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2010年9月30日 (木)

歴史空想小説『Napoleon's Pyramids』(2)

この小説には『古代から中世までのエジプトの歴史』『ナポレオンおよびエジプト遠征の時代背景』『古代エジプトの宗教観』『ギザのピラミッドの謎』『モーゼおよびイスラエルの民のエジプト脱出(旧約聖書)』『数列(フィボナッチ数列やパスカルの三角形など)や特別な数値(円周率、黄金分割比率など)に秘められている謎』『ナポレオンの時代(19世紀初頭)にヨーロッパ人が獲得していた科学知識レベル』『秘密結社フリーメーソンの謎』などに関する『蘊蓄(うんちく)』が、これでもかこれでもかとテンコモリに盛り込まれています。

個々の『蘊蓄』は、史実や残されている資料に基づくものですから、『絵空事』ではありませんが、それらのバラバラな『蘊蓄』を組み合わせて作者が作り上げたストーリーは、良くできているとは言え『完全な絵空事』です。

落語の『三題噺(さんだいばなし)』で、関連の無い三つの『お題』から、もっともらしい話を作りあげるのに似ています。

個々の要素の正しさを強調して、だからそれらを組み合わせた全体も正しいと主張する狡猾な政治家や詐欺師がいますから、素直な方は、提示された全体の話までも信じてしまうのかもしれませんが、梅爺のような『ひねくれ爺さん』は、その手にはのりません。

しかし、一方において梅爺は『雑学大好き爺さん』ですので、『荒唐無稽な全体』はさしおいて、この本は十分楽しめました。『荒唐無稽』であることを承知で読めば、『全体』も、それはそれで楽しめます。

ギザのピラミッドは、今から4500年前頃のファラオが、墓として建造したというのが一般的な理解ですが、他のファラオの墓から見つかっているミイラや遺品、ヒエログリフによる碑文や壁画が一切発見されていないことから、『墓以外の目的で建てられた』という諸説が現在まで沢山唱えられてきました。

現在までに見つかっている内部通路や部屋は、いずれも『盗掘者』を欺くための『おとり』であり、本当の墓は、ピラミッドの地下のどこかに今も眠っているという予測を、多くのエジプト考古学者が抱いています。もし、見つかれば『王家の谷』の『ツタンカーメン』以来の大発見ということになります。

この小説では、ナポレオンのエジプト遠征に、同行したアメリカ人の主人公が、ついにその『秘密の墓』を発見し、古代のエジプト人がこのようにしてまで封印しようとした『謎の正体』を突き止めるというストーリーになっています。

この種の小説のアメリカ人作家(ダン・ブラウン、スティーブ・ベリーなど)は、誰もが申し合わせたように『アメリカ人の主人公が、現地で美女の相棒に遭遇し、一緒に大活躍する』というストーリーを展開します。この小説も例外ではありません。『アメリカ大衆の読者を獲得するため』『ハリウッドから映画化のオファーを受けるため』という計算があるにせよ、このような『あっけらかんとしたパン・アメリカーノ思想』には、『おいおい、またかよ』と言いたくなります。

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2010年9月29日 (水)

歴史空想小説『Napoleon's Pyramids』(1)

梅爺は45歳頃から、英語の本を読む習慣を身につけるように努力をし始めました。当時英語が仕事の上で必要であったからです。英語で本を読むのは、日本語の本を読むより数倍の時間と努力を必要としますので、今から考えると、よく挫折せずに続けてこられたなと、我ながら感心しています。

当時は、理解できる語彙や慣用句(イデオム)を増やすことが、外国人相手に英語で自己主張をするのに必要なことだと考えたからですが、仕事を引退した現在は、『脳の活性化』『異文化の理解』が、英語の本を読むことの目的に変わりました。

勿論、日本語の本を読むことも嫌いではありませんし、日本語で表現される美や情感も大好きです。日本人の梅爺にとっては、日本語の本は『ホーム・グラウンド』であり、英語の本は『別世界』を垣間見る窓です。日本映画を観るときと、外国映画を観るときの違いに似ています。外国映画の字幕は、日本人に理解しやすいように、巧みな日本語に意訳されていますので、登場人物はそのように話しているのだろうと誤解しがちですが、実際には、そのまま直訳したら、日本人は戸惑うに違いない表現で、会話が進行していることが多いように思います。外国語や異文化を、そのままの形で理解することは易しいことではありません。

英語の本を読む習慣を継続するコツは、『面白い本』を読むことに尽きます。梅爺は、好んで『ミステリィ小説』『大人の歴史冒険(空想)小説』を読んできました。

本屋に並んでいるこの種の『大衆娯楽小説』の多くは、アメリカ人の作家の著作で占められています。同じ英語の国でも、イギリスの『大衆娯楽小説』は、教養の香りが漂いますが、アメリカのものは、何はさておき『面白さの追求が第一』の感じがします。『ラスベガス』や『ディズニーランド』がアメリカにあってイギリスにはないという事実と符合するような気がします。

非日常的な楽しさを、あきれるほど徹底して追及するという習性は、アメリカ文化の特徴の一つです。日本人の発想では、精々『浅草の花屋敷』程度の規模が限界で、『ラスベガス』や『ディズニーランド』を本気に実現してしまうエネルギーには脱帽するほかありません。

今までに、ブログで、アメリカの大衆小説作家の作品を沢山紹介してきましたが、今回は、『Napoleon's Pyramids(ナポレオンのピラミッド):William Dietrich』を紹介します。タイトルに惹かれてペーパーバック版を購入しましたが、この作家の本を読むのは初めてです。

アメリカ人の主人公が、ナポレオンのエジプト遠征に同行し、封印されている古代エジプトの謎めいた『知恵』の実態を暴こうと、血沸き肉踊る活躍を繰り広げるという、大人向けの歴史冒険ミステリィ小説です。

綿密に時代考証されている『ナポレオンのエジプト遠征』と、荒唐無稽な冒険譚(ぼうけんたん)の組み合わせが、なんとも絶妙で、その上、英語の文体も、それほど軽薄ではありませんので、この作家は、遊び心と並々ならぬ知性の両方を持ち合わせている人だと思いました。ダン・ブラウン、スティーブ・ベリーなど、この分野での才能あふれる作家が次々に現れるのも、アメリカの懐の深さかもしれません。

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2010年9月28日 (火)

ふたりの巨匠傑作展(3)

モーツァルトがどのような信仰心を持っていたのかは、想像するしかありませんが、少なくとも表面的な言動は敬虔なクリスチャンであったようには見えません。しかし、宗教曲でも、見事な表現力を発揮しています。今回の『グレート・ミサ』も、何の苦もなく、易々と自然に作曲したのではないかという印象を受けました。『こういう内容は、こういう風に表現すれば人間の情感に訴えることができる』ということを、天性の才能で熟知していたのではないでしょうか。まさしくプロの音楽(作曲)職人と言えます。

一方、ブルックナーの『ミサ曲第3番』は、重厚な印象を受けました。ブルックナーは有能なオルガン奏者として音楽家のキャリアを開始した人で、若いころ聖フローリアン修道院で学んだこともあり、生涯敬虔なカトリック教徒として過ごしました。晩年に至るまで多くの若い女性に求婚し続けたと伝えられていますので、ロマンチストであったと思われますが、失恋の連続で結局一生を独身で過ごしました。音楽は、ベートーベンやワーグナーの影響を強く受け、一度作曲した内容も後々、納得がいくまで訂正を加えるということで有名ですので、苦吟(くぎん)の末の作品ということになり、重厚の印象となるのは、こういう事情に起因しているのでしょう。モーツアルトの、一度譜面に書いた内容は変更なしという姿勢とは決定的に異なります。『ミサ曲第3番』も、作曲着手から最終改定までに、20年以上の歳月を費やしています。

ブルックナーは、交響曲の作曲家として有名ですが、多くの合唱曲も手掛けています。今年12月11日に予定している東大現役の男声合唱団『コールアカデミー』の演奏会で、梅爺が所属するOB男性合唱団『アカデミカ・コール』が、ブルックナーの男声合唱曲(宗教曲ではありません)を現役と合同演奏する予定になっていて、目下練習中です。ドイツ語の歌詞で歌いますが、非常にオーソドックスな和声で作曲されていますので、表現には合唱団の実力が問われそうです。既に、三澤洋史(ひろふみ)先生による指導もはじまりましたので、先生のブルックナー理解内容を拝聴するころで、梅爺にとって、また新しい発見があることを期待しています。

今回の演奏会の合唱は、見事であったと思います。男声と女声の比率が、バランスの上ではぎりぎり許容できる範囲かなと思いましたが、あまり不自然には感じませんでした。合唱指導、発声指導された方々のレベルが高いことの証左であろうと思います。

何回もブログに書きましたが、国民が自発的に楽しむ合唱の普及度が高い日本は、健全な文化国家であると梅爺は考えています。手前味噌で恐縮ですが、合唱は邪悪な心から人を遠ざけてくれると感じています。『どの息子が将軍様の後継ぎになるか』などで揺れ動く、お隣の独裁国家では、このような社会現象は考えられないことですし、日本の領海で不法を働いた漁船の船長を英雄のように釈放せよと日本を恫喝して悦に入っている別のお隣の大国も、過去はともかく現代の文化的レベルは、日本とは程遠い国のように感じています。

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2010年9月27日 (月)

ふたりの巨匠傑作展(2)

今回モーツァルトとブルックナーという、二人のミサ曲が同時演奏されたのは、対比の上で興味深いことでした。二人ともオーストリア出身であることは共通ですが、モーツァルトが18世紀(1721-1756年)、ブルックナーが19世紀(1824-1896年)と約100年の時代差があること、モーツァルトが幼少時から天才とうたわれたのに対し、ブルックナーは大器晩成型の作曲家であったことなどの顕著な違いがあるからです。

キリスト教文化を基盤とするヨーロッパで、『神を讃え、神に信仰を捧げる』目的のミサ曲を作曲することは、作曲家として認められる条件でもあり、後世大作曲家といわれる人たちは、競ってこれに挑戦しています。ラテン語で書かれた共通の歌詞に曲をつけるわけですから、作曲家の宗教的、音楽的感性が如実に現れることになります。

