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2010年6月30日 (水)

王様はつらいよ(2)

生まれた時から王様になる運命を背負わされた人間が、自分に課せられた運命をどのように受け止めるのかを想像することは、梅爺のようにそういう状況にない人間にとっては、易しいことではありません。梅爺ならば、『まっぴらごめん。自分はその器にあらず』と主張するだろうと思いますが、それは『王様にならない』という選択肢が可能であることを前提とした発言です。

もの心がついた時から、『あなたは王様になるために生まれてきたのですから、王様にふさわしい人間になりなさい』と言われ続けた人には、『王様にならない』という可能性を、『理』で思いつくことは難しいにちがいありません。人間は子供の時に受けた『洗脳』の呪縛(じゅばく)からは、簡単に抜け出せません。

封建社会では、王様だけが運命を背負っていたわけではなく、パン屋も、大工も、農民も、親の仕事を引き継ぐことが、『当たり前』でしたから、その意味では、王様だけが特別とは言えませんが、王様という『職業』は、国や庶民の運命に直接かかわる役目ですから、単純に同じとは言えません。

王様にとって厄介なことは、周囲が、全員王様の権威に心から服従する人間ばかりではないということです。勿論、王様に無条件で従う人たちもいますが、王様を『傀儡(かいらい)』にして、自分が王様の代わりを務めようとしたり、中には王様を排除して自分が王様になろうとする権謀術数に富んだ人物が出現する危険にさらされることにもなるからです。これは、なにも昔の王様だけの話ではなく、現在も、会社の社長の周辺に起きかねない状況です。『権力の座』が、ある種の人たちにとって、『垂涎(すいえん)の的(まと)』である状況は、今も昔も変わりがありません。

このように考えると、王様だけの能力を問題にするのは片手落ちであることに気付きます。勿論、一般的には『賢明な王様』と『賢明な側近』の組み合わせは好ましく、『凡庸な王様』と『凡庸な側近』の組み合わせは限りなく不幸ということになります。現実には、『賢明な王様』と『凡庸な側近』、『凡庸な王様』と『賢明な側近』という組み合わせも考えられ、それらの組み合わせに応じて、王様や国家の運命が変わってくることになります。歴史を観れば、『不幸な名君』も、『幸せな凡君』もいますから、この観方は、当を得ているように思います。

『昔々、あるところに立派な王様がいて、皆が平和に暮らすとこができました』というのは、童話の世界の話で、人間は、一人ひとり個性があり、異なった価値観をもっている以上、立派な王様がいても、皆が平和には暮らせるとは限らない、というのが人間社会の宿命ではないでしょうか。国民にとっては、自分に都合のよい王様は立派であり、自分にとって都合の悪い王様は、立派ではないと必ず言い出すからです。誰が首相になっても、すぐに批判の対象になる日本の現状を観れば、それは分かります。

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2010年6月29日 (火)

王様はつらいよ(1)

生きるために、群をなす生物種は沢山存在し、人間もそれに相当します。群の秩序を保つためには『掟(おきて)』が必要になり、外部環境の変化に、群としてどのように対応するかを、常に『決断』しなければなりません。権威を持って『掟』を維持するために、そして責任を伴う迅速な『決断』を下すために、群に『リーダー』が出現するのは、当然の成り行きです。

人間社会は、『家長』『級長』『校長』『市長』『社長』など、『長』と名がつくポジションで満ち溢れています。その群の中で、最も適任者が『長(リーダー)』になるというのが自然の成り行きですが、そうとばかりはいかずに、適任であるかどうかとは無関係に、ある人物が『長』になることがもありますので、群はそのために悲劇に遭遇することにもなります。『酒、女、賭けごと』に狂う父親が、『家長』として威張り散らすのでは、家族はいたたまりません。

群の規模が大きくなるにつれて、『リーダー』の責任は重くなります。近代国家の大半は、選挙で選ばれた『国家元首』『首相』『大統領』が『リーダー』になるという、一見公正なルールが採用されていますが、『いかがわしい候補者』『いかがわしい選挙』『いかがわしい体制』が前提であったりして、必ずしも適任者が『リーダー』になるとは限りません。適任者を『リーダー』に選ぶための、これぞといううまい『しくみ』を人類はまだ見つけていないとも言えます。

人間の歴史では、長い期間『国王』『皇帝』が、『リーダー』として実権を行使してきました。最初の『国王』『皇帝』の座は、それなりの実力者が、それなりの実績で勝ち取ったと言えますが、その後『世継ぎ』が、その座を形式的に継承するようになると、『困りものの王様』や、いわゆる『バカ殿』が王位につくことも生じて、民衆は迷惑を被ることになります。

民衆は『リーダー』に『完全無欠』を望み、実際には、そのような人物は存在しないために生ずる齟齬(そご)が、歴史を作り続けてきました。王様は『王様はつらいよ』と言い、民衆は『民衆はつらいよ』と、言い続けてきたことになります。

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2010年6月28日 (月)

ジョン・グリシャムの小説『最後の陪審員』(3)

『強姦殺人事件』の容疑者は、いかがわしいビジネスで悪名の高いこの町の一家の息子(白人)で、町中の住民は、『死刑』を望みます。

裁判では、最初に『有罪』か『無罪』が争われ、12人の陪審員は全員『有罪』に投票しますが、その後の、『死刑』か『死刑でない』かを争う審議では、陪審員の意見が分かれ、死刑ではなく、30年の実刑の判決が下されます。陪審員のうち、誰が『死刑に反対』したのかは、関係者しか知らない極秘事項として伏せられますが、町の人たちは、悪徳一家が金で陪審員の誰かを買収したのではないかと疑います。黒人老婦人の陪審員は、『白人への恨み』で『死刑』としたのか、クリスチャンとして『死刑』に反対したのか、とこれまた憶測を呼びますが、本人は、物語が最終段階になるまで、口をつぐんで何も語りません。

この裁判の9年後に、悪徳一家は金に物を言わせて、犯人の息子の釈放を裁判所に申請し、なんとこれが通ってしまいます。そして、この後に、昔の裁判の『陪審員』が、二人立て続けに『暗殺』される事件が勃発し、町の住民は、犯人の復讐であると思い込み、隣人が自警団のようなものを組織して、『元陪審員』の身柄を守ろうとします。

黒人の老婦人も、家族や隣人が結束して、危険から守ろうとしますが、持病の高血圧症のために、心身ともに疲れ果てていきます。

そして物語は、『思わぬ結末』へ向かうことになりますが、『サスペンス小説』の種明かしをするのは、フェアではありませんので、差し控えます。

ジョン・グリシャムという作家は、入り組んだストーリーに、不自然さを感じさせない手腕の持ち主で、松本清張の推理小説で使われるような『不自然な偶然』や『小細工のトリック』などを用いずに、読者を『サスペンス』の虜にしていきます。登場人物の描き方も秀逸で、梅爺は、『主人公の青年』『黒人老婦人』に感情移入しながら、楽しみました。

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2010年6月27日 (日)

ジョン・グリシャムの小説『最後の陪審員』(2)

この小説は、アメリカのミシシッピ州クラントンという田舎町が舞台で、大学を卒業したばかりの白人青年(主人公)が、ひょんなことから、この町の地方紙『タイムズ』の経営者になり(破産した新聞社を、金持ちの祖母の資金援助で買収)、以降青年らしい感性と正義心で、『タイムズ』をまともな新聞に生まれ変わらせていく過程を描いたものです。

1970年から1980年にかけての時代設定になっていますので、黒人の人権を認めた『公民権法(1964年)』、『ベトナム戦争の開始(1965年)』など、アメリカが揺れ動いていた時代に相当し、それまで、旧態依然の典型的な『南部文化』で過ごしてきたクラントンの町にも、その影響がひしひしと押し寄せてくる様子が分かります。

1970年と言えば、梅爺が社会人になって6年目の頃ですから、アメリカは、『遠い国』『豊かな国』『文明先端国』『民主主義の国』と漠然と理解している程度でした。しかし、この小説を読むと、たった40年前のアメリカ南部の田舎町は、『人種差別が当然まかりとおる極めて保守的な町』であったことが分かります。アメリカは多様な国であり、『ひとくくり』で理解すると、マチガイを起こしやすい事情は、現在も同じです。

主人公は、それまで町の人の『訃報』だけが売り物であった『タイムズ』を、まともな新聞に変えていく努力をする中で、『町の有名人』を紹介することを始めます。そして、黒人居住区にすむ、ある黒人一家と知り合いになり、特に母親として一家の中心である老婦人と友人になります。この小説の主題は、この白人青年と黒人老婦人の『友情』です。老婦人は、毎週木曜日の昼食に白人青年を招き、自家栽培の新鮮な野菜中心の料理を振舞います。

この黒人一家は、子沢山ですが、子供達はほとんど独立し、しかもほとんどが最高教育を受けて、各地の大学の教授になっているという、『優秀な家系の一家』ですが、老婦人は、聖書を片時も手放さない敬虔なクリスチャンで、外食でさえ『罪』と考えるような、つつましい女性です。

この老婦人が、町で起きた『強姦殺人事件』裁判の、『陪審員』に選ばれ、物語は、梅爺が好きな『法廷シーン』へと移ります。公民権法が成立した後の、町では『黒人女性初の陪審員』という設定ですから、『何が起きるのだろう』と読者は小説に引き込まれていくことになります。

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2010年6月26日 (土)

ジョン・グリシャムの小説『最後の陪審員』(1)

15年位前に、梅爺が仕事でよくアメリカへ出張していた頃、アメリカの本屋で何気なく買った、ジョン・グリシャムの最初の小説『A Time To Kill(日本語訳タイトルは、『表決のとき』)に魅了され、以降、彼の小説は、出版される度に英語版ペーパーバックを買い求めて読んできました。

1988年に『A Time To Kill』で、デビュー以来約20年間で20冊ほどの小説が出版され続けていますので、1年間に1冊のペースで、著作が続いていることになります。多作な作家といえますが、出版すれば、必ずアメリカでベストセラーになりますので、まちがいなく才能に恵まれた作家です。彼は、現在55歳程度の若さですので、まだまだ、このペースで作品は増えていくものと思います。

