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2010年1月31日 (日)

ロマノフ家の予言(2)

これは、きわめて主観に過ぎないのですが、梅爺は、ロシア(旧ソ連も含め)の政治体質に好感が持てません。昔、ヨーロッパへ出張したときに、乗り継ぎでモスクワ空港へ降り立ったことはありますが、実質ロシアへ入国したことはなく、アメリカで働くロシア人のソフトウェア・エンジニアと、少しのお付き合いがあった程度ですので、梅爺は自分の肌で『ロシアを体感』したことがありません。従って、『好感が持てない』というのは、『食わず嫌いの偏見』であるかもしれません。

『好感が持てない』と感ずる理由は、権力者が、国民のための政治というより、国家体制や権力の維持を最優先し、自分に邪魔な者は、全て抑圧するという体質が、脈々と受け継がれているように思えるからです。抑圧のための粛清や抹殺が、舞台裏で当然のように行われている『恐怖政治』が基本ではないかと、疑っています。『規律』とか『愛国心』とかが叫ばれますが、ヒューマニズムを欠いており、極端な表現をすれば、暴力団組織のの体制維持に似ているように感じています。プーチンは、暴力団の組長に見えてきます。

前に、『民主主義とは何か?』という、ドキュメンタリー・シリーズをNHKの番組で観た時の一つが、『ロシア愛国者の村』に関するもので、この時の感想をブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_1e75.html

『愛国者の村』の主催者は、『天は神(ロシア正教)のもの、地はツァー(皇帝)のもの。神と皇帝に忠誠を尽くすのがロシア人の愛国心』という考え方を、若者達に洗脳していました。『西欧の民主主義をロシアは必要としない』という主張です。村内では主催者が絶対であり、誰も異論を唱えることは許されません。この主催者は、プーチンとも親交があり、『プーチンは現代の皇帝』とも言い切っていました。プーチンが実質『皇帝(ツァー)』の座を狙っているとしても、驚くにはあたらないような気がします。

共産主義時代に、弾圧され続けた『ロシア正教』にとっては、『皇帝復活』は、実質的に最高権力を復権できる手段として、魅力的であり、プーチンにとっては、『ロシア正教』を利用して、自らを実質『現代の皇帝』に位置づけることが可能と言う、絵に描いたような『権謀術数』の世界と、梅爺は感じました。『ロシア正教』にとっては、神に従順な傀儡(かいらい)皇帝が理想ですが、プーチンは、どうみても神に従順な傀儡皇帝には、見えませんので、両者の蜜月関係は、どこかで破綻するのではないでしょうか。

ビザンチン帝国から引き継がれた、ロシア正教と皇帝の政教一致による帝政国家へ回帰する願望が、ロシア国民の中に根強くあるという見方は、『そうかもしれない』と思わせます。多くの日本人は、民主主義が至上と考えていますので、『そんなことが今時あるのか』と言いたくなりますが、『母なるロシアは、西欧民主主義とは無縁の国家』という主張は、今でも、ヨーロッパの偉大なる田舎と言われたロシア国民の、屈折した感情なのかもしれません。

『ロマノフ家の予言』という小説は、現代のロシアに、ロマノフ王朝が蘇るという、仮想の筋立てを採用しています。

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2010年1月30日 (土)

ロマノフ家の予言(1)

歴史的な人物や事件を題材にして、『推理小説』『スリラー小説』『痛快冒険小説』を書くという風潮は、世界共通です。歴史には、『謎』があり、その『謎』が、誰もが不思議に思うものであればあるほど、『新しい解釈』を期待して、読者はその小説に飛びつきます。

歴史上の実在人物を題材にした伝記的な小説も、『エッ!本当はそういう人だったの』という意外な解釈が魅力です。吉川英治や司馬遼太郎の歴史小説が愛読されるのもこのためでしょう。更に、『推理』『スリラー』『冒険』が加われば、娯楽小説としては、『鬼に金棒』です。この種の小説の難は、主人公の特徴の一面だけを強調するあまり、『単純な人間』にしてしまうことです。人間は、現実には、複雑な多面性を持っているはずです。しかし、野次馬根性丸出しの梅爺は、少々の難には目をつぶり、この種の小説をよく読みます。以前にブログで『シェークスピアの秘密』なども紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-6c56.html

娯楽小説を読むなどというのは、時間の浪費と、顔をしかめられる方には恐縮ですが、『面白さ』と同時に『歴史的知識』が得られますので、梅爺は『一挙両得』と悦に入っています。勿論、この『歴史』は本物ではなく、作り事が含まれますが、人物や事件の『本質』を洞察するには役立ちます。

キリスト教の信者の方には、まことに不謹慎な話ですが、『イエス・キリスト』や『キリスト教の歴史』は『謎の宝庫』であり、これを題材にした『娯楽小説』は、後を絶ちません。世界中でベスト・セラーになった、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』は、その典型です。『ダ・ヴィンチ・コード』が、大当たりしたおかげで、ダン・ブラウンの他の小説(『天使と悪魔』『デセプション・ポイント』)なども、売れに売れています。梅爺も、すっかり乗せられてしまった読者で、これらを購入して読みました。

ヒット商品が現れると、類似商品が市場に登場するのと同様に、『ダン・ブラウンもどき』の小説を書く作者が登場します。アメリカは、この風潮が極めて顕著で、スティーブ・ベリー(Steve Berry)という作家もその一人です。

ステーブ・ベリーの『アレキサンドリア・リンク』と『テンプラー騎士団の謎』については、以前読後の感想をブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-f394.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-0229.html

すっかり乗せられてしまった梅爺は、今度は、この作家の『ロマノフ家の予言(The Romanov Prophecy)』を英語版ペーパーバックで読みました。

ロシア最後の王朝ロマノフ家の終焉を題材にした小説です。ロシアの歴史に必ずしも明るくない梅爺には、結構楽しめる小説でした。

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2010年1月29日 (金)

映画『怒りの葡萄』(2)

ジョン・スタインベック原作の映画としては、前に『梅爺が選ぶ映画ベスト5』の中のダントツ1位として『エデンの東』をブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_7602.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_d4b7.html

スタインベックは厳格なキリスト教の家庭に育ち、聖書から多大な影響を受けている作家であると言われていますが、『エデンの東』や『怒りの葡萄』を観る限り、根は善良でありながら、教えとおりには生きることができない、弱い、教養などとは無関係の人間に、むしろ『人間らしさ』を感じ、共感しているようにも感じられます。社会の不条理に立ち向かう弱い立場の人間も、同様な心情で描きますので、当時のアメリカでは、『アカ(共産主義)の思想』に加担する者ともみられて、『怒りの葡萄』の評価は二分し、社会的な議論の対象にもなったと言われています。

この映画を観ると、たった70年前のアメリカが、いかに貧富の差の激しい悲惨な社会であったかが分かります。広大な農園を持つ一握りの金持ちの下で、その日の生活にも困る貧しい多数の労働者が、搾取されている様子をみると、現在のアメリカとは別の国の感じを受けます。広大な国土を持ちながら、どうしてこのような状況になるのだろう、耕したければいくらでも土地があるのにと、狭い国土の日本人には不思議に思えてしまいます。

ジョン・フォード監督が創り出す優れた映像美、舞台劇を見るような計算しつくされた人物の配置やセリフの言い回し、など、『怒りの葡萄』は、映画史に残る不朽の名作であることを実感しました。

そして何より、今は亡き名優ヘンリー・フォンダの若い映像をみて、梅爺は、自分がどれだけ歳をとったかを思い知りました。、

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2010年1月28日 (木)

映画『怒りの葡萄』(1)

NHKのBS放送で流されたアメリカ映画『怒りの葡萄』を録画しておいて観ました。大分前に、アカデミー賞を取った過去の映画を集中的に放映した時に、録画したものですので、梅爺の本棚に、まだ未読で積んである多数の本同様に、長い間録画機の中に埋もれていたものです。

1940年、ハリウッドの20世紀フォックス社が制作した、モノクロ映画で、監督はジョン・フォード、主演はヘンリー・フォンダです。監督賞と、助演女優賞の2部門のオスカーを獲得しています。原作は、後にノーベル文学賞を受賞したジョン・スタインベックで、出版は映画の前年1939年です。

物語は、1930年代、砂嵐で農耕が継続できなくなったオクラホマの貧しい一家が、カリフォルニアへ行けば、条件が良い仕事があるという、チラシ宣伝を信じて、オンボロトラックに一族が乗り込み、苦難の長旅を経て(旅の途中で、爺さん、婆さんは病死してしまいます)、目的地にたどり着きますが、待ち受けていたものは、地獄のような現実であったという重苦しい内容です。

梅爺は、原作を読んだことがありませんので、映画がどの程度忠実に、原作を踏襲しているのかは、比較できません。そこで、Wikipediaで調べてみました。

その結果、原作が『社会の不条理を告発する色彩が強い』のに対して映画は『家族の絆の強さを強調する』ものになっていることを知りました。監督のジョン・フォードの意に反して、20世紀フォックスの社長が、横槍をいれ、映画の最後に、一家の母親が話す『民衆はいつでも生き続けるのだよ・・』などという原作に無いセリフまで挿入させたことを知りました。当時のアメリカで、保守派から嫌われていた、『先鋭分子(共産主義者など)』の考え方を排除しようとしたのでしょう。また、この映画は、原作を読んだヘンリー・フォンダが是非演じたいと願い出たことを利用して、この社長は、無理やり同社の映画だけに出演すると言う7年契約を結ばせたとも書いてありました。ヘンリー・フォンダはこれで、俳優活動を制約される羽目になったとのことです。いつの時代にも、権力者が、自分の価値観で横車を押すものだともいえますが、一方ビジネスの責任者としては、『映画がアメリカの大衆から反感を買わないように』とか『売れっ子俳優を独占しておきたい』など、当然の判断を下したとも言えます。ジョン・フォードも渋々ながら、この社長の介入を認めたわけですから、今頃梅爺が、あれこれ言ってみてもはじまりません。

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2010年1月27日 (水)

類を持って集まる

上方いろはカルタの『る』、『類を持って集まる』の話です。

この諺を、梅爺は『類は友を呼ぶ』と覚えていました。『同じ資質を持つ人間同士は、集まって群れを作りやすい』ということですが、多くの場合『悪い人間や、程度の低い人間が集まりやすい』という意味で引用されます。

人間は、生物としての進化の過程で、最初は、『生きるためには何でもする』という本能で行動することを原則としていましたが、そのうちに、『やっても良いこと』と『やってはいけないこと』をこれも本能で嗅ぎ分けるようになり、脳の進化で、更にこれを『善と悪』という抽象概念(言葉)で区分して、子々孫々に語りついできたのではないか、と梅爺は何回もブログに書いてきました。『やっても良いこと』と『やってはいけないこと』を、本能で嗅ぎ分けるというレベルは、我が家の犬もそのように振舞っているように見えます。

