« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »

2010年10月31日 (日)

富弘美術館(2)

Img47_080217aidamitsuwo4 大変不謹慎な云い方をお許しいただければ、もし星野富弘さんが事故に遭遇することがなければ、多くの人に感動や生きる勇気を与える画家、詩人となることはなく、無名の中学体育教師として平凡な人生を送られることになったのではないでしょうか。

四肢が動かないと言う、絶望の中から、星野さんの絵と詩による研ぎ澄まされた表現才能が開花しました。信仰の視点でみれば、結果論として、事故は『神が星野さんに与え給うた試練』といえるのかもしれませんが、そういう表現は紋切り型で、本当は『絶望的な逆境が、星野さんに神との遭遇をもたらした』ということではないでしょうか。逆境を『常態』として受け容れるためには、健常者が気付かない、『心のバランス』を見出す必要があり、そのバランスは、実は健常者にも必要なものだと多くの人が感じて、星野さんの絵や詩に感動を覚えるのではないかと梅爺は思います。神に遭遇できたのも星野さんの潜在能力があってのことです。

逆境や苦しみの中で、『信仰(神や仏を信ずること)』が、人間の心に『安らぎ』という新しいバランスをもたらす効果は絶大で、これに代わるものを人類は持ち合わせていません。『信仰』で心の『動的平衡』バランスが変わり、逆境や苦しみさえも『感謝』の対象にしてしまいます。心のもちようで世界は変わるという典型的なことが起こります。この体験を実感すれば、『信仰』の対象である神や仏が『実態として存在するのか』などという、『理』の議論は、二次的なことになります。

しかし、『理』を求める人間の一面は、『神や仏は実態として存在するのか』という疑問を封じさることができません。『理』で真理を追求したいと願うのも人間であり、一方『理』と『情』の複雑な絡み合いである精神世界では、どんな手段を講じても『安泰』のバランスを本能的に見出そうとするのもまた人間である、と言う矛盾を抱えています。この矛盾を直視しないと『人間』は理解できません。好き嫌いは別として、人間の脳はそのように出来ているからです。

苦し紛れに、梅爺は『神や仏が実態として存在するとは思えないが、人間が考え出したと考えられる神や仏という抽象概念は、それを信ずる人の死生観を変えてしまうほどの可能性を秘めている』と考えて、得心しようとしています。『愛』という抽象概念は、宇宙空間のどこにも実態としては存在しないように思えますが、人間の精神世界には極めて重要な意味を持つというのと同じことだと考えています。従って、星野富弘さんのような『信仰』に支えられた『生き方、考え方』は、人間にしかできない崇高なものだと感じます。『信仰』で、心のバランスの平衡点を変えるなどという能力は、人間だけが持つものと考えられるからです。

| | コメント (0)

2010年10月30日 (土)

富弘美術館(1)

猛暑にすっかり怯えて、今年の夏は、梅爺も梅婆もできるだけ外出を控えて、甲羅に閉じこもった亀のようになっていましたが、今度は寒い冬が来る前に、少し遠出をしてみようと、梅婆が計画し、群馬県の『わたらせ渓谷』沿いのドライブに出かけました。我が家の老犬の老衰が日々目立つようになり、とても泊りがけの旅行は無理なので、日帰りの旅にしました。

梅婆の期待は、『紅葉の絶景』でしたが、残念ながらまだ少し時期が早く、『絶景』は想像するにとどまりました。それでも、その分観光客はまばらで、『観光ガイド本』お薦めの、スポットを、悠々と観たり、食べたりしながらめぐることが出来ました。

今回の日帰りドライブの目的の一つが、草木(くさき)湖の湖畔にある『富弘(とみひろ)美術館』を訪ねることでした。星野富弘さんが、描いた絵を展示する美術館です。

星野さんは、1946年のお生まれですから、梅爺より5歳若く、勿論現在もご健在です。星野さんは、大学を卒業後、体育教師として中学校へ赴任しますが、2ケ月後に、宙返りの模範演技に失敗し、頚髄損傷の重傷を負い、以後、肩から下の麻痺を背負った人生となりました。

若い体育教師が、四肢の動かない自分を受け容れるのに、どれだけ心の葛藤があったのだろうと、梅爺は考えただけで心が暗くなりますが、お母さんや奥さんの手厚い看護で、やがて、口にくわえたペンや絵筆で、ペン画、水彩画を描くようになり、そこに短い詩を添えるようになります。多くは花の絵で、その繊細なタッチや色遣いが見事です。絵心に乏しい梅爺は、手や指が動いても、このような絵は描けませんから、ただただ感嘆するだけです。

闘病中に、クリスチャンの作家、三浦綾子さん(『氷点』が代表作)と出合い、その影響をうけて、自らも洗礼を受けてクリスチャンになります。絵に添えられた短い詩の多くは、信仰に裏付けされた『愛』や『感謝』が素直に表現されていて、観る人の心へ迫ってきます。

Nazuna

たとえば、『命が一番大切だと思っていた時には、生きることは苦しかった。命より大切なものがあることを知ったら、生きることが楽しくなった』というような意味の詩(この表現は梅爺のうろ覚えですから、詩の正しい再現ではありません)が絵に添えられています。

梅爺と一緒に美術館の中を巡っていた、おばさんグループの一人が、『絵はきれいだけど、私は詩には興味がないわ』と大声で話しているのを聞いて、梅爺は少し寂しい気持ちになりました。『理』と『情』の絡み合いが醸し出す人間の素晴らしい世界が理解できない人の人生は殺伐としているに違いないと想像したからです。折角の一度の命が、もったいないような気がします。こういうタイプの人が増えているとしたら、日本は物欲だけが支配する国になってしまうだろうと心配になりました。

| | コメント (0)

2010年10月29日 (金)

鰯の頭も信心から

上方いろはカルタの『ゐ』、『鰯の頭も信心から』の話です。

鰯の頭のようなつまらないものでも、信仰の対象としてみれば尊いものに見えてくる、という意味で、時に『思い込みの強い人』を揶揄して使われます。信仰の厚い真面目な人にとっては、このような軽薄で、茶化したような表現は、不快に感ずるかもしれません。神や仏を、選りに選って『鰯の頭』と同じレベルで扱うとは、まことに怪しからんということになりかねません。

『鰯の頭』を例に挙げるのは、確かに突拍子もないように見えますが、これは、節分に、鰯の頭を柊(ひいらぎ)の小枝に刺して、戸口に飾り、鬼よけにするという風習があったからということのようです。悪臭で鬼を寄せ付けないと言う発想なのでしょう。

江戸時代の日本人も、『信ずる』と言う行為は、『理屈抜き』の行為であることを承知していたことが分かります。従って、信仰の厚い、薄いの話というより、『人間にはこういう共通の習性がある』という教訓とみるべきでしょう。つまり、人間は誰でも、『信ずる』『信じたい』という習性を持ち合わせているということです。『私は、理に適ったことしか信じない』と豪語する人でも、よくよく自分の心の中をのぞいてみれば、『理屈抜きに信じたい』気持ちがあることに気付くはずです。

人間は、『理解できないこと』の存在に気付くと、それをそのまま放置することは『不安』と感じ、『理解したい』と思います。脳にとって『不安』は、『安泰』を乱す要因であるからです。しかし、世の中の多くのことは、『理解できない』ことが大半ですので、次に『こうに違いない』と推量します。推量することで『安泰』を見つけようするからです。人間の脳の優れた特性のひとつがこの『推論機能』です。ここまでは、科学の世界では『仮説』と呼ぶ状態ですが、やがて人間は、『こうに違いない』から『間違いなくこうだ。これが正しい』と、まるで『事実』のように、それを『信ずる』レベルへ移行します。一度信じてしまうと、それは『確証バイアス』になり、今度は、他のこともそれを基準に判断するようになります。一度『あいつはいやな奴だ』と思いこむと、何から何まで『いやな奴』に見えてくるという話です。梅爺閑話では、この誤りを犯さないように気をつけていますが、それでも、時折怪しい表現になってしまっているかもしれません。『確証バイアス』については、前にブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-db3c.html

『鰯の頭も信心から』を、『世の中には、程度の低い人間がいるものだ』と他人事(ひとごと)のように、受け止めるのは早計です。

| | コメント (0)

2010年10月28日 (木)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(14)

この本のエピローグの最後を、福岡先生は以下の文章で締めくくっています。

この世界のあらゆる要素は、互いに関連し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界には部分が無い。部分と呼び、部分として切りだせるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
 そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、本当の意味での因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。

梅爺は、世の中に究極のルールと言えるものがあるとすれば、それは『自律分散処理システム』ではないかと、何度もおこがましくブログに書いてきました。創造(生まれる)、維持(生きる)、破壊(死ぬ)を繰り返すことも、このルールに関連しているように感じています。この世は、誰かがデザインし、そのあるべき姿へ向かって動いているのではなく、多数の要因の複雑な相関関係のもとに『動的平衡』を求めて変容しているものと受け止めています。このルールを産み出したものを『神』と呼ぶならば、梅爺も『神』を認めますが、この『神』は、宗教の教義が説く『神』とは異なっています。このルールは冷徹なもので、愛とか慈悲とかいう考えとは無縁です。

このように考える梅爺を、自分ではどうも変人らしいと感じていましたが、上記の福岡先生の文章を読んで、まったく同じような認識をお持ちの方が他にもおられることを知り、嬉しくなりました。勿論、梅爺と福岡先生の、表現力の違いは、上記の文章を見るだけで歴然ですが、基本認識が近い人に巡り合えた梅爺の喜びが一入(ひとしお)であることは、ご推察いただけると思います。

| | コメント (0)

