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2011年3月31日 (木)

ダン・ブラウン『The Lost Symbol』(1)

アメリカの推理小説作家ダン・ブラウンは、『ダ・ヴィンチ コード』で、世界的な成功をおさめた人です。『ダ・ヴィンチ コード』の成功で、それ以前の著作も売れ、文字通り『アメリカン・ドリーム』を実現しました。梅爺も、すっかり乗せられて英語版ペーパーバックを買い漁り、今までに以下の4作品全てを読みました。

『Digital Fortress』
『Angels & Demons』
『Deception Point』
『The Da Vinci Code』

彼の作風は、『歴史の謎』『宗教(ローマン・カトリック)』『最先端科学』がプロットに巧みに配置されていることです。当然読者を『アッ!』と言わせようと企むわけですから、少々強引に『これが真実だ!』と、あの手この手で辻褄合わせをしようとします。梅爺も『それは、ないだろう』などとつぶやきながら、それでも展開の面白さで、つい読んでしまいました。

ローマン・カトリックの教義や体制に、疑念を抱かせる筋立てが登場しますが、決して無神論者のように全てを否定することはありません。無神論者はアメリカ社会で、もっとも嫌われますから、アメリカの大衆を敵に回しては、小説が売れないことを承知しているのでしょう。それでも、かなり際どいギリギリの内容が売り物です。『ダ・ヴィンチ コード』では、『キリストは、マグダラのマリヤと結婚していて、その子孫が現代も存在する』という筋立てで物語が進行します。さすがに、これは賛否両論を招くことになり、『カトリック』からの反撥もありましたが、話題になればなるほど、本は売れますから、ダン・ブラウンの思う壺になりました。しかし、その後『ダ・ヴィンチ コード』で、立証に使われた事柄の大半は、『歴史的な事実ではない』ことが明らかになりつつあります。

所詮小説(フィクション)ですから、真偽に目くじらをたてることはないとは言えますが、あまりにも荒唐無稽では、読者もそっぽを向きますので、何がギリギリの線かを見極めるのが、この種の小説作家の能力として求められます。

久しぶりのダン・ブラウンの最新作『The Lost Symbol』が発売されましたので、今まで彼の全作品を読んできた以上、これは外せないと早速購入して読みました。

『アメリカの建国秘話』と秘密結社『フリーメーソン』の関係を題材に、現在の首都ワシントンを舞台に繰り広げられるストーリーですから、アメリカの大衆の好奇心をくすぐるには格好の題材です。ベスト・セラー作家の着眼点はさすがです。主人公も、『ダ・ヴィンチ コード』と同じ、ハーバード大学の記号学教授ロバート・ラングドンという設定ですので、読者は『あのラングドンが、今度はどんな冒険に遭遇するのだろう』と、期待することになります。

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2011年3月30日 (水)

テオ・アンゲロプロス(4)

今回観た3本の作品の中では、『エレニの旅』が最も大作で、完成に2年を要したとのことです。最初から最後まで、『悲劇』に翻弄されるエレニという一人の女性の半生を描いた映画です。たった一つのシーンのために、『これは大変な費用と手間がかかっているな』と梅爺でも想像できる箇所がいくつもありました。黒澤明監督も、同じようなこだわりでスタッフを悩ませたと聞いたことがありますので、自己主張の強さは『巨匠』の証なのでしょう。梅爺のように、『まあこの程度で良いだろう』とすぐ妥協するような人間は『巨匠』にはなれません。

最近の映画では、実写では金がかかるシーンは、『CG(コンピュータ・グラフィックス)』で対応するのが主流で、騙すほうも、騙される方もそれを楽しむ風情がありますが、テオ・アンゲロプロスや黒澤明からみると、『世も末』ということかもしれません。

『エレニの旅』が大作であることは、梅爺にもわかりますが、3本の中の梅爺の好みは『永遠と一日』です。

『永遠と一日』は、年老いた一人暮らしの詩人が、難病を宣告され、明日から入院ということになって、再び退院することはないと『死』を悟り、身の回りの整理に奔走する一日を描いた映画です。一緒に暮らしていた愛犬を、娘夫婦に預けようとしますが、体(てい)良く断られ、その上、亡き妻との思い出が残る浜辺の別荘も、娘の亭主によって売りに出されていることなどを告げられ、孤独感がつのります。車に愛犬を乗せて、引き取り手を探してさまよううちに、密入国しているギリシャ系アルバニア人の少年と、ひょんなことで知り合い、奇妙な『老人と少年の交流』が展開します。人生を表現するのに、老人と少年を対比させる手法は出色です。

妻や家族、仲間との幻想的な回顧シーンと、現在が交差しますが、どのシーンでも主人公は、現在の黒いコートを着た老人として画面に登場します。この表現手法が、現在の老人の孤独感を一層際立たせます。

詩人は、『自分の言葉を見つけ、自分の世界に深入りすればするほど、他人との距離は遠くなる』というようなセリフをつぶやきます。それほど深刻ではありませんが『梅爺閑話』もそのような一面があるなと、身につまされました。

タイトルの『永遠と一日』は、亡き妻との回顧シーンで、『明日と言う時間はどのように定義したら良いのか』と詩人が妻に質問し、妻が『永遠と一日』と答えることから採られています。物理的には、単なる『一日』であることは明白ですが、個人にとっては、無限の可能性を秘めた『永遠』とも言えますので、なかなか味わいの深い表現です。

失ってしまった『絆』を、見知らぬ少年との交流に見出そうとしたり、昔を回顧して確認しようとしたりする老人の『孤独』がひしひしと伝わってくる映画で、同じく老人である梅爺には、胸に迫る映画でした。『明日』を『永遠』と感ずることができるのは、若い人の特権です。そう言えば梅爺にもそのような時代がありました。

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2011年3月29日 (火)

テオ・アンゲロプロス(3)

『冷笑』や『蔑(さげすみ)の笑い』でない『笑い』は、人間の精神や時に肉体を健全に保つために有効な手段と考えられています。脳が無意識に要求するストレス解消の手段であるからではないでしょうか。『笑い』の対象を、人は『喜劇』に求めますが、高尚な『喜劇』は、観ている人に『あなたも、滑稽な対象の一人ですよ』とこっそり教えます。つまり、人間は誰もが『ちぐはぐで、滑稽な面を持っている』ということをあらためて思い起こさせます。梅爺は、自分の滑稽さを認めて、笑いの対象に出来る人が大好きです。逆に、『自分は笑いの対象ではない』と思いこんでおられる方は苦手です。

生きることの代償として、人生には『悲しさ』『寂しさ』という苦悩が付きまといます。生きるためには『耐えなければいけない』ことは『理』では分かりますが、そう簡単にはいかないように人間の脳はできています。この峻厳な本質を、『喜劇』で表現するか、『悲劇』で表現するかは、表現者の『好み』です。『悲しさ』『寂しさ』を『悲劇』で表現する方が、直截的であり、ぐさりと本質に迫ることができるのは間違いありません。

人間に『悲しさ』『寂しさ』をもたらす要因は、多くの場合『絆の喪失』です。愛する人や自分の『死』は勿論その最たるものですが、『周囲が自分を必要としていない』『自分は周囲に役立つ存在ではない』と感じた時も同様に『絆の喪失』となります。生物進化の過程で『群をなして生きる』習性を遺伝子として受け継いできた人間にとって、『絆の消失』は、『不安』『恐怖』と感ずるように、脳はできています。『孤独』が人間をもっとも蝕(むしば)みます。

更に『絆の喪失』をもたらすものは、『人間にとって避けがたい要因』と『人間自身がつくりだした要因』に分類できます。『老いて死ぬ』『天災で命を落とす』などは前者で、『戦争』『差別』『貧困』『他人を顧(かえり)みない自分中心の考え方』などが後者に相当します。

テオ・アンゲロプロス監督は、全ての『絆の喪失』に由来する『悲しさ』『寂しさ』を取り上げて描いていますが、特に、戦争などの、人間がつくりだした要因による『絆の喪失』の不条理を強く訴えているように感じました。

『ギリシャの内戦』『ロシア革命でロシアを追われたギリシャ系難民』『ギリシャへ不法入国するギリシャ系アルバニア人の浮浪児』などが、映画の背景に取り上げられています。

しかし、映画を観終わって、単なる『反戦映画』であるというより、『人間は、悲しさ、寂しさと無縁には生きられない』という、『理』では解きようがない事実を、そのまま放りだすように提示していることに気付きます。そこには『強く生きろ』とか『神に救済を求めろ』とか、説教がましいことは何もありません。生きることにつきまとう『どうしようもないこと』には、自分で対応するしかないということなのでしょう。それが人間の宿命であるということなのでしょう。

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2011年3月28日 (月)

テオ・アンゲロプロス(2)

『人間』という、なんとも単純に割り切れない存在の『本質』を、えぐりだして見せる手法に、『喜劇』と『悲劇』があります。『本質』は、梅爺流に表現すれば、『情と理の絡み合い』で、どちらを重視するかのバランスの度合いは無数にありますから、『どうあるべきだ』と割り切ることはできません。『理』を優先すれば『情』を殺すことになり、『情』を優先すれば『理』を殺すことになります。夏目漱石は、『草枕』の中で、『智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』とこれを見事に表現しています。

チャップリンや『男はつらいよ』の山田洋次監督は、『喜劇』を選択しています。『笑い』は人間が無意識に求める『自己ヒーリング(癒し)』ですから、観客は屈託のない笑いを求めて映画を観ようとしますが、やがて、笑いの原因が、主人公の善意や純粋な心に発した行為であることに気付き、『待てよ、これに比べたら自分はなんと不純に毒されてしまっているのだろう、笑いごとではない』と悟ります。『喜劇』は、時に『哀しみ』や『人間の中にある矛盾』を表現する最高の手段ともなります。

テオ・アンゲロプロスは、反対に『悲劇』を選択する監督です。映画は最初から最後まで、陰鬱なシーンの連続です。『曇天』『雨降り』『夜』『荒れた海』『廃屋』『暗い部屋』と徹底しています。音楽も陰鬱を効果的に盛り上げます。『ギリシャ悲劇』を産み出した国の伝統なのかどうか知りませんが、そこには、エーゲ海の青、紺碧の空、燦々たる陽の光、白壁の家、陽気な人々といったギリシャのイメージはありません。

今回3本の作品(『シテール島への船出』『永遠と一日』『エレニの旅』)を観て、イタリアのヴィスコンティ監督と作風が似ているように感じました。ヴィスコンティの『揺れる大地』については、感想を前に書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-9448.html

ヴィスコンティにしても、テオ・アンゲロプロスにしても、アメリカ文化ではなく、ヨーロッパ文化の土壌に根ざしているように感じます。ハリウッド映画では、このような作風にはなかなか出会いません。テオ・アンゲロプロス監督が映画を製作するのに、フランス、ドイツ、イタリアの会社が出資をしていますが、アメリカの会社は名を連ねていません。『悲しみをついに乗り越えて、希望へ向かって再出発する』というような楽観的な結末の映画ではありませんので、アメリカ人は興行的に成功しないと判断するからではないでしょうか。

テオ・アンゲロプロス監督は、さらに『ゆったりしたカメラアングルの動き』『1シーンのカットが非常に長い』『会話は最低限に抑えられている』などが特徴で、梅爺は日本の『能』のような様式美を感じました。言葉による説明にだけ頼るのではなく、映画と言う総合的な表現様式の中で、登場人物の心の動きを観る人に伝えようと言う意図ではないかと思いました。

