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2010年4月30日 (金)

個と全体(1)

『三銃士』や、ラグビーのチームが、戦う前に『All for One, One for All』と気勢を挙げるのを聞くと、『洒落たことを言うなぁ』と感心しますが、『All for One, One for All』とは具体的に何を意味するのかを、よくよく考えてみると、必ずしも判然としません。

部品で構成される装置のようなものは、『部品は装置のためにある(One for All)』で片づけられますが、One が人間の個人を意味する時には、そう簡単には、割り切れません。

個人と、家族、チーム、会社、社会、国家、世界との関係は、確かに『All for One, One for All』ならば理想的ですが、現実には、個人は無視されたり、無視はされないまでも、全体の中で犠牲を強いられることが多いように感じます。

『お前が生きていけるのは、周囲があってのことなのだから、少々の事は、我慢して耐え忍べ』という教えも、ごもっともですが、何もかも耐え忍んでいると、全く個人の存在価値がないことにもなりますので、我慢にも限界があります。つまり、『少々のこと』とは、どこまでなのかが判然としません。

個人によって、我慢の限界が異なりますので、同じ事態に遭遇して、離婚する夫婦と離婚しない夫婦がいたり、会社に辞表を出す社員と出さない社員がいたりします。どちらが正しいかを決める客観的な尺度はありませんので、個人は、自分のとった行動の責任を、以後負うことになります。

人間の場合、なぜ個人と全体の関係が複雑になるのかという理由は、個人そのものが『理』と『情』に支配されていて、そもそも複雑、多様であるということに由来するのだと気付きます。個人は、装置の部品のように、どれも同じではありません。部品の交換をしても装置は、元通りに動作しますが、個人のすげ替えは、全体に大きな変化をもたらします。

『All for One, One for All』は、時に部品のように、個性を殺して全体のために振る舞い、時には逆に個性を最大限に発揮できるように、全体が支援する、という難しいことを要求していることになります。

個人が、今どちらで対応すれば良いかを、自分で判断できる能力を持っていて、全体も、個人のそのような対応を評価する仕組みが備わっているというのが、理想的な関係ですが、残念ながら、多くの場合、個人も、全体もそのような能力や仕組みに欠けていて、ギクシャクした関係になるのではないでしょうか。

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2010年4月29日 (木)

トーマス・モア(4)

民主国家では、個人が考え方、意見、知識を公に表現する権利が基本的に認められています。基本的にと云ったのは、無限に認められてはいないということで、その社会が『公序良俗に反する』『多くの人の生命を危うくする』『特定個人の不当に誹謗する、プライバシーを侵害する』行為と考えられるものは、『法』で規制されます。

しかし、何が『公序良俗に反する』かを判定することは易しくありませんので、裁判で決する時もあります。裁判が正当に機能しない社会は、いくら『表現の自由』を認めると言っても、民主国家の基盤が危うくなります。特定のイデオロギー、宗教、独裁者に支配され、裁判にもその影響が及ぶ国家は、民主国家とは云えません。

民主国家で、為政者の悪政や非道を批判する最も効果的な方法は、マスコミ(ジャーナリスト)による糾弾です。しかし、マスコミが常に『白馬の騎士』であるという保証はありません。マスコミによる誤った煽動は、為政者の悪政同様に社会に害を流します。為政者もマスコミも、聡明で高い倫理観を保有していることが理想ですが、現実は民主国家と呼ばれる国でも、そのような理想とは程遠い状態にあります。

『国民には知る権利がある』などといくら叫んでみても、国民は、為政者やマスコミに比べて圧倒的に情報量で不利な状況に置かれます。したがって、最低限為政者もマスコミも正しいとは限らない、国民を誘導しようとしているかもしれなという前提で接する必要があります。しかし、現実には為政者の発言やマスコミ報道で、国民は右往左往するわけですから、これも簡単な話ではありません。

為政者、マスコミ、国民がいずれも聡明であれば、個人が『死を決して諫言(かんげん)する』必要などない社会になりますが、実態は、いずれも人間である以上価値観やその優先度が異なりますので、社会が存在する限り、誰もが少なからず『どうも住みにくい世の中だ』とブツブツ云いながら生きていくことになるのではないでしょうか。

『自分の信念に殉ずる』というトーマス・モアのような行為は時に気高くもあり、時に危険でもあります。『信念』と『命』の重さを、客観的に比較することが誰にもできません。アルカイダのテロ実行犯人のように、自分ばかりではなく他人の命も犠牲にする『信念』を人間は保有することがあるからです。聖人のトーマス・モアとアルカイダを同列に扱うとは何事かと、お叱りをうけそうですが、『信念』は人間にとって『両刃(もろは)の剣』であると申し上げたいだけです。

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2010年4月28日 (水)

トーマス・モア(3)

聡明で高潔な家臣が、傲慢に自分のことしか考えない主君に仕えなければならない不幸な組み合わせの例は、トーマス・モアとヘンリー8世の関係ばかりではなく、歴史上繰り返されてきました。

思い余った家臣が、愚昧(ぐまい)な殿に、切腹覚悟で『諫言(かんげん)』をするというような例は、日本の歴史にも沢山例がありますし、ひょっとすると現在でも、暴君社長に、クビを覚悟で忠言に及ぶ、熱血サラリーマンは沢山いるのかもしれません。

『諫言』や『忠言』に及ぶ家臣やサラリーマンは、『周囲の不幸を救うために自分が犠牲になる』という献身精神や、『自分の良心は曲げられない』という自分の優先価値観で行動するわけですが、『切腹』や『クビ』という犠牲を払う割には、事態が好転する確率は低いのが現実です。もともと、主君や社長に、他人の言葉に耳を傾ける姿勢や、他人の感情を思いやる気持ちがあれば、『諫言』や『忠言』は必要ないわけですから、それは当然のことです。残念ながら暴君は暴君であるがゆえに暴君なのです。

こういう運の悪い状況に自分の身がおかれた場合、『身に及ぶ類を覚悟の上で自分の考えを述べ、上の人を質(ただ)そうとする』『あきらめて渋々服従する』『その環境から逃げ出す』というよな選択肢があり、その選択の責任は各自が負うという前提で云えば、いずれの選択が『正しい』と一般論で律することはできません。『諫言』や『忠言』は、その勇気故に後の世に美談として語り継がれることはありますが、『諫言』や『忠言』をする勇気の無かった人たちを誰も責めることはできません。多くの人は、自らが生き延びることを最優先にするからです。

しかし、自分が犠牲になることを覚悟して勇気を持って行動する人は、誰もそのように振舞えるわけではありませんので、『立派な人』であり、社会はこういう人を必要とする時があります。トーマス・モアを主人公とする映画に、『いつの時代にも必要な人:A Man for All Seasons』というタイトルがつくのは、そういうことを云いたいためなのでしょう。

現代の民主国家では、個人に犠牲を強いないように、個人に代わりマスコミが『諫言』する役割を負っています。民主国家としての成熟の度合いは、その国のマスコミの能力レベルで決まります。日本の現状は、相対的に観て、それほどひどいものでも、それほど自慢できるものでもないというレベルではないでしょうか。

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2010年4月27日 (火)

トーマス・モア(2)

知性の豊かな人は、自分で納得しないものは受け入れないという習性も持ちますので、『あらゆることに疑いの目を向ける』のも特徴の一つです。しかし、判断がブレないようにするためには、絶対的な基準を持つ必要があり、この基準を疑ったりすると『堂々巡り』になってしまいますので、この基準だけは『疑わずに信ずる』必要に迫られます。つまり、『信ずるものを持たないと疑えない』という矛盾を抱えます。

前に、西部邁氏と佐高信氏の対談番組の中で、西部氏が『日本の知識人の不幸は、欧米の知識人が保有している神という絶対的な存在を保有していないことだ』と発言しておられることをブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-5b82.html

西部氏が、『日本の知識人は不幸』と言っているのは、言葉の綾で、表現を変えれば『西欧の知識人は、全てを知性で観ているわけではない(信ずることは知性ではなく感性の行為)』と皮肉っていることにもなります。

16世紀の前半というトーマス・モアが生きた時代を現代の時代感覚で単純に論ずることは慎重を要しますが、少なくともトーマス・モアは、カトリックの教義の神を信じ、ペテロ以来正当な『神の代理人』は、ローマ法皇であるという前提で判断していきます。『サン・ピエトロ寺院の地下にペテロの墓がある』などという言い伝えは、怪しいものだなどと、梅爺のように疑ったりはしていません。従って、ヘンリー8世が、『イギリスにおける神の代理人は自分であり、イギリス国教会が宗教の中枢である』とする法律を制定することに同意できないとして、当時役人の最高位であった『大法官』の職責を辞任します。それでも聡明なトーマス・モアは、自分の辞任行為が、国王の逆鱗に触れ、自分および家族に類が及ぶことを心配して、表向きは一切辞任の理由を口にしない黙秘戦術をとります。

トーマス・モアの才能に一目置いていたヘンリー8世は、モアの同意が得られれば問題がすべてうまくおさまると考え、同意を迫りますが、モアは沈黙を守り、言質(げんち)を与えません。モアの友人たちや家族は、『意地を張らずに同意してしまったらどうか』と説得しますが、モアは自分の良心には背けないと態度を変えません。モアの政敵クロムウェルだけは、チャンス到来とばかりに、モアを『反逆罪』で告発します。この映画では、聡明なモアと奸智に長けたクロムウェルの激しい議論が見ものです。

裁判では、『沈黙』が、『無言の反対』の意思表示なのか、『暗黙の了承』の意思表示なのかを巡って議論が行われますが、クロムウェルが仕組んだ証人の発言(故意の偽証)や、圧力をかけられた陪審員による評決で『有罪』となり、ロンドン塔に幽閉された後に、断首刑による処刑が行われます。

皮肉なことに、ヘンリー8世と王妃アン・ブーリン(元は愛人)の間に生まれたエリザベス1世(女王)の時代に、チューダー王朝は最盛期を迎え、イギリス国教会は現在も廃れることなく存続しています。トーマス・モアが命をかけた『正義』は、一体何であったのでしょう。

ただし、カトリックから見れば、『教義』に殉じた素晴らしい人物ということになりますので、トーマス・モアは『聖人』の一人に列せられています。

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2010年4月26日 (月)

トーマス・モア(1)

NHKBS放送で、過去にアカデミー賞を受賞した映画を集中的に放映していた折に録画しておいた作品があり、その中の一つ『我が命つきるとも』を観ました。1966年のイギリス映画で、16世紀にヘンリー8世が、愛人アン・ブーリンと結婚するために、離婚を認めないローマ法王庁(クレメンス7世)に逆らって、イギリス国教会を強引に設立したことに反対し、反逆罪の罪に問われて処刑された当時イギリスきっての才人トーマス・モアを主人公にした作品です。

梅爺は、以前『ヘンリー8世』についてブログを書いたことがあって、ことのほか興味深くこの映画を観ました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ce28.html