2010年10月27日 (水)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(13)

私たちの生命活動を維持するために、多数の『酵素(エンザイム)』が活躍しています。体内で作り出される酵素では足りませんよと、もっともらしい広告で脅されて、ついサプリメントを購入してしまったりしています。

胃や腸で活躍する『消化酵素』は有名ですが、何故消化酵素は、外部から摂取された動物性、植物性のタンパク質だけを分解し、人間の消化器官そのものは分解しないのだろうかと、不思議に思っています。梅爺が知らないだけで、単純な理由があるはずです。

消化は、外部から食べ物として摂取したタンパク質をアミノ酸に分解して、人間が体内で再利用するためですが、実は消化には、もっと重要な目的があることをこの本を読んで知りました。食べ物として摂取したタンパク質は、元の生物の固有情報を遺伝子として保有しているために、これを完全に『消去』することが消化の役割の一つであるということです、他の生物の遺伝子情報で、人間の細胞の遺伝子情報が、悪い影響を受けないための防御であることが分かります。

遺伝子組み換えを行った穀物、豆類は使用していませんと、食品には書いてあっても、このような穀物、豆類が家畜の飼料になっているとすれば、遺伝子組み換えが、人間に間接的な影響を及ぼすかもしれないと、心配になりますが、もし消化が完全に行われれば、人間の体内に摂取した外部のタンパク質の『遺伝子情報』は消去されるはずですので、論理的には遺伝子組み換えの影響を恐れる必要がないように思われます。遺伝子組み換えは、食糧難を解決する方法ですので、安全が確認できれば人類には朗報です。オーガニック食品しか食べないなどというのは、裕福な国の人たちの贅沢な主張です。

この他にも、細胞内のATPを分解して、エネルギーを取り出す『ATP分解酵素』もすごい酵素です。この酵素はATPを分解すると同時に、細胞内のナトリュームイオンを細胞外へ汲みだし、イオンの濃度勾配を常に作り出しています。そしてこのイオン濃度勾配こそが、生命現象の源泉になっていることをこの本で知りました。

人間という『小宇宙』は、実に驚きに満ちています。

| | コメント (0)

2010年10月26日 (火)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(12)

『分子生物学』は、生きている細胞のメカニズムを解明しようとしています。細胞は、外部環境との間で何らかの物質のやりとりを行い、取り込んだ物質をエネルギー源として、または情報源として活用し、自分に与えられている役目を果たします。細胞は、ミクロに観れば、それ自体独立した生命体です。私たち人間は、60兆個の個別生命体が、動的平衡で織りなす『全体』であるとも言えます。まるで一人一人が『小宇宙』です。ガンは生命の秩序を無視して、勝手気ままに増殖する細胞ですが、60兆という細胞の数を考えると、『異常』が発生する確率は低くないことも分かります。60兆個の細胞を全て『正常』に保つことの方が至難の業です。

細胞が、『何の目的で』『どういう条件下で』『何を取り込み』『取り込んだものをどう処理するか』は、解明されていないものが大半です。ガン細胞のメカニズムも、以前に比べれば沢山のことが分かっていますが、全て解明はされていません。解明はされてはいませんが、そのメカニズムはすべて『理』に適っているものであるという前提で、科学者は追及し続けています。解明されていることは、すべて『ある物質を情報媒体として利用する化学・物理反応』として説明がついています。

分子生物学は、やみくもに実験しても効率の良い成果は得られませんから、『仮説』を立てて、それを実験で実証しようとします。といっても、この実験は、ちょっとしたミスも許されない、途方もなく手間暇がかかる大変な作業です。このために、一部の科学者・実験者が『功名心』のために『魔がさして』、巧妙に実験データをねつ造するという事件も起こります。『功名心のために魔がさす』という人間の習性は、『不治の病』であると、この本には書いてあります。

梅爺も日常生活を省みれば、この『不治の病』におかされていることが分かります。不法行為ではないにしても、見栄を張って、自分以上に自分を見せようとすることが多々あるからです。ガンばかりが『不治の病』ではありません。

| | コメント (0)

2010年10月25日 (月)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(11)

『生命の灯』は、『エネルギーと情報の流れ(動的平衡状態の維持)』であるとすると、いつの時点をもってある一人の人間の『誕生』や『死』と規定するかは、易しいことではなくなります。

『脳死』をもって『死』とみなす、とされていますが、『脳死』の後でも、人間の細胞の一部はある期間活動を継続します。死後でも毛髪やヒゲが伸びることがあります。

福岡先生は、『脳死』が『死』ならば、論理的な対極となる『脳始(福岡先生の造語)』が生命の『誕生』となるのか、と問いかけます。

ヒトの場合、受精後二十日前後で、神経系の基礎が細胞分裂で出来上がりますが、脳神経網ができあがって、脳波の検知ができるようになるには、受精後24~27週間ということになります。『脳始』がヒトの『生命の誕生』であるとすれば、それまでの受精卵の分割プロセスの間は、まだヒトではないという論理解釈になります。

一見屁理屈に見えるこの解釈が重要な意味を持つのは、受精卵を取り出して、各種の研究素材とし、これによって『ES細胞(万能細胞)』を取り出して、難病の治癒に供しようという試みがあるからです。受精卵が、受精直後からヒトであるとすると、これを利用することには生命倫理的な問題が生じますが、受精後24週間は未だヒトではないということになると、倫理的な呪縛から解放されます。卵子や精子にも勿論『生命の灯』は受け継がれていますが、この段階はヒトではないという少々強引な論理です。

『自分に授かった命の灯は大切にしなさい』という教えに梅爺は異論がありませんが、『あらゆる命の灯は神の恩寵(おんちょう)なので、これを消すことは神への冒涜である』と言われてしまうと、動植物を殺して食料とすること自体が冒涜となり、自分が生きられないという矛盾に直面します。そうかといって、『神がある種の動植物を人間の食料とするために創ってくださったのだから感謝して食せよ』というのも、人間本位の身勝手な論理のような気がします。

せめて『無用な殺生は控えなさい』程度にしていただかないと、にっちもさっちもいかないことになります。『生命の灯』は、人間の『精神活動』を産み出す崇高なものであるという見方と、それ自身は『エネルギーと情報の流れが生みだす物理・化学反応にすぎない』という味気ない見かたを双方肯定して、私たちは現実的に生きる術を考える他に手は無さそうです。

| | コメント (0)

2010年10月24日 (日)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(10)

私たちは、対象を理解しようと、近づいて詳細を観察しようとしたり(ミクロに観る)、逆に遠ざかって全体を鳥瞰しよう(マクロに観る)としたりします。しかし、人間が観ているものは、所詮人工的な『部分』に過ぎず、『本物の全体』ではありません。更に、脳が認識で『関係』を見出したと思っているものは、『本物』の『関係』とは限りません。

更に厄介なことに、人間は、観たいものしか観ることができず、信じたいと思うことだけを信ずるという習性を持っています。物事の認識を『曖昧』にしておくことは不安を呼び起こしますので、何としても『認識』しようという脅迫観念に駆られます。人間が何故このようにできているかは簡単な話で、『認識遅れ』が死につながるという恐怖が支配する環境の中で『生物進化』を繰り返し、その本能の名残が脳に色濃く残っているからです。

この本には、『トースト(パン)の表面の焼きむらに、マリア様の顔が浮かび上がって見える』『ケチャップの裏ぶたに、キリストの顔が浮かびがって見える』例が、写真で紹介されています。そう言われて観れば、確かにそのように見えないことはありません。しかし、これを『神のメッセージ』『神の奇跡』と『関係』づけて『認識』するかどうかは別問題です。『隠された関係』『隠された意図』を何としても見つけないと落ち着かないという習性が強い方は、『聖なるトースト(ケチャップのふた)』であると『信ずる』ことになります。

疑い深い梅爺は、『一体何枚トーストを焼き続けたら、焼きむらとして梅爺の顔が浮かび上がるのだろう』と想像します。つまりトーストの焼きむらは『偶然』と思い、『神のメッセージ』と関係づけては認識はしません。

しかし、疑い深く、『本物』と『認識』の違いに騙されまいとする梅爺は、『トーストの焼きむら』には騙されませんが、他のことでは『誤認』を繰り返し、それを『誤認』と思わずに、『真実に迫った』と得意になっているに違いありません。つまり、程度の差はあれ、誰もが、『誤認』をし、その認識を『信じようとしている』ということに他なりません。

『真実』と『認識』との間には、違いがあるという現実を、より深く知るために、『人間は勉強をする必要がある』と、福岡先生は書いておられます。

| | コメント (0)

2010年10月23日 (土)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(9)

福岡先生の本は、梅爺には『ワンダー・ランド』で、驚きの連続です。無知な梅爺でも、『ナールホド、そういうことか』と驚くような、親切な比喩やしかけに満ちています。そして『分子生物学』の本質は、人間や人間が構成する社会の本質にもつながることを悟り、一気に視野が広がったような喜びを感じます。

たとえば、人間の身体を構成する『タンパク質』は、DNAの情報に従って各種『アミノ酸』が組み合わされたものですが、『タンパク質』を合成するには、多大なエネルギーを必要とするのに反して、『タンパク質』を分解するには、それほどのエネルギーは必要としないというというような『事実』を知れば、そのような事例は身の周りにたくさん存在することに気付きます。

『強大を誇った国家』『全盛を極めた会社』『固い絆で結ばれた夫婦・家族』が、『思いもかけないヒョンなこと』で、アッと言う間に崩壊してしまう事例を思い浮かべることは容易です。あれほど、情熱や努力をつぎ込んで作り上げたのだから、強固に違いないと思うのは幻想で、実に簡単に崩壊してしまいます。