文化基盤が異なる日本では、ミサ曲は勿論宗教色が強いことは理解されていますが、むしろ『西欧音楽の一つのジャンル』として受け止める面が強いのではないでしょうか。しかし、西欧の人たちが、『Kyrie eleison(主よ、憐れみ給え)』『Miserere nobis(至らぬ私たちを憐れみ給え)』『Agnus Dei tollis peccata mundi(この世の罪を取り除いてくださる神の子羊よ)』などという信仰の基盤として子供のころから聞き馴染んでいるラテン語の言葉を聞くだけで、心が打ち震えるのであろうことは想像に難くありません。日本人が、『そういう意味なのか』と翻訳内容を表面的に理解する話とはレベルが異なります。

キリスト教の聖職者の権威を維持するために、中世までラテン語だけで教義が表現されていた時代があった名残でもありますが、言葉が異なる西欧の人たちが、共通の言葉で信仰を共有できるという、大きな意味があるように感じます。西欧の言葉の語源の多くは、ラテン語に由来しますので、繰り返しミサで歌われる歌詞の内容は、誰もが理解しやすかったに違いありません。そして、この程度のラテン語を理解することは、西欧人の教養の一つとされてきたにちがいありません。

西洋音楽の発展は、西欧では宗教との結びつきが一つの要因ですが、日本は、歴史的に西欧音楽を、新しい芸術様式として受け容れました。そういう日本人が、『ミサ』や『レクイエム(鎮魂ミサ)』に強い反応を示すのは何故だろうと梅爺は興味深く感じます。人間の情感に迫る共通の表現要素があるからなのではないかと思いますが、それ以上のことはわかりません。西欧人が、こういう日本人をどのように見ているのかも問いただしてみたことがないので分かりません。

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2010年9月26日 (日)

ふたりの巨匠傑作展(1)

『ふたりの巨匠傑作展』というタイトルだけみると、絵画展かと思ってしまいそうな音楽演奏会を聴きに、梅爺と梅婆は9月23日サントリーホールに出かけました。内容は、牧野成史氏指揮で『モーツァルトのハ短調ミサ(グレートミサ)』、郡司博氏指揮で『ブルックナーのミサ曲第3番ヘ短調』という構成で、いずれもオーケストラ(バッハ・アアデミー管弦楽団)、4人のソリスト(ソプラノ、アルト、テノール、バス)、混声合唱によるミサ曲でした。

梅爺が参加している男声合唱団『アカデミカコール』の仲間(大学時代からの合唱仲間)UさんとSさんが、立川の市民混声合唱グループ『東京ライエンコーア』のメンバーでもあり、ブルックナーのミサ曲の演奏に加わるということで、Uさんからのご招待にあずかりました。Uさんの奥さまも同じ合唱グループのメンバーで、ご夫婦でステージに登られました。

Uさんご夫妻が参加された演奏会については、今までに、『ヘンデルのメサイア』『ベートーベンの荘厳ミサ』『ハイドンの天地創造』『モーツァルトの戴冠ミサ』『ラターの子供のためのミサ』についてブログで紹介してきました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-56b6.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6be9.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_a38d.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c1f2.html

今回の演奏会には、モーツァルトのミサに『所沢バッハ・アカデミー』『横浜モーツァルト・アカデミー』、ブルックナーのミサに『東京ライエンコーア』『東京オラトリア研究会』『小平コーラス・アカデミー』『コール・ロベリア(女声コーラス)』と、計6つのアマチュア合唱団が参加しています。ただ、ステージのメンバー構成を見る限り、女性と男性の比率は、3:1で、圧倒的に女性が多いことが分かります。

日本のアマチュア合唱に参加する人の総数どのくらいにのぼるのか、梅爺は知りませんが、今回のステージが、合唱を趣味とする人たちの男女比を反映しているとすると、日本の合唱事情に関しては、女性優位と言えそうです。梅爺は、大学以来男声合唱しか経験していませんので、この女性優位を切実に実感したことがありませんでしたが、『合唱爺さん』は、ひょっとすると現在の日本では希少価値かもしれないと思いました。今更混声合唱団に参加して『チヤホヤしてもらいたい』とは願いませんが、『その気になれば、その可能性がある』ということは分かりました。

梅爺が子供のころは、『歌舞音曲は、男子の生業(なりわい)にあらず』という風潮がありましたから、『合唱爺さん』の数が少ないのはなんとなくわかりますが、最近の若い人の間の『アカペラ・コーラス』ブームなどを見ていると、むしろ男性の数が多いようにも感じますので、女性の方がコーラス好きとは一概に言えません。中年以降のコーラス人口が女性優位になるのは、趣味に時間が割けるかどうかという単純な理由が原因なのかもしれません。梅爺も、仕事の現役時代(約40年間)は、合唱から遠ざかっていました。日本のどこにも『ママさんコーラス』はありますが、『パパさんコーラス』はあまり耳にしないのも、このためでしょう。団塊の世代が、リタイアする時代になりましたので、今後男性の合唱人口が増えるのかどうか注目したいと思います。

大作曲家が、心をこめて作り上げた高度な音楽形式である宗教曲(ミサ曲)を、ラテン語で歌えるアマチュア合唱団が、沢山存在するということだけでも、日本が高い文化国家であることが分かります。梅爺は、外国の合唱事情に詳しいわけではありませんが、このことは世界に誇りうることではないでしょうか。特に、キリスト教文化を必ずしも基盤としていない社会で、このような現象が何故起こるのかは興味深い話です。

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2010年9月25日 (土)

ソクラテス(5)

キリストより400年近い昔の『ソクラテス』の人物像を私達が知ることができるのは、弟子のプラトンや、プラトンの弟子のアリストテレスが、師の言葉を書物で残してくれていることや、歴史家のクセノポンが書き残した書物のおかげです。『ソクラテス』の胸像も残されています。

キリストの人物像を知る手がかりが、キリストの死後100年位経過した後に、『言い伝え』をもとに編纂された『新約聖書』しかないのと比べると大きな違いです。キリスト教の研究者が、キリストと同時代のユダヤ、ギリシャ、ローマなどの書物や歴史的な資料を、いくら探してみても、それらしい人物は見つかっていません。キリストを裁判で処刑することを決めたとされる、ローマ帝国のユダヤ総督ポンテオ・ピラトは、勿論史実で特定できますが、彼がキリストを処刑したという歴史的記録はありません。キリストが死の三日後に蘇ったなどということが、同時代の人たちに共通に『認識』されていたとすれば、驚きの大ニュースですから、何らかの史実として書き残されているはずだ、というのが、キリストの実在を疑う人たちの主張の根拠です。梅爺は、『言い伝え』と言えども全て創作とは思えませんので、キリストに相当する人物は存在したと想像しています。もし、キリストに、『ソクラテス』のプラトンに匹敵する有能な弟子がいて、キリストの言行録を直接書き残してくれていたら良かったのにと、残念に思います。

古代ギリシャ人が、『理性で考える』ことを尊び、『自分自身』や『自然現象』を見つめようとしたことは、人類の歴史の中で画期的なことです。その結果、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの『哲学』、ピタゴラスのような数学、物理学の『科学』、ヒポクラテスの『医学』が芽生えました。現代のような幅広い科学知識を持たない時代ですから、私達がその内容の『幼稚さ』『誤り』を指摘することは容易なことですが、当時の人たちの置かれている環境で考えれば、驚くべきことです。元素などという概念を知らない時代に、元素や分子の概念を推測したり、病気は、悪霊が乗り移ったものではなく、身体と自然(環境)との不調和が原因などと推測していたのですから。

『ソクラテス』は、『ただ生きることより、より善く生きることが大切だ』と述べています。これは『徳』の重要さを指摘していることですが、人間の中に、『徳』『不徳』、『善良』『邪悪』といった矛盾する要素が存在することを、知っていたからに違いありません。裁判で『主張を取り消せば命は助かる』と知りながら、自ら死を選んだことも、『自説を曲げて生きる』ことは、『善く生きる』ことではないという、信念に基づくもので、これに殉じたものと思われます。

神や仏の力を借りなくても、人間は、『徳』『不徳』、『善良』『邪悪』といった抽象概念を見つけ、『徳』や『善良』を重視して生きるべきだという、論理までも見出すことができるという『仮説』を、梅爺は何度もブログに書いてきましたが、『ソクラテス』を観ると、一層その気持ちが強まります。

孔子の教えをもとに儒教が生まれたように、『ソクラテス』の教えをベースに、『ソクラテス教』という宗教が生まれなかったのは、何故だろうと梅爺は思いますが、もしそのようなものが生まれると知ったら、『ソクラテス』は、きっと『おやめなさい。真理を追究したいのなら、信ずるよりむしろ疑いなさい』と言ったにちがいありません。

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2010年9月24日 (金)

ソクラテス(4)

私達は、『知らない』ことが大半で、『知っている』と思っていることも、『本当に知っている』ことは少なく、見聞きした情報を正しいと信じて『知っていると思っているにすぎない』ことが多いのではないでしょうか。

しかし、『知らない』ことが多いからといって、卑屈になる必要はありません。人間には『知らない』ことでも、『本当は、こうではないか』と推量する能力が備わっており、これを駆使することは極めて人間らしい行動であるからです。

そして、推量したことに、矛盾が少ないと感ずれば、人は『この推量はきっと正しい』と個人的な納得の度合いは高まりますが、例えそうであっても『本当に正しい』とまでいうのは言いすぎです。この『きっと正しい』と『本当に正しい』を峻別することが重要ですが、多くの人はこれを混同します。『梅爺閑話』は、『知らないことへの個人的推量』のオンパレードで、梅爺は、『きっと正しい』に止めているつもりでが、時に『本当に正しい』と言わんばかりの表現をしてしまっているかもしれません。お恥ずかしい次第です。

『ソクラテス』は、アポロンの神の『ご託宣』で、アテナきっての『賢人』とみなされていたと伝えられています。梅爺がもし『お前は賢人だ』と神様から言われれば、有頂天に舞い上がってしまいそうですが、『ソクラテス』は、『何故自分は賢人なのか』と冷静に分析しようとします。そして、『知っていないと認識できている』ことが、自分の優れた資質であると考えます。上記の言い方に置き換えれば、『きっと正しい』と『本当に正しい』を混同しないということでしょう。

