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2011年3月 5日 (土)

映画『秋のソナタ』(3)

人は一生を通じて同じ価値観を持ち続けるわけではありません。若いころは、自分の将来への夢や期待が強く、他人の痛みや悲しみに、敏感さを欠くことがあります。梅爺が20歳代でこの映画を観たとしても、表面的な理解にとどまって、ベルイマン監督の素晴らしさを感じとることはできなかったかもしれません。

表面的には、この映画は『冷酷な母親』と『その母親の犠牲になった娘』の物語で、娘に依る壮絶な復讐劇に見えます。しかし、約70年この世で生きてきた梅爺には、『母親は悪人』『娘は善人』という単純な構図には見えません。

子供は幼いころ両親に、『理想の両親像』を求めます。しかし、自分も成人していく過程で、両親も『完全な人間』ではないことに気付き、それも当然のこととして受け容れるようになります。一方両親も、子供が幼い頃は、まるで『自分達の所有物』であるかのように、意のままに育てようとしますが、やがて子供も自分たちとは異なった『独立した人格』の所有者であることに気付き、子供の自主性を認めるようになります。親子の絆は、それによって断たれるわけではなく、新しい親子の関係に移行します。

この移行がうまくいけば、多くの場合問題はそれほど起きませんが、子供がいつになっても『理想の親』だけを求めたり、親がいつまでも子供を意のままになる『自分の所有物』であると勘違いしていると、悲劇が生じます。

この映画の母親の場合は、音楽(ピアニスト)という自分の人生を賭けて追い求める対象があり、それに値する能力の保有者でもありますので、音楽を極めることを最優先とする人生の選択を誰も批難はできません。その分良い母親ではなかったことは、褒められることではありませんが、『理想の芸術家』と『理想の母親』は両立し難いのは当然のことです。この母親の非は、『芸術』の道を選んだことではなく、自分が至らぬ『母親』であることを気付く能力に欠けていたことです。

一方、娘の方の、自分の不幸の全ての原因が母親の愛情欠如にあると言わんばかりの態度も梅爺にはいただけません。幼いころはともかく、成人して後は、母親と自分の違いを冷静に受け止める機会がなかったとは思えません。何故『私の母親は、ピアニストとしては優れていますが、母親としては落第です』と笑って済ますことができないのかと考えてしまいます。この娘の深層心理は、愛情の無い母親への恨みと言うより、自分にはない美貌と才能を兼備している母親に対する同性としての『嫉妬』ではないかと、梅爺は疑いたくなります。

ベルイマン監督が、何を表現しようとしたのかは想像するしかありませんが、この映画から人間の精神世界が、極めて複雑であることを学ぶことができます。観る人の感性と、評価能力にゆだねるという点で、この映画は『芸術』の領域に達しているように思います。今後ベルイマン監督の他の作品が放映されるようなことがあったら、梅爺は迷わず録画して観ることになりそうです。

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