人生はそれでなくても苦悩に満ちているので、せめて映画くらいは気楽に観ることができるものを選びたい、とおっしゃる方には、いずれもお薦めできる作品ではありませんが、時には『悲劇』や『人間の苦悩』を直視する勇気を持ちたいと考える方には、お薦めできる作品です。

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2011年3月27日 (日)

テオ・アンゲロプロス(1)

『テオ・アンゲロプロス』という現代ギリシャの偉大な映画監督の存在を梅爺は偶然知りました。NHKBS第二の『衛星映画劇場』で、『シテール島への船出』『永遠と一日』『エレニの旅』という、彼の作品が数夜にわたり以前放映され、それを録画して観てのことです。

『音楽とは何だろう?』というブログで、『音楽を含む芸術は、創作者にとっては、自己追及、自己表現であり、鑑賞者にとっては、触発された自己発見が目的である』のではないかというような趣旨のことを書きました。人間は『言葉』だけでは表現できない、『共有の絆』を求めて、芸術を創出し、高度なレベルへ発展させていったのであろうという推測です。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-e3f5.html

全ての映画が『芸術』であるとは言い難いですが、映画の一部は高い『芸術性』を表現するレベルに達しています。興行成績の良い映画だけに興味を惹かれて観ていては、芸術性の高い映画を見落としてしまうことになります。アメリカ文化を代表するものが映画で、ハリウッドがその中心であると単純に受け取って、『ハリウッド映画』や『ハリウッド映画を模倣した映画』が『映画』であると考えているのは、もったいないことかもしれません。

確かに世界には、『ハリウッドに認められることがメジャーになること』と考え、この努力をしている映画人は沢山います。中国の優れた映画監督チャン・イーモウ(張 芸謀)なども、今ではハリウッド資本の映画を創るようになっています。

しかし、『ハリウッド』には全く目もくれず、独自の『映画表現』を追求している人たちも世界には沢山います。前に『こんなに近く、こんなに遠く』というイランの映画を観て、梅爺が驚いた様子はブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_b50e.html

テオ・アンゲロプロスというギリシャの映画監督も、その一人であることを知りました。『シーンのワンカットが非常に長い』『カメラ・アングルの移動が非常にゆっくりしている』『曇天ばかりで晴天が無い』『言葉(会話)は厳選されていて非常に少ない』『映像美と役者の演技だけで、人物の心理描写が行われる』『貧しいはずの登場人物が立派な服装をしている』というような手法に最初は戸惑いますが、やがて、観ている内にその手法やテンポの意図がなんとなく理解できて来て、心地よいものになり、映画の世界に引き込まれていきます。

映画好きの年金爺さんにとっては、思いがけない発見、遭遇で、大変得をしたような気分になりました。

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2011年3月26日 (土)

梅爺創作落語『カラスは白い』(5)

(大家のおかみさん)『なんだい、お爺さん。それに、八っつぁん、熊さんまでお揃いで、どうかしたのかい』

(熊八)『いやね、おかみさんが大好きな猫が手に入ったもんですから、差し上げようと思いましてね』

(大家のおかみさん)『そいつは申し訳ないね。どれどれ、おや、これは立派な黒猫じゃないかい』

(八五郎、熊八声をそろえて)『と、とんでもねー、おかみさん。こいつは白猫でございます』

(大家のおかみさん)『バカをお云いでないよ。ここんとこの暑さ続きで、頭でもおかしくなっちまったのかい。お爺さん、これは黒猫だとお前さんからもそう言っておやりな』

(大家)『・・・そ、そうだな。おまえが黒猫というのなら、これは黒猫かもしれないな』

(熊八)『これはてーへんお見それいたしました。これが黒猫ってーことになると、カラスも黒いということになりますな』

(大家のおかみさん)『いい加減になさいよ。カラスは黒いに決まっているじゃないか。カラスは白いなどと言う人がいたら、よほどの唐変木(とうへんぼく)だよ。それはそれとして、昔から黒猫は縁起が悪いっていうだろ。申し訳ないが、この猫をいただいて飼うわけにはいかないね。じゃー、ちょいと忙しいから、これで失礼しますよ』

(八五郎小声で)『熊さん、聞いたかい。大家の爺さんも、ついに唐変木にされちまったじゃねーか。ざまーみあがれってんだ』

(熊八小声で)『しー。声が大きいよ』

(大家)『ようやくお前さん達の魂胆(こんたん)が読めましたよ。私にカラスは黒いと言わせるために、婆さんをダシに、黒猫を連れてきて一芝居打ったってーわけですな。一本取られましたな、これはどうも参りました。それにしても、黒猫をわざわざ白猫と呼ぶなんざ、手のこんだ芝居ですな』

(熊八)『いえ、とんでもありません。これは元々白猫でございます』

お後(あと)が、よろしーよーで。

(終わり)

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2011年3月25日 (金)

梅爺創作落語『カラスは白い』(4)

(多吉)『おとっつあん、ほれ白猫を捕まえてきたよ』

(熊八)『おーおー、ご苦労だったな。こいつは立派な白猫じゃねーか。そいじゃ、おっかー、ちっとこの猫を抑えつけておいてくんねい。おいらがこの猫を今黒猫に変えちまうからな』

(八五郎)『熊さん、筆にたっぷり墨を含ませて、一体どうするつもりだい。あれあれ、頭から尻尾の先まで、黒く塗っちまって、これじゃ、折角の白猫が黒猫になっちまったじゃないかい』

(熊八)『だから、白猫を黒猫に変えると言ったろう。これで、万端整ったていわけだ。いよいよ出陣だな』

(八五郎)『出陣って、熊さんどこかで戦(いくさ)でもおっぱじめようってのかい』

(熊八)『バカだね、お前も。この猫を連れて、大家の爺さんのところへ乗り込むのよ。さぁ、八っつぁん、おいらについてきな』

というようなわけで、八五郎と熊八の両人が、いよいよ大家のところへ出向くことになりました。

(熊八)『へい、ちょいと、ごめんなすって』

(大家)『これはこれは、八っつぁんと熊さん、お揃いでお出ましとは珍しいじゃないか。何かあったのかい』

(熊八)『実は、大変珍しい、カラスの濡れ羽色のような白猫が手に入ったもんですから、大家さんのおかみさんへ差し上げようと思いましてね。おかみさんは、無類の猫好きっていことは、長屋中の評判で知らぬものがいませんからな。どうですカラスのような色の立派な白猫でござんしょ』

(大家)『おぉ、これは立派な黒・・・・、いや白猫じゃな。たしかにカラスと同じ色にちがいありませんな。では、この猫を預かっておいて、あとでうちの婆さんに渡すとしますか。どうも、お心遣いありがとうよ』

(熊八)『ちょいと待っておくんなさいな、あっしらは、おかみさんに、直(じか)に観ていただいて、この白猫を気に入っていただけるかどうか、確かめないと御暇(おいとま)するわけにはいきませんやな。ひょっとすると気にいってもらえないこともあるかもしれませんからな』

(八五郎小声で)『熊さん、どうしてあのチンクシャにそんなに気を使うんだい』

(熊八小声で)『バカだねお前も、これが今回の魂胆(こんたん)の勘どころじゃねーか。それに大家の前でチンクシャなんて言っちゃいけねーよ』

(大家)『どうしたい、だれか風邪でもひておられるのかな』

(熊八)『いえ、こっちの話でございます』

(大家)『そうかい、それじゃ婆さんをここへ呼ぼうかね。これこれ、婆さんちょいと出てきておくれでないかい』

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2011年3月24日 (木)

梅爺創作落語『カラスは白い』(3)

(八五郎)『ところで、熊さん、大家の爺さんをギャフンと言わせる方法ってのは、いったいどんなもんなんだい』

(熊八)『そうさなぁ、ここはひとつあの爺さんの弱みを突くしかなかろうなぁ』

(八五郎)『へぇー、あの屁理屈爺さんには何か弱みがあるっていのかい』

(熊八)『そりゃー、おめー、誰にだって弱みはあらーな。叩けば埃(ほこり)っていうだろう。あの爺さんの弱みは、つれあいの婆さんに頭が上がらねぇーてことだろう』

(八五郎)『へぇー、弱みは、あのチンクシャの婆さんかい』

(熊八)『あの大家の家は元々婆さんのもので、あの爺さんがうまくチンクシャにとり入って、婿として後継ぎになったのよ。まあ、そんなわけで、爺さんは婆さんに頭が上がらないってわけさ。ここはひとつ爺さんの眼の前で、婆さんに「カラスは黒い」って言わせてしまえばこっちの勝ちだな』

(八五郎)『なるほど。でもそんなうまいお膳立てはできるかい』

(熊八)『そこは、まかしておきなよ。オーイ、ター坊、ちょいとこっちへ来な』

(多吉)『なんだい、おとっつぁん』

(熊八)『おめぇ、わるいがちょっと近所を探してまわって、白い野良猫を一匹捕まえてきてくんないかい』

(多吉)『あいよ。でも三味線(しゃみせん)屋へ革を売るなら、白猫でなくてもいいんじゃないのかい』

(熊八)『いやそーはいかねーんだ。ここんとこはどうしても白猫でねぇーといけねぇーわけがあるんだよ。頼んだよ。それに、おっかー、筆とすずりを用意して、たっぷり墨をすっておいておくれな』

(熊八の女房)『何か思いつくと、いつもうちの亭主はこれなんだから。周りはわけがわからずテンヤワンヤで、いい迷惑だよほんとに』

(熊八)『てやんでぃ。あとは仕上げをご覧(ろ)うじろってんだい。文句があるなら後で言いな』

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2011年3月23日 (水)

梅爺創作落語『カラスは白い』(2)

(八五郎、大家の家から帰宅の道すがらの独り言)『へっ!驚いたねまったく。大家の爺さんは前から少し頭がおかしいとは思っていたけど、ありゃー相当ひどいね。ついにボケも始まっちまったのかね可哀そうに。それにしても「お前さんのような蒙昧(もうまい)な輩(やから)には、ちと分かるまいが、カラスは実は白いのじゃ」なんてよく言うじゃねーか。あきれちまうよ。でも、ここであの爺さんに下手に逆らって、長屋から追い出されでもしたら、割があわねーから、ここは一つ堪忍袋の緒をしめて、長いものに巻かれておいた方が利口ってぃもんだろうな。爺さんの前で、つい間違わねーように、てめーに言い聞かせておかねーと危ないな。えーと、「カラスは白い」「カラスは白い」・・・・・』

(熊八)『よぉ、八つぁん、浮かぬ顔してどうかしたかい。歩きながら何ブツブツ言っているんだい』

(八五郎)『どうにもこうにも、大家が大変なことになっちまってね』

(熊八)『偉そうにしていた罰があたって、ついにあの爺さんも往生でもしちまったのかい』

(八五郎)『往生してくれた方がまだましだよ。何を血迷ったのか「カラスは白い」と言いだした上に、長屋の皆の衆にも、そう伝えろと頼まれちまってね』

(熊八)『バカなことを云うんじゃないよ。昔から「カラスの濡れ羽色」てー言えば、おつな女の黒髪のことだし、「闇夜にカラス」といえば、暗い中じゃ黒いものは見え難(にく)いという例えじゃねーか。カラスは黒いに決まっているだろー。お前もまったくだらしがないね。大家の爺さんに言いくるめられたのかい』

