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2010年2月28日 (日)

破天荒な小説『The White Tiger』(2)

この小説の主人公は、インドの極貧の村、つまり『闇の社会』から身を起こし、現在はバンガロールで『企業家』として成功している男です。

バンガロールは、世界中のITビジネスの『肩代わり(アウトソーシング)』を担い、成功を収めている会社が林立する、インドの中では『別世界』の都市です。つまり現代インドの『光の社会』を象徴する都市です。近代的な高層オフィスビル、アパート、ホテル、ショッピングモールが建ち並び、ここだけを見れば、インドの『驚異的な経済発展』を、外国人は感じ取ります。梅爺は、2001年末に、ソフトウェア会社設立の可能性を探るために、バンガロールを訪問する予定でしたが、『9・11事件』が発生して、出張がキャンセルになりました。その後も、都合がつかず、結局インドを訪れたことはありません。

『肩代わり(アウトソーシング)』は、外国企業の『ある部門の機能をそっくりそのまま肩代わり』するビジネスで、必ずしも製造業の『下請け』とは同意語ではありません。

このようなことが可能になる背景には、『ITビジネス』『ソフトウェア・ビジネス』の特性が関係します。創出される『プロダクト』や『サービス』が、『通信』だけで搬送されますので、『仕事の実行場所』が、先進国の国内である必要がないという特性です。

勿論、このビジネス形態は、『肩代わり』する国の人たちの『技術能力』『言語能力』が高いことと、その割には労働コストは低いという条件で成り立ちます。現在、この条件を満たして、グローバル経済の中で急成長をしているのが、インド、アイルランド、そして東欧の一部の国です。『IT』の出現が、これらの国々の経済的な救世主になっているわけです。

『肩代わり』には、『設計・開発代行』『企業ITシステムの運用代行』などがありますが、『コール・センターによる顧客サービス代行』もその一つです。アメリカ人のパソコン顧客が、アメリカ国内から『マイクロソフト』の『コール・センター』に電話をして、不具合の相談をすると、電話は即座にインドへ転送され、実際の対応は、インド人が英語で行うという仕組みです。アメリカ人は、『訛りの強い英語』に少し戸惑うかもしれませんが、これで、一応の目的は達成できます。マイクロソフトにとっては、大幅なコスト削減が可能です。

アメリカとインドでは『時差』がありますので、インドの従業員の一部は、深夜勤務になるために、出勤、帰宅の交通手段が必要になります。この小説の主人公は、ここに眼をつけ、『コールセンター従業員の送り迎え専用のタクシー会社』を設立し、大成功を収めているという設定です。新しいビジネスの周辺には、また新しいビジネスが生まれると言う話で、それを見落とさないめざとい人は、『企業家』として成功するという典型例です。

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2010年2月27日 (土)

破天荒な小説『The White Tiger』(1)

小説は、私達を思わぬ世界へ引きずり込みます。主人公に共感したり反撥を感じたりしながら、いつの間にか感情移入して、一緒に、泣いたり、笑ったり、怒ったりすることもありますが、主人公が置かれている、破天荒な環境(少なくとも、自分の常識では破天荒に見える環境)に驚かされ、こんな環境に、もし自分が置かれたら、どう生きていくのだろうと、考え込んでしまうこともあります。読み手は、安全な『観客席』に身を置いているとはいえ、小説は、手軽に人生の『仮想体験』ができる手段であることが分かります。

2008年、英国の『The Man Booker Prize』を獲得した小説『The White Tiger(白い虎)』を本屋で見つけ、読みました。英国で出版された英語版ペーパーバックスです。受賞作品なら、『面白い』だろうと単純に判断して、購入しただけですが、『破天荒な仮想人生体験』をすることになりました。

作者のAravind Adiga氏は、インド生まれのインド人ですが、オーストラリアで育ち、米国のコロンビア大学、英国のオックスフォード大学で学んだ、言ってみれば西欧的な教養を身につけた人です。現在は、インドのムンバイに住み、欧米の有名新聞の特派員として活躍中です。『The White Tiger』は、小説としては、彼の処女作です。

この作品は、人間社会が宿命的に保有する『闇の社会』と『光の社会』のせめぎあいをテーマにしています。『闇の社会』は、生まれてから死ぬまで、極貧や無教養から逃れられない世界で、『光の社会』は、富や栄光を勝ち取った(勝ち取ったように見える)人たちで構成される世界です。

『闇の社会』と『光の社会』は、どの国家にも存在しますが、その差が、比較的に小さく、『曖昧(あいまい)』になっている国家ほど、『文明度』が高いと言えるのではないでしょうか。日本は、『格差社会』と皆が騒ぎますが、世界の中では、相対的には珍しいくらい格差が小さい『文明国』です。国民全員の教育を最重要課題の一つにした、明治政府の慧眼に感謝すべきでしょう。教育は、格差を助長もしますが、緩和もする両面を持っていて、特にこの緩和する力が重要です。

世界は今でも、『想像を絶する格差社会』が存在する国家で満ちています。日本の隣にある『独裁国家』や、アフリカの無政府状態とも言えるいくつかの国は、その筆頭ですが、『発展途上国』として脚光を浴びる、中国、インド、ロシア、ブラジルなども、格差を抱える国家です。

ニュースは、その国の『光の社会』を取り上げる頻度が多いために、日本人は、他国の『闇の社会』の、存在や、程度を正しく理解していないように思います。世界中が『日本と同じ』と勘違いしてところがあるように思います。

この小説は、インドの『闇の社会』と『光の社会』を、あからさまに描いたものですが、見方をかえれば、人間社会の根源的問題を提起していることにもなります。

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2010年2月26日 (金)

アトランティス・ミステリー(6)

プラトンの生まれる前の世代には、ペリクレスという『民主制』の優れた指導者を擁し、繁栄を誇ったアテナイですが、プラトンの時代には、指導者に恵まれなかったために、『民主制』ではない『哲人統治』を希求するようになったのであろうと梅爺は想像しました。

それにしても、面白いと感ずるのは、人類は今から2500年前に、既に『民主制』を実現し、その長所短所を体験して、その結果、皆で代表者を選ぶと、ろくなことにならないので、選挙などしないで、優れた人材が指導者になるという方が良いのではないかというプラトンのような反論が存在していたということです。

『民主制が良い』、いや『独裁制が手っ取り早い』という議論を、その後延々と続けられ、現在では『民主制』がやや有利な状勢にありますが、『民主制』からは、なかなか『優れた指導者が出てこない』というジレンマは、解消されていません。そのことは、日本の現状を見れば、誰もが理解できます。

梅爺は、会社の現役時代に、何代もの『社長』に仕えましたが、いずれも、尊敬に値する傑出した人材と言える方々ばかりでした。つまり、『哲人統治』に近い状態であったということですから、サラリーマンとして、これは途方もない幸運なことでした。もし『皆で社長を選ぶ』という方式であったとしたら、同じ人選にはならなかった恐れがあります。

『民主制で実現される哲人統治』が理想的ですが、人類は対応方法をまだ見つけていません。『首相になりたい人が首相になる』のではなく『首相にふさわしい能力をもった人が首相に選ばれる』というように、変えるにはどうしたら良いのでしょう。最低限の『資格審査』に合格しないと、立候補できないというようなことになるのでしょうか。梅爺も名案が浮かびません。

プラトンが、『過去の良き時代のアテナイ』に思いを馳せながら、海上支配で欲望を募らせる当時のアテナイに、『滅亡への道を歩むことになるぞ』と警告するために、『アトランティス』のたとえ話を創作したのであろうという、著者(庄子氏)の仮説は、それなりに一理あると梅爺は感じました。前にブログで紹介した朝河貫一が『日本の禍機』という著作で、軍国日本が滅亡の道を歩むと警告したような話です。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-c73b.html

良くできた作り話は、やがて人々によって伝承され、『真実』であると考えられるようになるという、人間の習性を、プラトンは熟知していたのかもしれません。

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2010年2月25日 (木)

アトランティス・ミステリー(5)

この本の最後の部分には、著者、庄子大亮(しょうじだいすけ)氏の推理内容(仮説)が提示されています。

結論的には、『アトランティスは、プラトンの意図的な創作である(実在しない)』というものですが、その結論を導き出す根拠として、『ギリシャの歴史背景(プラトン当時までの)』と『プラトン自身のものの考え方(価値観)』を引用してています。

梅爺も、以前、キリストの出現や、その教えの必然性を考えるには、『ユダヤの歴史背景(当時ローマ帝国支配下で、ユダヤの神ではなくローマ皇帝崇拝を強いられていた)』と『キリスト自身の、ものの考え方(当時のユダヤ教の腐敗に対する批判)』を前提とする必要があるのではないかと、恐れ多くもブログに何度も書きましたので、この著者の同様な発想には同意します。歴史的な資料や著作を理解するには、内容に加え、背景や、それに関与した人たちの考え方を合わせて考える必要があります。同じく、私たちが異文化を理解するには、その歴史や言語を知る必要があるように思います。

プラトンは、都市国家アテナイの市民ですが、彼が生まれた当時(紀元前427年)のアテナイは、紀元前6世紀の繁栄の後の、混乱期でした。紀元前490年の『マラトンの戦い』、紀元前480年の『サラミスの海戦』で、アテナイは、侵攻してきたペルシャ軍を打ち破り、名声が高まりますが、その後、民主制の無能な政治家による迷走(シチリアへ出兵し敗北)や、宿敵スパルタとの対決(ペロポネソス戦争:紀元前431年~404年)が続きました。プラトンの時代は、ちょうどこの時期に重なります。ペロポネソス戦争は、海上支配を強めたアテナイが、スパルタを刺激したためと考えられています。

