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2010年5月31日 (月)

Steve Berryのミステリー小説『The Third Secret』(5)

この小説で、ついに明らかになる『第三の秘密(マリアのお告げ)』の内容は、以下のようなものです。『なあんだ、そんなことなら、言われなくても分かっているよ』と、梅爺は言いたくなりますが、カトリックが約1700年間守ってきた『しきたり』からすると、権威を失墜しかねない『大問題』ということになります。

男も女も神の創造物である。男だけが特別に神に仕える特別の権限を持っているわけではない。その点、男は『過ち』を続けてきており、間違いを正すべきである。いかなる愛の表現も、平安をもたらす源泉で、神は禁じたりはしない。従って、聖職者が、妻を持ち、子供を作ることを神が禁じたりはしない。

キリスト教のプロテスタントや、仏教の宗派の一部は、聖職者の妻帯を認めていますので、『真の聖職者は男でなければならず、女性との関係はあってはならない』とする、カソリックの考えが、現代人からすれば、『不自然』であることになります。聖職者は『純潔』を担保にして『権威』を保とうとしているようにも見えます。それに、人類が全員聖職者のようになってしまえば、『神』を讃える後継者がいなくなるという、大矛盾を抱えます。上記の『マリアのお告げ』を、そのまま拡大解釈して受け容れれば、『全ての愛の表現が許される』ことになり、『同性愛』も、罪にはならないことになります。

この小説では、法王が『第三の秘密』の内容を知り、自分が神の道へ進む前に、お互いに恋心をもっていた相手の女性が、一生独身を貫いたことに、『とんでもない罪を犯してきた』ことを悟り、神への謝罪のために、自殺するという、プロットになっています。俗人の梅爺は、『何もそこまで思いつめなくても』と思いますが、神へ一生を捧げた純粋な法王には、大変な『大罪』であったのでしょう。

人間の愚行を、『神』が見かねて、マリアを遣わし『諭(さと)す』なら、『戦争はやめなさい』とか色々ありそうなものですが、何故この問題が特に選ばれたのかは、梅爺には不可解な話です。

『愛』という概念は、『善良』の絶対的な象徴として、『愛は世界を救う』などと、安易に使われますが、仏教では、『愛』さえも煩悩の一つとして、悟りの障害になると考えられていると前に聞いたことがあります。

『愛』とか『自由』とかいう概念は、一体人間にとって何を意味するのかは、多くの作家や哲学者が、問い続けてきましたが、『単純な答え』は、なかなか見つからないところをみると、『神や仏』と同様に、当分、万人が納得する回答は得られないのかもしれません。

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2010年5月30日 (日)

Steve Berryのミステリー小説『The Third Secret』(4)

神に召され昇天したマリアが、再び神の意思を伝えるために、地上に出現するという話は、真偽を議論する術がありません。ただ、体験した人たちの『体験談』だけがあるだけです。

ポルトガルのFatimaでは、ルチアという少女とその友達(子供達)がマリアに遭遇し、その語る『神の意思』を聞いたことになっています。1917年のことで、『体験談』を文書で残したのは、ルチアだけです。不思議なことに、周囲の村民、特に大人たちは誰も、マリアを見ていません。

このような現象を唯一説明できるとすれば、特定の人間の『幻覚』『幻聴』で、それは、その人の『脳の機能』が理性の制御を失ったときに起こるものと考えられます。子供は、大人より、理性に制約されない自由な『幻覚体験』をする可能性が高いと言えます。『夢』は誰でも体験する代表例で、『夢』の正体はまだ解明されていませんが、少なくとも、目覚めた後に、『あれは、夢であり、現実ではない』と、自分を納得させます。それでも、あまりに『気味の悪い夢』を見た後は、なにかの『メッセージ』ではないかと、悩んだりします。

『夢』ではない『幻聴』『幻覚』は、脳の機能が正常でないときに起きます。脳に障害があれば、誰もがそれを体験することになります。『癲癇(てんかん)』は、その一つの例で、通常は正常な人が、何かのキッカケで『癲癇』状態になります。医学的に、何故起こるのかは解明されていませんが、『癲癇』状態の時には、脳細胞が、同時に異常な電気パルスで『励起』されているらしいことは分かっています。『癲癇』状態が治まった後で、多くの患者は『不思議な体験をした(明るい光を見たなど)』と語っています。慢性的に『癲癇』を発症する人もいれば、非情に稀に発症する人もいて、遺伝的な要素なのか、それとも、ある外部条件のなせることなのかも、分かっていません。画家のゴッホなどは、この障害の持ち主であったことが、分かっていますが、歴史上の有名な人物でも、パウロ、ナポレオン、ジャンヌダルク、ドフトエスキーなども、そうではないかと疑う人たちがいます。パウロが、ダマスカスへ向かう途上、突然『光』を見て、気を失い、『イエスに会ってお告げを受けた』という記述は、確かに『癲癇』症状とすれば、説明がつきます。

『癲癇』でなくても、何らかの方法で『恍惚状態(トランス)』になると、人間は誰でも同じ体験をします。麻薬の摂取は、手っ取り早い方法ですが、『一心に祈祷する』『一心に踊り続ける』なども、『恍惚状態』を惹起します。精神が肉体から離れて、自由に浮遊する感覚を体験すると言われています。

問題は、これらの『脳の異常状態』で体験したことが、現実の世界と、深い関わりがあると、考えるかどうかですが、梅爺には判断もつきません。

多くの宗教は、これらの『体験』を、『聖なる体験』として、『信仰』の対象にしています。ある人間の脳の中で、確かにある体験が行われていることは、理解できますが、その内容が、『神の意思』や『聖なるお告げ』であると言われると、梅爺には、それ以上の追求はできません。ただ、良い話ばかりではなく、『悪魔のささやき(幻覚、幻聴)』が、犯罪を起こす原因になったなどと説明されると、『脳の中の体験』と『現実の世界』を結びつける行為は、なんとなく、いかがわしく、好ましくないように感じます。

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2010年5月29日 (土)

Steve Berryのミステリー小説『The Third Secret』(3)

人間社会において、ある『組織』が権威や秩序を保つためには、『決まりごと』を必要とします。『カソリック』も例外ではなく、現職の法王が崩御したら次の法王は枢機卿(Cardinal:The Prince of Church)達による『投票(コンクラーベ)』で決めること、法王は『無謬(Infallibility:言動に過ちがないこと)』の存在であること、高位聖職者は男性であること、聖職者の妻帯は許されないこと、などが『決まりごと』として、脈々と受け継がれてきました。

一般信徒も、『離婚』や『堕胎』は、神の意図に反する行為という考え方に、強く支配されてきました。『殺人』は許されませんし、『自殺』も『殺人』の範疇にはいるために許されません。とは言いながら、カトリックの歴史では、多くの『異端者』が、『訊問(じんもん)』という、宗教裁判で『死刑』になってきました。

カトリックが世界規模で布教を行い、現在では、ヨーロッパ以外の、アメリカ、アジア、アフリカ出身の枢機卿も増え、その影響力が無視できないほどになってきました。『カトリック』はヨーロッパが本家本元という、白人の優越思想で、法王は、今までヨーロッパ系白人で独占されてきましたが、今後、アジア系、アフリカ系の法王が誕生するのかどうかは、バチカンの保守的な体質が変っていくのかどうかを見る上で、注目に値します。『The Third Secret』という小説にも、イタリア人の枢機卿(小説では保守的権威にしがみつく悪玉)が、アフリカ系枢機卿(小説では改革を望む善玉)と、次の法王を巡ってコンクラーベが行われる場面が登場します。

『The Third Secret』という小説では、バチカン内部の『保守派』と『改革派』が、俗世間顔負けの、ドロドロした抗争を繰り広げます。盗聴あり、買収あり、殺人あり、法王の自殺までがあるという、ひどい話ですので、とても神に仕える善良な人たちの行為とは思えません。前記のように。自殺はカソリックでは許されない行為ですので、法王の自殺は、奇想天外な話で、現実にはそのようなことが史実として報告された例はありません。梅爺は、これがバチカン内部の実態に近い話なのか、荒唐無稽な話なのかは、判断できませんが、『巨大な組織』を維持する陰には、何らかの権謀術数が渦巻いているであろうということは想像できます。善良なカソリック信者が、この小説を読めば、憤慨するに違いありません。

アメリカ人作家のSteve Berryは、読者の野次馬的興味をかきたてるために、これでもかこれでもかと、バチカンの『恥部』を暴いていきます。アメリカは、フィクションなら何でも許されるという前提で、仮想の大統領の悪事や陰謀などを、平気で小説や映画にしてしまう国ですので、同じ手法を、『バチカン』『法王』にも適用したと言えばそれまでですが、ヨーロッパの作家には、こんな小説を書く度胸はないのではないでしょうか。隣人の多くを敵に回すことになるからです。Steve Berryも、さすがにバチカンの『教義』や『組織』を全面否定することはなく、『改革派』が勝利をおさめ、今後バチカンが変っていくであろうことを示唆して、この小説は終わっています。

しかし、野次馬根性丸出しの梅爺には、筋書きはともかく、バチカン内部のしきたりや、組織運営のためのしくみを知る上で、沢山の知識を得ることができました。

ポルトガルのFatimaに現れたマリアが、農村の少女ルチアに告げた内容は、永らくバチカンの極秘資料として、歴代の法王しか閲覧できない特別の書庫に保管されてきました。2000年に、その内容は法王の命で、『公開』されましたが、『公開されない第三のお告げ』が存在する、というのが、この『The Third Secret(第三の秘密)』という小説の主題です。

当然、『公開されない』のは、バチカンの権威や教義にとって、その『第三のお告げ』の内容は『不都合なもの』であるということになりますので、この秘密に迫っていきます。この内容を知って、『無謬(むびゅう)』のはずの法王が、過ちを悟り自殺をするという筋書きですので、読者は、『いったいその秘密とは何だろう』と好奇心をそそられ、最後まで読み続けることになります。

娯楽ミステリー作家として、Steve Berryは、野次馬読者を虜(とりこ)にする、なかなかの能力の持ち主です。しかし、『面白ければ、何でもあり』などというのは、意にそわぬとおっしゃる方にはお勧めできる作家ではありません。

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2010年5月28日 (金)

Steve Berryのミステリー小説『The Third Secret』(2)

同根である『ユダヤ教』『キリスト教』『イスラム教』や、『仏教』という、世界的に大きな勢力を誇る宗教の成立および布教が、何故『男性』中心に行われて来たのかに梅爺は興味を抱いています。『当たり前なこと』と思われていることの裏に、意外な原因が潜んでいるかもしれないからです。