(八五郎)『おいらも、カラスは白いなんぞとは思っちゃいませんよ。でも大家の爺さんは、どうしてもカラスは黒いと言いはる奴は、長屋から出て行ってもらうと脅かすもんだからね。ここはひとつ長いものに巻かれておいた方が利口じゃねーかと・・・』

(熊八)『何とも情けないねお前ってー奴は。そいじゃおいらがあの爺さんをひとつギャフンと言わせてやろうじあねーか』

(八五郎)『そんな強がり言って大丈夫かい。もし間違って長屋を追い出されたら、おかみさんもター坊も、路頭に迷うんじゃないかい』

(熊八)『てやんでー。そうなったって、亭主が正しいことを貫いたんだから、おっかーは「お前さんに惚れなおしたよ」というし、坊主も「おいらのおとっつぁんは日本一偉い」と言うにきまってるじゃねーか』

(熊八の女房)『へっ、そうかねー。何を粋(いき)がっているんだよ。ここは八つぁんの云うように、長いものに巻かれておいた方が利口にきまっているだろ』

(熊八)『てめー、こんなところでこっそり立ち聞きなんぞしやがって』

(熊八の女房)『何言ってんだよ。こんな狭い長屋じゃ、なにもかも筒抜けだよ』

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2011年3月22日 (火)

梅爺創作落語『カラスは白い』(1)

毎度いっぱいのお運びさまで、まことにありがたく存じます。

世の中には、物事の道理や人情ををよく弁(わきま)えた大変立派な方がおられ、こういうお方が、偉くなって人の上に立たれるのは、結構なことでございますが、中には、道理を弁(わきま)えないばかりか、自分の勝手な考えを周りにおしつけるといった、困ったお方もおられまして、こういうお方が人の上に立つっていなことになりますと、大変厄介なことになりかねません。

(大家)『やぁ、八つぁん、どうもお忙しい所お呼び立てして済まないね』

(八五郎)『どういたしまして、ところでどんな用件でござんしょう』

(大家)『つかぬことを尋ねるが、お前さんカラスの色をご存知かな』

(八五郎)『御隠居さん、藪から棒に酔狂にもほどがありますよ。カラスの色なんざ、そのへんを転げまわっている餓鬼どもでも知っていまさーね。カラスの色は黒でござんしょう』

(大家)『やはり案じていた通り、お前さんは蒙昧(もうまい)の輩(やから)じゃな』

(八五郎)『へっ?、もうまいのやからとは、一体何のこってすかい』

(大家)『ものごとの本当の姿を観る眼を持たぬ人間のことだな』

(八五郎)『御隠居さん、いくらなんでもそれはありませんぜ。たしかにあっしは、学問が無い人間でございますが、眼は人並みに二つもっていますから、御隠居さんの薄い白髪(しらが)も、顔のしわも、しみも、ちゃんと見えておりますぜ。御隠居さんは、カラスは黒くねぇとおっしゃるんですか』

(大家)『カラスの色は白じゃな』

(八五郎)『えっ!カラスは白い・・・』

(大家)『確かに、多くの人はカラスは黒いと申しておるが、色々考えてみても、カラスが黒いという確たる証拠がないことにわしは気付いたのじゃ。そこで、わしは更につらつらと考えを深めた結果、カラスは白いという結論に達したという次第じゃ』

(八五郎)『てーことは、御隠居さんはついにカラスが白いという証拠を見つけたってわけですな』

(大家)『この際証拠などは屁のつっぱり、つまり役に立ちませんな。他人の言葉などに惑わされず、心を研ぎ澄まして観れば、本当の姿が見えてくるものじゃ』

(八五郎)『こいつは驚きましたな。御隠居さんがつらつら考え、心を砥石でとぐっていと、世の中は変わって観えてくるんでございますか』

(大家)『蒙昧の輩には、ちと説明は難しいが、ありていに申せば、そういうことになるな。わしは常々この長屋の皆が、少しでも蒙昧から目覚めて欲しいと願っておるのじゃ。そこで、八っつぁんに、ひと肌脱いでもらって、皆にカラスは白いと伝えて欲しいんじゃ。引きうけてもらるかな

(八五郎)『お役目の筋はわかりましたが、長屋の他の野郎が、言うことを聞かず、蒙昧にこだわったら、どうしましょう』

(大家)『その場合は、店賃(たなちん)を倍にして、それでも言うことを聞かない時には、長屋から出て行ってもらうことになるな』

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2011年3月21日 (月)

武士は食わねど高楊枝

上方いろはカルタの『ふ』、『武士は食わねど高楊枝』の話です。

無精ひげで貧相な姿の武士が、食事をする金にこと欠いて空腹にもかかわらず、食事は既に済ましたよとばかりに、見栄を張って楊枝をくわえて見せている様子が思い浮かび、つい笑ってしまいます。

プライドのためなら、やせ我慢も辞せずという話ですが、庶民の武士を揶揄するる思いが間接的に表現されているようにも見えます。

『王様』は王様らしく、『武士』は武士らしく振舞わねばならないと、自分を律することは、悪いことではありません。地位が人をつくるということがあるからです。しかし、本来その器量が無い人が、地位や看板だけで、『自分は偉い』と勘違いするために、周囲の人たちが迷惑を被(こうむ)る例は、世の中に沢山あります。『実るほど頭を垂れる稲穂かな』という表現はこれを戒めたものですが、これを実践できる人は多くはありません。

本来、人がプライドを保つということは、地位や看板とは関係なく、自分が欲望だけに支配されないように、理性で自分を律することではないでしょうか。『理』で『情』を制することができるのは、人間だけの特徴であり、人間らしさの根源はここにあるのではないかと梅爺は考えています。見栄のためにやせ我慢をするというのは、『自分を自分以上に見せたい』という欲望に支配されていことでもあり、本来のプライドからみれば、本末転倒な話です。

『善良な心』と『邪悪な心』を併せ持つようにできている人間が、『善良な心』を優先して生きていきたいと願うのは、その方が人と人の絆が強固になり、巡り巡って自分のためにもなると『理』で考え付くからです。『倫理』や『道徳』はその様にして人間が考え付いたもので、神に依って授けられたものではないと梅爺は考えています。『邪悪な心』は悪魔の囁きではなく、他人のことを考えずに自分の欲望だけを優先させてしまうことです。生き残りのためならば何でもするという生物としての本能が『邪悪な心』の元ですから、誰もが『邪悪な心』も持っていることは不思議な話ではありません。『邪悪な心』を持っていることが恥ずかしいのではなく、それを『善良な心』で制することができないことが恥ずかしいということになります。

梅爺は、仕事の現役時代に、外国人とビジネス折衝する時には、『日本人を甘く見られてなるものか』と、必要以上に見栄を張っていたように思います。今にして思えば、『武士は食わねど高楊枝』そのもので、武士を笑う資格はありません。

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2011年3月20日 (日)

何故アメリカの報道内容を信用するのか

『梅爺閑話』では、世相、時事問題を評論しないということを原則としてきましたが、原発事故に関する日本の新聞記事を読み、枝野官房長官への新聞記者の質問を聞いていると、新聞関係者は『アメリカの報道は信用できる、アメリカの姿勢が正しい』ということを無条件に前提としているように見受けられ、梅爺は、腹立たしくなり、またまた禁を破ってこのブログを書いています。

原発事故が判明した時に、アメリカから解決のための協力申し入れがあり、日本の菅総理が『断った』ことに関して、読売新聞には、かなり大きな見出しで『米国日本に不信感』という記事が掲載されていました。これでは、折角のアメリカの好意を、踏みにじったのは菅総理の『落ち度』であるという印象を読者に与えかねません。アメリカの協力申し入れを受け入れるか、受け入れないかは、日本の国益を考えて日本が決めることであり、どちらが正しいかについて、各自の意見はあるにせよ、日本の責任者が『断った』と客観的な表現でとどめるべきでしょう。

梅爺がもし総理大臣であったとしても、『ご厚意には感謝するが、お断りする』と、やはり伝えると思います。この原発を設計、製造したのは日本であり、アメリカの関係者より、圧倒的に多くの情報を日本の関係者は保有しています。つまり日本の方が問題解決の『当事者能力』が高いと判断します。もし、アメリカの関係者が乗り込んできたら、説明するだけで(しかも英語の通訳付きで)時間がもったいなく、第一、具体的な方策についてアメリカの提言があった時に、決定責任者はそれをどう扱うか、命令系統はどうなるのかなど、混乱することが予測できるからです。緊急時には、無駄を極力排除し、決断、命令系統を簡素化することが肝要です。日本の知恵者(当事者能力の保持者)の努力、頑張りに全てを託そうと、当事者能力の無い日本人(梅爺のような)は、ここはひとつ腹をくくるしかありません。

外国との外交、ビジネス折衝では、『申し入れを断る』ことは、立場が異なるわけですから、当然頻繁に発生します。梅爺も仕事の現役の頃は、よく『断り』、『断られ』ました。折衝当事者が個人的に『不快』と『感ずる』ことがあっても、国と国、会社と会社の間で一々『不信感』の表明など行わないのがルールです。そのような常識なしに、日本の新聞が何故ここに『不信感』などという曖昧で情緒的な表現を持ちこむのか、梅爺は理解ができません。

これ以外に、枝野官房長官に対する新聞記者の質問に、『今日のアメリカの新聞で、こういう(原発事故に関して)報道があったが、どう思うか』というものが多く、これにも梅爺は驚きました。あたかも、アメリカが正しい報道をしていて、日本政府や枝野官房長官が、日本の国民や新聞記者を騙そうとしているのではないかという、非難の意図を感じたからです。

梅爺は、アメリカの報道は正しくないと言っているわけではありません。しかし、新聞記者が、日本の政府見解と異なったアメリカの報道が正しいと思うなら、その裏付けを自分で取材し、確信を得て日本政府を糾弾すべきです。自分は動かず、取材もせず、考えもしないで、『今日のアメリカの新聞の報道をどう思うか』などと質問するのは、自分のレベルの低さを自ら露呈しているようなものです。これでは日本の政治家のレベルが低いなどと、言えたものではありません。この程度のことで許されるなら梅爺でも新聞記者が務まります。

『何事もアメリカ追従の姿勢は怪しからん』などと、国の外交姿勢について、鬼の首を取ったように言っていたジャーナリストが、実は一番『無条件にアメリカ依存してしまう体質』なのではないかと、失礼ながら疑いました。

血圧には悪いと知りながら、こんなことで梅爺はカッカし続けています。

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2011年3月19日 (土)

知の巨人『ジャレド・ダイヤモンド』(6)

ダイヤモンド博士の『文明崩壊』という著書には、アメリカ人が最も自然が残っていると考えているモンタナ州で、実は深刻な自然崩壊が進行していることを示す例などが含まれており、原稿を読んだ奥さんから、『こんな暗い話ばかりでは、読者は読みたくなくなるのでは』と指摘され、『成功例』も挿入したと、インタビューで話しておられます。

