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2011年3月28日 (月)

テオ・アンゲロプロス(2)

『人間』という、なんとも単純に割り切れない存在の『本質』を、えぐりだして見せる手法に、『喜劇』と『悲劇』があります。『本質』は、梅爺流に表現すれば、『情と理の絡み合い』で、どちらを重視するかのバランスの度合いは無数にありますから、『どうあるべきだ』と割り切ることはできません。『理』を優先すれば『情』を殺すことになり、『情』を優先すれば『理』を殺すことになります。夏目漱石は、『草枕』の中で、『智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』とこれを見事に表現しています。

チャップリンや『男はつらいよ』の山田洋次監督は、『喜劇』を選択しています。『笑い』は人間が無意識に求める『自己ヒーリング(癒し)』ですから、観客は屈託のない笑いを求めて映画を観ようとしますが、やがて、笑いの原因が、主人公の善意や純粋な心に発した行為であることに気付き、『待てよ、これに比べたら自分はなんと不純に毒されてしまっているのだろう、笑いごとではない』と悟ります。『喜劇』は、時に『哀しみ』や『人間の中にある矛盾』を表現する最高の手段ともなります。

テオ・アンゲロプロスは、反対に『悲劇』を選択する監督です。映画は最初から最後まで、陰鬱なシーンの連続です。『曇天』『雨降り』『夜』『荒れた海』『廃屋』『暗い部屋』と徹底しています。音楽も陰鬱を効果的に盛り上げます。『ギリシャ悲劇』を産み出した国の伝統なのかどうか知りませんが、そこには、エーゲ海の青、紺碧の空、燦々たる陽の光、白壁の家、陽気な人々といったギリシャのイメージはありません。

今回3本の作品(『シテール島への船出』『永遠と一日』『エレニの旅』)を観て、イタリアのヴィスコンティ監督と作風が似ているように感じました。ヴィスコンティの『揺れる大地』については、感想を前に書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-9448.html

ヴィスコンティにしても、テオ・アンゲロプロスにしても、アメリカ文化ではなく、ヨーロッパ文化の土壌に根ざしているように感じます。ハリウッド映画では、このような作風にはなかなか出会いません。テオ・アンゲロプロス監督が映画を製作するのに、フランス、ドイツ、イタリアの会社が出資をしていますが、アメリカの会社は名を連ねていません。『悲しみをついに乗り越えて、希望へ向かって再出発する』というような楽観的な結末の映画ではありませんので、アメリカ人は興行的に成功しないと判断するからではないでしょうか。

テオ・アンゲロプロス監督は、さらに『ゆったりしたカメラアングルの動き』『1シーンのカットが非常に長い』『会話は最低限に抑えられている』などが特徴で、梅爺は日本の『能』のような様式美を感じました。言葉による説明にだけ頼るのではなく、映画と言う総合的な表現様式の中で、登場人物の心の動きを観る人に伝えようと言う意図ではないかと思いました。

人生はそれでなくても苦悩に満ちているので、せめて映画くらいは気楽に観ることができるものを選びたい、とおっしゃる方には、いずれもお薦めできる作品ではありませんが、時には『悲劇』や『人間の苦悩』を直視する勇気を持ちたいと考える方には、お薦めできる作品です。

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