いずれの『教祖』も『男性』で、高位の聖職者は、『男性』に限られています。『神を具体的な姿で表現してはいけない(偶像禁止)』とされる『ユダヤ教』『イスラム教』も、梅爺には、なんとなく『神』は『男性』的に見えますし、『キリスト教』では『父なる神』と表現されるくらいですから、明確に『神』は『男性』と規定されています。『仏教』では、『釈迦如来』は『釈迦』が『仏』になったものとすれば、『男性』ですが、その他の『仏』は、『仏像』をみるかぎり、性別は判然としないものもあります。『神』や『仏』は、性別を超越したものという考え方は、後世の教義確立の中で、出来上がってきた考え方で、初期の段階では、『神』や『仏』は、『当然のこと』として『男性』と認識されていたのではないかと、梅爺は推測しています。勝手な推測ですので、間違っているかもしれません。

宗教が、極めて『男性』色が強いのは、勿論、『男尊女卑』の思想背景もあるとは思いますが、もっと深い根本原因があるように思います。『神』や『仏』という、『抽象概念』を考え出し、その意義を理解するには、人間の脳の『理』の部分が、大きな役割を演ずることになりますが、こういう『理』を好む習性に関しては『男性』は『女性』より強いことに起因しているのではないでしょうか。

しかし、宗教は『理』だけでは成り立ちません。人間の脳の『情』に訴える要素も必要とします。『慈愛』や『慈悲』の象徴としては、『母性』から連想される『女性』的なものの方が、直感的に受け容れやすいことは当然ですので、『マリア信仰』や、仏教の『観音菩薩』のような『女性』をも想起させるような表現が採用されるようになったのではないかと想像しています。

カソリックが、男性にも女性にも受け容れられるようにと、『キリスト信仰』と『マリア信仰』をうまく使い分けてきたことは、実に『お見事』というほかありません。

『マリア』がこの世に現れ、『神のご意思』を代弁した、と言われる近世の『奇跡』の全てが、ヨーロッパのそれまでは名前も知られていなかったような『寒村』の、それも高い教育を受けていない無名の『女性(少女の場合が多い)』を対象に起きていることには、何か深い意味が込めれらているように感じます。

『神のご意思』をもっとも効率よく伝える相手は、『ローマ法王』のはずですが、何故、『マリア』は、『ローマ法王』に直接現れずに、名もない農村の女性(少女)に現れたのでしょう。『マリアの再来』は、バチカンには都合の良い話でもありますが、バチカンそのものが蚊帳の外に置かれているような事態は、不都合でもあります。

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2010年5月27日 (木)

Steve Berryのミステリー小説『The Third Secret』(1)

カソリックの世界で、最も信仰の対象となっている聖人は『聖母マリア』ではないでしょうか。ヨーロッパには、いたるところに、『ノートルダム(フランス語)』『サンタ・マリア(イタリア語)』などの『聖母マリア』の名を冠した教会があります。

キリストを理解するには、『原罪』『贖罪』などという、難しい抽象概念を『理』で理解する必要がありますが、聖母マリアは、同じ抽象概念でも、『純潔』『慈愛』などという『情』に訴える要素が強いために、特に女性の信仰を集めやすいののではないかと、梅爺は想像しています。日本の『隠れキリシタン』の時代に、『マリア観音』という概念が生まれたように、『聖母マリア』は、仏教の『観音菩薩』を想起させます。

イエスがもし『神の子』ではなく、『人の子』であれば、マリアは、単に『人の母』であり、賢母、良母であったとしても『聖母』にはなりません。イエスを地上に現れた『神の子』にするシナリオの妥当性を補強するために、『聖母マリア』は『神の子を宿した特殊な女性』という、現代人の『理』では、説明がつかない不思議な存在を聖書の作者は登場させる必要があったのではないかと、信仰心を欠く梅爺は畏れ多くも考えています。

イエスやマリアが、歴史的な『実在人物』であった可能性は、梅爺も受け容れることができますが、『神の子』『神の子を宿した女性』と言う存在は、へそ曲がりな故に、すんなり受け容れることができません。しかし、いずれも『信仰の対象』ですから、『観音菩薩』同様、『理』で証明することは不可能であることは理解しています。

『聖母マリア』が、信仰の対象であり続け、今日にいたっているという『事実』は、梅爺も理解できますが、『聖母マリア』が、誰かの夢に現れたというならいざ知らず、現実に地上に光臨し、『神のご意志を告げた』という話になると、『まさか』と疑いたくなります。しかし、それは大昔の話ではなく、近世になって、フランスのルルド(Lourdes)、ポルトガルのファティマ(Fatima)、クロアチアのMedjugorje(どう発音するのか梅爺には分かりません)に『聖母マリア』が出現した伝えられ、現在では、巡礼者が訪れる奇跡の聖地になっていますので、『一体何があったのか』と興味を惹かれます。近世ですから、勿論『聖母マリア』に出会って、お告げを聞いた人の『証言』も文書で残されています。

『聖母マリアの降臨とそのお告げの内容』を題材にした、アメリカのミステリー作家、Steve Berryの『The Third Secret(第三の秘密)』を、英語版ペーパーバックで読みました。この作家の小説をブログで紹介するのは、『The Alexandoria Link』『The Templar Regacy』『The Romanov Prophecy』に次いで4冊目になります。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-f394.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-0229.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-a67a.html

面白いとなると、その作家の全ての著作を読みたくなるのが、梅爺の悪い癖です。

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2010年5月26日 (水)

れん木で腹切る

上方いろはカルタの『れ』、『れん木で腹切る』の話です。

『れん木』は、すりこぎ棒のことですから、これで腹をかき切って死のうと言うのは無理な話で、『豆腐にかすがい』『糠に釘』同様、役に立たない手段を嘲笑していることにはなりますが、目的が『自分の意思で死ぬ』という切実なことですので、一層滑稽さが際立っています。

つまり、『死んでみせる』と見栄をきっている当人に、『死ぬ気などさらさら無い』という見え見えの状況を皮肉っていることになります。『まあまあ、そんなに早まらなくても』と誰かが止めに入ることを期待しているようにも見え、止めが入れば『そうか、そんなにお前が頼むならやめてやろう』と他人のせいにして身をかばうという結末も見え見えです。

政治家が、何やら怪しげな政治資金の調達や運用を摘発され、『きちんと説明責任を果たす』と豪語しながら、いっこうに責任を果たさないのも、『れん木で腹切る』ような話です。

人間は、自分の浅薄で小賢しい能力の範囲で、自分をカッコヨク見せたり、自分に都合のよいシナリオを思いついて演じたりして、他人は自分が考え出した虚構を見抜けないであろうと、勝手に夢想しますが、多くの場合、他人はずっと賢明で、その虚構を見破ってしまうものですよ、と諭している諺のような気がします。

梅爺も、ほとほと追い込まれた時に、こういう滑稽な行動を過去にとったことはないと断言できる自信はありません。保身のためなら、なりふり構わず行動してしまい、自分ではうまくやりおおせたと思っても、他人からは『裸の王様』に見えているというのが、人間の哀しい習性ではないでしょうか。他人は、『惻隠(そくいん)の情』で、『あなた、滑稽ですよ』とは、なかなか言わないだけで、バレていないと勘違いしているのは当人だけのことが多いように思います。

『れん木で腹切る』を、自分を棚に上げて『世の中には浅はかな奴もいるものだ』と、笑い飛ばす心境には到底なれません。

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2010年5月25日 (火)

怪人ジョン・ヒューストン(3)

『酒、女、賭け事』で身を持ち崩す人は、『教養の無い人』『知性の無い人』と結び付けて一般には、考えられています。『芸術家』の一部には、奔放な生活を送る人もいますが、『映画』は、純粋な芸術とは言えない興行収益目当ての『見世物』づくりの側面があり、『考え抜かれた脚本構成』『観客の受けを洞察した演出』など、かなり高い知的能力(理性)が要求されます。人間や、人間社会の本質を観る能力がなければ、映画は作れません。

ジョン・ヒューストンは、綿密に脚本を練り上げることでも有名で、予めキャスティング(俳優の割り当て)を配慮し、俳優の演技も頭に入れて脚本を作ったと言われています。そのため、撮影現場では、ほとんど『演技指導』は不要なのだと、ドキュメンタリーのなかで、自ら語っています。また、若い頃は画家になりたいと考えたほどの画才に恵まれ、監督になった後も、暇さえあれば趣味で油絵を描いていたというくらいですから、映画の絵コンテも、自ら描いて準備したと伝えられています。脚本や絵コンテでは、他人の意見などは一切聞かない頑固者であったと関係者は回顧しています。日本の黒澤明監督も、絵コンテを自ら描くことで有名でした。彼らの頭の中には、撮影前から『映画』は出来上がっているのでしょう。こう考えてくると、ジョン・ヒューストンは『知性の無い人』であるとは、とうてい思えません。

更に、梅爺が興味を惹かれたのは、彼が、『読書が好き、ジョイスが好き』とドキュメンタリーの中で、自ら語っていることでした。アイルランドの作家、ジェームス・ジョイスの作品、『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』などは、英語の語呂合わせ、発音が生み出すリズム感などをふんだんに駆使した難解な表現で有名で、英語を母国語にする人でも理解が難しいと言われています。梅爺も、そのような微妙な英語を楽しむ能力はありませんので、ジョイスは、はなから敬遠してしまっています。『ジョイスが好き』という欧米人はかなりの『教養人』といえますから、それに従えば、ジョン・ヒューストンも『教養人』ということになります。『ハチャメチャな男』と『教養人』の取り合わせが、なんとも奇妙です。

本当は、ジョン・ヒューストンは、『感受性に富み』『好奇心が旺盛で』『恥かしがり屋』であることを隠すために、わざと『ハチャメチャ』に振舞ったのではないかと、梅爺は想像してしまいました。なにはともあれ、魅力に溢れた人物であることには、違いがありません。

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2010年5月24日 (月)

怪人ジョン・ヒューストン(2)

ジョン・ヒューストン監督のハチャメチャ振りは、普通の男なら内心羨ましいと感じながら、とても社会生活では真似できないと自制してしまう類(たぐい)のものかもしれません。女性も、破滅的な危険を感じながら、男としての野生的な魅力に惹きつけられるのでしょう。

俳優一家の息子として生まれましたが、幼い時に医者に内臓の疾患を指摘され、本人は、『永くは生きられない』と思い込んだふしがあり、その後の彼の性格に影響を与えているように見えます。