その一つが、日本の徳川幕府がとった、木材用途限定、植林奨励の政策です。日本は、国土の70%が森林という恵まれた国ですが、決して偶然だけではなく、先人の先見性のお陰と言うことになります。しかし、木材建築主流の日本では、それでも現在東南アジアやカナダなどからの木材輸入に頼っています。世界経済は『一蓮托生(いちれんたくしょう)』になっているわけですから、オランダの干拓地(ポルダー)に世界中の人が住んでいるようなもので、堤防の決壊があれば、裕福な人も貧しい人も関係なく大打撃を受けます。比較的裕福な日本が、資源を外国から購入できるといってみても、一人だけ生き残れるわけではありません。将来人類が生き残れるかどうかは、人類が全員『ポルダーで生活しているという認識』を持てるかどうかにかかっていると、ダイヤモンド博士は指摘しています。明治の初めまでは、日本は『木材』『主食料』の自給国であったことを考えると、今考えるべき国家政策は、これらに加え、エネルギー源の自給率を改善することではないでしょうか。

世界の現状を、『二頭の馬に引かれて疾走している馬車のようなものだ。一頭は(生き残り)という馬で、もう一頭は(破滅)という馬で、最後にどちらの馬が勝つかは今のところ分からない』とダイヤモンド博士は表現しておられます。

インタビューの最後に、『未来への提言』を一言で表現して欲しいと言う要請に対して、博士は『Hope 51%』と色紙に書きました。自分は『慎重な楽観主義者である』と言われる博士でさえも、『生き残り』という馬が勝つ確率は、1%だけ上回っているだけという厳しい警告です。しかも、それも根拠があるわけではなく、願望を込めてのことですから、私たちは重く受け止めなければなりません。

私たちは、自分の周囲だけが世界であると思い、嫌なことは考えたくないという習性を持ち、危機が目前に迫るまでは気付こうとしない面がありますが、『知の巨人』の洞察は、無視してはいけないのではないでしょうか。しかし、地球上の全員が『自分だけは、なんとか生き残れる』という考えを捨てることは、容易ではありません。人種、国家を超えて、人類がそのような共通認識を保有したことは、歴史上一度もないからです。ダイヤモンド博士が、1%に一縷の望みをかけた気持ちが分かるような気がしました。

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2011年3月18日 (金)

知の巨人『ジャレド・ダイヤモンド』(5)

地球上には、現生人類が残した『文明遺跡』が沢山残されていますが、何故その文明が滅んだのかについては、必ずしも明確に分かってはいません。多くは2000年以上前の、古代に属するものですが、ペルーのマチュピチュ遺跡、イースター島遺跡(モアイ像で有名)のように、数百年前に、突然滅んだものもあります。

『盛者必衰』の原則から、私たちは逃れられないとすれば、『現代文明』も『人類』も、いつかは滅びるという暗い予測になります。『あなたは、なんとネガティブな人なのだ』と言われそうですが、梅爺は『長い時間軸』で話をしているだけで、今日明日人類が滅びると言っているわけではありません。『長い時間軸』で観れば、『大氷河期が再び訪れる』『大きな隕石が地球と衝突する』『太陽が燃え尽きる』など致命的なことが起きることは、高い確率で予測できます。

『現状を少しでも長く持続させる努力をする』ことが無意味であるというつもりはありません。『死』は必然と分かっていても、少しでも健康でいたいと個人が願い、努力することと同じことです。

ダイヤモンド博士は、文明の崩壊は、『自然環境の大きな変化』であり、その中には『人類が自ら自然環境を破壊してしまった』事例が多いことを立証していきます。アメリカのニューメキシコ州の砂漠の中に、先住民が残した『アナサジ遺跡』があります。7世紀から600年間くらい続いた文明で、石積み建築で、現代なら6階建ての建物に匹敵する当時としては驚異的な技術を持っていた文明であることが分かっています。13世紀に、突然『アナサジ遺跡』は、見捨てられました。ダイヤモンド博士は、地質の科学的調査などで、『アナサジ遺跡』一帯は、当時樹木が生い茂り、雨水も貯めることができる環境であったことを明らかにします。高度な建築技術が災いして、建築資材として周囲の樹木を伐採し過ぎたために、雨水も利用できない荒れ地に環境が変わり、人々は、この地を放棄さざるをえない状態になったことが文明崩壊の原因と推定しました。森と水が失われたことになります。イースター島の文明崩壊も同じく、樹木伐採が原因と推定しています。

このことは、私達に大きな教訓を残したことになります。私たちは、現代文明を発展させようと、地球上の熱帯雨林を伐採し続けており、このままでは、あと100年で地球上から熱帯雨林が消滅すると言われています。これは、現代文明を崩壊させるために、わざわざ自分で墓穴を掘っていることに他なりません。

地球の自然環境を『変えない』ことが、人類が生き延びる条件であるとすれば、自ら『変える』ことに手を貸すのは、馬鹿げていることは明白です。勿論、人間の能力ではいかんともしがたい自然環境変動の要因はありますが、少なくとも人類が変動を速めることに加担しないような努力をしようという考え方はごく自然で、反論の余地はないように思えます。

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2011年3月17日 (木)

当事者能力の欠如(2)

梅爺は、『自分であるにもかかわらず不可思議で理解できない自分』を見つめることを主目的として『梅爺閑話』を書いてきました。世相や事件に接して『世の中』や『日本』が『おかしい』と糾弾することは、他の方々が沢山ブログに書いておられますので、それに任せればよいと考えてきました。『梅爺閑話』が世直しに貢献するとは思えなかったからです。しかし、今回は堪りかねて、原則を破り、『日本はおかしい』という内容のブログを書いています。

平常時には見えない本質的な問題が緊急時には見えてきます。平常時には、皆が『ああだ、こうだ』と勝手な意見を言い、小田原評議を繰り返していても、さほど問題はありませんが、緊急時には、問題解決のための『当事者能力を持つ人たち』『対応を具体的に決断できる責任者』の存在が重要になります。迅速に、効果があがることから優先順序を決めて実行しないと、事態がさらに悪化するからです。その他の人たちも、『情』に駆られて、何かを言いたくなるのは当然ですが、緊急時に限っては、その行為が、『当事者』や『責任者』の邪魔にならないように配慮する必要があります。問題解決に貢献しない野次馬がいくら沢山いても役には立ちません。このブログを書こうかどうか梅爺が逡巡したのは、梅爺も野次馬の一人であるという矛盾を感じたからです。

それでは、『当事者能力を持った人たち』と『決断責任者』になら、絶対間違わないことを期待できるかと言えば、それも無理であると承知しておかなければなりません。最高の人材でも、間違いを犯すことがあることも、認めざるをえません。『事故を起こしている原発から、何キロメートル退避したら、絶対安全なのか』などと詰め寄ってみても保証は得られません。知恵者もある確率でしかものは言えないからです。人間の能力では予測できないことがこの世には存在することは、今回の災害規模からも明白です。それでも緊急時には、知恵者といえども間違いを犯すことがあることを覚悟して、運命を託すしかありません。

今回の災害で、日本には、国民が運命を託すことができる、『当事者能力の持ち主』『決断責任者』が存在するのかが問われています。梅爺は、『当事者能力の持ち主』の存在は疑いませんが、『決断責任者』の存在に不安を感じています。『一人でも多くの人命を救うことを優先して行動してほしい』などと抽象的な訓示を垂れることなら梅爺にでもできます。『決断責任者』の仕事は、そのための具体的な手段を、どの順序に実行し、その経済的費用の裏付けにも責任を負うことです。

難しい状況の中で、効果的な手段を『理』で考え出し、その内容を、普通の人にも理解できるように表現できる能力を持つリーダーが、日本には少ないと言う弱点が、今回のことで浮き彫りになったように思います。

『今回の災害は、日本人への天罰だ』などとしかコメントできない人は、リーダーとして論外です。しかし、少なくとも、素晴らしい対応をする人が出現すれば、その人およびその政党に、国民は間違いなく投票するでしょう。未曾有の困難に直面しているからこそ、政治家にとっては、真価、力量を発揮する絶好のチャンスとも言えます。災いを転じて、国民に気持ちを一つにして奮い立つよう、説得する機会でもあります。アメリカ9.11事件の時に、ニューヨークのジュリアーノ市長が、陣頭指揮で一気に名声を獲得しました。しかし、日本の現状政権の、青息吐息の対応を見ていると、梅爺はむしろ心が萎えてきます。『リーダー不在』の日本の弱点は、国民も加担してつくりあげてきたしくみの歪(ひずみ)ですから、今更嘆いてもしかたがあませんが、そろそろ、『当事者能力の無い人』は『リーダー』にはなりにくいというしくみをつくることに、皆で本気で取り組む必要があるのではないでしょうか。高度に複雑化した社会では、『リーダー』には、なりたい人がなるのではなく、『情』と『理』を駆使して、ものごとの本質を総合判断できる資質をもった人がならないと、うまくいきません。

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2011年3月16日 (水)

当事者能力の欠如(1)

梅爺は、今回このブログを書くことに逡巡(しゅんじゅん)がありました。大地震・津波災害の報道番組を観ていて、明らかに、問題の本質を理解できていない『当事者能力を欠いた』アナウンサー、コメンテーター、現地レポーターが、馬鹿げた質問をしたり、根拠のない思いつきや想像に基づく発言を無責任にしたりするのに接して、腹立たしく感じましたが、そういう梅爺も『当事者能力を欠いている』点では、同類であるという矛盾を抱えているからです。

人間を理解するには、人間の脳が『情』と『理』で反応することを知っている必要があると何度も書いてきました。

今回のような災害を体験すれば、誰もが『情』で、『苦しい』『悲しい』『やりきれない』と感じ、『恐怖』『不安』というストレスを抱え込みます。そして『少しでも良い方向へ転じて欲しい』と『願い』『祈り』ます。しかし、残念なことに『願い』や『祈り』は、問題解決には直接つながりません。オバマ大統領から『お悔やみのメッセージ』が寄せられることは、ありがたい話ですが、本質的な問題解決とは無関係です。

人は『恐怖』『不安』のストレスを受けると、自分でそれを何とか『回避したい』『緩和したい』と本能で感じます。そのためには、手掛かりとなる『情報』はないかと探します。『情報』の取得能力、解析能力の多寡(たか)が、生死を決することにもなりかねません。生物進化の過程では、これで『勝者』が生き残ってきました。報道メディアが、災害に関するできるだけ多くの『情報』を流すことは、その意味で重要なことですが、『情報』を受ける方が、対応能力を欠いていると、『情報』は次なる『恐怖』『不安』を産みだし、増幅してしまうことにもなりかねません。

『できるだけ生の情報をそのまま大衆へ届ける』ことと、『コントロールした情報を大衆へ届ける』ことの、どちらが結果として『良い結果』をもたらすかを判断することは一般論としては難しい話です。為政者は、往々にして『大衆は情報対応能力を欠いているので、生の情報は社会パニックを引き起こす』と判断し、『コントロールした情報』を流そうとします。大衆は、自分に情報対応能力があるかどうかは棚に上げて、『真実を隠すのはけしからん』と叫びます。それでも、テレビ時代の怖ろしく、また素晴らしい所は、『コントロール情報』を発表する人の、落ち着きのない素ぶりや目つきを観て、視聴者は『何か、後ろめたさがある』と嗅ぎ取ることもできてしまうことです。『落ち着きのない素ぶりや目つき』も『情報』なのです。