『ソクラテス』は、自分以外の賢人と言われる人や若者と対話し、その人たちが『正しい』と信じていることが、『必ずしも正しくない』ことを、次々に論破していきます。これは『常識』を覆すことでもあり、また論破された人たちの面子をつぶし、恨みを買うことになりました。そしてついに『アテネの神々を信ぜずに、他の神を信じ、若者を惑わせ堕落させている』という『異端』のレッテルを貼られ裁判にかけられます。

弟子のプラトンなどや、裁判に関わった心ある人たちが、なんとか彼の命を救おうとしますが、『ソクラテス』は自説を曲げず、自ら服毒して死ぬ道を選びます。彼の死後、アテネの人たちは、いわれのないデッチアゲで、偉大な賢人を死に追いやったことを恥じ、彼を告発した人たちを逆に裁判にかけ、処刑したとも伝えられています。凡人が、賢人に『異端』のレッテルを貼って、誹謗するケースは、人類の歴史の中で、その後も後を絶たず、現在も続いています。

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2010年9月23日 (木)

ソクラテス(3)

2800年前にホメロスが書いたとされる叙事詩『オデュッセイア』は、トロイを制圧した英雄オデュッセィウスが、船でトロイから祖国へ凱旋しようとして、途中色々な『試練』に遭遇するという物語です。文学作品としての価値もさることながら、現代の学者は、ホメロスがこの叙事詩で、『人間とはこうしたもの』『人間はこう生きるべき』というメッセージを同時代のギリシャ人へ提示したのだと見ています。

すんなりいけば2週間位で帰国できるはずが、次々に襲い掛かる試練のために、10年近い年月がかかってしまいます。その間、オデュッセィウスの妻も、夫の帰還を信じて、言い寄る男達を退け、再婚せずに待ちます。一方、オデュッセィウスも、妻や子の待つ家へ帰りたいとは思いながら、『更に現世で英雄としての名誉を強固なものにしたい』『死後の世界でも英雄として迎えられたい』『永遠の命を得たい』と、数々の試練に立ち向かいます。特に、美貌の女神がオデュッセィウスを誘惑し、このままの生活を続けるなら『永遠の命』を与えようと約束します。色香の虜になったオデュッセィウスは、夢のような7年間を送ってしまいますが、それでも、妻や子への思慕は断ち難く、『永遠の命』をあきらめて、ようやく帰還します。

ホメロスは、『現世や死後の名誉』や『永遠の命』よりも、『家族との絆』が、人間には最も尊いものだと、諭(さと)しているように見えます。勿論『妻の貞節』もそのために重要なことだ言いたかったのでしょう。人間は『死ぬ運命にある』からこそ、生きている時の『家族との絆』を大切にし、幸せを得ることができるという、現代人でも納得ができる教えです。

『ソクラテス』は『ホメロス』より400年位後の人物ですが、当時のギリシャ人のもつ『死生観』『倫理観』の上で『理性による物事の理解』を試みたのであろうと推察できます。『理性による物事の理解』は、それまでの『常識』を疑うことで始まることが多いことになりますので、『常識』を信奉する人からは、『怪しからん』と疎(うと)まれることになります。中世の科学者は勿論のこと、近世のダーウィンでさえ、非難の対象になりました。『ソクラテス』もご他聞にもれず、この犠牲になり、死を迎えることになります。

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2010年9月22日 (水)

ソクラテス(2)

古代ギリシャで、人々が『神々』をどのように受け止めていたかも、梅爺の興味の対象です。ギリシャ神話には、多数の神々が登場しますので、言うまでもなく当時のギリシャ人には、『全知全能のただ一人の神』という考えは持っていなかったことが分かります。『ただ一人の神』は、ブログに何回も書いてきたように、ユダヤ人が考え出した概念です。

古代ギリシャ人は、『自分達の世界』とは別に『神々の世界』の存在を想像し、『神々の世界』も、『自分達の世界』同様に、多くの住民がいると考えました。中には王様格の『ゼウス』という『神』がいるという具合です。神々同士も、まるで人間のように、恋をしたり、結婚をしたり、時には争ったりします。

『神々の世界』からは、『自分達の世界』はお見通しで、神々は、そのときの気分次第で、気まぐれに個人や、国家(当時は都市国家)に加担したり、忌避したりする厄介なものと考えていたようです。従って、人間は、個人や国家の守護神とする神の住む『神殿』をつくり、『どうか、私(私達)に、意地悪をしないで、良いように加担してください』と祈りました。

『神々』は、極めて人間に近い容姿(中には半人半獣の容姿の神もいますが)や性格を保有していると考えていました。勿論、人間以上の能力を持っているとも想像しました。ワグナーのオペラ(リング4部作など)で展開する世界と同様です。ただ、人間と決定的に異なることは、神々は『永遠の命を持っていて死なない』ということです。そこで、多くの人間は、自分も神々のように『永遠の命』を持ちたいと願ったのだろうと考えたくなりますが、そこはギリシャ人のすごいところで、『命に終わりがある』ことが、むしろ人間を幸せにするという論理を考え出します。そして何と神々は、それゆえに死という運命を持つ人間を『羨ましく思う』のだという、逆説的な論理まで考え出します。梅爺は、こういう自己肯定の屁理屈が大好きで、古代ギリシャ人に好感を持ちます。

何故、この様なギリシャ人の『神々』の理解について、くどくどと書いてきたのかというと、理性で物事を理解しようとした『ソクラテス』が、これにどう対応しようとしたのかが梅爺の興味の対象であるからです。

『ソクラテス』が、『アテネの神々以外の神を信じて、若者達に誤った思想を与えた』として有罪になり、ついには服毒自殺するにいたる経緯に、アテネの『常識的な宗教観』が関係しているように見えるからです。

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2010年9月21日 (火)

ソクラテス(1)

梅爺は、ギリシャへは行ったことがありませんが、心情的に何となく好きな国の一つです。テレビの旅番組などを観て、エーゲ海の明るい陽射しに映える白壁の家々や、底抜けに陽気そうにみえるな人たちの印象が強いためなのでしょう。陰惨な抗争を繰り返すパレスチナの暗いイメージとは好対照に見えます。しかし、キプロスでは、ギリシャ系(ギリシャ正教)とトルコ系(イスラム教)の人たちが、激しく陰湿な睨み合いを続けていますので、ギリシャ人は楽天的、友好的、陽気とは単純に言えません。それにしても、古代に、あれほどの文明を誇り、哲学や科学の分野で多くの賢人を輩出したギリシャが、現在ヨーロッパの中では、田舎国家になってしまってしまい、ついには国家財政破綻で、ユーロ圏の『厄介者』になってしまったのは何故なのでしょう。

古代ギリシャの『ヘレニズム文明』が、その後の人類の歴史に与えた影響は計り知れないものがあります。『建築』や『彫刻』などの分野は、言うに及ばず『民主主義の考え方』『真理追究を尊ぶ姿勢(哲学、科学、医学)』など、現代人が共鳴できるものを沢山残しています。『ヘレニズム文明』の素晴らしいところは、『自分はこのように考えた(作った)』と主張しているだけで、後の人たちに、『宗教』として『信じろ』と強要していないことではないでしょうか。

『キリスト教』も人類の歴史に大きな影響を与えてきたことは、ヨーロッパの各地に残る教会や大聖堂の数がそれを物語っています。日本も文化遺産の大半が神社仏閣ですから、当時の人々の全ての生活の中心に『宗教』があったと言えます。勿論古代ギリシャにも『宗教』はありました。

『キリスト教』は4世紀の『教義』確立と同時に、『教義』に反する考え方は、全て『異端』として排除したために、ヘレニズムの哲学や科学も『異端』となり、ヨーロッパは中世において『理性による真理追究』の点では、イスラム社会に遅れを取ることになります。『異端尋問』は陰惨を極めました。ガリレオの宗教裁判などは、その一例に過ぎません。一方、『イスラム教』はむしろ科学を推奨したために、中世においては、数学や医学の分野で、圧倒的にキリスト教社会を凌駕することになります。ヘレニズムの思想も、アラビヤ語に翻訳され、そのおかげで今日まで伝えられたものも少なくありません。

14世紀から16世紀にかけてイタリアを中心に起こった『ルネッサンス』運動は、ヘレニズム時代の自由な精神生活への回帰を目指すもので、『教義』で抑圧されてきた人間の当然の行動ともいえますが、ローマン・カトリックは本質的に快く受け止めませんでした。ただし、ユリウス2世は、民衆の支持を得るために『ルネッサンス』をしたたかに利用した法皇として有名です。バチカンの『システーナ礼拝堂』の装飾壁画がその証左です。

『教義』以外は全て『異端』として、弾圧、抹殺しようとするのは、『自分にとって不都合なものは排除したい』という生物としての人間の本能が、そのまま現れていることになり、『煩悩からの解脱』がいかに人間にとって至難であるかが分かります。現在も世界各地の紛争はもとより、私達の身の回りで、この弊害が見え隠れしています。『自分自身の価値観を持つことは重要だ。しかし他人の価値観も尊重し、調和の中で生きるべきだ』というのが、論語の『和して同ぜず』の教えですが、人類はまだこの教えからは、程遠い状態にあります。

ギリシャ哲学の祖といわれる『ソクラテス』は、知れば知るほど梅爺には魅力的な人物に見えます。名代の『恐妻家』であったなどという言い伝えも、わが身を省みて、共感がわきます。『ソクラテス』は『結婚しても、しなくても人は後悔する』という名言を残しています。

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2010年9月20日 (月)

Dark Matter(2)

NHKテレビが、『Dark Matter』を『クローズアップ現代』という番組でとりあげ、梅爺は、それを観て、歴史的推移と現状を知りました。

『Dark Matter』が存在すると言う『予測』は、80年前に天文学者ツビッキーによってなされました。彼は『銀河団』の観測をしていて、ある銀河の速い動きが、他の銀河との間の引力だけでは説明がつかないことに気付きました。そこで、『観測はできていないが、そこには引力の元となる質量を持った物体があるはず』と考え、これを『Dark Matter』と名付けました。『Dark』という表現は、『謎に満ちた不気味な感じ』が含まれていて、多くの科学者の興味を惹くには、実にうまい命名であったと思います。