10代の頃はボクシングに熱中し、色々な職業を転々とした後に、映画の脚本家としての頭角を現します。そして、ダシール・ハメット原作のハードボイルド小説『マルタの鷹』で映画監督デビューを果たします。このときの主演者ハンフリー・ボガードとは、ボガードが死ぬまで友情が続きます。その後、アメリカ映画史に残る数々の名作を生涯作り続けました。この間、役者としても他の映画に出演し、高い評価を受けています。

こう書いてしまうと、たぐい稀な才能に恵まれた映画人に見えますが、問題は私生活で、『冒険』『乗馬』『ハンティング』『女』『酒』『博打』に明け暮れた生涯を送っています。生涯5度結婚をしていますが、最後まで生活を共にした妻はいません。せっかく稼いだ大金も、すべてこれらに使い果たす徹底振りです。しかし、単なる『女たらし』ではなく、彼にとっては『女』も、真面目な『冒険』の一種であったのではないでしょうか。常識的な家庭人ではなかっただけで、どの別れた妻も、彼を悪(あ)し様に言う人は一人もいません。『安泰』よりも、常に『追い込まれたスリル』の中に身を置かないと、じっとしていられない性格なのでしょう。

いくらアメリカ人好みのタイプとは言え、これで『通用』したのは、やはりハリウッドという『特殊な世界』であったからではないでしょうか。必ず興行収益をあげてくれる監督は、ハリウッドにとっては『打ち出の小槌』であり、会社は、ハチャメチャな私生活は、大目に見ていたのでしょう。

梅爺が更に興味を抱いたのは、一方において彼が、高いレベルの『教養人』でもあったことです。水と油が混ざったような人間が、本当に存在することを知って、驚きました。

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2010年5月23日 (日)

怪人ジョン・ヒューストン(1)

梅爺の現役時代に、仕事の仲間の一人が早期退職し、その達者な英会話能力を活かして、ワーナー・ブラザーズ・ホームビデオの極東支配人に転職されました。早速、仕事ぶりを拝見に、日比谷にあるオフィスを表敬訪問しました。もう、数年も前のことです。

ハリウッドの映画産業は、『当たるか、当たらないか』で、大きく興行収益が異なりますので、企画がどのようなプロセスで行われるのかが、梅爺の興味の対象で、質問してみました。

案の定、劇場封切、テレビ(有料テレビも含む)への配信、DVD販売と、綿密なマーケティングが事前に行われ、制作の決断がなされることを知りました。最後は、『山勘』が頼りの綱とはいえ、さすがにアメリカらしいビジネス・プロセスと感心するほどの詳細計画(広告投資効果なども含め)が、事前に練られることがわかりました。

帰り際に、昔の名画のDVDを数枚をお土産に頂戴しました。いつか観ようと思いながら、棚に積んでありましたが、最近まで観る機会がありませんでした。その中の1本『黄金(The Treasure of  the Sierra Madre)』をようやく観ました。『黄金』は、ハンフリー・ボガード主演で、ジョン・ヒューストンが1948年に監督したモノクロ映画です。その年の、アカデミー監督賞、脚本賞、助演男優賞(ジョン・ヒューストンの実父ウォルター・ヒューストン)を受賞した、アメリカの映画史上に残る名画の一つです。

メキシコの山岳地帯で、砂金を掘り当て、一攫千金を狙う3人のアメリカ人の、苦労と挫折がストーリィですが、大金が現実味を帯びてくるにつれて、3人の人格が微妙に変化するところが、なんとも、面白く描かれています。

このDVDには、本編のほかに、もう一枚『おまけのDVD』がついていて、こちらには、『監督ジョン・ヒューストンの生涯』を紹介するドキュメンタリー映画が含まれていました。

ジョンヒューストンの人柄を知らなかった梅爺には、映画本編より、こちらの方が面白いと感ずる位の内容でした。

日本流に表現すれば、ジョン・ヒューストンは、『型破りのハチャメチャな男』で、それであるが故に『魅力的な男』であることが分かりました。ある程度『良識(常識)』が要求されるヨーロッパや日本では、とても映画監督として許容されないのではないかと思いました。いかにも、アメリカが産んだ鬼才の『怪人』で、アメリカ人らしさが、プンプンと匂ってきます。

こんな男が友人にいたら、こちらも身の破滅の恐れがありますが、他人として観ると、『常識的でつまらない男』より、ずっと魅力的です。

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2010年5月22日 (土)

佐渡へ佐渡へと草木もなびく(5)

Dscn8644 ぼたん祭開催中の長谷寺

真野にある『佐渡歴史伝説館』には、日本ならではの、精巧に作られた動く人形(ロボット)で、佐渡にゆかりの歴史的人物を紹介する展示物があり、『順徳上皇』『日蓮上人』『世阿弥』など、佐渡へ流罪になった人物を身近に感ずることができるようになっています。ロボットは一体1000万円程度制作費用がかかるということですので、大変な観光投資ですが、2000年に訪れた時も、動いていたような記憶がありますので、もう十分元はとれているのかもしれません。

Dscn8642 長谷寺境内のぼたん

この『佐渡歴史伝説館』のお土産売り場に、拉致被害者曽我ひとみさんのご亭主のジェンキンスさんが売り子として働いており、梅爺もミーハーになって、一緒に記念撮影などをしてしまいました。梅爺の風貌は、とても北朝鮮からの『刺客』には見えませんから、安心して写真撮影に応じてもらえました。ジェンキンスさんは、たしか70歳ですから、失礼な言い方で恐縮ですが、佐渡観光のための『人寄せパンダ』の役割を果たしているとは言え、立ちづくめの売り子の仕事は楽ではなく、ご苦労なことです。売り上げの2%を拉致被害者支援に寄付することになっているとのことでした。

ジェンキンスさんは、北朝鮮出国後、アメリカに一時帰国しましたが、地元では、『敵前逃亡した非愛国者』と、非難に晒されました。保守的なアメリカ人には、共産主義者は悪魔の手先ということになりますので、こういう反応は容易に想像できます。しかし、日本では『可哀そうな曽我ひとみさんのご亭主』ということで、だれもが暖かく受け容れますから、佐渡の生活は居心地が良いらしく、『人生で、今が一番幸せです』と英語で書かれた色紙が売り場に飾ってありました。朝鮮戦争の前線に派兵された若いアメリカ人兵士として、何故わざわざ北朝鮮へ逃亡する必要があったのかは、梅爺には知る由もありませんが、『若気の過ち』であったというのであれば、もはや過去をとやかく言うこともないような気がします。

風光明媚な観光スポット、トキの里、歴史の史跡、伝統芸能(民謡、踊り、鬼太鼓、のろま人形劇)、海の幸山の幸に恵まれている『佐渡ヶ島』は、PR次第では、もっと観光客を呼び寄せることができそうですが、あまりにも俗化してしまうと魅力を失いかねません。バランスのとれた観光行政が望まれます。

来年の同級会は、関西地区で、22名の100%参加を目指して開催しようと決めて、今年の同級会は散会になりました。

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2010年5月21日 (金)

佐渡へ佐渡へと草木もなびく(4)

Dscn8627 ホテルの庭園から望む日本海

宿泊した相川のホテルのロビーで、夜佐渡の民謡と踊りのアトラクションがあると言うので、見学しました。『相川甚句』『相川音頭』『佐渡おけさ』が披露されました。

いずれも、哀調を帯びた、いかにも日本民謡の風情ですが、梅爺は、昔から特に『相川音頭』がお気に入りです。単調なリズムとメロディーで、源平合戦の義経に関わる物語が、延々と唄われますが、その、虚を突いたような、型破りの日本語表現が特に好きです。佐渡(相川)と義経は特に関係が無いはずですが、金山で栄えたころに全国から集まった人たちによって唄われたのではないでしょうか。

ドッと笑うて 立つ浪風の
荒き折節 義経公は
如何しつらん 弓取り落し
而(しか)も引潮 箭(や)よりも早く

浪に揺られて 遙かに遠き
弓を敵(かたき)に 渡さじものと
駒を浪間に 打ち入れ給いしが
泳ぎ泳がせ 敵船近く

流れ寄る弓 取らんとすれば
敵は見るより 船漕ぎよ寄せて
鉄塔(くまで)取りのべ 打ちかくるにぞ
已(すで)に危うく 見え給いしが

--(各行間にハイハイハイのお囃子が入り、この調子で延々と続く)--

アトラクションの後、『佐渡おけさ』の踊り方の講習があり、梅爺たちも参加しましたが、思いのほかの難しさに、たちまち断念してしまいました。見た目には、極めて単調に見える手足の動作が、やってみると、手と足が連動せず、頭も身体も言うことをきかないことが分かり往生しました。

Dscn8651 トキ保護センターで飼育されているトキ

佐渡の観光名所と言えば、何といってもトキの保護センターの見学です。人間のせいで絶滅してしまったトキを、今になって『生態系回復』に、多大なお金と労力をかけることは、考えようによっては滑稽な話ですが、人間の愚かさを反省する教訓材料としては、意味があるように思います。生態系は連鎖していますので、一つの種の絶滅が思いもかけない結果を招くことがあります。人間も地球の生態系に組み込まれ、その恩恵を受けて生きているわけですから、『自分だけは別』という思い上がりは危険です。

突然中国から佐渡へ連れてこられて、『さあ、ここで繁殖しろ』と迫まられるトキにとっては、迷惑な話でしょうが、ここはひとつ我慢をして、日本のために頑張ってもらうことを願うしかありません。トキの学術名は、なにしろ『Nipponia Nippon』なのですから。

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2010年5月20日 (木)

佐渡へ佐渡へと草木もなびく(3)

Dscn8633 尖閣湾

『佐渡へ佐渡へと草木もなびく。佐渡は居良いか住み良いか』と『佐渡おけさ』に歌われた『佐渡ヶ島』ですが、実際には歌詞の内容とは反対に、人口は減少傾向にあることを観光バスのガイドさんの説明で知りました。東京23区の1.5倍の面積の島に、6.5万人ということですので、都会との人口密度の格差が大きいことが分かります。一時は12万人以上あった人口が、約半分に減少してしまったことになりますので、行政上も深刻な問題を抱えているのであろうと推察できます。