『恐怖』『不安』を解消、緩和する方策は、人間の『理』で考えだされるものであることを、理解することが重要です。『情』だけに駆られて、『困った』『何とかしろ』と怒鳴ってみても、具体的にものごとは好転しません。そして、多くの場合『理』で対応を考えるには、高い専門知識やノウハウが必要になります。原発の事故は由々しき事態であることは、誰でも『情』で感ずることができますが、今起きている事態を好転させるには、専門知識を持った『当事者』を必要とします。梅爺は、この件に関しては『当事者能力』を保有していません。

緊急事態が発生した時には、『当事者能力を持つ人またはグループ』が誰であるかを特定し、更にその人たちが進言する『対応策』を実施するかどうかの『決断』をする『決定責任者』を特定し、明らかにすることが重要です。梅爺が会社の時代に、責任者として緊急事態に遭遇すれば、そのように対応してきました。それ以外の人たちは、『当事者能力を欠いている』わけですから、『当事者』『決定責任者』を信じ、邪魔をしないように振舞うことが求められます。それが厭なら、会社の場合は、会社を辞めるしかありません。

原発の事故に関して言えば、『当事者能力を持つ人たち』『決定責任者』が誰なのかが判然としないところが、大衆の不安、イライラの要因になっているように思います。東京電力のスポークスマンとしてテレビに出てくる人たちは、記者の質問にも的確に答えられずにしどろもどろしてるわけですから、明らかに『当事者能力』を欠いているとしか梅爺には思えません。そうでなければ『お茶を濁してこい』と誰かに命令されて出てきたとしか思えませんが、それにしては演技不足です。梅爺がもし東京電力の経営者なら、恥をさらし続けることに耐えられず、即刻体制や人材を変えるように指示するでしょう。

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2011年3月15日 (火)

知の巨人『ジャレド・ダイヤモンド』(4)

『ジャレド・ダイヤモンド』博士が、『何故ユーラシア大陸発祥の文明が今日の文明の礎(いしずえ)になったのか』という問いに下した答は『小麦』と『家畜』でした。『小麦』は、イネ科の野生植物が原種ですが、これが『偶然』チグリス・ユーフラテス川流域に『存在』していました。『小麦』は、『高エネルギー源、高栄養素源』『高栽培効率』『備蓄可能』という特徴を有し、まとまった人口が、安定して『定住』できる要素として有利です。同じくユーラシア(アジア)に『偶然』存在した『稲(コメ)』も『小麦』と同様に定住農耕に向いた食料源となりました。中南米原種には『トウモロコシ』『カボチャ』『ジャガイモ』が、アフリカ原種には『アブラヤシ』『タロイモ』が、ニューギニア原種には『サトウキビ』『バナナ』がありますが、いずれも『栽培効率』『備蓄性』などで、『小麦』『コメ』に劣ります。

地球上には、沢山の哺乳動物がいますが、『人間が飼いならすことに成功した種』は14種で、そのうち13種がユーラシア大陸原産です。例外は南米のリャマだけです。飼いならされた動物は、飼育が可能となり、『乳の搾取』『食肉の確保』『使役』に供されることになります。馬、牛、豚、羊、山羊、象などすべてユーラシア大陸で『家畜化』されました。これも、まとまった人口が、安定して『定住』できる基盤となりました。

そう言われてみれば、『動物の宝庫』であるはずのアフリカには、飼いならすことに成功した哺乳動物が見当たりません。『シマウマ』も野生のままです。一方、農耕には適した肥沃な土地がありながら、現生人類が到達した頃の北米、南米には、『家畜』化できる動物がほとんどいなかったことになります。

文明発祥には、『小麦、コメとそれが栽培できる肥沃な土地』『食用、使役に仕える家畜』の二つが、必要条件であり、これを満たす地球上の場所が偶然ユーラシア大陸であったというダイヤモンド博士の指摘は、云われてみれば当たり前のようですが、誰も今までにそのような『文明発祥論』を述べた人がいないわけですから、説得力があります。たとえば『車輪』構造は、古代のメソポタミアとメキシコで別々に発明されましたが、馬と組み合わせたメソポタミアでは、大きな進化(荷車、戦車など)があり、馬がいなかったメキシコでは、大きな進化が起きませんでした。

ユーラシア大陸に住んでいた現生人類が、特に『賢かった』わけではなく、『偶然自然環境に恵まれていた』ことになります。『小麦、コメ』『家畜』はその後、他の地方へももたらされ、今日に至っています。羊が一匹もいなかったオーストラリアやニュージーランドは、今では世界有数の羊毛生産国に変貌しています。

『偶然の自然環境と、人間の能力とのインタラクション(相互作用)で文明が生まれた』という見解は、自然の摂理の基本に『動的平衡(自律分散処理)』が関与していると考えている梅爺には、異論なく受け容れられるものでした。自然環境の提供主が『神』であるとしても、この場合の『神』は、『意図』より『偶然』の色彩が強く、『人間だけに都合のよいもの』を提供してるようには到底見えません。人間は、自然環境の中の偶然な条件が幸いして出現し、現在棲息(せいそく)しているに過ぎません。地球の歴史の時間を巻き戻して、再度再生しなおしてみても、人間が必ず出現するという保証はありません。

『人間は、自分の手で自然環境を破壊し、文明が滅んでいく』という見解を、ダイヤモンド博士は次に展開します。

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2011年3月14日 (月)

梅爺の逃避奮闘録(2)

東京駅で、午後7時過ぎに、『JR東日本は、首都圏の電車の運行は終日行わないことを決定した』というアナウンスが、早々とありました。余震の二次災害を懸念することが強い要因と推測でき、『しかたがない』と思いましたが、足止めされて、途方に暮れていた多くの人の一縷の望みが断たれました。梅爺も、これは駅で徹夜になるとあきらめ、行列が並ぶ『立ち食いそば屋』で、なんとか夕食を取りました。

そのうちに、営団地下鉄の銀座線やその他の一部路線で、運行再開のアナウンスがあり、うまくいけば地下鉄で、東京から新宿までは移動できるかもしれないという望みが湧いてきました。帰宅は明日になるとしても、どうせ徹夜なら新宿でも良いと考えたからです。二次災害を恐れて早々に運行中止を決めたJRより、なんとか復旧を早めようとする地下鉄や私鉄の姿勢に、困っていた梅爺は親近感をおぼえました。人間は常に自分の都合でものごとを判断するということなのでしょう。そこで、JR東京駅から、地下鉄丸ノ内線の東京駅へ移動し、地下道の一部の空きスペースを見つけて、多くの人たちと一緒に座り込み、状況の変化を待ちました。夜中の12時ごろに、地下鉄路線の中ではもっとも遅く丸ノ内線が動き始め、とりあえず新宿へ移動しました。

新宿へ着いて、今度は西武新宿線が動けば、青梅線の拝島(はいじま)まではいけるかもしれないと、望みがわき、西武新宿線の新宿駅へ向かいました。ここでも長蛇の列ができていて、それでも1時間くらい並んで待つうちに、幸運なことに電車の運行が開始され、夜中の1時過ぎに『拝島行き』に乗ることができました。『拝島』には2時すぎに到着し、ここからは歩くしかないと覚悟を決めて、1時間半夜道を歩き続け、3時半過ぎに、帰宅できました。

地震発生から約12時間半で、都心から青梅へ帰り着くことができたわけですから、結果的に最も効果的な判断をし、行動したと言えそうです。こういう行動ができたのも、単独に自分の決断だけに従ったからで、連れや仲間がいる場合は、それぞれの事情や価値判断が異なり、なかなかこうはいかなかったのではないかと思います。『ホテルは予約できないか』『タクシーはひろえないか』『1時間以上歩き続けるのは無理』などと色々な意見の調整で、右往左往することになったのではないでしょうか。人生で自分だけの判断、責任で行動できる機会は意外に少ないものです。

帰宅して、テレビを観て、被害の大きさを改めて知りました。実は、数日前(8日)に、思い立って亡父の実家近辺を一度訪ねてみたいと、土浦に住む長兄に道案内を頼み、鹿島灘に面する場所へ梅婆ともどもドライブしてきたばかりでした。実家やお墓が今度の津波でどのような被害を受けたのかが気がかりですが確認できていません。偶然とは言え、実によいタイミングで、『梅爺のルーツ探訪』を実行していたことになります。

『地球のしくみ』からして、地震は避けられないものとは言え、巨大な自然の力の前には、人間がほとんど無力であることが分かります。日本のような文明国で、比較的裕福な国でも、人間が講ずることができる『防災手段』には、残念ながら限度があることも思い知らされます。それにしても、政治的、経済的に混乱を極めている最中のこの災害は、日本にとっては『泣きっ面に蜂』で、暗い気持ちになります。生きていると色々なことを体験するもので、背負いきれないほどの『冥土の土産』がどんどん増えていきます。

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2011年3月13日 (日)

梅爺の逃避奮闘録(1)

梅爺にとって人生最大の地震を、銀座のビル地下2階にある居酒屋で宴会中に体験しました。年に一度の、『会社時代の同期会』の最中で、平均年齢70歳の46人の爺さん達が、酒の勢いも借りて、健康談議、趣味談議、孫談議に花を咲かせていた時のことでした。去年から、コスト・パフォーマンスが良いと言う理由で、この居酒屋が会場になっています。

揺れの大きさ、揺れの持続時間の長さで、『これは尋常な地震ではない』ことは、誰もが気付きました。ニュージーランド、クライスト・チャーチのような最悪の事態が頭に浮かび、『何はともあれ、倒壊の下敷きになる前に、地上へ脱出すべき』であることは、考えつきましたが、誰もそれを実行した人はいませんでした。その場で揺れに耐えるのが精いっぱいであったからです。平常時に作成された『防災マニュアル』通りには、人間はなかなか行動できないものであることが分かります。すぐに『全ての交通機関がストップしている』とお店の人から告げられました。

急遽宴会を打ち上げて、外に出てみると、銀座の街は、歩行者や、ビルで勤務していて、外へ退避した人であふれていました。ビルの高層階のガラスが割れたり、看板が倒れたりという様子はないことはすぐに確認できました。さすがに『地震大国日本』と感服したのは、ビルの外へ退避した多くの人たちが、会社から支給されたヘルメットをかぶり、非常時に必要なものが入っているリュックサックを背負っていたことでした。防災ヘルメットや、非常用リュックサクをほとんどの会社が常備しているということなのでしょう。

さて、ここから一人ぼっちではぐれてしまった梅爺が、『どう行動するか』を判断し、『実行』せざるを得ない孤独な状況になりました。とりあえず、『無事』を梅婆に知らせ、梅婆の状況も通話で確認しようと携帯電話を何度もかけましたが、全くつながらず、災害状況情報を入手しようと、携帯電話でインターネットサイトへアクセスしようとしましたが、これもつながらないことが分かりました。通話をあきらめ、携帯電話のメール発信を試みましたら、何度かのトライで運よく送信できました。これに対して梅婆の返信メールがあり、お互いの無事が確認できました。関西に住む娘からもも、『思いつきで行動せずに、安全な場所にじっとしていなさい』という忠告メールがありました。梅爺の『向う見ずな盲動癖』を心配してのことでしょう。時間はかかりましたが、埼玉県和光市に住み、都心に勤務する息子一家の全員無事もメールで確認できました。携帯電話で、テレビのワンセグ放送も受信でき、断片的ではありますが、災害の状況も知ることができました。いざと言う時に、つながりずらいという難点はありますが、携帯電話の威力は大変なものです。周りを見渡しても、ほとんどの人が携帯電話を利用していました。

