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2011年3月 8日 (火)

悲劇の中の善意(3)

イスラエル兵に撃たれ、病院へ担ぎ込まれたアフメドの命は助からないと分かり、病院はアフメドの臓器を、難病に悩む他の子供たちのために提供して欲しいと、父親のイスマイルに要請します。遺族の気持ちを考えれば、『情』ではとても要請しにくいことですが、人間は『理』では別の判断をする典型的な例のような気がします。日本人の多くは『病院の要求は、いくらなんでも冷酷すぎるのでは』と、心情的に感じるのではないでしょうか。

父親のイスマイルは、最初『心臓以外の臓器提供には同意』しますが、念のためにイスラム教の宗教指導者の意見を聞いて判断しようとします。『心臓だけはダメ』と『感ずる』背景には、心臓が『心』と直結しているという考え方があるのでしょう。中世の頃まで、人間は『心は心臓にある』と考えていました。『心』は『脳が作り出す世界』という知識は、人間が比較的最近に獲得したものです。

イスラム教の宗教指導者は、テレビのインタビューで以下のように答えています。

『イスラム教が人間にとって重要とするものは、魂(たましい)、知性、名誉、信仰、金の五つです。魂は、神から与えられたもので、その魂が抜けだした死後の肉体は、神と無縁なので臓器提供の対象としても問題ありません』。梅爺には、何とも理解しがたい屁理屈のように聞こえますが、イスラム教徒には、ありがたい指針なのでしょう。

父親のイスマイルは、この助言に従って、最終的には心臓も含めた『臓器提供』に同意します。この行為は『悲劇の中の博愛精神』として、世界中に報道されました。イスマイルは、『子供を、大人同士のいがみ合いの犠牲にすべきではない』と語っています。つまり、臓器がイスラエル人の難病の子供に提供されることも含め同意したことになります。『大人同士は、民族、宗教の違いを理由に殺し合いを止めない』ことと、『子供の命は、民族、宗教とは関係なしに救おう』という考え方には、あまりにも大きなギャップがあります。一部の狂信的な人間を除いて、『大人同士が、民族、宗教の違いを理由に殺し合いをすること』は、『馬鹿げている』と心の中では思いながら、結局狂信的な主張に従わざるをえない状況になるのは、どうしてなのでしょう。イスラエルの『ユダヤ教の狂信派』と、パレスチナの『イスラム教狂信派』が、いなくなれば、問題は解決へ向かう可能性が高いことは目に見えています。

しかし、現実は『狂信的な指導者』が、『立派なヒーロー』であり、『共存の主張者』は『腰抜け』と評価されます。『立派なヒ-ロー』には『殺し合い』がつきまとうという歴史を人間は繰り返してきて、今も変わりがありまん。

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