トーマス・モアは、敬虔なカトリック信者で、政治家、法律家、作家(理想の仮想国家を論じた『ユートピア』が有名)でもあった才人です。高い知性に恵まれ、論理の一貫性の無いものは認めないという潔癖症の強い人間が陥りやすい『罠』にかかり、不幸な死を迎えるという、見方によっては悲劇の典型ではないかと梅爺は感じました。

横暴な王様(ヘンリー8世)の暴挙に、反意を表明し(実際には、賛意を表明せずに沈黙を通した)、ついには裁判で有罪(反逆罪)となり、処刑されるという生き方を、『命がけで信義を貫いた立派な男』と単純に賞賛することもできますが、この映画の意図はそればかりではないように梅爺は受け取りました。

この映画の日本語タイトル『我が命つきるとも』は、いかにも日本人好みの『お涙ちょうだい』を狙ったものですが、英語の原題は『A Man for All Seasons』です。直訳すれば、『どんな状況(気候)にも通用する男』となり、意訳をすれば『いつの時代にも必要とされる男』ということになります。『The Man』ではなく『A Man』であるところに、英語表現の意図が込められています。つまり、『トーマス・モアのような男が、いつの時代にも必要』というメッセージです。日本向けのタイトルが『情』に訴えるものであるのに対して、原題は極めて『理』でメッセージを伝えようとしています。このタイトルの違いに、日本と欧米の文化の差を梅爺は感じます。

知性豊かで、論理的に判断しようとする人間は、判断の基準として『ブレない』何かを自分の中に求めます。トーマス・モアは法律家でもありますから、『法』は人間が作り出す社会の『決めごと』であることは熟知していてはずです。しかしながら、『法』はその都度都合よく作るものではなく、『法』にも『ブレない基準』が必要であり、それは『神の意図』であるという論理思考をトーマス・モアはしていたのではないかと、梅爺は理解しました。

『敬虔なカトリック信者』と『法律家』を、自分の中で同居させるには、この論理思考しかないと思うからです。

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2010年4月25日 (日)

武蔵五日市に遊ぶ

梅爺が現役時代、コンピュータ同業他社のメンバー(4社8人)で結成されたグループの会が、大半が現役を引退した今でも『サンフラワーの会』として、約15年続いています。夫婦同伴が主ですが、時には亭主族だけ、女房族だけの会合もあり、一緒に国内外の旅行を楽しんだりしてきました。

今回は、梅爺夫婦が幹事役で、4月23日に、『武蔵五日市散策』を企画し、7組14人の夫婦が参加しました。正午に、五日市線の終点である『武蔵五日市駅』に集合し、野趣あふれる炭火焼料理で有名な『黒茶屋』で、コース料理やお酒を堪能しました。梅爺夫婦は、事前に『黒茶屋』を下見して、このコース料理(若鶏、川魚、野菜の炭火焼中心)は、年寄りには、少しボリュームがありすぎるかもと懸念していましたが、なんのなんの全員ほぼ完食で驚きました。

その後、武蔵五日市駅から4キロメートル山の中に分け入ったところにある『深沢小さな美術館』へ移動し、友永詔三(ともながあきみつ)氏の木彫りの人形、版画などを鑑賞し、館内で美味しいコーヒーをいただきながら歓談して、夕刻駅に戻り解散しました。

少女をモチーフにした木彫りの彫刻

Apple13 Cimg0961 人形劇プリンプリンで使われた人形

友永詔三氏は、NHKで昔放映された人形劇『プリンプリン物語』で使われたユニークな顔立ちの人形たちを制作された方です。少女をモチーフとした木彫りの彫刻が『深沢小さな美術館』の主な展示品です。美術館は、友永氏のご自宅に併設されています。古い民家をご自身で増改築されたもので、石積みの壁に、自由な形の木枠の窓を配した喫茶室などは、さながらガウディーの設計した建築物の風情です。庭には、ご自身で作られた池に、錦鯉が悠々と泳いでいて、東京都の中とは言え、深山幽谷の風情の周囲の景色とともに、独特の別世界を醸し出しています。

友永氏の奥さまが、梅婆が通うジャズダンスの教室の先生をされている誼(よしみ)で、今回は特別にお世話になりました。

夕刻解散後も、まだしゃべり足りないという夫婦5組が、立川の居酒屋に立ち寄って、気炎をあげました。梅爺夫婦も幹事役をこなした安堵感もあって参加しました。皆身体のあちこちに問題を抱えているなどと口では言いながら、気持ちだけは、なんとも若い年寄り達で、当分このような会合が続きそうです。

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2010年4月24日 (土)

夜目遠目傘の内

上方いろはカルタの『よ』、『夜目遠目傘の内』の話です。

これは、男性の視点で女性を見たときの諺です。夜の暗闇の中や、遠くから眺めたときや、傘で顔が隠れている状態では、どんな女性でも『綺麗に見える(綺麗ではないかと期待を持たせる)』ということで、言外に『でも、多くの場合近寄ってよく見るとガッカリする』という、女性には大変失礼な意味が込められています。

どんなものでも、遠くから理想的なものと思い込んで見ている時が花で、手にとってよく見たり、親しく付き合ってみると、今まで見えなかった『あら(欠点)』が見えてきて、幻滅を感ずるものですよ、ということになり、『きれいなものとして、いつまでも心にしまっておきたければ、近づかないことですよ』という意味にも取れますし、逆に、『どんなものにも欠点はあることを承知して世の中を渡りなさい』と言う意味にもとれます。

後者の意味と理解すれば、『夫婦』や『友人』は、仲違(たが)いせずに、なんとか関係を維持できます。

いつもの梅爺流の見方でこの諺をみると、人間の『脳』の不思議な機能が隠されているように感じます。

(1)人間は取得した情報が少ない場合や、肝心な部分の情報欠落している場合には、類推能力で、『こうであろう』と足りない部分を補って、理解しようとする。

(2)その場合、嫌なものは避けたいという本能が働き、『自分に都合のよいもの』『こうあって欲しいと願うもの』を優先的に想像する。

(3)そのうちに、自分が『想像したもの』が、『現実にもそうなっている』『正しい』と思い込む(信ずる)ようになる。

こうした『勝手な勘違い』が、人生の悲喜劇を沢山生むことになります。私達が『あの人に裏切られた』と憤慨する場合、多くは、本当に裏切られたというより、『自分が期待していたとおりに相手が行動しなかった』ということが多いのではないでしょうか。

自分も知らず知らずに、相手の期待を裏切っていることに気づけば、相手の行動にも寛容になれるはずですが、なかなかそうは行きません。『憤怒』という『情』を、『理』で許せる人は、『人物ができている人』です。梅爺も、そうありたいと願いながら、つい『アホ、バカ』と怒鳴ったりしています。

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2010年4月23日 (金)

東大駒場キャンパス内のレストラン(2)

昨年の『ベトナム・カンボジアの旅』に参加したKさんが、旅行中に作られた川柳の数々を今回の同窓会で披露してくださいました。Kさんは、川柳の選者もつとめられる権威で、川柳に関しては梅爺の師匠でもあります。旅行の同行者は、当時の体験を思い出して、つい笑ってしまいました。

一般にも通用する川柳として、以下の句が気に入りました。

良心的に生きるだけでは恥ずかしい

これは、同じく仲間のAOさんご夫妻のご長男が、東大を中退してカンボジアで展開しているNPO『かものはしプロジェクト』の現場を訪問した時の句です。『かものはしプロジェクト』は、貧しい農村の少女が売春(買春)のために身売りされてしまうことを防ぐための、自立支援事業です。これも前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-63e3.html

良心的に生きているといくら自分に言い聞かせてみても、それだけでは自己満足で、本当に他人のために行動している人に比べると自分は矮小だと、この句は表現しています。梅爺もグサリと胸をつかれました。人の生き方全般に通用する句です。

クソジジイ翻訳すればマイハニー

仲間の奥さまの一人が、旅行中冗談でご亭主を『クソジジイ』と表現したことに関する句です。確かにこれは愛情表現の裏返しですから、ニンマリしてしまいます。逆に亭主が女房を『クソババア』と呼ぶと、多くの場合険悪な雰囲気になりますので、男の方が度量が広いのかもしれません。

同窓会の後、何人かが下北沢のカフェで、雑談をする機会があり、梅爺夫婦も参加しました。中にアインシュタインの研究で有名で、著作もあるABさんがおられましたので、梅爺は『アインシュタインの宗教観』について質問しました。ABさんのお答は『彼は宗教が説く人格神の存在は信じていなかったと思います。ただ、あまねく自然を支配する何かのルールが根源に存在すると感じていたと思われますので、その意味では汎神論者であったかもしれません』というものでした。

梅爺が想像していた内容に、この回答は近いものでしたので、『やっぱりそうか』と得心しました。同窓会は、楽しい上に勉強にもなるのですから、素晴らしい仲間に恵まれて、梅爺はこの上もない幸せ者です。

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2010年4月22日 (木)

東大駒場キャンパス内のレストラン(1)

Outdoor3 ルヴェソンヴェール

東大駒場キャンパスの中に、洒落たフランス料理のレストラン『ルヴェソンヴェール(Lever son Verre)』があることをご存知の方は少ないかもしれません。キャンパス内の食堂と言えば、『学食(学生食堂)』を思い浮かべますが、『ルヴェソンヴェール』は、本格的なレストランで、大学の関係者ばかりか、一般の人も利用可能です。国の資産の大学敷地内で、経営がどのような契約条件で認められているのかは梅爺は知りませんが、大学を訪れる外国人などのもてなしには必要な施設なのかもしれません。梅爺が駒場キャンパスに通っていたのは50年近い昔のことで、勿論その頃は、このようなレストランはありませんでした。日本が豊かな国になった証拠です。

毎年桜の時期に、『東京大学コールアカデミー(男声合唱団)昭和39年卒業同窓会』が、この『ルヴェソンヴェール』で開催される習わしになっていて、今年は4月19日の午後の時間に、夫婦同伴8組16人、単身参加5人の計21名が集いました。去年のこの同窓会では、2年に一度行っている国内外の旅行先を決めるのに、一悶着ありましたが、今年はそのようなややこしい議題もなく、和気藹藹(わきあいあい)に終始し、最後は『愛唱曲』を歌っておひらきになりました。

昨年は、春に行き先を決め、秋にグループで『ベトナム・カンボジアの旅』に出かけました。その時の様子はブログに連載しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-974d.html

『コールアカデミー』は、大学が公式に『音楽部』として認める課外活動で、梅爺が学生の頃は、団員数が100人を越す、堂々たる合唱団でしたが、昨今は、新入生の入部希望者が激減し、このままでは『絶滅』してしまうと危惧される事態になってしまいました。そこで、最近はOB達が資金援助をして、『勧誘活動』を行っています。入部候補者(新入生)を『ルヴェソンヴェール』に招いて、フランス料理を振舞おうという寸法です。『食べ物を餌に釣る』といういたって原始的な方法ですが、これが功を奏して最近では毎年10人近い入部者が確保できるようになりました。今年は30人を招待して、15人の入部を目論んでいます。おかげで、絶滅の危惧を脱しつつあります。

