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2011年3月21日 (月)

武士は食わねど高楊枝

上方いろはカルタの『ふ』、『武士は食わねど高楊枝』の話です。

無精ひげで貧相な姿の武士が、食事をする金にこと欠いて空腹にもかかわらず、食事は既に済ましたよとばかりに、見栄を張って楊枝をくわえて見せている様子が思い浮かび、つい笑ってしまいます。

プライドのためなら、やせ我慢も辞せずという話ですが、庶民の武士を揶揄するる思いが間接的に表現されているようにも見えます。

『王様』は王様らしく、『武士』は武士らしく振舞わねばならないと、自分を律することは、悪いことではありません。地位が人をつくるということがあるからです。しかし、本来その器量が無い人が、地位や看板だけで、『自分は偉い』と勘違いするために、周囲の人たちが迷惑を被(こうむ)る例は、世の中に沢山あります。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』という表現はこれを戒めたものですが、これを実践できる人は多くはありません。

本来、人がプライドを保つということは、地位や看板とは関係なく、自分が欲望だけに支配されないように、理性で自分を律することではないでしょうか。『理』で『情』を制することができるのは、人間だけの特徴であり、人間らしさの根源はここにあるのではないかと梅爺は考えています。見栄のためにやせ我慢をするというのは、『自分を自分以上に見せたい』という欲望に支配されていことでもあり、本来のプライドからみれば、本末転倒な話です。

『善良な心』と『邪悪な心』を併せ持つようにできている人間が、『善良な心』を優先して生きていきたいと願うのは、その方が人と人の絆が強固になり、巡り巡って自分のためにもなると『理』で考え付くからです。『倫理』や『道徳』はその様にして人間が考え付いたもので、神に依って授けられたものではないと梅爺は考えています。『邪悪な心』は悪魔の囁きではなく、他人のことを考えずに自分の欲望だけを優先させてしまうことです。生き残りのためならば何でもするという生物としての本能が『邪悪な心』の元ですから、誰もが『邪悪な心』も持っていることは不思議な話ではありません。『邪悪な心』を持っていることが恥ずかしいのではなく、それを『善良な心』で制することができないことが恥ずかしいということになります。

梅爺は、仕事の現役時代に、外国人とビジネス折衝する時には、『日本人を甘く見られてなるものか』と、必要以上に見栄を張っていたように思います。今にして思えば、『武士は食わねど高楊枝』そのもので、武士を笑う資格はありません。

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