当然、科学者が最初に思いつくのは、『人間の眼には見えない暗い星』ではないかということで、世界中の天文学者が必死に探しましたが、1千万個の星を観測して、見つかったのはたったの13個で、これでは到底『Dark Matter』にはなりえないことが判明します。

次に科学者たちが目を付けたのは、宇宙に大量に存在する『ニュートリノ』という『素粒子』でしたが、1998年に東大が、世界で初めて『ニュートリノ』の質量を割り出すことに成功し、残念ながら『Dark Matter』としては『軽すぎる』ことが判明してしまいます。

万策が尽きたかに見えた時に、『理論物理学』の分野が、新しい光明を見出しました。それは、数式で宇宙の成り立ちを表現しようとすると、『超対称性粒子』というあるレベルの質量を保有する『素粒子』が存在しなければならない、という論理的な推測です。

『天文学の観測からの予測』と『理論物理学からの推測』が一致して『Dark Matter』の存在を指し示していることになり、あとは『観測実験』で正体をつきとめるだけということになっています。『Dark Matter』は、宇宙の果てに存在するのではなく、私たちの周辺にも存在し、私たちの身体の中を自由自在に通り抜けている『素粒子』であるという想定です。

米国、欧州、日本が、発見一番乗りを目指して努力をしていますが、日本の強敵は欧州(欧州原子核研究機構:CERN)です。CERNは、世界最大の『衝突型円型加速器』を用いた大規模実験で、対応しようとしています。研究予算ではCERNの千分の一程度しかない日本は、アイデアと高い技術力で対応しようとしています。飛騨の山中地下深くにある東大の研究所で、観測装置『XMASS』を完成させ、観測に入ろうとしています。『XMASS』は、セレンガスのなかを『Dark Matter』が通過するときに、偶然セレンガスの原子核と衝突し、発する微小な光を観測しようというものです。こういう光センサー技術では、日本が突出していることを活用しています。

日本人の梅爺は、当然『アイデアで勝負だ!日本ガンバレ!』と声援を送りたくなりました。アホな政治家が、このような研究予算まで『事業仕訳』の対象にしてしまわないように願うばかりです。

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2010年9月19日 (日)

Dark Matter(1)

人間が認知できている宇宙の構成物質は20~30%程度で、残りは未知の『Dark Mattr:暗黒物質』であり、当然『Dark Matter』が有する『Dark Energy(ダーク・エネルギー)』の影響を受けている、などと頭の良い学者が『仮説』を唱えると、梅爺などは『畏れ入りました』とすぐに受け容れてしまいそうになりますが、『Dark Matter』や『Dark Energy』は、現時点ではあくまでも『理論的な仮説』であって、実験では立証されていないことは認識しておく必要がありそうです。

もし仮に、『Dark Matter』や『Dark Energy』の存在を想定しなくても、宇宙のしくみが説明できる別の理論が見つかれば、この『仮説』は崩れ去ります。しかし現状ではその可能性は低いようです。

未知なるものが発見されて、その後、『中身』や『存在理由』が解明されるというのが、人類が辿ってきた一般的な対応プロセスでしたが、『理論物理学』や『宇宙物理学』では、『こういうものが存在するはずだ』と、理論推定が先行して、後に実験や観察でそれが実証されるという逆のプロセスが採られます。理論推定は、一握りの『とびきり頭の良い人』でないとできませんから、梅爺のような凡人には、理論内容を理解するどころか、実証実験の中身も理解が難しくなります。

人類にとっては、『とびきり頭がよい人』は、希少価値がありますが、人類の命運はむしろ『とびきり立派な人』に託されるべきだというのが梅爺の考えです。これについては、『核兵器開発者の良心』というブログで前に書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-0f62-1.html

『とびきり立派な人』の存在や行動原理は、梅爺のような凡人でも、認識できるはずだという前提ですが、残念なことに『とびきり立派な人』とはどういう人かを定義することは易しくありません。ただ『とびきり立派な人』は『理一辺倒の人』ではないらしいという推測はできます。人間が健全に生きるということには、『物理条件』だけではなく、『情』を含めた『精神的条件』も強く関与するからです。

現代の科学は、宇宙に存在する物質は、有限な元素で構成され、元素は、陽子、中性子、電子で構成され、陽子、中性子は、クォークで構成され、クォークは『超ひも』の振動の形態であるということを明らかにしました。電子やクォークは『素粒子』と呼ばれるものに属し、『素粒子』には、それ以外のものが存在することも分かっています。

137億年前の『ビッグバン』は、究極の構成要素である『超ひも』から、宇宙が膨張を開始したという『学説』で、これ以上に矛盾の無い説明は見つかっていないことから『定説』になっています。『ビッグバン』は、人間を産み出すために起こったのではなく、その後の偶然が重なった『動的平衡』の推移のなかで、たまたま人間が出現することになったに過ぎません。時間を巻き戻して、もう一回『ビッグバン』から開始したとしても、再び人間が出現するとは限りません。

現在世界中の科学者は、『Dark Matter』の正体は、未知の『素粒子』ではないかと見当をつけ、実験でその存在を証明しようとしのぎを削っています。この『素粒子』は、単体では微小で、他のどんな物質の中でも通過してしまうほどのものですが、まとまれば宇宙のバランスに影響を及ぼすほどの質量を保有しているとが証明されなければなりません。幸いなことに『科学技術の総合実現能力』で、世界の最先端を行く日本は、この競争で先陣をきる可能性が高いと期待されています。

『Dark Matter』の正体が分かったとしても、私たちの日常の生活に直接影響は及びませんが、宇宙、地球、人間が何故存在するかに新しい視点が加わり、考えてもいなかった視界が開けるかもしれません。

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2010年9月18日 (土)

映画『モンタナの風に抱かれて』(5)

この映画のもとのタイトルは『The Horse Whisperer』です。これが日本で公開される時に『モンタナの風に抱かれて』というタイトルに変わってしまうところに、アメリカと日本の文化の違いを感じます。

前に、ヘンリー8世のイギリス国教会設立に異を唱え、処刑されたトーマス・モアを主人公にした映画『我が命つきるとも』をブログで紹介しましたが、この映画の英語のタイトルは『A Man for All Seasons』で、この時もタイトルのつけかたに文化の差を感じたことを紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8569.html

共通して言えることは、英米では、『このタイトルは一体何を意味するのだろう』という『理』に属する興味を喚起しようとしているのに対して、日本語のタイトルは情緒的で、『情』に訴えることを重視していることです。

どちらの文化が優れているかなどと論ずる必要はありませんが、英米人と接触する時に、この文化の違いが存在することを知って対応するかしないかでは、大きな違いが生じます。日本人は『理屈っぽい』ことより、『情緒』を好む民族なのです。梅爺は、日本人には珍しい『理屈っぽい爺さん』なので、『梅爺閑話』は堅苦しくて面白くないと、多くの方からご指摘を受けます。そう言われると一層意地を張って、『一人くらい面白くないブログを書く偏屈爺さんがいてもよかろう』と、スタイルを変えずに書き続けています。

『The Horse Whisperer』という言葉の組み合わせは、アメリカ人にとっても普段常用されるものではありません。しかし、これには自分が知らない『特別な意味』があるにちがない、という興味からこの映画に惹きつけられることになります。

映画の配給会社は、欧米の映画を日本で公開する時に、理屈っぽいタイトルでは、集客できないと惧れ、原題とは似ても似つかぬタイトルを考えだします。『The Horse Whisperer』という映画を制作したアメリカの関係者は、これを『モンタナの風に抱かれて』というタイトルに変えないと日本ではうけないと聞けば、キョトンとするに違いありません。むしろ、そのような『漠然としたメッセージ』では、真意が伝わらないのではと、危惧するかもしれません。

岡倉天心が、英語で『茶の本』を書いたように、何故『モンタナの風に抱かれて』というタイトルの方が日本人に好まれるのかという文化基盤の背景を、英語や『理』で説明できる日本人が現れないかぎり、日本人は不可解な人種であるという英米人の偏見はなくなりません。

異文化の問題は、どちらが優れているかを議論したり、どちらかに合わせる努力をしたりすることが重要なのではなく、『違い』が存在する背景を双方が理解することの方が重要なのです。

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2010年9月17日 (金)

映画『モンタナの風に抱かれて』(4)

人間が、大自然の中に身を置くと『心が癒される』と感ずるのは何故なのでしょう。浜辺で海を眺めたり、森林の中を散策したりすることで『穏やかな気持ち』になるのは何故なのでしょう。宗教の多くが、自然と心を通わせる『自然信仰』から始まっていることも、これに関係しているように思います。全てが、人間の脳の機能と関連しており、特に何らかの『安泰』を希求する習性が強く関与していそうだと、梅爺は感じますが、それ以上の論証はできません。

大自然の対極として、人工的な環境である都会が、ストレスを産み出します。昔は『自然環境』と『非自然環境(人工的な都会など)』のバランスが、まあまあ維持されていたと言えますが、近代都市は、『非自然環境』だけになってしまい、ここに住む人間は、異常な体験を強いられることになりました。

ストレスによる心の問題が『都会』で発生し、それを癒す場所が『大自然の中』であるという構図は、多くの小説や映画で利用されるパターンで、この映画でも『ニューヨーク』と『モンタナの牧場』が、その象徴として使われています。

しかし、ストレスは『人間に有害なもの』とだけ言えないところが、ややこしい話です。むしろ、ストレスは人間を活性化するのに必要なものでもあるからです。特に老人にとっては、脳の老化を防ぐ手段として有効です。その上、人間はストレスに慣れる習性があり、ストレスを常態として受け容れてしまいます。都会暮らしに慣れてしまうと、田舎の暮らしは退屈だと思うようになります。休暇でリゾート地の浜辺に、三日も寝そべっていれば都会の生活が恋しくなります。仕事人間が引退すると、自由な時間がむしろ苦痛になったりします。

一方、田舎の生活に慣れてしまった人は、都会の喧騒は耐えがたいもので、満員電車を想像しただけで、外出が億劫になります。

一般的には、適度なストレスは有効なのに、極度なストレスは有害であり、『癒し(ヒーリング)』を必要とするということですが、適度か極度かの判別基準は人によって異なりますので、一律の対処方法はありません。

多摩の山々や多摩川に近い青梅に住み、時折刺激を求めて都心に出る、という梅爺の生活環境は、これはこれで自分にとってはバランスがうまくとれていると勝手に思い込み、満足しています。