駒場キャンパスを散策してみると、昔と異なり女子学生が多いことに気付きます。課外活動の勧誘立て看板を見ると、色々な合唱団が競っていますので、合唱に興味を持つ学生が少ないわけではないことが分かります。ただ、多くは『混声合唱団』なので、やはり異性との接触の機会がある方が楽しそうだと考える学生も多いのでしょう。

『男声合唱団』は、なよなよした草食系の男子の溜まり場という偏見があるとしたら残念なことです。梅爺の仲間たちをみれば、むしろ武骨で、情熱的な爺さん達ばかりです。一生男声合唱の魅力にとりつかれて過ごすという生き方も、それほど悪い選択ではないということを、この同窓会が証明しています。

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2010年4月21日 (水)

God is not great(8)

前に紹介した『数学者の無神論』も、この『God is not great』も、『無神論者』の著者は、徹底して『理』で、宗教の不条理を暴(あば)こうとします。『理』で考えて納得がいかないことを『信ずる』わけにはいかない、という考え方が根底にあります。特に『God is not great』では、納得いかないばかりか、『信ずる』ことがもたらす弊害も強調します。私達が、生きていく上で、周囲の出来事や、特に『科学などの学問』に対応する時に、この『理で納得できないことは疑ってかかる』という姿勢は、少なくとも重要で、無意味なことではありません。

一方、宗教は『教義』を『信ずる』ことから出発します。『信ずる』という行為は理的活動ではありません。しかし、『信ずる』ことが、人間にもたらす『効用』があるからこそ、宗教は存続してきたのではないでしょうか。その『効用』は、『悩み』『憂い』『不安』『悲しみ』『寂寥感』などという、人間の『情』がもたらすネガティブな感覚を、軽減または払拭してくれるということにあります。『無神論者』は、どういうわけかこの宗教の『情』に関わる『効用』については、触れません。この『効用』を見事に表現した賛美歌の歌詞が以下です。

いつくしみ深き 友なるイエスは
罪科(つみとが)憂いを 取り去り給う
心の嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を・・・

例えば、愛する人を失った人は、『深い悲しみと、拭うことのできない寂寥感』に襲われます。この『悲しみ、寂寥感』は、『理』では克服できません。他人が、『時間が解決してくれます』とか『頑張って克服しなさい』などと小賢しいことを言っても、『お前に何が分かるのか』と反って反撥する心ばかりが強まり、効き目がありません。酒や麻薬で、一時的に紛らわせてみても、本質的な『安らぎ』は得られません。

しかし、自分の苦しみを本当に分かってもらえる『神や仏』が存在すると『信ずる』ことで、心は少しづつ癒され、『安らぎ』を得ることができるとすれば、この人にとって『神や仏は、本当に存在するのか』などという『理』の議論は、どうでも良いことになります。『安らぎ』に最大の意義があるからです。

『情』がもたらす、苦悩への対応手段として宗教が持っている力は、大いなるものがあります。しかし、その出発点が『信ずる』という、『理』とはいえない行為であることが、人間を更に異なった悩みに導きます。人間は誰もが『信ずる(信じたい)』ということと同時に、『疑う(疑ってみたい)』という資質を保有しているからです。

『心の安らぎ』のためには『信じたい』、しかし信ずる対象を『理』で見つめてみると『疑わしい』というジレンマがつきまといます。『信じて疑わない人』『理だけで全てに対応できる人』は、両極端で、そうなれれば幸せかもしれませんが、梅爺はどちらにもなれません。

『信じて疑わない人』は、その『信じて疑わない対象』を選び間違ったり、他人に強要したりすると、非常に危険な人物になってしまうということが、宗教の弊害ではないでしょうか。宗教の『原理主義者』は、『異端者を抹殺することが神の正義』と『信じて疑わない』人たちです。梅爺が、宗教は個人の『情』の世界だけに留まって、同じ価値観を共有しない他人には干渉しないで欲しいと願うのは、このためです。

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2010年4月20日 (火)

God is not great(7)

現在地球上の多くの国家が『信教の自由』を掲げています。特定の宗教が権力と結びつく弊害で、辛苦を味わってきた人類が導き出した『知恵』で、人類史上画期的なことです。『特定の神の国』の到来を、人類は自ら忌避したとも言えます。確かに、権力者が『神のご意思』と称して、自分達に都合の良い政治を展開するのは、弊害をもたらす危険性を孕んでいます。プーチンとロシア正教の結びつきに、梅爺は何やら危ういものを感じます。

『信教の自由』には、『信じない』という選択も含まれています。『信じない人』にとっては、自分の所属する社会が特定の宗教価値観だけで律せられては堪りませんから、歓迎すべき『知恵』ですが、『信じている人』にとっては、『理』では渋々認めているものの、『情』が支配する本心では、自分の信奉する宗教の価値観だけで律せられる社会が『理想(神の国)』と感じておられるのではないでしょうか。アラブ圏にある根強い『反米感情』は、『(キリスト教の考え方が背後にある)アメリカ型民主主義』を最良のシステムとして押し付けられるのは嫌だ、『イスラム教』をベースとした国家体制を自分達は望んでいるのだ、という考え方があるからでしょう。

しかし、イラクにおける『シーア派』と『スンニ派』の、血で血を洗う抗争などを見ていると、アラブ圏に『イスラム教』による『神の支配する国』ができあがるとは、とても思えません。異なった宗教間の対立よりも、同根である『派閥対立』の方が、反って憎悪を煽り、凄惨な結果に終わる可能性も秘めています。

『イスラム教』支配が徹底しているかに見えるイランも、シーア派が多数派であるだけで、これを快く思わない人たちが、存在しないわけではありません。アラブ系イギリス人のサルマン・ラシュディが書いた小説『悪魔の詩(うた)』が、イスラム教の創始者『ムハマンド』を冒涜したものだとして、世界中のイスラム教徒が騒ぎ、当時のイランのイスラム教最高指導者ホメイニ師は、懸賞金つきで、この著者の『暗殺』を命じました。ラシュディ氏は、イギリスのスコットランドヤードが、身柄を保護しましたが、この小説を日本語に翻訳した筑波大の五十嵐教授は、何者かに暗殺され、現在まで犯人は挙げられていません。

『信教の自由』が、人類共通の『知恵』とは、とても言い切れない状況に世界はあることが分かります。つい最近まで、共産国家では、宗教は禁じられ、反した人を処罰していましたが、結局失敗に終わりました。為政者は、国民を『一色』にしたがりますが、これが長期に成功した例は見当たりません。『神の国』が、その宗教が理想とする体制『一色の国』を意味するのであれば、成功はおぼつきません。そういう意味では、現在の日本は、世界の中で、『信教の自由』が、理想に近い形で受け容れられている珍しい国かもしれません。

独立時に、『政教分離』を高らかに宣言したはずのアメリカは、表向きはともかく、非常に『宗教支配』が、根強い国です。『God is not great』の著者は、自分や家族への脅しや嫌がらせに耐えて、この本を書いているわけですから、まさしく『筋金入りの無神論者』です。その立場を考えれば、『徹底糾弾の激しい口調』になるのも、『そうなるだろうな』と理解できます。

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2010年4月19日 (月)

God is not great(6)

多くの宗教は、『神』や『神の啓示』が先ず存在し、『神の啓示』に直接接することができたと称する『特別の人間』が出現し、それを人間の言葉で表現したことで始まっています。後の信者は、これら一連のことを『信ずる』ことで宗教は成り立っています。人間の脳は、『信ずる』ことと『疑う』ことが両方可能なようにできていますので、一方で『信じない(疑う)』人が現れるのも当然のことです。

『信ずる』人は、『信じない』人を、『神への冒涜』として非難し、『信じない』人は、『信ずる』人を、『理に合わない妄信』であると非難します。『無条件に、ある事柄を信ずる』という行為も、人間には可能ですが、これは少なくとも『理』に基づく行為ではありません。従って、『信ずる』人と『信じない』人が、『理』で論争をすることは不毛なことです。『信ずる』人が、『理』で対抗しようとするのは、『信じない』人の思う壺で、どんどん不利な泥沼へ引きずり込まれてしまいます。『信じない』人の最大の武器が『理』なのですから。

『God is not great』という本は、『信じない』人(著者)が、『理』で『信ずる』ことの不条理を徹底追求していますので、『信ずる』人が、むきになってこれに『理』で応戦しても、勝ち目がないように梅爺は感じます。

宗教は、そもそも人間の『情』の世界でのみ意味をもつものではないかと、梅爺は考えています。例えが適切ではないかもしれませんが、宗教の世界は、梅爺が好きなコーヒーをゆったりすすりながら、ソファーに座って好きな音楽を聴いている時に得られる、『心の開放感、心の安らぎ』のようなものではないでしょうか。他人が、『私はそのコーヒーも、その音楽も嫌いです。従ってあなたが、そんなことで心の安らぎを得ていることが理解できません』と言おうが、『コーヒー、音楽と、心の安らぎの因果関係は理では証明できない』と言おうが、梅爺にはどうでも良いことです。梅爺にとっては、『心の開放感、心の安らぎ』を主体的に実感していることに意味があるからです。しかし、ここで重要なことは、梅爺が、他人に『あなたも私と同じように振舞うべきだ。振舞わないのは間違っている』と、同意を強要したりしてはいけないということです。この本では、このような宗教の存在意義は取り上げられず、ただただ『不条理』『弊害』のみが、取り上げられています。

このようなことになるのは、宗教が、そもそも自らを『理』で説明しようとしていることが、原因ではないでしょうか。キリスト教を例に取れば、『神は全知全能である』『神が7日間で天地の全てを創造した』『キリストは処女マリヤから生まれ、死の三日後に蘇り昇天した』『神は私達を愛し、罪を許してくださる』『神を信ずれば天国へ、信じなければ地獄へ行くことになる』『神(キリスト)は最後の日に再び現れ、全ての人を裁く』などは、どれも『理』で『真偽』を追求しようと思えば可能な『命題』ばかりです。つまり、この命題は、『真』か『偽』か、『どちらともいえない』かを、議論する対象になりえます。しかし、『理』で考えると、『真』であると立証できないことばかりで、むしろ『疑わしい』と言われても『理』では反論できません。どうしてもこだわるのであれば、『理』をあきらめて、『信ずる』しかないということになります。