Dscn8634 尖閣湾観光船乗り場付近のウミネコ

観光収入に頼る比重も大きくなって、全島を『佐渡市』と、一つの行政単位にまとめ、観光客の誘致に熱心に取り組んでいます。16日には、『スポーツニッポン社主催のロングライド』という催し物が行われていました。自転車で、島内のいくつかのコースを走覇するもので、最長コースは島の外周をほぼ一周する210キロメートルということでした。スポーツ用自転車を携行した参加者がが多数、カーフェリーやジェットフォイルで来島し、賑わっていました。子供と一緒に家族で走る微笑ましい光景にも沢山見受けました。都会の子供にとっては一生忘れられない思い出になるに違いありません。車の交通量が少なく、自然環境が満喫できる『佐渡ヶ島』ならではの好企画と言えます。

集落によっては、高齢化、過疎化で、農業を廃業する人たちが増え、空家になった農家を畑や田んぼと一緒に、都会からの移住希望者に提供しようという試みも進められているとのことでした。人生の価値観は人それぞれですから、自然や土に恵まれた『晴耕雨読』の生活にあこがれる人にとっては、『佐渡ヶ島』は、新しい生活を開始する良い機会かもしれません。

都会の生活は、便利で効率よく、慣れてしまうと、これが『進んだ暮らし方』と勘違いしますが、一方自然の恵みに感謝する心が薄れ、人と人との本当のふれあいの感情も薄れて『疎遠社会』の弊害が目立つようになります。人が自然の中で癒されるのは、生物進化の過程で、そのような本能を受け継いでいるからなのでしょう。

梅爺のように、『都会と言えば都会』『田舎と言えば田舎』の青梅に住んでいる中途半端な人間にとっては、今更都心へ移り住む勇気も、佐渡へ移り住む元気もどちらも無くなってしまっています。『住めば都』などと都合の良い言い訳をしながら、臆病に生きています。

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2010年5月19日 (水)

佐渡へ佐渡へと草木もなびく(2)

宴会で、昨年に引き続き、『漢詩』をリタイヤ後の趣味にしておられるTさんが、39年前に、若くして世を去った同級生のIさんを偲んだ、見事な漢詩を披露してくれました。

紅顔快活颯爽友   紅顔 快活 颯爽の友    
遠逝星霜三十九   
遠逝 星霜 三十九
昨夜夢中愕偶逢   
昨夜 夢中 偶逢に 愕くに
君尋同榜息災否   
君は尋ぬ 同榜 息災なりや否やと

同時に、同じ趣旨の以下の和歌も添えられましたので完璧です。

逝きてはや 四十路(よそじ)になりぬ 夢の中 君は問いたり 恙なきやと

生きている人の脳裏に、故人の思い出が残るかぎり、故人はこの世に存在していると言えるような気がします。家族や友人の絆は、生きている人同士の間で重要であると同時に、片方が故人になった後も、大切な意味を持つことが分かります。

Dscn8617 坑道だけではなく、露天掘りで鉱石を採掘した佐渡金山の跡

佐渡金山の史跡見学では、一般コースの『江戸時代の坑道』ではなく、明治以降三菱鉱山(現在の三菱マテリアル)が国策として推進した、発掘、精錬の施設跡を特別に見学しました。今はほとんどが廃墟化してしまっていますが、明治の先人が、近代化に取り組んだ苦労の跡は、十分偲ぶことができました。戦時中は、『金よりも銅が大切』と、国家の事情で操業方針を切り替えたりしたなどという話を聴いて、歴史の大きなうねりが、佐渡金山を翻弄したことも知りました。平成元年に、廃業になり、今は観光対象になっていて、『世界遺産登録』を目指しています。Dscn8625 佐渡金山の最盛期を偲ばせる工場廃墟

佐渡の金の鉱脈が尽きたということではなく、更に掘り続けるには、海抜以下の深い地層まで及ぶ必要があり、『経済的採算』が合わないことが廃業の理由であることも知りました。

何故佐渡だけに、金、銀、銅の鉱脈があるのかは、佐渡が海底火山の活動で隆起した島であることに由来しているようです。隆起の時の温度、圧力などの組み合わせ条件が、鉱脈を作る要因になったのでしょう。金鉱石といっても、金がピカピカ光って見えるわけではなく、見た目には黒い筋が入った鉱石に過ぎませんから、ここに金があると見抜いた、昔の日本人(山師)の知恵には驚かされます。

製鉄技術、金の精錬技術は、人類の歴史を変えるほどの影響力を持ちました。黄金郷を求めた冒険、錬金術の探究など、金は権力者が追い求めた対象で多くの悲喜劇を産み出してきました。

残念ながら、梅爺のこれまでは、金とは無縁な人生でしたが、佐渡金山の廃墟を観て、何かの拍子にこのような世界に巻き込まれたら、全く異なった人生になってしまったのかもしれないと夢想してしまいました。『24金の万年筆のペン先』程度で我慢する方が、安泰な人生が送れるような気がします。

 

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2010年5月18日 (火)

佐渡へ佐渡へと草木もなびく(1)

毎年この時期の恒例行事、大学の同級会(昭和39年東大工学部精密機械工学科)が、一泊二日(15日から16日)で開催されました。今年は、幹事役のMさん、Gさんの入念な計画で、『佐渡ヶ島』が開催場所でした、

この同級会の話題は、『広島、宮島の旅(2007年)』、『鉄と神話の旅(2008年)』『宇宙とフラの旅(2009年)』とブログに紹介してきました。梅爺がブログを書き始めて4年目になることの証(あかし)でもあり、我ながら感慨深いものがあります。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_441d.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_eb9a.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-5d73.html

Dscn8612 白雲山展望台からの両津港、加茂湖の眺め

新潟県の長岡市で育った梅爺にとって『佐渡ヶ島』は身近な場所のはずですが、意外なことに子供のころは訪れたことがなく、2000年8月に、家族で観光旅行したのが初めてでしたので、今度が2度目です。2000年の時は、カーフェリー(片道2時間半以上かかる)で車ごと『佐渡ヶ島』へ渡り、二泊三日で、ほぼ全島を一周しましたが、今度は、ジェットフォイル(水中翼船)で、新潟港を出港して約1時間で両津へ到着しました。

新潟交通佐渡の観光バスをチャーターして、『大佐渡山脈白雲山の展望台』『佐渡金山史跡』『尖閣湾』『七浦巡り(真野地区)』『順徳上皇火葬塚』『佐渡歴史伝説館』『長谷寺(牡丹の名所)』『トキセンター』を観て回りました。宿泊は相川の『ホテル吾妻』で、日本海へ沈む夕陽を眺めながら、和気藹藹(わきあいあい)の宴会を楽しみました。

卒業時は24名でしたが、既に2名が他界され、現在22名が存命ですが、なんと21名が参加という、驚異的な出席率でした。未だ大学で教鞭をとっている仲間や、研究所で研究に励んでいる仲間もおられますが、大半は『リタイヤ爺さん達』です。今回訪れた尖閣湾は、映画『君の名は』の撮影現場で有名で、作者菊田一夫の有名な言葉、『忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心のかなしさよ』の碑がありました。Dscn8630尖閣湾にある菊田一夫の『忘却とは』の碑

人には『忘れてしまいたい』ことがあるのに、忘れることができない哀しさを伝える碑ですが、同級会の驚異的な出席率は、爺さんたちの『忘れずに大切にしておきたい過去』が原因であることは明白です。『忘れたい』『忘れたくない』と矛盾していることを求めるのは、生物としてストレスを避け、安泰を求める脳の本能的な『自己ヒーリング(癒し)』が作用するから、というのが梅爺の推察です。

一瞬にして45年前に戻れる同級会は、爺さんたちにとって、何よりも大切な『癒し』の場であることが分かります。

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2010年5月17日 (月)

分かっちゃいるけどやめられない(4)

善良で、平凡な大衆の生活が、一握りの『欲望や野望』をもった人たちの行動でかき乱され、不幸な状態に陥ることになるという人間社会のパターンは、今もあとを絶ちません。被害を受けた庶民は、『何故私たちがこんな目に会うのか?』と泣き叫んできました。善良で平凡な人たちが、突然解雇されたり、懸命に貯めたなけなしの資産を失ったり、凶悪犯罪や戦争に巻き込まれて命を失ったりします。善良、平凡で思いやりに富んだ人たちが多い社会は、『欲望や野望だけに走る人』や『凶悪犯罪者』が出現し難い社会になる可能性は高いにしても、皆無にすることはできないとすれば、それだけで『安泰』であるという保証にはなりません。一握りの異常な人たちによって、社会が大きな打撃を受けるという、人間社会の特性は、実に厄介です。

アメリカの『サブプライム・ローン』は、不動産の価値が常に右肩上がりで増大するという根拠のない前提で、貧しい人たちに、住宅を供給するという一見巧妙なしかけでした。一時は『貧者の救済策』としてマジックにも見えましたが、前提が破たんしたとたんに、世界中を巻き込む経済不況を引き起こしました。これほど、世界中の人に苦痛をもたらした『サブプライム・ローン』を考えだし、実行した人たちも、もとはと言えば一握りの人たちであったに違いありません。現代社会では、政治的な暴君だけが、好ましくない一握りの人たちでないことが分かります。経済だけでなく、科学の分野でも、一握りの人たちが暴走すれば、世界は大打撃を受ける可能性を秘めています。事前に、このような不都合な『一握りの人たち』を排除する効果的な方法を私たちはまだ見つけていません。

政治的な暴君や独裁者を出さないしくみとして、民主主義が有効であることは、分かっていますが、『誰もがリーダーになれる』可能性が強調されるあまり、今度は、平凡なリーダーしか生まれず、名君が出現し難いという、皮肉な現実に直面しています。

現代社会は、経済、科学、異文化への対応など、多様な要素が複雑に絡み合っていますので、リーダーに求められる資質も、大きく変容しています。そして何よりも、『人間の特性』を知りつくした人物でないと、リーダーとしてのかじ取りはできません。当然ながら、人間の特性は、『友愛』だけでは片がつきません。

『分かっちゃいるけどやめられない』ことを、繰り返していては、将来はないということを洞察し、大衆にそれを理解できるように提示できるリーダーに出現してもらいたいものですが、日本の現状は、それには程遠いものであるように感じます。

『なるほど、これぞリーダーだ』という人が一度出現すれば、それ以降は、その人を越えることが、当たり前に要求されますので、日本のブレークスルーになるのかもしれません。しかし、これは歴史的に人類が繰り返してきた一種の『救世主願望』であり、所詮かなわぬ夢なのかもしれません。

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2010年5月16日 (日)

分かっちゃいるけどやめられない(3)