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2010年9月16日 (木)

映画『モンタナの風に抱かれて』(3)

動物にも『心』があるのか、ということに関して、梅爺は何度かブログを書きました。『心』の定義にもよりますが、『脳』を持つ高等動物には、程度の差はあれ、『心』があるであろう、というのが梅爺の推測です。人間の『心』のレベルがあまりにも突出しているために、『人間だけは別』と考えたくなりますが、脳の進化の程度の違いで、基本的には同じであろうと思います。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-b189.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-e706.html

この映画では、馬が恐怖の体験で、『野生の暴れ馬』に戻ってしまうという設定ですので、これは、人間が非情な体験をした時に、他人を信じなくなるのと同じです。脳は、異常なストレスを受けると、それまでの動的平衡のレベルを維持できなくなり、異った動的平衡レベルへ飛躍してしまうのでしょう。

馬の先祖が地球上に現れたのは、人間の先祖よりずっと前のことです。遅れて登場した人間は、馬を最初は食料の対象(狩りの対象)にしたのであろうと推察できます。この時の関係から、馬には『人間を警戒する本能』が受け継がれているとこの映画では説明しています。

しかし、その後人間は馬を飼いならし、使役や交通の手段として利用するようになりました。馬が存在しなければ、人間の歴史は大きく変わっていたに違いありません。

『Horse Whisperer』は、馬と『心を通わせることができる特赦な能力の持ち主』ということになります。馬は人間の言葉を、人間の様には理解しないはずですが、『心を通わせる目的』に、人間の言葉を『囁く』という手段が使われるのは興味深いことです。梅爺も、我が家の老犬に、人間に対するような言葉で語りかけ、なんとなく対等に『心が通じた』と感じています。これは『お手』とか『お座り』とか『待て』とか、梅爺の命令に老犬が従っている主従関係の感覚とは異なっています。

『心が通う』という感覚は、友人や恋人や家族との絆を保つ上で大切なものですが、宗教においても重要な役割を果たします。『神や仏と心が通う』と『感ずる』ことが基本であるからです。

『心が通う』ことを希求するのは、『安泰』を希求する生物としての本能に由来するのであろうと梅爺は推測しています。そんな味気ない理屈でしか理解できない人は、可哀そうな人だ、ロマンチックでない人だと言われそうですが、梅爺は『心が通う』ことの大切さ否定しているわけではありません。老犬に、『今日は、雨が降って寒いな』とか『おい、元気か』などと話しかけているのは、その証拠です。

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2010年9月15日 (水)

映画『モンタナの風に抱かれて』(2)

片足が義足になってしまった少女は、自分の将来を考え、そして親友の死は、自分が乗馬に誘ったことが原因と罪の意識に苛まれて、自暴自棄になります。母親は、少女の心を救うには、愛馬との絆を取り戻すことのほかに方法はないと『信じ』、凶暴になってしまった馬を癒す方法を模索します。

この母親は、部下が閉口するほどの雑誌の『やり手編集長』で、自分が『信じた』ことは、断固やり通す強い女性ですが、娘を癒すためには、馬も癒さなければならないという自分の『信念』が果たして『正しい判断』なのかどうか煩悶します。

それでも、馬に関する書物やインターネットで調べまくり、暴れ馬を従順な馬にならす能力をもった、『Horse Whisperer(馬に囁く人:馬の心が理解できる人)』と呼ばれる特別な人間がいることを知ります。

インターネットで、モンタナの牧場のカウボーイの一人が『Horse Whisperer』であることをつきとめ、電話をして、『ニューヨークまで来て、馬を診てほしい』と頼みますが、『お役にたてない』とにべもなく断られます。

それでも、くいさがり、『それでは、馬をそちらへ連れていくから』という条件で了解をとりつけ、馬をトレーラーに乗せて、自分が運転して、娘と一緒にモンタナへ向かいます。

独断でことを運ぶ母親を嫌う娘、自分の判断が正しいのかどうか本心では悩む母親、そして、離婚で心に傷をおっている中年のカウボーイ『Horse Whisperer』が、雄大なモンタナの自然の中で繰り広げる人間模様と、暴れ馬が次第に癒されていく過程が観る人を映画に引き込んでいきます。

ついに娘と馬は絆を取り戻し、娘には笑顔が戻りますが、お互いが恋心を抱くようになった母親とカウボーイには、『大人の別れ』が待ち受けているところで、映画は終わります。自分の思う通りに、ことが運んで喜び、自分の思う通りにはことが運ばずに、哀しむことの繰り返しが人生であると、映画を観る人は悟りますが、これを観て、人生は不条理であるなどとは感じません。むしろ豊かな気持ちになります。

ロバート・レッドフォードは単なるイケメンの大根役者ではないかと、失礼な誤解をしていたことを梅爺は恥じました。監督としての彼の力量は、侮(あなど)りがたいものがあります。

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2010年9月14日 (火)

映画『モンタナの風に抱かれて』(1)

NHKのBS放送で放映された映画『モンタナの風に抱かれて』を録画し、観ました。イケメン男優として、一世を風靡したロバート・レッドフォードが1998年に監督したハリウッド映画です。

事故で、同じように身体と心に傷を負った、少女と愛馬が、馬の扱いに特殊能力を持つ中年のカウボーイ(監督のロバート・レッドフォードが主演)によって、絶望的な状況から徐々に癒されていく物語が、モンタナの牧場と雄大な自然を背景に展開します。

この映画には、見かけ上『悪人』が一人も登場しません。しかし、『善人』ばかりならば、何事も平穏無事と単純に割り切れないのがこの世で、『善人』といえども心に悩みや哀しみを抱え、互いに異なった価値観を持っていることから、ちょっとした心の行き違いや誤解で、人間関係に相克が生じます。

『水戸黄門漫遊記』のような、『悪人』対『善人』の対決と言う単純なストーリー展開は明快ですが、梅爺は、このような善人だけの人間関係が生みだす悲劇や葛藤の物語が好きです。誰がみても『悪人』という人は別にして、一般的に『悪人』『善人』の判断基準は相対的なものですから、『自分は善人である』と思っている人も、他人からは『悪人』とみなされていることが往々にしてあります。善悪は『理』で判断されますが、それがやがて好き、嫌いという『情』の判断へ転じていってややこしい話になります。

ニューヨーク郊外に住む裕福な家の一人娘の少女が、雪の日に、友達(少女)と一緒に好きな乗馬に出かけ、斜面を登ろうとした時に、馬が足を滑らせ転倒し、二人は落馬して馬もろとも斜面の下の道路まで転がり落ちます。運の悪いことに、そこに大型トレーラーがさしかかり、少女の友達は死亡、少女と愛馬も瀕死の重傷を負います。

少女は片足を切断することになりますが、命をとりとめます。苦しむ愛馬を安楽死させようと周囲は説得しますが、少女の母親はこれを拒否します。馬も、なんとか一命は取りとめますが、恐怖の体験から、人間嫌いの手のつけようのない、暴れ馬になってしまいます。

そして、いよいよ物語が始まります。

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2010年9月13日 (月)

むま(馬)の耳に風

上方いろはカルタの『む』、『むま(馬)の耳に風』の話です。

四文字熟語の『馬耳東風』を、日本語として柔らかい表現に変えたもので、『馬の耳に念仏』同様、こちらがいくら熱心に話しても、相手は身を入れてその話を聴こうとしない滑稽さが伝わってきます。

『猫に小判』『豚に真珠』同様、その価値や意味を理解しない、またはできない人に、いくら説明しても無駄ですよ、解釈すれば、『人間関係において、価値観の違いはいかんともしがたいものである』という教えになりますが、『馬の耳に風』には、『本当は分かっていながら知らないふりをして、故意に聞き流している』というニュアンスも感じられますので、『処世術の高等手段ですよ』と言っているようにも思えます。

梅爺も、梅婆から『ちゃんと聞いているの?』と詰め寄られて、都合の悪い時には『あっ?聞いていませんでした』ととぼけることがあります。下手に議論に引き込まれて、泥沼に陥るよりは、『本当にしょうがないんだから』で済ませる方が、痛手が小さい場合もあります。

またまたいつもの『脳の話』で恐縮ですが、人間は、『見たいものしか見ていない。聞きたいことしか聞いていない』ということになります。厳密に言えば、『無意識』に『見たり聞いたりしていること』の内、『意識』が働いて認識したものだけが『見た。聞いた』対象になっているということになります。『無意識』に見たり聞いたりしたものを、全て『意識』が処理対象にするわけではないということは、脳の処理能力に限界があるからとも言えますが、『生き残りのために必要なことだけを受け容れる』という、基本的な本能の名残であるようにも思えます。先ず『危険なものは避ける』、そして次に『脳のストレスを軽減しようとそて、都合が悪い(と感じられる)ことは避ける』ということなのでしょう。

『馬の耳に風』は、『全く話の内容が理解できない場合』『厭な話を聞くことを無意識に避けている場合』『処世術として、わざと聞いていないふりをしている場合』と、色々ケースがあることが分かります。

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2010年9月12日 (日)

核兵器開発者の良心(6)

話題が少し逸れますが、近世の物理学の発展に寄与した天才的な科学者の多くが、『ユダヤ人』の血を引く人たちであることは、単なる偶然とは言えないような気がしています。

アインシュタイン、 レーゼ・マイトナー(女性)、デバイ、 シュレーディンガー、ノイマン、 オッペンハイマー、ディラック、ファインマン、ボーアなどを挙げることができます。『マンハッタン計画』には、オッペンハイマー、ノイマン、ファインマン、ボーアが参加しています。レーゼ・マイトナーについても、今回の話題(ブログ)の中で紹介しました。

梅爺は、総合的に観て『人種の優劣』を論ずることは意味がないと考えていますが、『ある分野』だけに限定すれば、物理学の分野だけでなく、スポーツや芸術の分野でも、特定の人種から優秀な人材が現れる確率が高いという事実はありそうな気がしています。遺伝子に由来する、肉体的な構造、脳の機能に差があるからではないでしょうか。勿論、統計的な確率の話ですから、ユダヤ人なら誰もが頭がよいというわけではありません。