アテナイの政治体制は、民主制が有名ですが、プラトンの時代に、クーデターによって、『有能な少数の人による寡頭政治』の成立が一時ありました。しかし、その後また民主派が、実権を取り戻しますが、その新政権が恐怖政治をおこなったために、プラトンは、国家像として、民主制ではなく、有能なプロの政治家による『哲人統治』を理想と考えるようになります。政治家や軍人は、平民が兼務する仕事ではなく、プロの専任者がこれにあたるべきという考え方で、彼の大著『国家』にそれが述べられています。

彼は、シチリアのシュラクサイに招かれ、彼の理想とする『哲人統治』国家を実践しようとしますが、シュラクサイが巻き込まれていた戦争のために実現できませんでした。

プラトンが『アトランティス』について記述したのは、晩年と考えられていますので、『アトランティス』を反面教師の素材にしたてて、間接的に当時のアテナイの政治体制を批判し、警告を送ったのだ、というのが、著者庄子氏の推測(仮説)です。

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2010年2月24日 (水)

アトランティス・ミステリー(4)

プラトンの書き残した『時期』や『場所』は、必ずしも正確ではないにせよ、『アトランティスの沈没』は、古代に実際に起きた何らかの史実を反映しているに違いないと、学者たちは、追及対象を拡大しています。

中でも、ギリシャの南方で、地中海に浮かぶ『クレタ島』で発掘された『古代ミノア文明』遺跡(クノッソス宮殿など)が、『アトランティス』の痕跡ではないかという説が有名です。『ミノア文明』は『ギリシャ文明』より古い文明であるからです。『クレタ島』の北方120キロメートルに、海底火山の大爆発でできた『サントリーニ島』があり、この大噴火の影響を『ミノア文明』が受けたことは、歴史的に符合します。この爆発の火山ガスが地球を覆い、寒い夏が10年も続いて、各地で飢餓状態が発生したと考えられています。神官でもある王が『自然も意のままに制御できる』と信じていた民衆が、これを機に王に疑いの目を向けるようになり、文明の混乱、衰退がはじまります、しかし、『ミノア文明』はその後50年は持ちこたえ、最後の衰退は、ギリシャ本土からの人的な侵攻が原因とするのが定説で、『一夜にして沈没』という説明とは符合しません。それに、『ミノア文明』は、開放的な海上貿易が基盤で、『アトランティス』のような強大な軍事国家のイメージもありません。

『サントリーニ島』そのものが、『アトランティス』ではないかという主張もあります。古代遺跡も発掘されていて、『一夜にして沈没』のイメージにも符合しますが、島の大きさが、プラトンの記述に比べて小さすぎるのが難点です。

この他にも、『アイルランド説』、『南極大陸説』など、『アトランティス』に関する『仮説』は沢山ありますが、いずれも『定説』になる決め手を欠いています。最もロマンをかきたてるのは、グラハム・ハンコックなどが主張している『南極大陸説』でしょう。現在の地球の地形は、2億年前に、一つの大陸から分割移動を開始してできたわけですから、現在の南極大陸とされるところが、緑の草木が生い茂る大地であった時代もあったことになります。しかし、ここ10万年にわたり厚い氷で覆われている南極大陸の地形は、現在では科学的な手段で正確に測定されていますが、古代から中世の人たちには、そこに大陸があることさえ、知られていなかったはずです。それなのに、16世紀にオスマントルコで描かれた『ピリ・レイスの地図』には、南極大陸らしいものが描かれています。当時、伝承されていた古文書や資料をつぎはぎして作成したとされるものです。古代人が、氷におおわれる前の南極大陸のことを何らかの伝承で知っていたとすると、『超古代文明』が存在していたという主張が重みを持ってきます。我々の文明は、人類文明としては最初のものではなく、『超古代文明の二番煎じ』であることになります。グラハム・ハンコックは、氷の下の南極大陸を発掘すれば、超古代遺跡が必ず見つかると、主張しています。

面白い説ですが、古文書の地図資料が、全て実測に基づくとは限らず、空想で描かれた地図もあるでしょうから、『ピリ・レイスの地図』のようなものの信ぴょう性は、それほど高くないのではと、梅爺は感じます。

しかし、古代エジプトに、なぜ突然高度な文明が出現したのかは謎ですから、『超古代文明からの伝承があった』と言いたくなる気持ちはよくわかります。

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2010年2月23日 (火)

アトランティス・ミステリー(3)

『アトランティス』伝説は、後に尾ひれがついて、『大陸』というような表現もされますが、原典のギリシャ語を正確に訳せば、『島』ということのようです。しかし、『アトランティス』やその中心都市の大きさに関する記述もあり、これによれば、現在の小アジアやアフリカの一部を含めた位の大きさということなので、『かなり大きな島』になります。

ギリシャ神話のポセイドン(海の神)の末裔という人たちが住み、ドーナッツ状の3重の水路で守られた中心に王宮があり、その水路の規模や、外部に広がる平野の大きさまで、具体的な『数値』を用いて記述されています。水路は外海と通じていて、海上貿易で繁栄し、軍事力も強大で、当時の近隣世界は『アトランティス』の支配下におさめましたが、『アテナイ』だけは、その攻撃を撃破したとも書いてあります。『講釈師見てきたような嘘を言い』と言う揶揄(やゆ)がありますが、1万年前のことが、どうしてこのように鮮明に表現できるのかが不思議な話です。プラトンより1万年前に、ポセイドン信仰が存在した、『アテナイ』だけは屈しなかったというのも、ギリシャ人に都合のよい話で、にわかには信じがたいことです。

次なる問題は、『アトランティス』の『地理的な位置』で、記述によれば、ジブラルタル海峡の西の大西洋上にあったということになります。しかし、現代科学による海底調査では、それらしい規模の『島』や『大陸』の痕跡は発見されていません。勿論、ある程度の規模の島で、海中に没したものは見つかっていますが、『一夜にして水没』したものとは考えられていません。

2億年前には、現在の地球の5大陸は、一つの大陸(パンゲア大陸)であったというのが現在の『定説』で、その後分割、移動して現在のようになったと考えると、大西洋上に、ジグゾーパズルの失われた1ピースとして『アトランティス』が入り込む隙はありません。すくなくとも『大陸』という規模のものの存在は考えにくいことになります。

『時期』と『地理』が両方ともあやしいということになれば、『アトランティス』伝説そのものが、『デッチアゲの作り話』か、『他の歴史的事件』が粉飾されて伝えられたものかということになります。考古学者は、この『他の歴史的事件』と絡めて『アトランティス』伝説を解明しようとしています。ホメロスの叙事詩に現れる『トロイ』は、ながらく架空の都市と考えられていましたが、シュリーマンが執念で現在のトルコにその遺跡を発見したという前例があるからなのでしょう。

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2010年2月22日 (月)

アトランティス・ミステリー(2)

『アトランティス・ミステリー』という本は、今までに唱えられた諸説や、関連資料が網羅されている上に、著者自身の考え方も含め、平易な文章で書かれていますので、梅爺のような素人でも、スラスラ読めました。著者の庄子(しょうじ)氏は、大学講師で、古代西洋史がご専門であることを知りました。

プラトンが晩年に書いたと推測されている『対話編』に、数箇所『アトランティス』に関する記述がありますが、尻切れトンボになっているところから『未完』であろうと考えられています。プラトンより数百年昔のギリシャ人が、当時のエジプト人から『聞き及んだ』という内容です。つまり、『伝承のまた伝承』と言うことになりますが、『なんとも不思議な話ではあるが、しかしそれでも全面的に真実の話』と、わざわざ『対話編』には書いてあります。何故『真実』と断言できるのかは不明ですが、少なくとも現代の『常識』で考えると、とても『真実』とは思えません。

現代科学や考古学の『常識』で、『対話編』を解釈すると、『アトランティス』が海中に没した『時期』と『場所』が、全く腑に落ちません。

先ず『時期』が、現在より1万2千年前、プラトンの時代より約1万年前と書かれていることが問題です。1万2千年前は、現生人類の『石器時代』に属し、その時代に『文明都市、文明国家』が存在したと言うことは、考古学の常識からは、考えられないことです。エジプトでピラミッドが建造された古王国時代より、更に7~8千年前ということになります。現在までに地球上で発掘されたあらゆる考古学の遺跡、遺物からは、その時代の『文明都市、文明国家』の痕跡は一切見つかっていません。

私たちは、たった2千年前のキリストの時代のことでさえ、すべて分かっているわけではありませんので、プラトンが1万年まえのことを『真実』として太鼓判を押すのは、いくらなんでも『いかがなものか』と考えたくなります。

私たちは、考古学の資料から、現生人類の『文明の発祥』は、5千年前と考えていますが、実は、それ以前にも『文明の興隆と衰退』があったのだという説を唱えるグラハム・ハンコックのような人もいます。これが正しければ、現在の文明は『二番煎じ』ということになります。しかし、その痕跡が見つからないのは、『古い文明の大半』が、現在では『海底に埋もれてしまっているため』であるとの主張です。『古い文明』を持っていた人たち(現生人類に属する)は、何かの理由で『ほとんど死に絶え』、ごく一部生き残った人たちによって、文明の一部が、私たちに伝えられたのだ考えると、古代エジプトに、高度な天文学や数学(建築の基礎)が突然現れたように見える謎は解けるという考え方です。