この結果、『やってはいけないこと』には、『良心の呵責』や『罪の意識』が生じ、『居心地が悪い』という精神的なストレスを感じます。このストレスを解消する方法は、『神や仏にすがって救ってもらう』という方法もありますが、逆に、『やってはいけないこと』を常にやっている人たちの群れに入って、『やっているのは自分だけではない』と自己弁護してストレスを軽減する方法があるように思います。『類をもって集まる』のはこのためなのでしょう。

しかし、もっと単純に、『自分と同じレベルの人たちと一緒にいると、コミニュケーションに格段の努力を必要とせず、他人からストレスを受けることも少なく、居心地が良い』ということを、求める習性を誰もが持っていると見ることもできます。外国で『ひとりぼっち』になると、急に『心細く』感ずるのはそのためでしょう。

しかし、人間は過度な『ストレス』には絶えられませんが、適度な『ストレス』がないと、精神的には向上心を失い、肉体的には機能劣化を起こすという、厄介な構造にできています。『類の中で安穏としている』ことと『積極的に異なった類と交わる(ストレスを自ら求める)』こととのバランスをとりながら生きていくことが理想的ですが、特に、老人には、これは至難の業です。

梅爺は、『類の中で安穏としている』事を選ぶことが、どんどん多くなっています。これで、『脳の劣化』の進行を阻止しようと言うのは、無理な話です。

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2010年1月26日 (火)

マネーとウィルス(6)

『ウィルス』と人類の攻防の将来については、専門家の見解が色々あることをしりました。悲観的な意見は、『いつ、どこから攻められるかは、正確には予測ができない。せめて何が起きても対応できるような体制を作っておくしかない』というものです。『対応できる体制』といっても、68億人の全人類へ、迅速にワクチンを供給するのは容易ではありません。先進国はともかく、貧しい国に大きな被害がでるかもしれないという、『南北問題』は、難しい課題です。

やや楽観的な意見としては、『あらゆるウィルスに対応できる万能ワクチンが発明される可能性がある』というものですが、これも可能性にすぎません。

すこし変わった前向きな意見としては、『ウィルスを利用して、難病治療が可能になるかもしれない』というのがあることを知りました。治療したい特定の細胞だけに侵入できる『ウィルス』を人工的にに作り、細胞の『遺伝子操作』をして病気を治そうという発想です。一部の『ウィルス』は、東大の河岡教授によって、人工的に作り出せることが証明されていまので、夢物語ではありませんが、実現し、安全性が確認されるまでには、まだまだ年月を要するにちがいありません。

当分の間は、『ウィルス』は、『目に見えぬ人類の強敵』と覚悟して、生きていくしか現実の対応方法はなさそうです。ワクチンを作る製薬会社だけが、問題発生を『千載一遇の金儲けのチャンス』と期待しているのかもしれません。中国は、既に世界一のワクチン製造国になるための、国家プロジェクトを立ち上げていることを知りました。

神様が天地を創造された時に、『ついでにウィルスも作っておいたから、気をつけるように』と、どうして人間に警告をしてくれなかったのかと、恨みごとのひとつも言いたくなります。しかし、現実に『ウィルス』は、人間の精神生活とは無縁なものですので、神様にお願いすれば助かるという相手ではありません。体調のバランスを自ら崩して病気になるわけではありませんので、いくら規律正しく節制をして、善良な暮らしをしていても、『ウィルス』の標的にならないという保証はありません。人類と『ウィルス』の攻防は、マクロな視点で観れば、自然の摂理の歴史的な1コマにすぎません。梅爺には、『ああ、無情』としか、云いようがありません。

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2010年1月25日 (月)

マネーとウィルス(5)

世界の『ウィルス』感染対策関係者は、『鳥インフルエンザ』が、『人から人へ感染可能なインフルエンザ』に『変貌』する可能性が高い地域は、東南アジアであろうと予測し、警戒していました。東南アジアでは、食用の鶏を生きたまま売買する習慣があり、人と鳥との接触頻度が高いと考えられているからです。しかし、今回の『新型インフルエンザ』は、予想に反して『豚インフルエンザ』の進化というプロセスで、メキシコから始まりました。昔なら、メキシコの『風土病』でとどまったかもしれない病気が、またたく間に世界に広がったのは、文明の発達で、人々が世界中を動き回っているためです。『エイズ』の場合もそうでしたが、特定な地域に、『ウィルス』を隔離することは、不可能な時代になっています。

『ウィルス』は、その種類によって毒性の強弱があり、『新型インフルエンザ』は、幸いなことに、それほど毒性が強くはないものでした。しかし、他のインフルエンザと異なり、肺の奥まで侵入するという特性を持っています。毒性が強いと、患者は身動きできなくなり、死亡率が高まりますが、その分、患者が動き回らないだけ、感染確率が低いのだと、番組を観て知りました。『新型インフルエンザ』は、毒性が強くないために、発症しないウィルス保有者が世界中を動き回り『パンデミック(広域感染)』になったという皮肉な話です。

『ウィルス』に攻撃される『動物』側も、無防備ではなく、細胞は『抗体』を作って『ウィルス』を撃退しようとします。生物進化のプロセスで獲得した能力とは言え、実に見事な仕組みです。しかし、初めて遭遇する『ウィルス』には『抗体』が準備されていませんので、やられっぱなしになる可能性があります。そこで、事前に、微弱化した『ウィルス』や、『ウィルス』の死骸の一部などを摂取して、あらかじめ『抗体』を作っておこうというのが『ワクチン』の役目です。『毒をもって毒を制す』という発想です。しかし、ワクチンは、他の副作用を引き起こすリスクがゼロではありませんので、絶対安心とは言い切れません。

『ワクチン』の発明は、近代医学の大きな成果で、『天然痘』の脅威などは、事実上地球上から撲滅されました。これで、人類は『ウィルス』を制圧できたと、当時はぬか喜びしましたが、その後『ウィルス』が絶え間なく進化がすることが判明し、『そうは問屋が卸さない』ということが明白になってきました。

現象的には、『ウィルス』が、悪意を持って動物や人間に『嫌がらせ』をしているように見えますが、それは、人間本位の考え方です。『ウィルス』も自然の摂理に従って、生き残ろうと活動しているだけです。

この番組に登場した最先端ウィルス研究者は、『ウィルスを知れば、人間は特別の生物ではないことを実感する』というようなコメントをしています。梅爺も同感です。自律分散処理で『動的平衡』を求めて変貌する自然界にあって、人間も『ウィルス』も同等な要素にしかすぎません。人間の情感からすると、厭な話ですが、『ウィルス』が優勢になれば、人類は減少するか、滅亡するという自然の摂理にのっとった話です。自然の摂理には『情』が入り込む余地はありません。

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2010年1月24日 (日)

マネーとウィルス(4)

『ウィルス』を最も的確に表現する方法は、『生物と無生物のあいだ』に位置づけられる『もの』である、ということを福岡伸一先生の本を読んで知りました。これに関しては、前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_7396.html

『ウィルス』は、『ある条件で増殖する(遺伝子を持っている)』という点では、『生物』に似ていますが、『呼吸しなくても存在し続けられる(死なない)』という点では『無生物』に似ています。つまり『あいだに位置するもの』ということになります。

自然界に、『ウィルス』が、どのようにして存在し始めたのか、『生命の起源』とどのような関係があるのかは、梅爺の興味の対象ですが、現状では解明されていません。少なくとも、人間より先に地球上に出現し、鳥の細胞を利用して繁殖していた、ということ程度しか分かっていません。

人類が地球上に現れて以来、何度も何度も『ウィルス』によって、痛い目を経験してきました。『はしか』『天然痘』『スペイン風邪を代表とする各種インフルエンザ』『エイズ』『ウィルス性肝炎』『SARS』などで、死者の数は戦争で死んだ人の数より多いことになります。全く知識が無かった時代の人たちは、『得体のしれない悪霊の仕業』『何かの祟り』と、ただただ恐怖におののいたにちがいありません。現生人類が『ウィルス』の正体をつきとめたのは、ほんの近世のことです。それ以前に『ウィルス』によって、現生人類が絶滅しなかったのは、幸運といえるのかもしれません。

『正体をつきとめた』といっても、『ウィルス』については、細かいことは分かっていないことが大半で、『いつ、どのようなウィルスが、次に人類を襲ってくるか』は、現状では、『予測不可能』と言われています。『インフルエンザ・ウィルス』は、マスク、うがい、手洗いである程度防げることは、経験則で分かっていますが、どうしたら完全に防御できるかはわかっていません。つまり、感染の経路などが、すべて解明されているわけではありません。

『ウィルス』は、その種類によって、特定の生物(動物)の細胞にとりつき、侵入し、その細胞を借りて『増殖(遺伝子のコピーを行う)』を行います。動物の細胞に遭遇しないかぎり、『無生物』のように、ただじっとしているだけです。焼却でもされないかぎり、何年でも、次の機会をじっと待ち続けます。20世紀の前半に世界を恐怖で覆った『スペイン風邪』では、当時の人口の3割が感染し、5000万人が死亡したと考えられていますが、寒冷地で、凍土に土葬された患者の遺体を発掘し、調査をすると『スペイン風邪ウィルス』が今でも検出できます。生物の常識をでは考えられない『しぶとさ』です。

どの『ウィルス』が、どの動物の細胞に侵入するかは、タンパク質の種類を利用した『鍵』と『鍵穴』のような関係で決まりますから、通常であれば、『鳥』にとりつく『ウィルス』は、『豚』や『人間』には、感染しません。ところが厄介なことに、『ウィルス』は増殖時に、『遺伝子の突然変異』や『異なったウィルスの遺伝子の混合』を起こす可能性を秘めていて、突然、『鳥ウィルス』が『豚ウィルス』へ、そして『豚ウィルス』が人間に感染可能な『ウィルス』に変貌(進化)することがあります。このようなことが起こる確率は、極めて低いものですが、一度起きてしまうと、『パンデミック(世界規模の感染)』にまで発展する可能性があります。今回の『新型インフルエンザ』は、まさしくこのプロセスで発生しました。

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2010年1月23日 (土)

マネーとウィルス(3)

『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という川柳がありますが、この番組を観て、『経済』の本質は、単純なことであり、『複雑で、とても理解できない』と最初から逃げ腰になる必要もなさそうだと思うようになりました。表面的な事象は、確かに手に負えないほど、複雑な様相を呈しますが、それに惑わされずに、本質を観ることが大切なのだと悟りました。