近世の物理学は、『抽象概念を徹底的に論理で追いつめる世界』ですから、ユダヤ人の遺伝子の中に、この資質が含まれているのかもしれません。『神は唯一』という概念も、ユダヤ人の発想であることを考えると、なんとなくこの仮説は辻褄が合うようにも感じます。

しかし、日本人も物理学の分野で7人のノーベル賞受賞者( 湯川秀樹 朝永振一郎  江崎玲於奈 小柴昌俊 南部陽一郎  小林誠 益川敏英)を輩出していますし、ノーベル賞は受賞していませんが、世界が認める科学者を沢山(長岡半太郎 仁科芳雄 山内恭彦 小谷正雄など)排出していますので、決して卑下する必要はありません。

何度もブログに書いてきたように、『科学』は『理』の世界ですが、『良心』は『理と情』が絡む世界です。『理』を尊ぶ科学者も、一人の人間としては、『良心』とは無縁でありえないのは当然のことです。アメリカのオペンハイマーや、ソ連のサハロフが、一度は『核兵器』の開発に加担したとはいえ、後に『核兵器の開発』に批判的な立場に転じていったことは、せめての救いのように梅爺は感じます。広島や長崎の惨状をみて『良心の呵責』を感じないとしたら、人間ではありません。

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2010年9月11日 (土)

核兵器開発者の良心(5)

ナチスに先を越されることに恐怖心を抱き、『マンハッタン計画』を国力を挙げて推進したアメリカは、その後ソ連との『核兵器開発合戦』に巻き込まれていきます。そして、両陣営とも、スパイ映画顔負けの『スパイ合戦』を裏側で繰り広げます。

『マンハッタン計画』にもぐりこんだ、ソ連のスパイは、クラウス・フックスで、『原爆』に関する詳細情報、『水爆開発構想』情報などをソ連へまんまと送ることに成功しています。ソ連が、アメリカに遅れることたった4年で、『原爆』開発に成功したのは、この情報のお陰と今では考えられています。クラウス・フックスは、ナチスに迫害されイギリスに亡命したドイツの科学者で、『マンハッタン計画』に招聘されたイギリス人科学者の助手として、CIAの身元調査も見事にかいくぐり、計画の中枢へもぐりこむことに成功しました。彼は、『共産主義』こそが理想的な政治体制で、ナチス打倒をソ連に託すという強い信念の持ち主でした。イギリスへ帰国後、今度はイギリスの情報をソ連へ送ることにも加担しますが、スターリンの政治姿勢をみて、徐々に『共産主義』への懐疑が芽生え始め、ついにイギリス情報局に逮捕されました。史上最大のスパイ事件と言われています。

一方、ソ連の『核兵器』機密情報を、西側へ送ったスパイは、ソ連軍の将校オレグ・ペンコフスキーで、彼は、西側の『民主主義』が、腐敗したソ連の『共産主義体制』を倒してくれることを強く望む人間でした。自ら志願してイギリス情報局と接触し、スパイになることを申し出ました。イギリス、アメリカは最初は『二重スパイ』ではないかと疑いますが、彼が届けてくる情報の信ぴょう性を確認し、以降使い続けます。彼が西側へ送った情報で、フルシチョフがキューバへ配備しようとしたソ連の核ミサイルの型式をアメリカは特定し、ケネディは強腰の政治折衝で、フルシチョフの野望を食い止めることができたと言われています。しかし、スパイ行為はついにKGBにばれて、ソ連で逮捕、銃殺されます。

両陣営のスパイとも、金銭目的ではなく、強い『政治信条』で働いていたことが分かります。クラウス・フックスもオレグ・ペンコフスキーも、ある意味では自分の『良心』や『正義』に従って行動したと言えないこともありません。

『良心』や『正義』という言葉は、それだけを聴くと絶対的に『正しい』ものと思いがちですが、実は相対的な価値概念であることが分かります。

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2010年9月10日 (金)

核兵器開発者の良心(4)

元素の原子核内結合エネルギーを、人間の操作で『核分裂』させて取り出せるものとしては、『ウラン235』の他に『プルトニューム』があります。『プルトニューム』は自然界には存在しない重金属で、『ウラン235』の濃縮過程で副産物として生成されます。

広島に投下された原爆は『ウラン235』型で、長崎に投下されたものは『プルトニューム』型です。アメリカは、開発直後の二つのタイプの実用効果を、日本で確かめようとしたとしか考えられません。言語道断の話です。もし、ドイツとの戦闘が続いていたら、本当にドイツが最初の原爆の投下候補地であったのか、と問いたくなります。ヨーロッパの白人国家は避け、黄色人種の日本を対象に選ぶという、心理が、当時のアメリカの政治リーダーの中にあったのではないかと、つい疑いたくなります。戦闘員ではない一般市民を殺傷することを承知しながら、『戦争の終焉を速めるためのやむを得ない手段』などという口実で、肯定しようとする態度は、許しがたいものです。戦争に関する『国際法』にも違反しています。

核兵器には、『原爆』の他に『水爆』があります。『水爆』は、核分裂ではなく、水素の同位元素の核融合エネルギーを利用するもので、起爆に『原爆』が使われ、その威力は『原爆』の数千倍に達します。日本の規模程度の国土なら、2個程度の『水爆』で、完全消滅するのではないでしょうか。『原爆』も、原爆を起爆に用いる『水爆』も、直接の殺傷能力の他に、環境の放射能汚染が深刻な問題になります。生物の遺伝子の突然変異が起こる確率を高め、その遺伝子は10代後の子孫にまで継承されると言われています。それならばというので、起爆に『原爆』を使わない『きれいな水爆』の開発がすすめられているなどというニュースをきいたことがありますが、『アホもいい加減にしろ!』と怒鳴りたくなります。人間はどこまで愚かになったら気がすむのでしょう。

現在世界で『核兵器』を保有していると表明しているのは、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮で、表明はしていませんが明らかに保有しているのがイスラエルです。保有総数は数万発に及びます。『戦争の抑止に有効』というのが、決まり文句ですが、『戦争の抑止』に、どうして、人類を全て殺戮して余りある数万発の『核兵器』が必要なのか、梅爺の理解を越えています。

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2010年9月 9日 (木)

核兵器開発者の良心(3)

人間は、肉眼では見えない細胞内のDNAや、元素の原子核の構造を、科学の力で追いつめ、解明し、DNAを操作して難病を治癒したり、核分裂や核融合を利用して、エネルギーを取り出そうとしたりするようになりました。

このような行為は、『神のデザイン』に対する挑戦であり、そのような思い上がりは『神の制裁』を受けることになるとする反論の真偽はともかくとしても、新しい行為には、新しいリスクがあることは確かでしょう。そして『人間が人間を殺傷する』という行為は、『理』で『それはやむを得ない事情がある』などと弁解しても、殺傷にかかわった人間の『情』は、根っからの冷血漢でもないかぎり、『罪の意識』『良心の呵責』に苛(さいな)まれます。

刀や鉄砲は『狩猟(食料の獲得)のために必要』『護身のために必要』な道具と弁護しても、人殺しの道具と化した場合は、同じくよほど『情』の薄い人でない限り、実行者の『良心の呵責』を喚起することになります。単独の殺傷でもそうですから、『核兵器』のような『大量殺傷』の場合は、なおさらのことです。

『マンハッタン計画』で、アメリカが原爆の実験に成功した時、リーダーのオッペンハイマーは、『ヒトラー打倒の目的には間に合わなかったのは残念。でも、この成功は日本には喜ばしくないことだろう』などと、能天気なコメントを発していましたが、やがて広島、長崎の惨状が写真やフィルムで公開されるに及んで、『良心の呵責』に苛(さいな)まれるようになり、続いてアメリカが企画していた『水爆』の開発には、『反対』の態度をとるようになります。

オッペンハイマーに代わり『水爆』開発のリーダーになったテラーは、オッペンハイマーは、ソ連のスパイで、故意にアメリカの開発を遅らせようとしていると疑念をあからさまにします。アメリカの原爆開発成功から、たった4年でソ連も実験成功したことから、『マンハッタン計画』の内容が、筒抜けにソ連に漏れていると疑っていたCIAは、内部にスパイがいると考え、オッペンハイマーを告発して、真相を究明しようとします。オッペンハイマーの奥さんには、『共産党員であった過去』など、不利な条件があり、オッペンハイマーは、『限りなく黒』とみなされ、社会的活動の権利を一切剥奪されることになり、失意の中で余生を送ることになります。

しかし、後に、『マンハッタン計画』に紛れ込んでいたソ連のスパイは別人であったことが判明しました。オッペンハイマーは、純粋に『良心の呵責』から、水爆開発反対を叫んだと考えられています。

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2010年9月 8日 (水)

核兵器開発者の良心(2)

原子核を構成維持するために内部に秘めているエネルギーを、原子核を分裂させることができれば取り出して利用できるかもしれないという理論的な可能性は、物理学者なら、誰でも『推測』できることに違いありません。

理論的には、あらゆる元素は、内部に莫大なエネルギーを秘めていることになり、もし人類がこれを効率よく取り出す方法を見つければ、エネルギー不足の問題を一挙に解決することになりますが、そうは問屋が卸(おろ)しません。核分裂を起こすには、同じく莫大なエネルギーを必要とするからで、一滴(いってき)の水を作るために、バケツ一杯の水が必要というような、割に合わない話になるからです。

しかし、ドイツの科学者(オットー・ハーン、ヴェルナー・ハイゼンベルク)は、天然ウランに、7%程度含まれているウラン235という同位元素は、中性子の照射で、核分裂することを発見しました。ウランを濃縮してウラン235を集めれば、エネルギーを取り出せる現実の手段が見つかったことになります。彼らは、後にノーベル物理学賞を受賞しています。この発見は、人類を救済する可能性と、破滅に導く可能性を両方秘めていたことになります。現在、原子力発電は、エネルギー不足解消に寄与していますが、核兵器の脅威に、人類はおびえ続けさせています。

しかし、本当の発見者は、オーットー・ハーンの助手であったリーザ・マイトナーというユダヤ系ドイツ人の女性であったと言われています。彼女はナチスの迫害を受け、スウェーデンに亡命しますが、名誉を自分だけのものにしたオットー・ハーンを生涯許さなかったと伝えられています。真相はともあれ、科学者も名誉欲で行動する一面を持ち合わせているという話なら、肯けます。ある分野に秀いでた人間でも、総合的に立派な人間とは言えない場合があることは、昨日も書きました。