『知られざる文明』が実は存在した、という主張はロマンティックな夢をかきたてますが、決定的な証拠が見つからない以上、『仮説』にとどまります。プラトンの書き残した『アトランティス埋没』の時期は、現状では『間違い』であろうという結論(推測)になります。

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2010年2月21日 (日)

アトランティス・ミステリー(1)

歴史に含まれている『謎』の部分は、『野次馬根性』丸出しで『妄想癖』の強い梅爺のような人間には、こたえられない興味の対象です。『そんなことを考えてみても、何の得にもなりませんよ』『もっとましなことに時間を使いなさい』というようなご忠告は、少しも効果がなく、誘蛾灯に引き寄せられる夜の虫の様に、それらしい情報があれば突進してしまいます。

『太古に、海に沈んだと伝えられる謎の文明大陸アトランティス』などは、格好の対象です。

世の中には、梅爺同様、『謎』に弱い『お仲間』が沢山おられ、中にはこれを研究の対象として没頭される学者もいますから、一人ぼっちの心細さを味わうことはありません。『アトランティスの謎』に関しては、数年おきに『国際的な学会シンポジューム』まで開催されるほどですから、れっきとした考古学の研究対象であるとも言えそうです。

繁栄を誇った国家(都市)が、一夜にして『海に沈む』『灰燼(かいじん)に帰す』というような『言い伝え(伝説)』は、多くの民族が保有しており、多くの場合、『神に背いて、悪徳を重ねた罰として』ということになっています。旧約聖書の『ソドムとゴモラ』などもその典型的な例です。

現代人が考えれば、『大地震』『大津波』『火山の大噴火』があったのであろうと推測できますが、科学知識を持たない古代の人々が、『神の怒り』と受け止めたのは当然のことです。

『アトランティスが海に沈んだ』という話は、ギリシャの哲学者プラトンの著作の中に記述されているために、『あのプラトンがいい加減なことは言わないだろう』ということで、『謎が謎を呼ぶ』結果になっています。同じようなことを梅爺がブログで唱えたとしても、『あの爺さん、ついに気がふれたか』と軽くあしらわれるのがオチですが、さすがプラトンともなると、『無視できない』ということなのでしょう。

それにしても、記述内容は、あまりにも現代の『常識』からはずれていますので、研究者を悩ませ続けています。

『アトランティス・ミステリー:庄子大亮(しょうじだいすけ)著PHP新書』という本を本屋で見つけ読みました。

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2010年2月20日 (土)

合唱が現代社会を癒す(3)

このドキュメンタリー番組では、優れた指導能力のある一人の青年合唱指揮者が、全く活気のなかったサウス・オキシーの町で、『市民合唱団』『少年合唱団』『若い男性だけのコーラス・グループ』を次々に結成し、最後は、これらが全員結集して大合同演奏を行う『市民フェスティバル』まで成功させます。

練習風景を観ていれば、同じ合唱を経験している梅爺には、この指揮者が、音楽ばかりではなく、『人間の組織』の統率や、個人の潜在的な能力を引き出すことに関して、優れた能力の保有者であることが分かります。合唱さえ利用すれば、何もかもうまくいくということではなく、合唱という手段と、この優れた指導者の組み合わせがあって、はじめて『奇跡』のようなことが起こるのだと分かります。

しかし、いくらこの青年指揮者が超人的であっても、やることなすことうまくいくという設定には、『本当だろうか』と疑念もわいてきます。多分、このドキュメンタリー作品を成功させるために、テレビ局が、巧妙に仕組んだ『やらせ』の部分や、資金提供があるに違いありません。

そうでなければ、駆け出しの市民合唱団が、一流のコンサート・ホールの演奏会に参加したり、ロンドンの一流スタジオでCD作成のための録音をしたり、市民フェスティバルの壮大な野外舞台を設置したりは、とても財政的にできるはずがないからです。この青年指揮者にしても、無料奉仕というわけにはいかないはずです。

梅爺が所属する『アカデミカ・コール』という大学のOB合唱団は、比較的経済的に恵まれているオジサン、ジーサン達の合唱団ですので、団員の自己負担で運営が可能になっていますが、それでも、練習会場、演奏会場の経費、指導してくださる先生方への謝礼、新しい楽曲の作曲依頼費用などは、それ相応の出費になります。この番組のように、思いついたら何でもできるというわけでもありません。

しかしながら、青年指揮者を『スーパー・ヒーロー』に仕立てるための『やらせ』が、この番組の背景にあるとしても、『人間がコミュニティを形成して生きていくということは、本来どういうことなのか』ということを深く視聴者に考えさせるという点で、番組の価値が薄らぐことにはなりません。

『一緒に歌う』『一緒に踊る』というような行為に、人間は本能的に熱中するようにできているとしか思えません。そうでなければ、世界中で、これほど多くの『お祭り』が継続的に行われてきたはずがないからです。『お祭りなんてバカラシイ』と理性で批判する人の遺伝子にも、『お祭り大好き』の基本習性はバッチリ組み込まれているのではないでしょうか。お祭りは、人間の『情』が求めるものなのです。お祭りの経費は、『事業仕訳』のような視点からは無駄と云えるかもしれませんが、『人間社会にはお祭りが必要』という視点を、『理』でバッサリ切り捨てることが、好ましいとは限らないような気もします。オリンピックは人類が考えだした最大規模のお祭りのひとつです。

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2010年2月19日 (金)

合唱が現代社会を癒す(2)

『孤独』は人間にとって最も恐ろしい状況であり、心が蝕まれ、笑顔は消え失せ、やがては健康までも蝕まれることになりかねません。『不安』『寂寥』は、脳が本能に近い『情』で感ずることで、基本的には『理』では癒せません。

個人が社会から見放されていないと感ずる状況を作り出すことが、第一の療法となりますが、第三者が手を差し伸べることだけでなく、個人自らが努力して何らかのコミュニティへ積極的に参加しようとする意志も重要です。しかし、現実には疎外感に打ちひしがれている人には、自分から行動することは難しいことになりますので、『参加しやすい状況』を周囲が提供することが先ず必要になります。

『市民合唱団への参加勧誘』は、まさしくこの『参加しやすい状況』の提供に相当します。コミュニティとしての合唱団に加わり、一緒に歌うことで、周囲の人たちと同じ『情感』を共有できることが、絆の回復につながっていきます。

更に、『合唱』は、芸術活動であるために、より高いレベルへ到達したいという意欲がわき、やがて『難しい課題』へ挑戦することになります。高いレベルへ向かっての向上心と、それが達成できた時の充実感は、『生きる喜び』へと変わっていきます。『合唱』には、晴れやかな『発表の場』があり、多くの聴衆が拍手や喝采で応えてくれた時に、自分が認められたと感じ、一層、コミュニティの中の『自分』を強く意識して、深い感動を覚えます。この番組の合唱団も、最初は、楽しいポップス曲から始めますが、やがてラテン語の難しい宗教曲へ挑戦をします。悪戦苦闘の末に、合唱のレベルが高まるにつれて、団員の顔は生き生きとし始め、自分に自信を取り戻していく様子が印象的でした。

『自分は一人ではない』『自分には向上しようとする意欲がある』『自分と同じ意欲を持つ仲間がいる』『自分の成し遂げたことを周囲が評価してくれている』という、人間が生きていく上で、最も重要な要素を、合唱がすべて満たしてくれていることが分かります。この番組の青年指揮者同様、会社の優れた経営者は、社員が同じように意欲をもち、達成感がえられるように、配慮します。

勿論『合唱』ばかりではなく、他の芸術活動、ボランティア活動、スポーツ、趣味の団体、宗教団体への参加も、同様な効果を発揮します。しかし、『合唱』はもっとも手っ取り早く、誰もが参加しやすい対象であるように思います。年齢、性別の制約なしに、合唱団は構成が可能です。『合唱』はまた、一人では絶対に体感できない『ハーモニー(和音の美しさ)』を感じることができるのも強みです。『ハーモニー』は『強い絆』を想起させてくれるからです。

アメリカは、財政のひっ迫から、公立学校の教師の数を減らし、特に、音楽や絵画の先生は、最初の削減対象になっているという報道を、最近テレビで観ました。現代社会に『最も必要とされる要素』を『最優先で削除の対象』としているようにも見えます。日本の『事業仕訳』同様、限られたお金を何に投下するかは易しい課題ではありませんが、近視眼的な判断が、社会を更に不幸へと追いやることがあるような気がしてなりません。

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2010年2月18日 (木)

合唱が現代社会を癒す(1)

NHKのBS放送で、5夜連続『合唱団をつくろう』という、イギリスのテレビ会社が制作したドキュメンタリー番組が放映され、合唱(男性コーラス)を現在生きがいの一つにしている梅爺は、大いに興味をそそられ録画して観ました。

一人の青年合唱指揮者が、ロンドン郊外のサウス・オキシーという町に、一人飛び込んで、コミュニティー(市民)合唱団を作り上げていく過程を追いかけた内容でした。この町は貧困層が住み、周辺の町の住民からは蔑視されている活気のない町でしたが、合唱団の活動で、サウス・オキシーの人たちがお互いの絆や、自分たちの町に対する誇りを取り戻していく姿が紹介されました。