梅爺程度の人間でも、『当たり前に考えて、おかしいことはおかしい』と言える分野が、『経済』にもありそうだということです。たとえば、番組の中で、『国際的な消費と生産のバランスを保つために、先進国(特にアメリカ)は消費レベルを落とし、新興国は消費レベルを上げるべきだ』という意見がありました。単純な『本質』論では、『そのとおり』ですが、『一度体験した消費レベルは落とせない』という人間の特性や、『消費レベル』を上げるためには、『富の分配方式の変更』や『社会インフラの整備』が必要ですから、今日明日に実現できる易しいことではないと、梅爺でも分かります。『本質レベルでまず発想し、有効な実践モデルを考えて実行に移せる人や国家は強い』という、これまた当たり前な結論に行き着きます。

世界が混乱に陥っているのは、多くの人が『表面的なことの損得だけを重視して、本質を見ていない』か、『これが本質だと思うことが、人や国家によって、それぞれ異なっている』かのどちらか、または両方の理由によるものかもしれません。『英知』と言われる人は、『これが本質である』というその人なりの考えをしっかり持っていて、それをベースに次なる論理を展開していくことができている人のことだと感じました。そして、更に過去にその推測が『的中』した実績を持つ人のことなのでしょう。

『マネー』に関する仕組みは、少なくとも人類が『考えだし、作り上げてきた仕組み』ですから、いざとなれば、この仕組みを壊したり、修正したりもできます。その意味で、『マネーの奔流の動向』が人類へもたらす脅威と、『自然界のウィルス』がもたらす脅威とでは、『マネーの奔流の動向』の方が、まだ対応がし易いことになります。

『ウィルス』との闘争に人類は勝てるのか、また、どのような状態をもって『勝った』と考えるのかは、人間の能力が、どこまで自然の摂理を理解できるかという、『科学』の領域の話で、普段『科学は嫌い。科学は万能ではない』と言っている人でも、ことこれに関しては『科学に勝ってほしい』と願うのではないでしょうか。『ウィルス』で人類は滅びるというシナリオは、誰も好まないからです。

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2010年1月22日 (金)

マネーとウィルス(2)

『マネーの奔流はどこへ向かうのか』という番組は、そもそも梅爺の不得意な『経済』の話であり、その上、その世界の『英知』が登場するからには、さぞ自分の『無知』を思い知らされることになるだろうと覚悟して観ました。というのも、最近の『経済』は、専門的な用語や指標が横行し、更に『金融工学』などという、複雑な要因が多様に絡み合う事象の予測を行う、高度な確率計算、統計的分析処理が、最先端の情報通信処理基盤で運用される、『とてもついていけない世界』であると思いこんでいたからです。

ところが、あにはからんや、3人の『英知』の話は、『経済の原点』ともいえる単純な『原理原則』に基づくもので、『なあんだ、そんなことなら梅爺でも知ってるわい』と少し嬉しくなりました。いわく『法の存在しない市場は危険極まりない』『需要(消費)と、供給(生産)はバランスで成り立っている』『金の無い人に消費をしろと言っても無理』『右肩上がりを信じて、皆が不動産に投資しても、やがてはバブルがはじける』『銀行は、そもそも実態経済を支援するためのものであるべきだ』などなどです。

ということは、現状の『経済危機』や『金融危機』は、梅爺でも理解できるような、こんな単純なことが実践されずに起きているのだと、思い知ります。そもそも単純な話を、意図的に難しくして、その難しさを利用して『一儲けしよう』としたり、『危険』を覆い隠したりしているのだと気付きます。『情報通信処理技術(IT)の活用(時に悪用)』『グローバリゼーション』などは、難しさを増す典型的な要素です。

『経済』は、もともと『格差』や『価値観の違い』を利用した人間の取引行為が基盤であり、多くの場合『競争』をともなって、結果的に『勝者と敗者』を生み出します。『勝者』の欲望は、果てしなく大きくなり、『敗者』の蓄積した怨念は違った形で爆発したりしますから、『経済』行為には『歯止め』が必要であることは、誰にもわかります。

しかし、『国家』や『地域』の『エゴ(国益という言葉でオブラートに包まれる)』が障害になり、国際的な『歯止め』で合意を見ることは、極めて難しいことになります。したがって、ジャック・アタリ氏のように、『世界統一政府』『世界統一貨幣』が、究極の解決策といった『論理解』が登場するのも、一理がありますが、『死ぬのが厭なので、どんな苦い薬でも飲む』というほどに、人類は現状で追い込まれた状況にあるのかどうかという現状認識で、また意見が異なってきます。

国家にとって、『政治』の手段として『経済』が存在するのか、『経済』の手段として『政治』があるのかという単純な話も明確ではありません。

もし、日本が『経済』で他国よりも有利な状態を維持し続けたいならば、日本人が他国人より常に『優秀で、能力が高い』状態を保つ必要があります。『経済』行為は『競争』であるからです。そのためには、『教育』による人材開発や『科学技術』に、優先して国家財源を投資していく必要があります。『経済』に関して『英知』ではない梅爺でも、この程度のことは、推察できます。しかし、『競争は疲れるだけ。勝者になれなくても、のんびり人間らしく生きられればよい』というのが国民の総意ならば、話は別です。政府が、国民に示す方針の一番肝心なことは、この選択に関することではないでしょうか。

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2010年1月21日 (木)

マネーとウィルス(1)

元日にNHKBSハイビジョン放送で、『2010年世界の英知が語る』という、2本のドキュメンタリー番組が連続して放映され、梅爺は録画して観ました。その2本の番組名と、登場した『世界の英知』と言われる方々は以下です。

2010年世界の英知が語る『第一部 マネーの奔流はどこへ向かうのか』
ジャック・アタリ(元仏大統領特別顧問、ヨーロッパの知性と呼ばれる評論家)
ラグラム・ラジャン(シカゴ大学教授、元IMFチーフエコノミスト、インド系米国人)

謝 国忠(中国の俊英エコノミスト)

2010年世界の英知が語る『第二部 未知なる脅威 ウイルス』
ナンシー・コックス(米疾病対策センターインフルエンザ責任者)
アルバート・オスターハウス(オランダ・エラスムス大学教授)
押谷仁(東北大教授)
河岡義裕(東大医科学研究所教授)

人類の存亡の鍵を握る要因として、人類自身が考えだし、今や制御不能ともいえるモンスターに化けた『マネー』と、近代になって、人類がようやくその正体を知るようになった肉眼では見えない脅威『ウィルス』を取り上げたのは、なかなかの慧眼(けいがん)であると思いました。片や『人工的な怪物』であり、もう一方は『自然界に存在する非人工的な怪物』と対称的です。

人類の脅威は、『戦争』『テロ』『大量殺傷兵器』であったり、『貧困』『飢餓』『飲料水不足』『資源不足』『自然災害』『環境破壊』であるという議論は、今までに沢山ありましたが、人類が『当たり前のものとして慣れっこに受け容れているもの』『根拠のない楽観論』『無知』などから、見逃しがちな『本当の脅威』は、『他にもありますよ』という、啓蒙、警告として、興味深い番組でした。『思ってもみなかったものに足元をすくわれる』ということは、視野や知識に限度がある人間には、宿命的に起こることです。事後になって、『私もそうではないかと思っていた』などとは、誰もが言えますが、事前に『洞察』できる人は、確かに『英知』といえるかもしれません。しかし、『英知』といえども『神』ではないというところに、人間の限界があります。番組に登場するどの『英知』も、『本質はこれであろうと思う。それ故に、こうなるであろうと推察する』とは述べていますが、『必ずこうなる』とは断定していません。人類の未来は、必ず何らかの形で訪れますが、それは誰にもわかりません。

『第一部 マネーの奔流はどこへ向かうのか』については、梅爺が愛読している山崎次郎さんのブログ『おゆみ野四季の道』に2回にわたり、見事な分析、感想が既に掲載されています。『経済音痴』の梅爺とは異なり、山崎さんは現役時代、金融業界に身を置かれた方ですから、興味をもたれる方は、ぜひそちらをお読みください。山崎さんのブログの内容は、多岐にわたりますが、『経済』を論じたものが、特に梅爺のお気に入りです。単なる解説ではなく、必ず山崎さんの主観が込められているからです。

http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/2217-nhk-e274.html

http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-a5bc.html

梅爺は、山崎さんのような『経済の解説』は、とてもできませんので、『マネー』と『ウィルス』に関して、梅爺なりの異なった視点で、感想を書こうと思います。『マネー』は人間がつくりだした『しくみ』ですから、『法』で、『自由』と『制約』のバランスをどのようにとるのかという『共通認識』が求められますが、『ウィルス』は、未知の自然を『科学』がどこまで究明できるかに、将来がかかっています。いずれも、人間の『知恵』の話ですが、『ウィルス』は、ほぼ科学的な『理』だけの世界で対応することになるのに反して、『マネー』は、人間の『欲望』という『情』が絡む厄介なことになります。『情』が絡んだとたん、人間は『何が正しい』かということを測る尺度があいまいになってしまうからです。

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2010年1月20日 (水)

数学者の無神論(10)

繰り返しになりますが、この本は、人間の『理』で『神』を論じたものです。読み終わって、難しいパズルが解けたような爽快感は味わえますが、パウロ・コエーリョの小説を読み終わった後の、『心が満たされた』というような満足感は得られません。後者は、人間の『情』の世界を主題にしているからです。

『理』で『神』を観ようとすると、『神』は、きわめて『あやふやで、怪しげな存在』ということになります。しかし、『信仰』で『神』を観る人たちには、『神』は『心のやすらぎ』を自分の中に確実にもたらす、偉大な存在と感じておられるにちがいありません。

現代の科学は、『理』の世界の『真理』を多く解明してきていますが、人間の『情』の世界の究明は、ほとんどされていないように思えます。

『愛する』『信ずる』『喜ぶ』『悲しむ』『感動する』などということは、誰もが日常的に経験していることではありますが、何故『感動する』のかというような基本的な理由についても、分かっていません。『感動する』と、脈拍や血圧があがり、血中のある種の化学成分が増加するなどという、現象的なことはある程度分かっていますが、本質的に人間にとって『感動』とは何か、は分かっていません。

『心の安らぎ』についても同じことで、『神を信仰する』ことで、それが得られると言う『現象』は分かっていますが、それが何故か、は分かっていません。『神を信仰する』こと以外のことでも『心の安らぎ』はえられることも、現象としては分かっていますが、『心の安らぎ』の本質は何なのか、それは人間にとって何故必要なものなのか、という基本的なことが解明されているわけではありません。

この本を読んで、梅爺は、『神は存在するのか』という議論より、『神(または、神という概念)は人間にとって必要なものか』を考えることの方が、重要であり、得られるものが多いであろうと感じました。