『人間が心に抱える不安や悩み』を緩和するか解消することに、宗教の存在意義があるとすれば、上記のような『命題』を『理』で論争することは、本質的ではないかもしれません。しかし、少なくとも宗教自身が『理』の対象となる『命題』を、重要な存立基盤の『教義』として、提示してしまっていることが問題です。宗教自身が、今後なんらかの決着をつける必要に迫られるのではないでしょうか。『つべこべ言わずに信じろ』とだけ言っているのでは、『理』を重視する人からの攻撃は、今後も絶えないことになります。『理』にこだわる人は、宗教は相手にしないと宣言するのも一法ですが、それでは自ら道を閉ざすことになってしまいます。かといって、昔の人が作り上げた『教義』を、修正または廃棄することは、宗教の基盤を失うことになると拒否し、こだわり続けると、ジレンマから抜け出せません。さて、どういうことになっていくのでしょう。

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2010年4月18日 (日)

God is not great(5)

何故1世紀のユダヤにキリストが出現したのかについては、昨日も触れましたが、梅爺は、自分なりに納得しています。ローマ帝国の圧政下にあったユダヤで、民衆の苦しみを救うために、堕落した当時のユダヤ教に代わって『真の、神への向き合い方』を教える人物(キリスト)が現れ、その人物はユダヤ教の『救世主思想』と結びついて、『救世主』と考えられるようになったという解釈です。ユダヤの歴史には、『我こそは救世主』と自称する人物が沢山現れていますし、現代でも現れて物議をかもしたりしています。キリストは、高い知性と洞察力に恵まれたユダヤ人であったと推察できますが、あくまでも基盤は『ユダヤ教』であったと思います。そして何よりも、ユダヤ人の大半は『ユダヤ教およびその神』を『本当に信じ、それを生活の中心として生きていた時代』であったということです。『神』を疑う人の割合は、今日とは比べものにならない微々たるものでったに違いありません。

そのキリストの教えを、『ユダヤ教』の基盤束縛を解き放ち、ユダヤ人以外の異民族にも受け容れられる新しい宗教体系に変貌させたのはパウロで、真の『キリスト教』の創始者は、パウロであろうということも昨日書きました。

それでは、7世紀の中東に、何故ムハマンドが出現し、『イスラム教』ができたのでしょう。梅爺は、今までこの疑問を抱きながら、あまり深く勉強したり、考えたりはしてきませんでした。

『God is not great』の著者は、『無神論者』とは言え、色々な宗教に関する造詣が深く、むしろ『有神論者』よりも宗教知識には精通しているのではないかと梅爺は感じました。著者は、宗教対立で紛争が絶えない現地へ、身の危険も省みず出かけ、双方の言い分を聴取したりしています。『イスラム教』の成り立ちについても、この本には詳しく書かれていて、梅爺の知識は一挙に増えました。

『アラブ人のコンプレックス(劣等意識)がイスラム教を生み出した』というのが、著者の見解です。7世紀には、キリスト教の『ローマン・カトリック』『ビザンチンの正教』が、『教義』や『強固な体制』を既に築いており、勿論ユダヤ民族は、『ユダヤ教』を堅く信奉し続けていました。それらの周囲の民族が、『自分達の神』を持っているのに、アラブ人には何故『自分達の神』がいないのかと、アラブ人の中に、羨望と劣等意識があったと著者は観ています。当時のアラブ圏は、昔ながらの『多神教』の世界でした。

『イスラム教』の創始者『ムハンマド』は、キリストに比べると、俗人性の強い人物です。メッカの良家の生まれと言われていますが文盲であったと伝えられています。軍人、政治家として活躍しますが、突如、『神の啓示』に接し、以降『神の教え』を説く『預言者』となります。彼のおかげでアラブ人は念願の『自分達の神:アッラー』を保有することになります。彼の弟子達が『ムハンマド』の言葉を、自分達の言語アラビヤ語で書き残し、それが『コーラン』や『言語録』として体系化されていきます。『イスラム教』では、アラビヤ語で書かれ『コーラン』以外は、本物の『コーラン』ではないと主張する人さえいるようです。

『God is not great』の著者は、『イスラム教』の教えの大半は、全て他民族の宗教(ユダヤ教、キリスト教)、他民族の思想(ギリシャ哲学)、他民族の言い伝え(インドの諺)などからの『借り物』であると断じています。つまり『良いとこ取りの寄せ集め』であり、言葉をかえれば『人間が創り出したもの』を『神の啓示』と言い換えたということになります。品のない言い方をすれば『パクリ』です。確かに、『ムハンマド』が『神の啓示』を受けたのは、『大天使ガブリエル』を介して、ということになっていますので、これなどは、ユダヤ教、キリスト教からの『借り物(パクリ)』であることは歴然です。

アラビヤ語は、子音表記を省略するために、読み方で色々な解釈ができる弊害があり、『ムハンマド』の教えは、宗派の違いを生み、争いの原因になります。そのために、後の為政者によって、『統一版コーラン』の編集が行われました。『言語録』にいたっては、数万におよぶ個々の『言い伝え』を集めて、学者が矛盾がないか、妥当であるかを検討して、作り上げられたと言われています。キリスト教の『新約聖書』と同様、『ムハンマド』の死後100年位経って、人間によって『教義』が確立したことになります。

『神の啓示』を受けたと言う人物が現れ、新しい宗教体系が出現することは、歴史の浅いアメリカにも『モルモン教』があり、日本でも沢山の事例があります。人間は、自分の保有している『知恵』をベースに『宗教』を作り上げる能力を持っているという著者の主張は、一理があります。『神の啓示』が先に存在したのか、それとも人間が考え出したものを『神の啓示』と称したのかは立証しがたいところが、『理』から観た宗教の泣き所です。

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2010年4月17日 (土)

God is not great(4)

人間の脳が、理性を獲得し、『論理的に物事を考える能力(因果関係の推測など)』、『言葉』を創り出し、ついには、『情感』や『実際には存在しないもの』までも『抽象的な概念』として表現できるようになりました。周囲の『不思議な現象(その時代の人間の知識では理解できない現象)』の奥に、それを司る『何者か』が存在すると考え、それを『神』と名づけたというのが、梅爺の推測です。現代人が『UFO』『宇宙人』などの存在を、推測、想像するのもこの変形です。現生人類の全ての部族が、歴史的に何らかの『神』という概念を保有していることから、『論理思考』や『言葉』を保有すれば、人間は必ず『神』を思いつくとも言えます。現代人である梅爺も、『自然の摂理』の奥に、『何かが潜んでいる』と感じますので、これを『神』と名づけるというのであれば、『神』の存在を疑ったりしません。ただし、この『神』は、宗教の『教義』が定義する『神』とは、異なったものです。

当然のことながら、人類が思いついた『神』は、『一種類』ではなく、多様なものでした。『古代エジプトの神々』『ギリシャ神話の神々』『ヒンズー教の神々』『日本の八百万の神』と、数え上げると切がありません。この内、現在宗教として、多くの人の信仰対象になっているのは『ヒンズー教』くらいで、その他は、残念ながら、今では『消滅』してしまっているか、極めて影響力の小さい宗教になってしまっています。色々な理由があるにせよ、人間側の都合によって『宗教』にも盛衰があり、時に消滅してしまうことがあることが分かります。エジプトの『オシリス』『イシス』などの神々は、『人間は薄情な奴らだ』と、今頃ぼやいているかもしれません。

しかし、古代ユダヤ人は、ついに『神はただ一人』という概念を思いつき、『ユダヤ教』という宗教体系を作り上げていきます。その後の人類の歴史に、大きな影響力を持つ『一神教』の誕生です。他の民族の迫害を受け、各地のディアスポーラ(国外居住区)でチリジリバラバラに生きることを強いられたユダヤ民族は、『ユダヤ人だけを見守ってくれる唯一の神(ヤーヴェ、エホバ)』を共有することで、民族の『アイデンテティ(自己存立理由)』を保つ必要があったことが、『一神教』誕生の理由であると、梅爺は勝手に推測しています。まだ、『一神教誕生の理由』を説明した本に遭遇したことがないからです。『God is not great』という本も、このことには触れていません。

古代ユダヤ人は、更に『自分達の唯一の神を信仰していれば、必ず神は、苦境のときに民族を救ってくれる救世主を世に送ってくれる』という『教義』を作り上げます。

この『一神教(ユダヤ教)』と『救世主思想』を母胎に、キリストが出現し、キリストの『教え』が今度はパウロたちによって体系化され、『キリスト教』として一人歩きを始めます。同じ『一神教』でも、『ユダヤ人だけの神』から『異民族の垣根を越えた、みんなの神』へ変貌したことになります。キリスト自身は、新しい宗教を起こそうと考えていたわけではなく、腐敗していた当時の『ユダヤ教』の改革を主張していたのであろうと梅爺はこれまた勝手に推測しています。後のキリスト教の、ルターによる『宗教改革(プロテスタントの誕生)』のような話です。したがって、聖画や彫刻で、『ブロンドの髪、青い目の白人』として表現されているキリストやマリアは、ローマン・カトリックが『白人本位』にキリスト教を変えていっただけで、本当の姿ではないと推測しています。『神の子キリスト』『聖母マリア』を『白人』とするのは、白人の思い上がりのように思います。むしろ、キリストもマリアも、当時のパレスチナ系ユダヤ人の風貌であったと考える方が自然です。

7世紀に、中東にムハンマド(マホメット)という預言者が突然現れ、『イスラム教』の創始者になります。キリストの存在は、聖書しか手がかりがないために、歴史的には謎に包まれていますが、ムハンマドに関しては、史実が残っており、歴史的に『確かに実在した人物』であると考えられています。『God is not great』という本で、『イスラム教』誕生のころの事情を知り、梅爺は『おいおい、その程度のことで宗教はできてしまうのかよ』と驚きました。

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2010年4月16日 (金)

God is not great(3)

著者の主張は、以下の三つに集約されます。この本は、宗教の否定が目的の本ですから、しかたがないとは思いますが、人間にとって重要な『心の安らぎ』をもたらす宗教の存在意義に言及していないのは、いささか公平を欠くように梅爺は思います。

(1)『宗教』や『教会』は(つまり『神』は)、人間が考え出したもの(man made)である。
(2)『倫理』や『道徳』は、『宗教』が生み出したものとは言えない。
(3)『宗教』は『道徳』を越えたものでもないばかりか、時に『道徳』を損なうことがある。

(1)に関しては、梅爺も『神』という概念は、人間が考え出した『抽象概念』の一つではないかと、何回もブログに書いてきましたので、著者の主張には同意できます。『愛』という抽象概念と同様、人間にとって無意味なものとは思いませんが、『宇宙空間のどこかに神という実体が存在する』という主張には疑念を抱いています。著者や梅爺の推測が正しければ、人類が滅亡すれば、人間が考え出した『概念』である『神』は、人類と一緒に消滅することになります。

(2)は、『信仰』のない人間は、『邪悪な心(悪魔)』に支配されて、『非倫理的』『非道徳的』な存在になってしまうという宗教の主張には、梅爺も疑念を抱いていますので、これも同意できます。生物として進化してきた人間は、本来、生き残りのためには『何でもする』という習性を保有しています。しかし、後に理性で考え出した『善良』と『邪悪』という抽象概念で、自らの『行為』や『考え』を分類することもでき、『個人』や『種』の存続のために、『やってはいけないこと』を考え出す能力も保有しています。したがって、仮に『宗教』がなくても、人間社会には『倫理』『道徳』は生まれるものと推測しているからです。『情』が厚いかどうかは、宗教とは無関係ですので、『無神論者』や『不可知論者』は、人間として冷酷であるとは思いません。