この青年合唱指揮者は、以前、スポーツ中心で合唱には無縁であったイギリスの男子中学校に期間限定の教師として派遣され、少年合唱団を立ち上げて大成功を収めた実績の持ち主です。この模様も前にNHKBSのドキュメンタリー番組で『クワイヤ・ボーイズ』として紹介され、ちょうど同じころ、劇場封切されたアメリカの老人だけの合唱団を扱ったドキュメンタリー映画『ヤング@ハート』を観た感想と一緒に、ブログに感想を書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-3842.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-cbee.html

この番組を、『合唱の魅力を紹介する番組』と観るか、『現代社会が喪失してしまったものは何かを問いかける番組』と観るかで、受け止め方は微妙に変わってきます。

合唱にのめりこんでいる梅爺は、『そうだ、そうだ。やっぱり合唱はすばらしい。やっていて良かった』と合唱賛美の自己満足だけで終わりそうなところですが、今回はむしろ『現代社会が喪失してしまったものは何か、それは取り戻せるのか』という思いを強く感じました。つまり、合唱はこの番組では、一つの手段として紹介されているにすぎないと受け取りました。

この番組で紹介されるイギリスの『現代社会の心の荒廃』は、日本の都会のそれと全く同じです。『孤独な個人』が、偶然同じ地域に住んでいるというだけで、『コミュニティ』は存在しません。せめて、家庭には絆があるのかといえば、『伴侶に死なれて、寂寥に沈む孤独な老人』や『離婚で母子家庭になったの後、家庭内の諍(いさか)いが絶えない母娘』など、人間関係の最後の砦である家庭も、危うい状況になっている様子が紹介されます。

これもまた、何回もブログに書いてきたことですが、人間は『群(コミュニティ)をなして生きる』ことを、種の存続の条件として選択してきた生物であり、その条件が満たされない時には、『不安』を感じる(脳が危険信号を受け取る)ような遺伝子がプログラムされていると梅爺は推測してます。『他人の愛情を感じて嬉しく思う』のは、その裏返しの反応で、自分と群の間の絆が確認できて『安心』するからであろうと思います。

『そんな味気ない受け止め方や解釈しかできない梅爺は可哀そう。愛はもっとロンチックで崇高なものなのに』と、顰蹙(ひんしゅく)を買うのは、承知しています。愛が崇高であることを否定するのが目的ではなく、愛という崇高な抽象概念を、人間が創り出す原点が、どこにあったのかについて、屁理屈をこねているだけです。

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2010年2月17日 (水)

ルノワール展(国立新美術館)

Bougival_3 2月15日に、梅婆と国立新美術館(六本木)へ『ルノワール展』を観に出かけました。梅婆が、新聞販売店に頼んで、無料招待券を2枚入手してあったからです。年金生活の老夫婦にとっては、こういう抜け目の無さも、生活の知恵です。

1月20日から始まって、既に十万人の入場者を突破したとのことで、混雑を予想していましたが、平日で雨交じりの寒い天候のためか、ゆっくり鑑賞できました。

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ルノワールは、生前に巨匠としての評価を得ていた印象派の画家の一人です。生前には評価を得られず、不遇のまま世を去った他の画家に比べれば、幸せな人生を送った人です。『楽しくなければ絵なんか描かない』という彼の主張を裏付けるように、どの絵もはじけるばかりの色彩で『美しさ』『楽しさ』が表現されていて、たしかに『生きる苦悩』や『自分の中にある矛盾』などとは無縁のように見えます。しかし、『苦悩』や『矛盾』と無関係な人間などいませんから、彼はむしろ『それを表現しないこと』を、選んだのではないでしょうか。

風景画、静物画、人物画のいずれも、ルノワールらしさであふれていますが、特に魅力的な女性像、ピンクの真珠のような肌の裸婦像は、観る人を釘付けにします。

7308259 ルノワールの絵ばかりを80点一挙に観ることができる機会は、そうそうありません。さぞ主催者は世界各地から絵を集めるのに苦労したにちがないと想像しましたが、なんと80%くらいは、日本の美術館、会社、個人が所蔵しているものであることを知りました。日本がいかに経済大国、美術愛好国であるかがわかります。西欧以外の国で、これだけのルノアールの絵を保有しているのは日本だけでしょう。

ポーラ美術館が所蔵する何点かの絵を、科学解析して、ルノワールの特徴を研究した成果を展示するコーナーがあり、使用していた絵具の種類や、下絵と完成した絵の違いなどがわかりました。壮年期には、下絵を修正した跡が見受けられますが、晩年の絵は、ほとんど修正なしに描かれています。最後は、迷いのない心境に到達したのか、単に試行錯誤する意欲が減退したのか、どちらなのだろうかと、梅爺は興味深く感じました。

帰途、新宿の病院で脳梗塞のあとのリハビリに励んでおられる、合唱仲間の先輩Kさんをお見舞いし、元気な姿に安堵して帰宅しました。

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2010年2月16日 (火)

鬼も十八

上方いろはカルタの『を』、『鬼も十八』の話です。

私達は、これを『鬼も十八、番茶も出ばな』と続けて使います。少々ご面相に恵まれない娘さんでも、十八歳の時は、『若さでピチピチの魅力に溢れている』、番茶も最初に煎れた時だけが『美味しい』ということを言っています。ものごとには『旬』の時があり、それを過ぎると、いただけないものになってしまうということを、『鬼』などという毒舌に近い表現で揶揄しています。

『鬼』も、年齢を経るに従って、やがて『オバサン』『バアサン』になると、すっかり居直ってしまって、本来の『鬼』に戻りますので、虐げられる『オジサン』や『ジイサン』は、十八歳の『鬼』をただ、懐かしく思い浮かべるだけになります。

しかし、ユーモアが通じない女性陣からは、この『諺』は、別に女性を揶揄したものではない、そういう解釈は怪しからんと叱られそうなので、念のために申し添えれば、本当の意味は、『旬の時期を逸しないようにしなさい。物事にはタイミングがありますよ』ということであることは、梅爺も承知しています。

人生の難しいところは、いつが『旬』の時期なのか、当事者が気づかずに、後になってようやく気づき、後悔することが多いと言うことでしょう。自分の『旬』をわきまえて、『高い評価』を得るようにうまく振る舞い、『旬』が過ぎたら、そのこともわきまえて自重できる人は、そうそうはいません。

ある時期『旬』であったから、その状態はずっと続くと勘違いする人が大半で、本人は高い評価が継続して得られないことに、イライラしたりしますが、他人から観ると滑稽以外の何者でもありません。美貌を維持できると勘違いして厚化粧するオバサンのようなものです。あっ、また女性の悪口になってしまいました。公平を期すために、『オジサン』の例を挙げれば、昔会社で偉い肩書きであった人が、引退後も、後輩に偉そうに振舞ったり、昔スターであったスポーツ選手が、盛りを過ぎてもチームの待遇に不満を言ったりするする例はたくさんあります。他人の客観的な眼からは、いずれも滑稽です。

『旬』の食材ならば、誰でも見分けがつきますが、こと自分の『旬』に関しては、見極めがつかないという皮肉が、この諺には込められているような気がします。かく言う梅爺も、自分の『旬』がいつであったかは、今でも特定ができません。ただ、現在は『旬』ではないことだけは、間違いなく自覚しています。

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2010年2月15日 (月)

プレゼンテーション(7)

『プレゼンテーション』の主役は、『話し言葉による論理展開(説明)』です。『話し言葉』は時間の経過の中で、聞き手に伝わります。この特性を理解していないと、『プレゼンテーション』はうまくいきません。

『結論』を納得してもらうために、その理由や条件を話す必要がありますが、この理由や条件を、くどくど最初に話していると、聞き手は、どういう『結論』に向かっているのか、理解できずに、イライラしてきます。話し手の頭の中には、当然『結論』は入っていますので、自分は、極めて論理的に話しているという錯覚に陥りやすいことになります。ピラミッドの頂点へ向かうのに、土台の部分の説明を長々やられても、聞き手は、困惑するだけで、論理そのものにも興味を失ってしまいます。当たり前の話なのですが、『プレゼンテーション』では、よくある好ましくない事例です。

この弊害を避けるために、梅爺は、『プレゼンテーション』では、探偵小説の『倒叙法』の方法をよく使いました。つまり、犯人(結論)を先に提示し、何故彼が犯人かを、順を追って説明していきます。『刑事コロンボ』の手法です。こうすると、聞き手は、一体この探偵は、どうしてこの犯人を突き止めるのだろうと、論理を楽しみながら、『プレゼンテーション』に付き合うことができます。

『ブログ』も一種の『プレゼンテーション』ですが、原則的に『視覚情報(文字、絵、写真、動画)』だけで『聴覚情報(話し言葉、音楽)』を伴いませんから、事情が異なってきます。

それでも、ありとあらゆる『視覚情報』の特性を利用して、ブログを読まれる方が、『楽しく』『理解しやすく』読んでくださるようにと、趣向を凝らすことが可能です。梅爺が、愛読している山崎次郎さんのブログ『おゆみ野四季の道』は、毎日、次郎さんがご自分で撮影された『美しい写真』が掲載されている上に、文章も、強調したい部分の文字の大きさ、太さ、色を変えておられますから、楽しく、スラスラと読めます。梅爺の結婚した娘も、『料理ブログ』を掲載していますが、勿論、『料理そのものの写真』が、重要な役割を果たしています。

それに比べて、『梅爺閑話』は、堅苦しい内容の上に、『文章だけ』を原則としていますので、面白みに欠けていることは、梅爺本人が重々承知しています。文章だけで、どれだけ伝えることができるかに挑戦しているといえば、カッコイイ話ですが、実態は、不精を決め込んでいるだけですから、『プレゼンテーション』としては、あまり褒めたものではありません。