しかし、これを議論するには、あまりにも人間は『人間のことが分かっていない』ことに気づきます。従って、『神』と『人間の情』の関係を、『理』で論ずることは、現状は、はなはだ難しいと感じています。今後、『人間の脳』の解明が進めば、事態は変わるかもしれません。

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2010年1月19日 (火)

数学者の無神論(9)

梅爺は、理を重んずる『数学者の無神論』の著者のような人も、情を重んずる敬虔な信仰者も、どちらかに加担することなく、ともに尊敬することができます。その人の『生き方』の選択であり、第三者が『どちらが正しい』などと論ずる対象ではないと思うからです。

『不可知論者』の梅爺は、他人からは『無節操』と非難されそうですが、故人を偲ぶ儀式には、宗派を問わず参列し、その流儀とおりに振舞うことに、特別の抵抗はありません。亡くなった両親や姉を追悼する会合は、プロテスタントの教会で、毎年行われますので、これにも参列しますし、梅婆の亡くなった父は神道ですので、墓参は神道の流儀で行います。勿論、亡くなった友人の葬儀や墓参が仏教の流儀であれば、これにも従います。

梅爺にとっては、故人を偲ぶ自分の気持ちが一番大切で、執り行われている祭礼や流儀を信じていないからといって、その気持ちが減じたり、意味を失ったりするものではないと考えているからです。しかし、信ずる宗派の教えや流儀だけを受け入れ、他は一切認めないという厳格な方からみれば、このように形式だけを表面的に受け容れる姿勢は、『許しがたい冒涜』であるということになるのかもしれません。

しかし、世の中は、『形式的な習慣』に満ち溢れています。入学式や卒業式で、校歌や国家を斉唱することや、毎年『お中元』や『お歳暮』を贈りあう、年始には『年賀状』を送るなどということも、考えようによっては『形式』に過ぎません。男性が正装するときは『ネクタイ』を締めなければならないなどということも、『形式』のように思えます。もちろん、これらの『形式』は、まったく無意味なものではなく、社会活動や人間関係を滑らかなものにする効果が無いわけではありません。

梅爺は、『形式に従っておけば無難』ならば、それに従うという『無節操』を、自分ではあまり『無節操』と考えずに、日常行っています。この『無節操』な流儀を、宗教儀式にまで及ぼすのは、『怪しからん』という、強い信念をお持ちの方からのご批判は、あえてお受けするほかありません。

人間は、一人ひとり、考え方や、感じ方が異なっているように、そもそもできていることを、認めていただけるように願うしかありません。

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2010年1月18日 (月)

数学者の無神論(8)

ついでに、もう一つだけ、『神』が存在するという証拠によく使われる論法、『めぐりあわせ論法』を紹介します。

(1)特筆すべき出来事が同時に起きるというのは偶然ではありえない。
(2)このめぐりあわせには、何らかの理由がなくてはならない。
(3)その理由は神様である。
(4)ゆえに神様は存在する。

この論法も、『目的論論法』と同じく、全てのことに『理由(人間が納得できる意味)』があるという『前提』にたっています。確かに、全てのことには、それが起こる『原因』があるとは言えますが、その『原因』が、『特別の意味』を持っていると解釈するのは、論理の飛躍になります。

この本では、例として『2001年9月11日』に起きた悲劇的な事件について、その後『911』と言う数字には、特別の意味が込められているという沢山の説が、世界中を駆け巡った話が紹介されています。しかし、事後に『関連事項』を探すのであれば、どんな『数字』にも、特別な意味が込められているという話を創り上げることは可能です。

『推論能力』に長けた人間は、数字や文字列だけでなく、手相や雲のかたちなどのパターンを見ても、そこに『何らかの隠されたメッセージが込められている』と考える習性を持ち合わせています。『占い』はこれを利用したものですし、探偵小説のトリックにも、この種の『隠されたメッセージ』が使われます。一見無関係に見えるものの間に、必然的な関係があるということは、現実にあることですので、どんなものの間にも、『特別な意味がある』と言われると、信じたくなる心理が働きます。日本では、キリストを信ずる人の数より、細木数子の占いを信ずる人の数の方が多いのではないでしょうか。

梅爺も、自分の人生を振り返ると、色々な『偶然』に遭遇してきたと強く感じます。確率計算では、ほとんど可能性がゼロのような、出逢いもいくつかありますが、現実に梅爺の身に起きていることですから、どんなに確率が小さかろうと、『偶然』は『偶然』であり、そのことに『特別のメッセージ』が込められているは思えません。『幸運な偶然』は、感謝しなければなりませんが、世の中には同じく『悲劇的な偶然』も沢山ありますから、不慮の事故に巻き込まれて亡くなった人に対して、『それは、起こるべくして起こった』などと、何者かの『意図』が背後にあるように言うのは、失礼な話ではないでしょうか。

梅爺は、『自然の摂理』の中で『生かされている』と感じ、先祖から偶然受け継いだ遺伝子に強く支配され、周囲に起こる必然、偶然の出来事からも影響を受けながらも、とにかく『生きている』ことに感謝しています。この状況は、人間だけの特別なものではなく、全ての生物に共通して言えることなのではないでしょうか。異なっていることがあるとすれば、人間は他の生物より、『先を予測する能力』に長けているということですが、予測が当たるかどうかは、必ずしも保証されているわけではありません。しかし、人間の場合、一番厄介なのは『予測』が、『不安』や『苦悩』の原因になることです。

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2010年1月17日 (日)

数学者の無神論(7)

『神は存在する』と、多くの人たちが主張する次なる論法は、自然界や人間を観察して、その驚異的な調和やしくみを知り、背後に、人知をはるかに超えた『偉大なる設計者(神)』が存在すると思わざるを得ないというものです。つまり、以下の論法となります。

(1)世界一般あるいはそこにいる生物は、明瞭な意図や指図があったことの証拠に見える。
(2)この目的の背後には、それを意図した者、あるいは指図した者がいなければならない。
(3)それは神様とするほかなく、ゆえに神様は存在する。

この論法は、古来から多く利用されてきた『目的論論法』です。つまり『ものは目的があって創られる』という『前提』に立っています。しかし、『ものは、ある確率で偶然に(目的無しに、ひとりでに)創られることがある』としたら、この『前提』は崩れます。

『そんな、ゼロにも近い確率は信じられない』と多くの人は『感ずる』でしょうが、ゼロでない限り、どんな小さな確率でも無視はできません。

人間という、目もくらむような『見事なシステム』は、数十億年かけて、『単細胞生物』から『進化』して現状にいたっていることが判明しています。気も遠くなるような『試行錯誤』の末に、現在の『平衡状態』を見出したことになります。『試行錯誤』は、どうしたらよいか分からないからこそ、繰り返されたのであって、『目的』へ向かって進んだのではありません。人間が、この先、どのように進化していくのかも、分かりません。『非常に確率の低い、偶然の成功を、途方もない回数積み重ねて、人間は現状に至っている』と考えられます。現在の人間は、『無』から、突然『今のかたち』に創られたのではありません。

このように、『目的』を持たずに、『宇宙は拡大』し、『人間は創られる』という可能性があることを、梅爺は、前に『自律分散処理』として、ブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5cb4.html

『ビッグバン』以降の『宇宙』も、同じことで『目的』や『意図』に支配されているとは、考え難いものです。火山の噴火、地震、津波、台風なども、サブシステムの活動が、産みだす『新しい平衡状態』に過ぎません。『神』が人間に試練を与えるためや、罰するために起きているわけではありません。

『論理思考』をする能力を手に入れた人間が、『目的(あるべき姿)』へ向かって物事は動く(動くべきだ)と考えるのは、当然で、特に『ビッグバン』や『生物進化論』を知らなかった時代の人間が、『偉大なる設計者(神)』の存在を『前提』としたことを、現代人が蔑(さげす)むことはできません。梅爺も、その時代に生まれていたら、そのように考えたに違いありません。『生物進化論』は200年足らず、『ビッグバンにいたっては、約80年の歴史しかないのです。

『科学』だけで『宗教』を論ずるべきではない、という主張には、梅爺も同意しますが、『科学』の影響を『宗教』は無視できなくなりつつあることは、確かではないでしょうか。

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2010年1月16日 (土)

数学者の無神論(6)

『神』の存在を説明するのに、最もよく使われる論法は、『第一原因論法』です。それは、おおよそ、以下のような論理をたどります。

(1)全ての物には一つの、あるいはことによると多数の原因がある。
(2)何ものも、それ自身の原因ではない。(原因は他にある)
(3)因果の連鎖は永遠にはつながらない。(回帰しない)
(4)ゆえに最初の原因がなければならない。
(5)その最初の原因こそ神様のことで、ゆえに神様は存在する。

この論法の『泣き所』は、幼い子供が質問するような、『じゃあ、神様は誰が作ったの?』に、明確に答えられないことです。そこで、この論法では、『神様だけは特別なもので、原因がなくても存在できるのだ(第一原因である)』と主張することになります。これは、しかし、『論理』ではなく『断定』ですから、このような例外の『断定』を許せば、どんな主張も可能になってしまいます。仮に、この主張を認めたとすると、今度は、『どうして神様だけが例外なのか。天地も原因がなくできたとは考えられないのか?』という質問に答えられなくなります。

現代科学では、『天地(宇宙)』の始まりは、127億年前の『ビッグバン』であるというのが『定説』です。ものすごい『エネルギーの場』の中で、超微細な『ひも』が、『拡大』を開始し、その『拡大』は現在も続いているという説です。その『拡大』のプロセスの中で、最初の『ひも』から、宇宙を構成する全ての『元素』が創られ、宇宙の中で『実態のあるもの(人間も含め)』は、この『元素』で創られているということになります。

地球上の全ての生物は、40億年前に存在した『単細胞生物』から『進化』したものであるという、『生物進化論』も科学の『定説』です。

しかし、最初の『エネルギーの場』や『ひも』は、どうして存在したのか、無機質な『元素』から、どうして『生物』という『生命体』ができたのかについては、現状の科学も『明解な説明』ができているわけではありません。勿論『仮説』は色々ありますが、『定説』にはなっていません。

『それ見ろ、科学でも分からないことがあるんじゃないか。それなら最初は神様が始めたと考えて何がわるい』という主張もありえますが、科学者は、『神様』という、それ以上『追求』ができなくなってしまうものの『仮定』は、好みませんので、『神様』以外の原因を追究し続けています。

仮に、『第一球を投げたのは神様』であるとしても、この論法だけをみれば、ただ『スタート・ボタンを押した』というような話で、この『神様』は、人間にとって『慈愛に満ちた存在』であるという、『感じ』を梅爺に受けません。『神様は慈愛を持って人間を見つめ、愛してくださる』という考え方を、人間が言い出してから、まだ2000年位しか時間が経っていません。しかし、人間にこれ以上大きな影響をあたえた『考え方』も他にはありません。