彼の小説は、日本流に言えば直木賞の対象となるような『大衆小説』で、『犯罪とその裁判』を扱った『推理小説』が大半です。毎回異なったキャラクタの主人公や題材が登場しますので、『刑事コロンボ』のような、特定の主人公が必ず登場するシリーズものではありません。ミシシッピ州、ミズーリ州、ジョージア州といった、アメリカ南部を舞台とした作品が多いのは、彼自身が、大学を卒業後、ミシシッピ州で刑事弁護士、州議会議員などの実務を約10年間積んだ経験があるためと思われます。

梅爺のお気に入りは、何といっても彼の小説の『法廷シーン』で、アメリカの『裁判制度』に関する梅爺の知識の大半は、彼の小説から得たものです。検事と弁護士の『火花を散らす屁理屈合戦』は、同じく屁理屈屋の梅爺には、こたえられない面白さです。

最近、英語ペーパーバック版の『The Last Juror(最後の陪審員)』を読み終わりました。毎度のことながら、今回も、期待を裏切らない面白さでした。

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2010年6月25日 (金)

南米大陸の最初の住民(4)

オーストラリアから南米まで『アボリジニ』が航海できたとすれば、もっと近い日本の九州や沖縄にも漂着する可能性はあるのではないかと、梅爺は妄想してしまいます。『日本人は何処から来たのか』という本によると、アイヌと宮古島の人たちは、Gm型血液分析によると等質性が高いということですので、日本へ最初に進出した『現生人類』は、アイヌの先祖であり、沖縄地方(宮古島)に漂着した『アボリジニ』であったのではないかと、更に勝手な妄想はひろがります。

しかし、Gm型血液分析の示す結果は、アイヌも日本人も、北アジアを先祖とする『モンゴロイド』であることを示していますので、アイヌ人の先祖は『アボリジニ(ネグロイド)』という説はなさそうです。アイヌは『コーカソイド(白人種)』であるとか、『ネグロイド(黒人種)』であるとか色々な学説が従来ありましたが、遺伝子や血液分析で、現状ではアイヌも『モンゴロイド』であるというのが定説になっているようです。東南アジアから、『ネグロイド』と『モンゴロイド』の混血種が、日本へ漂着したことはあったとしても、純粋な『ネグロイド』に近い『アボリジニ』が日本へ最初にやってきたと考えるのは無理がありそうです。

日本人とアイヌ人は、双方とも長い期間をかけて今では『混血種』になってしまっていますが、それでも日本人とアイヌ人は、現状においても統計的には『異質』であることがわかっています。

『弥生人』は明らかに、後から日本へ進出してきた『モンゴロイド』の一種であろうと思いますが、『縄文人』とは一体誰なのかは必ずしも判然としていません。『縄文人=アイヌ』なのか、『縄文人=アイヌ+初期に移住してきたモンゴロイド』なのかはよく分かりません。つまり、日本へ最初に進出した『現生人類』は誰なのかが、判然としません。

いずれにしても、アイヌは『弥生人』よりは先住民で、一時は日本全土に分布していたのではないかと思いますが、『弥生人』に主導権を奪われ、一部は混血となって『弥生人』の中に同化し、一部は、北(北海道、樺太)や南(宮古島)の僻地へ追いやられることになったのではないでしょうか。北海道のアイヌと宮古島の人たちが、血液分析によって『同質性が高い』とすれば、それはアイヌがたどった歴史を物語っているように、梅爺には見えます。

南米の『アボリジニ』と日本のアイヌは、後に進出してきた『モンゴロイド』に圧倒され、極めて似た運命をたどったのではないかと感じました。しかし、人類考古学に詳しくない梅爺の勝手な推測ですから、間違っているかもしれません。

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2010年6月24日 (木)

南米大陸の最初の住民(3)

南米大陸に最初に住み着いた『現生人類』は、『モンゴロイド』ではなく『ネグロイド(アボリジニ)』であったのではないかという話と符合することを、前に梅爺が、『日本人は何処から来たのか(松本秀雄著)』という本を紹介した時に書いたことを思い出しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-1511.html

『日本人は何処から来たのか』の著者松本氏は、Gm型血液分析という手法で、地球上の人類分布の研究をしておられる方ですが、南米アマゾンの熱帯雨林の奥深く住んでいるシャバンテ・インデアンも、アボリジニと全く同じGm型パターンを持っていると指摘しています。更に、今回観たドキュメンタリー番組では、南米最南端に住んでいて絶滅寸前の部族は、『アボリジニ』の資質を強く受け継いでいる混血の『モンゴロイド』であるということでした。

こうしたことを総合して考え併せると、オーストラリアから南米まで移動したルートや方法には謎が残るものの、4万年前に、南米に『アボリジニ』が存在していたということは『事実』ではないかと梅爺は思うようになりました。最初の現生人類は、北米より前に南米に到達していたかもしれないということです。

『アボリジニ』が船で太平洋を横断し、南米へ行き着いたということを直接証明する証拠はありませんが、オーストラリアに、『アボリジニ』の祖先が残した4万年前の岩絵があり、その中に船首と船尾が高く伸びている比較的大きな船の絵があって、遠洋航海も可能な船と航海技術を保有していた可能性はあると、ドキュメンタリー番組は報じていました。

南米の『アボリジニ』は、やがて移住してきた『モンゴロイド』に主導権を握られ、多くは絶滅し、一部は熱帯雨林の中に逃げ込んで細々と生き延び、さらに『混血種』となって、南米の南端まで追いやられたと考えると、現状で発見されている事実との辻褄があってきます。そして、その運命は、日本における『アイヌ』の歴史と非常に似ていることに梅爺は気付きました。

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2010年6月23日 (水)

南米大陸の最初の住民(2)

17万年前にアフリカに誕生した『現生人種』は、陸伝いか、狭い海峡を船で渡って、世界の各地へ広がっていったと考えると、地球上でアフリカから最も遠いのは南米大陸であるということになります。

現在までの定説は、氷河期が終わった1万3千年前ころに、ベーリング海峡(当時は陸続き)経由で、アジアの『モンゴロイド』が、獲物の動物の群を追いかけるかたちで、先ず北米大陸へ進出し、その後中南米を経由して南米へ広がっていったと考えられていました。北米には、もっと早い時期に人類は到達していたと主張する学者もいて、一万四千年前の現生人類(モンゴロイド)の骨も見つかっていますが、到達経路や手段は謎に包まれています。コロンブスばかりではなく、最初に進出した『モンゴロイド』とっても、アメリカ大陸は『新世界』であったということになります。コロンブス以降白人が進出するまでは、南北アメリカ大陸は、『モンゴロイド』一色であったということになります。北米の原住民(インディアン)、南米の原住民(インカ、マヤなど)の末裔を現在観察すれば、『そうかな』と思ってしまいます。

イギリスBBCが作成したドキュメンタリーテレビ番組を観ていましたら、最近ブラジルの洞窟の中から、4~5万年前と考えられる『現生人類』の人骨が発見されたという内容で、梅爺は驚きました。上記の定説が正しいとすれば、そのような古い時代に、『現生人類』は南米には到達していないはずですから、つじつまが合いません。

更に、この人骨の頭蓋から、『生前の顔の復元』を行ったところ、『モンゴロイド(黄色人種)』ではなく、オーストラリアの『アボリジニ』に近い『ネグロイド(黒人種)』であることが判明したというので、一層戸惑ってしまいました。もし、これが本当なら従来の考古学の定説は見直さなければならないことになります。DNA鑑定を行えば、もっとハッキリ『ネグロイド』であることが証明されるはずですが、どういうわけか、番組ではそれに関する説明はありませんでした。

4~5万年前に、『アボリジニ』が南米大陸(ブラジル)に存在していたとすると、移動ルートは2つしか考えられません。一つは後に『モンゴロイド』が利用したのと同じ北からのルートで、アジア、シベリヤ、北米経由で南米に達したという考えです。しかし、これはあまりにも迂遠なルートであるばかりか、当時の北極圏の寒さや氷の壁を考えると、可能性は極めて低いということになります。もう一つは、オーストラリアからブラジルまで『船で太平洋を横断した』という考えですが、当時の人類が、数週間の船旅に耐えられる船や航海術を保有していたのだろうかという疑問が残ります。

しかし、どちらかといえば『船で太平洋を渡った』という方が、可能性は高いと考える他ありません。意図して航海したというより、何かの偶然で、ブラジルへ流れ着いたのであろうと思われます。その後ブラジルに定住し、子孫も増えたということなら、最初の漂着者は、男女を含むグループであったということにもなります。

最初に南米大陸へ進出した『現生人類』は、1万年位前の『モンゴロイド』ではなく、4~5万年まえの『ネグロイド(アボリジニ)』であったということになれば、北米より前に南米に『現生人類』が到達していたことになり、考古学の定説は覆(くつがえ)ることになります。

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2010年6月22日 (火)

南米大陸の最初の住民(1)

『人類種』と呼ばれる『生物』が地球上に出現したのは、約500万年前で、チンパンジーの先祖と生物進化の過程で枝分かれしたものと考えられています。その後、最初の『人類種』は更に枝分かれして、数多くの『人類種』が登場しますが、私たちが現在属する『現生人類(ホモ・サピエンス)』以外は、全て『絶滅』してしまっています。『現生人類』以外の『人類種』で、最後まで生き残っていたのは、ヨーロッパに生存していた『ネアンデルタール』で、絶滅は2万年くらい前のことであろうと考えられていましたが、最近インドネシアのフロレス島で、約1万2千年前まで生息していたと推定できる小人種『ホモ・フロレシェンシス』の遺骨が発掘され、反響を呼びました。『ホモ・フロレシェンシス』については、前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bc26.html

『現生人類』の祖先は、約17万年前に、アフリカ中部に出現したというのが、現在の『定説』ですから、『ネアンデルタール』や『ホモ・フロレシェンシス』と『現生人類』が『共存』していた時代があったことは明らかですが、何故『現生人類』だけが生き残ったのかは、解明されていません。宗教的な意味を持つであろう小さな彫像をヨーロッパの『現生人類』は広汎に共有していたことが分かっていて、この部族をまたがった社会的協調性が、生き残りの決め手であったという説もありますが、仮説の一つにとどまっています。なにはともあれ『現生人類』が他の人類種を絶滅に追いやった可能性は否定できません。生きるか死ぬかの瀬戸際では、人類も獰猛になりますので、『人類みな兄弟』などというスローガンはあてになりません。

