつかり、これは『超古代文明の存在を示すもので、これこそがアーリア人が残したものだ』とナチスが飛びつき、調査をしていたということになっています。この話が実話かどうかはともかく、ナチスが『アーリア人種の証拠』を探していたであろうことは推測できます。

この小説の時代設定は現代で、ナチスの『アーリア人種調査』にかかわっていた人の孫達(ドイツ人の姉妹)が、主要な役柄で登場します。これに、いつもの通りアメリカ人の秘密工作エージェントや、出世野心に燃えるアメリカ海軍の将軍(黒人)や、ついにはアメリカ大統領まで登場し、ハラハラドキドキの物語が展開します。『梅爺閑話』では『超古代文明』の話題に絞りたいと思いますので、この小説のストーリー紹介は最小限にとどめるつもりです。

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2011年8月13日 (土)

Steve Berry『カール大帝追跡』(4)

『超古代文明』の存在を主張する人達は、何故その痕跡が発見されないのかの理由について、『氷河期以前の沿岸部の大半は、現在海中に没しているため』と述べています。更に、『南極大陸を発掘すれば、遺跡がみつかるはず(南極が氷床に覆われる以前に、その地に文明があったと言う前提)』と言っています。確かに、考古学の調査が海底に及んでいる度合は少なく、南極大陸にいたっては、厚い氷床の下の大地に関する科学的な探索は、ほとんどなされていませんから、『そこには、きっと何かがある』と言われても、反論のしようがありません。

『超古代文明』の存在を、間接的に証明するために、よく引き合いにだされるのが、『世界地図の古地図』と、世界各地の民族に語り継がれてきた『海を渡って船でやってくる白い神々』の伝説です。

有名な古地図は、『ピリ・レイスの世界地図』で、16世紀のオスマントルコで作成されたものですが、そこに『南極大陸』が描かれていて、その地形は、現代科学が探索で突き止めた、氷床の下の『南極大陸』の地形と類似しているということで話題になりました。『南極大陸』へ現生人類が到達したのは、19世紀になってからであり、16世紀では、『誰も知らないはず』なのに、どうして世界地図に描かれているのだろうということになり、『(南極が氷で覆い尽くされる前の)超古代文明の知恵が伝承されていたいた証拠』という論法につながっていきます。

『ピリ・レイスの世界地図』が、南極大陸以外の部分も、驚異的に正確に描かれているというなら、不思議な話ですが、実際は北米、南米などは杜撰(ずさん)であることから、『南極大陸』は、想像で描かれたもので、地形が実態に似ているのは偶然であるというのが、反論する人達の主張です。エジプトのパピルスやギリシャの文献に、『南極大陸』が描かれている古地図が発見されたというならまだしも、16世紀の『古地図』一枚で『超古代文明の存在』を証明しようというのは、梅爺も無理があるように思います。

世界各地に伝わる『海を渡って船でやってくる白い神々』の伝説も、自分たちよりも優れた文明を持つ他民族との接触があったことをほのめかすものではありますが、これで『超古代文明の存在』が証明されるという論法も飛躍があり過ぎるように感じます。

梅爺は、今のところ『超古代文明』はロマンの対象で、考古学的な『証拠』を見つけるのは難しいであろうと想像しています。

しかし、それではこの小説は成り立ちません。『カール大帝追跡』では、超古代文明を作り上げた人たちが存在し、文字を保有し、数学、天体学、建築学の知識を持ち、遠洋航海術にも長(た)けていたという前提になっています。そして、南極大陸の地下に、彼らが建設した『都市』があり、それが発見されるというストーリーになっています。こう書いてしまうと『荒唐無稽』のようですが、そう思わせない展開にしてしまうのが、スティーブ・ベリーという作家の力量なのです。

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2011年8月12日 (金)

Steve Berry『カール大帝追跡』(3)

地球環境の変化の歴史から『氷河期』は、4~10万年の周期で出現し、始まると1~2万年継続することが分かっています。現生人類の歴史は17万年とすると、数回の『氷河期』を耐え抜いて、現在の私たちが存在していることになります。

『氷河期』は人間の生存にとって過酷な環境ですから、この間の総人口は抑制され、活動の地域も限定されていたと想像できます。しかし、『氷河期』で、現生人類は絶滅することはなかったという『事実』は注目に値します。そして主として『間氷期』を利用して、世界の隅々まで進出し、人口を増やしていったことになります。

最後の『氷河期』が終わったのは約1万年前とすると。私たちは今『間氷期』を享受していることになりますが、数万年単位で将来を予測すれば、この環境がいつまでも続かないことは明白です。70億人に近い総人口に達した現生人類が、豊かな生活を求めて地球の資源を使い果たし、『温暖化』を自ら招きつつあるということで、警告がなされていますが、『氷河期』の再到来は、それどころではないダメージを現生人類へもたらすことになりかねません。『温暖化』のお陰で『氷河期』の到来が遅れるといった楽観論もありますが、因果関係は梅爺にはわかりません。

