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2010年10月15日 (金)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(1)

『生物と無生物のあいだ』以来、梅爺は、すっかり福岡伸一先生のファンになり、書店で先生の執筆された本を見つければ、無条件に購入してしまいます。アイドル歌手の『オッカケ』の心境です。

何より梅爺にとって魅力的なのは、先生のご専門の『分子生物学』が、生命の謎に関するものであり、多くの細胞(人間の場合には、60兆個の細胞)の『動的な平衡』で生命が維持されているという不思議な世界であることが、自然の摂理の中心的な法則であろうと梅爺が勝手に思い込んでいる『自律分散処理システム』に相通ずるように思えるからです。

先生が取り上げる科学的なトピックスそのものも、魅力的な上に、その日本語の文体が、上質な文学作品にも劣らない素晴らしさですから、堪(こた)えられません。広範な教養や洞察が背景になければ、このような文体を操ることはできません。『最新の生命科学の成果』と『魅力的な日本語の文体』の両方が、同時に堪能できるわけですから、面白くないわけがありません。

今回は、『世界は分けてもわからない(講談社現代新書)』を読みました。本の『腰巻』に踊る、以下のキャッチフレーズを見ただけで、梅爺はワクワクしてしまいました。

『顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?』『科学者たちはなぜ見誤るのか?』『生命に「部分」はあるか?』『ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。私たちは見ようと思うものしか見ることができない。(本文より)』

この本は、プロローグ、エピローグに挟まれた12の章で構成されていて、それぞれの章は、独立しています。そして、ほとんどの章のはじめには、他の本からの抜粋文が、その章の内容を『示唆』する目的で引用されています。それらは、『聖書』『村上春樹』『渋澤龍彦』『須賀敦子』『カミュ』『G・K・チェスタトン』であったり、梅爺が浅学にして存じ上げない最近の日本の若手前衛作家や各国の学者であったりしますので、福岡先生の興味の対象や、読書の幅が、梅爺の想像をはるかに超えていることが分かります。

大体『聖書(信仰)』と『渋澤龍彦(妖しい退廃的な美学)』の世界は、水と油のようなものですので、普通同居することはありませんし、人間の矛盾した多面性を認める人でないと、同時に受け容れることは困難です。

個人的に、梅爺はイギリスの『G・K・チェスタトン』は好きな作家ですので、この名前を見つけて嬉しくなしました。彼は、文明評論でも有名ですが、『ブラウン神父』シリーズという、短編探偵小説の作者としても有名です。生涯に、最も多くの『トリック』を考えだした作者と言われています。

人間が『全体』『部分』と思いこんでいるものが、実は、全体でも部分でもないかもしれないという視点は、とにかく刺激的です。

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