『秩序』が『無秩序』へ向かうのは、『エントロピー増大の法則』です。『無秩序』から『秩序』を作り出すことはこの法則に反する行為ですから、多大なエネルギーを必要としますが、『秩序』の崩壊は、ちょっとしたきっかけがあれば、法則どおりに進行するということに他なりません。この本では、『秩序』は次のように説明されます。

新しい形が生まれるということは、すなわち新しい秩序が生み出されるということである。そして秩序とは「情報」の同義語である。より精妙な秩序には、より多くの情報量が含まれる。そして秩序を産み出すには、つまり情報を作り出すにはその対価としてエネルギーが必要になる。

秩序や絆は一度できあがれば、あとは安心だと思うのは間違いで、それを維持するには多大な労力を要し、絶えず忍び寄る崩壊の要素に目を配り、排除し続けなければいけないということに気付きます。

洞察なしに、レベルの低い日本語で『キッチリ議論をして、シッカリしたルールを作るべきだ』などとおっしゃる政治家先生の言葉を聴くと、梅爺は心配になり、腹立たしくなります。『キッチリ議論』しても『シッカリしたルール』ができる保証はありませんし、いわんや『シッカリしたルール』が堅固である保証もありません。

| | コメント (0)

2010年10月22日 (金)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(8)

『ありふれた材料』と『生命の灯』で誕生し、進化した人間は、突出した資質である『精神活動』を獲得します。言うまでもなく『脳の進化』によるものですが、それを促したものは『コミニュケーションの手段である言葉や文字』で、これを洗練されたものに高めていったからです。

『精神活動』の成果は、『宗教』『倫理・道徳』『科学』『芸術』『哲学』『イデオロギー』ですが、政治や経済などの社会体制も『精神活動』の総合活用成果と言えるのではないでしょうか。他の生物と異なった人間の特質は全て『精神活動』に由来しています。

『分子生物学』は、最初の『生命の灯』が何故ともったかについては、説明できていませんが、『生命の灯』が一旦ともった後に、どのように機能し続けてきたかについては、多くのことを明らかにしつつあります。『生命の灯』を絶やさない努力を生物は本能で継続しつづけ、その結果人間は『精神活動』を獲得したとすれば、『精神活動』は、人間という生物種の『生命の灯』を絶やさないために『必要なもの』であるに違いないと推定できます。

梅爺は、『神』が人間を作り出したのではなく、人間が『神(という概念)』を作り出したのであろうと想像しています。しかし『神(という概念)』は、意味もなく考えだされたのではなく、『生命の灯』をともし続けようとする本能と深く関係しているのではないかと推測しています。従って、『神は存在するか』といった『理』による議論だけでは済まされない重要な意味を『宗教』は内包しているのではないかと考えています。

『安泰に生きる』ことを脅かす要因はすべて生物の『生命の灯』にとっては脅威であり、『不安』や『恐怖』というストレスとして本能は感知します。したがって、『不安』や『恐怖』を緩和し『心の安らぎ』を得ることは、『安泰に生きる』状態へ復帰するために必要なことになります。肉体的、精神的に『自己ヒーリング機能』を人間が保有しているのは、『安泰への復帰』のために、それが必要であるからにちがいありません。

何故人間は『人と人との絆』を、『会話』や『笑い』といったコミニュケーション手段で得ようとするのか、何故人間は『信仰』で、神や仏と接触しようとするのかは、すべて『安泰の維持』を、本能が求めているからではないでしょうか。人間が考え出した『神の概念』は、必ずしも『理』に適っているとは思えませんが、これを『信ずる』ことで『安泰への復帰、維持』ができるという現象は『理』に適っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年10月21日 (木)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(7)

『生命の灯』が『エネルギーと情報の流れ』であるといっても、その仕組みは、発電所を中心とした送電ネットワークシステムや中央処理装置を持つコンピュータシステムのような『集中管理システム』ではなく、人間の場合、各細胞がミトコンドリアを利用した『エネルギーの生成、蓄積』を行い、さらに遺伝子でプログラムされたように情報処理を行う(結果的には物理・化学反応を行う)『超分散処理システム』ということになります。60兆個の各細胞は、言ってみればそれぞれ『発電所』と『コンピュータ』を内臓していると言えます。

インターネットは、人工的な大規模『超分散システム』ですが、60兆個の『サブシステム(細胞)』が連携して、全体(人間の身体)を構成する人間の『超分散システム』には遠く及びません。

情報を処理するのにもエネルギーを要しますから、『生命』の原点は、外部エネルギーを、自分で利用できるエネルギーに変える仕組みを『生命体』が獲得したことにあることが分かります。この仕組みも、情報処理を利用した物理・化学反応ですので、『エネルギーと情報の流れ』は最初から切っても切れない関係として存在していたことがわかります。

生命の無い『ありふれた材料』だけの世界に、何故突然『生命の灯』がともったのかは、現状では分かっていません。従って『偶然そのような環境が整った』『神がともした』など色々な仮説が考えられます。偶然であったとしても、あまりにも確率の低い現象ですので、『神が生命の灯をともした』という仮説を信ずる人が多いのも頷けます。

梅爺は、誰かの意図とは無関係な『偶然』であったであろうと想像しますが、『神の御業(みわざ)』説を否定できる能力は持ち合わせていません。

40億年前の地球環境がどのようなものであったのかを、想定し、気も遠くなるような繰り返し実験を行わない限り、この『偶然』を人工的に再現することはできません。科学が、誰をも納得させる形で、『偶然』による『生命の灯』を再現して見せない限り、『神の御業』説は、語り継がれるのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2010年10月20日 (水)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(6)

細部を詳細に分析し、理解できれば、物事の本質が分かるというのは、科学の一つの考え方です。科学以外の事象にも、このルールが適応できると考える方も多いのですが、このルールは万能ではありません。

最近では、科学の分野でさえも、このルールだけでは壁を越えることができないことが明らかになってきて、『非線形科学』のように、逆にマクロな視点で全体を把握しようとする学問領域も出現しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ba24.html

この本の著者福岡伸一先生が専攻される『分子生物学』は、言って見れば『生命とは何か』に迫ろうとする学問分野ですから、この本の表題のように『世界は分けても分からない』典型例です。梅爺の個々の細胞をのぞいてみても、梅爺の全体像は分かりません。

『人間は60兆個の細胞でできている(毎日1兆個程度が死滅し、新しく生まれてくる細胞にとって代わられる)』『個々の細胞はタンパク質でできている』『タンパク質はアミノ酸から作られる』『アミノ酸は、水素、酸素、炭素などありきたりの材料(元素)でできている』と追いつめてみても、『生命のカラクリ』は一向に見えてこないからです。

『生命』はありきたりの材料で構成されていますが、ありきたりの材料を寄せ集めても『生命』にはなりません。多くの学者は『(ありきたりの材料)+(プラスα)』が『生命』であると思い、この『プラスα』の正体を突き止めようとしてきました。中には、人が死ぬと『プラスα』が無くなるので、その分体重が軽くなると、大真面目に考えた学者もいたいうエピソードがこの本には紹介されていて、笑ってしまいました。この学者は『霊が肉体から離れる』という宗教の教えからヒントを得たのかもしれません。

福岡先生は、この『プラスα』は、『エネルギーと情報の流れ』であると表現されています。地球上に、単細胞の『生命体』が出現して以来、この『エネルギーと情報の流れ』という仕組みが、その後出現したあらゆる『生命体』に受け継がれてきたことになります。その『生命の灯』は一度も消えたことがなく、この仕組みが、子子孫孫人間にも受け継がれ、ありきたりな材料を使って私たちの身体を作り上げているのです。

何とも、目がくらむような話です。

| | コメント (0)

2010年10月19日 (火)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(5)

人間の身体は、元はと言えば女性が産み出した『一個の卵細胞』が、受精後分割を重ねて、身体の各部分になり、細胞数は60兆個にまでになることが分かっています。最終的には、臓器、脳、骨、皮膚、毛髪といった、『部品』となる細胞が、最初は『一個』の分割から始まるわけですから、逆にいえば最初の『一個』は、将来色々な『部品』の細胞に変貌できる資質を保有していることになります。人間の身体は目もくらむような『カラクリ』に支えられている『超分散処理システム』です。

この、『将来色々な部品(細胞)に変貌できる資質を持った細胞』は、『ES細胞(胚幹性細胞:Embryonic Stem Cells)』と呼ばれますが、この『ES細胞』と同じ資質をもつ人工ES細胞、『iPS細胞(人工多能性幹細胞:Induced Pluripotent Stem Cells)を作り出そうという研究が最近注目されているのはご存知の通りです。

女性の卵細胞から人間の『iPS細胞』を作り出そうという研究が主流でしたが、京大の山中教授の研究室が、人間の皮膚細胞から『iPS細胞』を作り出すことに世界で初めて成功し、脚光を浴びました。卵細胞は生命の原点ですから、これを犠牲にして『iPS細胞』を作り出すことには倫理上の問題が残りますが、皮膚細胞は再生機能もあり、これを材料に『iPS細胞』が作ることには、あまり罪悪感を伴わないからです。

梅爺は、『iPS細胞』を利用すれば、重い心臓病、糖尿病、異常遺伝子による難病などの治癒が可能になるかもしれないと、新聞報道を皮相的に理解して期待していました。そこまで深刻でないにしても、虫歯や頭髪の抜け毛の悩みも解決するとなれば、これはありがたい話だと単純に考えていました。