『氷河期』では、地球の海面の高さが、現在より300メートルも低かったと言われています。このことは、現在島である地形が、近隣の大陸と陸続きであったり、海峡が隔てる距離もずっと短かったりしたことを意味しますから、現生人類が『移動』するには有利であったことになります。現生人類が『氷河期』でも生き抜ける『知恵』を持っていたとすれば、『氷河期』は『移動』のチャンスでもあり、そのことが、獲物を求めて、シベリアからベーリング海峡経由で、現生人類のモンゴロイド(アジア系人種)が北米に渡ったとする説の根拠の一つにもなっています。

『超古代文明』の存在を主張する人たちは、最後の氷河期の前に、つまり今から2.5万年位前に、地球のどこかに、『文明』を作り上げていた人たちが存在していたと信じています。勿論、その場所は限定的であり、『文明』を保有する人口も限定されていたということになり、同時期の他の現生人類は、ほとんど『未開』の生活を送っていたという想定です。

やがて『氷河期』の到来で、『文明』を持っていた人たちも絶滅に瀕しますが、生き残った人たちが、『知恵』を『未開』の人たちの世界へ伝えたと言う推測です。『文明』を伝えた人たちも、『未開』の人たちの中に混血で溶け込んでいったと考えれば、私たちの遺伝子の中の一部に、『超古代文明人』の遺伝子も引き継がれていることになります。

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2011年8月11日 (木)

Steve Berry『カール大帝追跡』(2)

私たち現代人は、人類の歴史上、『私たちが一番賢い』と考え、そこから類推して古代人は『賢いはずがない』と決めつけたがります。古代人の『偉業』や『優れた知恵』に遭遇すると、賢くないはずの古代人が、そのような知恵を持ち、偉業を成し遂げたのは『不思議だ』と考えてしまいます。

しかし、現代人が『賢く』なったのは、『科学知識』が急速に集積し始めてからのことで、2~3百年しか経っていません。地球の歴史、人類種の歴史の永さを考えると、ほんの一瞬にすぎない期間に現生人類は『賢く』なったことになります。

ここで、私たちが勘違いしてはいけないことは、ここ2~3百年間で、現生人類が『生物種として急速に進化した』わけではないということでしょう。少なくとも数千年前、ひょっとすると数万年前の現生人類の『生物種としての基本能力』は、私たちと同様なレベルまで進化していたと考えるのが自然ではないでしょうか。『釈迦』の出現は2500年前、『キリスト』の出現は2000年前です。『釈迦』や『キリスト』は、現代人より総合的に劣っているとは誰も考えません。

『知恵』や『偉業』は、現代人だけの専売特許であると考えるのは思い上がりで、数千年、数万年まえの現生人類の基本能力は、私たちと変らないとして、色々なことを観る必要があります。私たちに出来たことが、古代の人も出来たかもしれない、特別に不思議なことではない、と考えないと、間違いを犯すことになりかねません。

現生人類の祖先は、17万年前にアフリカ中部のサバンナ地帯に出現したというのが、現在の科学的な定説です。17万年の間、地球環境は、今と同じであったわけではありません。特にその間『氷河期』があったことが重要な意味を持っています。何を持って『氷河期』と定義するかは易しくありませんが、最後の『氷河期』が終わったのは1万年前頃という定説を受け入れれば、安定した暮らしが可能な地域が拡大したのは、その後ということになり、『文明』と呼べるものが発祥したのは、5000年位前という『流れ』は妥当と言うことになります。

しかし、仮に最後の『氷河期』の前か最中に、地球のどこかに住んでいた現生人類の一部が、『文明』と呼ばれるレベルを達成していたとすれば、話は変ってきます。『超古代文明』の存在を主張する人たちは、これを信じているわけですが、『超古代文明』が存在したことや、あるいは存在しなかったことを『証明』することは容易ではありません。現時点では決定的な証拠を欠いているからです。

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2011年8月10日 (水)

Steve Berry『カール大帝追跡』(1)

アメリカの歴史ミステリー作家、スティーブ・ベリーの小説は、今までに沢山『梅爺閑話』で紹介してきました。ブログの左側帯にある『カテゴリー』の中の『Steve Berry』をクリックいただければ、それらを参照いただけます。今回は、『The Charlemagne Pursuit』で、直訳すれば『シャルマーニュ大帝追跡』となりますが、『シャルマーニュ大帝』は、日本ではフランク王国の隆盛期を築いた『カール大帝』と呼ばれることが多いので、ブログのタイトルは『カール大帝追跡』としました。梅爺が読んだのは英語ペーパーバック版で、日本では翻訳本が出版されていない様子(?)です。翻訳本が出れば、もう少し気のきいた日本語のタイトルが付けられるかもしれません。