『現生人類』の祖先は『ネグロイド(黒人種)』でしたが、その後世界の各地へ進出した後に、その地の気候・環境への適応進化があり、ヨーロッパでは『コーカソイド(白人種)』、アジアでは『モンゴロイド(黄人種)』が誕生したと考えられています。梅爺は、『コーカソイド』『モンゴロイド』の誕生は、単に自然環境への進化対応だけではなく、『現生人類』と、今は絶滅してしまっている『先住人類』との『交雑(混血)』があったのではないかと、勝手に想像しています。『ヒグマ』が極寒地に対応するために『シロクマ』に進化したということがありますから、皮膚の色が黒い『ネグロイド』から白や黄色の『コーカソイド』『モンゴロイド』が誕生したことは理解できますが、顔立ちの大きな相違は、自然環境対応の進化だけでは、説明がつかないのではないかと、根拠なしに疑っています。中国人の多くも自分たちの祖先は『北京原人(ホモ・エレクトス)』であると信じているようです。しかし、この梅爺の想像仮説を支持する強力な学説は今のところありませんでしたが、最近、ヨーロッパ人の遺伝子には、1から4%の『ネアンデルタール人』の遺伝子が混入しているという発表がドイツでありました。もし本当なら、アジア人種にも先住人種の遺伝子が継承されている可能性も否定しがたいものになります。そして先住人種は厳密には絶滅したとは言えないことにもなります。

オーストラリアの『アボリジニ』は、約4~5万年前にオーストラリアへ到達した『ネグロイド』の末裔と考えられています。アフリカに『現生人類』が誕生してから10万年以上経っていたことになります。その後、白人種や黄色人種との接触が無い隔絶した地域であったために、純粋な『ネグロイド』に近いかたちで、現在に至ったと考えられていて、これは、梅爺も『そうだろう』と納得がいきます。

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2010年6月21日 (月)

袖触れ合うも他生の縁

上方いろはカルタ『そ』、『袖触れ合うも他生の縁』の話です。

『他生』は、『今生(こんじょう)』に対する『前世(ぜんせ)』『来世(らいせ)』の意味ですから、今流に云えば、『過去』と『未来』のことになります。現代の日本人は『たしょう』と聴けば『多少』を思い浮かべがちで、それでもこの諺はそれらしく通じてしまいますが、『他生』と『多少』では、意味の深さが異なります。

人は、生きていく上で、多くの『他人』と出合い、中には『夫婦』となったり、『師』と仰いだり、『終生の友人』となったりして、人生を決める重要なきっかけになるのは当然ですが、それ以外のすこしばかり触れ合った人たちでも、実は『過去』『現在』『未来』と続く、目に見えない『縁』で結ばれているのですよ。だから『他人(ひと)との出会い』は大切にしなさい、という戒めが込められています。この延長に『一期一会』というような考え方も現れます。

人間は、自分に理解できないことは、『何かの力』がそこに働いていると『理』で推論します。『不思議な出会い』は、『赤い糸で結ばれている』『仏の導き』『神の思し召し』と考える習性があります。昔は、今より『不思議なこと』は多かったわけですから、『太陽が朝に昇り、夕方に沈むこと』『月が満ち足り欠けたりすること』『星座が北極星のまわりを回転すること』なども、『神』と関連付けて理解しようとしました。しかし、科学がそれらの『不思議』を解明してしまいましたので、『神の領域』はだんだん狭くなってきました。それでも『人間の運命』には『不思議』が付きまとうために、『神の領域』の最後の砦の一つとして、今でも多くに人たちが、これを信じています。

『運命』には、自分の意図で切り拓ける部分と、自分の力ではいかんともしがたい部分があり、後者は『不思議』と考えたくなりますが、味気ない表現で恐縮ですが、梅爺は単なる『偶然』にすぎないのではないかと考えています。『偶然』は良い結果をもたらす場合と、悪い結果をもたらす場合が均等にあり、良い結果の時だけを『仏の導き』『神の思し召し』と称えるのは、都合がよい話ではないかと考えるからです。自然災害や病役の例を持ち出すまでもなく、『不幸な偶然』に巻き込まれる可能性は、神や仏を信ずる心の深さとは関係のない話です。

信仰は、自分の中の不安や寂寥への対応、同じく自分の中の善良と邪悪の葛藤への対応、自分に降りかかる運命への対応など精神活動には重要な意味を持つものですが、運命そのものを神や仏のせいにするのは筋違いではないでしょうか。

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2010年6月20日 (日)

スロベニア、クロアチアの食事

『阪神航空のフレンドツアー』というパッケージ・ツアーを、梅爺、梅婆がよく利用するのは、自由時間を含む比較的余裕を持ったスケジュールが組まれていて、深夜に現地入り、早朝に出発というようなことが少なく、体調維持が気になる老人には、これは大変ありがたいからです。参加者数も最大24人に制約されていますので、現地の専用バス移動もゆったりしています。今まで参加したツアーで20人を超えたことは少なかったように記憶しています(今回は12人)。

ホテルや現地の食事のセレクションも、色々な配慮がなされていますので、自然に『現地が堪能できる』ようになっています。食事のボリュームも、日本人向けに、少なめにしてあるのではないでしょうか。4つ星、5つ星のホテルといっても、日本人からするとサービスが行きとどかないことはありますが、梅爺は『外国』はそういうものとあまり気になりません。

今回も、以下のような現地料理が組み込まれていました。

『スカンピ(手長エビ)のグリル』・・シーベニック(クロアチア)
『シーフード料理』・・ドブロヴニク(クロアチア)
『ザグレブ風カツレツ』・・ザグレブ(クロアチア)

Dscn1051 手長エビのグリル

Dscn1191_2 魚介料理

Dscn8661 ザグレブ風カツレツ

スロベニア、クロアチアは、食事文化は、隣接のイタリア、オーストリア、ハンガリーの影響を受けていると感じました。勿論、沿岸部は魚介類の料理(イカも主要食材)が多く、内陸部は肉類の料理が中心になります。因みに、アドリア海のマグロは、日本が主要輸入国です。

梅爺は、若いころは、出張先の現地料理を別に苦にせず食べていましたが、歳をとるにつれて、日本食嗜好が強まり、今回も、オリーブオイル、塩、胡椒中心に調理された料理を食べながら、『このイカも、白身魚も、醤油で煮つけたらもっとウマイだろうに』と考えていました。人間にとって、幼いころからの食事文化を変えることは、何よりも難しいことなのかもしれません。とにかく、梅爺は、醤油、味噌、かつおだし、昆布だし無しでは夜も日も明けない体質になってしまっています。

日本へ帰国して、ホッとするのは、日本語が通ずる安全なところへ戻ったという安心感の他に、食事環境が『日本食』へ戻ることであるように感じます。

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2010年6月19日 (土)

クロアチアの首都ザグレブ

ドブロヴニク空港から首都ザグレブへ飛行機で移動し、1日ザグレブを観光して、そこからドイツのフランクフルトを経由し、成田へ帰国しました。ドブロヴニク空港は小さなローカル空港ですが、2007年からJALが、日本からのチャーター便(ジャンボ機)を直接乗り入れて、現地でその様子がテレビ報道されるほどの大ニュースであったと聞きました。日本のクロアチア観光ブームが半端ではないことの証左でもありますが、日本が抱える問題を考えると、少々能天気な金持ち趣味のようにも思えてきます。400人以上の日本人観光客が小さな空港へドッと降り立った様子は、確かに異様であったのでしょう。

Dscn8667 老朽化が激しい社会主義時代の高層住宅

ザグレブはクロアチア最大の都市で、人口は97万人ですから、クロアチアの1/5がここに住んでいることになります。中心地の周辺には、社会主義時代の画一的なデザインの高層住宅が建ち並んでいますが、よくみると老朽化が激しく醜悪にも見えます。中央駅の地下に、立派なショッピングモールが最近できたと現地人のガイドが自慢をするので、自由時間に出かけてみましたら、立派とは程遠い規模で、店の飾り付けも、売っている商品も日本とは比べ物にならないものであることが分かりました。梅爺が住む青梅の近辺のショッピングモールの規模と、華やかさをクロアチアの人が見たら一体何というのでしょう。自慢できるかどうかは別として、物質的な豊かさでは、日本は世界の最先端国であることを再認識させられます。

従って、ザグレブでの日本人の観光対象は、中世からの歴史的建築物である『墓地公園』『大聖堂』『聖マルコ教会』といったところになります。それらは、他のヨーロッパの都市の『大聖堂』や『教会』より、格段に素晴らしいとは言えませんので、観光に是非お薦めの都市とは言いにくい気がします。

Dscn8657 街の広場の野菜・果物市場

社会主義体制後、4年にも及ぶ内戦(セルビアとの戦い)があって、まだ15年くらいしか経っていないわけですから、無理からぬことではありますが、現在の経済力や生活レベルを見ると、クロアチアがEUのメンバーに加わるのは、未だ先のことであるように感じます。

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2010年6月18日 (金)

海洋要塞都市ドブロヴニク(2)

ドブロヴニクの港から目と鼻の先の海上に、ロクルブ島という小さな島があります。修道院の遺跡が島の頂上にあり、船で訪れることができますが、住民はいない無人島です。中世には、この島に『検疫所』が設けられていて、外洋から船で到着した船員などは、この島で『40日間』過ごさないと、ドブロヴニクへの入国は許可されませんでした。

Dscn1285 城塞の上から見えるロクルブ島

中世の人たちが、最も恐れていたことがペストなどの疫病の蔓延で、繁栄を謳歌していても、一瞬にして都市機能が壊滅することを、理解していた証拠です。疫病の『正体』が細菌やウィルスであるという知識は持ち合わせていませんでしたが、疫病には『潜伏期間』があり、『40日間、何事もなければ、一応大丈夫』という経験則による知識は持ち合わせていたことになります。人間は、生き残るためには、ありとあらゆる知恵を総動員して対応しようとすることが分かります。