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2010年1月15日 (金)

数学者の無神論(5)

著者は、まえがきの中で、『神』を以下のように定義しています。

全能とまでは言わなくても、少なくとも並外れた力を持ち、全知とまでは言わなくても、少なくとも他に並ぶ者がいないほど賢く、宇宙の創造者ではなくても、少なくともその起源にかかわり、一点の曇りもなく完全無欠ではなくても、少なくともこれと言える特徴は全て備えている存在。

そして、上記のような『存在』を証明しようとしても、論理的には『成り立たない』ことを明らかにすることが、この本の第一の焦点で、それ以外の『宗教と結びつく広い文化や姿勢』については、『論じない』と言明しています。従って、梅爺のように、『宗教には、慈愛とか慈悲というような、人間の情に関わる重要な意義があるのではないか』というように、視点を変えて問いかけてみても、この本の中には回答を見出すことができません。上記の『定義』は、多くの宗教が『神』の資質を表現してきた集大成でもありますが、『神と、人間の情との関係』の説明は、欠落しています。そして、それについては、わざわざ『論じない』と言明していることから、『それは、また別の話』であることを、著者も理解しているのであろうと推察しました。

『神が存在する』ということを、過去に説明しようとした主張内容を、著者は、以下の12個に分類して、反論しています。タイトルを読んでも、中身は想像し難いのですが、梅爺が読んでみて、主張内容を過去にある程度理解していたのは、三つか四つくらいしかありませんので、数の多さに驚きました。梅爺程度の『理屈屋』は、まだまだ『洟垂(はなた)れ小僧』に過ぎないことが分かりました。

四つの古典的論証
(1)第一原因論法
(2)デザイン論法
(3)人間原理による論法
(4)存在論的証明
四つの主観的論法
(1)めぐりあわせ論法
(2)預言論法
(3)主観からの論証
(4)介入からの論証
四つの心理/数理論論証
(1)定義替えからの論証
(2)認知の傾向からの論証
(3)普遍性論法
(4)ギャンブル論法

これら全てについて、梅爺がブログで解説してみても、始まりませんので、ご興味のある方は、本そのものをお読みいただきたいと思います。ただ、一般に多くの人が用いる説明は、『第一原因論法』『デザイン論法』『めぐりあわせ論法』などですので、これらに関する感想は、述べてみたいと思います。

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2010年1月14日 (木)

数学者の無神論(4)

この本における『神』の定義は、『一神教の神』、すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の『神』です。

梅爺は、キリスト教が唱えるように『天にまします神』というような、宇宙空間のどこかに『実態として存在する神』は、実は『存在しないのではないか』と疑っていますが、『存在しない』ことを証明する能力は持ち合わせていませんので、厳密に言えば『分からない』ということになります。つまり『不可知論者』です。

この本の著者も、『存在しない』という主張に反論するには、『存在する一つの例』だけを提示すれば済みますが、『存在する』と言う主張に反論するには、『全てを調べ尽くして、存在しないことを証明する』必要があり、現実には『不可能』であることを認めています。従って、この著者も、自分は『無神論者』の立場をとるけれども、論理的に『神は存在しない』と『断言』はできないと述べています。そういうことなら、梅爺の『不可知論者』とドッコイドッコイです。『空飛ぶ蛇』が存在すると言う主張に対して、蛇が空を飛べない理由を並べて、自分は『存在しない』という立場をとると言うことはできても、世界中を隈なく調査したとは言い切れない以上、絶対に存在しないと断言はできないというような話です。

『神』は、『実態として存在するもの』ではなく、もしかして、人間が作り出した『抽象概念』であるとすれば、梅爺は、自分でも、それを認知できますので、『存在する』ことは肯定できます。つまり、『愛』とか『美』といった抽象概念と同じように、自分の脳の中に存在することを認識できるという意味です。しかし当然ながら、この『神』は、具象的に表現することはできません。そして、この『抽象概念』としての『神』は、自分の中の、これまた『抽象概念』である『善良な心』と関係していて、同じく『抽象概念』である『邪悪な心』は、『悪魔』と関係していると思い浮かべることが可能です。勿論『悪魔』も『抽象概念』です。

人間は、切羽詰れば、生物としては生き残るために必要な行為は、何でも行おうとしますが、その行為のあるものは『周囲との友好的な関係を築くもの』で、また、あるものは『周囲との敵対的な関係を作り出すもの』であることに気付き、前者の行為を『善良な行為』、後者の行為を『邪悪な行為』と分類しようとして、そのもとになる『善良な心』『邪悪な心』という『抽象概念』を見出したのではないでしょうか。『敵対的な行為』の最たるものが、相手を抹殺する殺人ですが、これさえも、今度は『正義』という『抽象概念』を見出して、自己肯定しようとすることがあります。人間は、群れを成して生きていく生物ですので、どちらかと言えば、『善良な心』に従った方が、自分の生き残りの可能性が高く、安息に生きていくことができると、本能的に感じているのではないかと想像しています。従って、『神』が存在するから『善良な心』が保てるのではなく、逆に『善良な心』の大元として『神』という『抽象概念』を作り出したのではないかと想像しています。もし、そうなら、誰にも少なからず『善良な心』は付与されていますので、『神を信じなければ、人間は善良でありえない』ということにはなりません。

『善良な心』などという概念を知らない赤ん坊が『笑う』のは、周囲と『友好関係』を結ばないと、生き残れない弱い立場であるために、本能で行う行為ではないかと思います。

『抽象概念』の『神』を信ずることは、人間の心を『安らかな状態』へ導いてくれるという、人間にとっては『非常に重要な効果』を生み出します。これは、自分では体験できないにしても、周囲の『信仰深い人たち』を観れば、誰もが観察できる『事実』です。宗教が本当に重要な意味を持つのは、このことで、『実態としての神』が、存在するか、しないかなどという議論とは、別の話と言うことになります。科学が本当に解明しなければならないのは、人間の脳は、何故そのようにできているのかという疑問ではないでしょうか。

梅爺が想像するように、『神』は、人間が作り出した『抽象概念』であるとすれば、人間がいないところには、その『抽象概念』である『神』さえも存在しないことになります。宗教関係者からすれば、とんでもない『妄想』と言われそうですが、梅爺はそう考えることのほうが、世の中の事象を矛盾なく説明できそうな気がしています。

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2010年1月13日 (水)

数学者の無神論(3)

この本の主役は『論理』です。『論理』そのものは『正しい』のではなく、対象が『真』か『偽』か、または『矛盾していて、どちらともいえない』かを判定するだけの『道具』に過ぎません。『科学』は『普遍的に真と言えることを探す』行為ですから、『科学』の世界では、『論理』は重要な手段になります。

『論理矛盾』は『パラドックス』と呼ばれ、世の中は『パラドックス』に満ちています。大体、『時に善良、時に邪悪な人間の存在』は、『パラドックス』の最たるものかもしれません。梅爺は、『自分は善良だけの人間である』と信じて疑わない方とお付き合いするのが苦手です。そういう方は、自分を棚に上げて、必ず他人を批判されるからです。人間の『情』にかかわる事象の大半は、普遍的な『真』か『偽』かなどということとは無関係です。梅爺が『ピーナッツに目がない』『音楽が好き』などは、元々遺伝子に依存しているとは思いますが、正しいとか、間違いとかいう議論の対象ではありません。しかし、梅爺にとっては『重要なこと』なのです。

前にもブログに書きましたが、『花より団子』『論より証拠』というような諺は、『パラドックス』ともいえるもので、主張を『真』か『偽』と判定できません。つまり『団子より花』『証拠より論』という、言い換えが可能で、これも『真』か『偽』かの判定ができません。そうであるからこそ、人々は、これらの諺を都合よく利用できます。そしてその『都合のよさ』が諧謔につながります。

『パラドックス』の傑作のひとつとして、よく引き合いに出されるのは、『ある日本人が「日本人はみんな嘘つきだ」と言った』という表現です。『ある日本人』がこの表現とおりに『嘘つき』であるなら、その発言の『日本人はみんな嘘つきだ』は嘘になり、本当は『日本人はみんな正直者だ』と言うことになります。一方『ある日本人』が『正直者』であるなら、『日本人はみんな嘘つきだ』は正しくないことになります。話している日本人は『正直者』であるからです。少々ややこしい『言葉の遊び』のように見えますが、これが『論理』による『矛盾』の指摘例です。

この本を読むまで、過去に、これほど多くの『実態としての神は存在する』ことを論証しようとした例があるとは、梅爺は知りませんでした。なんとしても『神は存在する』ことを証明したかった人が沢山おられたのでしょう。そして、今もおられることでしょう。

パウロス氏は、それらに、逐一『論理的な無理』が含まれていることを論証していきます。『神の存在』などには興味がなくても、高度に組み合わされたパズルを解くのが好きというような方には、たまらなく面白い内容かもしれません。

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2010年1月12日 (火)

数学者の無神論(2)

『数学者の無神論』という本は、歴史上、色々行われてきた『神は何故存在するか』ということの『論理的な説明』について、その全てが『論理矛盾』を含んでいるか、『論理になっていない』ことを解き明かし、従って、『神は存在する』という『命題(Proposition)』を単純に受け容れることができないと主張しています。

言うまでもなく、これは、『理性による論理』だけを駆使したもので、少なくとも『論理矛盾』や『論理になっていない』ものは、『受け容れがたい』という立場です。『おいおい、ちょっと待てよ、世の中には理性による論理では説明できないことが沢山あるんじゃないの』という反論は、ここでは、反論になりません。何故なら、過去に行われてきた『神が存在する』ことを、そもそも『論理』で説明しようとした内容に対して、著者は『反論』しているからです。

『神は理性による論理で議論する対象ではない』という主張は、最初から『理性による論理』は万能でないと主張しているわけですから、当然論理的な議論は成り立ちません。著者は、『世の中のことは、理性による論理で全て説明がつく』などと言っているわけではなく、少なくとも明らかに『論理矛盾』や『論理になっていないもの』は、受け容れがたい(疑わしい)と言っているだけです。

ここまでこのブログを読まれた方は、既に感づいておられると思いますが、この本は、人間の『理』と『情』のうち、『理』だけで、神を論じています。『理の話は分かったけれど、あなたは情と神の関係をどのように理解しているのですか』と梅爺は聞きたくなりますが、残念ながら、著者は、『理』の話に焦点をあわせ、それ以外のことは、『論じない』とまえがきの中で述べています。『人間は、自分が願うものが存在して欲しいと希求し、それは馬鹿げていると退けることはできないが、少なくとも自分(著者)は、神をそのように希求する必然を感じない』と、その立場を述べています。