『カール大帝』は、7世紀から8世紀にかけて、西ヨーロッパに『フランク王国』という大国を築き、自らを『西ローマ帝国皇帝』と呼びましたが、これは当時の『東ローマ帝国(ビザンチン帝国)』からは僭称(せんしょう)とされ、認められませんでした。生涯53回も、遠征に出向いたという戦争好きの皇帝ですが、敬虔なキリスト教信者としても有名で、ドイツのアーヘンに築いた、宮殿、教会は、現在『アーヘン大聖堂』として観光名所になっています。特に、大聖堂の八角の建築様式が珍しいとされています。

歴史学者の中には、7世紀に中東に産まれた『イスラム教』勢力の急激な拡大で、西ヨーロッパも危機にさらされ、これへ対抗するために『フランク王国』として結束する必要があったのだ、つまり『ムハンマド(マホメット)無くしてカール無し』と主張する人もいますが、必ずしも定説ではありません。

この小説は、『カール大帝』その人にまつわる謎を追いかける内容かと想像して読み始めましたら、そうではなく、『カール大帝』のお抱え学者で、大帝の伝記も残した『アインハルト』という人物(これは歴史上の実在人物)の秘密の『遺書』(これはフィクション)が見つかり、そこに、謎の古代文明に関する『驚くべき記述』があるという筋立てになっています。『カール大帝』は、刺身のつまで、『謎の古代文明追跡』であることが分かりました。

この『謎の古代文明』は、グラハム・ハンコックなど素人考古学者の何人かが今も唱えている、『1万5000年以上前に、現生人類は既に進んだ文明を保有していた』というもので、これは、私たち人類の歴史で文明が発祥したのは、5000年程度前という、考古学の『定説』とは大きく異なっています。

4500年前の古代エジプトに、どうして、巨大ピラミッドを建設できる科学知識があったのか、詳細な天文学の知識があったのか、現代医学も一目を置く手術や薬の知識があったのかは、たしかに『出現が唐突』に見え、もっと昔の文明知識が存在し、伝承されたと考えたくなります。

この説の泣き所は、『超古代文明』の確たる証拠となる遺跡、遺物が発見されていないことですが、この小説では、なんと『南極大陸』にそれが埋もれているというプロットになっています。

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2011年8月 9日 (火)

Amazing Voice(4)

人間と音楽の結びつきの原点を想起させるもう一つの例として、この番組では、台湾の少数民族の歌唱形式が紹介されました。

ジャレド・ダイヤモンド博士の『銃、病原菌、鉄』というノンフィクションを読んで、梅爺は台湾土着の少数民族が、地球の隅々にまで人類が進出していったプロセスに重要な役割を果たしていたことを知りましたので、その歌唱形式も同じく伝播していったのではないかと、推測しながら観ました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-8c1f.html

ダイヤモンド博士の本に依れば、ポリネシア、ミクロネシア、フィリピン、ハワイ、イースター島、マダカスカル(アフリカに近接)にまで、人類が進出していった時の拠点は台湾であり、それらに住む人たちの祖先は、台湾の土着民族であるとのことです。DNAや言語構造などを学術的に調べて、そのように推定しています。

1996年のアトランタ・オリンピックの開会式で、ドイツの『エニグマ』というグループが演奏したキャンペーン・ソング『Return to Innocence』は、台湾のアミ族の老人歌手ディファンの唄う『老人飲酒歌』のメロディを引用したものです。『アイヤイヤー』というような、特別に歌詞の無いメロディですが、日本民謡の『追分』などに通ずる、哀愁を帯びた節回しで、西洋音楽にはない、感覚を人間の心に呼び起こします。『純粋な心へ戻ろう』という主題にはぴったりで、オリンピックでは、世界中の人に感銘を与えました。

船で、台湾の原住民が世界へ乗り出して言った頃、日本は弥生時代で、既に強固な社会体制ができており、日本本土全体が、台湾からの人たちで侵攻されることはなかったのではないかと想像しますが、沖縄や九州など台湾から近い所では、『ある種の影響』を受けたのではないでしょうか。台湾の少数民族に伝わる歌唱形式と、日本の民謡の歌唱形式は似ているように梅爺は感じます。

台湾の少数民族『ブヌン族』に伝わる、『アワの豊作を祈る歌』に、梅爺はびっくりしました。男声4部合唱の形式なのですが、微妙なハーモニーの中に『倍音』が生じ、8部合唱にも聴こえるものでした。『和声(ハーモニー)』は西洋音楽が発見したもので、理論も加わって体系化されたものとばかり梅爺は考えていましたが、『ブヌン族』は、西洋人よりも早く、経験則で『ハーモニー』を既に見つけていたかもしれないことに気付きました。