Dscn1308 中世に交易で栄えた港は、今はヨットや観光船の係留に使われている

英語で『検疫する』は『quarantine』ですが、語源は『40日間拘束』からきていると、女性添乗員のSさんから教わりました。旅をすると、思わぬところで、思わぬ知識が増えるものです。

新型インフルエンザが発症した人と外国で接触した日本人が帰国した成田で1週間ホテルに監禁されただけで、『永すぎる』と苦情を訴えたくらいですから、『40日間』は、現在の感覚ではいかにも悠長ですが、当時の『疫病にたいする恐怖』は、それどころではなかったのでしょう。

人間にとって不都合な細菌やウィルスを『悪の象徴』のように忌み嫌いますが、細菌やウlルスにとっては迷惑な話で、それらも自然の摂理に従って、『生き残りをかけた努力』をしているだけと言えないことはありません。元はと言えば、人間も単細胞の細菌から進化した生物ですから、細菌が生き残りのために懸命な努力をしてくれなければ、存在しなかったことになります。

梅爺は、細菌やウィルスを擁護しようとしているのではなく、世の中には、自分にとって『不都合なもの』はありますが、それを絶対的に『不都合なもの』とすり替えて非難するのは、時に『一方的』ではないかと申し上げているだけです。人間は自然の一部であり、自然は人間のためにだけ都合よくは機能してくれているわけではありません。人間が自然環境を変えるほどの行動をすれば、その分自然は、人間にとって不都合な反応をすることがあることは、『地球温暖化』や『生態系の変化』の例で分かります。人間は『賢明』であると同時に『謙虚』でないと、生き残れないのではないでしょうか。

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2010年6月17日 (木)

海洋要塞都市ドブロヴニク(1)

クロアチア南部のアドリア海に面した海洋要塞都市ドブロヴニクの、城壁に囲まれた旧市街は(世界遺産)は中世の面影をそのまま残す特異な観光地で、この旅行の目玉の一つです。赤い屋根の石造りの家屋が密集する景色は、紺碧のアドリア海との対比で、遠くから眺望しても近くで眺めても壮観です。この街が『アドリア海の真珠』と呼ばれるのも、大袈裟な表現ではないことが分かります。

Dscn1264001 城壁の上から見た旧市街

今回の旅行では、クロアチア北部から、専用バスでアドリア海沿岸を南下して、ドブロヴニクに入りましたが、途中一か所、海岸線までボスニア・ヘルツェゴビナが領土としている場所があり(幅30キロメートル程度の地帯)、ここを通過することになりました。この地帯にあるネウムという町で休憩したり、買い物をしたりしましたので、短期間ながらボスニア・ヘルツェゴビナ(首都は、激しい内戦の中心地、冬季オリンピックの開催地として有名なサラエボ)にも滞在したことになります。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立する時に、内陸国のボスニア・ヘルツェゴビナが、少しでも海岸線が欲しいと主張したために、このようなややこしい国境線が出来上がったのでしょう。つまり、ドブロヴニクは、クロアチアの南部の飛び地にある都市であるということになります。北部から陸路で行くには、一度クロアチアを出国し、再度入国しなければなりません、。

Dscn1274001 街を一周する城壁の上のルートを歩く観光客

ドブロヴニクは、11世紀には、ベネツィア共和国の支配下で反映し、その後14世紀半ばにラグーサ共和国として独立し、海洋貿易で栄えました。今でも、ベネツィア共和国総督府の建物が残されています。元は島(イタリア系住民が住む)でしたが、対岸の集落(スラブ系住民が住む)との間の海峡を埋めて、イタリア系、スラブ系の人たちが共存、共同して作り上げた街と言われています。17世紀に地震に見舞われたり、海洋交易が不振になったりして衰退しました。衰退のお陰で、今日中世のままの街並みを見ることができるとい事情は、ベルギーのブルージュなどと同じです。

ヨーロッパには、中世の面影を残す旧市街を持つ都市は沢山ありますが、多くは交通の便を確保するために、城壁は一部を残して取り払われています。ドブロヴニクは、城壁が完全に残されていて、その上を観光で歩いて一周できるようになっています。アドリア海を背景に、旧市街が一望できるというところが特徴ですが、街の規模や、歴史遺産の数ということになると、イタリアのベネチアやベルギーのブルージュには遠く及びません。

旧市街の山側には、海抜500メートルのスルシ山があり、頂上から見るドブロヴニクの眺めが最高と言われています。山腹で、最近まで地雷事故があったということで、登山は自粛するように添乗員から釘をさされました。内戦前は、頂上までロープウェイが敷設されていましたが、これも爆撃で破壊されました。目下再設営の工事が旧ピッチで行われていました。営業開始すれば観光収入のドル箱になるのはまちがいありません。内戦後15年も工事再開されなかった理由は、日本人の感覚ではなかなか理解できません。

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2010年6月16日 (水)

クロアチアのローマ帝国遺跡

バルカン半島の西に位置するクロアチアは、イタリア半島からみればアドリア海を介した東側対岸の国で、陸路でも海路でも容易にアクセスできますから、『ローマ帝国』や『ベネティア共和国』からの侵攻を受けました。

クロアチアの北部でイタリアに隣接するイストラ半島には、ローマ時代の競技場遺跡があり、南部ダルマチア地方のアドリア海沿岸の都市スプリットには、『ディオクレティアヌス帝の離宮遺跡』があります。今回はこの、『ディオクレティアヌス帝の離宮遺跡』を見学しました。

Dscn1105 ディオクレティアヌス帝の離宮復元予想図

『ディオクレティアヌス』は、3世紀末から4世紀の初めにかけてのローマ皇帝で、以下のことで有名です。ローマ帝国がキリスト教を国教と認める直前の時代の皇帝です

(1)出身地はサロス(現在のクロアチア)。解放奴隷(父親)の子供として生まれ、一平卒からローマ皇帝へ登りつめた。
(2)専制君主制(ドミナートゥス)の創始者。
(3)4分割統治(テトラルキア)を導入(後のローマ帝国東西分裂のさきがけ)。
(4)軍隊や官僚の中までに浸透し始めたキリスト教に脅威を感じ徹底弾圧(大量虐殺)した。
(5)故郷のスプリット(現在のクロアチア)に離宮を建設し、生前に引退した(生前引退はそれまでのローマ皇帝としては異例)。

(1)を見ただけでも、並みの力量の男ではないことが分かります。日本で云えば、豊臣秀吉、田中角栄といったところでしょうか。権謀術数に優れ、目から鼻へ抜けるカリスマ的な才覚の持ち主であったに違いありません。キリスト教の歴史から見れば、最悪の悪帝で、西欧人の評判は今でも芳(かんば)しくありません。引退は、キリスト教徒の仕返しを逃れるためであったとも言われています。

Dscn1106 現在では遺跡と街並みが融合している

Dscn1109 発掘された地下遺跡部分

引退のための離宮と言っても、四方を石の城壁で囲んだ要塞都市の規模であり、近くの山から水道を引くためのローマ独特の水道橋の一部もこの地方には残されています。石材に円筒状の穴をくりぬいて連結した下水道も残されています。ローマ皇帝の富と権力の規模が如何に大きかったかが分かります。建築に従事した技術者、建築労働者の数は、大変なものであったに違いありません。当時地上にあった住居跡の大半は、その後の地盤沈下で、現在は『地下遺跡』になっています。その後の時代に、廃墟になった離宮を改造利用して、住民が住みつき、現在にいたっていますので、生活環境の街並みと古代遺跡が共存する奇妙な遺跡になっています。『地下遺跡』の部分は、永らく住民が、ごみ捨て場、ワインや食料の貯蔵庫として利用してきましたが、近世になって発掘再現されました。

Dscn1117 遺跡内広場でダルマチア地方の民謡を歌う男声コーラスグループ

梅爺は今回、この遺跡の中の音響の良い広場で、男性コーラスグループが、ダルマチア地方の民謡をアカペラ(無伴奏)で歌っているところへ偶然出くわしました。芸術的というより、土着の香りがプンプンするような歌声でした。ロシアの男声合唱などに似て、一人ひとりの朗々たる声量は見事です。特にバス(低音部)の声質は、日本人と身体の構造が違うのではないかと思われるほど豊かです。男声合唱を趣味とする梅爺は、嬉しくなって早速このグループのCDを購入し、メンバーと握手を交わして、敬意を表しました。突然日本人の爺さんに話しかけられ、『わしも、合唱をやっているのじゃ』などと言われて、少し驚いた様子でした。旅には思わぬハプニングがあるものです

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2010年6月15日 (火)

クロアチアの宗教

バルカン半島が『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれる一つの要因は、この地の中にカトリック、セルビア正教、イスラムの勢力境界線が存在するためと思われます。今回の旅行の訪問先、スロベニアとクロアチアは、圧倒的にカトリックが強い地域で、観光で訪れた多くの教会建築はほとんどがカトリック教会でした。一方、ボスニア・ヘルツェゴビナは、カトリック、セルビア正教、イスラムが混在しており、セルビアやモンテネグロは圧倒的にセルビア正教が強い地域です。イスラムは、バルカン半島がオスマントルコに支配された時があったことの名残です。

第二次世界大戦後、ユーゴスラビアは社会主義国家になりましたが、ソ連のような『宗教根絶政策』は採らず、存在は認めながら『無力化』する政策が採られました。教会建築や装飾物が破壊されずに、今日まで残されているのはそのためです。社会主義の綱領によれば、『宗教は、物質的、精神的な遅れによる歴史的諸条件で生まれるもの』であり、社会主義が発展すれば、宗教は自然に必要ではなくなる、と考えたのでしょう。しかし、『心の安らぎ』を求める人間の精神生活は、当然のことながらイデオロギーでは満たすことができず、政府の思うようには事が運ばないために、実際には、宗教や聖職者に対する嫌がらせや弾圧がおこなわれました。その後の、種々の自由化を求める運動の中で、宗教は大きな役割を演じ、そして現在では完全に復活しています。