しかし、福岡先生の本を読むと、ことはそう単純でないことが分かりました。つまり『iPS細胞』を、目的の(任意の)部品細胞に変える『条件』が、現状では皆目分かっていないということです。科学は、生命の神秘を『良い線』まで追いつめてきたとは言えますが、最後の『難関』を越える目途が、全く立っていないということで、『やっぱりそうか。世の中甘くないな』と反省しました。

梅爺が、頭髪フサフサの昔にかえるという期待は、当分実現しそうにありません。

| | コメント (0)

2010年10月18日 (月)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(4)

『科学や工学の話はキライ』とおっしゃる方には、『一度福岡先生の本を読んでみたら』と薦めたくなります。

私たちは、日常生活の中で、最先端の研究開発者でもない限り、最新の研究成果、開発成果の詳細を知る必要には迫られません。電子工学、半導体工学、コンピュータ工学、通信工学のことは知らなくても、テレビ、パーソナル・コンピュータ、携帯電話、ゲーム機をを使いこなしています。内燃機関のことを知らなくても、車を乗り回しています。むしろ『エコ・ポイント』『エコ減税』の恩恵を受けようと、こちらの方には頭を悩ませます。

梅爺も、お医者さんに『これは血圧降下剤ですから、朝夕1錠飲みなさい』と言われれば、『血圧を下げるための基本的なカラクリ』などは、知らずに素直に従います。

しかし、福岡先生は『薬とは何か、毒とは何か』という本質を提示するために、『コンビニで売られているサンドウィッチは、何故三日も腐らないのか』という話題から初めて、やがて『腐敗とは何か、発酵とは何か』におよび、結局読者は、『微生物や酵素の関与』『腐敗と発酵は同じカラクリ』『細胞にとって薬と毒は表裏の関係』『人間は微生物との共存なしでは生きていけない事実(腸の中に、人間の細胞の数をはるかに超える微生物を保有している)』というような、『本質』を理解します(理解したような気になります)。

この『本質』を知らずに、お医者さんの云う通りに毎日素直に血圧降下剤を飲んでいた梅爺と、『本質』を知った後の梅爺では、日常の『世界観』に雲泥の差が生じます。薬に関する観方は勿論のこと、コンビニで、サンドウィッチやおにぎりを買う時の判断基準も変わってきます。

科学や工学の、一つ一つの詳細な知識はなくても、『本質』をある程度理解しておくことが、いかに重要かが分かります。

このことは、科学や工学ばかりではなく、政治や経済でも云えることではないかと梅爺は想像しています。たとえ事象の詳細を知らなくとも、ある程度『本質』が理解できていれば、『世界観』や『対応方法』が変わってくるのではないでしょうか。むしろ『本質』こそが重要なのかもしれません。政治家は、最もこの『本質』を理解する能力に長けた人でなければなりませんが、日本の現実は、『不正な収入や脱税はけしからん』などといった『井戸端会議』レベルの表面的な事象の議論にとどまっているように見えて、心配になってきます。

| | コメント (0)

2010年10月17日 (日)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(3)

福岡先生は、素晴らしい研究経歴を持っておられる学者、大学教授ですから、梅爺ごときが、あらためて『頭がよい方』などと評するのは、おこがましい話ですが、テレビのインタビューを観、執筆される文章を読む度に、知性と感性の双方が高いレベルで結合し、醸し出す品格に圧倒されます。最近はやたらと安売りされることが多い『品格』ですが、本当の品格とはこういうものなのだろうと得心がいきます。

先生の『日本語の文章』の美しさに、梅爺は心酔していますが、その先生が心酔される作家がおられることを、この本で知りました。『須賀敦子』さんです。

須賀さんは、イタリアへ留学され、イタリア人と結婚をして、イタリア語の文学作品を日本語へ、日本語の文学作品をイタリア語へ翻訳する仕事で功績を積まれましたが、ご主人が亡くなられて日本へ帰国し、本格的な随筆執筆活動を開始されました。残念ながら69歳で亡くなられましたが、60歳を越えた頃から、筆が冴えわたったと言われています。人生で蓄積してきたものが、一挙に解き放たれ、開花するという面が随筆にはあるのかもしれません。70歳近くになって、一向に開花しない梅爺は、イライラするばかりですが、ひょっとすると蓄積がないからかもしれません。

梅爺は、須賀さんのエッセイをまともに読んだことがありませんが、それでも以前イタリアの聖地アッシジや聖フランシスコの足跡を紹介するテレビの紀行番組で、須賀さんの文章の一部が朗読されたのを見聞きして、感動を覚えたことを思い出しました。須賀さんは、カトリックのクリスチャンです。

福岡先生が須賀さんの文章について表現すると、以下のようになります。

彼女の文章には幾何学的な美がある。柔らかな語り口の中に、情景と情念と論理が秩序を持って配置されている。その秩序が織りなす文様が美しいのだ。

いかがでしょうか。梅爺が福岡先生の文章に心酔する理由がご理解いただけたでしょうか。美の根源を『情景と情念と論理の秩序』などという表現で言い当てることは、知性(理)ですが、文章全体は、品格のある美意識(情)であふれています。

文章はその人を映す鏡のようなものであることが分かります。梅爺はどんなに気取ってみても、梅爺以上の文章は書けないと観念しました。

| | コメント (0)

2010年10月16日 (土)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(2)

福岡先生は、梅爺がほとんど知識を持たない『分子生物学』がご専門ですから、その分野のトピックスが、各章で紹介されるのは当然なのですが、福岡先生の福岡先生たるところは、単なる『科学解説』ではなく、読者が、本来ならば、難解で味気ない説明として受け取ってしまいそうなトピックスに、興味を抱くように、入念な仕掛けが施されていることです。そして、そのトピックスに関して、色々な見方からの洞察が加わります。その多くは勿論福岡先生の推測にとどまるものですが、どんな些細に見えることでも、『何故そうなのか?』と考えると、深遠な知的冒険ができるものであることを知ります。

私たちは、考えないで済まそうと、安易な道を選んで、知的冒険の楽しさを、自ら放棄しているのかもしれません。福岡先生の著作が、多くの人を惹きつけるのは、『知的冒険の楽しさ』と『美しい日本語表現』が同居しているからであろうと梅爺は思います。梅爺は、その虜になっている一人です。

たとえば、この本の第一章は、『ランゲルハンス島』の話です。島と言っても、地理のはなしではなく、人間の膵臓細胞の中に、大海に浮かぶ孤島のように点在する『ランゲルハンス細胞』のことであることが、読み進むに従って判明します。顕微鏡の中の世界を、大海と孤島という比喩で表現されただけで、読者は引き込まれていきます。

人間は、科学の力で、望遠鏡や顕微鏡を発明し、肉眼では観えないものまで観ることができるようになりました。人工衛星を利用したハップル望遠鏡では、132億年前の『宇宙』を観るまでに至りました。これはビッグバンの数億年後の世界です。その上、映画、テレビ、インターネットなどで、実体験ではない映像を観ることができるようにもなりました。しかし、それでも、世の中に存在するものの内、私たちが観ることができるものは、ごく一部で、とても『全体』とは程遠いものに過ぎません。『見えるもの』『見たいもの』しか見ていないにも関わらず、その範囲が『全体』であるとの錯覚に陥りがちな習性を私たちは持っています。

『観たもの』『推論で想像したもの』を総動員して、人間は『全体』を論じようとしますが、世の中には『まだ見たことが無い、知らないもの』『人間の想像能力を越えたもの』が現実には大半を占めている以上、人間が下す結論には『誤謬』が含まれているという弊害から逃れることができません。

しかし、人間はそれでも『誤謬』を恐れずに、『ああだろう、こうだろう』と『考え』『推論(想像)』をするようにもできています。それが『知的冒険』の楽しさです。福岡先生の本は、『知的冒険』の指南書でもあります。

『エンゲルハンス島』は、発見者もその存在目的を知らずに他界してしまったものですが、近年、血糖値を感知して、インシュリンを生産し、血中に送り込むための重要な役割を果たしていることが判明しました。他の細胞は、このインシュリンを感知して、血中の糖分(ブドウ糖)を、将来の飢餓に備えて脂質に変えて、体内に蓄えます。『エンゲルハンス島』が正常に機能しないと、人は糖尿病になり、命の危険にさらされることになります。血糖値が高いにもかかわらず、インシュリンが出ていない異常な状況を、自分で回避する手段を人間は体内に持っていません。

ここまでの説明なら、『科学解説』ですが、福岡先生のすごいところは、『人間は生き残りのために、飢餓に備える機能は進化の過程で獲得してきたものの、飽食に備える機能は獲得できていないのではないか』と推察するところです。

これは、生物進化に関する推察でもあり、文明批判でもありますので、梅爺はここで、『うーん、すごいな』と感じ入ってしまいます。見える範囲には限界があることを承知の上で、その中に含まれているメッセージを読み解こうとすることは、すばらしいことですが、残念ながら誰もが、福岡先生のようには、洞察できるわけではありません。洞察の基盤は、知識、教養、感性であり、これに関する人間の能力は、同じではないからです。

| | コメント (0)

2010年10月15日 (金)

福岡伸一著『世界は分けてもわからない』(1)

『生物と無生物のあいだ』以来、梅爺は、すっかり福岡伸一先生のファンになり、書店で先生の執筆された本を見つければ、無条件に購入してしまいます。アイドル歌手の『オッカケ』の心境です。