台湾の少数民族の歌は、北欧『サーミ族』の『ヨイク』と同様に、『自然との一体感を産み出す自然崇拝宗教の媒体』『絆を確認するための情感(こころ)の叫び』が主題になっています。

宗教が生活の中心であった古代人類社会では、歌は芸術というより、生きるためになくてはならない手段であったことが分かります。

音楽が私たちの心を揺さぶるのは、私たちの遺伝子の中に、音楽とともに生きていた時代の習性が受け継がれているからではないでしょうか。音楽は、原則として理性で理解するものではなく、感性で『感ずる』ものなのです。

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2011年8月 8日 (月)

Amazing Voice(3)

古代の人類は、素朴な『打楽器』などを思いつく以前に、自分の『声』が楽器であることに気付いたに違いありません。現代の音楽の世界でも、最高の楽器は、『人の声』であると言われることがあります。演奏者そのものが楽器なのですから、理想の楽器と言えないことはありません。

しかし、この楽器は、体調や環境条件で、いつも同じように鳴るとは限らない、微妙で厄介な代物(しろもの)です。勿論、人間の身体は、一人ひとりが細部では微妙に異なっていますので、一つとして同じ楽器は存在しません。プロのオペラ歌手が、いつでも同じように歌うのは、素人の梅爺のような人間からみると、驚異的なことです。プロのアスリートが、いつも最高のパフォーマンスができるように、節制、努力しているのと同じことなのでしょう。

自分の『声』が、『楽器』であることに気付いた古代の人類は、先ず何を『表現』しようとしたのでしょうか。『Amazing Voice』という番組では、いくつか、それを示唆する内容が放映されました。

梅爺が、『これが音楽の原点かもしれない』と一番興味をそそられたのは、北極圏のフィンランド、スウェーデンに住む少数民族『サーミ』の、『ヨイク』と呼ばれる歌唱形式でした。現代の『サーミ』は、外見上白人種の容貌の人が多いのですが、アジア系の『イヌイット(エスキモー)』との混血人種ではないかと想像しました。トナカイの放牧をしながら生活してきた人たちです。

『ヨイク』は、高らかに朗唱するのではなく、静かにお経を読むように『呟(つぶや)く』歌唱形式で、『自然への感謝の念』『自分の気持ち』などを即興の歌詞をつけて表現します。身の回りのものは、なんでも『ヨイク』の対象になりますから、『熊のヨイク』『ウサギのヨイク』から『○○さん(特定の個人)のヨイク』と多様な『ヨイク』が存在します。

『ヨイク』は、少数民族に受け継がれている『自然崇拝信仰』の中で、自然(神)と自分が一体になるための儀式媒体であることが分かります。『サーミ』の人々は、『ヨイク』を歌うことで、体内に力がみなぎるように感ずると言っています。日本の神道で云えば、神主さんの『祝詞(のりと)』のようなものなのでしょう。人間と神をつなぐ媒体として『歌声』を利用するのは、人類共通の行為であることが分かります。

『サーミ』の人々の『ヨイク』は、原始的な宗教儀式とみなされ、当然キリスト教布教の時には『異端』とされ、一時迫害されました。しかし、キリスト教に宗旨変更した『サーミ』の人たちは、今では、『聖書のヨイク』などで、聖書までも『ヨイク』の対象にしてしまっています。伝来の宗教と土着の宗教が結びついて変容していく事例を観るようで、梅爺には興味深いものでした。日本へ伝来した時の『仏教』は、既に変容を遂げているものでしたが、その後日本でも更に土着の宗教と結びついて、『修験道』などのあたらしい宗教形式に変容していったことと似ています。『ヨイク』はキリスト教と結びついた珍しい例で、一般には『一神教』の宗教は、土着の宗教を排斥しますから、変容は起こり難く、『多神教』の宗教は、柔軟に変容しやすいということなのでしょう。

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2011年8月 7日 (日)

Amazing Voice(2)

『美人』の定義が難しいように、『美声』の定義も簡単ではありません。声の使用目的に依っても、『美声』の判断基準は異なってきます。単一の周波数が醸し出す、純粋な物理音は、『澄み切っている』とは言えますが、あらゆる場合に『美しい』とは言えません。

西洋音楽の『声楽』は、マイクロフォン等の拡声装置が無かった時代に、大きなホールの全ての聴衆に、『歌声』を届かせるために、身体を『共鳴装置』として利用する方法を模索しながら出来上がりました。特にオペラのような場合には、バックのオーケストラにも負けないように発声する必要がありますから、『生まれつきの資質・才能』『努力』などがないと、あのような発声は誰にでもできるわけではありません。