今回の旅行で観光したのは、以下の教会建築物で、いずれもカトリック様式です。

Dscn1031 シーベニックの聖ヤコブ教会

Dscn1042 トロギールの聖ロヴロ大聖堂

Dscn1237 ドブロヴニクの大聖堂

Dscn1329 ザブレグの大聖堂

Dscn1337 ザブレグの聖マルコ教会

スロベニア ブレッド湖の小島にある『聖マリア教会』
クロアチア シーベニックの『聖ヤコブ教会』
       トロギールの『聖ロヴロ大聖堂』
       ドブロヴニクの『フランシスコ会修道院』
       ドブロヴニクの『大聖堂』
       ザブレグの『大聖堂』
       ザブレグの『聖マルコ教会』

今までヨーロッパの国々や都市都市で、梅爺は沢山の教会を見てきましたが、その時は『なんと素晴らしい』と感じても、今になっては『どれがどれであったか』思い出すことができません。今回も同じ運命を辿りそうです。なんとも、不信心で罰当たりな話です。

ただ、教会建設に人類が投じてきた資金とエネルギーの累積総量は、とてつもなく巨大なものであることは理解できます。建築技術も教会建築とともに進化してきました。これに比べれば、一人の王様や皇帝が残した宮殿などは微々たるものです。近世にいたる人間の歴史で、権威の象徴であり続けたのは宗教であり、教会であることが分かります。さて、今後はどういうことになっていくのでしょうか。

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2010年6月14日 (月)

クロアチアの国立公園

クロアチアには、8つの国立公園があります。九州の1.5倍程度の国土の広さを考えると、いかに自然に恵まれているかが分かります。今回の旅行では、北部内陸地帯の『プリトヴィッツェ国立公園』で約2時間のハイキングを楽しみ、もう一つ南部沿岸部の都市シーベニックに近い『クルカ国立公園』を展望場所から眺めることができました。

Dscn1009 展望場所から眺めたクルカ国立公園の一部

Dscn0944 プリトヴィッツェ国立公園内をハイキングする観光客の列

ヨーロッパ・アルプスの東端がクロアチアにまで伸びていて、『プリトヴィッツェ国立公園』は、そこからの雪解け水が豊富に流れ込むために、多くの滝、湖そして豊かな樹林で構成される広大な山林公園です。石灰質を含む水が、流れに倒れこんだ木などを時間をかけて石化させ、自然の堰(せき)をつくり、複数の湖が棚田のように多層につながる景観を作り出しています。中国の四川省の『九寨溝』に似ているという人もいますが、梅爺は『九寨溝』を訪ねたことがありませんので比べようもありません。

Dscn0957 プリトヴィッツェ国立公園では、いたるところで水の音が絶えない

私たちは、途中に観光船で湖を渡る場所もある初級コースを歩きましたが、長時間の本格的なトレッキングも楽しめるために、ヨーロッパの各地から数多くの観光客が訪れて賑わっていました。滝の音、川のせせらぎを聴きながら緑の中を歩くだけで、マイナスイオンを沢山浴びている気分になり、爽快になりました。この日の宿泊は国立公園内のホテルで、翌朝は、森にこだまする小鳥たちの声で目が覚めました。ハイキングやバードウォッチングの愛好者には、お薦めの観光地です。

こんな平和な場所にも戦争の傷跡は残っていて、滝の上の水車小屋が空爆で破壊されたままになっていました。修復しないで放置してあるのは、戦争の記憶を風化させないためなのかもしれません。当然のことながら、自然保護のために、湖の魚に餌をあたえることや、草花を摘み取ることは、一切禁止されています。

旧ユーゴスラビアの中で、圧倒的に観光資源(自然と歴史遺産)に恵まれたクロアチアは、観光で外貨獲得ができる有利な条件を備えていると言えそうです。観光俗化して、スリ・カッパライが横行する、イタリア、スペイン、チェコのようになる前に、訪れるのが賢明かもしれません。今のところクロアチアの人たちは素朴、親切で、治安の心配もあまりありません。

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2010年6月13日 (日)

クロアチア(2)

クロアチア(Croatia)は、国名の英語表記で、クロアチア語ではフルヴァツカ(Hrvatska)です。日本(Nippon)が英語ではJapanと表記されるのと同じです。

スロベニアに続いてEU加盟国になろうと、2005年から熱烈求愛運動を継続していまが、未だ認められていません。クロアチアの公用建物には、必ずクロアチア国旗と並んでEUの旗が掲揚されていますので、『お願いしまーす』という切実な気持ちが伝わってきます。しかし、ギリシャの財政破たんで、弱点を露呈してしまったEUにとっては、経済基盤が未熟な国をこれ以上増やすことに慎重になるに違いありませんので、クロアチアの願いは、当分お預けなのではないでしょうか。

Dscn1133 クロアチア、スプリットの市場で野菜を売る農家のおばあさん

クロアチア国内で、EUの通貨ユーロが利用できるところはあるにはありますが、基本的には通貨はクーナです。1ユーロは7クーナ程度に相当します。梅爺と梅婆は、約5日間のクロアチア滞在で、いくらの現地通貨が必要かと悩みましたが、結局70ユーロ(日本円で8000円程度)をクーナに換金することで済ませました。飲食代や小物のお土産購入代が主で、クロアチア出国時には、ほぼゼロまでに使い切りました。勿論、これで全て用が足りたわけではなく、ユーロやクレジットカードが使えるところは、それを併用してのことです。感覚的な物価は、日本とそれほど違わないと感じました。

Dscn1138クロアチア、スプリットの魚市場

EU加盟国であるスロベニアに比べ、クロアチアの生活水準は確かに少し劣っているように見えます。しかし、浮浪者や物乞いをする人は見当たりませんし、土産売り場の店員も、こちらから声をかけない限り、アジアの国々のようにしつこく付きまとったりはしませんから、観光客には快適なところです。他人の主権を尊重する西欧的な価値観が受け継がれているということのでしょうか。

地中海文化圏、ヨーロッパ文化圏という視点で観れば、クロアチアは孤立した地域ではないことは容易に想像できます。日本は地理的に海に囲まれ孤立した国家であるために、日本人は、『自国』と『他国』は決定的に違うと当たり前に思い込んでいますが、世界の中ではむしろ例外で、歴史や文化が複雑に絡み合い、それらが現在にまで継承されていると観ないと、ヨーロッパは理解できません。クロアチアは、昔からずっとクロアチアであったわけではなく、時に『ローマ帝国』『ベネチア共和国』『オーストリア・ハンガリー帝国』の版図(はんと)に組み込まれていた時代があり、近世では『ユーゴスラビア連邦』の一部でした。現在のクロアチアは未だ20年の歴史しかない国なのです。

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2010年6月12日 (土)

クロアチア(1)

クロアチアは、日本の九州の1.5倍の面積で、人口が440万人の国です。と言っても極めて複雑な形をした国で、内陸部を持つ北部と、アドリア海沿いに細長く伸びる南部(ダルマチア地方)で構成されます。北部は、自然に恵まれた国立公園や首都ザグレブがあり、南部は、アドリア海の景観と、古代、中世から続く港湾都市があって、いずれも『日本人好みの観光地』と言えますから、日本でクロアチア観光ブームが巻き起こるのもう頷(うなづ)けます。

Dscn0902 クロアチア、アドリア海に臨むリゾート地オパティア。オーストリア・ハプスブルグの貴族たちの別荘地として発展。当時の別荘がホテルとして転用されている。

東西冷戦の終焉後、1991年に旧ユーゴスラビアから独立を宣言しますが、実質的には1995年まで、セルビアとの激しい紛争が続き、国土の大半が戦場になりました。現在はのどかな農村、田園にみえる場所をバスで走っていても、爆撃で朽ち果てた沢山の家屋跡や、セルビア軍が残した軍事飛行場や戦車を見ることができます。世界遺産の都市ドブロヴニクも、激しい空爆を受けた様子(写真)が、現地の記念館に飾られていますし、ごく最近まで、街を見下ろすスルシ山の山腹では、地雷に触れて亡くなる人がいたということですから、戦争は遠い昔の話ではありません。それでも、戦争を直(じか)に体験した世代と、若い世代との間に意識の差が生じ始めていると聞きました。

クロアチアとセルビアの対立要因は、日本人には分かりにくいものですが、政治的・経済的な領土の確保問題のほかに、カトリックとセルビア正教の宗教対立があったのではないかと想像できます。クロアチアの教会は、大半がカトリックで、セルビア正教の教会は、ドブロヴニクで一つ見受けただけでした。骨肉の争いの遺恨が、両国民の意識の中にどのように残っているのかは、想像するしかありませんが、多分、クロアチアとセルビアのサッカーの試合などは、日韓対決以上の熱気を帯びるのではないでしょうか。

Dscn0936 クロアチア北部内陸にある国立公園プリトヴィッツェ。森と水が織りなす景観が見事。

こんな風光明媚で、のどかに見える場所が、15年前までは悲惨な戦場であったとは、考えにくいとはいえ、『平和ボケ』している日本人が大勢押し掛けて、『まあ綺麗!』『アラ素敵!』と表面的な観光だけで帰っていくのは、能天気な話です。という梅爺もその一人ですので、偉そうなことは言えませんが、堅い話を別にすれば、美しい自然と歴史遺産の両方が同時に堪能できる観光地として、クロアチアは世界屈指の場所であることは確かです。

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2010年6月11日 (金)

スロベニア

Map 今回の旅行の行程地図(最初のオーストリアのクラーゲンフルトがグラーツに変更されている)

スロベニアは、ユーゴスラビアから分離独立した国の中では、最も西欧化、民主化が進んでいる国です。独立の時の内戦(セルビアとの戦い)はたった10日で終結しましたので、戦争の爪痕がクロアチア程は残っていません。日本の四国より少し大きな領土に、200万人が住んでいます。イタリア、オーストリアと国境で接していることと、ユーゴスラビア時代から強い経済基盤を持っていたことから、2003年にはEU、NATOにも加盟を果たしています。

今回の旅行は、成田からミュンヘン(ドイツ)経由グラーツ(オーストリア)までは飛行機で、そこからは専用バスで、スロベニアの観光地ブレッドへ向かいました。EU内の移動ですから、勿論国境でのパスポート・チェックなどはありません。この旅行中に、グラーツでは、ワールドカップに向かっての日本代表サッカーチームと、イングランド代表の事前強化試合が行われ、残念ながら負けたとサッカーオタクの女性添乗員のSさんが、携帯しているiPhone(インターネット)で調べて教えてくれました。梅爺、梅婆の携帯電話(ドコモ)も、通話、メールは現地でも利用できました。なんとも便利な時代になったものです。