人間が、『これが好き』『これを信ずる』と言っている内容は、『理』で『真偽』を議論する対象にはなり難いものです。従って、『神を信ずる』という行為を、『真偽』を議論する対象として扱うのは無理がありますが、『神を信じた人』が、『善良な心で満たされ、悩みや苦しみが減じて、穏やかな気持ちになる』ことが多いという『事実』や『現実的な効果』は、無視できません。

『理』で『神の存在は真か偽か』を論ずることとは、『情』の世界の話と直接相通ずることにはなりません。

梅爺が、何度もブログに書いてきたように、『神』を『理』の対象として論ずることには反対ではありませんが、『神を信ずる』ことが、人間の『情』にもたらす素晴らしい変化を配慮しない議論は、『片手落ち』と考えています。

この『理』と『情』の関係をわきまえて、冷静にこの本を読める人は、問題がありませんが、『情』でこの本を解釈しようとする人には、『なんと、味も素っ気もない冷たい話だろう』と、失望することになるのではないかと想像しました。

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2010年1月11日 (月)

数学者の無神論(1)

『生物と無生物のあいだ』の著者、福岡伸一氏(生物分子化学者)が、大分前の読売新聞日曜書評欄に、『数学者の無神論(J.A.パウロス著:松浦俊輔訳:青土社)』を紹介しておられましたので、福岡氏のファンである梅爺は、東京駅近くの丸善に出向いた折に購入し、読まずに書棚に積んでありました。原典(英語)のタイトルは『Irreligion』らしいので、直訳すれば『無宗教』ともいうべき、味気ないものです。日本語のタイトルの方が、内容を示唆する表現と言えるかもしれません。しかも、日本語の本のサブタイトルには、原典にない『神は本当にいるのか』と挑発的な問いがつけられていますので、刺激的です。

著者のパウロス氏は、ユダヤ系のアメリカ人数学者で、著述家でもあることを知りました。キリスト教徒の家庭に育ち、現在はユダヤ教の家族と同居していると書いてありましたが、本人は、当然『無神論者』です。

しかし、梅爺がこの本を読む限り、パウロス氏は、宗教や宗教を信ずる人を徹底批判し、その存在も認めないというようなコチコチの『無神論者』ではなく、『神は存在する』という従来の説明には、全て無理があることを、理性に基づく純粋な『論理』で説明し、従って、『(他人はいざしらず)自分は、神は存在するとは考えていない』と主張しているだけであることが分かりました。著者の両親(キリスト教徒)や家族(多分奥さん:ユダヤ教徒)と別に仲たがいせずに、やっていけるということからも、著者の『性格』や『立場』は、なんとなく推測できます。

つまり、『有神論』を攻撃しているのではなく、『自分は、こういう理由で、この立場をとる』と主張しているだけです。数学者らしい鋭い論理が繰り広げられるのはさすがですが、文章はユーモアに富み、少なくとも『不可知論者』の梅爺は、読んでみて、トンチンカンな主張ではないと感じました。

日本人は、『立場の違い』を、当然のこととして受け入れることが苦手ですので、日本人の『有神論者(宗教関係者など)』は、自分と異なった『立場』の主張は、『自分に対する攻撃』と受け取り、最初から『反感』を抱いて対応してしまいがちなので、こういうタイトルの本は、最初から『読むに値せず』と無視されるのかもしれません。

しかし、この本は、異なった立場の『有神論者』こそ、読んで損のないものであろうと梅爺は思います。自分と対極ににいる『無神論者』が、『何をどう考えているのか』を知れば、自分の立場を更に強く再確認することが可能であるからです。少なくとも、内容は、『無神論者』として、それなりの一貫した論理が綴られています。

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2010年1月10日 (日)

海を渡ったサムライ朝河貫一(2)

『朝河貫一』の驚くべき才能の二つ目は、『世界情勢を洞察する鋭い視点』で、『日清戦争』『日露戦争』に勝って、自分たちを過大評価し始めた日本が、西欧の列強をまねて、植民地主義、軍事拡大路線に走ろうとすることを、『国際的孤立化、国家滅亡への道』であると観て、鋭く批判していることです。

『日露講和会議』が開催されたアメリカのポーツマスへ、彼は、歴史学者として傍聴にでかけ、各国の新聞記者を前に、流暢な英語で、『日本のアジア進出は、侵略ではなく、西欧に抑圧されているアジアを解放するため』という大義名分を、とうとうと述べます。

小村寿太郎や日本政府の代表でもない日本人が、『日本の立場』を説明するのは異様ですが、それほど彼の英語力はずば抜けていたのでしょう。当然、全権団はもとより、日本から同行した日本人記者団などは、面目丸つぶれで、苦々しく思ったにちがいありません。異文化に対応するには、『理解力』と『言葉』が両輪で必要になるという状況は、今も変わりがありません。サッカーの中田英寿が、ヨーロッパで受け入れられたのは、サッカーの能力に加え、イタリアではイタリア語で、イギリスでは英語で、インタビューに応じたからです。

梅爺も含め、多くの日本人は、自分の語学能力のなさを弁解しますが、弁解してでも生きていけるのは、『言葉ができなければ、生きていけない』という過酷な状況に追い込まれたことがないだけのことです。

『朝河貫一』は、明治政府の要人へ向けて、私信を送り、『日本が誤った外交路線をとらないように』と諫言(かんげん)しますが、ほとんど相手にされませんでした。『アメリカかぶれに、日本のことが分かってたまるか』という反発が強かったものと思います。自分の立場をまず擁護し、相手の言い分の本質を見抜けないという行為は、梅爺も日常繰り返していますから、偉そうなことは言えません。器の小さい人は、器の大きい人が理解できないというのが、人間社会の悲劇の一つです。

『朝河貫一』は、それではと、日本語で『日本の禍機(かき)』という論文原稿を書き、これを師であった坪内逍遥へ送ります。これは、すぐに日本で出版され、大きな反響を呼びました。『列強をまねて植民地獲得の侵略戦争の道を歩めば、やがて日本は国際社会で孤立化し、アメリカとも戦わざるをえない状況になり、悲惨なことになる』と洞察しています。

その後、日本は彼の危惧したとおりの歴史を歩んでしまいました。彼が亡くなったのは1948年ですから、日本のみじめな敗戦を、悲しみを込めて、アメリカで見守っていたことになります。イェール大学には、『朝河ガーデン』という小ぶりな日本庭園が、偉大な『平和提唱者』を称えて設置されています。

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2010年1月 9日 (土)

海を渡ったサムライ朝河貫一(1)

年末年始には、ドキュメンタリーの特別番組がいくつかテレビで放映され、BSTBSの『海を渡ったサムライ』もその一つで、梅爺は録画して観ました。

日本人として、初めてアメリカのアイビー・リーグに属する名門大学、イェール大学の教授(歴史学)に、戦前登り詰めた『朝河貫一』を紹介するものでした。浅学の梅爺は、この番組で初めて『朝河貫一』を知り、生い立ち、業績に感銘を受けました。

梅爺が驚いたのは、『並はずれた語学の才能』と『世界情勢を洞察する鋭い視点』の二つです。明治維新後、世界を視察して、ある程度西欧文化を理解し、日本人の啓蒙に努めた『福沢諭吉』のような人物も立派ですが、西欧文化の中に入り込んで、現地で頭角を現した『朝河貫一』は、さらに驚嘆に値します。拙(つたな)い英語力で、冷や汗をかきながら、アメリカの会社とのビジネス折衝に携わってきた梅爺の体験と達成レベルを比較すると、『驚嘆』は大げさではありません。

『朝河貫一』は、戊辰(ぼしん)の役で、官軍とまともに戦った二本松藩(現在の福島県)の藩士の息子で、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、大志を抱いてアメリカへ留学した人です。貧乏な元士族(しかも戊辰の役で官軍に敗れた負い目のある)の子弟で、渡航資金はありませんでしたが、才能を見込んで、当時の著名人たち(大隈重信、徳富蘇峰、勝海舟など)が援助をしました。誰が見てもずば抜けて優秀な若者であったのでしょう。アメリカでは、ホテルの皿洗いなどをしながら大学(ダートマス大学)へ通いますが、すぐにその才能が認められ、推薦でイェール大学大学院に進み、最終的には、教授、名誉教授にまで登り詰めました。本人の能力、努力もさることながら、これを受け入れるアメリカの懐の深さは、残念ながら日本より上です。アメリカで成功後、一時帰国し、留学資金を援助してくれた人たちに、律義に借金を返済をしています。

彼の語学能力は、福島県尋常中学校(現在の県立安積高校)時代からずば抜けていて、卒業生総代の答辞は、『完璧な英語』で述べたと言われています。当時としては珍しく、英国人英語教師が学校にいたとはいえ、すごい話です。彼は、毎日『英英辞典』5ページを丸暗記し、破って食べてしまったという逸話も残っています。才能に加え、大変な努力もあったのでしょう。生前の彼を知るアメリカ人は、彼の英語が『完璧』であったと、口をそろえて述懐しています。梅爺は、自分の英語の能力を思い浮かべて、恥ずかしくなりました。

彼はアメリカ女性と結婚しましたが、最後まで国籍は『日本』でした。西欧の自由思想、合理主義を身につけながら、それでも最後まで日本のサムライのプライドを持ち続けた日本人であったのでしょう。『異文化を理解し、その上で日本文化を主張できる日本人』という、これからの日本人が目指すべきお手本のような人物が、100年前に存在していたことになります。

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2010年1月 8日 (金)

ジャック・アタリの『日本の将来』予測(3)

この記事の中で、梅爺が最も興味を惹かれたのは、ジャック・アタリ氏が、今後50年間に起こりうる世界情勢について予測している内容でした。彼は、次の5段階で、世界は変わっていくと予測しています。

第一段階 アメリカによる支配が終わる
第二段階 日本を含む10~12の国が競い合う
第三段階 規制なき市場の力が世界を覆う
第四段階 市場の力に歯止めが利かず世界は紛争状態に
第五段階 市場の暴走を制御する世界政府が生まれる

場合によっては、第四段階をスキップして、第五段階に移行することもあると、注書きがしてありました。

これが当たるとすれば、『日本の将来は暗くない』どころか、『世界の将来は明るくない』ということになります。『市場の力』は『エゴむき出しの奪い合い』でしょうから、今回の金融危機で懲りたはずの世界が、またまた『エゴ』で暴走し、ついには手に負えない紛争にまで発展して、ようやく『世界統一政府』で、暴走が止まるという、なんとも『暗い』ご託宣です。

『人間は、とことん痛い目に会わないと目が覚めない』という冷めた見方は、歴史を見る限り、否定できない側面がありますが、『世界(統一)政府』が最後の解決策であるという考えには、諸手を挙げて同意はしかねます。