国家や会社が、『分かっちゃいるけどやめられない』行為を続けるのは、構成要素の個人が『分かっちゃいるけどやめられない』習性をもっている以上避けられないとも言えますが、個人の場合と少し趣が異なることもあり、分けて考える必要がありそうです。

一つは、なんとなく皆で、間違った方向へ、それと知らずに走る場合です。『悪賢い黒幕』が影で操る場合もありますが、多くの場合は、むしろ『善意ながら無能なリーダー』しかいない国家や会社で、この現象は生じます。周囲の環境が変わっていることに気付かず(気付こうとせず)、従来通用した対応を繰り返せばやっていけるという、保守的な考えが主流になり、気付いた時には、もう手遅れの状態になります。または、周囲の環境の変化を感じても、誰も対応策を思いつかない場合もあり、このような時には、『とにかく、頑張ろう』という掛け声だけが、頼りの綱になります。日本の政治集会や労働組合の集会の最後に、全員で『頑張ろう!』とこぶしを突き上げる儀式がありますが、無責任で幼稚な『甘えの構造』の典型に見えて、梅爺は嫌いです。『頑張ろう』というスローガンだけで、窮地を脱した国家や会社の例を梅爺は知りません。皆が『頑張ろう』とだけしか言わなくなった時は、要注意です。

もう一つは、『強力なリーダー』の先導(煽動)で、全員が『分かっちゃいるけどやめられない』行為に走る場合です。『強力なリーダー』は、『洞察力に富んだ傑物』である場合は幸運ですが、多くの悲劇は、『自分の欲望や間違った信念を実現しようとするリーダー』に煽動される場合に生じます。人間の歴史は、このような『暴君』で満ちています。大衆は、暴君に洗脳されて、または、暴君は間違っていると感じながらも恐怖政治の中で護身のために、『分かっちゃいるけどやめられない』行動を続けることになります。

皮肉なことに、現在私たちが『文化遺産』と呼ぶものの多くは、暴君の欲望や信念の実現に、大衆が犠牲を払った結果です。ピラミッドや万里の長城なども、ある意味でその範疇に入りますが、ザクセン王国のアウグスト2世が、執念を燃やした『マイセンの磁器』や、バイエルン王国のルードウィッヒ2世が築城した『ノイシュバインシュタイン城』などは、現在の私たちには、見事な『文化遺産』ですが、当時の大衆にとっては、『殿のご乱行』でしかなかったにちがいありません。

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2010年5月15日 (土)

分かっちゃいるけどやめられない(2)

人間の『分かっちゃいるけどやめられない』という習性は、『個人』レベルの話と、『社会、国家』レベルの話とを、分けて論ずる必要があるかもしれません。

梅爺も、個人としては、自分でも厭になるくらい沢山の『分かっちゃいるけどやめられない』習性から抜け出せないでいます。ものぐさで、『厭なことは先延ばし』は日常茶飯事です。『別に人さまに迷惑をかけているわけではない』と自己弁護しがちですが、梅爺の知らないところで、多くの方に迷惑を及ぼしているのかもしれません。

『法』や『社会常識』に反する行動を個人がすれば、『罰を受ける』ことになるのは、タイガー・ウッズの例を挙げるまでもありません。しかし、『罰を受けない』程度の話では、『自分で自分を律する』他に方法がありません。

『自分で自分を律する』ためのガイドは、世の中に満ち溢れています。親や先生の教え、宗教の教えはもとより、映画を観ても、小説を読んでも、テレビを観ていても、『清く、正しく、美しく』生きることが、どんなに素晴らしいことかという教えは枚挙に暇(いとま)がありません。多くの人は、それを『理性』で、『そのとおりだ。自分もそうありたい』と受け止めます。理性で受け止めた途端、『自分は、清く、正しく、美しくなった』と勘違いする方もおられますが、梅爺のようなひねくれ者は、やっぱり『清く、正しく、美しくない自分』に気付いて、『人間は、そんなきれいごとでは済まされないようにできている』などと、弁解をし始めます。もっと真面目な方は、自己矛盾に悩むことになります。

『分かっちゃいるけどやめられない』ことを、個人レベルで続け、その結果不幸な事態になったとしても、他人を恨むわけにはいきません。渋々でも、その結果は自己責任で受け容れることになります。

しかし、『社会、国家』レベルが、『分かっちゃいるけどやめられない』行為を続けることに関しては、何が抑制機能となるのか、不幸な結果の責任は、誰がとるのか、などは必ずしも明確ではありません。

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2010年5月14日 (金)

分かっちゃいるけどやめられない(1)

冷静に、そして客観的に考えれば、どう見ても『バカげている』行為を、個人も国家も、現在にいたるまで繰り返してきました。それが人間の歴史であり、その意味では、昔より人間は賢くなっているとは言えません。

文明や科学の進歩で、人間は賢くなっているではないかという反論もあろうかと思いますが、それを重視するあまり、少しも賢くなっていない部分がもたらす弊害を見る眼が曇ってしまっているのは、危険なことです。

少しも賢くなっていない部分は、『欲望を制御する知恵』に進展がほとんどないということに由来するのではないでしょうか。『一線を越えてはいけないこと』を『法』で規制しようとしたり、『欲望は悪徳である』という、宗教や道徳の教えを繰り返してきましたが、欲望というマグマの噴出を完全に抑える結果にはつながっていません。

『一般市民を攻撃の対象にしてはいけない』などという、軍事国際法は、とっくの昔に制定されていますが、いざ、戦争になれば、色々な自己弁護で、これは踏みにじられます。第二次世界大戦末期に、アメリカが日本に対しておこなった、焼夷弾による無差別爆撃、原爆投下は、戦争の勝敗に関係なく、国際法違反です。しかし、『戦争を終結させるためにやむを得なかった』という戦勝国に都合の良い論理で、うやむやにされてしまいます。日本を無差別爆撃するために飛来したB29が、日本軍の高射砲で撃ち落とされ、この時パラシュートで脱出した米兵士が、日本軍の捕虜となり処刑されたという事実は、戦後の軍事裁判で、『捕虜の虐待』という国際法違反に問われ、処刑にかかわった日本の司令官は『絞首刑』になりました。数十万人を死に追いやった『無差別爆撃』の違法性は問われず、少数の敵兵に対する『捕虜の虐待』だけが違法という、冷静に考えれば、本末転倒の『バカげた』話です。

『騎士』『兵士』『武士』が敵味方に分かれて、戦闘をしていた時代の、『騎士道』や『武士道』の精神を、近代的な戦争に持ちこもうとしても、もはや通用はしません。これも、冷静に考えれば明らかなことですが、『いかなる戦闘行為も禁ずる』という国際法の制定にはいたりません。『正義のための戦争』や『護身のための戦争』は皆無にはできないとどの国も、感じているからに違いありません。

自分が生き残りたいという欲望のためには、邪魔な相手の事情は配慮しない、または抹殺するという人間の本性を、完全に抑制する手段としては、『法』も『宗教』も『道徳』も、完全ではないことが分かります。欲望のマグマの噴出は、どうしても抑えることができないとしたら、人類は、これによって絶滅することになりそうだということも、冷静にみれば推測できます。

『分かっちゃいるけどやめられない』が、人類の最大の脅威ということかもしれません。何とも困った話です。

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2010年5月13日 (木)

立板に水

上方いろはカルタの『た』、『立板に水』の話です。

立板に水を流した時の、途切れなく水が流れる様子を模して、『途切れなく、言葉が口をついて出る』様子を表現しています。しかし、『話し上手』を賞賛するというより、どちらかといえば『口八丁』で、相手に考える暇も与えずに、言いくるめてしまうという小賢しい人間を非難する時に引用されることが多いように感じます。

人間は不思議なもので、『立板に水』で、売り込みをするセールスマンより、訥々(とつとつ)と噛んで含めるような話し方をするセールスマンの方に好感を抱くことが多いのではないでしょうか。『立板に水』は、何か良からぬことを隠そうとするカモフラージュの手段と感ずるからかもしれません。

そこまで悪意を含まなくても、『立板に水』は軽薄さの表れと受け取られ、逆に『訥々と話す』方が、重厚な存在感の印象を相手に与えることもあります。この『訥弁が醸し出す存在感』を売り物にしていた俳優が、マーロン・ブランドです。マーロン・ブランドとジェームス・ディーンという、アメリカ映画を代表する『存在感を表現できる若い俳優』を発掘したのは、エリア・カザン監督です。エリア・カザンの、『人間を観る目、人物の表現手段』に、梅爺は共感を覚えます。

頭の回転の速い人は、早口になり、書く字は汚いとよく言われます。考えをいち早く口にしたいために早口になり、字の体裁などに気をを配るのは、時間の無駄と考えているから字が汚くなると観れば、一理があります。脳の思考速度は、話す速さに優りますが、それでも話す前に、内容の論理構成に矛盾がないか、選択した言葉が適切かを、チェックし終わっている人は、優れた資質の持ち主であると言えます。モーツァルトの直筆の楽譜には、ほとんど修正の跡がないことから、彼は、楽譜を書きつける前に、頭の中で『音楽ができあがっていた』と考えられています。まさに天才の所業です。寅さんの香具師(やし)口調や、講釈師の『立板に水』は、繰り返し練習したものの再現ですから、本当の『立板に水』とは言えません。

『男はだまってサッポロビール』という広告のキャッチフレーズが昔ありましたが、江戸時代の男は、特に武士は、『チャラチャラ話をする』ことは、はしたないと考えられていたことが、『立板に水』という諺を産み出す背景にあったのかもしれません。自分の意図を言葉にして、相手に伝える手段として、『立板に水』と『訥弁』のどちらが効果的かは、一概には決められませんが、『重厚にゆっくり話す』ことで損をすることは少ないように梅爺は感じています。

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2010年5月12日 (水)

アルマゲドン(4)

ユダヤ教およびそれから派生したキリスト教、イスラム教では、『善悪の根源』を人間の『外側』に存在するものとしているのに対し、基本的に、仏教では『善悪の根源』は人間の『内側』に存在するものとしていることが、大きな違いのように思います。『外側』に存在するものであると考えると、『神と悪魔の対決』や『アルマゲドン』の『善悪の一大決戦』などという発想につながっていきます。もっとも、仏教も布教の過程で、その土地の土俗的な宗教が融合していったために、その違いが判然としなくなってしまったところもありますが、釈迦の教えの基本は、『善悪の根源』は、人間の中にあるというものであったのではないでしょうか。