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2010年2月14日 (日)

プレゼンテーション(6)

『プレゼンテーション』で大事なのは、『内容』であることは、間違いありませんが、それに劣らず大切なことは、『プレゼンテーション』を聴いてくれる人の、人間的な特性を配慮することにあります。この二つが揃って、はじめて『プレゼンテーション』は、うまくいきます。

人間的な特性として、聞く人の年齢、性別、予備知識の保有レベル、テーマに関する関心度、などがありますが、それよりも『感性』への配慮が重要で、聴いている人が『聴きたくない』『見たくない』と思い始めたら、もうお終いです。

一番犯しやすい間違いは、昨日も書いたように、画面一杯に、ぎっしり話す内容と同じことを書くことです。文字が小さくて読めないなどは論外ですが、一般に、一つの画面に200文字以上が書かれていると、『読む気力』が損なわれます。画面は、これから『話されること』への関心をひくためのものですから、むしろ『これは、何のことだろう』と興味がわくものでなければなりません。新聞の『見出し』のような短い表現で、箇条書きにするのが、一番無難です。『時間の経過を伴う話し言葉での論理展開』が主役ですら、視覚情報は、あくまでもこれを補佐するために利用し、邪魔をしないように配慮しなければなりません。つまり、視覚情報の取得スピードは、聴覚情報のそれより、速いので、先に内容が想像できてしまったら、その時点で興味は薄らいでしまうということです。

参考のために、『プレゼンテーション資料』を印刷して配布する、というようなことがよく行われますが、こちらは、『視覚情報』だけになりますから、本来『プレゼンテーション』で使った資料とは『別のもの』を準備するのが理想的です。

話し手の、声の質、話す速度、抑揚、日本語のレベル(正しい文法、敬語など)、視線や立ち居振る舞いなど、全てが、聴く人に『好感』または『不快感』を呼び起こす要因になります。梅爺の経験では、『無駄の無い綺麗な日本語』が一番難題で、多くの人は、知らず知らずに『いわゆる』とか『だいたい』などという、言葉の『接ぎ穂』を、癖として連発し、聴いている人は、段々に『不快』と感ずるようになります。昔、巨人軍の長嶋監督が、『いわゆる、ひとつの・・・・』を繰り返し、漫画で茶化されたのも、この類(たぐい)です。

『プレゼンテーション』は、人と人とのコミュニケーションの手段ですから、実は、大変高い能力が要求されるものなのです。

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2010年2月13日 (土)

プレゼンテーション(5)

マイクロソフトの『パワー・ポイント』というソフトウェアを利用して、『プレゼンテーション資料』を作成すると、文字、グラフ、絵、写真そして時には動画や音まで挿入して、カラフルで、魅力的な『資料』が出来上がります。

梅爺の会社の、エンジニアの大先輩の一人は、『無教養な女が厚化粧をしているようなもの。論理や真意は、正しい言葉(文字、文章)で表現すべし』と辛らつに主張して、決して『パワーポイント』を使おうとしませんでした。確かに、肝心な『中身』のことを忘れて、『外見』だけに腐心するのは、馬鹿げています。

アメリカのIBM本社の経営を立て直すために、外部からリクルートされたガースナー社長は、当時社内に蔓延していた『パワー・ポイント病』を、強く戒めたと聞いています。経営建て直しの本質を考えずに、『きれいな資料』作りだけに専心することは、これもまた、『本末転倒』です。

しかし、これは『パワー・ポイント』が悪者ではなく、それを道具として適切に利用しない人間側に問題があります。『中身』と『外見』が、うまくバランスすれば、非常に効果的な『資料』になります。

最も重要なことは、『プレゼンテーション資料』は、言葉で行う『プレゼンテーション』を補佐するものであって、『話し言葉による、論理展開、真意の提示』の『邪魔』をしてはいけない、ということです。画面いっぱいに、小さな文字で、話す内容と同じことを、ぎっしり書き込む人がいますが、これは、全く逆効果です。人間の視覚情報取得スピードは、聴覚情報取得スピード(話し速さに依存)に圧倒的に勝りますから、話を聴く前に、『話の内容』が、聴衆に分かってしまい、話には耳を貸さなくなります。それに、小さな文字が、ぎっしり詰まった画面は、読むのも億劫で、かつ苦痛を伴いますので、興味が半減します。

聴衆が、生身の人間であり、一時に理解できる情報量には制約があること、何を言いたいのか理解できない話には、飽きたり苦痛を感ずること、などを、全てわきまえて『プレゼンテーション』は、行われなくてはなりません。日本人は、『スピーチ』が下手であると同様に、残念ながら『プレゼンテーション』もあまりうまくはないと感じています。

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2010年2月12日 (金)

プレゼンテーション(4)

梅爺が、仕事の現役の頃は、『企業向けの情報システム(コンピュータや通信技術を総合的に利用するシステム)』の構築、販売を担当する部署に属していました。当然顧客へ提案内容を説明する段階では、『プレゼンテーション』を行うわけですが、システム・エンジニアが、個人の能力にたよって案件別に『プレゼンテーション資料』を制作していましたので、『できばえ』にはバラツキがありました。

当時、商売の上でのライバル会社の一つが『日本IBM』で、ここのセールス(営業マン)は、客先で、極めてスマートな『プレゼンテーション』をおこなうと、評判になっていました。『日本IBM』には、『プレゼンテーション技法』をセールスに伝授する専門の『社内教育コース』があると聞き、梅爺は、ライバル会社であるにも関わらず、頼み込んで、その教育コースを傍聴させてもらいました。梅爺の会社は、『日本IBM』にとって、ライバルでもあり、顧客でもあったために、こんなことが可能でした。ビジネスは、『ギブ・アンド・テイク』であるということです。後に、今度は、梅爺が招待されて、『日本IBM』の人たちに、『IBMは外の人には、どのような会社に見えているか』という『プレゼンテーション』を行いました。草野球の投手が、大リーグへ乗り込んで、投げるような話で、なんとも複雑な気持ちでした。

『日本IBM』で利用されていた教材は、『プレゼンテーション』の本場、アメリカ本社の教育コースをそのまま翻訳して日本に持ち込んだものですから、『魅力的な資料の作り方』『魅力的な説明のしかた(話し方)』『顧客に好感を持ってもらうための服装、態度』など、事細かに体系化されていて、これでは、梅爺の会社のような、無手勝流では、太刀打ちできないと、打ちのめされました。知的作業さえも、内容を体系化してしまう、アメリカ流の凄さを知りました。

発奮した梅爺は、会社へ戻り、早速『わが社流プレゼンテーション技法』の教育コースを開設して、自分でもその講師を務めました。そして、若い人に『擬似プレゼンテーション』をやってもらい、その人が自覚していない『欠点』を指摘し、改めるように注意を喚起しました。梅爺は、アメリカ流の、『標準化、均一化』を求めずに、あくまでも『個人(説明する人)の個性的な魅力』を全面に打ち出すことを、重視しました。いまさら、アメリカ流を真似してみても、勝ち目はないと感じたからです。

おかげで、梅爺は『プレゼンテーション』に関する、基本留意事項については、かなり勉強をし、当時社内では、オーソリティということになってしまいました。

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2010年2月11日 (木)

プレゼンテーション(3)

アメリカ人は、『自己主張が強い』と一般に日本では考えられています。この表現は、間違いとは言えませんが、厳密には、『自分の個性的な考えを主張する』というより『自分の置かれている立場を強く主張する』という側面が強いことを、梅爺はビジネス折衝をしてみて感じました。多分、国際的な政治の場でも同じであろうと思います。

以下のプロセスが一般的です。

(1)自分の立場(ポジション)を明確にする
(2)立場を肯定するための主張をする
(3)相手の立場との違いを確認する
(4)相手を説得しようと議論(ディベート)する
(5)どちらも譲らない時に、相互に他の打開策(妥協策)を模索する

日本人が、誤解するのは、『立場(ポジション)』は、個人や会社や国が種々の理由で置かれている『立場』であって、その『立場』が、絶対的に『正しい』か『正しくない』かは、別問題であるということです。つまり『立場にとって有利になること』を主張してきます。従って、極端な場合、個人としては『立場』は『正しい』とは考えていない場合もあるということになります。

前にもブログに書いたことがありますが、『カラスは白い』という『立場』に自分がいる時は、たとえ個人的には『カラスは黒い』と思っていても、『何故カラスは白いか』を主張するということになり、日本人は戸惑います。日本流に言えば、『ホンネとタテマエ』が異なる場合があるということになりますが、『立場』を主張することは『悪いことではない』という価値観が前提ですから、あまり罪悪感は伴いません。この『立場』の違いをベースに、相手を説得する手法が『議論(ディベート)』であり、アメリカでは、小学校の時から、『ディベート』の訓練が行われます。

日本人は、『議論』と言えば、『正しい』か『正しくない』かを論ずることと、単純に考えてしまいますので、アメリカ流に戸惑うのは当然で、梅爺も、何度も痛い目に会って、ようやく上記のプロセスや、彼らの考え方を理解するようになりました。

ビジネスは政治の場同様に、『立場の違いのぶつかり合い』ですから、『主張のしかたの巧拙』が、決定的な要因になります。『スピーチ』は、勿論重要ですが、『視覚的な情報提示』を含む『プレゼンテーション』はそれ以上に重要な手段になります。