(3)は、『神の教えは正しい』と主張して、宗教を信仰する人が、自分が信ずる宗教を信じない人や、異なった宗教を信ずる人を、『異端者』として排除し、時に『抹殺』も辞さないという行動に出る弊害や、現在では客観的に『間違い』であることが判明している『知識』を、『教義は正しい』として周囲の人に強要するといった行為に及ぶことを著者は言いたいのでしょう。現在も続く、世界の紛争の背景に『宗教観の対立』があることは、誰もが感じていることです。客観的に観れば、『宗教』が『対立』や『悲劇』を生み出しています。『輸血』や『避妊』は、『神の教えに反する』として拒否したり、『神が喜ぶ死を遂げれば、天国へ行ける』『悪いことをすれば地獄へ堕ちる』と、幼い子供を洗脳したりすることも、考えようによっては『道義に反する行為(著者は幼児虐待という強い言葉で非難しています)』であると言えるかもしれません。

『神の教え』であると、言い聞かされてきたことが、実は『人間が考え出したもの』であるとすれば、『人が考えたものである以上、時に間違いもあるだろう。絶対正しいとは限らない』と、融通がきく対応ができますが、『神の啓示には、間違いなどない』と信じている人には、この論法は通用しません。

梅爺は、『煩悩(人間の存在そのものが抱えている矛盾)を解脱する』目的では、『信仰』は無意味なものとは思いませんが、それ以外の世俗的なことに『神や仏の教え』を持ち出すことには違和感を覚えます。『宗教』は『個人の精神生活への関与』に留まって欲しいと願いますが、現状では、世俗的なことや、権力にまでも関与していますので、『好ましくない面』が露呈してしまうという主張には異論がありません。

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2010年4月15日 (木)

God is not great(2)

昨日も書いたように、人類が、『地球は太陽の周りを回る惑星の一つ』であることや、『病気の大半は、病原菌やウィルスによるもの』であるといった『知識』を、『常識』と考えるようになってから、それほど永い時間は経過していません。自然災害は『神の怒り』であり、病気は『悪霊〔悪魔)にとり憑(つ)かれた』と考え、神官や聖職者が『儀式』や『悪霊祓(ばら)い』で対応するのが、昔の『常識』でした。『宗教』や『神』は、生活の中心であり、指針であったに違いありません。

モーゼやキリスト、それに7世紀のムハンマド(モハメット)の時代でさえ、ほとんどの人は『文盲』であり(ムハンマド自身も文盲でした)、コミュニティで語り継がれた『知識』や、経験で得た『知識』だけで、生きることに対応していたことになります。このことは、当時の人間が『生物』として、現代人より劣っていたことを意味しません。生物種としての『進化』は、ほぼ現代人と同等のレベルに達していたと考えられますので、もしキリスト時代の人間を、タイムスリップで現代に呼び寄せ、しかるべき教育を施せば、現代人のように振舞えるにちがいありません。

『God is not great』の著者は、『宗教の原型』が、こういう時代環境でできあがったことを強調します。限られた『知識』の中で、当時の人たちが、周囲の現象を、どのようにとらえようとしたのかを、当時の視線で想像しないと、『神』『神の言葉(啓示)』『預言者』を現代人は誤解することになる、というわけです。聖書や聖典に書かれていることは、当時の『常識』で書かれていますので、現代人には理解できないこと、不条理と思えることが沢山あるのは、当然ということになります。

太陽は『神』であると『信じられていた時代』には、『自分こそ太陽神の化身である』という人物が現れたり、病気は『悪魔』がのり移ったものと考えられていた時代には、特別に神の力を与えら、『悪魔祓いの祈りを捧げる』ことができる人間が現れたりしても、不思議ではありません。キリストが病気の人を癒したと語り継がれているのは、周囲の人がそれをキリストに期待していたことの裏返しとも言えます。『病気は医者が治す』という『常識』は現代人のものです。繰り返しになりますが、人類は、つい最近まで、現代とは異なった『常識』の中で生きていたことになります。言い換えると、近代になって、人類の『常識』がかわり、天文学、生物学や医学が、強固であった宗教の独占支配を、崩し始めたとも言えます。

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2010年4月14日 (水)

God is not great(1)

『God is not great(神は偉大ではない):Christopher Hitchens著』という、大分前に購入し、書棚に積んであった本(英語版ペーパーバック)を読みました。信仰をお持ちの方には、穏やかならぬタイトルの本です。

著者は、アメリカ在住のジャーナリストで、筋金入りの『無神論者』であることが分かりました。無神論者の名前『Christopher』に『Christ(キリスト)』の名前が含まれているのは、ブラックジョークのようで、梅爺は失礼ながら笑ってしまいました。

まあ、それはそれとして、表紙のタイトルは『god』が小文字、『is not』が中文字、『Great』が大文字で表記されていますので、著者は『神は偉大ではない』というニュアンスを、皮肉たっぷりに表現しようとしていることが分かります。普通は『God』と固有名詞にすべきところを『god』と普通名詞で表現しているのも、意図的で、英語圏の人には、ある種のメッセージが含まれているのだろうと思います。

英語の文体は、文章の中に違った修飾文章が『入り子』で挿入されているといった複雑な上に、語彙も難しいものが多用されていますので、『わしは、飛び切りの教養人だぞ』と言っているようでもあり、なんとなく著者の性格が想像できます。英語圏の人でも、子供などは、とても読むのが難しい本ではないかと思います。勿論、梅爺も衰え行く脳パワーを振り絞って対応しましたが、苦戦しました。

日本では、『私は無神論者です』と宣言しても、少々偏屈者と思われる程度で、それほど社会生活では支障がありませんが、欧米で『無神論者』を名乗ることは、時に命がけであり、少なくとも周囲との人間関係は、ギクシャクすることを覚悟しなければなりません。『無神論者』は、理由もなく『心が冷たい人、傲慢な人』の代名詞のように受け取られるからです。それほど、欧米では『神』は、当たり前な概念であり、生活の中に溶け込んでいます。読売ジャイアンツのラミレスが、ヒーロー・インタビューで、必ず『神に感謝します』と述べたり、サッカーの闘利王が、ピッチに入る前に、胸の前で十字架をきったりするのを見ても、『生活の一部』であることが分かります。

アメリカのオバマ大統領が、米国民向けの演説の後に、必ず『God Bless America』と付け加えるのも、選挙対策ともいえますが、あまり深い意味ではなく、『国民の皆さん、一緒にがんばりましょう』という程度のことなのでしょう。しかし、へそ曲がりな梅爺は、『おいおい、アメリカだけ祝福されればいいのかよ』と言いたくなります。

それでも、この本が、ニューヨーク・タイムズのベストセラーになるところを見ると、欧米の知識人の多くは、心の中に多少なりとも『神を疑う気持ち』を持っているのかもしれません。前に何かの本で、欧米の学者と称する人たちの大半は『神の存在を信じていない』という、統計結果をみたことがあります。

この本が対象としている『神』は、ユダヤ教から派生したキリスト教、イスラム教の『一神教の神』です。これらの『3大一神教宗教』を全部認めると、『唯一の神』が3人おられるという論理矛盾を生じます。少なくとも論理では、一人だけが『本物』であとは『偽者』か、または全員が『偽者』かということになります。

ユダヤ教の聖典(キリスト教の旧約聖書)、キリスト教の新約聖書、イスラム教のコーランなどが書かれた時代に、人類が保有していた『常識』『知識(特に科学知識)』は、現在とは大きく異なっているにも関わらず、何故その頃書かれた『内容』を、現代人が『絶対正しい』として受け容れるのかと、豊富な事例を挙げて、この本は追求していきます。少し前まで、人類は、『地球は平らである』『太陽は地球の周りを回っている』と『信じて』いたわけですが、今は多くの人が『それは誤りであった』と『知って』います。それなのに、どうして聖典の内容だけは、全て正しいと頑張るのかという疑問が綴られていきます。

梅爺は、前に宗教の『教えと出来事』についてブログを書きました。宗教が提示する『出来事』は、現在の『常識』『知識』では、不条理なものが多いのはそのとおりですが、『教え』は、人の精神生活で大切なことを説いたものが多く、現代人にも通用します。従って、『出来事』が怪しいからと言って『教え』も怪しいと考えなければ良いのではと、区別して考えています。

しかし、梅爺はのんきな『不可知論者』なので、『教え』と『出来事』を分けて都合よく受け容れられますが、宗教を信ずるには、そのようなご都合主義は認められないとすると、なんとも厄介な話になります。

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2010年4月13日 (火)

確証バイアス(2)

『確証バイアス』は、『強い思い込み』で、それが『勘違い』と分かり手痛いしっぺ返しでも経験しない限り、自分では、『思い込み』であることに気づきません。他人には『滑稽』にみえることもありますので、『アバタもエクボ』とか『坊主憎けりゃ、袈裟までも』とか、笑いの対象になってきました。

人間並みの高い理性を待たない(持たないように見える)動物も、本能的な直感で、相手を受け容れたり、排除したりしますが、人間の『確証バイアス』が厄介なのは、高度な『知的判断(推測、予測など)』が加わっていることで、特に、『抽象概念』までも、対象にしてしまうことが、ことを複雑にします。

『人間は、誰も自分に都合よく、考えようとする』という話なら、現実にそうなので、『しかたがない』と渋々認めざるを得ませんが、『自分と同じように考えない人間は、排斥する(時に殺す)』『自分の存在は無意味だと考え自殺する』というような強度な『確証バイアス』になると、社会問題になります。軽度な『確証バイアス』か、強度な『確証バイアス』かは、程度の問題で、紙一重ともいえますので、誰もが強度な『確証バイアス』にまで、発展してしまう可能性を秘めているという恐ろしい話です。

『確証バイアス』という習性を人間が保有しているのは、『自分を安泰に保ちたい』という精神的な『自己ヒーリング(癒し)』が本能的に働くためではないかと梅爺は想像します。

『確証バイアス』で面白いのは、人間はそれが一旦出来上がると、そのことに『都合の良い事象』を積極的に探したり、強く反応したりしますが、逆に『都合の悪い事象』には、目を向けなくなり、気づくための反応力が鈍ったりすることです。梅爺は自分の行動を考えてみると、嫌なことは考えまいとしますので、まさしく、このように対応していることが分かります。

『確証バイアス』は、自分なりに納得して作り上げるものもありますが、生活習慣など、子供のころから繰り返し体験してきたことや、親や先生の『教え』などの影響で、なんとなく身についてしまうものもあります。欧米で、子供は親と同じ宗教の宗派を踏襲する確率が高いことは、心理学では、『確証バイアス』の一種と指摘しています。