『核分裂エネルギーを兵器として利用する』というアイデアは、政治権力を持つ人間が思いついたのか、科学者が権力者へ売り込んだのかは、興味の対象ですが、少なくともナチスはこの可能性の検討を開始します。

この情報をつかんだアメリカは(ドイツからアメリカへ亡命したユダヤ系科学者によってもたらされた情報)、ヒトラーより先に『核兵器』を実用化しなければ、自分たちがやられると怯え、国力を結集して『マンハッタン計画』を実行へ移します。核兵器実用化には、途方も無い資金力が必要であり、既に戦況で劣勢にあったドイツには、その力が残っていませんでした。当時の国際的な状況では、アメリカが唯一その潜在的国力をもっていたと言えます。

日本も、当時『核兵器開発』の可能性を研究所で探り、着手しましたが、日本の国力ではとても無理であることが判明します。日本が最初の『核兵器開発国』にならなかった(なれなかった)ことは、幸いでしたが、不幸なことに最初の被爆国になってしまいました。アメリカはヒトラー対抗で開発した原爆を、完成時にヒトラーの敗北が明白になってしまっていたため、日本で用いたというひどい話です。

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2010年9月 7日 (火)

核兵器開発者の良心(1)

『地球温暖化』は、人類の行動だけが原因かどうか、つまり『自業自得』かどうかについては、完全に解明はされていませんが、多くの統計的相関の数値を見ると、『無関係』とは言い切れないように思います。

しかし、『核兵器の恐怖』だけは、明らかに人類が『自業自得』で創りだしたものです。自分たちが創りだしたものに、自分たちで怯(おび)えているという、滑稽な話で、人類以外の原因に責任転嫁はできません。

『核兵器開発』の立案、実行は、一部の政治権力者、軍の中枢、要請を受けた科学者たちで、多くの場合極秘裏に行われ、庶民は、気が付いたら核兵器がそこにあった、ということに近い話ですから、『私は、その様なものの開発を認めた覚えはないぞ。悪いのはお前らだ。責任を取れ』と言いたくなりますが、後の祭です。核兵器の投下や実験の、直接的な被害者は、何も知らない庶民であり、開発に加担した人たちは、被爆を逃れていますから、庶民は踏んだり蹴ったりの扱いを受けていることになります。

相手の非を責め、自分には責任がないと主張するときの口実として、私たちは『何も聞いていない』と言いたくなりますが、『もし聞いていたら、判断できる見識をあなたはお持ちでしたか』と反論されると、自信がぐらつきます。一握りの『頭の良い人たち』のお陰で、庶民は深い見識など持たずに、文明、文化の恩恵に浴しています。飛行機、高速電車、車に乗り、パソコン、インターネット、携帯電話を駆使し、デジタル・テレビを観、薬を飲んでいますが、それらが、どのような原理で作動しているのか、どのような危険を包含しているのかなどの詳細な見識は持ち合わせていません。このような『頭の良い人』に任せておけばよいと思いがちな庶民の盲点をついて、『一部の頭の良い人たち』が、『核兵器』をコッソリ作ってしまいました。『一部の頭の良い人たち』の所業を、事前に摘発できる能力をもたない庶民は、事後に怒りと無力感を味わうことになりました。

それでは、『核兵器』の開発の中枢にいた人たちは、本当に『頭が良かった』のでしょうか。科学・技術の面では、天才的な能力を発揮した点だけを観れば『頭がよい』ことは歴然ですが、『核兵器』が人類にもたらす結果予測と責任意識については、とても『頭がよい』とは言えません。人間は、ある分野で天才であるからといって、総合的に立派な人とは言えません。逆に、特別の才能は持ち合わせていなくても、総合的に立派な人はいます。会社経営では、『スペシャリスト』『ジェネラリスト』とで社員を区分して、その組み合わせで、組織に発生する問題の芽を事前に摘み取ろうとします。

知的好奇心や、愛国心に駆られて『核兵器』を開発した科学者の一部も、やがてその実験結果や、実用結果(広島、長崎)に接して、良心の呵責に苛(さいな)まれ、これ以上の開発はすべきではないという姿勢に転じていきます。

アメリカのオッペンハイマー、ソ連のサハロフという、天才的な科学者が、『核兵器』を開発しておきながら、その後批判者に転じたいきさつは、人間の良心とは何か、という問題を私たちに提起しています。

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2010年9月 6日 (月)

夢の中の神様との対話続編(5)

梅爺『最後がタイプ4の話になります。自然や宇宙の営みは、ある「摂理」に従っていて、その「摂理」こそが「神様」ではないかという考え方です、ただ残念ながら、人間は現状ではその「摂理」が何であるかを理解できていません』

神様『ということは、科学がやがてその「摂理」を解明する可能性はあるのじゃな』

梅爺『私には分かりません。ただ科学はその「摂理」の一部らしい法則をいくつかは見つけてきています。今後も、そのようなことは繰り返されるとは思いますが「摂理」の全てを理解できるようになるのかどうかはわかりません。なんとなく「摂理」の全ての解明は難しいように感じています。アインシュタインのような天才的な科学者も「摂理」があるように感ずるとだけ言っています』

神様『おまえはその「摂理」の本質はどんなものだと想像しているのじゃ』

梅爺『根拠のない想像ですが、自然や宇宙は「創造」「維持」「破壊」がダイナミックに繰り返されるようにできていることが「摂理」に関係しているいるように感じています。もっともこれはヒンズー教の人たちの考え方の受け売りですが。それに無数の事象がダイナミックに平衡を求めて変容し続けることも「摂理」に関係していると感じています』

神様『それが「摂理」だとしても、その「摂理」が何故存在するかという原因の究明は難しいと、おまえは感じているのじゃな』

梅爺『そうです。「全てのことは、破壊され死や無に向かうだけで、創造はない」という異なった「摂理」があってもおかしくないのに、この世の中は、そうはなっていません。何故「創造」「維持」「破壊」がダイナミックに繰り返されるという「摂理」が「存在」するのかは、「ただ存在する」としか言いようがなく、究明できないと感ずるからです』

神様『そのような「摂理」が、わしじゃという話なら、おまえの理解はなかなか良い線をいっているぞ。前に、わしは「真理の根源としてただ存在するもの」だと言ったはずじゃ。タイプ1、タイプ2、タイプ3の話を聞いておる時には、どうなることかと思ったが、ようやく核心にふれる話になったのぉ』

梅爺『私は、タイプ4の「摂理」があなただと言うなら、あなたの存在を信じます。しかし、私がそういうと、多くの人は「おまえは、神が存在するかどうかは分からない、と言っていたくせに、やっぱり信じているのか」とトンチンカンに聞き返してきます。タイプ1とタイプ4の神様は、同じではないということが理解できていないからです』

神様『理解できない人間と議論しても無駄じゃな』

梅爺『タイプ1の「神様」は、人間の「情感」と深く関わる存在ですが、タイプ4の「神様」は、人間の「情感」とは無縁です。多くの人は、「神様」は人間の「情感」とは無縁であるという考え方はなかなか受け入れることができません』

神様『ということは、おまえはわしの存在を認めるだけで、わしに感謝をしておらんというわけじゃな』

梅爺『そんなことはありません。「摂理」のなかで生を受けたことは、感謝以外のなにものでもありません。ただ、それ以上の「願い」をあなたに求めたりはしないようにしたいと考えています』

神様『上出来だな。おまえの夢に現れた甲斐があったというものじゃ。ではそろそろお暇(いとま)とするか』

(終わり)

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2010年9月 5日 (日)

夢の中の神様との対話続編(4)

梅爺『次はタイプ3です。これはタイプ2に似ていますが、あなたを得体のしれない恐ろしいものというより、不思議な力を秘めていて、私たちを支配しているものとする考え方です。特に、太陽、月、星、山、川、海、湖、森、大木、大岩、火、強い動物など、周囲の自然の中にあなたの存在を感じ、自分が生きてるのはあなたのおかげと考えて、拝むことになります。文明の始まりと同時に、人間はこの種の神様を拝み始めました。地球上のどの部族もこの種の行為は共通しています』

神様『人間は自分が理解できないものは、全部わしのせいにしたがるのじゃな。周囲の自然に感謝するということなら、それはそれで良い話ではないか。しかし、そうすると、やたらとわしの数が増えることになるのぉ。世の中神様だらけになりはせんのか』

梅爺『そうなんです。日本では八百万(やおよろず)の神様がおられることになっていますし、ヒンズー教でも数万の神様がいることになっています』

神様『わしの名前を憶(おぼ)えるだけでも大変じゃのぉ。ところで、わしがタイプ3だとすると、何か困ることがあるのか』

梅爺『特にはありませんが、ときどき権力者が、神様を独り占めにして、自分は太陽の神の生まれ変わりであるなどと云いだし、自分を拝め、捧げものをしろと人々に強要したりするのが、困ると言えば困る話です。申し上げにくい話ですが、タイプ2の神様同様に、科学の発達で、タイプ3の神様の威光は大分薄れてきています。一方、科学文明の弊害に気付いた現代の人たちは、逆に自然崇拝の中に心の安らぎを求めようともしています』

神様『人間は、つらいことがあると、わしを思い出して心の安らぎを求めるくせに、平穏無事であると、わしのことなどは忘れて退屈であるなどと言いだすのだから、困ったものじゃのぉ。おまえは、タイプ3の神は信じておらんのじゃな』

梅爺『自分では信じていないと思っていますが、日の出を見たり、深い森林の中を歩いたりすると、神々しい神秘な雰囲気を感じますから、昔の人がそれをあなただと考えたことには共感を覚えます』

神様『何とも煮え切らんやつじゃな。おまえは』

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2010年9月 4日 (土)

夢の中の神様との対話続編(3)

梅爺『タイプ1の話はそのくらいにして、よろしければ、タイプ2に移りたいのですが』

神様『これは、おまえの夢なのだから、おまえの勝手にするがいい』

梅爺『恐縮です。タイプ2の神様は、タイプ1の「善良」とか「愛」とかは関係がなく、あなたは「なにやら、ただただ恐ろしい得体の知れないもの」であるという考え方です』

神様『ほほぉ。それは人間にとっては困った話じゃのぉ』

梅爺『大変失礼とは思いますが、実はそうなんです。人間にとって、よくわからない恐ろしいことがおきると、「神様がお怒りになった」とか「神様の祟りである」とか考えて、「どうか、お怒りを鎮めて下さい。祟らないでください」と祈りを捧げることになるんです』