『自分の立場を有利にする』ために主張する、『自分の立場に好印象を持ってもらう』ために、『理(論理)』だけでなく、『情(情感)』も含めて、ありとあらゆるテクニックを駆使することになります。オバマ大統領の演説は、『スピーチ』『プレゼンテーション』社会である、アメリカを象徴しています。この能力がなければ、政治やビジネスの世界で成功することはおぼつきません。子供の時からの訓練と、もって生まれた才能に恵まれているという条件が揃っているわけですから、これに比べて日本の政治家の『スピーチ』が貧弱に見えるのは、しかたがないことかもしれません。

魅力的な『プレゼンテーション資料』を準備することが、ビジネスの必須要件になります。パソコンが無かった時代は、透明な専用用紙に内容を描き、オーバーヘッド・プロジェクターで、表示する方法が主流でしたが、パソコンの登場で、『パワー・ポイント』を利用して作った『紙芝居形式の資料』が、主流に変わりました。『プレゼンテーション』社会の特性をうまく利用して、ビル・ゲーツは大もうけしたことになります。

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2010年2月10日 (水)

プレゼンテーション(2)

欧米と日本の文化の基本的な違いを理解する上で、『プレゼンテーション』は格好の検証材料であると思いますが、同根と思えるものに、突飛なように見えるかもしれませんが『アイドル歌手』の受け容れ方の違いがあるように感じています。

大人になりきっていない少女に、一種の魅力を感ずるという性向は、万国共通ですが、それにしても、日本の『カワイコチャン、アイドル歌手』をもてはやす文化は、世界中を見渡してみると、非常に特徴的です。女の子ばかりではなく、若い男の子やそのグループが、学芸会よりはすこしましな『振り付け』で、子供らしさが抜けきらない地声で歌い、同世代の人ばかりではなく、いい歳をしたオバサン達までが『キャー、キャー』騒ぐのは、どういうことなのでしょう。

最近では、この日本文化が、韓国、台湾、中国まで波及し、中国には『メイド喫茶』まで出現しているらしいので、『アイドル文化』を受け容れる土壌が、東アジアには共通しているようにも見えます。

『幼児性』や『オバカキャラ』を、『カワイイ』という共通語で受け容れるのは、『成熟した大人』であるより『カワイイ』方が、社会で生きていくために、『得な資質』であると、日本人の多くが無意識に考えているらしいことは、わかりますが、それが、何故なのか梅爺には、よく分かりません。平安朝の『源氏物語』や、江戸時代に爛熟期を迎えた『歌舞伎』などを見ても、むしろ『成熟した大人』を受け容れる文化のように見えますので、『カワイコチャン』文化が日本に蔓延したのは、意外に最近のことのようにも思えます。『カワイコチャン・スター』になれば、大金を手にできると言う、『アメリカン・ドリーム』ならぬ『ジャパニーズ・ドリーム』を大衆が見続けてきたからなのでしょうか。

日本人がアメリカ文化を『異質』と感ずることの一つは、『成熟した大人』を基本的に受け容れる文化であることではないでしょうか。日本とは逆に『成熟した大人』であると周囲に受け容れられることが、生きていくために『得な資質』であると考えられているように見えます。『カワイコチャン』『オバカ』を売り物にする芸能人もいますが、それは、むしろ『成熟した大人』文化を逆手にとった、発想で、日本のそれとは少し異なっているように思えます。アメリカにも、『アイドル・トップ10を選ぶ』というようなテレビ番組があり、梅爺も観たことがありますが、候補者の容貌は、『幼さが残るカワイコチャン』とは程遠いものでした。

アメリカへ行けば、成人男女が、『自分はカワイコチャン世代は卒業していますよ』と見せかける努力に余念がないことに直ぐに気付きます。男はやたらに『マッチョ』らしく威厳をつけて歩きますし、女は『成熟した大人』の魅力を見せ付けようと、踏ん張っているように見えます。

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2010年2月 9日 (火)

プレゼンテーション(1)

最近では、『プレゼンテーション(Presentation)』という英語が、日本語の中で頻繁に使われるようになりました。日本語は、何でも短縮してしまいますので、若い人は『プレゼンをする』などと表現します。

『Present』という英語の元の意味は、『自分の考えや思いを表現する』ということで、転じて『プレゼント(贈り物)』という名詞としても使われます。

『Appreciate』という英語の言葉も、英語を母国語とする人たちはよく使い、日本語では『感謝する』と訳されることが多いのですが、元の意味は『本当の価値や意義を理解する』ということです。

英語を習う時に、『Present:自分の考えや思い表現する』『Appreciate:本当の価値や意義を理解する』と覚えずに、『贈り物』や『感謝する』と覚えこんでしまうと、英語を話す人たちの、『思考文化』が理解できないことになります。外国語を勉強する時に、翻訳された単語の意味だけを覚えるのは、もったいない話で、異文化として相手の『思考文化』を知ることの方が重要です。『なるほど、そういう風に感じて、こういう状況を、このように表現するのか』と分かり、日本との文化の違いの根っこを垣間見ることができます。

『できるだけ、周囲の人たちと同じように振舞う』ことが『無難』とされる、日本の文化と、『自分の考えや思いを、表現しなければ生きていけない』という、英米の文化をの違いを、如実に表している言葉が『プレゼンテーション』です。これを、ただ『提示する』と訳してしまうと、この深い意味が伝わってきません。英語圏の人たちにとって、『Present』は、非常に重要な言葉なのです。

この文化の違いは、『農耕民族』と『狩猟民族』から由来するものとして、よく説明されますが、梅爺は、そればかりではないと感じています。ただ、『できるだけ自分を表現しない』ことを徳とする日本文化が『劣っている』とは考えていません。しかし、『自分を表現しなければ生きて生けない』と思っている人たちと、接する時には、相手の『文化』や『価値観』を理解しておいた方が、『有利』であることはまちがいがありません。日本人は、『自分の文化が劣っている』と感じ勝ちですが、そうではなく『違いを理解して、したたかに振舞う』ことが重要で、そういう日本人が増えることが、国際化への真の対応ではないかと考えています。

日本文化を知らない教養のない外国人の目には、日本人は『自分の考えさえも持たない、得体の知れない人たち』と映ります。彼らには、『自分の考えを持たない人間』は『軽蔑の対象』となり、そういう考え方に意味があるなどとは考えてもいません。従って、日本人が外国人と話していて、『相手が軽蔑しているな』と感じたら、『文化の違い』を先ず説明する必要があります。『文化の違い』や『立場の違い』を明確に説明できない日本人は、『軽蔑』されたままで終わります。

梅爺は、現役時代に、アメリカの会社とビジネスを行う機会が多かったため、『プレゼンテーション』については、切実な経験をすることになりました。

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2010年2月 8日 (月)

不思議の宝庫『脳』(4)

人間は、進化の過程で、生きるために基本的に必要な『情』の処理機能を先ず獲得し、その後、『理』の処理機能を獲得したのであろうと梅爺は推測しています。人間の高度な知的活動、精神活動は、『理』の処理機能がなければ実現できません。言い換えれば、人間という高度な動物の特徴は、他の動物に比べて、並外れた『理』の処理能力をを保有していることにあると言えます。中でも『抽象概念』を創造し、その概念を言葉を介して、他人と共有できる能力は、特筆に価します。『愛』『正義』『邪悪』などは『抽象概念』ですが、更に『愛の女神』『正義の剣』『邪悪の砦』などと、言葉を活用して、具象概念と組み合わせた表現までも作り出します。

そのような進化の順序のためか、外部の情報には、先ず『情』が反応し、その後で『理』が反応するという『しくみ』に脳はできているように感じます。つまり『情』が優先するということです。

『情』の反応が極度に強い時には、誰もが『我を忘れる』『理性を失う』状態になります。理性的といわれる人でも、『ついカッとなる』ことがあり、後で『理』を取り戻した時に、自己嫌悪に陥ります。計画的な犯罪は論外ですが、多くの犯罪は『前後のみさかいなくやってしまった』というのが、犯罪者の共通の弁です。

勿論、『情』はすべて悪いことにつながるわけではなく、『感動して口も聞けず、涙が止まらない』などという、すばらしい状態ももたらしてくれます。

子供は『天真爛漫』と言われますが、『理』で『情』をコントロールする能力が未だ身についていないからで、その後、色々な体験で人は『理』で『情』をコントロールする術を身につけて、大人になっていきます。つまり、かなり後天的経験が大きな役割をしているように思えます。それでも、大人になってからも、突然『理性を失う』ことがあるのですから、『情』の呪縛から逃れることは困難です。

脳に関する本には、『情と理が、情報交換する連絡路(パイプ)は、思いのほか細い』と書いてありました。『情』で起きたことを『理』が把握するには、時間がかかることを思い浮かべてみると、『なるほど』と肯けます。

パイプを太くすることは、人為的にはできないとすると、せめて『詰まらない』ことを願うしかありません。この『細いパイプ』が、人間らしく生きるための『命の綱』であるからです。

梅爺が、理屈をこねている間は、パイプは、どうにかつながっていることの証拠とも言えますから、『屁理屈爺さん』と呼ばれることは覚悟して、理屈を言い続けるしかないと考えています。

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2010年2月 7日 (日)

不思議の宝庫『脳』(3)

大雑把に言うと、右脳は、ものごとを『マクロ』に把握する機能が主で、左脳は、『ミクロ』な理解を積み重ねて理解しようとする機能が主であるという考え方が、『定説』のようです。人間は他の動物より格段に優れた言葉機能を所有していますが、言語は、主として左脳で処理されます。