何より梅爺にとって魅力的なのは、先生のご専門の『分子生物学』が、生命の謎に関するものであり、多くの細胞(人間の場合には、60兆個の細胞)の『動的な平衡』で生命が維持されているという不思議な世界であることが、自然の摂理の中心的な法則であろうと梅爺が勝手に思い込んでいる『自律分散処理システム』に相通ずるように思えるからです。

先生が取り上げる科学的なトピックスそのものも、魅力的な上に、その日本語の文体が、上質な文学作品にも劣らない素晴らしさですから、堪(こた)えられません。広範な教養や洞察が背景になければ、このような文体を操ることはできません。『最新の生命科学の成果』と『魅力的な日本語の文体』の両方が、同時に堪能できるわけですから、面白くないわけがありません。

今回は、『世界は分けてもわからない(講談社現代新書)』を読みました。本の『腰巻』に踊る、以下のキャッチフレーズを見ただけで、梅爺はワクワクしてしまいました。

『顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?』『科学者たちはなぜ見誤るのか?』『生命に「部分」はあるか?』『ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。私たちは見ようと思うものしか見ることができない。(本文より)』

この本は、プロローグ、エピローグに挟まれた12の章で構成されていて、それぞれの章は、独立しています。そして、ほとんどの章のはじめには、他の本からの抜粋文が、その章の内容を『示唆』する目的で引用されています。それらは、『聖書』『村上春樹』『渋澤龍彦』『須賀敦子』『カミュ』『G・K・チェスタトン』であったり、梅爺が浅学にして存じ上げない最近の日本の若手前衛作家や各国の学者であったりしますので、福岡先生の興味の対象や、読書の幅が、梅爺の想像をはるかに超えていることが分かります。

大体『聖書(信仰)』と『渋澤龍彦(妖しい退廃的な美学)』の世界は、水と油のようなものですので、普通同居することはありませんし、人間の矛盾した多面性を認める人でないと、同時に受け容れることは困難です。

個人的に、梅爺はイギリスの『G・K・チェスタトン』は好きな作家ですので、この名前を見つけて嬉しくなしました。彼は、文明評論でも有名ですが、『ブラウン神父』シリーズという、短編探偵小説の作者としても有名です。生涯に、最も多くの『トリック』を考えだした作者と言われています。

人間が『全体』『部分』と思いこんでいるものが、実は、全体でも部分でもないかもしれないという視点は、とにかく刺激的です。

| | コメント (0)

2010年10月14日 (木)

何故ボス猿はオスなのか?(3)

人間は、古代から『グループの長』に男性を据える傾向を、色濃く踏襲しているように見えます。猿や類人猿時代から、遺伝子の中に本能として、そのような行動パターンをを継承していると見ることもできますが、やがて人間は、『理性・知性』を獲得し、『理性・知性』で考え出した『規範(道徳観、倫理観、宗教観、法律)』をベースに行動するようになります。つまり、『理性・知性』が『本能的な欲望』を抑制するという、他の生物種では見られない習性を身につけることになります。

しかし、人間も生物の一種であるという、基本は変わりませんので、生きるための基本機能(食べる、水を飲む、呼吸をする、排泄するなど)は、『理性・知性』で抑制することはできないという側面は残しています。それは死につながるからです。

『性欲』は、どちらかと言えば、生物種の本能に属する強い欲望で、個人の欲望のままに任せておくと、社会的な混乱を起こしかねない厄介なものですので、宗教的な価値観で規制したり、一夫一婦制などという規範を作って制限したりしてきました。しかし、『絶対的な正しい対応方法』が存在するわけではありませんし、欲望を宗教的価値観や規範に優先させる人も後を絶ちませんので、現代社会でも、時限爆弾のような、不気味な存在であり続けています。聖職者が『戒律』で、欲望を絶つことは、『正しいことなのか』などという議論も、後をたちません。

グループのリーダーを男性にすべきかどうかと言うことよりも、『リーダーの子孫が次のリーダーになる』というような血統を重んずる『規範』を作り上げた途端に、子孫として女性しかいない場合は、女性をリーダーとすることを人間は受け容れることになります。また『卑弥呼』のように、グループを導く呪術師が、グループにとって最も重要と『理性・知性』が考え出せば、リーダーとして認めるようにもなります。

ウーマン・リブの活動家の女性は、『男性が男性の価値観で社会を支配するのはけしからん』と叫びますが、本質は、そんなに単純ではないように、梅爺は感じます。勿論『男性に都合の良い価値観』が無いとは言いませんが、『人類の存続』のために『選択』してきた方法が、全く不適切であったとすれば、人類は滅亡していたのかもしれないという側面も考えてみる必要があります。現代社会では、『体力に勝るリーダー』よりは、『知力に勝るリーダー』が必然的に求められますので、リーダーは、男性か女性かを問題にする必要はありません。リーダーの資質を持っている人が、男性であれ、女性であれ、リーダーになるというというそれだけのことではないでしょうか。

| | コメント (0)

2010年10月13日 (水)

何故ボス猿はオスなのか?(2)

『チンパンジー』と『人間』の共通点は沢山ありますが、『子供期』が永いというのもその一つです。『脳』の発育の大部分を、生まれた後の環境に任せ、それに永い時間をかけるということが特徴です。ある種の脳の機能の成長には、時間を要し、その成長に外部刺激を利用していることがわかります。それでも、『チンパンジー』の赤ん坊は、生まれて直ぐに母親にしがみつき、乳を吸うなどの身体的な能力をもっていますが、『人間』の赤ん坊は、乳を吸う程度の能力しか持たず、ほとんど無防備で生まれてきます。

牛や馬などの哺乳類は、赤ん坊は生まれて直ぐに立ち上がり、親と行動を共にします。生きることに必要な四肢や脳の機能が、母胎内でほぼ出来上がっていることになります。人間で同じことを望むと、赤ん坊の頭や四肢が大きくなりすぎ、出産に更に危険をともなうことから、『未熟』のままで出産する道を生物進化の過程で『選択』したと考えられています。『二足歩行』を選択した人間の骨盤構造は、広い産道を確保できないために、そうせざるを得ないのだと聞いたことがあります。

人間にとって、『二足歩行』と『成熟度の高い赤ん坊の出産』は両立しないために、やむなく『現状』のようになっているという単純な話です。

人間と言う生物種の最大の特徴は、『高度に進化した脳』によって作り出されていますが、脳の神経細胞のネットワーク形成の大半が、生まれた後の環境刺激のなかで行われるということに、大きな意味があるように思います。母胎内で形成された脳の機能と、出生以後に出来上がる脳の機能とが、『総合複合的に作用』して、人間は生きていくことになります。

人間の『子供期』は、何歳までと規定するかにもよりますが、少なくとも、『両親や家族との関係』『教育環境』『友達との関係や遊びの内容』、それに現代では『テレビや本の影響』などが、大きく人間形成に関わることがわかります。これらの刺激の全てが、その人の個性的な脳細胞ネットワークの形成に関わるからです。少なくとも、『生まれつき』だけではなく、出生後に出来上がる部分が残されており、大きな可能性がそこに秘められていることを、大人はもっと重視すべきではないでしょうか。

| | コメント (0)

2010年10月12日 (火)

何故ボス猿はオスなのか?(1)

BS朝日放送で放映されている、イギリスのBBCが制作した『地球伝説』というドキュメンタリー番組は、梅爺の野次馬根性にはおあつらい向きの内容が多く、録画しておき、好んで観ています。

イギリスの若い女性『霊長類学者』が、アフリカの『チンパンジー』『ヒヒ』『マウンテンゴリラ』、それにボルネオの『オランウータン』の野生の群に、それぞれ2週間密着観察する様子を記録したものが、連続で放映され、興味深くみました。『人間の遺伝子に組み込まれている社会行動の習性(本能)』の原点を探ろうと言う目的も込められています。

『チンパンジーの先祖』と『人類の先祖』は、5~8百万年前に、『生物種』として枝分かれした、と現在では考えられています。従って『現生人類』にもっとも近い生物種は『チンパンジー』であり、遺伝子の構造にいたっては、97%程度『同じ』であることも分かっています。たった3%の違いが、大きな資質、能力の差を生み出しているわけですから、『自然の摂理』には驚きます。枝分かれの時点から、人類種は、主体を樹上生活から地上生活に変え、二足歩行になり、道具を多用し、狩や漁で餌をとらえ、雑食性(肉食、草食の両面)を強め、農耕、牧畜の方法を思いつき、定住性を高め、ついには複雑な言葉や文字によるコミニュケーションの手段、能力を獲得していくことになります。

この番組を梅爺が観ていて、特に興味を覚えたのは、『チンパンジー』『オランウータン』『マウンテンゴリラ』の『ボス』は『オス』なのに対し、『ヒヒ』のボスは『メス』であると説明があったことです。ただし、『ヒヒ』の『ボス』はすべて『メス』ということではなく、この番組で紹介された種は『メス』ということのようです。

生物種の多くは、生き残りのために『グループ行動』をする習性を、進化の過程で採用し、『グループ行動』の中心に『ボス』を置くという『しくみ』を生み出しています。その生物種の生き残りのために、『最も重要なこと』は何かによって、『ボス』は、『オス』であったり『メス』であったり、選択が分かれていったのではないでしょうか。

『グループを外的から守り、グループ内の秩序を守る』ことが、最も重要な生物種は、『体力の強いオス』を『ボス』に選ぶようになり、『グループの子孫をできるだけ多く残す』ことが、最も重要な生物種は、『繁殖の中心のメス』を『ボス』に選んだのであろうというのが、梅爺の想像です。蜂や蟻の『ボス』は『女王』であり、多くの猿の『ボス』は『オス』です。