神様『本当に失礼な話じゃな。でも、タイプ1にせよタイプ2にせよ、どうも人間は自分にとっての「都合の良し悪し」とわしを関係付けて考える癖があるようじゃな。「都合の良し悪し」を考え付く能力がなかったら、わしのことなど考えもせずにすんだのにのぉ。人間だけじゃな。そんなことを考えるのは』

梅爺『昔の人は、日蝕が起きたり、暗雲が立ち込めたりしただけで、「神様の祟り」ではないかと怖れましたが、現在では科学が多くのことを明らかにしたために、タイプ2の神様を本当に信ずる人は減っています。それでも、似たような話で、非業の死、無念の死を遂げた人の霊が「祟る」ということを信じている人はまだ沢山います』

神様『「祟る」と思う人は、何か後ろめたいことがあるからじゃろう。でも、おまえの話によると、科学が多くのことを明らかにすればするほど、わしの存在意義は薄らいでいくということになりそうじゃな。そういえば、昔はわしに雨乞いをする人が沢山おったが、最近は確かに減っておるのぉ。おまえの口調からして、おまえはタイプ2の神を信じておらんのじゃな』

梅爺『もしあなたがタイプ2なら、申し訳ありませんが、お見通しのとおり信じていません』

神様『おまえがわしを信ずるかどうかは、おまえの問題なのだから、なにも申し訳なく思う必要などないぞ』

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2010年9月 3日 (金)

夢の中の神様との対話続編(2)

梅爺『「神は存在する(有神論)」と「神は存在しない(無神論)」の論争の大半は、このタイプ1の神様に関するものなのです』

神様『ご苦労な話じゃのぉ。ところで、おまえはどちらなのじゃ?』

梅爺『証明する能力を持ち合わせてはいませんので断言はできませんが、タイプ1の神様は存在しないだろうと感じています。断言できないわけですから、本当のところは「分からない(不可知論)」というのが正直な答えです』

神様『「分からない」というのは、人間が責任逃れをするときに良く使う口実にも聞こえるがのぉ。追いこまれると「記憶にない」などと言って逃げようとする奴がよくおるじゃろう』

梅爺『そんな。私はまじめに話しているのですよ』

神様『わしも、別に不真面目には聞いておらんぞ』

梅爺『タイプ1の神様については、子供のころから親や先生や偉い聖職者から話を聞く機会が多く、多くの書物にも登場しますから、信ずるかどうかは別にしても「神様という概念」は、私の頭の中にも確かに存在します。そのような、人間の頭の中にのみある「抽象概念」ではなく、あなたが実態として宇宙空間のどこかに存在するかどうかは「分からない」と申し上げているのです。「抽象概念」としての「神様」の存在は、自分で認識できますが、実態としての「神様」の存在は「わからない」という私の主張は、風変わりらしく、周囲の人たちからはあまり理解が得られません。私の夢にあなたが現れるのは、私の頭の中にある「抽象概念」のせいであると考えれば得心がいきます』

神様『ほほぉ。そうすると、おまえにとって、わしは「あって無きがごときもの」「たいして意味や価値の無いもの」ということになるな』

梅爺『そうとばかりは言えません。「愛」という「抽象概念」が私達の心を豊かにしてくれるように、「神様」という「抽象概念」は、私達の心を癒してくれることがあるのです』

神様『わしは、無料で手に入る精神安定剤のようなものじゃな』

梅爺『あなたを信ずる人には、どんな精神安定剤よりあなたの方がよく効くことがわかっています。しかし、この「抽象概念」は一つ大きな欠点があります。それは、私が死ねば「私の神様」も消滅しますし、もし人類が地球上からいなくなれば「全ての神様」が消滅することになります。あなたにとっては、聞き捨てならぬ話ではありませんか?』

神様『もしわしが、単なる「抽象概念」であったりすれば、そういうことになるということじゃろう。わしは、それでも一向にかまわんぞ』

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2010年9月 2日 (木)

夢の中の神様との対話続編(1)

梅爺『久しぶりに夢に現れてくださり、ありがとうございます』

神様『夢は、お前の脳の活動の一種じゃから、お前が無意識にわしに会いたいと思っていたからじゃろう。人間の中には、夢にわしが現れて、わしが何やら命令したり、頼みごとをしたと称して、夢から覚めた後に、その命令や頼みごとを本当に実行しようと言う者がおるが、わしには迷惑な話じゃ。夢と現(うつつ)の区別ができなくなると、周りは迷惑するものじゃ。その点、お前は、夢でわしに会ったからといって、「神は存在する」などと言い出さんだけ、ましじゃな』

梅爺『人間は、「神は存在する」「神は存在しない」と議論することが大好きなのですが、よくよく聞いてみると、皆自分勝手にあなたのことを思い浮かべて議論しているように思います。「群盲象をなでる」ではなく「群盲神を論ずる」といった風情であることに気づきます。異なった対象を同じものだと勘違いして議論しているわけですから、収集がつきません』

神様『ふんふん。偉そうに言うお前も群盲の一人じゃろうに』

梅爺『それはそのとおりなのですが、私なりに、人間が思い浮かべる神様のタイプを分類してみました』

神様『わしを分類の対象にするとは、お前も大胆じゃのう』

梅爺『第一のタイプは、あなたは「善良(光)」だけの存在であるという考え方です。人間は、「善良(光)」と「邪悪(闇)」を持ち合わせていますから、なんとか「邪悪」を排除して、あなたに導かれてあなたのような存在になろうと願うことになります。人間は「邪悪」の部分があるために、誰にも少なからず「罪の意識」がありますから』

神様『大変結構な話じゃのう。仮にわしがこのタイプであるとして、何か不都合はあるのか』

梅爺『ここまでの話なら不都合はありません。このタイプでは、やがてあなたに対する解釈がひろがり、「あなたが、人間を愛してくださる、慈悲で接してくださる」に始まって、やがて「あなたにすがれば、なんでも願いをかなえてもらえる」という話になっていきます。「悩みや病気を癒して欲しい」などという程度なら、分からないでもありませんが、「死んだら天国へ行くことを約束して欲しい」とか、ひどい話になると「金持ちになりたい」「出世したい」というようなことまで、あなたに願うようになります』

神様『わしに対する解釈同様に、「しあわせ」の解釈も拡大して、あらゆる欲望を満たすことが「しあわせ」だと勘違いするようになったからじゃろう。ところで人間は、わしに願い事をすれば叶うと信じておるのか』

梅爺『あなたからそんな質問を受けようとは考えても見ませんでした。あなたを信じている人は、叶えば感謝し、叶わない時は、信仰が足りない、祈りが足りないと思うようです』

神様『ほぉ。ということは、どっちに転んでも、わしは非難されずにすむのじゃな。ありがたい話じゃのぉ。それにしても、それを受け容れ続ける人間は、なんとも辛抱強いもんじゃのぉ』

梅爺『・・・・』

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2010年9月 1日 (水)

映画『約束の旅路』(6)

ユダヤ人としてイスラエル社会へ受け容れられた主人公の男の子は、ユダヤ人夫婦の里子となり、成長していきます。この夫婦は、『自分たちは左翼で、宗教にはそれほど興味がない』と里子に告げます。イスラエルでいう『左翼』は、社会主義者のことではなく、『パレスチナ人と平和に共存することを望む人たち』のことであると梅爺は知りました。『右翼』は、ユダヤ教の強い信奉者で、力づくでもパレスチナ人を排除しようとする人たちのことなのでしょう。イスラエルは、国家としては『強硬なパレスチナ人との対立姿勢』を原則的に貫いてきましたが、当然ながら国民の全てがそれを望んでいるわけではないことが分かります。

この一家は、形式的にはユダヤ教のしきたりを守っていますが、敬虔な信仰の持ち主ではありません。主人公は、小学校の宗教(ユダヤ教)の時間に、『私たちユダヤ人に、神との契約を授けてくださった方は誰ですか?』という先生の問いに『イエスです』と答えて、教室中が凍りついてしまいます。勿論正解は『モーゼ』で、ユダヤ教では、『イエス・キリスト』は禁句とも言うべき存在であるからです。

主人公の男の子は、強い信念を持ってそう答えたわけではなく、自分が育ったエチオピアの環境が、キリスト教主体であったに過ぎません。わけがわからないままに異なった社会的価値観(異文化)に晒され、学校で『イジメ』を受けることになります。しかし、里親の母親は、自分の身を盾にして、里子を庇います。

『ファラシア(ユダヤ人の血を引くエチオピア人)である』と、身分を偽ってイスラエルへ入国したこと、周囲の人たちをだまし続けなければいけないことに罪の意識を抱くとともに、『肌の色の違い』『人種』『国籍』『宗教』とは自分にとって何なのだろうと、主人公は悩み続けます。

主人公は青年になり、幼馴染のユダヤ人の女性と結婚します。しかし、彼女の父親は『コチコチのユダヤ教徒』で、『黒人で信仰の薄い男』との結婚を認めないために、彼女は家族との縁を切ってのことでした。彼女が妊娠したと主人公に告げた時に、初めて『自分はファラシアではない』という秘密を夫から知らされ、『騙されていた』と動転して家を飛び出します。この時も、主人公の里親の母親が、『秘密を云いだせなかったのは、あなたを本当に愛していて、あなたを失いたくなかったからではないかしら』と、息子の嫁を諭します。この映画の魅力のひとつは、里親の母親の暖かい人間性です。

梅爺は、何故フランス人がこのような映画を作ったのかと不思議に思い、インターネットで調べてみましたら、監督の『ラデュ・ミヘイレアニュ』は、チャウシェスク政権の圧政を逃れてフランスへ亡命したルーマニア人で、映画監督としての才能が注目されている人であることが分かりました。人間の本性に根差す深い問題を、見事に切りだして見せる能力は天性のものであると思いますが、ルーマニアでの過酷な人生体験も関与しているのではないかと感じました。『約束の旅路』は、梅爺好みの映画です。

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