梅爺のように、生物は元々、生存のために、善悪とは無関係な『都合の良い手段を採用する』ことから始まり、やがて人間のように、『やってはいけないこと(結局自分に不利益をもたらすこと)』を、『悪』という抽象概念でひとくくりにできる能力を取得した、と考える者には、仏教の考え方の方が、『理』にかなっているように見えます。つまり、人間は生物として、『善悪を併せ持つ』宿命を引き継いでいると考えたくなります。

しかし、宗教にとっては、『善悪の根源』が、『外側』にあるとした方が、説明が容易であり、宗教の権威を維持しやすくなります。人間が『悪』に染まるのは、『悪魔』や『悪霊』にとり憑かれるためで、時には病気さえも、このためだという説明になります。これを避ける方法は、『善の根源』である『神』をひたすら『信ずる』しかないと教えますから、人間の神への信仰が深まることになります。

『外側』であろうが『内側』であろうが、『善人』になればよいではないか、ともいえますが、『外』に頼るしかないと考えるか、『自らの努力』しかないと考えるかは、大きな違いになります。

梅爺のような人間は、人間はそもそも『善悪を併せ持つ存在』であることを宿命と是認し、自分の理性や感性を総動員して、なんとか『悪』が表に出ないように努力して振舞うようにしなさい、と教えられた方が、すんなり『善人』になることの意味を受け容れることができます。自分が悪いことをするのは、自分の弱さのせいで、『悪魔』がそのとき乗り移ったからなどと、他人のせいにする言い訳はなんとか避けたいと考えます。

しかし、理屈はそうですが、実際には人間は『自分を完全に抑制できない』からこそ、最後は『神や仏』に『すがる』のではないか、と言われれば、『それもそうだ』と気持ちが動揺します。『自分で踏ん張る』より、『神や仏にすがる』方が、気持ちが楽になるにちがいないと思うからです。いずれにせよ、人間が『善人』になるのは、生易しいことではないことだけは確かです。

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2010年5月11日 (火)

アルマゲドン(3)

自然界に存在するものは、現状の姿を、恒久に、そのままの姿で留めることができない、ということは、現状の科学知識を動員して『推論』することができます。地上の全ての生物はもとより、宇宙の星にも、生誕と死があることが分かっています。人間の『死』は、『精神活動』という、物質的な価値観では評価できないものが消滅するという大きな意味を持ちますが、それ以外は、味気ない表現で恐縮ですが、物質の組成としては『変化』に過ぎません。地球生物のエネルギー源としての太陽も、やがては燃え尽き、従って、地球の生物が生息できない時が訪れることも、『分かって』います。ただし、これは、数十億年先のことなので、私達の心配事の中の優先度が低いだけです。

しかし、『やがて世の終わりが到来し、その時、善と悪の一大決戦があって、善が勝利する』という『アルマゲドン』の考え方や、『世の終わりには、キリストが再び地上に降臨し、全ての人を裁く』というキリスト教の教義は、『推論』ではなく、『ご託宣』に近い話ですので、『本当かどうか』は、論理的な議論の対象にするには無理があります。『誰も世の終わりを体験した人はいない』からです。梅爺は、『そういうこと(世の終わりにおける善悪の一大決戦)はないだろう』と『感じ』ますが、勿論『ない』と断言できる根拠を持ち合わせません。

しかし、人間がこのように『空想』することには、理由があり、そこに『人間の願望』が関わっているように思います。『善と悪の一大決戦があり、悪が勝利する』という、論理的には逆の帰結も考えられるはずですが、それは『願望』に反することですので、そういう『空想』は、一般には、信ずる対象としても受け容れられないのではないでないでしょうか。多くの人は、善に勝って欲しいと『願い』、勝つだろうと『信じて』います。

人間が苦境に耐えて生きていくときには、『いつかはこの状態が終わる。終わって欲しい』と強く願います。夜や冬は何時までも続くわけではない、というアナロジーから、苦境もやがては終わると信じます。他民族に蹂躙され、生活の中心である自分達の神殿までもが破壊されたユダヤ民族は、『やがて、自分達の神が統治する時がくる(神の国の到来)』という『願望』を頼りに、生き抜こうとしたことは、容易に想像できます。古代ユダヤ王国の崩壊後の時代、およびキリストが生きていた時代(ローマ帝国の支配下)は、まさしく、ユダヤ民族の受難の時代でした。『世の終わりの到来』『神の国の到来による審判』『救世主の出現』という思想が、特にユダヤ民族の中に強く存在する理由は、このことに由来するものと梅爺は考えています。

何度もブログに書いてきたように、梅爺は、『善』と『悪』という概念は、人間が考え出したもので、『絶対的』なものではないと思っています。自然界には、地震や台風のように、人間には『不都合なこと』はありますが、人間の世界で通用する『善悪の概念』は存在しないように見えます。つまり、自然界においては、地震や台風は『悪』の象徴ではありせん。人間が地球上から姿を消せば、『善悪の概念』も消滅するのではないでしょうか。

人間は、自分達が考え出した『善悪の概念』を、宇宙空間に存在する『絶対的なもの』と拡大解釈し、『善の象徴の神』『悪の象徴の悪魔』をも、考え出したのではないかと思います。

梅爺は、人間個人や人間社会にとって、『善悪の概念』は無意味だといっているわけではありません。むしろ、最も重要なことの一つであろうと思います。自分の中の『矛盾』を、どちら寄りに律していくかということの、指針として欠かせないからです。

しかし、この概念を、宇宙空間に存在する『絶対的なもの』にまで拡大することには、疑問を感じています。

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2010年5月10日 (月)

アルマゲドン(2)

『アルマゲドン』は『ヨハネ黙示録』の著者が考え出した空想の名前かと思っていましたが、これは、『メギドの丘』を表すヘブライ語の名称で、『メギド』は、現在もイスラエル北部高原に実在する地名であることを知りました。

考古学的な調査で、『メギド』には、紀元前5000年頃から、人が住んでいた痕跡が残っています。東方の『バビロニア』、北方の『ヒッタイト』、南方の『エジプト』を結ぶ古代交通路の交点にあり、『メギド』は重要な戦略拠点として、各勢力が支配下におこうとしのぎを削っていたことも分かっています。

ダビデによって建国された古代ユダヤ王国は、3代目のソロモン王の時に最盛期を向かえ、ソロモン王は、南に位置する首都エルサレムを防衛するために、『メギド』に堅固な要塞を築きました。高い石の城壁に守られ、数千人の兵士が、持久戦にも耐えられるように、食料の貯蓄や、遠い水源地から、地下水道路で水を引き、地下の貯水池に豊富な水を蓄えるなどの準備もできていました。紀元前900年ごろのことですから、その高い土木技術には驚きます。

ソロモン王は、大神殿をエルサレムに建築しました。ユダヤ民族は、『神との契約』を全ての生活基盤としていましたので、農民は、農作物の収穫があっても、大神殿に一部を奉納してからでないと、自分達は口にできないというほどでした。

その後、エジプトのファラオが、バビロニア征伐に向かう途上、軍隊が『メギド』を通過できるようにして欲しいと、古代ユダヤ王国のヨシュア王に頼みますが、このとき、ヨシュア王は対応戦略を誤り、要請を拒絶して、ユダヤ軍とエジプト軍が『メギド』で戦い、ユダヤ軍は完全敗北し、ヨシュア王も殺されました。エジプト軍は『メギド』の要塞を破壊したばかりではなく、エルサレムにも侵攻し、ユダヤ教の大神殿も徹底破壊しました。

王国ばかりか、生活の支柱である大神殿を失ったユダヤ民族は、これを機に各地へ離散することになりました。『流浪の民』の運命がここに始まったと歴史学者は観ています。

キリストの生まれる直前の頃、ヘロデ王によって、エルサレムの大神殿は再建されましたが、キリストの死の直後の『ユダヤ戦争』で、この神殿もローマ帝国の軍隊に、徹底破壊されました。現在は、『嘆きの壁』などに、その名残を見るだけになっています。

『ヨハネ黙示録』の著者は、旧約聖書の内容や、ユダヤの歴史に詳しかったと推察されますので、未来の『善と悪の一大決戦の地』を、『メギドの丘(アルマゲドン)』としたのではないかと、歴史学者は考えています。

『ヨハネ黙示録』は、旧約聖書を模倣した『予言の書』なのか、『文学作品(現在風に言えば未来空想小説)』なのかと、これまた評価が分かれていますが、『この世の終わりが近い』という考え方は、その後人類に大きな影響を及ぼし続けてきたことは確かです

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2010年5月 9日 (日)

アルマゲドン(1)

キリスト教の歴史には、同一名称の異なった人物が登場し、よほど精通した人でないと、頭が混乱します。精通している学者のような人たちでさえも、同一人物なのか、異なった人物なのかを巡って論争があるくらいなのですから、梅爺のような中途半端な知識しか持ち合わせない人間が、混乱するのは当然です。

『イエス・キリスト』も、わざわざ『救世主(キリスト)のイエス』と特定していることで分かるように、当時のユダヤ社会では、『イエス』という男性の名前は、ありふれたものでした。女性の名前の『マリア』も同様ですので、『聖母(処女)マリア』『マグダラのマリア』などと、形容句をつけて区別されます。後世の宗教画の中では、着衣の色を特定して、色を見れば『聖母マリア』と分かるようなルールや配慮が確立しました。

男性名の『ヨハネ』『ヤコブ』『ユダ』などもありふれた名前でしたので、どの人物であるかを特定して歴史を観る必要があります。

特に議論の多い名前は『ヨハネ』で、『洗礼者(キリストに洗礼を施した)ヨハネ』は、特定できますが、『使徒ヨハネ』『ヨハネ伝の著者』『ヨハネ黙示録の著者』が、同一人物なのか、それぞれ異なった人物なのかは、はっきりはしていません。『ヨハネ』は英語名は『John』です。前に『ヨハネ伝』の冒頭部分について、ブログを書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_8650.html

新約聖書に収められている『ヨハネ伝』と『ヨハネ黙示録』は、原典は1世紀末か2世紀始めに書かれたものと推定されています。一方『使徒ヨハネ』は『12使徒』の一人で、『イエス』が特に愛した『若者』とされていますので、著者であるとすれば、執筆時は、かなりの高齢(90歳以上?)であったことになります。『イエス』の処刑は紀元30年前後ですから、この当時『ヨハネ』が20歳前後の『若者』であったという前提での推測です。

4大福音書の著者達は、いずれも『イエス』と行動をともにした経験がない人たちで、『伝承』をベースに福音書は書かれたという説もあり、もしそうなら『使徒途ヨハネ』と『ヨハネ伝』『ヨハネ黙示録』の著者は、別人と言うことになります。