西洋音楽でも、『独唱』と『合唱』では、異なった発声方法が求められます。『独唱』では『個性』は許されますが、『合唱』では、基本的に『個性』は、『和(ハーモニー)』を乱すものとして、許されません。オペラ歌手を集めて、『合唱』を行っても、『澄んだ和音』は期待できないかもしれません。逆に『合唱』の発声方法で、カラオケの演歌を歌うと、なんとなく味気ない歌い方になります。演歌の特徴である、ビブラートや小節まわしが無いからです。

梅爺は、男声合唱を趣味としていますので、基本的には『合唱』に適した発声方法で鍛錬しています。

『Amazing Voice』と言う番組では、主として世界各地の『独唱者』の『驚異の歌声』を紹介しています。西洋音楽が確立する以前から、伝統的に歌われていた歌唱方法ですから、必ずしも美しいとは言えない、『ダミ声』『しわがれ声』に属する『声』も登場します。

しかし、歌うことの目的が、音楽の原点である、『仲間内での絆の確認』である場合が大半ですので、心の『悲しさ』『空しさ』『切なさ』『愛(いと)おしさ』『苦しさ』などを表現しようとするものであり、『ダミ声』や『しわがれ声』が、反って聴く人の魂を揺さぶることにもなります。村田英雄や森進一の演歌が、日本人に訴えるのと同じことです。

スペインの『フラメンコ』と一緒に歌われる歌や、ポルトガルの『ファド』などは、日本の演歌と同様、民族が伝統的に継承してきた『心の歌』で、切々たる哀愁が伝わってきます。

当然ながら、フラメンコ歌手、ファド歌手、演歌歌手を集めて『合唱』をやってみても、見事な合唱にはなりません。『私の心』を表現するために、彼らは最大限『個性』を発揮し、それが魅力の原点になっているからです。

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2011年8月 6日 (土)

Amazing Voice(1)

NHKBSプライムチャンネルで、世界各地の驚嘆すべき歌声の持ち主を紹介する番組『Amazing Voice』があり、梅爺は楽しみに視聴しています。

動物、鳥、昆虫の『鳴き声』は、仲間内のコミニュケーション手段として、進化の過程で獲得した能力で、人間の『声』も原点はこれに属します。人間も動物も、『情』の発露には、本能的に『声』『鳴き声』を発します。『痛い』『悲しい』『心地よい』『驚いた』時などがそれにあたります。本能ですから、自分で『叫ぼう』『声を出そう』と意図して発しているわけではありません。

脳の『推論能力』『認識能力』は、『理』といわれる能力で、これが高レベルに進化した生物が『人間』です。しかし、他の動物も、人間のレベルには遠く及びませんが、ある種の『理』の能力は備えています。

『仲間に自分の居場所を知らせたい』『仲間に危険が迫っていることを知らせたい』などという『理(状況判断)』による『意図』が絡む時も、人間や動物は『声』や『鳴き声』を利用することになります。

人間の脳の『理』の素晴らしいところは、やがて『もっと細やかなニュアンスまでも伝達(コミニュケート)する手段』として『声』を利用することを思いついたことです。『考えていること』『感じていること』を『声』で表現し、その表現様式を『決まりごと(ルール)』として、代々伝承していったことです。

『言語』はその代表で、『言語』の大半は『決まりごと』ですが、驚くべきことに『言語』の根幹をなす『論理構造』を理解する能力を人間は、本能として備えていることです。産まれてきた子供に、誰も『文法』を教えたりしませんが、子供はやがて、自分が生まれてきた周囲環境と同じ『言語』を、理解し話すようになります。

人間の『理』がもたらした、もう一つの素晴らしさは、この世には実存しないものを『抽象概念』として把握したり、『情感』の細やかさも『言語』の表現対象にしたことです。更に『言語』を、記録、再生するために『文字(記号)』を発明したことは極めつけといえるでしょう。

しかし、人間は、やがて『言語』や『文字』だけで表現できることには、限界があることを知り、それを補う手段として『音楽』『絵画、彫刻』といった表現様式を利用するようになったと梅爺は推測しています。

現在では、『文学』『音楽』『絵画・彫刻』は『芸術』と呼ばれますが、『文学』は『言語』の制約範囲の中で、何が表現できるかに挑戦する領域であるのに対して、『音楽』『絵画・彫刻』は基本的には『言語』を用いない表現様式です。勿論、『音楽』『絵画・彫刻』にも、その後『決まりごと』は導入されましたが、基本は、仲間内の『絆』を確認したいと言う表現欲求を満たそうとする手段であろうと考えています。

『Amazing Voice』は、洗練された『音楽』の中の『美声』を紹介するというより、『音楽』の原型のレベルで、人の『声』の表現が、聴く人の心に迫り、魂を揺さぶることがある事例を紹介する目的の番組で、『合唱爺さん』の梅爺は身を乗り出して観ています。

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2011年8月 5日 (金)