こう考えてくると、『ボス』が、『オス』である必然性は何もなく、生物進化の過程での選択で、たまたまどちらかが選ばれているということに過ぎないことがわかります。同じ猿でも『ヒヒ』が『メス』を『ボス』に選んでいることがそのことを示しています。『ヒヒ』にとっては、『多くの子孫を残す』ことが優先されたということなのでしょう。

| | コメント (0)

2010年10月11日 (月)

ジョン・フォード(3)

ジョン・フォードは、基本的に『男の生き方』を描いた監督のように思います。リンカーンやワイアット・アープといった、歴史上の実在人物を主人公にしたものは勿論のこと、無名で平凡ながら、『武骨に、律義に、真面目に』一生を送った『男』を主人公にした映画が多いことからそのように感じています。

彼の映画にも『女』は出てきますが、多くの場合、主人公の『男』の役どころを引き立てるために設定・配置されています。したがって、『黙って男に従う貞淑な女性』であったり、『男勝りに気性の激しい酒場女』であったりしますが、これまたジョン・フィードが、『男の視点』で作り上げた類型的な『女性像』であるように、梅爺は感じます。女性の映画監督が、『女』を描けば、こうはならないだろうといことです。

『武骨に、律義に、真面目に』人生を送った男の映画の中では、梅爺は『長い灰色の線』が好きです。アメリカのウェスト・ポイント陸軍士官学校の体育教師の一生を描いた映画です。梅爺は、高校生の時にこの映画を観て、大変感動したことを今でも覚えています。当時は、世間知らずで、今のようにひねくれておらず、純真でしたので、ジョン・フォードが、『ここは観客の涙を誘おう』『ここは、笑わせよう』としかけた演出の罠に思惑どおりはまってしまったに違いありません。

ドキュメンタリー映画を観ていて、多くの関係者が、『彼(ジョン・フォード)の家庭生活は不幸なものでした』と証言していることに興味を覚えました。映画の中で、『機微(きび)』や『ユーモア』をあれほどうまく表現する監督ならば、私生活でも、『良き夫、良き父』であったであろうと想像してしまうからです。

『映画の中の人間関係』と『実生活の人間関係』との間に、大きな乖離があるとすれば、それはジョン・フォードという人間を知る上で、大きな手掛かりになります。このようなことは、『強固な価値観』を持っている人に良く起きることです。『ダメな夫、ダメな父親』であるというより、自分と異なった『価値観』を許容できないために、周囲と軋轢が生じたのでしょう。『信念を貫く人』は立派でもありますが、周囲は大いに迷惑である場合も少なくありません。ジョン・フォードは、逆に実生活で満たされない不満を、自分の映画の中で『理想化して描いた』のではないかと思います。

梅爺は、自己主張が強いために、『強引な奴』とよく云われますが、他人の価値観の存在を認めることには柔軟であると自分では思っていますので、それでなんとか周囲のお目こぼしをいただきながら、やってこれたのではないかと、自分に都合よく考えています。

| | コメント (0)

2010年10月10日 (日)

ジョン・フォード(2)

このドキュメンタリー映画の中で、クリント・イーストウッドは、『ジョン・フォードの映画は儀式(Rite)の集大成である』と述べています。こういう場面は、こういう風に撮るのだよと、後(のち)の映画に影響をあたえる『典型』を作り出したとも言えます。画面の中の人物配置、疾走する幌馬車の力動感、夕焼けを背景に地平線を画面の下に設定して、シルエットで遠景の人物を表現する手法、哀悼を表現するハーモニカだけの音楽など、そう言われてみれば、沢山の『ジョン・フォードらしさ』が思い浮かびます。

類型化されたヒーロー、ヒロインの描き方が、少々『鼻につく』と梅爺は感じないでもありませんが、多くのアメリカ人の精神構造に大きな影響を与えているようにも思います。男は(女は)、こういう場合にはこのように振舞い、このように発言するのが、望ましいという類型、儀式を作り上げたという意味です。アメリカを代表する文化は映画であり、その映画文化の、基本パターンをジョン・フォードが築いたことになります。

彼は役作りのために、俳優に、役どころの人物がどういう性格の人間かを一切説明せず、ただ、その人物がどのような人生を送ってきた経歴の持ち主であるかだけを説明したと言われています。それを役者がどのように理解し、どのような演技で表現するかを重要視していたということでしょう。その意味で、あまり撮り直しをせず、最初の『Take 1』でOKを出すことが多かったと伝えられています。何度も取り直すと、役者の雑念がむしろ増えて、表現の新鮮さが失われるということなのでしょう。『計画の中の即興』を重んじたことになります。ドキュメンタリー映画の中では、即興の演技が、後に名場面として語り継がれることになった例を、いくつか紹介されました。

彼は、自分の演出に異を唱える俳優やスタッフには、大いに立腹しているように振舞いますが、その実、それらの俳優やスタッフを退けることはありませんでした。心では『お主、やるのう』と思いながら、それを素直に表現できない性格であったのでしょう。梅爺には、なんとなくその気持ちが分かります。

ジョン・ウェインは、彼から『木偶(でく)の坊』呼ばわりされながら、愛されていた俳優の一人です。黒沢明が三船敏郎を使い続けたのと似ています。武骨さが醸し出す何かを、ジョン・フォードは好んでいたに違いありません。

| | コメント (0)

2010年10月 9日 (土)

ジョン・フォード(1)

ジョン・フォードは、ハリウッド映画の巨匠監督であり、ハリウッド映画の原型を確立し、黄金期をもたらしました。『荒野の決闘』『幌馬車』などの作品名は、映画に詳しくない方でも、ご存知ではないでしょうか。ジョン・フォードが監督であるというだけで、当時世界中の人たちが、その作品の『質の高さ』を信じたわけですから、一種のブランドを確立したとも言えます。彼と同世代、または後世代の監督で、ジョン・フォードの影響を受けた人は沢山います。日本の黒沢明もその一人でしょう。

モニュメント・バレーを背景にした西部劇が有名なために、これがジョン・フォードの代名詞のようにいわれますが、彼の作品は西部劇ばかりではありません。ジョン・スタインベックの原作を映画化した『怒りの葡萄』については、前に紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0099.html

NHKBS放送で、ジョン・フォードを回顧するアメリカで作られた『ドキュメンタリー映画』が放映され、録画して観ました。『ジョン・フォード一家』と言われた、彼のお気に入りの主演男優、ヘンリー・フォンダ、ジェームス・スチャート、ジョン・ウェインをはじめ、彼に影響を受けた、スティーヴン・スピルバーグ、クリント・イーストウッドなどの関係者が、インタビューで彼を回顧する形式で、勿論作品の名場面挿入も随所にありますので、下手な劇映画を観るより、面白い内容でした。

ジョン・フォードは、アイルランド系移民の子ですので、アイリッシュ独特の『反骨精神に富んだ熱血漢』であろうと、容易に想像でき、多くの作品でもそれが実証されているように思いますが、一方、極めて抒情的で美しい映像美や、人間の繊細な情感(人情)、ユーモアの表現でも有名ですので、ジョン・フォードという人は、知性と情感をバランスよく持ち合わせた、スマートな人物に違いないと梅爺は勝手に想像していました。

しかし、このドキュメンタリー番組にインタビューで登場するジョン・フォードは、まことに無愛想、ぶっきらぼうで、偏屈爺さんでは、人後に落ちない梅爺も、これよりはましであろうと思うくらい『木で鼻をくくった』ようなサービス精神など皆無の対応でした。

彼のこの振る舞いと、映画で描かれる人情味豊かな人間像の乖離(かいり)は、人を戸惑わせますが、彼は、自分も本当はこうありたいという人物を映画を利用して描いたのであって、映画の人物の方が、むしろ彼の本性に近いのではないかと梅爺は感じました。そっけなく振舞うのは、一種のシャイな心の表れで、梅爺も心とは裏腹に、実生活ではぶっきらぼうに振舞ってしまうことがよくありますので、なんとなくジョン・フォードの気持ちが理解できるような気がしました。ぶっきらぼうな外見から、情感の薄い人間のように思われて損をしますが、そういう性格なのです、どうしようもありません。

| | コメント (0)

2010年10月 8日 (金)

中国の『蟻(あり)族』(3)

中国政府は、国家の成長を支える人材が必要であるという理由で、全国各地に多数の大学を新設することを許可しました。しかし、大学さえ出れば『将来はバラ色』と信じて努力した若者たちを待ち構えていた現実は『蟻族』になってしまうということでした。番組の取材対象になった若者たちは、『大学を出ても、なんの保証にもならない』と嘆いていましたが、『誤った国家政策の犠牲になった』と政治不信を口にしないことに梅爺は興味を持ちました。

国家政策の批判は、危険が身に及ぶことを知っていてのことなのか、世の中には、この程度の理不尽はいくらでもあり、いちいち憤慨していても自分のためにはならないと悟っているためなのか、想像するしかありませんが、誰かのせいにせず自分で困難をなんとか打開しようと言う姿勢からは、『たくましさ』の印象を受けました。

中国の大企業は、現在の日本と異なり、不景気で人材を採用する余裕がないということではありません。『すぐに戦力になる人材はいくらでも欲しい。しかし大学出の青二才は要らない』と主張しているのです。その証拠に、上海では、広大な会場を使って、大規模な共同就職説明会が連日開催されていて、入場するだけで数時間待ちという盛況なのです。このような状況で『蟻族』は増えているのです。