更に、『ヨハネ伝』と『ヨハネ黙示録』の著者は、同一人物か、異なった人物か、という話になると、諸説があり、これも判然とはしません。

『ヨハネ伝』は、著述内容が『哲学的』で難解であることで有名であり、『ヨハネ黙示録』は、キリストの伝記や使徒達の行動録ではなく、未来のことを記述した『預言書』的な内容で、新約聖書の中では異彩を放っています。キリスト教の教義が確定した4~5世紀以降も、『ヨハネ黙示録』の扱いについては、キリスト教の内部でさえも、解釈を巡って色々な意見が存在し続けてきました。

特に『ヨハネ黙示録』の中にある『アルマゲドン』に関する記述は、『世界の終焉』を記述したもので、『善』と『悪』の最後の一大決戦を予言したものとして有名です。『末世の到来』は、『救世主の到来』とともに、紀元前2000年ごろから、ユダヤ民族に根付いていた思想で、旧約聖書の重要なメッセージの一つです。『末世思想』は、仏教など他の宗教にも見られる考え方で、特に『アルマゲドン』は、最近のいかがわしいカルト宗教でも、頻繁に引用されています。日本の『オーム真理教』もこれを唱えました。『アルマゲドン』が間近に迫っていると言われれば、何となく心配になりますので、この人間心理を巧みに利用した宗教、小説、映画が沢山出現することになります。

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2010年5月 8日 (土)

小説『ガブリエル・フィリップスの生と死』(3)

信仰で人間は、別人格に生まれ変わることがあることを、この小説は例示しています。『犯罪者』が『聖人』に変わるという劇的な変化ですから、読者も、『本当にそんなことがあるのだろうか。何か裏があるのではないか』と半信半疑で読み進むことになります。主役の警官が、『信仰は偽装』と疑ったのも無理からぬ話です。

容疑者である父親は、死刑判決が下されても、『全て神がご存じ』の一点張りで、動じません。教会の仲間から減刑の嘆願がなされ、審議された時も、特に弁明をしようとしません。死刑執行の日が近づいても、『全てを神の意志として受け容れる』という柔和な雰囲気は変わることが無く、むしろ監守たちの方が、感化されて、『この人が本当に殺人犯なのか』と疑うようになっていきます。

『信仰によって生まれ変わった人間』の周囲は、すべてハッピーかというと、そうではないことが、この小説では描かれます。信仰は、価値観の違いの典型例ですから、周囲が戸惑ったり、不幸になったりすることもあるのでしょう。影響を被(こうむ)ったのは、容疑者の妻(死んだ男の子の母親)です。夫は、最初の刑務所生活で、信仰者に変わり、出所してきますが、教団の布教活動に没頭し、家に居つかなくなります。その上、突然浮浪者や売春婦まで、家へ連れてきて、食事や寝泊まりの面倒を見ようとしたりします。堪りかねた妻は夫に、『私とキリストとどっちをとるのか』に迫ります。夫の答えが『キリスト』であると知った妻は、離婚を決意し、精神状態が不安定であった時に、警官と出合い不倫が始まることになります。結局この妻は、自分の離婚や不倫が、息子を死に追いやった原因と、罪の意識に苛(さいな)まれ、ピストル自殺をしてしまいます。

この小説の最後には、『どんでん返し』が用意されています。結論だけを申し上げれば、警官の巧妙な計略で、容疑者の父親は死刑執行を逃れ、刑務所からの逃亡にも成功します(後に再審議され無罪になります)。しかし、警官は、逃亡幇助罪で、今度は自分が刑務所暮らしをすることになりますが、獄中から自分が昔捨てた妻子へ『罪の許しを請う手紙』を書き続けることになる、というところで、小説は終わります。

信仰の、ある一面を、単純に強調しすぎているきらいはありますが、『人は罪の意識で、なぜ悩むのか』『どこまで他人を赦(ゆる)せるのか』『運命は全て神の意思なのか』そして『信仰とは何か』を考えさせる小説で、梅爺は結構堪能しました。

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2010年5月 7日 (金)

小説『ガブリエル・フィリップスの生と死』(2)

主人公の警官は、妻子を捨てて家を飛びだした前歴の持ち主です。『子供嫌い』で、『子供は要らない』と宣言していたにも関わらず、妻が妊娠して堕胎を拒んだことに腹を立てたことが原因です。

しかし、この警官は、不倫相手の子供(ガブリエル・フィリップス)には、何故か愛着を感じ、一緒に野球を観戦に行ったりします。妻子を捨てた過去に対する罪の意識がそのように振舞わせたのかもしれません。

『何か事件があったらしい』という住民の通報で、駆け付けた現場で、警官は、男の子が頭から血を流して死んでいるのを発見し、それが、不倫相手の面識のある子供本人であることを知って愕然とします。同居の父親は、『子供が悪夢にうなされ、2段ベットの上段から落下し、運悪く半開きになっていた箪笥の引き出しの角に頭をぶつけた』と、全くとり乱したところがない様子で、冷静な説明をします。当然、その父親が、自分(警官)の不倫相手の離婚係争中の夫であることに気付きます。

通報を受けた母親は、『あの人(別居中の夫)がやった』と叫び、警官もあまりに異常に冷静な父親の対応に不審を抱き、妻の不倫への復讐として、父親が男の子を殺害したに違いないと思い込み、捜査を開始します。捜査の過程で、父親に不利な状況証拠が沢山あらわれ、その上、この父親は、犯罪の前歴があることも判明します。世間が注目するこの事件を利用して、地方検事から州の検察長官へ出世を目論む人物が現れ、事件は裁判へ持ちこまれます。

裁判で、容疑者の父親は、『私はやっていません。真実は神様がご存知です』というだけで、それ以外の弁明は一切しようとしません。結局、判決は『有罪、死刑』ということになります。

警官は、父親が犯人であるという確信を抱いていますが、『真実は神様がご存じです』とだけ言い、冷静に振舞う父親のことが気になって、頭から離れなくなります。そして、この父親が以前刑務所に収監されていた時に、囚人仲間と喧嘩をし、相手に瀕死の重傷を負わせたにも関わらず、その相手が『お前を許す』と告げた事件があったことを知ります。これを機に、父親は刑務所の教戒士の話を聞き、聖書を読んで、熱心な信仰を持つにいたったことも知ります。

しかし、警官は、この父親が、『悪人の素顔を隠すために、熱心な信仰者を装って世を欺こうとしているにちがいない』という偏見から逃れることはできず、刑務所を訪れて父親に面会し、『実は私が息子を殺しました』という本人の自白を何としても取り付けようとしますが、父親の態度は変わらず、むしろ『あなたは、自分のせい(不倫)であの事件が起きたと罪の意識をお持ちですね。私は、妻もあなたも許しています』と逆に諭され、自信が揺らいでいきます。

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2010年5月 6日 (木)

小説『ガブリエル・フィリップスの生と死』(1)

梅爺夫婦が、昨年5月から6月にかけて、米国アトランタ近郊に住んでいた息子一家(今年4月に、日本へ転勤帰国)を訪ね、その折、ショッピング・モールの書店で、2冊の小説を購入した話は、前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/the-third-angel.html

『2冊買えば、2冊目は半額!』という書店の広告に、まんまと乗せられ、タイトルも著者も知らない本を、直感で選んで購入しました。

2冊目がこの『The Death and Life of Gabriel Phillips(ガブリエル・フィリップスの死と生):Stephen Baldwin著』という本です。

『無法松の一生』や『放浪記』などのように、ガブリエル・フィリップスという男の数奇な人生を描いた小説であろうと予想して読み始めましたら、その予想は見事に裏切られてしまいました。なんと、ガブリエル・フィリップスは8歳の男の子で、小説の前半早々に、不審な死を遂げてしまうのです。

この小説は、男の子の不審な死にかかわる、何人かの大人たちの人間模様を描いたものであることが分かりました。離婚調停中で目下別居状態にある男の子の両親、それに不審な死の犯人は、男の子の父親であろうと狙いをつけて捜査に当たる警官の3人が、主役です。

警官は、別居中の男の母親と不倫関係にあり、生前の男の子とも面識があるという、込み入った設定になっています。男の子は、別居中の両親の間を行ったり来たりしていましたが、死の当日は父親と一緒の日で、通報をきいて駆け付けたのが上記の警官である、という現実に考えると稀有な『偶然』を前提としたストーリー展開です。

松本清張の推理小説にも、このような『稀有と思える偶然』がよく登場しますので、梅爺は『いくらなんでも、それはないだろう』とブツブツ言いながら読んだ記憶があります。今回も『またかよ』と思いながら読み続けましたが、最初の偶然の設定以外は、不自然なことは少なく、むしろ、細部のリアリティで破たんがない、見事な構成になっていることが分かりました。

犯罪捜査の『推理小説』でもあり、『法廷小説』でもあり、更にどす黒い出世欲がからむ『政治小説』でもあるという、サービス精神旺盛な小説ですが、本当の主題は、『信仰はどれだけ大きな影響を人間にもたらすか』ということであることが、最後に判明するしかけになっています。

英語の文体も平易で、気取ったところや、難しい語彙の多用もありませんので、英語の小説を読んでみたいと思っておられる方には、最初に挑戦する本としてお薦めできます。

『人間は、どうして罪の意識を持ち、それに苛(さいな)まれるのか』『他人の罪をどこまで許せるのか』『他人を色眼鏡で見ようとするのはなぜか』などが、作者が提示している問題意識です。意外な結末が待ちうけていて、読者は、『フーン、なんと人間は複雑なのだろう』と再認識することになります。勿論『信仰は、人間を善良に変える』というポジティブなメッセージで終わりますので、読後の『後味』は悪くはありません。

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2010年5月 5日 (水)

個と全体(6)

コミュニティのリーダーが、一致団結のために、用いる代表的な手法が『危機意識や恐怖心を煽る』ことです。勿論、それが当を得ていることもありますが、誇張され、悪用されることもあります。脅される側の個人も、思い当たることがあったりすると、リーダーの言葉を信じ、受け容れることになります。

『911』事件の後、アメリカが、『テロ撲滅戦争』遂行で一色に染まったのも、ネオコンの側近の進言に従ったブッシュ大統領の言葉や政策を、国民が圧倒的に支持したからです。大国の自尊心を傷つけられたための復讐心もありますが、テロの標的になる恐怖心が根底にあったからでしょう。