幽霊の浜風

上方いろはカルタの『ゆ』、『幽霊の浜風』の話です。

幽霊が、強い浜風に煽(あお)られて、飛ばされそうになり、オロオロしている様子から、『元気のない様、迫力を欠いた様』をこのように表現したもののようです。

普段怖いイメージの幽霊ですが、足が無い悲しさから『地に足がつかない』のは当然のことで、裾の乱れなどを気にしながら、懸命に吹き飛ばされまいと、もがいている様子は、想像しただけでも滑稽です。

元気のない仲間に『おい、どーしたい。幽霊の浜風みてーじゃないか』と声をかける時に使われるのでしょう。しかし、梅爺には、普段威厳を取り繕ったり、権威をひけらかして、『立派に』『偉そうに』振舞っている人が、ちょっとした不都合に遭遇しただけで、慌てふためき、オロオロするのをみて、庶民が陰で笑い転げている様子が目に浮かびます。胆力が売り物のはずの武士が、オロオロすれば、庶民にとっては、格好の嘲笑の的であったにちがいありません。そう言えば、『幽霊の浜風』をすぐに露呈してしまう政治家が、現在の日本にも沢山いることに気付きました。

平常時に、冷静を保つことは、誰にもそれほど難しいことではありません。『理』で『情』を制することができるからです。しかし、予期せぬ非常事態や不都合に見舞われた時に、人は頭の中が真っ白になって、パニック状態になり、冷静さは二の次になりがちです。

お釈迦様のように『完全修行者(悟りを拓いた人)』の境地に達することは、人間の脳のしくみを考えると、ほとんど不可能なことですが、少なくとも『そうなりたい』と願い、努力することは尊いことです。お釈迦さまが『煩悩(ぼんのう)』としているものは、人間の精神世界の話であり、80歳で入滅(にゅうめつ)する直前のお釈迦様は、肉体的な病苦には苦しむ様子(勿論苦しさは口にせずじっと耐えている様子)が、経典に書かれています。肉体的には、私たち同様お釈迦さまも苦しいのだと知って、親近感を覚えます。お釈迦さまが悟った自然の摂理は『あらゆる事象は流転する』ということで、人間も例外ではなく、『病』『老い』『死』は流転の中で避けられず、それには『肉体的な苦しみ』が伴うことをお釈迦様自身が示しているからです。『精神的な苦しみからの解脱(げだつ)』は、『理』を修行することで達成できても、『肉体的な苦しみ』は『理』では克服できないことがわかります。

修行が足りない私たちは、『幽霊の浜風』のように、つい動顛(どうてん)して、オロオロしてしまうことは避けられませんが、せめて後で我にかえった時に、『お見苦しいところをお見せし、申し訳ない』と反省するしかありません。自分の振舞いが、『幽霊の浜風』であると、いつまで経っても気付かない人は、ご本人は幸せでも、他人から尊敬されることはありません。

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2011年8月 4日 (木)

ケネディ家の人々(6)

『ケネディ兄弟の暗殺』は、狂信的な個人の犯罪と考えるよりは、『恨み』を抱いた『組織』、従来の権益が確保できなくなった『組織』の犯行と考えるのが自然です。『ビッグス湾』で見捨てられた『亡命キューバ人達の恨み』、『組織暴力団(マフィア)の恨み』、そして軍事力の行使を抑制しようとする『ケネディ大統領』の姿勢で、利権が大幅に縮小されかねないと危惧した『産軍複合体の陰謀』などが『組織犯罪』の黒幕として、取りざたされてきました。

表向きは、『ケネディ兄弟』の政治姿勢が、恨みや危惧を産み出す要因になっていますが、その裏に父親『ジョセフ・P・ケネディ』の『悪徳』『野望』が関与していると、考える人が多いのも肯けます。『金で何でも手に入る』と考えるアメリカの『拝金主義』の悪い面を全て、父親は持ち合わせているとも言えます。『アメリカン・ドリーム』は『拝金主義』を綺麗に表現した言葉で、第二次世界大戦後のアメリカでその風潮が強まったように思います。建国の頃のアメリカ人は、必ずしも全員『拝金主義』ではありませんでした。

父親の野望に操られた『ケネディ家の人々』の多くは、不幸せな人生を送る結果になりました。

『ケネディ家』がひた隠しにしようとした一人が、長女『ローズマリー・ケネディ』の不幸な病気です。彼女は、『精神障害』があり、知的発育が遅れているうえに凶暴さを伴うヒステリーで周囲を悩ませました。父親は、『ロボトミー手術(前頭葉摘出手術)』を決意し、実行します。この結果、ヒステリーはなくなりましたが、まったく感情表現がない『能面』のような人間になって、一生施設で過ごすことになりました。『ロボトミー手術』は、『凶暴な精神障害』に効果があると一時考えられましたが、『感情』や『意欲』を人間から奪い去る危険な施療であることが判明して今では、禁止になっています。