ヨーロッパ連合(EU)を実現したジャック・アタリ氏の考えの延長上に、『世界政府』があるというのは、理解できますが、『EU』が可能であるヨーロッパの環境と、『世界政府』が可能になる世界の環境とでは、あまりにも違いが大きすぎるように感じます。

『エゴ』を唯一抑制できるのは『法』であり、国際的な『法』の権威を維持するには、『一つの政府』『一つの裁判機構』『一つの警察機能』が必要であると言う『論理』には一理がありますが、あまりにも『論理』一辺倒で、『世界中の人々が、まあまあ文句を言わずに、世界政府の政策に従うなどということがありうるのか』『現時点で、多様な価値観をもって生きている世界の人々が、そのように変身できるのか』『そもそも、全人類を単一の価値観で規制できるのか』という洞察が足らないように梅爺は感じます。

梅爺は、個人の『価値観』がそもそも異なっているように、民族、国家の『価値観』も異なっていて『当然』と思いますので、『全人類を単一の価値観で規制する』ことは、容易であるとは思いませんし、それが実行されて、人々が『幸せ』と感ずるとも思えません。多様な『価値観』が、人類の最大の魅力でもあり、アキレス腱でもあるという矛盾を受け容れる方が自然ではないでしょうか。

結局人間は、痛い目にあって、はじめて異なった『価値観』との妥協を模索する知恵が少し増す、というのが現実ではないでしょうか。人間は、異なった『価値観』への妥協はあっても、よほどのことがない限り、自分から、自らの『価値観』を全て放棄することはないのであろうと想像しています。

梅爺の考えを肯定すれば、最悪の場合、人類は紛争の末、絶滅に瀕することになり、最後の最後に、絶滅するくらいならといって、嫌々『世界政府』を認めることがあるかもしれないという程度の話になります。でも、根拠はありませんが、50年以内にそのような事態になることはないだろうと感じています。

『世界政府』などという非現実的に見えるシナリオではなく、異なった『価値観』との、折り合いをつけながら、世界の国々が、なんとかやっていけるという、もっと現実的で、叡智にあふれた穏やかなシナリオは、本当にないのでしょうか。

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2010年1月 7日 (木)

ジャック・アタリの『日本の将来』予測(2)

読売新聞の記事には、ジャック・アタリ氏がその著書『21世紀の歴史』で指摘している日本の課題10個も併記されていました。その中には『自由な独創性を育成すること』『市民に対して新しい知識を公平に授けること』など、『教育』に関わることも含まれていますが、この表現では、梅爺はあまり感心しません。『日本人は独創力に欠ける』『市民が公平に情報を取得できていない』というのは、西欧人の誤った『日本認識』の典型です。

日本人は、『独創的であると、社会からつまはじきにされ損だ』という『価値観』に支配されてきたことは確かですが、日本人が『独創力に欠けている』わけではありません。『市民が同じ考え一色に染まっている』ように見えるのは、『そういう風にした方が楽で、波風が立たない』という『価値観』に支配されているだけのことです。誰かが日本を一色にしようと企んでいるいるわけではなく、日本人が一色であることを自ら望んでいるだけです。日本は、誰もが自由に接することができる『情報』で満ち溢れていると言う点では、今や世界の先端国の一つです。その中には、インターネット情報のように、『怪しげな情報』も含まれていますので、自分で『情報』を識別する能力が問われていますが、市民の一人一人がそのような成熟したレベルに達しているとは、残念ながら言えないのは確かです。

『日本人の価値観を変えていく必要がある』という認識が、共通になるかどうかが、日本の課題ではないかと梅爺は思います。そうすれば、『独創力を評価する』『自分の考えを持つ』日本人に変っていける資質を十分に保有していると梅爺は感じています。

要は、日本人が『日本人であり、世界人である』という認識を持てるかどうかではないでしょうか。そのためには『異文化』を知る努力を、もっともっと重ねる必要があります。単に『日本文化』を尊重するだけでなく、『異文化』を理解した上で『日本文化』を尊重する必要があります。日本の将来が『暗いか、明るいか』は、日本だけで決まる話ではありません。

例えば、『幼児性から抜け出せない大人』はどこの国にもいますが、それを『カワイイ』といって受け容れる日本の文化は、西欧人から見れば『異文化』です。『自分の考えをしっかり持った成熟した大人』として振舞わなくては、西欧からは尊敬されません。

ジャック・アタリ氏に『日本の将来』を語ってもらい、さも『どうだ、思い知ったか。心して拝聴しろ』と言わんばかりに正月の新聞1面に掲載する読売新聞には、少々ガッカリしました。ジャーナリズムが自説を優先せずに『外の意見』で手軽に補い、日本人も『外の意見』がないと、自分を省みないというのでは、日本は、世界の中で『尊敬される国家』からは、程遠いと言わざるをえません。

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2010年1月 6日 (水)

ジャック・アタリの『日本の将来』予測(1)

1月3日の読売新聞1面と2面に、フランス人ジャック・アタリ氏の『(日本の)将来は暗くない』というコメント(インタビュー記事)が掲載されていました。ジャック・アタリ氏は、ヨーロッパ連合(EU)の創設に深く関わった人で、『ヨーロッパの知性』と呼ばれている賢人です。

彼の、『ベルリンの壁崩壊の歴史的な意義』に関するコメントについては、前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-da63.html

彼は、日本が直面している危険要素(課題)を三つ指摘し、日本はこれを克服できる潜在能力を持っているので、『将来は暗くない』と論じています。三つの危険要素は以下です。

(1)少子化を乗り切る人口政策
(2)明確な技術革新政策
(3)金融システムの質の向上

新年早々、『ヨーロッパの知性』と言われる人に『(日本)の将来は暗くない』と言っていただくことは、ありがたいとは思いますが、『そうか、日本の将来は明るいんだな』とこれを鵜呑みにしないところが、梅爺の悪い癖です。

ジャック・アタリ氏の三つの指摘は、論理的な思考の帰結として、異論はありませんが、あまりにも目先の戦術のような感じを受けます。日本人にとって、本質的に重要なことは、『日本人としての資質を保ちながら、国際的な対応ができる体質へ変って行くこと』ではないでしょうか。勿論、経済不況などの、焦眉(しょうび)の急といえる色々な難問を乗り越えることは重要ですが、目の先の問題を解決すれば、明るい未来が待ち受けているとは言えないように思います。確かに、現在は何もかもが『暗い』感じですが、それでは『明るい』とはどういう状態なのかもハッキリしません。

現在の苦境から脱すれば、後は安心ということはなく、これからも、日本は色々な問題に遭遇し続けると考えるべきではないでしょうか。この教訓を、梅爺は永い会社生活で得ました。『この苦しさを乗り越えれば、安泰が待ち構えている』と思って、頑張り続けましたが、安泰を実感することは最後までありませんでした。つまり『安泰』などは、無いということを知りました。徳川家康の『不自由を常と思えば不足なし』という言葉は、この現実を的確に表現しています。

こう考えれば、その時々の苦境に対応するのは、その時の日本人であるということになりますので、『苦境に対応できる聡明な日本人』を一人でも多く育成しておくことが、日本の将来に最も重要なこととなります。日本という国家は、その時点において日本を構成している日本人が創り出す社会のことで、絶対的なものとして存在しているわけではありません。歴史や伝統も重要な要素ですが、それをどのように受け止めるかは、そのときの日本人が決めることです。歴史や伝統といえども絶対的な存在ではありません。

将来の日本に、どのような『価値観、能力』をもった日本人が必要になるのかを見極め、適切な『教育』を充実することが、どの時代でも最も重要なことなのではないでしょうか。明治維新で、日本はこれを実行しました。しかし、その時必要と考えた『価値観、能力』とは異なったものが、今求められています。それを見極めるのは、ジャック・アタリ氏ではなく、日本人であるべきです。

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2010年1月 5日 (火)

パウロ・コエーリョの小説『ザーヒル(The Zahir)』(5)

この小説の中で、主人公は子供の頃、母親に以下の質問をしたと書いてあります。そして、今でも同じ質問を一人で繰り返しているとも書いてあります。

(1)何故人は、ある人を愛し、ある人を憎むのか?
(2)人は死んだらどこへ行くのか?
(3)人は何故生まれ、そして死ぬことになるのか?
(4)神とは一体何なのか?

多分、パウロ・コエーリョ自身が、人生をかけて追い求めている課題が、ここの集約されているのでしょう。

『梅爺閑話』をお読みいただいている方には、梅爺も繰り返し、このテーマに触れていることはご存知のことでしょう。しかし、理屈っぽさでは人後に落ちない梅爺でも、さすがに子供の頃、このような質問を思いつきませんでしたし、母親に問いかけたこともありません。戦災で家も家財も焼失し、『市営住宅』とは名ばかりの、バラック小屋に住み、イナゴや土筆(つくし)を食べて、飢えを凌いでいるような生活でしたから、こんな質問をしたら、『いい加減にしろ』と、えらいお目玉を喰らったに違いありません。

このようなことを思い煩わない方が『人生は健康的だ』と、哲学者の木田元先生が、その著書『反哲学入門』に書いておられ、梅爺もそのとおりと思います。『反哲学入門』については、以前ブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_85d8.html

しかし、こういうテーマが『気になって、気になってしかたがない』という性質の方もおられ、小説家や哲学者はそういう人達なのでしょう。確かに、これらは、『人が生きていく』ことと、深く関わっていますので、梅爺も関心がありますが、小説家や哲学者ほど、悩んだりしないのは、チャランポランな性格故ではないかと思います。

それでも、小賢しく、人間が何故『神』とか『愛』とか『自由』などという『抽象概念』を編み出したのかについては、『生物進化』『脳の進化』のプロセスが関与しているという『仮説』を、怖いもの知らずで述べ続けてきました。そもそも人間が考え出した『抽象概念』は、相対的な意味しか持ちませんから、『真の愛』『真の自由』という、絶対的な価値観を求めても、永遠に手には入らないものと、最初から逃げ腰になっています。

生き残るために、全ての行為が許されるという生物としての原点から進化した人間は、今でもその最初の資質を本能として保有しているのではないかというのが梅爺の『仮説』です。その後、人間は、理性を獲得し、論理思考、推論思考で、沢山の『抽象概念』を思いつき、それを共有してきたのではないかと考えています。『善と悪』『神と悪魔』『美と醜』『愛と憎悪』『権利と義務』『自由と抑圧』などと概念や区分けは、人間が理性で思いついたもので、元はといえば、『全ての行為が許される』という環境から出発したものであることを理解する必要があるのではないでしょうか。人間が矛盾に満ちているように見えるのは、このように考えれば合点がいきます。