そういう意味では、親の子供に対する影響力は甚大ですので、強度な『確証バイアス』を押し付けることにならないような配慮が求められます。しかし、これは、『言うは易く、行いは難し』で、どこまでが許容範囲なのかを、梅爺は到底指摘できる能力はありません。『子供の幸せを願うこと』と『子供に親の価値観を押し付けようとすること』をわきまえて区別することは、親にとって易しいことではありません。

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2010年4月12日 (月)

確証バイアス(1)

『客観的にものごとを考えるようにしなさい』『相手の立場で考えなさい』とよく言われます。たしかに、このような努力は大切ですが、厳密に言えば、人は『客観的に考える』ことも『相手(他人)の立場になる』こともできません。それは、単純な理由で、『考える』行為は『脳の働き』であり、『脳の働き』は、脳神経細胞のネットワーク構造に依存していて、そのネットワーク構造の詳細は、一人ひとり異なっているからです。人間の『考え方』や『感じ方』は、すべて『主観的』であるといっても、過言ではないように思えます。

勿論、『脳の大枠なしくみ』は、誰でも類似していますが、『詳細なしくみ』は、こと『考える(理と情を統合制御する)』『感じる』に関しては『異なっている』ことが、人間関係を多彩なものにし、時にややこしいものにしています。たとえば、『富士山』という名前や概念は、外見上多くの人が共有しているように見えますが、脳のどの部分で、どのように処理をしているのかは、誰もが『同じ』とは言えません。『神』『正義』などの抽象概念では、なおさらの事です。『マクロには類似していて、ミクロには異なっている』という話です。

何故このように人間が作られているかは、生物進化の過程で、性生殖の方式が採用され、両親の遺伝子が、偶発的ともいえる状況で、子供に受け渡されるようになっているからです。両親が、それぞれ保有している3万種以上の遺伝子が、どのような『組み合わせで』子供に伝えられるかは、突然変異の発生も含め、予測不可能であり、結果的に、地球上の人間は、すべて異なった遺伝子で制御されていることになります。これも、『マクロには類似方式がとられているが、結果はミクロには異なっている』例です。子供は、当然マクロには親に似る確率は高いのですが、親のコピーではありませんので、厳密には『別人格』の保有者ということになります。

このような、理屈が分かっている梅爺でも、ある事象に遭遇した時に、他人が『自分と同じように考えたり、感じたりしていない』ことに気づいて、驚いたり、いらだったりしてしまいます。また他人から『頑固爺』『屁理屈爺』と呼ばれても、自分では『そう思って行動している自覚がなく』、キョトンとする場合もあります。

さらに、厄介な脳の働きとして、心理学者が『確証バイアス』と呼ぶ現象があることを、本を読んでいて知りました。いわゆる『先入観念の支配』のことです。脳の中に、自分では『確証』と思えることが一度出来上がってしまうと、今度は、その『確証』で、他の事象も判断してしまうという『習性』のことで、小説が題材にするような人間関係の多くの悲喜劇は、この『確証バイアス』で生じます。

『確証バイアス』というマクロな習性は、人間なら誰もが保有していますが、その『確証』が出来上がる過程や内容は、ミクロには、皆異なっていることが、ことを複雑にします。

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2010年4月11日 (日)

ホンネとタテマエ(3)

梅爺は、ブログを書き続けて、人間の脳の精神活動(その全体を『心』と定義する)は、『理』と『情』、『意識(随意)』と『無意識(不随意』の4象限の『絡み合い』であると考えるようになりました。このことには、何回も触れてきましたので、ブログを読まれた方には、『またか』と食傷気味の方もおられるかもしれません。

しかし、梅爺にとっては、こう考えることで、自分のことも含め、今までボンヤリしていたことが、ハッキリしてきたように感じています。

この考えに照らしてみると、『ホンネ』は、主として『情』に起因するものであり、『タテマエ』は主として『理』に起因するものと考えられます。

『ホンネ』では『嫌い』なものを、『タテマエ』では『好き』と表現するのは、周囲との関係で、『好き』といっておいたほうが自分に有利であるという判断が、働いているからにちがいありません。

『タテマエ』は、自分の『理』で考え出したものか、または影響力のある『他人(親、先生、友人、上司、僧職者など)』から『そういうものだ』と教え込まれ、『ホンネ』では、『そうではない』と感じていながら、『そういうものだ』と自分に言い聞かせて、できあがるものと考えられます。

人間は、『理』と『情』、『タテマエ』と『ホンネ』の対立で、自分の中に『矛盾』を抱え込むものだと、達観してしまえば良いのですが、生真面目な人は、その『矛盾』に悩み、極端な場合は『心の病』にまで、発展してしまうことがあります。『生真面目』は『チャランポラン』より、ずっと優れた人間の資質であるにもかかわらず、生真面目な人の方が『良心の呵責』などの『悩み』を抱え込んでしまう特性が強いということになります。悩みの多い人ほど、人間味のある人であるという事実は、重要なことを示唆しているように感じます。

欧米人は、『立場』という考えを肯定することで、『ホンネ』と『タテマエ』が異なることを苦にしない習慣を身につけているように見えます。つまり、そのとき自分がどの『立場』に属するかで、言うことが異なっても、それほど気にかけないで済ませますが、日本人は、『立場をコロコロ変える(手のひらを反す)』ことは、『人間として卑劣なことだ』という『タテマエ』に、強く支配されていますので、『悩み』を内に抱え込んでしまう習性が強いように思います。

梅爺は、日本人ですので、『悩み』を内に抱え込む日本人の方が、人間として『魅力的』と感じます。『悩み』を持っている人は、他人の『悩み』も敏感に感知できるからです。『ぶぶ漬け(お茶漬け)でもどうだす』と京都の人に誘われたら、辞退するのが礼儀などという習慣を、『ホンネ』と『タテマエ』の文化が生んだ悪習とみるか、極めて奥深い『思いやり』と見るか、ですが、梅爺は、後者です。日本の奥深い精神文化は大好きです。

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2010年4月10日 (土)

ホンネとタテマエ(2)

一人の人間の中に、『ホンネ』と『タテマエ』という、異なった考え方が存在するのは、どうしてなのでしょうか。

『自分の信念に従って強く生きなさい』という教えは、他人の意見だけに従って生きている気弱な人を勇気付ける言葉かもしれませんが、もし本当に、誰もが『自分の信念』を押し通しては、グループや社会は成り立ちません。

そう考えると、『タテマエ』は、グループや社会にとっては、重要なものであることがわかります。

人間は、基本的に独りでは生きていけない動物であり、『群れ』を必要とします。『ホンネ』を押し通すと、『群れの秩序』が壊れ、『群れ』が存続できなくなれば、自分も結局存続できませんので、本能的に『危機感』を感じて、人間は、『タテマエ』という対応方法を習得したのではないでしょうか。しかし、あらゆる場合に、『タテマエ』が効を奏するわけではないところが、これまた厄介です。つまり、人間は、『ホンネ』と『タテマエ』のどちらに従えば、自分の存続に有利かを、常に判断しながら生きていることになります。

個人に『ホンネ』と『タテマエ』があるように、人間が構成するグループにも、同じように『ホンネ』と『タテマエ』が生じます。他のグループとの対立の中で、どちらの考え方を選択するほうが『得(自分のグループが有利に生き残れるか)』か、という選択を迫られることになります。ビジネス折衝や、国と国の外交などの場では、お互いの『タテマエ』と『ホンネ』が微妙に絡み合うのは当然のことです。

梅爺が、昔アメリカの会社と折衝をした時に、必ず相手が先ず『Win-Win Situation(双方勝者になる条件)』の模索、や『Long Term Profit(近視眼的な利益ではなく、長期的な利益)』の重視を言い出し、苦笑してしまいました。『日本のビジネスマンと折衝する時には、そういう言葉が有効』と、きっと『ビジネス・スクール』で習ったのでしょう。『ホンネ』が全く含まれていないとは限りませんが、『タテマエ』の典型のような気がしました。

梅爺は、『ビジネス・スクールの教えが、常に正しいとは限りませんよ』と、皮肉ってみたい『ホンネ』が、喉まで出てきましたが、日本人の品格を保つために、なんとか押し殺しました。

個人であろうが、グループであろうが、周囲との関係で『自分に有利な条件』を見出そうとするのは、人種や国籍とは関係がありませんから、人間が存在するところには、必ず『タテマエ』は存在すると、梅爺は考えています。

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2010年4月 9日 (金)

ホンネとタテマエ(1)

外国人で少し日本通の人は、日本には、『ホンネ』と『タテマエ』という考え方があることを知っています。交渉などの席で、日本人は『タテマエ』しか口にしないので、言っていることが『本心』なのかどうか、判別がつかず、誤解を生じやすいという警戒心が彼等にはあり、日本人は、『enigmatic(得たいが知れない)』であると考えているようです。『enigma』はモナリザの微笑みを表現する時の言葉です。

梅爺は、現役の頃は、立場上、欧米人と折衝をしたり、国際会議で議論に参加しなければいけないことが多くありましたので、このことに関しては、用心して対応することにしていました。

勿論、梅爺も若い頃は、『ホンネとタテマエの文化』は、西欧の文化に比べて劣っているのかもしれないと、ボンヤリ『劣等感』を抱いていました。幸い、当時梅爺の上司であったMさんは、アメリカ留学の経験者で、Mさんが行う欧米人との交渉の席に何回も同席しているうちに、『ホンネ』と『タテマエ』は欧米人にもあり、別に日本人だけが、畏れ入ることではないことが分かってきました。ただ、日本人は、したたかに『ホンネ』と『タテマエ』を使い分けようとせず、いたずらに『ホンネ』を隠そうとしたりすることが、不利を招く原因であることを理解しました。

Mさんは、欧米人の発想や、交渉術を心得ていましたから、欧米人からみると、日本人としては珍しい『Tough Negotiator(やりての折衝人)』として、一目置かれていました。英語の会話力はもとより、英文のビジネス・レターなども、論理展開、簡潔で要を得た表現は、欧米人も舌を巻くほどのものでした。戦後吉田内閣に仕えた白洲次郎氏なども、こういう方だったのではないでしょうか。

梅爺は、Mさんの薫陶を受けた割には劣等生で、全ての点で最後までMさんのレベルには達しませんでしたが、それでも、日本人の標準からすれば、かなりの『Tough Negotiator』の部類であったかもしれません。

日本人が、外国人との交渉の席で、誤解されたり、『enigmatic(得たいが瀬入れない)』と思われるのは、『ホンネ』と『タテマエ』の問題もありますが、それよりも『外国語の会話能力不足』の方が、大きな要因のように思います。相手が話していることを理解できずに、当惑していると、相手には、それが『本心を見せないように、わざと無表情を装っている』ととられたり、困ってただニコニコしていれば、『何かを隠そうとして作り笑いをしている』ととられたりしてしまいます。