日本も、仮に北朝鮮のミサイルが、一発でも領土に打ち込まれれば、同じように、『戦争反対』を叫ぶことが憚(はばか)られるようなな状況にならないとは限りません。

政治ばかりではなく、広告もこの『恐怖心を煽る』方法をうまく利用しています。『加齢臭は鼻つまみ』などと言われれば、梅爺のような老人は、身の置き所がありませんから、『消臭スプレー』の広告を見れば、買わなければいけないという脅迫観念に襲われます。『メタボは万病の元』と脅かされれば、ダイエット用食品、サプリメント(薬品)、器具などが、飛ぶように売れることになります。

『恐怖政治』で、個人をがんじがらめに縛りつけ、コントロールしようという、為政者や経営者が、現在でもいないわけではありませんが、一見『民主主義』を装いながら、実は、それとなく心理的に個人の『不安、恐怖』を煽り、コントロールしようとする、リーダーも後を絶ちません。

『情』と『理』の高度な組み合わせ処理能力を獲得した人類は、その分、『不安』や『孤独』にめっぽう弱いという弱点を持つことになりました。世の中には、この弱点につけ込んで、全体のために個人をうまく操ろうという巧妙な、『しかけ』が沢山あると猜疑心の強い梅爺は、感じています。

もっとも、仕事の現役時代は、この『しかけ』を考える側に、梅爺は加担していたとも言えますので、今になって、突然オリコウサンのようなことは言えません。それに、『わしは、騙されんぞ』と言いながら、今でも巧妙な手口に何度も騙され続けているわけですから、同じく偉そうなことも言えません。

それ故、『All for One, One for All』などという、個と全体の関係の理想像は、スポーツの世界の一部にしかないのではないかと、疑っています。

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2010年5月 4日 (火)

個と全体(5)

マイケル・ムーア監督は、初来日で、念願であった広島を訪問し、原爆記念館を見学した感想を以下のように語っていました。正しく書き留めたわけではありませんので、少々のニュアンスの違いはあるかもしれません。

『自分が、世界で唯一原爆を実戦で使ったアメリカの国民であることを改めて実感しました。自分の父親は、第二次世界大戦で、沖縄上陸作戦に加わった兵士でした。その後、その部隊は、日本本土上陸作戦に向かうことになっていて、これに参加する半数のアメリカ軍兵士は、日本軍の抵抗で戦死すると推測されていました。しかし、原爆が投下され、終戦となり、この作戦は実行されませんでした。もし、原爆の投下がなく、本土上陸作戦が実行されていたら、自分の父親は戦死し、現在の自分は無かったかもしれません。しかし、現在の自分の存在価値は、広島で亡くなった20万人の方の命を代償とするほど尊いとは思いません。当時戦争の趨勢は決しており、原爆を使う意味が本当にあったとは思えません』

大半のアメリカ人は、『戦争を終結させるために、広島、長崎の原爆投下は必要であった』と単純に考えているのとは大きく異なるコメントで、マイケル・ムーア監督の器の大きさがわかります。イラクの『大量殺戮兵器』の影に、あれほど怯えたアメリカが、実は世界で唯一『大量殺戮兵器』を、一般市民を対象として使用した国であるという矛盾を、多くのアメリカ人は感じていないように見えます。オバマ大統領が、来日の折に、スケジュールが立たないという理由で、広島、長崎を訪問しなかったのは、残念なことです。

為政者は、自分や自国を擁護するために、都合がよい論理を考え、国民(個人)を洗脳しようとします。その論理の都合のよさや矛盾を、鋭く嗅ぎ分けることができる個人が、あるレベル以上の割合で存在し、更に異論を唱える自由が保障されている国が、文明度の高い国と言えるのではないでしょうか。つまり、『個と全体』の関係やバランスを理解できる『個』が多いことが文明国の条件であろうと思います。『自分で考える能力』を身につける教育が、いかに重要であるかがわかります。

為政者やメディアの煽動で、国民が右往左往しやすいアメリカや日本は、まだまだ文明度が未熟なのかもしれません。

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2010年5月 3日 (月)

個と全体(4)

反骨のドキュメンタリー映画監督マイケル・ムーアの原点は、父親が勤めていたGMのフリント工場(ミシガン州)が、日本車の市場攻勢に敗れて閉鎖になり、フリントの町がゴースト・タウンになってしまったことにあります。最初の映画は、当時のGM最高経営責任者ロジャー・B・スミスに突撃インタビューをした『ロジャー・アンド・ミー』でした。

その後、彼の作るドキュメンタリー映画は、劇場公開して、商業的に成り立つことが証明され、アカデミー特別賞を受賞しますが、表彰の舞台挨拶で、ブッシュ大統領(息子)のイラク、アフガニスタン侵攻政策に対して、『恥を知れ』と怒鳴り、賞賛とブーイングを両方浴びました。

当時のアメリカは、『911』事件でプライドが傷つけられ、更なるテロに怯え、やられたらやり返せと愛国心一色に染まっていた時ですから、彼は『非国民』であると、ののしられ、脅迫されることになりました。この時代のアメリカの状況を、彼は『華氏911』というドキュメンタリー映画にして2004年に発表し、カンヌ映画祭で最高賞を受賞しています。

『911』の被害者の家族が、戦争反対を表明した時に、アメリカ国民一般から『非国民』として迫害された様子は、前に『Peaceful Tomorrow』というブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/peaceful_tomorr.html

都合の悪い人間に、『非国民』『異端者』というレッテルを貼る行為はアメリカばかりの話ではなく、昔も今も変わりがありません。価値観の違いで、同じ人間が『非国民』にも『愛国者』にもなるということに気づているのは、理性的な人です。

マイケル・ムーア監督の最新作は『キャピタリズム、~マネーは踊る~』で、アメリカを蝕(むしば)んでいる資本主義を真っ向から取り上げたものです。

『1%の金持ちの資産総額が、残りの99%の人たちの総資産総額より大きい』という現実は、民主主義の原則からしても『おかしい』という単純な視点で、問題提起をしています(梅爺はこの映画を観ていません)。

この映画のキャンペーンのために初来日した、マイケル・ムーア監督に、NHKがインタビューする番組を梅爺は観ました。過激な映画手法からは想像できない、穏やかで、はにかみがちに語る様子や、その受け答えの内容に、梅爺は好感を持ちました。

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2010年5月 2日 (日)

個と全体(3)

『ガラス張りの政治』などと、為政者は口当たりの良いことを言いますが、社会や国家には『闇の部分』が付きまといます。個人は、この『闇の部分』を知らされていないか、知らされていないだけでなく、それと知らずに加担している場合さえあります。

『闇の部分』を暴く可能性を一番秘めているのは、『ジャーナリズム』です。田中角栄の『ロッキード疑惑』は、立花隆によって、ニクソン大統領の『ウォーターゲート疑惑』は、ボブ・ウッドワード、カール・バーンスタイン(いずれも当時ワシントン・ポスト紙の記者)によって暴かれました。本来最初に行動すべき司法は、国民の怒りの高まりに、あわてて、事後に対応することになりました。『ジャーナリズム』は、いつもいつもこのような『白馬の騎士』ではなく、時によっては、為政者を擁護することもあります。為政者も心得ていますので、『ジャーナリズム』を利用しようとします。日本が、戦争へと突き進んだのは、一部の軍国主義者のせいだけではなく、新聞の論調に乗せられて、多くの国民が『断固戦うべし』と叫んだという事実を忘れてはなりません。

『言論の自由』がなければ、闇の追及はできませんので、近代国家では、不可欠な個人の権利です。経済的に躍進する中国も、その意味では近代国家にまだ到達していません。しかし、民主国家においても『言論の自由』を逆に利用して、国民を操ろうという人たちがいることを、常に警戒する必要もあります。

現代のアメリカの『闇の部分』を、果敢に暴きだし続けているのが、ドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーアです。過激とも言えるほどの手法で、核心へ迫っていきますので、敵も多く、身の危険にさらされることもあるようですが、ボサボサ髪、縁太メガネ、野球帽、ジャンパー姿で、巨体をゆすりながらヨチヨチ歩く彼の姿は、どこか愛嬌があり、風貌が護身に役立っているのかもしれません。敵も『しょうがない奴だ』と言いながら、許してしまうところがあるのでしょう。

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2010年5月 1日 (土)

個と全体(2)

個人の期待や希望と、全体の求める事情との間には、通常大きな乖離(かいり)があります。不幸にして身体障害者を家族に持つ一家は、そうでない一家と同じように行動することはできません。親の老後の面倒をみるために、嫁に行きそびれる娘もいます。出世を夢見て入社をしても、誰も役員や社長にはなれるわけではありません。スター選手を目指して、プロのスポーツ選手の道を選んでも、多くは下積みで終わります。

家族、チーム、会社といった、個人が属するコミュニティが、身近なものである場合は、全体が要求する事情が、個人にとって不都合、理不尽なものであっても、個人はその事情の背景を『理解』することができますので、悩んだとしても、自分が行った選択の責任をとることができます。つまり、夢を放棄せざるを得ない事情を、渋々であれ受け容れることができます。

問題は、個人が属するコミュニティの規模が、『社会』『国家』『グローバル世界』と大きくなるにつれて、全体が個人に求める不都合、理不尽な事情が、個人には『見えにくくなる』ことです。個人は『なんとなくおかしい』と感じたり、時にはそれさえ感じずに、全体の事情の中に巻き込まれていきます。国民が、戦争に巻き込まれていくというような不幸は、多くの場合、このような背景で発生します。

最も悪質な場合は、為政者が、全体の不都合、理不尽の覆い隠すために、巧妙な発言をしたり、メディアを利用して情報を操作したりすることです。多くの個人は、これに騙されたり、『全体のためには受け容れざるをえない』と自分に言い聞かせたりします。

為政者が、自分の権力の座を維持するために、このような行動にでるのは、将軍様が支配する北朝鮮のような、独裁国家や、一党独裁の中国のような社会主義国家だけの話ではありません。民主主義国家でさえも、多かれ少なかれ、この問題を内包しています。アメリカ、ヨーロッパの国々、日本も例外ではありません。

すっかり疑い深くなってしまっている梅爺は、為政者が『国民の皆様のために』と言った時には、為政者がそういうありきたりの言葉しか思いつかない『アホ』なのか、何かを覆い隠そうとしているかの、どちらかに違いないと、考える習慣が身についてしまっています。

『生活が一番』を標榜する政党の幹事長が、何やら後ろめたそうな巨額な金を使って、こっそり不動産売買で利殖を目指しているなどというのは、まだ底の浅い話で、多くの場合為政者は、もっと巧妙な方法で個人を騙したり、操作しようとします。

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