Dscn0832 ブレッド湖畔にあるチトー大統領の別荘(現在はホテルになっている)

スロベニアでは、国際的なボート競技で有名なブレッド湖と、ポストイナにある巨大な鍾乳洞の二か所を丸一日かけて観光しました。『今回は旅程の都合で割愛しますが、首都リュビリアーナも良いですよ。是非またお出かけください』と添乗員に薦められましたが、いくらなんでも、そのためにもう一度スロベニアを訪問しようという気にまではなれません。

ブレッド湖では、船頭による手漕ぎ船で小島に渡り、島にある聖マリア教会を見学したり、湖全体を見下ろす丘にあるブレッド城を見学したりしました。ブレッド城でワインの試飲をし、デザートワインがイケルと分かって早速一本購入してしまいました。観光地のあの手この手の商売にすぐ乗せられてしまうのが梅爺、梅婆の弱点です。

Dscn0879 ポストイナ鍾乳洞の内部へ向かう観光用トロッコ電車

全長27キロメートルのポストイナの鍾乳洞は、ヨーロッパ最大、世界でも3位という規模で、壮大さに驚きました。スロベニアは石灰岩の大地が広がっていて、これをビフカ川が10万年かけて浸食したものです。ナチス・ドイツがこの鍾乳洞を地下弾薬庫として利用していました。入口から見学地までのトンネルは、トロッコ電車で向かい、その後鍾乳洞内を徒歩で2キロメートル歩いて見学し、またトロッコ電車で出口へ戻ってくるという、ディズニーランドのアトラクションのような仕組みになっています。徒歩見学のガイドによる説明は、英語、イタリア語、ドイツ語、スロベニア語のいずれかを選ぶ必要があり、まだ日本語はありません。周りを見回すと、かなりの日本人観光客がいましたから、このような状況が続けば、日本語ガイドサービスがそのうち始まるかもしれません。この鍾乳洞には、ここだけで進化を遂げた生物の展示などもあり、楽しむことができました。

梅爺は、中国やベトナムでも鍾乳洞の見学をしたことがあります。アジアでは、内部がけばけばしい色でライトアップされて、場末のキャバレーのような風情に少々げんなりしましたが、ポストイナではオレンジ色の照明一色に統一されていて、こちらの方がセンスが良いと感じました。

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2010年6月10日 (木)

旧ユーゴスラビア

Dscn0836スロベニア、ブレッド湖に浮かぶ小島にある聖マリア教会のマリア像

旧ユーゴスラビアと言われていたた地域の歴史を中世にまで遡って理解しようとしても、複雑すぎて梅爺には、到底手に負えません。しかし、折角今回訪れたからには、近世の歴史だけは最低限の知識として整理しようと調べてみました。ポイントは、第一次世界大戦の終結で、ユーゴスラビア(統一国家)の原型ができあがり、第二次世界大戦の終結以後、社会主義体制へ移行、そして東西冷戦の終結で、再び、元のバラバラな国々へ分裂(ユーゴスラビアという国名は消滅)したのだとマクロに理解しました。

ユーゴスラビアは、『7つの隣国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア)、6つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア)、5つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人)、4つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語)、3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム)、2つの文字(ラテン文字、キリル文字)により構成される1つの国』と言われたくらい複雑な基盤の国家でしたから、統一よりも分裂の方が自然な成り行きとも言えます。そう考えると、現在の中国なども、きわどいバランスで維持されている国家であることが分かります。とにかく、日本人には、想像もつかない国家環境で、国家を構成する基本要素とは一体何なのだろうと考えさせられます。

Dscn8669 クロアチアの首都ザグレブの中央駅とイチゴを売る屋台

社会主義体制の成立には、ナチ・ドイツの侵攻にパルチザンのリーダーとして戦った有名なチトー(後に大統領になる)のリーダーシップがありました。チトーは共産主義者でしたが、他の東欧諸国と異なり、ソ連(スターリン)の完全支配に屈することを拒みました。激怒したスターリンは、何度もチトー暗殺の刺客をユーゴスラビアに送りましたが、チトーもさるもので、これらを全て秘密警察の手で摘発し、逆に、スターリンへ『あなたを暗殺する刺客を送る用意がある』と脅しの電報を送ったと伝えられています。まるでやくざ同士の抗争のような話です。結局1963年にユーゴスラビアは、ソ連によってコミンテルン(共産主義の国際組織)から除名されることになりました。

チトーが踏ん張ったこともあり、ユーゴスラビアの社会主義は、ソ連とは少し異なったものになりました。政治と経済の分離、地方分権の許容、ソ連ほどではない緩やかな言論統制が施行されていたと言われています。このお陰で、スロベニアなどでは、西欧諸国に地理的に近いこともあり、分裂後の民主化は、他の東欧諸国よりスムーズに進行しました。スロベニアは2003年に、EU、NATOにも加盟を果たし、クロアチアもEU加盟を望んでいます。

内戦という悲惨な代償を支払ってまで、分離独立したのに、今度はEUの一員に是非なりたいと言い出すことに、矛盾があるようにも感じますが、グローバル経済の中で、小国が生き残る術は、これしかないという判断なのでしょう。EUも、全体統制と分権の容認のバランスを取り損なうと、分裂の危機を迎えることになりかねません。分裂には、統一程のエネルギーを要さない、というのが、自然界の法則なのですから。

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2010年6月 9日 (水)

バルカン半島初体験(2)

Dscn1232 クロアチアの海洋要塞都市ドブロヴニクの中央広場

『人間は所詮自分中心にしか世界を観ていない』と言われると、『そんなことはない。私は何事も公平に観るようにしている』と反論したくもなりますが、悲しいことに『自分中心』が現実のように思います。地理的に近辺で起きた事件、時間的に現在起きている事項、自分の関心事に関わる事には、強く反応しますが、遠い場所や昔の話、それに自分の関心が薄い事には、『ふーん。そうなの』といった程度の、それほど強い関心を示しません。何事にも『野次馬的興味』を示すと自認する梅爺も、恥ずかしいことにこれは同様です。

今回の旅では『スロベニア』『クロアチア』『ボスニア・ヘルツェゴビナ』のバルカン半島の3ケ国を巡りましたが、梅爺は、今までに『何も知らなかった』ことを思い知りました。少なくとも、断片的に『聞いたことがある名前』はありますが、体系的な理解とは程遠いことを痛感しました。『スロベニア』『クロアチア』が、もし『韓国』『北朝鮮』ほどの近い国であったら、事情が異なっていたに違いありません。旅は、それまで疎遠であったものを、一気に『関心事』のレベルに近づける多大な効果があることが分かります。

Dscn0882 スロベニアの観光地ポストイナ鍾乳洞の入り口近くに展示されている戦車。スロベニア、クロアチアには、過去の戦争や内戦を忘れないように、このような記念品が展示されている。

アドリア海(地中海の一部)を挟んでイタリアの東に位置するバルカン半島は、東ヨーロッパに属しますが、フランス、スペイン、ドイツ、イタリアなど日本人がある程度知っている中央ヨーロッパに比べて、格段に情報量が少なく、『知らない国』『遠い国』の感じを受けます。ソ連の『鉄のカーテン』支配が強かった時代の情報量が少ないことと、ソ連支配が終わり、バルカン半島の『ルーマニア』『ブルガリア』『ユーゴスラビアから分離独立した諸国』が民主国家として再出発してまだ20年程度と日が浅いことが、『遠い国』と感ずる所以(ゆえん)のように思います。特に、旧『ユーゴスラビア』は、『スロベニア』『クロアチア』『ボスニア・ヘルツェゴビナ』『セルビア』『モンテネグロ』『コソボ(セルビアとの紛争は今でも続いている)』『マケドニア』に内戦を経て分離独立しましたが、それぞれが『何のために、いつ、誰と戦ったのか』を理解するのは容易ではありません。

『民族の対立(スラブ人と非スラブ人)』『宗教の対立(ローマ・カトリックとセルビア正教、およびキリスト教とイスラム教)』『文化の対立(言語など)』が根にあることは想像できますが、それぞれのケースで事情が複雑に異なることが日本人の理解を難しくしています。現地人のガイドに質問してみても、すんなり分かりやすい答が返ってくるわけでもありません。

この地方に関する梅爺の従来の知識はサッカーに関するものが主で、『カズ(三浦和良)がクロアチアの首都ザグレブのチームに所属していたことがある』『前日本代表監督のオシムはボスニア・ヘツツェゴビナ出身』『名古屋グランパスのストイコビッチ監督はセルビア出身』といった他愛のないものばかりです。

バルカン半島は、温暖、肥沃であるために、歴史的には『ギリシャ』『ローマ帝国』『ベネチア共和国』『オスマントルコ』『ナポレオンのフランス』『ハプスブルグ家(オーストリア・ハンガリー帝国)』『ナチ・ドイツ』『ソ連』からの脅威・支配に晒され続けた地帯で、それが『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれた所以(ゆえん)です。梅爺の知識が足りないだけで、実はヨーロッパの歴史の中で、重要な役割を担い続けてきた地域であることを、思い知らされました。

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2010年6月 8日 (火)

バルカン半島初体験(1)

5月27日から6月4日の9日間、阪神航空フレンドツァー『クロアチア・スロベニア ハイライト9日間』に梅婆と参加し、梅爺は、生涯初めてバルカン半島へ足を踏み入れました。参加は6組の夫婦、12名で、いずれも還暦を過ぎた同様の年配でした。有能な女性添乗員Sさんの助力もあって、全員すぐに打ち解け、和気藹藹(わきあいあい)の旅行を楽しみました。出発前インターネットで調べた現地天候は、雨模様でしたが、幸運にも観光名所は晴れて、アドリア海の青さを堪能できました。現地の移動の大半は、専用の大型デラックスバスでしたので、好き勝手な場所に座って、ゆったりできました。ホテル(四つ星以上)や食事も、細かいことを気にしなければ、満足できるレベルでした。気を許して、食べすぎたせいか、1キログラム程度体重が増えてしまいました。