人間の脳は、ある部分がある役目を果たしていると単純に決めることができない『総合組織』ですから、一時的とはいえ『ロボトミー手術』などという、危険な医学的施療方法を実施したことは、人類の『失敗』であり、『汚点』です。

『ローズマリー・ケネディ』の悲劇は、必ずしも父親だけの責任とは言えませんが、数ある『ケネディ家の悲劇』の一つとして、象徴的でもあります。

父親『ジョセフ・P・ケネディ』は、脳梗塞で倒れ、この世を去ります。『ケネディ家』の野望は、これで終焉したかに見えますが、『アメリカン・ドリーム』を求めて、また別の野心家一族が出現しないとも限りません。アメリカは、日本人が日本の常識で考えても、分からないところがある国です。アメリカのような国になりたいと、羨望の対象にすることは、必ずしも得策とは思えません。

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2011年8月 3日 (水)

ケネディ家の人々(5)

『アメリカへの亡命キューバ人義勇軍』によるキューバ侵攻、カストロ打倒戦略を容認しながら、結果的には、アメリカの期待通りには事が運ばず、『ビッグス湾』で義勇軍を見殺しにしてしまったことは、『ケネディ大統領』の失政となりました。

『ケネディ大統領』は、いざとなれば『弱腰』であると、ソ連は判断し、キューバ内にソ連のミサイルを配備した基地をつくり始めます。この基地が稼働すれば、アメリカの東海岸の主要都市は、全てソ連の核ミサイルの射程範囲にはいるという、アメリカの歴史上最大の危機に直面します。

完成前にキューバのソ連基地を、空爆で殲滅すべしという軍の提言を制して、『ケネディ大統領』は、外交ルートで、フルシチョフとの『かけひき』を行い、キューバへ向かいつつあったソ連の船団を海上で、制止、攻撃すると脅しをかけて、ついにフルシチョフを断念させます。第三次世界大戦勃発の瀬戸際で、世界を救った勇気あるアメリカ大統領として、『ケネディ』は、評価され『ビッグス湾』失政の汚名を挽回することになります。

『ケネディ大統領』を、弟の『ロバート・ケネディ』は司法長官として支えます。この強引な人事も、父親の『ジョセフ・P・ケネディ』の意向で行われたと考えられています。FBIの局長として永年牛耳ってきたフーバーにとっては、青二才の司法長官に仕えねばならないことは、屈辱的で、司法長官とFBI局長は犬猿の仲となっていきます。『ケネディ大統領』の暗殺や、後に大統領選出馬を表明した『ロバート・ケネディ上院議員(元司法長官)』の暗殺に、ワシントンの権力抗争が関っているという噂は根強く残っています。

『ケネディ家の人々』というドラマでは、弟の『ロバート・ケネディ』の方が兄の『ケネディ大統領』より、『見識、人格』で優れた人物として好意的に描かれています。少なくとも、兄のようなだらしない女性関係の問題を起こしたりせず、兄の『女たらし』を諫(いさ)め、尻拭いもしています。

『ロバート・ケネディ』は司法長官の時代に、『組織暴力団(マフィア)』を殲滅すると高らかに宣言します。父親の『ジョセフ・P・ケネディ』が、悪徳商売ではマフィアと関係を持ち、『ケネディ大統領』誕生に、マフィアの協力を裏で画策していたことを、『知らなかった』のかもしれませんが、結果的にマフィアからは『ケネディ家の裏切り』とみなされ、以後の『ケネディ兄弟暗殺の悲劇』に、常にマフィアの影があると囁かれるようになります。

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2011年8月 2日 (火)

ケネディ家の人々(4)

最近は、日本の政界も人材不足が露呈し、『若手』も首相になれそうな時代になってきましたが、昔は、日本の首相は、少なくとも60歳を過ぎた爺さん達が占めるポストでした。その頃、若さを売り物に溌剌(はつらつ)と登場した『ケネディ大統領』を見て、大学生であった梅爺は、『さすがはアメリカ。羨ましい』と感じていました。

しかし、『ケネディ家の人々』というドラマを観ると、ケネディは大統領就任時から、ひどい『腰痛』に悩まされており、コルセットを常時着用し、痛み止めの薬も大量に服用していたことが分かります。ついには、薬が効かなくなり、医師免許ももたない怪しげな人物から、怪しげな注射をしてもらうような状態にまでなり、椅子から自力で立ち上がることができないほど身体は『ボロボロ』になっていたことがわかります。

『若々しくエネルギッシュに行動する大統領』のイメージは、『演出』であったことになります。仕事の合間に『ケネディ大統領』が、弟の司法長官『ロバート・ケネディ』と、ホワイト・ハウスの庭で、アメリカン・フットボールのパス交換をしながらはしゃいでいる様子などの『作られた演出』をテレビで観て、梅爺はそれを真実と思いこんでいました。大半のアメリカ国民も、騙されていたのでしょう。