何度も書いてきたように、上記の『抽象概念』やその区分を保有することが本来無意味なこととは、梅爺は考えていません。むしろ、生物として人間だけが獲得したように見えるこれらの『抽象概念』やその区分けは、人間や人間社会が、『生き残る』ために、必要であったからこそ生まれたもので、重要な意味を持つと考えています。

パウロ・コエーリョの、『心の安らぎ』が何故人間には必要なのか、何によって得られるのか、を追求し続ける姿勢には、共感を覚えますし、こういうことにこだわる人を、梅爺は嫌いにはなれません。

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2010年1月 4日 (月)

パウロ・コエーリョの小説『ザーヒル(The Zahir)』(4)

この小説のタイトル『ザーヒル(Zahir)』は、アラビヤ語を語源とするイスラム文化で用いられる伝統的な『概念』で、『明白に存在し、認知しないわけにはいかないもの』というような意味を持っている言葉で、18世紀に西欧社会でももちいられるようになったことを、梅爺は知りました。

主人公は、妻の失踪後、『罪と嫉妬が入り混じったような複雑な強迫観念』に取りつかれ、これを『ザーヒル』と呼んでいます。カザフスタンからパリへやってきた、霊感を持つ不思議な青年は、『人間は、自分の過去にとらわれている限り、本当の心の安らぎは得られない』と、主人公に話します。

人間の『現在』は、『過去』がもたらしたものであり、好むと好まざるを問わず、自分にとって『確かなこと』は『過去』ですから、これを脱却するというのは至難の業です。特に、この主人公のように、『世俗的な成功』を収めている人間には難しい話です。梅爺のような凡人は、むしろ『過去にしがみついて生きている』というのが実態ですから、『そう言われてもなぁ』と戸惑うばかりです。仏教の『煩悩から解脱する』という教えに通ずるものがあると梅爺は感じました。

やがて、主人公と不思議な青年は、主人公の妻を求めて、カザフスタンの草原に出向き、そこに住む遊牧民の自然信仰『テングリ(Tengri)』を体験します。人類の宗教の原点の一つは『自然信仰』であろうと梅爺は想像しています。科学の知識を持たなかった時代の人間は、周囲の全てが『驚異』であり、この周囲とうまく付き合っていかないと、生きていけないことは、直ぐに悟ったに違いないからです。特に、過酷な自然環境の中で、生き延びようとした人たちは、『自然』を『神』として畏怖したにちがいありません。

アメリカのインデアンや、オーストラリヤのアボリジニなどに伝わる『自然信仰』は有名ですが、彼らに共通する考えは、『自分達が自然との調和を破壊したら、自分達も滅びる』というものです。

この小説の作家、パウロ・コエーリョは、キリスト教文化で育った人ですが、『愛』や『善良』の究極な存在を『神』とするような、『理』で考え出した概念ではなく、『自分をとりまく一切の自然』が『自分を生かしているもの』であり、これを『神』と認識して、感謝して生きるという姿勢に魅力を感じているのではないかと、梅爺は感じました。この姿勢は、梅爺が今までに読んだ彼の小説『錬金術師』『ポートベロの魔女』に共通しています。

梅爺も『心の安らぎ』を得たいと思いますが、この世はあまりにも多くの『心を煩わせるもの』で満ちており、理想と同様に、追い求める価値はあるにせよ、『手にははいらぬもの』と、だらしないことに、すっかりあきらめています。

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2010年1月 3日 (日)

パウロ・コエーリョの小説『ザーヒル(The Zahir)』(3)

人間の精神世界を主題にする小説を紹介するのは至難の業です。梅爺の拙い感想をお読みいただくよりは、小説そのものをお読みいただいた方が手っ取り早いからです。

しかし、感想を書く以上、背景をある程度ご理解いただかないと、何のことかさっぱり分からないことにもなりますので、『筋書き』を大雑把に紹介します。

主人公は、パリに住む外国人作家で、彼は処女作が世界的なベストセラーになり、その後も小説を書けば売れるという状態が続いて、印税収入で裕福で気ままな生活をしています。『書店店頭でのサイン会』『講演』『取材のための海外旅行』などが主な日課です。過去に2度の離婚歴があり、3度目の妻は、ジャーナリストですが、自ら志願して、世界の紛争地帯の危険な最前線をレポートする記者に転じ、家を空けるようになります。そして、突然、何の説明もなく、書置きも残さず、主人公の前から姿を消します。著名人の妻が失踪したということで、マスコミも騒ぎ、主人公は警察の尋問を受けたりもしますが、何の手がかりも見つかりません。

彼は、『妻に対する罪の意識』『嫉妬心(新しい恋人ができたと想像)』などがいり混じった複雑な『強迫観念』のようなものに取り付かれ、文章を書く気力も失います。その時、彼の前に、妻の消息を知っているらしいカザフスタンからパリへやってきた不思議な青年が現れます。この青年は癲癇(てんかん)持ちですが、遊牧民の自然信仰『テングリ』を説き、『母なる自然』の『声』を聞くことができる霊感の持ち主です。この青年は、戦場で主人公の妻の通訳をつとめた縁で、パリへやってきたことが、後々判明します。主人公と青年の不思議な交流が始まり、やがて二人は、主人公の妻が密かに隠れ住んでいるカザフスタンの草原へ旅たち、主人公は妻と再会を果たします。

この小説は、『うわべだけで形式的な愛や自由』では得られない、人間の『真の心の安らぎ』とは何かを問い続ける男女(主人公と妻)の物語です。従って最後は、お互いの理解は得られますが、必ずしも二人が復縁するといった単純なハッピーエンドではありません。『なんでそのようなことにこだわるのか。現状を幸せとして受け容れればそれで良いではないか。わざわざ自分を不幸だと思う必要がどこにあるのか』と、理屈をいいたくなる梅爺のような凡人には、難解な小説です。偉大な小説家や哲学者というのはまことに厄介な人種です。

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2010年1月 2日 (土)

パウロ・コエーリョの小説『ザーヒル(The Zahir)』(2)

この小説の主題は、『自由』とか『愛』とか、分かっているようで分からない概念を追い求める人間の精神世界の摩訶不思議さを追及するものですから、『筋書き』を紹介しても始まりません。勿論、小説ですから『筋書き』はありますが、それは、登場人物達がその『筋書き』が提供する環境の中で、『どのような心の反応を見せるか』を提示するために準備された『舞台』にすぎません。

しかし、シェークスピアのように、『登場人物が、心を反映して発する深遠な言葉(精神世界の摩訶不思議さ)も面白い』、『筋書き自体も面白い』という、『ダブル・コード』で迫ってくる、偉大な作家も存在しますから、『筋書き』を軽視しすぎるのは、間違いかもしれません。

この小説を読んで、梅爺が感じたことは、あくまでも、梅爺が感じたことで、そのように感ずることが『正しい』とか『間違い』であるとかを論じてもはじまりませんし、そのようなつもりもありません。それは、ブラームスの『交響曲第一番』を聴いて、梅爺がどう感じたかということと同じです。梅爺が、『交響曲第一番』を聴いて、感想や評論を書いたとしても、それを読んだ人が『交響曲第一番』を聴いたことにはなりません。『そのものに、自分自身が直接触れてみる』ことが、芸術や文学に接するときの鉄則です。

『文芸評論』は、それ自体が独立した『作品』であり、読者は、評論家の『脳や心の反応』を興味深く、楽しみます。もし、評論家が、『この文芸作品は、このように読むのが正しい』と主張するために『文芸評論』を書いたとしたら、傲岸であり、邪道です。『文芸評論』は、これから元の文芸作品を読む人の『参考』や『ガイド』にはなりますが、『指南書』ではありません。

従って、このブログは、『筋書き』を紹介することが主目的ではなく、梅爺が『何を感じたか』を書き連ねることになります。『なんで、そんなことに興味を示すのか、一向に理解できない』と思われる方は、無理にこの小説を読まれる必要はありません。もし、『なにやら、面白そうだ。自分ならどう感じるのだろうか』と思われる方は、本屋や図書館へ出向かれたらいかがでしょう。

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2010年1月 1日 (金)

パウロ・コエーリョの小説『ザーヒル(The Zahir)』(1)

梅爺が、ブラジル人作家のパウロ・コエーリョの小説のファンであることは、度々ブログで紹介してきました。偶然アメリカの書店で購入した、彼の代表作『錬金術師(The Alchemist)』を読んでからのことです。『錬金術師』と『ポートベロの魔女』についての読後の感想は以下に掲載しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_69db.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-a0f5.html

彼の作風から、パウロ・コエーリョという人は、信仰に厚い柔和な人格者であろうと梅爺は勝手に想像し、ブログでもそのように紹介してきました。しかし、今回彼の『ザーヒル(The Zahir)』という、ポルトガル語から英語へ翻訳されたペーパーバック版の本を読んで、『おやおや、これはとんでもない勘違いをしているかもしれない』と気づきました。

この小説の主人公は、パリに住む小説家で、どうもパウロ・コエーリョ自身がモデルではないかと思えるからです。この主人公は、確かに『愛とは何か』『自由とは何か』『心の安らぎとは何か』と、自分の身や周囲に起こる出来事を通じて、思い悩む人物なのですが、その生活ぶりは、とても『信仰深く柔和』とは言えず、魅力的な女性に言い寄ったり、結婚と離婚を繰り返したり、深酒をしたりと、むしろ『奔放』や『自分に正直』といった言葉が当たりそうな人物として描かれています。

勿論、小説ですから、これが彼の実像であるとは限りませんが、もし、このとおりの人物であったとしても、梅爺は幻滅を感じたりはしません。むしろ、一層パウロ・コエーリョと言う人物に魅力を感じるようになりました。

人間は、『善良・柔和・清貧』に生きることが望ましいと『理』では分かっていても、自分の中にある『邪悪・憤怒・欲望』が、噴出する機会をいつもうかがっています。こういう『善良・柔和・清貧』とは反するものを自分の中に抱え込んでいる事実から眼を逸らし、したり顔に『善良・柔和・清貧』を説く人に梅爺は、共感を覚えません。

汚泥の中に埋没しそうになりながら、なんとかそこから逃れようとすることの連続が人生なのではないかと思うからです。この本の主人公の作家は、世界中で小説が次々にベストセラーになり、莫大な印税収入がある裕福な人物(多分、パウロ・コエーリョもそうなのでしょう)ですから、生活に困ることはありません。彼が悪戦苦闘するのは、『心の安らぎ』を求めてのことです。

梅爺は、この歳になったからこそ、パウロ・コエーリョの小説が、少しは理解できるようになったのであって、若い頃読んでも、これほどの感動や感銘はなかったかもしれません。

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