『マクロな把握』と『ミクロな解析積み重ね』は、どちらも重要ですが、どちらか一方では、ものごとの本質を本当に理解することは、難しいと、梅爺は考えています。『木を見て森を見ず』『神は細部に宿る』は、いずれも正しい教えですが、一面的な表現であると感じています。

人間が『マクロ処理』と『ミクロ処理』の両方を、保有していることは、進化の過程で獲得したとはいえ『絶妙なバランス』であることに驚きます。

梅爺は、どちらかというと『マクロ把握』が好きで、『ミクロ解析』は苦手です。つまり『右脳人間』です。しかし、『マクロ把握』で、ある『仮説』を思いつくと、それを立証するために、嫌でも『ミクロ解析』をせざるをえない状況に追い込まれます。『梅爺閑話』をお読みいただいている方は、この梅爺の性格に気付いておられるにちがいありません。

世の中には、逆に『マクロ把握』が苦手で、『ミクロ解析』が得意な方、『左脳人間』もおられます。こういう方は、梅爺のような人間を、『大雑把な話で他人を煙に巻く』と非難しますし、梅爺のような人間は、逆の方を『群盲像をなでるに等しい』と非難しがちです。しかし、これは、どっちもどっちです。

近代科学は、主として『全体を知るために細部を極める』という考え方で進められてきました。しかし、いくら細部を覗いてみても全体が分からないものに、沢山遭遇し、『非線形科学』のような、『マクロ把握』を重視する新しい考え方に注目が集まり始めています。『脳』は、いくら細部を覗いてみても全体が分からない、典型的な対象です。

人間の知的活動、精神活動は、大脳皮質の中の脳神経細胞の結合で行われますが、この結合は、万人一律ではないところが、素晴らしい『個人』を作り上げる要因になっています。

外部情報を最初に感知した(大半は無意識な行為)時の情報処理は、誰も同じ『しくみ』らしいのですが、最終的に大脳皮質の脳細胞ネットワークを駆使した受け止め方は、個人個人で、異なるということになります。このことを正しく理解することが、人間関係では重要になります。例えば、同じ『母』という言葉を聴いても、頭に浮かべている内容は、個人個人によって異なっています。しかし、私達は、自分が思い浮かべたように、他人も思い浮かべているのだろうと『錯覚』しがちで、これが、人間関係の上で、齟齬の原因になりかねません。

芸術の鑑賞の仕方を、やたらに『解説』する方がおられますが、梅爺は好きではありません。同じ画を観、同じ音楽を聴いても、受け止め方は異なるのは、人間の特性を考えれば当然のことですから、端的に言ってしまえば『好き』『嫌い』『面白い』『面白くない』と、個人によって評価が分かれるのも当然です。嫌いなものを、無理に好きになる必要などありません。

『梅爺閑話』を読んで、もし、『考えを押し付けようとしている』と感ずる方がおられたとしたら、それは梅爺の不徳のいたすところです。本人は、勝手に『自分の心象』を書いているだけで、他人にも、同じように感じたり、考えたりして欲しいとは思っていません。

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2010年2月 6日 (土)

不思議の宝庫『脳』(2)

人間の右脳(右大脳半球)と左脳(左大脳半球)は、解剖学的には対象に見えるため、永い間、機能も対象であろうと考えられていたようです。右眼で見たものは、左脳で、左眼で見たものは右脳で処理される、というような話です。確かに、視覚、聴覚処理などは、そのとおりですが、最近、両脳は、それぞれ、異なった機能も分担しているらしいことが分かってきました。右脳は主として『図形の空間処理』、左脳は主として『言語処理』を分担しているというような内容がそれに相当します。

右脳と左脳に、別々に同じ質問をすると(そういうことが実験装置を使ってできるらしいのです)、『必ずしも同じ答が返ってくるとは限らない』ということが分かった、という内容を読んで、梅爺は、大いに興味を覚えました。

例えば、『あなたは将来何になりたいですか』と訊ねると、右脳は『プロ野球の選手』と答え、左脳は『学者』と答えることがあるというのです。にわかには、信じがたいような話ですが、更に、面白いのは、この後の展開で、左脳は右脳の答を感知して、『金持ちになれるから』とプロ野球になりたい理由を、求めていないのに述べるのに対して、右脳は左脳の答えには、一切感心を示さないというのです。

もし、これが人間の脳に共通の特性であるとすれば、私達が普段『自己は同一』と考えていることは『妄想』にすぎないという話になります。つまり、意識(随意)、無意識(不随意)と関係なく、右脳がある動作をすると、左脳は、懸命にその行為を正当化する理屈(弁明)を考えようとしていることになります。勿論、この左脳の動作も無意識に行われるということでしょう。この現象を、心理学者は『認知的不協和』と呼んでいるようです。どうして学者は、こんな難しい表現を採用するのでしょうか。『自分を肯定するための無意識な調停機能』といっていただければ、ある程度誰でも、推測ができますが、『認知的不協和』では、何のことか想像もつきません。

本来、人間の中には『多様な私』が存在しているのを、それでは『個』として収集がつかないというので、左脳が、懸命に『一様な私』に見せようと、絶えず『調停』をしていることになります。梅爺も、自分のことを考えてみると、『そうかもしれない』と感じました。ジキルとハイドのような二重人格者は、この『調停』がうまく機能しないか、または、その都度都合よく調停しているということかもしれません。

『多様な私』の中には、『嫌な私』もいますから、真面目な人は、多様を認めようとせず、他人にまで一様であることを要求します。それが、うまくいかないと、悩んだり、病気になったり、他人を恨んだりするわけですから、厄介な話です。

人間は、『チャランポラン』の方が、生命力が強いのかもしれません。

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2010年2月 5日 (金)

不思議の宝庫『脳』(1)

とにかく、脳に関する本を読んでいると、次々に、知らなかったことに遭遇し、『なるほど、そうかもしれない』と感ずることもあれば、『そうかなぁ。他の説明も可能なんじゃないかなぁ』と疑いたくなることもあります。

他人が断定したことは、そのまま鵜呑みにせず、『異なった考え方もあるのではないか』と疑う癖のある梅爺は、周囲からは『カワイクナイ』と言われますが、本人は、生まれつきの性癖とあきらめています。きっと先祖に、かなりのひねくれ者がいたに違いありません。

例えば、脳の本には、『日本人は欧米人より失語症になる確率が低い』と書いてありました。この本は、アメリカで学生用の教科書として書かれたものです。根拠は、日本語の特性にあって、日本人は文字として、漢字とかな文字を併用しているからだというのです。漢字(表意文字)は主として右脳で処理され、かな文字(表音文字)は左脳で処理されるので、何らかの脳障害で、どちらか半分が機能しなくなっても、言語認識機能を全て失うことはないというのです。ということは、アルファベットを使用している欧米の人たちは、左脳が機能障害を起こすと失語症になるということなのでしょう。

脳卒中などで脳障害を起こした患者を統計調査をして、この結論が得られたらしいので、何らかの真実を含んでいるとは思いますが、かな文字で綴られた文字群(単語)も、一度音に変換せずに、まとめて視覚的に、一種の表意文字として理解することもあるのではないかと、梅爺は疑ってしまいますので、漢字は右脳、かな文字は左脳と単純に断定できないのではないかという疑問が残ります。この本の説が正しいのなら、我々日本人は、先祖が採用した文字文化に感謝しなければなりません。

人間の『顔認識処理』は、一般の図形処理、画像処理とは別に、脳のある部分が、それ専用に働いているらしい、とも書いてありました。この『顔認識処理』は、生物として基本機能らしく、生後間もない赤ん坊から、機能が働き始めるとも書いてありました。これについては、梅爺は、あまり疑わずに『そうだろうな』と思いました。赤ん坊にとっては、庇護者である母親の顔をいち早く認識できなければ、生きていけないからであろうと、納得しました。生き残りに必要な機能を、優先的に選択し、進化してきたと考えれば、矛盾の無い話です。動物にも、『刷り込み現象(プリンティング)』というものがあり、生まれてきて始めて見たものを『母親』であると認識し、付きまとう習性がありますから、人間に、それにあたる機能が備わっていることは、肯けます。

『本当かなぁ』『なるほどなぁ』の繰り返しで、梅爺の読書は、とても素直とは言えません。

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2010年2月 4日 (木)

ロマノフ家の予言(6)

この小説では、皇太子アレクセイと王女アナスタシアが、アメリカに逃げ延び、アレクセイの孫を小説の主人公が探し当て、その人物がめでたく、ロシアの復活したロマノフ王朝の皇帝に即位する、というメデタシメデタシの大団円で終わります。

二人の救出、逃亡、アメリカでの隠遁生活を影で支えたのは、ラスプーチンを暗殺したユスポフ公であることになっています。ユスポフ自身も、赤軍の追及を逃れて、西側に亡命し、その後執筆活動などで、ソ連批判を継続し続けたことは史実です。革命前に、スイスの銀行へ資産を移したり、外国企業への投資なども行っていたことが分かっていますので、皇太子と王女をアメリカへかくまうだけの資力を保有していたとはいえます。

しかし、ニコライ2世一家の処刑は、狭い部屋の中で、行われたと言われていますから、銃殺隊による至近距離からの銃弾を浴びて、生き延びる可能性は極めて少ないと梅爺は想像します。