Dscn0824スロベニア、ブレッド湖(ボート競技のメッカ)とブレッド城 

最近のパック・ツアーでは珍しいことに、参加した6人の男性の内、4人が梅爺同様の喫煙者でした。もっともお一人は、今回のツアー中は禁煙を貫かれました。スロベニアもクロアチアも喫煙場所規制があるのは日本と同じです。梅爺は、最近節煙中で、一日3~4本程度に留める努力をしていますが、他の方が美味しそうに吸っているのを見ると、つい誘惑に負けそうになるところを、なんとか踏みとどまりました。

梅爺は、7月3日に、東京六大学OB合唱団(男声グリークラブ)の共催演奏会(上野の東京文化会館大ホール)へ参加出演を予定しており、その練習の真っただ中であることや、我が家の老犬の体調が最近芳(かんば)しくないこともあり、10日近く日本を離れることは少々気がかりでしたが、『バルカン半島初体験』の魅力には抗しがたく、自分のわがままを優先して出かけました。

留守中の老犬の世話は、毎回このようなケースでお願いしている顔見知りの『犬の散歩屋さん』が快く引き受けてくださり、幸い何事もなくて、ほっとしました。

Dscn1218 クロアチアの要塞都市ドブロヴニク

クロアチアの観光旅行は、ここ数年日本で大人気で、行く先々日本人の観光者の多いことに驚きました。他のヨーロッパ観光地とは異なり、韓国人、中国人の旅行グループに出会うことは稀ですので、今が日本人にとっては出かけるチャンスかもしれません。旅行パンフレットを見ると、真っ青なアドリア海を背景に、白壁、オレンジ色の屋根のおもちゃのような家々が点在する、日本人には異国情緒あふれる景色が目に飛び込んできますので、人気の原因は肯けます。しかし、日本人を受け容れる体制は、他のヨーロッパほどには整っているとは言えません。日本語ができる現地ガイドはいませんし、日本語が通じるお店も沢山あるわけではありません。ただ、現地の人の多くが英語を理解しますので、英語ができる人には、さほど不便はありせん。

美しい景色、汚染されていない自然、歴史的な遺跡などを堪能するだけなら、確かに屈指の観光地ですが、ここが『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれる歴史的に血なまぐさい紛争の中心地であり続けたことを知ると、複雑な気持ちになります。

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2010年6月 7日 (月)

逆説的レトリック(3)

『人はパンのみで生きるにあらず』とか『心の貧しき人は幸いなり』などという教えも、『逆説的レトリック』に近いと思います。高度な精神活動を進化で取得するにいたった『人間』にとっては、心の安らぎを伴う精神生活が真の満足をもたらすものであり、ただ生命を維持することだけが『生きる』ことではない、という教えであることが分かります。

『心の貧しき人』の『貧しい』という日本語訳は、『Poor』を連想して、誤解を生じやすいかもしれません。多分、英語では『Humble』と表現される言葉で、『奢り高ぶらない、慎ましい』という意味です。キリスト教では『神を畏れる』という意味を更に包含しているのではないでしょうか。

孔子の『和して同ぜず、同じて和せず』も傑作であると思いますが、仏教の『色即是空、空即是色』は『逆説的レトリック』の最大傑作ではないでしょうか。極めて哲学的な思考の極致であり、『森羅万象』の本質を、言い当てているように思います。『色』とか『空』とかいう漢字は、広大な抽象概念であり、とりようによっては、色々な解釈が可能になります。『これは、こういう意味ですよ』という誰かの解説を読むことも無意味ではありませんが、『こういうことであろう』と、自分でおおらかに受け止めることに意味があります。このような『曖昧模糊(あいまいもこ)』と全容を把握した言葉を許容する漢字文化は、梅爺の好みです。『言葉は神である』という基本認識の西欧人は、『色』や『空』の『正しい定義(意味)』は何かと問うに違いありませんが、下手な定義をすればするほど、『色即是空、空即是色』の全体は、見えなくなるのではないでしょうか。異文化の交流が、いかに難しいかが分かります。

優れた『逆説的レトリック』を、考え出せるのは、『人間』だけであり、聖書や経典に書かれている教えも、優れた思考力の持ち主(人間)の創作であろうと、梅爺は推察しています。あまりに見事な表現であるために、これは『神や仏の言葉』を綴ったものだと、思いたくもなりますが、真相は『昔、飛び切り頭が良い人がいた』ということではないでしょうか。『神や仏の言葉』であると言い出すと、『この内容だけが絶対的な真実』『書かれていることには一点の誤りもない』という話に発展し、融通の利かない、ややこしい話になってしまうような気がします。しかし、梅爺は『不可知論者』なので、このような気楽なことが言えるのかもしれません。

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2010年6月 6日 (日)

逆説的レトリック(2)

宗教の創始者の中には、この『逆説的レトリック』を多用する人が多いことに気づきました。キリストの『汝の敵を愛せ』などという表現は、これに当たります。『敵は自分にとって不都合な存在』なのですから、『情』においては、『好ましくない、憎らしい』と感ずるのが、生物としての人間の『自然な反応』です。従って、『敵』は、『戦って倒し、排除する』か、精々『関与しないようにするか、逃げる』という行動に出ます。人間以外の動物が、『敵』に出会ったときの反応と基本的には変わりがありません。

しかし、『汝の敵を愛せ』といわれると、人間の『理』のレベルの高い人は、『とても深遠な意味を含んでいるかもしれない』と『感じ』、そして『そんなことが可能なら、なんと素晴らしいことだろう』と、考えを進めます。『理』のレベルが低い人は、『汝の敵を愛せ』と言われても、そのことの意味に興味を示さないばかりか、『バカも休み休みにしろ。敵は憎いに決まっている』と言い返すに違いありません。

『不都合なことは、排除するか避ける』という対応は、生き残りのための本能で、生物としての人間の宿命的な習性ですから、『敵を憎む』は、仏教でいう『煩悩』の一つであり、本当に『愛する』かどうかは別として、『敵を敵と思わない』という境地は、『煩悩を解脱(げだつ)』しない限り得られません。凡人が『理』で、『煩悩の解脱』を願い、その努力をすることは、尊厳を持って生きる上で意味のあることですが、本当に『煩悩の解脱』の境地に達する人は、もし可能であったとしても、極めて稀であり、従って、キリストや釈迦が神や仏の化身と崇められることになります。

『人間が理で情を制する努力や行為は、人間の尊厳を保つために尊いことであるが、人間は、完全に理で情を制する(解脱する)ことはできない宿命を帯びている。そもそも人間(の脳)は、そのように矛盾した存在であるように創られている』というのが、梅爺の理解です。

キリストや釈迦が、『解脱』を果たした『人間』であるとすれば、それはもう『人間』を超えていますので、『神や仏の化身』である、という論理になりますが、本当に解脱できたのかどうか、梅爺には確かめようもありません。

しかし、ただ何となく、キリストや釈迦は、『神や仏の力を信ずれば(信ずることだけが)、限りなく解脱に近い状態になれる』と説いた『人間』であったのではないかと『感じて』います。『解脱(目的)』のために『神や仏の力を信ずること(手段)』を具体的に提示した、極めて、洞察力に優れた『人間』であったのではないか、という推測です。

自分の『解脱』のために『神や仏』を信ずる行為は、他人には迷惑がかかりませんが、『神や仏』を信じるが故に、『信じない人』を、排除、抹殺しようという行為に及ぶことが『宗教』のもたらす弊害だと、世の『無神論者』は主張します。梅爺は、『無神論者』ではありませんが、『解脱』以外の世俗的な目的で『神や仏』を持ち出すのは、いかがなものかという主張には賛成です。

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2010年6月 5日 (土)

逆説的レトリック(1)

梅爺のように、『理屈をこねたがる人間』は、少しカッコよく言えば『道理で物事を理解しようとする人間』と言えますが、こういう人間は『逆説的レトリック(修辞法)』に弱い傾向があります。

例えば、『花より団子』の『逆説的レトリック』は、『団子より花』ですが、どちらの表現も論理としては、『真』であるとは言い切れませんから、状況によっては『団子より花』という価値観を、人間は優先することがあると考えます。従って金科玉条のように『花より団子』という価値観だけを常に優先する人には、反撥を感じ、つい、『違うんじゃないの』と余計な皮肉を言いたくなります。

同じようなことが、『論より証拠』にも言え、場合によっては『証拠より論』を優先する方が、意味があることもあります。会社の上役が『何でもいいから、汗をかいて売り上げを伸ばせ』というのは、『論より証拠』を求めた言い方ですが、『何故売り上げが伸びないのかを分析して、適切な方法を考えろ』と言った場合は、『証拠より論』を求めていることになります。『証拠より論』の方が、結果的に効率が良いことは、沢山あります。日本人は、『論より証拠』を重視する傾向が強いのではないでしょうか。その結果、『論』を軽視したり、時には、『論』を侮ったりします。『深遠な論』を考え出す能力は、生物として人間にしか付与されていないのですから、『結果』や『答』を急ぐ前に、『道理に適ったプロセス』を考える訓練を積む事の方が、重要であり、『人間らしい』生き方であるように梅爺は感じます。

日本の学校教育は、『答の出し方(方法)』を教え、この『方法』を駆使して(鵜呑みにして)、速く正しい答を出す子供は、『優秀』という判定になります。一方北欧では、『答の出し方』を自分で考えるか、提示された『答の出し方』が、何故正しいのかを『考えさせる』教育を重視していると、聞いたことがあります。日本の子供の基礎学力が、北欧より劣ることになった理由がここにあるということでした。

『ゴチャゴチャ難しいことを考えるのは嫌だ』というレベルの人間は、どこの国にもいますが、日本人が全員そうなって『思考停止』し、『思考の意味や楽しみ』を忘れてしまったら、国際競争に勝てるはずがありません。

本を読むことも、著者の『論』を知るために重要なことですが、それを『鵜呑み』にせずに、自分自身の『論』をそこから構築することに意味があるのではないでしょうか。勿論著者に賛同することもありますが、『考えた上での賛同』と『鵜呑み』では、雲泥の差があります。手っ取り早く『答の出し方』や『答そのもの』を求めるために本を読むというのでは、楽しみは半減してしまいます。