梅爺は、Mさんから、理解できないことは、何回でも『理解できない』と言い返すか、自分の表現で言いなおして、相手の意図を確認しなさいと教えられました。『何回も訊き直す』ことより、『分からないのに分かった振りをする』方が『失礼』だとも教えられました。『もっとゆっくり』『もっとはっきり』『ちがう表現で易しく』と何度も相手に問いただすわけですから、日本人同士なら、『いい加減にしろ』と相手は怒り出してしまいそうですが、良識的な欧米人のビジネスマンは、確かに根気よく対応してくれました。彼等から見れば、自分達は日本語が話せずに、不利なハンデキャップを相手(梅爺)に押し付けていることは理解していますので、こちらの態度を失礼と思わないのは当然の話です。

欧米人に『タテマエ』が無いわけではありません。彼等は、先ず『立場(Position)』を鮮明にし、その『立場』を擁護する発言(タテマエ)をすることは、『当然』と考えているだけです。そして、その発言が『個人的な意見(ホンネ)』とは異なっていることも、これまた『当然』と考えます。つまり、『ホンネ』と『タテマエ』の違いに、日本人のような『後ろめたさ』は、感じていないだけのことなのだと、梅爺は理解しました。日本人には、『ホンネ』と『タテマエ』が、本来『同じでなければならない』という考えがあるのではないでしょうか。

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2010年4月 8日 (木)

ホモ・フロレシェンシス(6)

『ホモ・フロレシェンシス』は、2004年に、権威のある科学誌『ネイチャー』に論文発表され、世界中から注目されることになりました。

従来、現生人類と共存していたことが確かな先住人種は、ヨーロッパの『ネアンデルタール』人だけと考えられていました。『ネアンデルタール』は、体格も脳容量も現生人種とほぼ同じで、特に劣っている点が見つかりませんので、何故絶滅したのかは、色々な『仮説』はありますが、はっきりしていません。

『ホモ・フロレシェンシス』は、インドネシアのフロレス島という、限定された場所とはいえ、1万2千年まえまで、生存していたことが考古学の調査で明らかになりましたので、『ネアンデルタール』の絶滅後、現生人種と共存していた先住人種が他にもいたということになります。

『ホモ・フロレシェンシス』が何故絶滅したのか、その先祖はどの種で、どこからこの島へいつごろ渡ってきたのか、現生人種が、この島へ渡ってきたときに何が起きたのか、など沢山の謎が、現在謎のままで残されています。

現生人種(私達)の中には、伝説的な言い伝えが沢山残っており、その中には『巨人族』『小人族』の話もあります。これは、単なる想像の産物ではなく、大昔に先祖が、『巨人族』『小人族』に遭遇していた名残かもしれないと、ロマンチックなことを考えてしまいますが、勿論これも確証がありません。

現生人類は、突出した脳の機能(論理思考、抽象概念処理、言語処理など)が産み出す高度な『精神活動』を保有しているために、『特別な生物』であると思いたくなりますが、人間を構成しているあらゆる『部品』は、他の生物の『部品』と全く同じものの寄せ集めに過ぎません。あらゆる生物の進化を系統的に図示すれば、人間もその中に含まれます。高度な『精神活動』を産み出している母体は、特別なものではなく、ありふれた『部品』で構成されているというところが、不思議な話です。

あまりに不思議なために、つい『肉体と霊は別物』『肉体は滅んでも霊は不滅』と言い出す人まで現れます。梅爺は、部品で構成される母体が滅びれば、その人の『精神活動』も消滅すると単純に推測しています。霊が『千の風になって』大空を駆け巡るという歌は、ロマンティックですが、生きている人の『願望』にすぎないと推定しています。しかし『霊は不滅』という主張を『理』で『マチガイ』だと論破する能力は残念ながら持ち合わせていません。

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2010年4月 7日 (水)

ホモ・フロレシェンシス(5)

『生物進化』は、『種』の中に生じた『突然変異』が、『少数派』から『多数派』へ転ずることで進行します。『突然変異』は、その名が示すように、稀な『偶然』で起きます。まさしく『偶然』で、これ自体には、『目的』や『意図』が含まれているわけではありません。その『種』が棲息する環境が、厳しいものに変化した時に、偶然『突然変異』したものだけがその厳しさに耐えられるものであれば、それまでの『多数派』は死に絶え、『少数派』である『突然変異したもの』だけが生き残り、その遺伝子が継承されて、種の『進化』が起きたことになります。

つまり、『進化』は、偶然の『突然変異』と、その『種』が棲息する環境の『変化』が関係していることが分かります。『突然変異』は、ある確率で起きますが、環境に変化が無ければ、『進化』は必ずしも起きないということになります。『多数派』が、環境に適していれば『少数派』がそれに代わる必然性はないからです。

梅爺は、『進化』は必ず起きるものと、最初は勘違いしていましたが、上記のカラクリが分かれば、シーラカンスが、数億年前の生態を維持している理由は理解できます。つまり、深海の環境が数億年前と変っていないからです。

逆に、『人間』が、極めて短期間(歴史的な意味で)に、ものすごい『進化』を遂げたということは、『人間』が、次々に襲いかかる『環境の変化』に、直面し続けてきたということを意味します。『少数派』が生き残り、『多数派』が死に絶えることを、数え切れないほど体験してきたことになります。私達は、その『勝ち残り少数派』の子孫です。

『ホモ・フロレシェンシス』という本を読んで、更に『進化』には、『島の法則』というのがあることを知りました。外の世界と隔絶された、比較的小さな島では、『種』は、その島の環境に合わせて『進化』するということで、島に食べ物が豊富に無いとすると、哺乳類は、『小型化』するというのが、『島の法則』です。

インドネシアの隔絶された『フロレス島』で、『人間』も哺乳類として『島の法則』に従って『小型化(小人化)』したのではないかという『仮説』がなりたちます。現生人類にもアフリカのピグミーのような『小人』がいますが、『ホモ・フロレシェンシス』は、その骨格などから、現世人種が『小人化』したものではないと、推測されています。

もし、この『仮説』が正しいとすれば、最初にこの島に何らかの方法でたどり着いた『人間』は、『小人』ではなく、その後、隔絶された島で『小人』になっていったと言うことになります。この『小型化(小人化)』という『進化』は、明らかに『種』の生き残りのためですが、そのために『脳容量』も小型化し、『知的活動の進化』という点では、逆に大きな制約を背負い込んだということにもなります。『進化』は、その時点での『動的平衡点』に落ち着くことであり、必ずしも絶対的な尺度で、『よい方向へ変る』ということではないことが分かります。

その意味で、『進化』は、『政治』の世界と似ていることに気づきます。試行錯誤を繰り返し、多くの犠牲者を出しながら、長い目で見ると『まあまあの方向』へ変っていくというのがそっくりです。

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2010年4月 6日 (火)

ホモ・フロレシェンシス(4)

梅爺は、学校で『ダーウィンの生物進化論』を習ったときに、釈然とせず、その後もずっと疑いを持っていました。『人間は猿から進化した』『地球上の全ての動植物は、元はと言えば細菌のような単細胞生命体から進化した』と、『結果』だけを『これが事実なのだ』と教えられたからです。

これは、日本の教育の典型的な欠点で、『どのようにして、そのような結果が生ずることが可能になるのか』という、『原因』については、何も教えないからです。梅爺のような、へそ曲がりには、これは、反って逆効果で、『それなら、猿はどうして進化せずに、猿にとどまっているのか』『シーラカンスのように何億年前の生態をそのまま進化せずに維持しているのはなぜか』と『疑い』の方が強まってしまいます。

しかし、その後、動植物の細胞内の小器官である『ミトコンドリア』や『葉緑体』に関する本を読んで、『生物進化』の理解が少し進み、『科学の定説』として納得して受け容れることができるようになりました。

人間は、高度に進化した脳を保有するために、これまた高度な『精神活動』を手にし、この『精神活動』が、自分自身をミステリアスなものにしています。『精神活動』の正体は、まだ科学的にほとんど解明がされていないために、謎は深まるばかりです。誰もが夢を見たり、きれいな景色に感動したり、子供のしぐさを可愛いと感じたりしますが、『何故そのような現象が自分に起こるのか』は分かっていません。そのために、『夢は神様のお告げ』とか、『肉体は死んでも、精神活動(霊)は永遠に不滅』とか、あまり根拠の無い説明を思いつき、口にします。逆に、分かっていないことであるからこそ、憶測で色々な説明が可能になり、その説明を聞いた人も、同じく分かっていませんから、根拠のある反論ができません。宗教は、ミステリアスな人間の『精神活動』が産み出したものではないかと、梅爺は感じますが、これも確証がありません。

『生物進化論』は、科学の定説ですから、『人間の精神活動』のように、説明のつかない『謎』ではありません。『進化は何故起きるのか』『進化は何故起きないことがあるのか』は、『謎』ではなく理由があります。

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2010年4月 5日 (月)

ホモ・フロレシェンシス(3)

人類種の進化は、『猿人』『原人』『旧人』『新人』と大雑把に区分けすると、理解しやすいように思います。勿論、これは学術的な区分ではありませんので、厳密ではありません。『猿人』は、7~8百万年前から2百万年前まで、『原人』は2百万年前から80万年前まで、ネアンデルタールなどが属する『旧人』は80万年前から2~5万年前まで、私達が属する『新人(ホモ・サピエンス)』は、20万年前から現在までというところでしょうか。

何度も書いてきたように、現在地球上には、『新人(ホモ・サピエンス)』しか存在していませんので、その他の人類種は、全て『絶滅』したことになります。『ホモ・サピエンス』の先祖は、『旧人』の『ホモ・ハイデルベルゲンシス』と考えられています。

『直立二足歩行』は、『猿人』から始まったと考えられますが、本格的に『樹上生活』から『地上生活』へ移行したのは、『原人』の頃からではないかと推測されます。『脳容積』が飛躍的に増加し始めたのは『旧人』の頃からです。簡単な『道具』は、『猿人』の頃から見受けられますが、本格的な石器や土器は『原人』以降で、『脳容積』の増加に呼応しています。

『新人』は、総合的に『地上最強の生物』として、今日地球を支配していますが、『原人』の頃までは、むしろ『弱い生物種』で、巨大な肉食獣の『餌』となる危険を常に感じながら生きていたはずです。『餌』となることを回避するための『恐怖の本能』などは、この頃獲得したものとして、私達の中にも引き継がれていると考えられます。

ところが、『旧人』『新人』となって、『高度な道具』『知恵』『高度な言葉』などが進み、人類種は、むしろ『餌』になることから、逆に他の強い生物の『ハンター』に立場が変りました。『人類種』が進出した地域で、ほとんどの巨大生物種が絶滅してしまったのは、『人類種』がこれらを『餌』として狩猟の対象にしたからと考えられています。『人間の増加で他の生物種が絶滅する』傾向は、今でも続いています。