交通機関の復旧を待つためにも、大きなターミナル駅まで歩いていくしかないと判断し、とりあえず東京駅へ向かいました。都心から青梅へ戻るには、中央線が頼りの綱と考えたからです。東京駅は、列車や電車が動くような状態ではなく、途方に暮れた人たちでごった返していましたが、とりあえずペットボトルのお茶と、非常食となる菓子を購入し、駅構内の階段に腰かけて、『情報』を待つことにしました。長期戦は覚悟し、持っていた本を読むことで気を紛らわせようとしましたが、堅いコンクリートの上に、寒い環境で長時間座り続けることは、想像以上の苦痛で、結局時折無目的にその辺を歩いては時間をつぶすことになりました。『二次災害を避けるために、安全な場所にじっとしていなさい』というような『対応マニュアル』は、頭では理解できても、人間は、肉体的苦痛、精神的不安の中で、そのとおりには、行動しにくいことが分かりました。

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2011年3月12日 (土)

知の巨人『ジャレド・ダイヤモンド』(3)

『ジャレド・ダイヤモンド』博士の著作は、現在までに以下の4冊です。

(1)The Third Chimpanzee: the Evolution and Future of the Human Animal, (HarperCollins, 1992).
長谷川真理子・長谷川寿一訳『人間はどこまでチンパンジーか?――人類進化の栄光と翳り』(新曜社, 1993年)
(2)Why is Sex Fun?: the Evolution of Human Sexuality, (BasicBooks, 1997).
長谷川寿一訳『セックスはなぜ楽しいか』(草思社, 1999年)
(3)Guns, Germs, and Steel: the Fates of Human Societies, (W.W. Norton, 1997).
倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎(上・下)』(草思社, 2000年)
(4)Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed, (Viking, 2005).
楡井浩一訳『文明崩壊――滅亡と存続の命運を分けるもの(上・下)』(草思社, 2005年)

(1)(2)は、本来の生物進化学に関するもので、(3)(4)が『文明論』です。(3)でピューリッツァー賞を受賞しています。

梅爺は、どれも読んでいません。かなり頻繁に書店の洋書コーナーを探索してきたつもりですが、目にとまらなかったとすると、梅爺のアンテナ感度は怪しいものだと自信がなくなりました。いずれも翻訳本が日本で発刊されているようですが、できれば、ダイヤモンド博士の『息吹』に直接触れてみたいと思いますので、原書を見つけた時に購入したいと思います。翻訳本を信用していないと言う意味ではありません。

ダイヤモンド博士が、『何故ユーラシア大陸で発祥した文明が現代文明として隆盛なのか』という『疑問』をもったのは、生物学者としてニューギニアの調査に出かけた時に、原住民から『あなたたちは、沢山新しいものを持ってくるが、どうして自分達はこれらを見つけたり、作ったりすることが出来なかったのか』と問われた時であると、インタビューで語っておられます。学者にとって、沢山のことを『知っている』ことより、『適切な疑問』を想定できる能力が大切であることが分かります。『適切な疑問』さえ設定できれば、もう勝負あったも同然であるからです。

原住民の問いへ、ヨーロッパ人は、『大変申し上げにくいのですが、私達(ヨーロッパ人種)の方が、あなた達(ニューギニアの人たち)より、賢かったからです』と答えるかもしれませんが、それは全く根拠がないことです。ダイヤモンド博士は、一日ニューギニアの人たちと付き合っただけで、彼らが人間としては、ヨーロッパ人に負けないくらい『賢い』人たちであることに気付いたと述べておられます。それでは一体何故『ユーラシア大陸発祥の文明』が世界を制覇したのでしょう。ダイヤモンド博士の慧眼(けいがん)がここからいよいよ発揮されることになります。

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2011年3月11日 (金)

知の巨人『ジャレド・ダイヤモンド』(2)

『ジャレド・ダイヤモンド』博士は、ユダヤ系アメリカ人で、現在カリフォルニア大学ロスアンジェルス校(UCLA)の現職の教授です。73歳で、旺盛な執筆活動、研究活動を継続されているわけですから、70歳の梅爺が、すっかり『爺さん隠遁気分』になっていることが恥ずかしくなります。元々は、進化生物学、生理学、生物地理学などが専門分野でしたが、更に言語学、考古学などの知識を深め、ついに文明の盛衰に関する洞察へ到達しました。まさに『学際的(Interdisciplinary)』な現代の『知の巨人』と呼ぶにふさわしい方です。

特に、自然科学の分野の学者が、歴史(文明論)という人文科学の分野を論じていることに意味があるように思います。人文科学の世界は、『こうであろう、ああであろう』と、『仮説』が飛び交い、それが『仮説』のままで放置されがちですが、自然科学では、『仮説』は、矛盾がないことを何らかの手段で論証しなければなりません。『仮説』の提示は無意味ではありませんが、それだけでは説得性を欠きます。

『梅爺閑話』の中でも、色々なことに梅爺の『仮説』が多く提示されていますが、多くは論証のプロセスが提示されていません。提示したくてもする能力を欠いているからで、個人的な単なる『頭の体操』に止まっています。お読みになられた方が、『やたらと自説を押しつけたがる爺さん』と感じておられるようであれば、まことに不徳のいたすところです。

日本人から、ダイヤモンド博士のような、『学際的な自説の提示』をする学者がなかなか現れないのは、どうしてなのでしょう。少々失礼な言い方をお許しいただければ、明治維新以来、『他人の業績を渉猟(しょうりょう)し、追確認する』ことを『学問』と勘違いしているからではないでしょうか。日本では『あの学者はああ言っている。この学者はこう言っている』と評論できれば『知識豊富な学者』と認められます。しかし、本来『学問』は、自分の中にある『疑問』に、自分の能力で答えることではないでしょうか。日本でも、専門分野の中に『疑問』を限定して、たまたま素晴らしい成果をあげ、ノーベル賞を受賞する学者は現れますが、ダイヤモンド博士のような学際的な学者はほとんど現れません。

ダイヤモンド博士の『疑問』は、『何故、現代へ影響を与えている人類の文明は、アフリカ大陸やアメリカ大陸ではなく、ユーラシア大陸で発祥したものであるのか』というものです。このような『疑問』に、学際的な考察無しに答えることはできません。

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2011年3月10日 (木)

知の巨人『ジャレド・ダイヤモンド』(1)

人類の『文明』の『興隆』と『衰退』については、多くの歴史学者が過去に論じてきました。特に古代文明については、残されている遺跡から『興隆』と『衰退』があった『事実』は確認できますので、盛衰の本当の理由は『ああだろう、こうだろう』ともっともらしい『仮説』が沢山述べられ、梅爺も『そうかもしれない』とは思いながら、なんとなく『隔靴掻痒(かっかそうよう)』で、的を射ていないようなもどかしさを感じていました。事象を表面的に解説することは、誰にでもできますが、本質を見抜くことは容易ではないからです。

現代文明の基盤は、ユーラシア大陸の現生人類が創り上げたものです。物や情報が自由に移動する今日では、ユーラシア大陸以外に住む人たちも現代文明の恩恵に浴することができますし、新大陸アメリカが現代文明の牽引国になっていることなどから、本質が見えにくくなっていますが、何故現生人類発祥の地であるアフリカや、肥沃な土地や資源に恵まれた北米、南米大陸で、現代文明が産声を上げなかったのかは、考えてみれば不思議な話です。

NHKBSハイビジョンで、アメリカの生物地理学者『ジャレド・ダイヤモンド』博士へのインタビュー番組、『未来への提言』が放映され、梅爺は録画して興味深く観ました。コンピュータで仮想地球儀をつくりだし、世界規模で環境問題をシュミレートしている京都造形芸術大学の竹村真一教授が、アメリカまで出かけて英語でインタビューする形式で、本質を理解していないNHKのアナウンサーが、表面的な質問をする、いつものインタビュー形式(『100年インタビュー』と言う番組の形式)より、安心して観ることができました。

『知』の内容を解説してもらうために、『無知な質問』をするという形式も、勿論ありますが、やはり『知』と『知』の対話の方が、スリリングです。こちらのアンテナ感度が低ければ、相手のレベルを感知できません。梅爺は、自分なりの『知的冒険』を求めて、錆つきそうなアンテナの感度劣化を防ごうとしていますが、なかなかままなりません。

『ジャレド・ダイヤモンド』博士は、文明の『興隆』は、偶然の自然環境によるもので、『衰退』の多くは、人類自らがその自然環境を破壊したからであると、述べておられます。科学者らしく、それを具体的に論証しようとしますので、説得力抜群です。梅爺は、『眼から鱗が落ちる』ように、『なーるほど』と感服してしまいました。

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2011年3月 9日 (水)

悲劇の中の善意(4)

アフメドの臓器が提供された難病の子供は5人で、2人はパレスチナ人の子供、1人はユダヤ人の子供であることが判明しています。名前が公表されることを3人の親は了解した結果です。しかし、残り2人は、『親の同意がない』という理由で公開されていません。

アフメドの父親イスマイルは、提供された子供たちに是非会いたいと願い、それぞれの親に面会を申し入れます。アフメドの死が、全くの無駄ではなかったことを、父親としてせめて確認したいと願ってのことでしょう。

パレスチナ人の子供と親を訪問することは、勿論何も問題が無く、子供の命が救われた家族の暖かい歓迎を受けます。イスマイルも、恩きせがましい態度は一切示さず、黙って難病から解放された子供を抱きしめます。イスマイルの気持ちを考えると観ていてこちらの胸がつまるシーンでした。

名前が判明しているユダヤ人の家庭にも面会を申し入れ、了解を得ます。しかし、これはイスラエルの厳重監視下にある『パレスチナ人居住区』から、外へでて、エルサレムのユダヤ人の家を訪問することを意味しますから、敵地へ乗り込むようなものです。

ユダヤ人の両親は、イスマイルを迎え入れ、『臓器提供者がパレスチナ人の子供であることを、手術の後で知らされ、つい動転して、もし事実を知っていたら、提供を拒んだかもしれない』などと過去に発言したことを、心から詫びます。イスマイルはここでも冷静で、難病から解放された女の子の頭をなでるだけで済ませます。

5人の臓器被提供者の内、2人の名前が明かされないのは、ユダヤ人であるからではないかと、梅爺は推測してしまいました。子供はもとより、一家が『異教徒の臓器をもらった』ということで、ユダヤ人社会の中で後ろ指をさされる事態を恐れてのことではないかとも推測しました。恩恵を受けながら、なんと卑怯なと、責めたくもなりますが、子供の一生を考え、問題に巻き込まれたくないという親の気持ちもわからないではありません。

イスマイルは番組の最後に、『(ユダヤ人とパレスチナ人の)和解は、それほど難しくはないはずだ』と呟きますが、梅爺には、『それを、難しいものにしているのは一体何なのか』という怒りの裏返しの表現であるようにも感じました。『民族』や『宗教』にこだわらなければ、『和解は、難しくない』ことは、『理』では明白ですが、人間の『情』は、それにこだわり続け、こだわりを捨てるくらいなら、『死んだ方がまし』とまで考えます。そしてついには『相手を殺すのもいとわない』という論理にまで発展します。梅爺には、人類がこだわりを捨てる日が近いとは、とうてい思えません。