グローバル経済の中で、中国の企業が生き残るために必要な人材と、中国の大学が排出する人材との間で、『仕様』の整合がとれていないということに他なりません。日本の大企業は、不景気のために採用人数を減らさざるをえない状況に追い込めれていますが、基本的に『自分たちに必要な人材は、自分たちで育てる』という意識を持っています。日本の大企業が下請けを酷使すると批判されますが、大企業が下請けを育てる努力もしてきたおかげで、日本の中小企業の多くが、世界に誇りうる独創的な技術や製品を保有しています。目覚ましい経済発展を続ける中国、韓国には、日本のような大企業を頂点とする下請け企業群というピラミッド構造はありません。韓国の大企業は、必要なものは自社で生産するという姿勢で対応してきていますが、中国は、手っ取り早く『日本の優秀な中小企業を買収する』ことで対応しようとしています。『大学出の青二才は要らない。即戦力が欲しい』という論理と同じです。

日本は、日本の強さの根源である優秀な中小企業が、海外の会社に買収されるのを放置するのは大きな損失です。疲弊している日本の大企業が盾になって、防御する力を失っているとしたら、国家戦略での対応を必要とします。政府の『国家戦略室』にはどのような腹案があるのでしょうか。高速道路を無償化するより、こちらの方が緊急課題ではないでしょうか。

| | コメント (0)

2010年10月 7日 (木)

中国の『蟻(あり)族』(2)

『社会主義』の国家が、一部『資本主義』の流儀を導入する、『資本主義』の国家が一部『社会主義』の流儀を導入するというのが、現在の国際政治の流れです。中国は前者で、日本は後者です。何事にも、長所と短所があるということでしょう。どちらでもない北朝鮮のようなグロテスクな『独裁者支配国家』が、国際社会で存続し続けるのは、奇跡のような綱渡りですから、誰が考えてもいつまでも続くとは思えません。何かのきっかけで、一気に崩壊してしまうのではないでしょうか。

昨今の日本は、『金持ちになることが幸せのもと』と単純に考える人が増えて、ギスギスした社会になる要因になっていますが、それでも未だ多くの日本人は、『周囲の自然に感謝し、つましく、仲良くいきることが一番の幸せ』という考え方を捨ててはいません。『資本主義』国家でありながら、日本は最も『社会主義』的な国家であると、西欧人からからかわれるのはこういう背景があるからです。大企業の社長の年収と、新入社員の年収の比率が、10:1程度と聞いて、梅爺がつきあっていたアメリカ人のビジネスマンは、貧富の差が少ないことに目を丸くしていました。日本人のこのような平均的な価値観が、日本の強さの根源で、最も大切にしていくべきものと梅爺は考えています。

一方、『社会主義』国家であるはずの中国は、あきれるくらいに、純粋な『資本主義』を受け容れてしまっているように見えます。つまり、『資本主義』の悪いところに毒されていて、日本よりずっと『資本主義』国家であると今度はこちらがひやかしたくなります。『金儲けを優先する論理』が、国家、企業、個人にまで浸透しているように感じられます。こういう日本と異なった価値観が醸成される背景が、中国の歴史と関係しているとは思いますが、本当の理由を梅爺は理解していません。

中国の大学新卒者が大企業に就職できず『蟻族』となってしまうのは、企業側が『青二才ではなく、実務的に即戦力となる社員』を求めているからです。企業が、『将来のための社員育成に投資をするのは金儲けの視点からは損だ』と近視眼的に考えているからでしょう。日本の企業も『短期視点』で判断することは当然ありますが、企業の存続に『長期視点』の判断が欠かせないことを、有能な経営者であればあるほどわきまえています。競争力のもととなる優秀な社員や、優秀な技術は、『投資』『時間をかけた努力』によって得られることを、経験則で知っています。梅爺も新入社員であった時に、『定年までに借りを返せ』と上の人から云われました。一見華やかな成長を遂げている中国の企業は、いったん環境が悪化した時に脆弱さを露呈するのではないでしょうか。

人間は『金儲けを優先する論理』だけでは律することは難しい存在であることを理解しない経営者、為政者は結局人々を不幸へ導くことになりかねません。経済の急成長はバブルを膨らませ、やがて矛盾が露呈しますので、中国は、きわどい綱渡り国家であるように見えます。中国はスピードが落ちたら爆発する爆弾を抱えて走っているバスであるという例えは当を得ています。

| | コメント (0)

2010年10月 6日 (水)

中国の『蟻(あり)族』(1)

アジアの公共放送連盟が、優れたドキュメンタリー映像作家を育成するためのキャンペーンを実施し、応募作品の中から優れた作品がNHKBS第一放送で、連夜放映されました。

日本の作品『森の出会い・・聞き書き甲子園』と、中国と日本の共同制作作品『蟻(あり)族の詩(うた)・・上海求職旅館の若者たち』は、日本と中国の若者を取材対象にした内容でしたが、両国の抱えている問題の一面を垣間見ることができ、その対称的な違いを梅爺は興味深く感じました。

日本の作品は、成熟から衰退へ向かいかねない日本の実情の中で、将来への具体的な『夢』を持てないで、漫然と生きている高校生が、山地で林業や農業に携わる老人を訪ね、その『語る内容』を録音して持ち帰り、文字へ書き起こしてレポートする一部始終を追った内容でした。こういう試みを支援するNPOがあるらしく、3人の高校生のケースが紹介されました。最初は、全く別世界に見える高校生と老人ですが、老人が作業をしながら、訥々(とつとつ)と話す、哲学的とも言える人生観、死生観に、高校生が『深い意味』を見出して感動し、両者の間に、心の絆、友情が芽生えていく様子が伝わってくる心温まる内容でした。

一方、中国を取材した『蟻族の詩』は、地方の大学を卒業し、華やかな都会(上海)で、大きな企業に就職しようと出てきた若者たちが、就職活動を行うための安宿に長期逗留し、悪戦苦闘する様子を記録したものでした。番組で追いかけた数人の若者は、いずれも就職できずに、郷里へ帰る羽目になりました。現在、大学を卒業して就職できない人の数が600万人あり、近々2000万人になると予測されているとのことでした。これらの就職したくてもできない若者を中国では『蟻族』と呼び、大きな社会問題となっているようですが、効果的な解決手段がないと番組では伝えていました。経済的な急成長の歪(ひずみ)が露見した一つの例で、放置すれば社会の根底を動かす『爆発の引き金』になりかねない予感がします。

日本の若者が、生きることとは何かと精神の内面の問題に苦悩しているのに対して、中国の若者は、弱肉強食のジャングルで、生き延びるために苦闘している動物のように見え、対称的です。日本の若者は、『ひ弱』に見え、中国の若者は『たくましく』見えますが、両国の置かれている環境、文化基盤の違いがありますので、どちらが『良い』とは一概に言えません。肉体的に生きることではなく、精神的な生きる意味を考えようとする日本の方が、社会的には成熟していると観ることもできます。

日本へ押しかけ、買い物に精を出す中国の人たちや、上海万博でにぎわう様子をみて、国民総生産で日本を追い抜いた活気あふれる経済大国であり、尖閣列島問題で反日運動が高まっているという報道に接すれば、覇権を求める軍事大国であると、一枚岩の国家のように日本人は中国を受け止めますが、それは実態の一面で、内部に難しい諸問題を抱えた綱渡り国家であるように感じました。『蟻族』にとっては、明日自分が生きていけるかどうかが問題で、尖閣列島の問題などは、念頭にないのではないでしょうか。中国人が国を挙げて『反日』で盛り上がっているわけではなさそうです。

| | コメント (0)

2010年10月 5日 (火)

氏よりは育ち

上方いろはカルタの『う』、『氏よりは育ち』の話です。

人間の価値(魅力)は、その人がどういう家柄の子として生まれたかではなく、どのような環境で育ったかで決まるものだ、というごく当然な教えが含まれています。『ごく当然』というのは、『現代の私たちの価値観で』の話で、氏素性(うじすじょう)で人生が決まる封建社会の江戸時代に、庶民が『本当は違うんだよね』という実感を持っていたことを示す話ですから、日本人の庶民感覚は『侮りがたい』ものであると分かり、嬉しく、誇らしくなります。

『ええとこのボン』とか『深窓の令嬢』とかいう表現は、羨望の意味もありますが、多くの場合『褒め殺し』で、『それだけのことで、世間知らずの魅力に欠ける人間』という蔑みが込められています。そう言えば、『ええとこのボン』丸出しのまま、首相にまで登り詰めた人がいました。

それならば、『氏(家系)』は、全く意味がないかと言えば、そのようなことはありません。『氏』で、その人がどのようなDNAを継承しているかが決まるからです。DNAで基本的にはその人の資質が決まっているとしたら、『氏』こそが全てのはずですが、そうではないのは何故でしょう。

人間の脳の『理』の能力の大半は、生まれながらの資質で決まるのに対して、『思いやり』などの『情』の表現能力は、生まれた後の育った環境から大きな影響を受ける、というのが梅爺の推測です。幼児期の『情』を育成する環境が、如何に大切かという話です。他人の愛情を知らずに育った人間は、他人を思いやる心が希薄になる可能性があります。

『有名大学は卒業、でも無感情、無表情の人』と『誇るべき学歴はないが、周囲を明るくする笑顔が絶えない人』のどちらが、人間として魅力的なのかという比較になります。実際は、これほど単純ではありませんが、分かりやすい表現をするとこのようになります。

科学知識を現在のように持ち合わせていなかった江戸時代の庶民が、人間の魅力の根源を直観で言い当てていることに驚きます。

| | コメント (0)

2010年10月 4日 (月)

歴史空想小説『Napoleon's Pyramids』(6)