もし、現実に逃亡が行われたとすると、銃殺隊の隊長の『意図』で、射殺したと見せかけて、救ったということになりますが、本部への『全員処刑完了』の報告書の嘘が、後々までバレない可能性は薄いように思います。銃殺隊は、赤軍の兵士であり、帝政打破が目的であったわけですから、皇帝側に有利な情報を、複数人の口封じで、秘匿しつづけることも難しいように感じます。

この小説では、ユスポフの命を受けた、スパイが赤軍銃殺隊に潜入し、どさくさにまぎれて、皇太子と王女を救出することになっています。

『歴史の謎』『アメリカ人主人公の超人的な活躍』『最後の舞台はアメリカ』『ハッピー・エンド』となれば、この原作をもとに、ハリウッドが映画化しそうなものですが、現実には難しいかもしれません。

いくら小説(フィクション)であるといっても、現在のロシアの権力者からみれば、おとぎ話のような『ロマノフ王朝復活』は必ずしも、望ましいことではないと思いますので、そのような映画製作は、米国とロシア間での政治問題になる可能性があるからです。

主人公が、次々に絶望的な状況に追い込まれながら、知恵と勇気で切り抜けていくという、単純明快なストーリーですが、読者をハラハラ、ドキドキさせる作者の手練手管(てれんてくだ)に、つい乗せられて、梅爺は、最後まで読んでしまいました。

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2010年2月 3日 (水)

ロマノフ家の予言(5)

ニコライ2世一家と側近の計11人が処刑されたはずなのに、9人の遺骨しか発見されなかった、という事実は、色々な憶測を呼ぶことになります。

レーニンは、革命成立後、『ロマノフ家の誰かが処刑から逃れたのではないかと危惧し、徹底調査で殲滅を指示した』ということに、この小説ではなっています。権力の座を守るために、対抗勢力を『根絶やしにする』というやりかたは、多くの歴史が伝えることでもあり、このような、権力のためなら、どんな非道なことでもするという、人間には恐ろしい側面があることを私達は知っていますので、『そうかもしれない』と思わせますが、真相はわかりません。

レーニンは、『非道な皇帝は処刑したが、その他の家族達は安全な場所にいる』と偽の発表をしたという別の話も伝えられています。『女子供まで処刑するのは、いくらなんでもひどいではないか』という、民衆の反感をそらすためと、梅爺は想像しますが、これまた真意はわかりません。

1920年に、ドイツの記憶喪失者、アンナ・アンダーソンが、ベルリン運河に身を投げて自殺をはかりますが、助けられ、『実は私がアナスターシアです』と言い出して、世界中のニュースになりました。ハリウッドは、これを題材に、イングリッド・バーグマン主演の映画『追想』(1956年)と、ディズニー・アニメ『アナシタシア』(1997年)の2本の映画を制作しています。『薄幸の王女の物語』は、誰もが興味を抱き、同情もしますので、ハリウッドのビジネス感覚はさすがです。

1984年に、アンナ・アンダーソンは亡くなり、1994年に小腸の標本でDNA鑑定がなされ、『アナスタシアとは別人』と判明したことになっていますが、この標本の信憑性を疑問視する説もあり、これまた『藪の中』です。

2001年には、行方不明であった残り2人の遺骨も、エカテリンブルグ近辺で発見されたという報道がありましたが、梅爺は詳細を把握していません。

こんな近代の『歴史』でも、謎だらけですから、歴史上の『謎』を題材に、プロットを作り上げ、歴史小説や、ミステリーを書けば、いくらでも書けることになります。読者は、いつも眉につばしながら読む必要がありそうです。

梅爺は、『面白ければよい』ということを優先し、『騙される』ことには、目をつぶってこの種の小説を読んでいます。

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2010年2月 2日 (火)

ロマノフ家の予言(4)

ロマノフ王朝の最後の皇帝ニコライ2世は、好人物でしたが、皇帝としては、必ずしも名君ではありませんでした。農民出身で素性のさだかではない、祈祷師ラスプーチンが、血友病持ちの皇太子アレクセイの苦痛を和らげると称して、王妃アレキサンドラに近づき信任を得、やがて王妃を介して、国政にも口出しするようになります。王妃アレキサンドラは英国ビクトリア女王の孫で、初恋の相手ニコライ2世に人生を捧げました。最後には銃殺されると言う不幸な女性と言われますが、愛する人と添い遂げたと言う点では、幸せな女性であったとも言えます。

皇帝、王妃ともにラスプーチンのいいなりになりかねない状況は、皇帝周囲の貴族の反感を呼び、ラスプーチンは1916年、ユスポフ公(妻は皇帝の妹)によって、暗殺されます。青酸カリによる殺害を企てますが、ラスプーチンには効かなかったために、最後はピストルで射殺したと伝えられています。後に『怪僧』と呼ばれるラスプーチンは、たしかに容貌も含め、奇怪な人物です。

身の危険を察知していたラスプーチンは、死の2ケ月前に、皇帝に(小説では王妃に)、ある『予言』を提示します。それは、『自分が農民によって殺害されるようなことがあれば問題はないが、もし王朝の関係者によって殺害されるようなことがあったら、2年以内に王室一家は国民によって滅ぼされる』というような内容であったと伝えられています。この『予言』の存在は史実であろうと思いますが、小説では、さらに『将来王朝が復活するときには、更に12人の命が失われるであろう』という、内容が付加されていて、そのとおりに筋書きが展開します。小説のタイトルは、この『予言』のことですが、いくら面白くするための細工とは言え、少々こじつけすぎで、梅爺は『そんな子供だましの手には乗らんぞ』とブツブツ言いながら、それでも読みました。

ラスプーチンの予言は当たり、革命軍(赤軍)によってウラル地方(エカテリンブルグ)に幽閉されていた皇帝一家7人と侍従、侍女4人の計11人が、赤軍によって全員射殺され、一箇所に埋葬されたということになっています。1917年のことです。近辺で、白軍との戦闘が激化していたため、赤軍は、皇帝一家が奪還されることを恐れて、あわてて処刑したと伝えられています。皇帝一家のメンバーと処刑時の年齢は、以下のとおりです。

ニコライ2世(50)、アレキサンドラ王妃(46)、王女オルガ(23)、王女タチアナ(21)、王女マリア(19)、王女アナスタシア(17)、皇太子アレクセイ(14)

1991年に、埋葬跡が発掘され、人骨は9人分しか発見されなかったために、大きな反響を呼びました。当時のDNA技術で判定した結果、ロシアは、王女マリアと皇太子アレクセイの骨が無いと発表し、同じく調査をした米国のチームは、王女アナスタシアと皇太子アレクセイの骨が無いと発表しました。アナスタシアでないと困ると、ハリウッドが圧力をかけたのでしょうか。

この小説では、処刑の難を逃れた、アナスタシアとアレクセイが、米国へ逃げ延びたという、米国人が喜びそうなプロットを採用しています。

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2010年2月 1日 (月)

ロマノフ家の予言(3)

『ロマノフ家の予言』という小説では、現在のロシアが『帝政ロシア』に復帰する道を選ぶ、という筋立てになっています。共産革命で、滅亡したロマノフ王朝の、血筋につながる人物(男性)を『新皇帝』に選ぼうと言うことになり、各界の代表者がこのメンバーになって、『皇帝選定委員会』が発足します。

現実に、このようなことが起こるとは、梅爺には想像しにくいのですが、小説ですからケチをつけるわけにもいきません。現状では、プーチンが、『プーチン王朝の初代皇帝』になる、と宣言する話の方が、まだありえるように思います。しかし、現行政治体制が、今後どうにもうまくいかなくなり、国民の中から、『共産主義もダメ、西欧型民主主義のまねもダメ、やはりロシアは帝政が一番』という、声が沸きあがる可能性は、ないとは言いきれません。

この小説では、『我こそは、ロマノフ家の血筋をひくもの』という何人かの候補者が名乗り出て、『皇帝選定委員会』は、その主張の妥当性を検討し始めます。

そうは言っても、ロマノフ王朝最後のニコライ2世の一家は、共産革命で、『一家まとめて処刑』されていますので、候補者の血筋は、『直系者』ではなく、全員『遠縁の者』ということになります。

『新皇帝』の政治方針によっては、現在の利権を失いかねない、『軍』『官僚』『企業』『マフィア』の代表が、裏で結託し、自分達の言うことを聞く『傀儡皇帝』を、選出しようと、暗躍し始めるという想定で小説は展開します。『ロシア正教』も、思いは同じですので、この暗躍グループに加担します。

一方、アメリカの大企業、投資家は、誰が『皇帝』になるかで、将来のロシアの『市場価値』が変りますので、投資の安全性を確認するために、アメリカの弁護士を、調査のためにロシアに派遣します。こんなことに慎重なくせに、サブプライムローンのデタラメには、何故野放図なのかと、独り言をいいながら読み続けました。この、派遣された弁護士(アトランタの法律事務所に属する黒人弁護士)が、小説の主人公で、ロシアで、何者かに命を狙われ続け、逃亡中に知り合った、ロシアのサーカスの若い女曲芸師と一緒に、血わき肉踊る大活躍をするというのが、小説の大筋です。

アメリカ人の作家が、アメリカ人の読者を念頭において、直ぐにでもハリウッドに原作を売り込めるような小説を書いていると言えば、それまでですが、娯楽的サービスに徹底するところは、プロといえないことはありません。最後は、『ロマノフ家の直系の末裔が、実はアメリカに住んでいた』という、取って置きのサービスまでが用意されています。

梅爺は、『おいおい、そこまでやるか』と、何回もブツブツ言いながら、それでも、面白さに乗せられて、結構楽しみながら読みました。

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