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2011年3月 8日 (火)

悲劇の中の善意(3)

イスラエル兵に撃たれ、病院へ担ぎ込まれたアフメドの命は助からないと分かり、病院はアフメドの臓器を、難病に悩む他の子供たちのために提供して欲しいと、父親のイスマイルに要請します。遺族の気持ちを考えれば、『情』ではとても要請しにくいことですが、人間は『理』では別の判断をする典型的な例のような気がします。日本人の多くは『病院の要求は、いくらなんでも冷酷すぎるのでは』と、心情的に感じるのではないでしょうか。

父親のイスマイルは、最初『心臓以外の臓器提供には同意』しますが、念のためにイスラム教の宗教指導者の意見を聞いて判断しようとします。『心臓だけはダメ』と『感ずる』背景には、心臓が『心』と直結しているという考え方があるのでしょう。中世の頃まで、人間は『心は心臓にある』と考えていました。『心』は『脳が作り出す世界』という知識は、人間が比較的最近に獲得したものです。

イスラム教の宗教指導者は、テレビのインタビューで以下のように答えています。

『イスラム教が人間にとって重要とするものは、魂(たましい)、知性、名誉、信仰、金の五つです。魂は、神から与えられたもので、その魂が抜けだした死後の肉体は、神と無縁なので臓器提供の対象としても問題ありません』。梅爺には、何とも理解しがたい屁理屈のように聞こえますが、イスラム教徒には、ありがたい指針なのでしょう。

父親のイスマイルは、この助言に従って、最終的には心臓も含めた『臓器提供』に同意します。この行為は『悲劇の中の博愛精神』として、世界中に報道されました。イスマイルは、『子供を、大人同士のいがみ合いの犠牲にすべきではない』と語っています。つまり、臓器がイスラエル人の難病の子供に提供されることも含め同意したことになります。『大人同士は、民族、宗教の違いを理由に殺し合いを止めない』ことと、『子供の命は、民族、宗教とは関係なしに救おう』という考え方には、あまりにも大きなギャップがあります。一部の狂信的な人間を除いて、『大人同士が、民族、宗教の違いを理由に殺し合いをすること』は、『馬鹿げている』と心の中では思いながら、結局狂信的な主張に従わざるをえない状況になるのは、どうしてなのでしょう。イスラエルの『ユダヤ教の狂信派』と、パレスチナの『イスラム教狂信派』が、いなくなれば、問題は解決へ向かう可能性が高いことは目に見えています。

しかし、現実は『狂信的な指導者』が、『立派なヒーロー』であり、『共存の主張者』は『腰抜け』と評価されます。『立派なヒ-ロー』には『殺し合い』がつきまとうという歴史を人間は繰り返してきて、今も変わりがありまん。

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2011年3月 7日 (月)

悲劇の中の善意(2)

日本人が、その判断基準でみるかぎり、イスラエルという国家は、最も『理解することが難しい国』の一つではないでしょうか。梅爺は、現地を訪ねたことがありませんので、映像や本で得た知識で、なんとか理解しようとしていますが、正直なところ、ほとんど分かっていません。

『ユダヤの歴史(特に他国民から受けた受難の歴史)』『パレスチナの風土』『キリスト教、イスラム教を産みだす母体となっているユダヤ教』について、かなりの深い知識を持っていない限り、イスラエルの人々の価値観を理解することは難しいのでないでしょうか。現在『イスラエル人とパレスチナ人(アラブ人)が殺し合いを繰り返している』事象をみて、『不毛な争いは止めて、共存の道を選んだらどうですか』などという忠告は、誰にでも言えることですが、それは『理』による説得で、『殺し合い』の真因は『情』に根ざす憎悪ですから、あまり意味を持ちません。イスラエル人もパレスチナ人も、『民族のプライド、帰属意識』『自分達が信ずる宗教を絶対視すること』を放棄すれば、共存の道は開けますが、人間の『情』は、『民族』も『宗教』も放棄できないほどに強固なものなのです。

特に、エルサレムは、『ユダヤ教(ソロモン神殿跡)』『キリスト教(キリスト受刑地の跡に造られた聖墳墓教会)』『岩のドーム(予言者ムハンマドが、大天使ガブリエルの導きで一夜神のもとへ昇天したと伝えられる聖地)』の信仰の中心地でもありますから、そうおいそれと権利の放棄はできないと言う複雑な事情があります。

昔は、確かにパレスチナの地に、『ユダヤ王国』『イスラエル王国』が存在しましたが、7世紀にイスラム帝国の支配下になり、ユダヤ人は『流浪の民』となってしまいました。1948年に、『ここは、もともと神との約束で自分達の土地であった』と、軍事力で強引に『イスラエル』建国宣言がなされ、世界中からユダヤ人が舞い戻ってきました。1000年以上、自分の土地と思い住んでいたパレスチナ人(アラブ系の人たち)には、まさしく『寝耳に水』の話であったにちがいありません。

ユダヤ人もパレスチナ人も、『ここはもともと自分達の土地である』と、それぞれ異なった根拠で主張しているわけですから、それ以降、問題は解決の兆しが見えません。尖閣列島を巡り、日中が領土権を主張し合っているという問題とは、深刻さの度合いが異なります。

ドキュメンタリー番組が伝える『事件』は、イスラエルの『ジェニン』という『パレスチナ人強制居住区』の中で起きました。『ジェニン』に潜む『パレスチナ過激派』を掃討するために、やってきた『イスラエル軍』が、12歳のアフメドというパレスチナ人の男の子を、反抗分子と誤認して、射殺してしまいます。『イスラエル軍』は、子供がオモチャの銃を携行していたからと誤認の弁解をし、パレスチナ人は、ただ買い物に出かけただけだと主張して、相互に話はかみ合いません。

アフメドの父親イスマイルは、死んだ我が子の臓器を、難病に悩む他の子供たちのために『提供』することに同意します。イスマイルは、見るからに聡明そうな風貌の人物で、インタビューへの受け答えも、理知的で冷静です。

色々な臓器が、五人の難病の子供へ提供され、命を救うことに貢献します。『悲劇の中の善意』として世界中から賞賛されましたが、意外に難しい『問題』へ発展します。それは、提供された子供の中にイスラエル人の子供も含まれていたからです。

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2011年3月 6日 (日)

悲劇の中の善意(1)

『事実は小説より奇なり』と言いますが、単なる稀な偶然が引き起こした『不思議な話』というだけでは済ますことができないものもあります。関連する人々の価値観の食い違いが、『へー、そんなことになってしまうんだ』というような、小説家も思いつかないような展開になることがあります。

人は誰でも、『信念』や『価値観』を保有していて、これで周囲の事象へ対応しようとします。『信念』や『価値観』は、自らの『理』で考え抜いて獲得したものばかりではないところが、人間を厄介な存在にしています。『信念』や『価値観』の中には、『好き嫌い』といった『情』に根ざすものがあり、『何故嫌うのか』と問われても、答に窮するものが少なくありません。『情』の多くは本能に由来しますから、『理』で説明しようとしても、こじつけになるばかりです。ある人を『あいつは、なんとなく厭な奴だ』と毛嫌いする背景は、冷静に分析すれば、『嫉妬』『侮蔑』『優越感』などの感情が無意識に働いているに違いありませんが、本人は咄嗟にそれを意識していません。人間も他の生物と同様に、『自分に都合の悪いこと、嫌いなことは咄嗟に回避しようとする』本能を持っているということなのでしょう。人間は『理』と『情』の高度な組み合わせで、ものごとを考える生物に進化してきましたが、原点といえる『都合の悪いものは排除する』という本能は強固に継承していると、梅爺は推測しています。

更に、具合の悪いことに、周囲の事象に対処しようとしても、自分の中の複数の『信念』『価値観』がせめぎ合って、どれを優先して良いのか判断がつかないことが大半です。日常、『迷う』『悩む』のはそのためです。

女性が『どちらのハンドバッグを買おうか』と『迷う』程度のことは、他愛のない話ですが、『信仰』を優先するか、『自分の子供の命』を優先するか、というような深刻な相克に遭遇すれば、他愛のない話とは言えなくなります。

『イスラエル兵の誤認で射殺されたパレスチナ人の子供の臓器が、難病に苦しむ他の子供の治療に提供され、臓器の提供を受けた子供の中にはイスラエル人(ユダヤ人)も含まれる』という『事実』に、関係者はどのように対応するのかを追ったドキュメンタリー番組が、NHKBS第一放送で放映されました。

2010年度の、優秀ドキュメンタリー番組の賞を受賞したもので、梅爺は『自分がもし当事者であったら、どのように振舞うのであろうか』と、思い悩みながら番組を観ました。

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2011年3月 5日 (土)

映画『秋のソナタ』(3)

人は一生を通じて同じ価値観を持ち続けるわけではありません。若いころは、自分の将来への夢や期待が強く、他人の痛みや悲しみに、敏感さを欠くことがあります。梅爺が20歳代でこの映画を観たとしても、表面的な理解にとどまって、ベルイマン監督の素晴らしさを感じとることはできなかったかもしれません。

表面的には、この映画は『冷酷な母親』と『その母親の犠牲になった娘』の物語で、娘に依る壮絶な復讐劇に見えます。しかし、約70年この世で生きてきた梅爺には、『母親は悪人』『娘は善人』という単純な構図には見えません。

子供は幼いころ両親に、『理想の両親像』を求めます。しかし、自分も成人していく過程で、両親も『完全な人間』ではないことに気付き、それも当然のこととして受け容れるようになります。一方両親も、子供が幼い頃は、まるで『自分達の所有物』であるかのように、意のままに育てようとしますが、やがて子供も自分たちとは異なった『独立した人格』の所有者であることに気付き、子供の自主性を認めるようになります。親子の絆は、それによって断たれるわけではなく、新しい親子の関係に移行します。

この移行がうまくいけば、多くの場合問題はそれほど起きませんが、子供がいつになっても『理想の親』だけを求めたり、親がいつまでも子供を意のままになる『自分の所有物』であると勘違いしていると、悲劇が生じます。

この映画の母親の場合は、音楽(ピアニスト)という自分の人生を賭けて追い求める対象があり、それに値する能力の保有者でもありますので、音楽を極めることを最優先とする人生の選択を誰も批難はできません。その分良い母親ではなかったことは、褒められることではありませんが、『理想の芸術家』と『理想の母親』は両立し難いのは当然のことです。この母親の非は、『芸術』の道を選んだことではなく、自分が至らぬ『母親』であることを気付く能力に欠けていたことです。

一方、娘の方の、自分の不幸の全ての原因が母親の愛情欠如にあると言わんばかりの態度も梅爺にはいただけません。幼いころはともかく、成人して後は、母親と自分の違いを冷静に受け止める機会がなかったとは思えません。何故『私の母親は、ピアニストとしては優れていますが、母親としては落第です』と笑って済ますことができないのかと考えてしまいます。この娘の深層心理は、愛情の無い母親への恨みと言うより、自分にはない美貌と才能を兼備している母親に対する同性としての『嫉妬』ではないかと、梅爺は疑いたくなります。