『自由の国アメリカを象徴する若い大統領』と、その夫に貞淑に従う『大統領夫人』という『演出』も、その後時代の経過の中でメッキがはげてしまいました。しかし、『悲劇的な暗殺事件』故に、『偉大なる大統領』のイメージが今でもアメリカには強く残っています。

大統領就任直後に、キューバ『ビッグス湾事件』で、『ケネディ』は政策の失敗を認めざるをえない状況に追い込まれます。アメリカに亡命したキューバ人が『義勇軍』を結成し、キューバへ侵攻してカストロを倒すというCIAや軍が画策した計画を容認しますが、結果的には、待ち構えていたカストロ軍に『義勇軍』は大敗を喫します。期待していたキューバ国民の蜂起もありませんでした。アメリカは、正規軍をキューバへ送って、『義勇軍』を救済する策も検討しますが、『ケネディ大統領』は、この派兵安を拒否します。キューバ侵攻は、あくまでも亡命キューバ人の行為で、国際社会にアメリカが黒幕であることを自ら宣言するようなことはできないという理由からです。『ケネディ大統領』が『キューバ義勇軍』を見殺しにしたという恨みが、その後も後を引き、大統領暗殺の原因になっているという観方もあります。

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2011年8月 1日 (月)

ケネディ家の人々(3)

アメリカの大統領になりたいという野望を抱いていたのは、『ケネディ大統領』の父親『ジョセフ・P・ケネディ』でした。悪徳商法で稼いだ金で、ルーズベルトの大統領選挙を支援し、見返りに、『証券取引委員会』の初代委員長や、米国のイギリス駐在大使の座を手にしました。しかし、イギリス駐在大使時代に『イギリスには民主主義はもうない』とか、ヒトラーの存在を擁護するような演説を行い、アメリカの世論から反発を受けます。さすがにルーズベルト大統領も庇いきれなくなり、イギリス駐在大使の職務を更迭し、政治家としての野望は挫折します。

『悪徳商人』にはなれても、人間社会を深く洞察する総合判断力には欠けており、政治家になる器ではなかったと言えます。政治には経済効率を考えると言う意味ではビジネス感覚も要求されますが、全てをビジネス流で決することはできません。『地獄の沙汰も金次第』と本気で考えているような人物は、政治家失格です。彼が自分の挫折の原因を、自分の能力、資質のせいとは考えずに、ルーズベルトに『邪魔された』と恨んだに違いありません。世の中には『自分の思い通りにならないのは他人のせいだ』と批難する人間は沢山います。

『ジョセフ・P・ケネディ』は、自分の果たせなかった『アメリカ大統領になる』夢を、長男の『ジョセフ・ケネディ・ジュニア』に託し、長男もすっかりその気になって、父親の期待通りに成長していきます。軍人としての輝かしい経歴が、大統領になるために有利な条件と考え、長男は空軍パイロットとして欧州戦線の任務に就きますが、不幸にも不慮の死を遂げてしまいます。『ケネディ家には、挫折や敗北はない』と盲信する父親は、今度は次男の『ジョン・F・ケネディ』に『大統領になる』ように命じます。

『大統領』など全く念頭になかった次男は、最初は抵抗しますが、結局父親に押し切られます。次男は、海軍中尉の魚雷艇艦長として太平洋戦争に従軍しますが、日本の駆逐艦と衝突して、海に投げ出され、部下ととも6キロ泳いで、小島にたどり着き無事生還します。この行為で、海軍から勲章を授与され、後の大統領選挙の折には『国家の英雄』と喧伝する材料として利用されました。

『ケネディ大統領』の政治的な功績をみると、凡人ではなかったことが分かります。特に『軍事力を問題解決の手段とすることに慎重な姿勢』は評価できます。『ケネディ大統領』が暗殺されなければ、『ベトナム戦争』も異なった展開になっていた可能性があります。『ベトナム戦争』から利益を得ていたアメリカの産軍複合体が、『ベトナム戦争』へ懐疑的な『ケネディ大統領』を暗殺した黒幕であると言う説が、今もって囁かれているのはそのためです。

『ケネディ大統領』は、凡人ではありませんが、アメリカの頂点に立つ『見識・人格』を備えた人物であったかどうかは疑問です。演出された『大統領像』だけで判断するのは危険です。『日本の首相』『アメリカ大統領』に、『見識・人格』を兼ね備えた人物がなって欲しいと国民は願いますが、現実には難しい話です。逆にいえば、『普通の人間』が、日本、アメリカ、世界の命運決定に関与していることに、『恐ろしさ』も感じてしまいます。『民主主義』は間違いを是正できる可能性を秘めたシステムですが、『民主主義』ならば間違いが起きないと過信するのは危険です。

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