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2010年6月 4日 (金)

マイケル・ムーアの映画『Sicko』(4)

人間は生物として、自分の生き残りを最優先するという、本能が継承されていますので、いざとなると他人より自分を優先した行動に走りがちです。これを抑制できるのは、『徳』という後天的に『理』で獲得した判断基準しかありません。

企業も人間の集団である以上、これと同じ問題を抱えます。特に経営者の『徳』が重要になりますが、『金儲けの手腕にも優れ、徳も持ち合わせている』という経営者は、そうそういませんから、企業は『拝金主義』になりがちです。株主による『経営者責任訴訟』を恐れる経営者は、あらゆる手段で、時には不正もかえりみず、見掛け上の利益確保を優先します。一方株主は、自分の配当だけが確保されていれば、経営者の横暴や不正には目をつぶります。『拝金主義』からは、『徳などくそくらえ』ということになります。

勿論アメリカにも、企業の不正を質すしくみはあります。証券取引委員会(SEC)は厳しい追及で有名です。しかし、『徳』が無い世界では、証券取引委員会の捜査の網にかからないようにうまくやることが、優秀な経営者であるということになり、企業の拝金主義的不正は、後を絶ちません。

アメリカは政治の世界でも、『徳などくそくらえ』の心理が働いているように見えます。ニクソンは、頭脳明晰であったかもしれませんが、『盗聴行為』に罪悪感など持ち合わせておらず、キッシンジャーもそれを見て見ぬふりをしていました。盗聴内容が後で公開されましたが、そこで交わされている大統領と側近の会話は、耳を疑いたくなるような『ならずものの会話』でした。クリントンがホワイトハウスに出入りしていた若い女の子と、『不適切な行為』を行ったなどという話も、『徳』からは縁遠い話です。

口では『神の御加護を』などと軽々しく言いながら、組織の上に立つ人々の間に『徳』がなくなってしまっていることが、マイケル・ムーアが『どうしてアメリカはこんな国になってしまったのか』と嘆く真因のように梅爺は思います。

翻って日本をみてみると、『日本はそうではない』と言いきれない状況で心配になります。『徳』を重視する国へ、日本をかじ取りするのは誰で、どのような方法が考えられるのかが気にかかります。

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2010年6月 3日 (木)

マイケル・ムーアの映画『Sicko』(3)

『Sicko』というドキュメンタリー映画は、アメリカの医療保険制度の不条理を糾弾したものです。ご存知の通り、先進国で、国民全員の医療保険加入を義務付けていないのはアメリカだけです。民間の医療保険への任意加入がベースになっています。裕福な人たちや、会社が従業員の保険料を肩代わりしてくれる人たちは保険に加入できますが、それ以外の人たちは保険に加入する余裕がなく、5000万人が未加入であると言われています。

アメリカの医療費や薬代は、非常に高価ですから、保険への未加入者は、深刻な病気にかかった場合、座して死を待つほかありません。このような状況で命を落とす人の数は年間18000人と言われています。

それでは、保険に加入していれば、安全かというと、そうではなく、保険会社は、なんだかんだとイチャモンをつけて、保険の支払いを拒みます。『以下の病歴がある人は、支払いの対象としません』と書かれた数ページに及ぶ病名リストがつきつけられます。医師が保険支払いに該当しないと査定すれば、保険会社は大きな利益を確保できますので、査定した医師に保険会社はバック・マージンを支払うという、裏取引が公然と行われます。金儲けのためなら、悪魔にも手を貸すとはこのことです。

これ以外にも、保険会社は、探偵のような調査員を雇用していて、保険加入時の申請内容に虚偽の申告があったなどと難癖をつけて、保険の支払いを拒みます。患者自身も忘れていたような、昔の病歴を理由に『既往症の申告を故意に拒んだ』などと言いがかりをつけます。『医は仁なり』などとは程遠い話です。

クリントン大統領の時代に、ヒラリー・クリントンが、国民全員が医療保険に加入できる法律の制定を目指しましたが、保険会社や製薬会社の猛烈なロビー活動(妨害)で、陽の目を見ませんでした。この時も、『アメリカは社会主義の国になってよいのか』という国民への脅しが手段として使われました。

『Sicko』という映画では、隣国カナダや、ヨーロッパのフランス、イギリスの医療保険制度(基本医療費は、税金で賄われ患者の負担はほぼゼロ)の実態を伝え、アメリカだけが如何に異常であるかを糾弾します。

極めつけは、『911』で英雄扱いされた消防士や、介護士が、当時の後遺症で、苦しみながら治療が受けられないのに対して、キューバにあるアメリカのテロ犯収容の捕虜収容所で、捕まっているアルカイダのテロリストが、手厚い施療を受けている実態を暴き、国家のヒーローよりテロリストを優遇する政策を糾弾していることです。

イラクやアフガニスタンで使われる軍事費の一部でも充てれば、多くの国民の困窮を救えるのに、いったいこの国(アメリカ)はどうなっているのかという、マイケル・ムーアの憤慨が伝わってきます。

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2010年6月 2日 (水)

マイケル・ムーアの映画『Sicko』(2)

ドキュメンタリー映画の監督、マイケル・ムーアに関しては、前に『個と全体』というブログを書いた時に紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-fc12.html

『アメリカは、いつからこんなひどい国になってしまったのだろう』という憤慨がどの作品にも共通に流れています。マイケル・ムーアが暴きだすアメリカの暗部を観て、梅爺は、『アメリカはなんとひどい国なのだろう。これに比べればまだ日本はマシ』と一旦安堵しますが、次の瞬間『待てよ。アメリカをダメにしていることと同じことが、日本をダメにし始めているのではないか』と気付き、愕然とします。

アメリカをダメにしている要因を単純に決めつけるのは適切ではないかもしれませんが、あえて挙げれば『自由』『個人尊重』を隠れ蓑にした『行き過ぎの経済至上主義』『拝金主義』ではないかと思います。国民の多くが、この要因をネガティブなものとしてとらえているのではなく、むしろ『大金持ちになって幸せをつかむ(アメリカン・ドリームの実現)』ための手段として、当然の行為ととらえているように見えます。

建国直後は、個人が、砂金を掘り当てたり、一代で会社を立ち上げたりと、アメリカン・ドリームは、社会に有害なものというより、むしろフロンティア精神の鼓舞などになって、アメリカ社会の活性化の特徴的な源でした。しかし、企業が巨大な組織になった現在、『巨大な組織ぐるみで行う拝金主義』は、アメリカ社会を蝕(むしば)み始めました。企業は、ロビイストを使って、金で政治や選挙に介入しますから、誰も『巨大な組織』の横暴をチェックできなくなってなってしまっています。

これらの『組織ぐるみの拝金主義行為』は、表向きは『自由、民主主義』の衣をまとっていますので、ひどさが覆い隠されていたり、国民も、自分の『拝金主義』を認める以上、企業の『拝金主義』を悪くは言えないという心理があってか、なかなか国民全体が立ちあがって不条理を質(ただ)そうという大きなうねりにはなりません。不条理を質そうとした黒人の公民権運動や、ベトナム反戦運動も、必ずしも国民全体を巻き込んだ大運動と言えるものではありませんでした。

フランス革命のような国民の怒りが、国家体制を覆すというような体験をアメリカはしたことがありません。そのため、大統領や政治家は、そのような恐怖を体験したことがなく、むしろ逆に、国民に対して『共産主義、社会主義』の恐ろしさを宣伝して、何かがあるたびに『そのようなことを許すと、アメリカは社会主義国家になってしまうぞ』と脅かし、国民も『それは大変だ』と従ってきました。最近は『アメリカがテロの標的になるぞ』というのも、国民を脅す手段として多用されています。

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2010年6月 1日 (火)

マイケル・ムーアの映画『Sicko』(1)

各人が個性を持っているように、社会や国家も個性を持っています。人間の個性は、生まれつきの資質と、育った環境、経験などで、作り上げられますが、社会や国家には『生まれつきの資質』に相当するものはなく、社会や国家が形成されてきた環境や歴史的な経験が個性を作り上げる要因になっています。

ある社会や国家で『あたりまえ』と考えられていることが、他の社会や国家では『あたりまえ』ではないことが沢山あります。テレビのバラエティ番組『ケンミンショー』を観ていると、狭い日本の中でさえ、地方によって『あたりまえ』が異なっていることが分かり、大笑いしてしまいます。

多くの人が、生まれた土地で生活し、死んでいくという時代には、外の世界に『異なったあたりまえ』が存在することを知る機会がありませんでしたが、現在は、旅行はもとよりのこと、映画、テレビ、新聞、書籍、インターネットなどで、居ながらにして外の世界を、垣間見ることができるようになり、その人のアンテナ感度さえよければ『異なったあたりまえ』の存在を、推察したり、知ったりできるようになりました。

国民が『外の世界のあたりまえ』を知り、自分たちが、為政者やしきたりから、犠牲や不条理を強いられていることに気付き、政府や体制に不満をもつようになることは、為政者にとって都合の悪いことですので、情報をコントロールしようとしたり、洗脳教育をしたり、時には『非国民』のレッテルをはって、不満を口にする人を弾圧したりします。

独裁国家や社会主義国家の為政者が、自国の『あたりまえ』を維持するために、ひどい手段を用いることは、容易に想像できますが、自由、民主主義を標榜するアメリカは、そのようなことはなかろうと考えるのは、読みが浅いことになります。自由であると思わせておいて、実に巧妙な手段で、為政者は都合のよい『あたりまえ』を維持しようとします。考えようによっては、誰にもわかるひどい手段を行使するよりも、こちらの方が性質(たち)が悪いとも言えます。

アメリカ国民が『あたりまえ』としていることが、実はアメリカ以外では『あたりまえ』でないことを、敢然と摘発し続けている、ドキュメンタリー映画監督、マイケル・ムーアの作品『Sicko(注:変人、狂人を意味するスラング)』がBSフジで放映され、梅爺は録画して観ました。アメリカの、医療保険制度の不条理を摘発した内容です。

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