ベルイマン監督が、何を表現しようとしたのかは想像するしかありませんが、この映画から人間の精神世界が、極めて複雑であることを学ぶことができます。観る人の感性と、評価能力にゆだねるという点で、この映画は『芸術』の領域に達しているように思います。今後ベルイマン監督の他の作品が放映されるようなことがあったら、梅爺は迷わず録画して観ることになりそうです。

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2011年3月 4日 (金)

映画『秋のソナタ』(2)

この映画は、年老いても未だ現役のピアニストである母親、二人の娘(姉は牧師の妻、妹は脳性麻痺で身体や口が不自由)、そして姉の夫の牧師の4人だけが、フィヨルドを見下ろす荒涼たる田舎の牧師館で繰り広げる人間ドラマです。昔の回想シーンなどが時折挿入されますが、全体は舞台劇の風情です。

勿論主役は母親と娘(姉)で、二人を演ずるイングリッド・バーグマンとリヴ・ウルマンの演技は出色です。ただただ美しかった若いころのバーグマンとは異なり、年老いたバーグマンは演技派女優に変身し、違った魅力を醸(かも)し出しています。

何事も自分の考えで律し、自信たっぷりな母親と、対称的にオドオドと控え目に振舞うようにみえる娘ですが、娘は、母親の冷酷な本性を暴くために、色々なしかけで、母親を追い詰めていきます。その最たる行為が、『脳性麻痺の妹を、施設から引き取って、自分がここで看病している』ことを突然告げることです。母親は、思いもよらない展開にたじろぎ、不快感をあらわにしますが、そのたじろぐ姿を見たさに、娘が仕組んだことを感づきます。しかし、表向き母親は病床の娘(妹)を見舞い、『会いたかった』などと良い母親を演じようとします。

その夜、娘(姉)はお酒を飲みながら、積年の恨みつらみを容赦なく母親へ浴びせかけます。まるで、今までのオドオドしていた人間とは思えない変貌ぶりが映画を見る人を圧倒します。母親は、懸命に『自分には自分なりの考えがあってのこと』と弁解しますが、太刀打ちできないと観念し、最後は『自分を許して欲しい』と泣いて娘に嘆願します。

いたたまれなくなった母親は、翌朝、牧師館に別れを告げます。母親が去った後、娘は、自分の言動が行きすぎであったと悔い、『未だ母親を許せる可能性は残されている』とつぶやきます。

人間の崇高な行為は『許す(赦す)』ことであるというメッセージでこの映画が終わると思いきや、ベルイマン監督は、最後に、演奏旅行へ向かう列車の中で、マネージャーと、何事もなかったように談笑する母親のシーンを挿入します。泣いて娘に許しを乞うたのは『演技』であったともとれますし、『人間の本性はそう簡単には変わらないものである』というメッセージであるともとれる結末で、梅爺はベルイマン監督の人間に対する洞察力の深さに、感服してしまいました。『愛』と『憎』は一対のものであり、人間はきわどいバランスでそれを操っていること、そして人と人とが『心を通わせる』ということは、言葉で云うほど易しいものではないことが実感できる映画でした。

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2011年3月 3日 (木)

映画『秋のソナタ』(1)

スウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマン(1928-2007)が、『野いちご』『沈黙』など数々の優れた映画を制作したことは、知っていましたが、梅爺は今まで彼の作品を観たという定かな記憶がありません。

NHKBS第二チャンネルで放映された彼の作品『秋のソナタ』を録画して観て、圧倒されました。まさしく、見事な脚本(ベルイマン自身)と演出で、計算しつくされた舞台劇をみるような梅爺好みの映画でした。

母親の愛情を得たいと願い、幼い時から母親の云う通りに振舞って、我慢して耐え続けてきた娘が、ついに母親の自分勝手さに耐えられなくなり、今度は、憎しみの対象として母親をののしると言う壮絶な愛憎劇が、ノルウェーのフィヨルドを見下ろす田舎の牧師館を舞台に繰り広げられます。母親は、母親なりの考えで『全て娘に良かれと思ってしたこと』と思っていることが、娘には、『自分を傷つけるひどい仕打ち』と受け止められるという、個々の価値観の違いが引き起こす悲劇です。

このようなことは、世の中の人間関係でも、よくあることですが、母と娘という、本能的な愛で結ばれるはずの間柄で、愛と憎悪が逆転した時のすさまじさが、観る人を圧倒します。

年齢的に老境に差し掛かっている美貌の母親はピアニストで、若いころから、外国への演奏旅行で明け暮れ、結婚して二人の娘を産みますが、育児や家事には無関心で、時折、他の男と家出をしたりと、奔放な性格の女性です。幼いころの娘姉妹は、なんとか母親の愛情を得たいと、母親に近づこうとしますが、そのたびに、ピアノの練習の邪魔になるなどという理由で冷たくあしらわれます。さらに、不幸なことに妹の方は、脳性麻痺の病気にかかり、施設へ預けっぱなしの状態で、遠ざけられてしまいます。

母親には似ず、美貌の持ち主でない娘(姉)は、内向的で屈折した心の持ち主として成長し、牧師と結婚します。やがて、一人息子を産みますが、幼くしてこの息子は海で溺れて死んでしまい、前以上の暗い心の持ち主へと戻ってしまいます。夫の牧師も息子を失って、悲嘆にくれますが、それでも妻の全てを理解しようと、優しく接し続けます。

姉は、夫(牧師)の了解を得て、施設にいた脳性麻痺の妹を牧師館へ引き取り、自分で看病を始めます。そして、7年間会っていない母親に、自分が妹を引き取って看病していることは伏せて、牧師館を訪ねてこないかと招待の手紙をだします。これは、単なる招待ではなく、母親を精神的に追い込んでいく復讐劇の始まりであることを、映画を観ている人は段々知ることになります。

ちょうどそのころ、一緒に生活していた男に死なれて、寂しかった母親は、気晴らしにと、深く考えずに娘の招待を受け、高級車を自ら運転して、陽気に牧師館へ現れます。そして、表向き慇懃(いんぎん)に迎えた娘の執拗な母親批難の劇の幕がきって落とされます。

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2011年3月 2日 (水)

アマゾン原住民『シクリン』(3)

『シクリン』の宗教観も、梅爺には興味深いものでした。北米のネイティブ・アメリカン(インディアン)や、オーストラリアのアボリジニ同様に、周囲の自然、動物に神や霊が宿るという考え方(アミニズム)でした。『シャーマン(呪術師)』が、宗教行事のリーダーで、代々家系で継承し、『修行』も欠かさずこの役目を果たしています。熱帯雨林の中の薬草にも通じている『医者』でもあります。『シャーマン』は、番組の中で『人は森とともに生き、死ぬ。人は森の一部だ』と語ります。古代の日本人と同じ死生観であると感じました。

人間にも霊が宿ると信じていて、死者が出ると、村人全員が泣き悲しみ、『あの世』への霊の旅路が無事であるように、死衣装で死体を飾ります。共同墓地に土葬しますが、霊が『寂しがらないように』『寒がらないように』と、約1ケ月間、家族が焚き火を絶やさず墓に付き添います。これらの行為は、現代の宗教にも引き継がれている儀式の原型であることが分かります。面白いのは、1ケ月が過ぎると、男達が滑稽な衣装をまとい、滑稽なしぐさで踊って、村人が笑い転げる儀式があることでした。『悲しみ』を緩和する方法として『笑い』が妙薬であることを、『シクリン』は知っているのでしょう。人間の脳のしくみを考えると、この『切り替え』は大変な『知恵』であることが分かります。

『シクリン』の男女は、黒い染料で身体じゅうに模様を描きます。赤ん坊が生まれるとその家伝来の模様を顔に描きます。模様には、動物の霊が宿り、魔除けになると信じているようです。女達は、自分達の模様を『きれいでしょう』と誇らしげに見せていました。『きれい』の価値観は現代人と異なりますが、オシャレをして、自分を『きれいに見せたい』という本能には変わりがありません。動物の中で、装飾物を身につけるのは人間だけですが、周囲に自分の存在を誇示して、『絆』を構築しようとするからなのでしょう。人間にとって周囲との『絆』が最も重要な要素であることが分かります。

人間社会の原型を考える上で、『シクリン』は興味深いものでした。しかし、現代文明は、彼らの熱帯雨林も疲弊に追いやり、獲物や魚が獲れなくなって村人は嘆いていました。『シャーマン』は、『文明と出会って、自分達はダメになってしまった』と呟いていました。文明との出会いは、避けがたいものですが、それが『シクリン』にとって、幸いなのか、不幸なのかは、誰も即断ができない難しい問題であると梅爺は感じながら番組を観終わりました。

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2011年3月 1日 (火)

アマゾン原住民『シクリン』(2)

『シクリン』を見ていると、人類がどのようにコミュニティ(仲間による群)を形成していったのかが推測できます。ブラジル政府が、『定住化』を強制する前は、『家族単位』で熱帯雨林の中を移動し、食料を獲得しやすい場所、ねぐらをつくり易い場所にジャングルの草木を利用した簡易住宅を建て、そこにしばらく住んで、都合が悪くなれば、別の場所へ移動するという生活様式でした。

しかし、何かある時には『部族』として集い、連携して助け合うという『絆』も保有していたのでしょう。そうであるが故に、ブラジル政府から『定住化』を強いられた時には、『定住村落』をつくることができたのでしょう。

現代社会は、非常に複雑なコミュニティの絡み合いになっていて、『職場』『学校』『趣味の仲間』『同じ宗教を信ずる人たちの集い』など、その都度『個人』は、異なった『コミュニティ』の一員になりますが、結局基本的には『家族のもとへ帰る』ことになります。社会のコミュニティの基本単位は『家族』であることは、昔も今も変わっていません。健全な『家族』あっての、社会、都市、国家であることを政治家が理解していないと、政治は本末転倒の話になります。

『シクリン』では、『家族単位の自由行動』と『コミュニティとしての共同行動』が共存しています。男の仕事である『狩りや漁』は、単独行動も、共同行動も選択自由です。しかし、しとめた獲物や魚は、近所で分かち合う風習が定着しています。女達はジャングルへ入り、野生の『芋』掘りを共同で行い、収穫を分かち合います。どこまでが『個人の自由』で、どこからが『共同行動の遵守(じゅんしゅ)』が必要かを、生き残るための『知恵』として自然に身につけているように見えます。なるほど人類はこうやって、群(むれ)をなして生きる知恵を継承してきたのかと、梅爺はあらためて理解することができました。

男女が、それぞれの分担を自然に担い、力仕事、危険への対応、コミュニティの重要方針決定は男の仕事、家事、育児が女の仕事となっていて、それに対する疑念などは無いように見えます。男が一人前とみなされるためには、命を危険にさらすような『成人の儀式』を体験しなければならないのが『シクリン』のしきたりです。男の優位を誇示すると言うより、男の役目を確認する儀式のように見えました。後に、コミュニティが複雑に進化し、『男が女を財産として所有する』ことや、逆に『男女は平等であるべき』などという発想が新しく産みだされたように感じました。つまりこれらは人間にとって『普遍的な価値観』では必ずしもないということなのでしょう。

しかし、『シクリン』といえども人間の集団ですので、『嫉妬』や『独占欲』で、コミュニティの和を乱す人間が出現しないとはかぎりません。コミュニティとして、それはどのように処理されるのか、梅爺は興味がわきましたが、それに関する話は番組では紹介されませんでした。

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