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2010年10月24日 (日)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(10)

私たちは、対象を理解しようと、近づいて詳細を観察しようとしたり(ミクロに観る)、逆に遠ざかって全体を鳥瞰しよう(マクロに観る)としたりします。しかし、人間が観ているものは、所詮人工的な『部分』に過ぎず、『本物の全体』ではありません。更に、脳が認識で『関係』を見出したと思っているものは、『本物』の『関係』とは限りません。

更に厄介なことに、人間は、観たいものしか観ることができず、信じたいと思うことだけを信ずるという習性を持っています。物事の認識を『曖昧』にしておくことは不安を呼び起こしますので、何としても『認識』しようという脅迫観念に駆られます。人間が何故このようにできているかは簡単な話で、『認識遅れ』が死につながるという恐怖が支配する環境の中で『生物進化』を繰り返し、その本能の名残が脳に色濃く残っているからです。

この本には、『トースト(パン)の表面の焼きむらに、マリア様の顔が浮かび上がって見える』『ケチャップの裏ぶたに、キリストの顔が浮かびがって見える』例が、写真で紹介されています。そう言われて観れば、確かにそのように見えないことはありません。しかし、これを『神のメッセージ』『神の奇跡』と『関係』づけて『認識』するかどうかは別問題です。『隠された関係』『隠された意図』を何としても見つけないと落ち着かないという習性が強い方は、『聖なるトースト(ケチャップのふた)』であると『信ずる』ことになります。

疑い深い梅爺は、『一体何枚トーストを焼き続けたら、焼きむらとして梅爺の顔が浮かび上がるのだろう』と想像します。つまりトーストの焼きむらは『偶然』と思い、『神のメッセージ』と関係づけては認識はしません。

しかし、疑い深く、『本物』と『認識』の違いに騙されまいとする梅爺は、『トーストの焼きむら』には騙されませんが、他のことでは『誤認』を繰り返し、それを『誤認』と思わずに、『真実に迫った』と得意になっているに違いありません。つまり、程度の差はあれ、誰もが、『誤認』をし、その認識を『信じようとしている』ということに他なりません。

『真実』と『認識』との間には、違いがあるという現実を、より深く知るために、『人間は勉強をする必要がある』と、福岡先生は書いておられます。

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