インドネシアで見つかった『ホモ・フロレシェンシス』は、『原人』に属すると考えると辻褄があいます。フロレス島という、隔離された環境ゆえに、約100万年の間『原人』のままで、『新人』の時代まで(1万2千年前まで)存続し続けた、極めて例外的な『人類種』であると考えられます。

生存に適した環境では、『生物種』は、進化せずに、昔の原型を保って生息し続けることは、シーラカンスや、ある種のトカゲなどで分かっていますので、『人類種』でそのようなことが起きることも、ないとは言えません。

厳しい生存のための環境では、『進化』し、安泰な環境では『進化』しないということは、人の人生になぞらえて考えると、なかなか示唆に富んでいます『艱難辛苦汝を玉にす』とは良く言ったものです。

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2010年4月 4日 (日)

ホモ・フロレシェンシス(2)

インドネシアのフロレス島に、1万2千年前まで、『現生人類』以外の『人類種(ホモ・フロレシェンシス)』が生きていたという事実は、考古学的な常識を越えていますので、世界中の注目を集めました。1万2千年前の日本は、縄文人の時代です。

発見された『ホモ・フロレシェンシス』の骨は、成人女性のもので、身長が1メートル程度の『小人』であることから、『ホビット』という愛称で呼ばれています。『現生人類』に比べて、相対的に手が長く、足が短いという特徴があり、木登りが上手で、地上を走ることは得意としなかったであろうことが推察できます。人類種が、進化の過程で、『樹上生活』から『地上生活』に移行したことを考えると、この特徴は示唆に富んでいます。

『ホビット』が一番考古学者を困惑させたのは、脳の容積が400ミリリットルしかないのに、遺跡を見る限り、土器を所有し、獰猛なコモドオオトカゲの攻撃を回避し、小型ゾウを食料として狩っていたらしいことが分かったからです。『現生人類』の脳の容積は、1300ミリリットル位ですから、『ホビット』は、1/3程度で、400ミリリットル程度の脳容積は、進化のプロセスを考えると、250万年前の『人類種』に相当しますので、とても、『石器』はともかく、『土器を持つ』という文化レベルに達しているとは考えにくいことになります。

『ホビット』が、従来の考古学の定説では、『説明できない』からといって、『事実』を否定、排除できませんから、学者は、一見『例外』に見える『事実』を『例外ではない』とするための、新しい定説を組み立てようと、努力をしていることを知りました。他の科学領域同様、『例外』の発見は、新しい定説を生み出す要因になることが分かります。

フロセス島という、閉ざされた環境が、『古い人類種』を永年生存し続けさせたと考えるのが自然ですが、それでは、『ホモ・フロレシェンシス』の先祖は、一体どこから、この島へ渡ってきたのか、それはいつの頃であったのか、というような新しい疑問が沸いてきます。

勿論、まだ定説は確立していませんが、著者は、この本の中で、色々な仮説を提示しています。

『猿種(チンパンジーの先祖)』と『人類種』が、枝分かれしたのは、700から800万年前のアフリカ中部と考えられていますが、それ以来『人類種』は、地球上のどこへ、どのルートで移り住み、どのような進化を辿ったのかという全貌は、未だ分かっていません。『現生人類』は、17万年前に、アフリカ中部に出現し、7~8万年前にそこから世界中に広まっていったと考えれらていますが、それ以前の『人類種』も同じく、アフリカを基点に世界中へ拡散していったと考えられます。

日本へ最初に到達した『人類種』は、『現生人類』であったと考えられています。それ以前の『先住人類種』の化石が今のところ発見されていないからです。しかし、北京原人、ジャワ原人などアジアでも、『先住人類種』は発見されていますので、日本には達していなかった、と断言は難しいのかもしれません。人類考古学は、まだまだ謎に満ちています。

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2010年4月 3日 (土)

ホモ・フロレシェンシス(1)

私達は、気軽に『人類絶滅の危機』などという言葉を使います。『核兵器の乱用』『地球環境の人類による破壊』『新型病原ウィルスの出現』などを戒める時の外に、『地球以外の天体の小片との衝突』の可能性や、時にはSF小説のような『地球外高等知性生物(宇宙人)による攻撃』などもその原因として挙げられます。しかし、腹の中では、『人類はそう簡単には絶滅しない』と考えているからこそ、気軽にこの言葉を口にするのではないでしょうか。したがって多くの人は、近い将来人類が絶滅することはないと考えながら生きています。

しかし、私達『現生人類(ホモ・サピエンス)』だけが、地球上で唯一『絶滅』を経験したことがない『人類種』で、他の『人類種』は全て絶滅してしまったことを知れば、私達が『絶滅』しないという保証はありませんから、少し心細くなります。考古学的に分かっているだけでも、20種以上の『人類種』が過去に『絶滅』しています。何故『ホモ・サピエンス』だけが、生き残ったのかの理由は、色々な説がありますが、全て解明されているわけではありません。『人類種』と同じ祖先を持つ『猿の種』は、現在でも地球上に、沢山存在しているのに、何故『人類種』だけが、一種類に集約されたのかは、不思議な話です。もし、唯一の生き残り『人類種』である私達が『絶滅』すれば、永い『人類種』の歴史に、終止符が打たれることになります。その後に、新しい『高等知性生物』が、また進化で出現する可能性はありますが、現在の『人類』と類似したものになるとは限らないことになります。つまり、私達は『高等知性生物』の『理想形』ではなく、色々な偶然で、このような形の生物になったということに過ぎません。人間が神の形に似せて造られたという保証はありません。

最も、近い過去に『絶滅』した『人類種』は、ヨーロッパに生息していた『ネアンデルタール人』で、2~3万年くらい前のことというのが、考古学の従来の定説でした。『ネアンデルタール人』は、『現生人類』とほぼ同じ体格、脳の容積を持っていたと考えられています。

ところが、この定説をひっくり返す、『大変な発見』が2004年にありました。インドネシアのフロレス島というところで、1万2千年前まで生息していたらしい『人類種』の、成人女性の骨が発見されたからです。『ホモ・フロレシェンシス』と命名されたこの『人類種』は、背丈が1メートル位の『小人種』であることも含め、従来の人類考古学では説明がつかないことで話題になりました。

最近シベリアの洞窟から、現生人類でもネアンデルタール人でもない『デニソワ人』の骨の一部が発見されたという報道がありました。3~4万年前の地層から発見されましたので、『デニソワ人』は、ヨーロッパで、現生人類、ネアンデルタール人と、同じ時代まで生存していたことになります。

『ホモ・フロレシェンシス』の発見者、マイク・モーウッド(オーストラリアの考古学者)が発見の経緯を書いた本『ホモ・フロレシェンシス(NHKブックス)』を読んで、梅爺の好奇心はかきたてられました。、

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2010年4月 2日 (金)

蛙のつらに水

上方いろはカルタの『か』、『蛙のつらに水』の話です。

『厚かましくて、どんな仕打ちも、平然と受け流す』という意味の諺で、多くの場合『無知による厚顔』を意味します。従って、『煮ても焼いても食えぬ奴』ということになり、そういう人物に遭遇したら、『何を言っても無駄ですよ』というあきらめの感覚が漂っています。汚い表現で恐縮ですが、梅爺はこれを『蛙のつらに小便』と覚えていました。『水』よりは『小便』の方が、より『厚かましさ』が強調されるように思います。

『無知厚顔』を装って、窮地を切り抜けるという戦略家もいるかもしれませんので、表向きの対応だけで、ある人を『無知厚顔』と決め付けるわけにはいきませんが、『無知厚顔』は、『徳』のある人物にとっては、普通『恥ずべき対応』とされます。

しかし、よく考えてみると『無知』のレベルは相対的なもので、人間は誰もが『無知』であると言えないことはありません。そして、知らないことには、誰もが『怖いもの知らず』で対応しているに違いありませんから、『蛙のつらに水』は、突然、『蔑(さげす)むべき他人』のことではなく、『自分』に対する戒めの言葉であると判明します。

ソクラテスは、『自分が知らないということを知っている』と述べた『賢人』ですが、梅爺のような凡人の恐ろしいところは、『自分が知らないということを認識していない』どころか、時に『知らないことを、知っていると勘違いする』ところにあります。賢人の目には、梅爺は『蛙のつらに水』を繰り返しているように映るにちがいありません。なんとも畏れ多い話です。

『蛙のつらに水』は、『徳』のない人間を、蔑む諺としてだけ、受け止めているようでは、まだまだ修行が足りないということになります。しかし、この修行には妙手が無く、できるだけ多く、謙虚に他人の言葉に耳を傾け、そして最後は自分で考え、『自分が知らないことは何か』を、コツコツ確認していくしかありません。なんとも、年寄りの梅爺には、辛い修行です。

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2010年4月 1日 (木)

梅爺がもしアメリカで育っていたら(8)

さて、いよいよ、『梅爺が、もしアメリカで育っていたら』どうなっていただろうかを総合的に予測してみたいと思います。

環境の影響で、情感、美意識、倫理観などに、微妙な差が生じたかもしれませんが、別人格の梅爺になることはないであろうと想定しました。

梅爺の『理屈屋体質』は、遺伝子による先天的なものと思われますので、これはアメリカで育とうが、日本で育とうが変らないでしょう。この『理屈屋体質』は、アメリカで要求される『ディベート(討論)能力』には、きわめて有効に作用するのではないかと、手前勝手に想像します。

『自説を表現する能力(スピーチ、プレゼンテーション)』も、英語能力が備わっていれば、そこそこやれるのではないかと、これまた手前勝手に想像します。『ユーモア精神』も、少々辛らつなところはありますが、アメリカでも通用しそうな気がします。アメリカの『保守的な宗教感』は、肌に合わないと感じても、それは、要領よく、あしらって対応できると思います。

アメリカで、梅爺がどのような職業に就くかにもよりますが、日本で選んだようなビジネスの世界に身を置けば、自分の特徴は、むしろ日本社会よりも、『高い評価』を受けるのではないかと、自分に甘い評価をしています。

しかし、日本人である以上、アメリカ社会に潜在する『人種偏見』は、梅爺に不利に働くことは明白で、この壁を乗り越えるには、イチローのように『うむを言わさぬ高い能力』を発揮しなければなりません。梅爺は、『負けず嫌い』の性格がありますから、アメリカで教育を受けても、『大和魂』で頑張って、『そこそこの成績』は収められるような気がしますが、『うむを言わさぬ高い能力』までに至るかどうかは、自信がありません。

以上総合してみると、『そこそこの能力で、そこそこの評価を得、そこそこの仕事ができた日本』より、アメリカで育った方が、『幸せ』に違いないとは到底言えそうにありません。

日本人の梅婆と結婚してさえ、『価値観』の調整に苦労しているわけですから、仮にアメリカ女性と結婚などしていたら、神経をすり減らし、それだけで、エネルギーを消耗しきってしまったかもしれません。

『そこそこの年金で、そこそこの生活をし、能天気なブログを書いている』現状は、想定できる他の人生より、それほど、『悪くは無い』というのが、結論です。

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