この小説の作者は、なかなか商魂がたくましく、本の最後に、続編『The Rosetta Key』の出だしの2章が、予告編として掲載されています。

確かに、『Napoleon's Pyramids』の最後は中途半端で、主人公がエジプトで出会い、冒険をともにして恋心をもつようになった美女とも、別れ別れのまま終わっています。それに、『モーゼ』が持ち出し、奇跡を実現するもととなった『知恵の書』のその後の行方も、読者には気がかりです。

多分『The Rosetta Key』は、ヒエログリフの解読のきっかけになった『ロゼッタ・ストーン』を手掛かりに、『アーク(十戒が刻まれている石板を収めた箱)』や『知恵の書』を求めた冒険が繰り広げられるのであろうと梅爺は想像しました。『モーゼ』の死後、これらはユダヤ王朝の秘宝であったにちがいありませんので、今度の舞台はエルサレムであろうとも推測できます。

今のところ梅爺は、『amazon.com』から、続編『Rosetta Key』を取り寄せて読もうとまでは考えていませんが、本屋の書棚にこれが並んでいれば、躊躇なく購入してしまいそうな気がしています。断片的な知識(雑学)を組み合わせて、空想を楽しむ梅爺の性癖は、この作者と共通するものがあるからです。

『Napoleon's Pyramids』を読んで、『ナポレオン』と『モーゼ』の人物像に梅爺は興味を抱くようになりました。特に『モーゼ』は、古代の伝承に現れる人物とはいえ、謎に包まれていることが多いので、好奇心をかきたてられます。『出エジプト』後、イスラエルの民は『約束の地カナン』へ到達するまで、40年間荒野をさまよう試練を神(ヤーヴェ)から課せられたという旧約聖書の記述は何を意味するのだろうかと気になります。エジプトからパレスチナまでの距離を考えると40年は長すぎます。『モーゼ』がせっかく到達した『カナン』へ『(自らの意思で、一説では神から禁じられて)入らなかった』と伝えられているのも不思議です。『約束の地カナン』は、パレスチナではなく、アラビヤ半島の一部であるという説を前にブログで紹介したことがありますが、そうかもしれないと思ったりしてしまいます。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-68c5.html

梅爺の空想癖は、病気のようなものです。

| | コメント (0)

2010年10月 3日 (日)

歴史空想小説『Napoleon's Pyramids』(5)

旧約聖書に登場する預言者『モーゼ』は、壮大な奇跡を次々に起こしたという点では、キリスト以上と言えるかもしれません。最も有名な奇跡は、エジプトで奴隷であったユダヤの民を率いて、エジプトからアラビヤ半島へ脱出する時に、『紅海を断ち割って、海底に歩いて渡れる通路を出現させた』というもので、こんな途方もない規模の奇跡は、人類の歴史の中でもそうはありません。

『モーゼ』は紀元前1300年ごろの人物と考えられていますので、エジプトの新王国時代に相当します。『モーゼ』を知る手掛かりは、旧約聖書しかありません。ユダヤの奴隷の子供でありながら、エジプトの王子として育てられたということが本当なら、エジプト側の史跡に、その存在を証明する何らかの記述があってもよさそうですが、そのようなものが見つかったという話は聞いたことがありません。後に、ファラオに逆らって、ユダヤの民をエジプトから脱出させた反逆者であるために、エジプト側が一切の証拠を抹殺したのかもしれませんが、不思議な話です。

『モーゼ』も『キリスト』も、生まれた時に、『男児の新生児は全て抹殺される』危難に遭遇し、いずれもそれを逃れたという逸話、エジプトを脱出した『モーゼ』とユダヤの民は、『乳と蜂蜜がしたたる約束の地カナン』へ到達するのに40年間荒野をさまよったという話と、『キリスト』が布教を開始する以前、40日間荒野で修行したという話の類似性など、梅爺は新約聖書の作者が、偉大な預言者モーゼをキリストに巧みに投影させているように感じます。

古代エジプトの宗教は『多神教』、ユダヤ教は『一神教』と決定的に異なりますが、ユダヤ教が、宗教的なしきたりなどで、エジプトから強い影響を受けていると梅爺は想像しています。『モーゼの十戒』も、エジプトの『死者の書』の一部引用ではないかと、前にブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-663c.html

『モーゼ』は、シナイ山で、『神が自ら十戒を刻んだ石板』を授かったとされ、その石板は特殊な箱(アーク)に収納されて、ユダヤ王朝の秘宝になっていたと伝えられていますが、現在ではその行方が分かっていません。『秘宝アーク』を巡るミステリィ小説は後を絶ちませんし、考古学者もそれを追い求めています。しかし、そのようなものが見つかれば、現代人は科学調査の対象にして『神への疑惑』が増すだけでしょう。見つからない方が、皆の幸せのために良いのではないでしょうか。

| | コメント (0)

2010年10月 2日 (土)

歴史空想小説『Napoleon's Pyramids』(4)

前に紹介したように、この本は、博識で教養の高い作者が、『大人向けの荒唐無稽な物語』を全力で創作している風情があり、その乖離(かいり)が独特の雰囲気を醸し出しています。大の大人が、真剣にディズニーランドの設計をしているという状況に似ています。英語の語彙や文体は、普通の小説に比べると難解で、梅爺は少してこずりました。従って、初めて英語の本を読もうという方には、お薦めできません。

『荒唐無稽』の最たるものは、古代エジプトのファラオが、ピラミッドの地下に封印した『謎の物体』で、『自然も操れる絶対的な力を駆使できる知恵を書き記した書物』という設定です。この『知恵や力』は、良い目的で使用すれば、限りない恩恵を人類にもたらしますが、野望を持った人間が利用すれば、地球を破滅に追い込むかもしれない代物であるということになっています。現代の話にすれば、さながら『原子力』のようなものということになります。

この小説の主人公たちは、悪戦苦闘の末に、ピラミッドの地下にある人工の空間へ通ずる入口を見つけますが、目的地へ到達してみると、『謎の物体(知恵の書)』は、誰か先人によって、既に持ち去られていることを知ります。そして、その持ち去った先人こそが、ユダヤの救世主『モーゼ』であることを知ります。『モーゼ』は、ユダヤ人奴隷の子供でありながら、エジプトのプリンセスに拾われ、育てられ、その有能さ故に、次のファラオになると考えられていた人物であったとされていますから、ピラミッドの謎を知っていてもおかしくないという想定です。ここまでくると、『荒唐無稽』もあきれるのを通り越して、『よくまあ、そんなことを思いつきましたね』と感心してしまいます。

これで、旧約聖書に書かれている、『モーゼ』が行った数々の超自然な『奇跡』の説明がつくということになります。このようにあらすじを紹介してしまうと、何とも粗雑な印象になりますが、細部は、緻密でリアルに書き込まれているという不思議な組み合わせが特徴の本なのです。壮大な空想と緻密なリアリティとが、知的野次馬を惹きつける要因であることを作者は、熟知しているのでしょう。

| | コメント (0)

2010年10月 1日 (金)

歴史空想小説『Napoleon's Pyramids』(3)

梅爺の『ナポレオン』に関する知識は、極めて断片的であり、今まで『ナポレオン』が『実際にはどんな人物であったのか』について深く考えたことはありませんでした。

『ナポレオン』が、お気に入りの画家ダヴィッドに描かせた『ナポレオンの戴冠式(パリ:ルーヴル美術館)』『アルプスを越えるナポレオン(ウィーン:美術史美術館)』を、梅爺は現地美術館で観て、『ナポレオンは見栄っ張りな野心家であったにちがいない』と漠然と感じていました。高潔でまともな人間なら、自分を実際以上に『立派』に見せようとする、『絵画』『銅像』『写真』は、恥ずかしいと思うに違いないからです。『美男子』でも『偉丈夫』でもない『ナポレオン』が、自分を『英雄』として演出しようとしている心理が見え見えです。

コルシカ島の地方貴族の子弟であった『ナポレオン』は、フランスの陸軍幼学校、陸軍士官学校で学びますが、『コルシカ訛りのフランス語』で笑い物になるのを嫌い無口で目立たない、読書好きな青年であったと言われています。学校の数学の成績は抜群であったということなので、『理』でものを考える能力には秀でていて、これが後に『戦争の戦術家』としての彼を有名にしたのでしょう。

彼が頭角を現すのは、フランス革命後のどさくさに乗じてフランスを攻略しようとする外国勢力との『戦い』の士官として、功績をあげてからです。

『Napoleonn's Pyramids』という小説では、『ナポレオンのエジプト遠征』の様子が、詳細に描かれています。当時のヨーロッパ人がほとんど知識を持ち併せていなかったエジプトに遠征して、フランス軍が『想定外の苦労』をする様子は写実的で、実際はそうであったろうと納得できました。灼熱の砂漠などは、彼らの想像を越えていました。

『見栄っ張りの野心家』という梅爺が抱いていた『ナポレオン』の性格はその通りに描かれていますが、更に、科学の探究心が強い人間としても描かれています。エジプト遠征には、167人の科学者、学者が同行していて、彼らの現地での業績が、後の『エジプト学』の基礎になったことを考えると、これは『ナポレオン』の間接的な業績と言えます。

『ナポレオン』の生涯を俯瞰して観ると、物事が彼に都合よく展開している時に『英雄』を演じているのは当然なこととして、極めて逆境に見舞われた時も、楽観的と思えるほどの不屈な精神を発揮していることが彼の特徴のように思えてきます。普通の人間は、逆境に晒されると『もうダメ』と観念するものです。『英雄』は、『単純な野心』と『不屈の精神』を併せ持っていることが条件なのかもしれません。

| | コメント (0)

« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »