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2009年12月31日 (木)

糠に釘

上方いろはカルタの『ぬ』、『糠(ぬか)に釘』の話です。

これは、『豆腐にかすがい』同様、『ある目的のためにとる手段が、全く有効ではない』ということを、笑い飛ばしている諺です。

『賢者』が『愚者』を、笑いものにしているともとれますが、よくよく考えてみると、この世は『愚者の楽園』で、『どこから見ても賢人』という人は、そうはいませんから、ほとんどの人は、毎日『糠に釘』をそれと知らずに打ち続けているのではないでしょうか。勿論、梅爺はこの部類に属します。そうであるが故に、『糠に釘』は、一種のほろ苦さを感ずる諺です。

科学の世界は、『目的と手段』や『原因と結果』の間に、一律の『法則(ルール)』が存在することを立証します。したがって、『正しいか間違いか』『有効か無効か』を、公平に論ずることができます。このことを経験すると、人は『世の中のことは何でも、正しいか間違いか、有効か無効かに区分できる』という錯覚をもちがちです。そして、もっと厄介なことに、『自分が好ましいと思うこと(価値観)』が『正しい』と、更に勘違いし、勘違いしていることさえ、気づかないことが往々です。

しかし、世の中の大半の事象は、『無数の要因が複雑に絡み合っている』ために、人間の能力をもってしても、『正しいか間違いか』『有効か無効か』を単純に律することはできません。結果として『正しいか間違いか』『有効か無効か』が判明することがあったとしても、最初の行動を選択した時には、『多分正しいに違いない、有効に違いない』と『信じて』いたに過ぎないことが大半です。つまり、人間は『神のみぞ知る』という行動を、毎日繰り返していることになります。

政治家が示す政策について、梅爺は、感覚的に『支持か不支持か』を決めることは比較的容易にできますが、『正しいか間違いか』を論ずる能力は、残念ながら持ち合わせていないことが大半ですので、こういう議論への参加には、臆病になってしまいます。『正しいと信ずる』ことと『正しい』こととは、違うからです。

この結果、『過ちを犯す確率』は、平均50%ということになりますが、梅爺の人生を振り返ってみると、多くのことは、現在でも自分では、どちらかと明解に判定できないことだらけです。勿論、明らかに『過ちであった』と思えることも沢山あります。

『私はほとんど過ちを犯してこなかった』と言える人は、『勘違いしている人』か、よほどの『賢人』か、並外れの『幸運な人』か、いずれかではないでしょうか。

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2009年12月30日 (水)

優柔不断(2)

ものは言いようで、『優柔不断』は『慎重である』とも言えます。予測能力に優れている人ほど、沢山のシナリオを同時に想起できますので、『優柔不断』になる傾向があります。

決断しないでいるのは、(1)解決シナリオを創出する能力を持たないためなのか、(2)沢山のシナリオを想起しすぎて優劣を決しかねているのか、(3)内心は決断しているが、表明のタイミングが適切でないと考えているのか、(4)決断の責任をとる勇気が無いのかと、どれかの理由によるものと考えられますが、一国の首相としては、もし(1)(4)ならば最悪です。

決断後に何が起こるかを推測することは重要ですが、世の中のことの大半は、残念ながら、『全てを見通す』ことはできません。マチガイを畏れて行動をしないと、世の中は前に進みませんし、適切な時期に行動しないと、反って事態が悪化することもあります。決断は、その内容とタイミングが重要な要素です。

スポーツの選手も監督も、『優柔不断』で勝利を勝ち取ることはできませんが、決断したために敗北を喫することもあります。政治は一国の運命がかかっていますので、スポーツほど簡単に『敗北もやむをえない。ダメならやり直せばよい』と単純には言えませんが、それでも『全てを見通せない』中で、決断をする必要があります。

沖縄の米軍基地を、どこへ移すかということは、巻き込まれている沖縄の方々の苦悩を考えると、直近でどのような決断が正しいのかは、誰が考えても難しい問題です。しかし、本質は日米関係の今後の展望、東アジアの政治情勢の今後の展望、日本の自前防衛力の規模の展望、国民への経済負担の求め方、それに、前自民党政権時に外国と『約束』したことへの国家として対応姿勢、などをどのように総合判断するかです。日米同盟さえあれば、いざと言うときにアメリカが命がけで日本を守ってくれる、アメリカの軍事力に依存した方が日本国民の経済(税金)負担は少なくてすむ、などの主張は、梅爺にはなんとなく単純で、『虫が良すぎる』ように思えます。

外交上のこともあり、鳩山首相は、『何故決断を先延ばしにしているのか』の原因をすべて、国民に明かせないにしても、可能な限り『先延ばしの理由と覚悟の程』を、国民に説明する必要があります。

国民は、『完全無欠な首相』を期待しているのではなく、『首相が何を考えているのか、国の運命を託すに値する思慮をもちあわせているのか、そして、基本的に信頼できる人物なのか』を問題にしています。そして現時点では、単に無策なのか、それとも思慮深さを隠しているのかを見極めようとしています。

『政治は友愛だ』とか『国民の総意をちゃんと理解して』とか言うだけで、あとは無表情に沈黙しているのでは、『どうも本当は無策らしい』という危惧ばかりが増大し、国民の信頼からは、程遠いものになってしまいます。

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2009年12月29日 (火)

優柔不断(1)

鳩山首相の『優柔不断ぶり』が、日本国民をイライラさせて内閣支持率を下げ、同盟国のアメリカの政府首脳の堪忍袋の緒も切れそうになっているという連日の報道に接して、普段は、あまり政局、時事問題をブログに取り上げない梅爺も、『何故、鳩山首相は優柔不断なのか?』が気になり出しました。

鳩山内閣成立時に、『耳に心地よいマニュフェスト』が、現実にはそのとおり実行できずに、国民からブーイングが起こる懸念をブログに書きましたが、一方鳩山首相の『日本語表現能力』には、高い評価をつけました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-254f.html

もっとも、その前の麻生首相が、ちょっとお粗末であったことから、相対的な評価でもありました。

『明解な言語表現能力』は『リーダーシップ』には欠かせない資質ですが、『優柔不断』は『リーダーシップ』を損ないかねません。『鳩山首相は坊ちゃん育ちなので決断ができない』というのが、大方の批判ですが、本当にそうなのでしょうか。民間の会社では、同族経営でもない限り、『坊ちゃん育ちで決断ができないことが明白な人物』が、トップにまで登りつめることは、まずありません。権謀術数が渦巻き、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するように見える永田町で、『坊ちゃん育ちで決断ができない人物』が、トップの座につけるとは、易々とは信じがたいことです。しかし、微妙なパワーバランスと資金力で、そのようなことが起きたというのであれば、人材不足が暴露したことでもあり、日本国民にとっては不幸な話です。

アメリカの政府首脳を、『イライラさせてしまっていること』を、鳩山首相に代わって『申し訳ない』と感じている、律儀な日本人が多いように梅爺は感じますが、『外交』の問題で、相手国に不満を抱くことは、どこの国でもあることで、そのこと事態には、梅爺は負い目を感じたりはしません。ただ、今回の鳩山首相の態度で非難されるべきことは、アメリカに対して『甘い言葉を囁き、期待を持たせた上で、信頼を裏切っている』ことです。

『優柔不断』が悪いのではなく、『甘い言葉を囁いた上で、信頼を裏切っている』ことが、結婚詐欺まがいで、最悪です。アメリカ留学の経験がある鳩山首相が、アメリカ人が最も重視する『約束、契約』の重みを理解していないとしたら、国際的な政治の場で、リーダーシップを発揮できる資質を欠いていることになります。最初から一貫して『優柔不断』を通し、それでアメリカがイライラするのであれば、これは、『外交戦術・戦略』としては、一つの選択肢であろうと思います。日本もアメリカにはイライラさせられることが沢山ありますから、アメリカをイライさせることは何としてもいけないと、決め付ける必要はありません。『外交、ビジネス折衝』ではよくある話です。

鳩山首相が、単に『八方美人の優柔不断』なのか、深い策略をもって『優柔不断のそしりを敢えて甘受している』のか、現状では判然としません。リーダーが『即断即決』をするのも危険を伴いますが、『私が最後に決めます。私を信用してください』と言いながら『優柔不断』を通すというのも、同様に危険を伴います。さて、どんな結末が待ち受けているのでしょうか。

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2009年12月28日 (月)

光合成とはなにか(8)

30メートル以上の樹木が、根から吸い上げた水分をどのようにしててっぺんの葉にまで届けることができるのか、逆に、葉でつくりだした有機物(養分)を、枝、幹、根などにどのように届けるのか、などという『カラクリ』を梅爺は、この本で知りました。動物のように、養分や酸素を身体の隅々にまで送り届けるための、心臓(ポンプ)や血液(媒体)を持たない植物が、どうやってそれを実現しているかは興味津々ですが、分かってしまうと手品の『種明かし』のようなものです。前者は『浸透圧の利用』であり、後者は、細胞間の、化学・物理作用を利用した『バケツ・リレー』が正体であることをしりました。

個々の細胞は、与えられた任務を黙々とこなすだけで、『全体の中の自分の役割』を『認識』などしていません。それなのに、全体としての『生命』は、ある『動的平衡』を保ち、『生きている』ということは、動物も、植物も同じです。特に、『脳』をもたない植物が、『動的平衡』を保つ様は、驚くほかありません。この『動的平衡』が保てなくなったときに、動物も、植物も『死』を迎えます。そしてその『個体』の『死』さえも、次の『生』を生み出し、新しい世代として種が存続し続けるために必要なことのように見えます。『種の存続』も大きな目でみれば『動的平衡』であることがわかります。すべて、進化の過程で獲得した細胞のDNAプログラムに拠るものと分かってはいても、『フーン』と唸ってしまいます。

今後『光合成』の研究が更に進み、人間は『スーパー植物』を人工的に創り出して、『食糧危機』や『エネルギー危機(バイオエタノールによる)』を回避できるのかもしれないと、梅爺は期待してしまいますが、この本を読む限り、それは不可能ではないにせよ、まだまだ難題が多いことを知りました。バイオエタノールを作りやすい穀物は、食料にも適しているので、当分は、『食料』にするか『バイオエタノール』にするかの綱引きが行われることになるでしょう。とうもろこしや米から、バイオエタノールができるという話は、それ自体は『朗報』ですが、飢餓で苦しむ多くの人たちを考えると、単純には喜べません。世界規模で、政治、経済、倫理など、総合的にどのような現実実行策を選ぶのかは、人類に知恵に託されています。

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2009年12月27日 (日)

光合成とはなにか(7)

この本を読んで、『光合成』そのものに関する梅爺の知識は格段に増えましたが、『光合成』も関係する地球生態系の歴史に関しても、極めて大雑把ではありますが、理解が進みました。以下に、まとめて見ました。ただし、誤認が含まれているかもしれません。

(1)127億年前の『ビッグ・バン』で、『微小の超ひも』から現在の宇宙の『拡大』が始まった。『拡大』のプロセスの中で、極めて短期間に『クォーク』が『原子』に、『原子』から『元素物質』が創り出された。
(2)46億年前に、小惑星同士が結びついて、地球が誕生した。表面までがマグマに覆われた、高熱の状態であったと推察できる。
(3)高熱で発生したガスや水蒸気が、大気となり、地球を覆い、太陽の熱をさえぎって、地球の冷却化がはじまり、やがて、表面は『陸』と『海』に覆われた。つまり、水の沸点以下に温度が下がり、水は『液体』として地球に存在できる環境になった。
(4)40億年前に、地球に、『生命体』の元祖が出現した。
(5)27億年前に、『生命体』の一つの『シアノバクテリア』が出現した。
(6)『シアノバクテリア』が創り出す『酸素』と、海中の鉄イオンが反応し、『酸化鉄』が海底に沈殿した。現在人間が鉄を豊富に利用できるのは、このおかげである。
(7)5億年前に、海中の鉄イオンは減少し(酸化鉄に変貌)、余分の酸素が、大気の一部として増え始め、『呼吸』で生きる、微生物、生物の進化が始まった。
(8)生物の体内に蓄積された有機物が、『分解されずに』死骸として、海底や地中に蓄積し、石炭や石油の元となった。有機物が分解されるには『酸素』が使われてしまうので、この『分解しないで』が、酸素が増えるために重要な意味を持っている。
(9)植物の創り出す『酸素』と、動物が創り出す『炭酸ガス』の比率が、ある平衡状態に達して、現在の地球の大気の構成要素になった。

こう考えてみると、永い地球の歴史の中で、『現在の生態系』のバランスが出来上がったのは、『ほんの最近のこと』であることがわかります。そして、更に『短期間(100年程度)』に、『異常に繁殖した人間』が、地球の生態系に影響を及ぼす『活動』を行い、バランスに影響が出始めているという、ことを強く再認識できます。人間の『活動』だけが、バランスを崩す要因になっているのかどうかは、証明できないにしても、要因の一つであることは、間違いがないように感じます。なんとも、罪深い時代に、梅爺は生まれてきてしまったということになります。

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2009年12月26日 (土)

光合成とはなにか(6)

生物の細胞内にある小器官『葉緑体』が『光合成』を、『ミトコンドリア』が『呼吸』を行う源であることを考えると、地球上のあらゆる生物の、発生、進化ばかりか、現在の生態系は、この二つの小器官『葉緑体』と『ミトコンドリア』に依存していることが分かります。両者に共通することは、『生きる』ことに必要なエネルギー源を創り出し、蓄え、そのエネルギー源が一挙に消費されることがないように、必要に応じて『じわじわ』エネルギーに変換できる、巧妙な『しくみ』を備えていることです。

この『しくみ』は、『浸透膜』と複数の化学物質を利用し、数段階に分けて電子の取り込み、排出を行う、『酸化・還元』のプロセスですから、味気ない言い方をしてしまえば、『生きている』ということは、物理、化学の法則に従った現象の集合体であるということになります。

英知に優れた人間でさえも、白紙の状態からこのような『しくみ』を『設計』することは、不可能に近いと思われるような複雑、巧妙な『しくみ』が、現に存在することを知れば、人間は『これは、神のデザインにちがいない』と思いたくなるのも道理です。人間は、『論理思考』ができるために、『物事の存在には必ず意図がある』と思い、このような不思議な意図を神に結び付けて、納得したくなります。

しかし、ブログに何度も書いてきた様に、『あるべき姿』や『意図』が存在せずに、その時々の環境に応じた『動的平衡』で、世の中の事象は転変し、『ある状態』が生み出されることはあると思うようになりました。勿論、この『試行錯誤』による『動的平衡』の推移は、時に気も遠くなるような『時間』を必要とします。そして当然のとこながら、多数の『犠牲者』を産み出します。実験室で、単純に再現、追認できるような話ではありません。

確かに、現在の生物の、複雑、繊細、緻密な生きるための『しくみ』を観れば、これこそが『奇跡』と感じますが、40億年に近い、壮絶な『試行錯誤』の繰り返しの中で、生き残りに都合の良い遺伝子を持ったものが、生き残ってきた『しくみ』と考えれば、繰り返しで恐縮ですが、『あるべき姿』や『意図』がなくても、『現状の人間の知識では理解が難しいほど巧妙なしくみが出現する』ことがあってもおかしくないと、思うようになりました。

天体を見れば、自分の存在は、いかにちっぽけなものであるかと感じますが、生物のしくみを考えると、自分自身が巨大な宇宙に匹敵するような気にもなります。梅爺の体内で、黙々と、DNAのプログラムにそって活動する60兆個と言われる細胞や、1京個と言われる『ミトコンドリア』によって、梅爺の生命は維持されているのですから。

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2009年12月25日 (金)

光合成とはなにか(5)

地球上の動物の大半は、『光合成』機能を身につけていませんが、例外も存在することを、この本を読んで知りました。論理的には、『光合成』機能を保有する動物がいてもおかしくない証左です。

例外は、パラオ諸島の塩水湖に生息する『タコクラゲ』で、日中は海面近くに浮揚し、『光合成』でエネルギーを創り出し、夜間は、湖底近くに移動して、外部から『餌』を摂取するらしいのです。まるで、『ハイブリッド・カー』のような、巧妙な生き物であることがわかります。

それならば、『もし、人間が光合成機能を保有していたらどうなのか』と考えたくなります。ひなたぼっこをしているだけで、エネルギーが得られるなら、そんなありがたい話はないと、思いつくからです。しかし、この本によれば、それは無理な話のようです。理由は、現在の人間の『表面積』で得られる『光合成によるエネルギー』は、とても人間の活動を保持できる量ではないという理由です。

植物は、行動にエネルギーを費やさないために、『光合成』で『生きていける』という単純な話です。行動エネルギーをそれほど必要としない『タコクラゲ』は、『光合成』の恩恵に浴することができるのでしょう。

植物のように『動かない』ことと、動物のように『餌』を求めて『動き回る』ことには、双方メリットとデメリットがあります。『動かない』ことにも『動き回る』ことにも、生きるためのリスクがあるからです。

『葉緑体』と『ミトコンドリア』がなければ、現状の生物は存在しなかったことになります。どちらを、どの程度利用するかを、各生物は進化の『試行錯誤』の中で選択し、現状の動植物ができあがったことになります。外見が異なっている植物と動物ですが、基本的には、同じルールに支配されていることがわかります。ただ、選んだシナリオが異なっているに過ぎません。

今後、人類は食料不足に対応するために、体表面積を増やした身体構造に変身し、『光合成』でエネルギーを確保する生物に、進化していくことが、あるのだろうかと、SFまがいのばかげた想像をしてしまいました。

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2009年12月24日 (木)

光合成とはなにか(4)

『シアノバクテリア』が、太古に、基本的に、光、炭酸ガス、水があれば『光合成』ができる機能を進化の過程で獲得したことが、その後の地球の生態系を運命付けたといっても過言ではありません。大気中に、それまで希薄であった酸素を、多量に送り出し、動物が『呼吸』して生きていける現在の環境を準備したことになります。大気中の酸素濃度が増え始めたのは、5億年くらい前からということを知りました。ということは、動物の本格的な進化、繁栄は、これ以降のことということになります。酸素は、呼吸をする動物にとっては、『恵みの気体』ですが、一方において『活性酸素』は、体内の細胞を破壊してガンや老化を引き起こす『毒性のある気体』でもあります。エネルギーを創り出すために酸素を利用することを始めた時点から、毒性で害を蒙るリスクを宿命的に負ったことになります。生物進化の『選択』は、多くは理にかなっていますが、全ての点で欠点が無いとは言えません。

この『シアノバクテリア』の出現という『偶然』は、後に人間を出現させる『準備』として、神が意図したものとすれば、神は、よほど気の長い方であることになります。なにしろ、人間の出現まで、数十億年じっと待っておられたことになりますので。

『光合成』を獲得した植物や藻が、基本的に『動かず(移動しない)』に、同じ場所で『生きていける』のに対し、『光合成』機能を持たない動物は、『動き回る』必要があることの意味を、梅爺は、遅ればせながらようやく理解しました。植物には『脳』がなく、動物には『脳』がある話とつながるからです。学生のころ、生物の先生が、どうしてこのような基本的なことを教えてくれなかったのか、訝(いぶか)ってしまいます。

植物や藻は、基本的に『光(エネルギー)』『炭酸ガス』『水(水に含まれる地下の養分を含む)』があれば、『生きる』ことができるわけですから、動き回る必要がありませんが、動物は、生きるためのエネルギー源を『食べ物』として摂取する必要があります(外部から摂取した食べ物と酸素を、ミトコンドリアがエネルギー源に変える)ので、『餌(えさ)』を求めて動き回る必要があったという単純な話です。

動物は、動き回ることに必要な身体の構造と、餌を探すに必要な感覚器官を進化で獲得し、それらを総合制御するための『脳』も獲得したことになります。この『脳』が、高度に進化した『人間』は、やがて『期待』『希望』などのポジティブな情感のほかに、『不安』『恐れ』などのネガティブな情感まで獲得し、『悩み』を抱えることになりました。

植物や藻が、『脳』を持たないのは、それが無くても『生きていける』というだけのことで、『脳』をもつ必要がないために進化しなかったということでしょう。

『脳』を持つ人間が『悩み』、『脳』を持たない植物が、『悩み』を持たずに、自然をそのまま受け容れて生きているように見えるのは、皮肉なことです。仏教の『解脱、悟り』は、植物のような心境になりなさい、と教えているように、梅爺は感じます。キリストも『野の花を見よ』と教えています。人間の方が『高度な生物』とみるのは、人間の一方的な価値観ではないでしょうか。

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2009年12月23日 (水)

光合成とはなにか(3)

『真核生物』である大半の植物、藻の細胞の中には、『原核生物』同士の『共生(一方が、一方を飲み込むような形で始まる)』の名残として、小器官である『緑葉体』『ミトコンドリア』が存在し、同じく『真核生物』である大半のの動物の細胞の中には、小器官『ミトコンドリア』だけが存在する、という事実は、梅爺の妄想を色々かきたてます。

『ミトコンドリア』については、以前ブログに連載をしました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_19d2.html

『光合成』機能をもつ『原核生物』として、『光合成細菌』と『シアノバクテリア』が見つかっていることを、この本を読んで知りました。『光合成』は、光エネルギーを利用して、炭酸ガス(2酸化炭素)と水から、有機物質を生成し、酸素を排出しますが、このプロセスでは水を分解する化学的な『還元』が行われる必要があります。『光合成細菌』は、この『還元』に、硫化水素や有機物を媒体として必要としますが、『シアノバクテリア』は、進化の過程で、炭酸ガスと水と光だけで『光合成』が可能な機能を獲得したと考えられています。

このことから、植物や藻の細胞内にある小器官『葉緑体』の先祖は、『シアノバクテリア』であろうと推測されています。『シアノバクテリア』の色素クロロフィルが、植物や藻の細胞に引き継がれたために、植物が緑色をしているということになります。クロロフィルは緑色光線を吸収せずに反射するために、人間には緑色に見えているという話です。

動物、植物の最初の先祖は、先ず『ミトコンドリア』を『共生』で獲得し、動物の先祖となり、更にその動物の先祖の一部が『シアノバクテリア』と『共生』して、植物の先祖になった、という一つの『仮説』を梅爺は思いつきます。当然、その逆で、『シアノバクテリア』の『共生』が先で、後から『ミトコンドリア』が加わったという『仮説』も成り立ちます。いずれにしても、現在の動物の大半は『葉緑体』を持たないわけですから、『元々持っていなかった』のか『持っていたが退化して消滅した』のかという推測になります。しかし、例外的に『葉緑体』を持つ動物が現在もいるということらしいので、梅爺の推理はこれ以上進展しません。

この、動物が先か、植物が先かという話は、植物が先ず『酸素』を創り出し、そのおかげで動物が出現したと考えるのが常識的ですが、この本を読むと、『真核生物』が『原核生物』を取り込む『共生(2次共生)』や、細胞内の小器官の退化・消滅なども、生物進化の過程で何度か繰り返されたらしいことが分かりますので、単純に特定することが難しいことを知りました。

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2009年12月22日 (火)

光合成とはなにか(2)

梅爺の生物の起原に関するつたない知識や疑問を総合すると、以下のように要約できます。この認識自体に誤認が含まれているかもしれません。

(1) もともと『生命体』が存在しなかった地球環境に、何らかの理由で、単細胞の『原核生物』と呼ばれる『生命体』が出現した。約40億年程度昔のことと考えられている。『生命体』出現のカラクリ(原因、メカニズム)は、いくつかの環境的な『偶然(化学反応、物理反応)』が重なってものと考えられていて、仮説はあるが、定説にはなっていない。つまり、よく分かっていない。
(2) 『原核生物』は、『真正細菌』や『古細菌』と呼ばれる細菌類に分類される。単一の『原核生物』先祖から、進化分岐して、多数の種類の細菌ができたものと考えられているが確証はない。
(3) やがて、『ある原核生物(細菌)』が『異なった原核生物(細菌)』を、内部に取り込んで(共生と呼ぶ)、多細胞生物の祖先である『真核生物』が出現した。『真核生物』の細胞内にある小器官『葉緑体』と『ミトコンドリア』はいずれも独自のDNAを持っていることから、元は独立した『原核生物』であったと考えられている。この最初の共生(『一次共生』と呼ばれる)が起きたのは、27億年位前で、歴史上1回だけ(きわめて稀な偶然)と考えられているが、異説もある。
(4) 『真核生物』は、その後、進化分岐し、地球上の、あらゆる植物、藻、動物になった。勿論、人間も例外ではない。
(5) 植物、藻と動物の違いは、植物、藻は細胞内に小器官の『葉緑体』と『ミトコンドリア』を持っているのに対し、動物は『ミトコンドリア』だけをもっているものが大半である。『葉緑体を持たない植物』『葉緑体を持っている動物』という例外はあるのかもしれない。
(6) 『葉緑体』は『光合成(炭酸ガスを吸収し、酸素を排出)』を行い、『ミトコンドリア』は『呼吸(酸素を吸収し、炭酸ガスを排出)』を行うために必要な器官である。両方とも生物が生きていくためのエネルギー源(有機物)をえるために重要なものである。

植物や藻は、『光合成』と『呼吸』を行っているのに、何故大半の動物は『呼吸』だけと運命付けられてしまったのか、つまり、ほとんどの動物の細胞内に何故『葉緑体』は無いのかが、『光合成』に関係する梅爺の一つの関心事でした。

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2009年12月21日 (月)

光合成とはなにか(1)

今年の大学同級会で、茨城と福島をマイクロバスで巡ったときに、いつも『神は存在するか?』などと、本質的で難しい問いかけをすることで有名なTさんが、今度は『植物の葉は何故緑なのか?』と言い出しました。

仲間は、老人達とは言え、昔理系の学徒であった人たちですから、即座に何人かが『植物の細胞内に、光合成をするのに必要な小器官「葉緑体」が含まれているから』と答えました。すると、Tさんは、『それは分かっているけれども、何故「葉緑体」は緑でなければならないのですか?』と切り返し、全員そこで『う-ん』と口をつぐむことになりました。これは、『神は存在するのか?』に匹敵しそうな深遠な難問です。

それ以来、梅爺の頭の隅に『光合成とは何だろう』という疑問がありましたので、本屋で『光合成とはなにか:園池公毅著:講談社ブルーバlックス』を購入し、読み始めました。

著者の園池氏は、東大の准教授で、『光合成』研究の権威ですが、くだけた語り口でこの本は書かれていますので、『科学の本』を読んでいるという苦痛をあまり感じずに、読み進むことができます。それに、随所に『コラム』が挿入されていて、これがめっぽう面白いために、更に読もうと言う元気が湧いてきます。脳の老化がはなはだしい梅爺には、大変ありがたいことです。

『光合成』で、植物は、『大気中の炭酸ガスと光エネルギーを摂取し、自ら生きるための養分(有機物)を創り出すと同時に、酸素を排出している』という、表面的な説明は、誰もが学校で習ったことですが、この本を読むと、『光合成』とは何かと言う定義さえも、そう簡単ではないことを知ります。『光合成』の本質は、量子力学や最先端の化学などを総動員しても、まだ『わからない』ことがある、大変奥の深い分野であることを知りました。

動物も植物も、同じ先祖から生物進化の過程で分岐したものと考えられていますから、『光合成』は、とどのつまり『生物とは何か』を解き明かすカギでもあると同時に、地球環境の将来にも深く関係しているという、当然ともいえることを再認識しました。

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2009年12月20日 (日)

ムハマド・ユヌス(4)

ムハマド・ユヌス氏の信念は、『人類の最大の資源は人間である』、『人類の最大の敵は貧困である』という単純なことのように見えます。『道端で生まれた子供も、王宮で生まれた子供も、同じような無限の可能性を保有しています。一方が貧困から抜け出せないのは、社会が機会を提供していないからです』という氏の発言がそれを裏付けています。

『教育』が、資源としての人間(個人)の可能性を引き出す最高の手段であることにも、ムハマド・ユヌス氏は言及しています。そして、『教育』では、次の二つのことを人間としての約束事として教えれば良いとも言い切っています。

(1)他人に苦しみを与えることはしない。
(2)自分達が抱えた『問題』の解決を、次の世代へ先送りしない。

『日本の子供の基礎学力が低下したのは問題』『ゆとり教育が問題』などと、それが『教育』の問題のすべてのように議論している日本人には、あっけに取られるような、ムハマド・ユヌス氏の単純明快な主張ですが、梅爺は、『人は何故教育を必要とするのか』という『教育の本質』を鋭く言い当てた言葉のように感じます。

明治政府以降、国に尽くし、国に献身する国民の育成が『教育』の目的であり、戦後の経済復興期には、国が『会社』に置き換わったものの、同じような発想で教育が行われてきました。個人が『金太郎飴』のように、一色に染まることが、国にも、会社にも重要であるという価値観が重視されてきたからです。

そして、ようやく『国』や『会社』ではなく、『自分』の存在はどこへ行ったのであろうと、戸惑う日本人が多くなり、社会が従来の秩序で保てなくなってきています。ムハマド・ユヌス氏は、これからの世界は、更に、『自分』だけではなく『自分と他人』の関係を最重視することになる、と予言しているように、梅爺は感じました。世界には、聡明な人がいるものです。

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2009年12月19日 (土)

ムハマド・ユヌス(3)

ムハマド・ユヌス氏が、『マイクロ・クレジット』に続いて主張をし、実践しているのが『ソーシャル・ビジネス』です。投資家が提供する資金をベースに事業を展開するという点では、従来の『ビジネス』と同じですが、『利益』を『配当として資本家へ支払わない』というところが異なっています。

『おいおい、冗談じゃないよ。配当が期待できないビジネスに投資をする投資家などいるわけないだろう』と私達は、『自分の常識』で考えますが、それは、『利益至上』の従来のビジネスの考え方に染まっているだけで、『常識』をはずしてみれば、『なるほど、そういう考え方もある』と気づきます。『金持ち』の中にも、『金の亡者』だけではない人間がいる、ということを期待しての発想で、米国のゲーツやバフェットのような『超金持ち』の最近の言動を見ていると、『ソーシャル・ビジネス』が『絵に描いた餅』ではないことが分かります。

ムハマド・ユヌス氏の考えに賛同した、フランス『ダノン社』のCEOは、グラミン銀行との共同出資で、バングラディシュに、『栄養失調になりやすい子供のためのヨーグルト』を供給する会社(ソーシャル・ビジネス)を立ち上げます。通常のヨーグルトにビタミンやミネラルを補給した特殊な乳製品ですが、貧しい家庭でも購入できる売価を実現し、着実に事業拡大を続けています。利益は、全て事業拡大にまわされ、この会社の最高責任者の年次目標は、『いくらの利益を挙げるか』ではなく、『何人新しい子供顧客を増やすか』に向けられます。

ムハマド・ユヌス氏は、同様の考えで、『白内障手術のための眼科病院』や『電気のない村の家庭に太陽光発電設備を供給する会社』を設立し、いずれも成功しつつあります。勿論、これらの事業の周辺には、新しい雇用が生まれますから、総合的に、貧困から抜け出す希望の光になります。政府が無策であった分野に、一人の聡明な人間が、『解決のめど』を提供しているという痛快な話です。

これらの事例で分かるように、先進国の役割は、一時的に使われて終わる、寄付金、食料、薬品を贈与する慈善ではなく、配当を期待しないビジネス資本や最新の技術の提供であることが分かります。見返りは、『社会責任を果たす企業』という、目に見えない消費者に訴える『ブランド』ということになります。

現状、日本の企業は、自分の頭のハエを追うことに精一杯で疲弊していますが、体力を回復したときに、こういう発想、価値観をもてるかどうかがポイントのように思います。貧困は、その国の政治の問題で、自分達は利益をあげることで精一杯なのだと、自己弁護している間は、日本企業は世界から尊敬されることにはならないでしょう。

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2009年12月18日 (金)

ムハマド・ユヌス(2)

ムハマド・ユヌス氏がどれほど傑出した人物であるかは、ノーベル平和賞を受賞した一事で分かりますが、その経歴を知れば更に感服します。

彼は、バングラディシュの裕福な宝石商の息子として生まれ、アメリカに留学して経済博士号を取得し、アメリカの大学の准教授に就任します。普通は、これで個人のサクセス・ストーリィを成就したことになりますので、先進国世界で更なる成功を目指すことになりますが、アメリカの職を投げ出し、貧しい母国の大学の経済学部長に就任します。

その大学の周辺の農民が、高利貸から借りた事業資金の利子返済に苦しみ、貧困から抜け出せない現状を知り、一体いくらの借金があるのかを調べます。なんと農民達の借金は総額米ドルでたった28ドルであることがわかります。そこで、彼は、借金返済と新しい事業資金を彼のポケットマネーから提供しますが、勿論、返済されることなど期待はしていませんでした。ところが、農民達は、律儀にこれを返済したうえに、借金地獄から開放され、少しづつ貧困からも抜け出すことに成功することを目(ま)のあたりにします。

この経験をヒントに、彼は貧しい事業主(個人)に無担保、低利子で事業資金を貸し出すしくみ『マイクロ・クレジット』を思いつき、専用の『グラミン銀行』を設立します。事業主は、『事業計画』を銀行に説明することと、4人の連帯保証人を準備することだけが条件です。現在、『マイクロ・クレジット』の恩恵を受けているのは、大半が主婦で、縫製の内職、手芸・工芸品の製造販売、日常品の小売など、自分の能力を活かした『事業家』に転進し、成功を収めています。銀行から見ると、驚くことに返済率は98%に達しています。何よりも、事業家の子供達の就学率が向上していることが、貧困からの脱出の可能性を示しています。

貧しい人に、金を与えたら、直ぐ使ってしまう、または持ち逃げしてしまうと考える先進国の人たちの先入観は、完全に否定されました。バングラディシュの特殊な文化がこれを可能にしているわけではないことは、現在『マイクロ・クレジット』方式が、アフリカや南米でも採用され、同じく成功を収めていることで証明されました。人間の本性が、『善良』であることの証左でもあり、梅爺までもがこの話を聞いて、嬉しくなりました。

『マイクロ・クレジット』は、個人の能力に応じて、経済的に自立することを『支援』する方式で、一時的な慈善投資とは決定的に異なります。飢餓や病気を救うために、緊急な食料や医薬品の援助は、勿論必要ですが、長期的な貧困からの脱出の施策にはなりません。

国際機構、各国政府が誰も思いつかなかった方式で、着実に貧困からの脱出できる可能性を秘めた施策を、一人の人間、ムハマド・ユヌス氏が思いつき、実績を挙げつつあります。ノーベル平和賞は当然の話です。

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2009年12月17日 (木)

ムハマド・ユヌス(1)

何回もブログに書いてきたように、人間は、宿命的に誰もが『善良な心』と『邪悪な心』を保有していると梅爺は考えています。生物として進化してきた人間は、自分が生き残るために必要と思うことは、『善悪』とは関係なしに、行う習性を本能的に持っているからであろうと推測しています。従って、『とんでもない。私は邪悪な心など微塵も持ち合わせていない』と思い込んでおられる方とは、時折話がかみ合いません。

しかし、自分の『邪悪な心』を抑制して、言動として外に見せない『心の高貴な人』が存在することは知っており、誰よりもそういう人を尊敬します。『心の高貴な人』になることは、『金儲けのうまい人』や『勉強をして沢山の知識を身につけた人』になるよりは、はるかに難しいことであると、感ずるからです。それでも、口では『心の高貴な人』を尊敬すると言いながら、多くの人は、自分は『金儲けのうまい人』『知識を沢山保有する人』になる努力を優先してきました。

梅爺も、自分の人生を振り返ってみると、自分や家族が経済的に貧しい生活をしなくて済むだけの収入を得るために、『勉強』をし、『努力』をしてきたと言われても、反論できないところがあります。幸い『金の亡者』だけにはなっていないのは、残念ながら『金儲けの才覚に乏しい』ことと、『金だけが人生を豊かにするとは限らない』という強がりとも言えるささやかな自負心を持ち合わせていたためであろうと考えています。

『心の高貴さ』だけで、人は仙人のようには生きていけませんので、現実の矛盾や葛藤の中で、『心の高貴さ』を保つ努力をすることが、人生では最も大切なことであるという価値観を、どうしたら人間社会に根付かせることができるのかと、常々考えていました。

世界の最貧国の一つである、バングラディシュで、『マイクロ・クレジット』という、貧しい個人に担保なしで、ビジネス資金を貸し出す『グラミン銀行』を創設した、ムハマド・ユヌス氏の活動をドキュメントで伝える、NHKハイビジョン放送の番組(録画)を観て、梅爺は、上記の疑問への回答のヒントを得ることができました。ムハマド・ユヌス氏は、2008年にノーベル平和賞を受けた方です。佐藤栄作(元日本首相)のノーベル平和賞とは、同じ賞でもかなり重さが異なります。

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2009年12月16日 (水)

さだまさし『防人の詩』(2)

この詩では、万物が『生まれる、生きる、死ぬ』を繰り返すことを『なりわい』と認めながら、それでも、その『なりわい』に組み込まれた自分が、『苦しみ』や『悲しみ』の果てに『死んでいく』切なさの意味を問いかけるという、一見矛盾した表現がとられています。『なりわい』を認める以上、死も当然のこととなりますが、死を惜しむと、逆に『なりわい』を恨みたくなります。

生まれ来る新しい命にバトンタッチして、自分がこの世から消えていく『なりわい』は、誰でも『理』では理解できますが、『情』ではそうはいかないということでしょう。

『情』は、『どんなことをしても自分は生き延びたい』という、生物としての本能に根ざすものだというのが、梅爺の『仮説』ですから、『理』で『情』をある程度抑制できるとしても、完全に抑制することは至難の業であろうと思います。『煩悩からの解脱』は、そもそも不可能に近いが故に、この努力が『尊い』ことになります。多くの『聖人』『徳者』が、『煩悩』を遠ざけることが、『正しい生き方』であると説き続けてきました。

『煩悩は人間が宿命的に負うものであるが、そうであるからこそ、これを遠ざける努力をしなさい』という教えならば、梅爺は、ためらいなく受け容れることができます。しかし、『理』で味気ない言い方をしてしまえば、人間(の脳)は『苦しみ、悲しむようにできている』ということになります。

同じように、『防人の詩』で問いかけていることに、『理』で味気なく答えれば、『海』『山』『風』『空』『春』『秋』『愛』『心』『故郷』は、『どれも皆死にます』ということになります。それは、何万年後、何十万年後、何億年後のことかもしれませんが、宇宙そのものも含め、宇宙に存在するもの全ては、『姿を変えやがては死ぬ』ことは、科学の定説になっています。例えば、ヨーロッパのアルプスは、大陸移動のしわ寄せで出来上がったもので、昔は『存在しない』ものでしたから、また『存在しない』ものになる可能性を秘めています。『愛』や『心』といった人間が考え出した抽象概念も、人間が死に絶えることで、伝承ができなくなり『絶える』ことになります。

このように書くと、梅爺は極めてニヒルな人間のように誤解をされそうですが、『理』で現実を冷静に受け止めることと、『愛』や『心』を大切にし、苦しみや悲しみに耐えて、限りある命を懸命に生きることは、同じ人間の中で共存できると考えているだけです。梅爺の中には、『ニヒルな梅爺』と『涙もろい梅爺』が同居しています。繰り返しで恐縮ですが、人間は、そもそも『理』と『情』が織り成す『矛盾した存在』ですから、『理』だけでも、『情』だけでも律することはできません。梅爺もこの宿命からは逃れられないと観念しています。『十人十色』と言われますが、厳密には『一人十色』なのではないでしょうか。

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2009年12月15日 (火)

さだまさし『防人の詩』(1)

12月13日の『題名のない音楽会』は、多彩な作曲や、ユーモラスな指揮で有名であった故山本直純氏を特集したものでした。生前の山本氏と親交のあった歌手のさだまさし氏がゲストで出演し、山本氏が音楽監督をした映画『203高地』の挿入歌として、山本氏の依頼(命令)で、さだ氏が作詞作曲した『防人(さきもり)の詩(うた)』が披露され、梅爺はその歌詞(以下の内容)に興味を覚えました。

おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください

私は時折苦しみについて考えます
誰もが等しく抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
現在の自分と

答えてください
この世のありとあらゆるものの
すべての生命に約束があるのなら
春は死にますか 秋は死にますか
夏が去る様に 冬が来る様に
みんな逝くのですか

わずかな生命の
きらめきを信じていいですか
言葉で見えない望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で

おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか

海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか

さだ氏は、日本人の『情感』に、何が訴えるかを知り尽くしたプロのシンガー・ソング・ライターで、ユーモア溢れる語り口も含め、熱烈な多数のファンに支持されています。音楽は、『ニュー・ミュージック』のジャンルに属しますが、『心』は、形を変え洗練された『演歌』と言っても良いのかもしれません。勿論、『女々しい』『ベタベタしている』と毛嫌いする方もおられますが、平均的な日本人には好かれる要素があるのでしょう。梅爺も、さだまさし氏の歌は嫌いではありません。

日露戦争の『203高地』で、『お国のために』無謀な突撃を繰り返し、ばたばた屍を積み重ねていく、日本兵士の姿の映像に重ねて、この歌が挿入されれば、映画の観客は涙を堪えきれなくなるのは、必定(ひつじょう)です。

この歌で、『教えてください』『答えてください』と問いかけている内容は、人間の『情』に関するものですから、『理』で答えても始まりません。『生きること』『病になること』は『苦しみ』であり、『老いゆくこと』『死すること』は『悲しみ』と、何故人が感ずるのか(特に、肉体的な苦しみではなく精神的な苦しみ)は、今のところ誰も『理』では、十分な説明ができません。さだ氏も、そんなことは十分理解して、この歌詞を作詞したのでしょう。

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2009年12月14日 (月)

團伊玖磨の合唱曲『岬の墓』

12月12日に、国立オリンピック記念青少年総合センター大ホールで、東京大学音楽部合唱団『コールアカデミー』(男声合唱団)の第56回定期演奏会があり、梅爺も所属する『コールアカデミー』のOB男声合唱団『アカデミカ・コール』が、賛助出演で、現役と一緒に、團 伊玖磨作曲の『岬の墓』を歌いました。

『岬の墓』は、堀田善衛の作詞に、團伊玖磨が曲をつけたもので、昭和38年(1963年)に、芸術祭賞、文部大臣賞を受賞した作品です。オリジナルは、混声合唱曲ですが、今回は、福永陽一郎編曲の『男声合唱版』で演奏しました。

今回の演奏は、現在日本の合唱指揮では第一人者の三澤洋史(ひろふみ)先生に指揮をお願いし、芸大出身で、ドイツ留学もされたピアニストの大島由里さんに伴奏をしていただくという、豪華布陣でしたが、問題は、アマチュア合唱団の『コールアカデミー』『アカデミカ・コール』が、どこまで、作品の真髄に迫れるかということでした。

生前の團伊玖磨氏と親交があり、團氏から合唱指揮者の力量も認められていた三澤先生が、堀田善衛氏の深い詩と、團伊玖磨氏の曲想を、独自に解釈されて指導してくださったおかげで、演奏は、まあまあの出来栄えであったのではないかと、梅爺は自画自賛しています。三澤先生も嬉しいことに、演奏後『楽しかった』と感想を述べてくださいました。

『岬の墓』の詩は、『白い墓(過去、死、永遠の安らいの象徴)』と『白い船(未来、生、広大な可能性の象徴)』を対比させたもので、『白い墓』に限りなく近づいているジイサン合唱団の『アカデミカ・コール』と、『白い船』同様に明るい未来に羽ばたこうとする現役合唱団『コールアカデミー』が合同演奏したことも、意義のあることでした。

梅爺は、大学時代は合唱にのめりこんでいましたが、仕事の現役時代は、仕事と合唱は両立しないと断念し、合唱からは40年以上遠ざかっていました。仕事を引退した今日、雑念なく合唱に再び打ち込めるようになれたことは、大変ありがたいことです。教養と暖かい人間性を合わせ待たれている三澤先生のご指導、それに何でも言い合える仲間との交流も、全てありがたいことです。これで『白い墓』の住人になることに文句をつけたら、罰があたりそうな気がします。

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2009年12月13日 (日)

科学者が神に迫る(5)

梅爺のような凡人は、天才に憧れたり、時には、天才とまでは言わないまでも、『俺もなかなかやるではないか』と自惚(うぬぼ)れたりしながら生きています。しかし、『天才』は、過去および現在に、この世に生を受けた人の中の、ほんの一部の人だけにあたえられる称号で、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、モーツァルト、アインシュタインなど、凡人の想像をはるかに越えた能力の持ち主達のことです。

スポーツ選手、音楽の世界の器楽演奏家、歌手、画家、彫刻家などにも『天才』は、沢山存在しますが、数学や理論物理学のような、抽象世界の論理を追い求める領域の『天才』は、純粋に『知的脳』が並外れた人たちですので、目や耳でパフォーマンスを私達は確認できません。この人たちの成果は『論文』ですが、凡人はその内容さえ理解できません。外見は、普通の人間と変わりませんので、『一体この人たちの脳の構造はどうなっているのか』と戸惑うばかりです。

アインシュタインの死後、脳の調査をした結果、特に普通の人より大きかったり、重かったりしていないことが判明したというような話を聞いたことがありますので、もしこれが本当なら、脳の論理的な思考に関する、『脳細胞ネットワーク』の構造が異なっていると推測するしかありません。

『脳細胞ネットワーク』の基本的な部分は、誰も共通していると思われますが、詳細部分は、指紋のように各人バラバラであり、これが人間の『個性』を生み出しています。脳はコンピュータのように、同じ様には作られていません。

『脳細胞ネットワーク』の詳細は、DNAでプログラム化された生まれつきの資質と、生後体験する外界からの刺激への対応で決まりますが、数学者や物理学者の場合は、生まれつきの要素の比重が高いのではないかと思われます。しかし、『天才』は、幼年期に『夢想癖』が強いとか、周囲の事象を観て示す好奇心が異常に強いとかいう共通要素がありますので、外界からの刺激への対応能力も無視できません。凡人には突飛に見える発想で、それまでの難問を解いてしまうところが『天才』の特徴です。凡人が、当たり前のことを当たり前に考えて、行き詰ってしまうのとの違いです。文明の『ブレークスルー』は、このような『天才』によってもたらされます。

しかし、数学の難問に挑戦して、『総合失調症』や『極度な世間嫌い』になってしまった天才学者も沢山いるところを見ると、『脳細胞ネットワーク』の一部が、異常に発達すると、脳の他の部分との調和が保てなくなることもあるのではないかと推測できます。『天才』に言わせれば、『天才はつらいよ』ということかもしれません。

脳の各機能が、そこそこに調和して生きている梅爺のような凡人は、人間としては、むしろ幸せなのかもしれません。しかし、その分梅爺は、人類の文明の『ブレークスルー』を生み出したというような、歴史に残る栄誉をつかむこともありません。

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2009年12月12日 (土)

科学者が神に迫る(4)

宇宙は127億年前の『ビッグバン』で、微小な『超ひも』から拡大を開始し、元素が生成され、現在も拡大中であることが分かっています。人間も構成要素は元素ですから、この拡大の途上で生まれてきたものの一つに過ぎません。

『ビッグバン』そのもののメカニズム解明は、『天文物理学』『量子物理学』の分野が主役で、世界の学者が挑戦努力を続けています。多くのことが判明していますが、全てが解明されているわけではありません。この領域で『真の基本ルール』が見つかり、この『真の基本ルール』そのものの中に、そのルールが必然的に存立する理由が込められていれば、追求は終わりますが、込められていない場合は、『存立理由』が次なる追求の対象になります。この『追っかけっこ』が収束しないように見えている間、人間は『奥の奥に神が存在する』という推測から逃れることができません。勿論この『神』は、『自然の摂理の深奥にある真理』という言葉に置き換えられますから、宗教が定義する神と必ずしも同じ意味ではありません。凡人の梅爺には、理解を超えた世界ですが、『神を求める追っかけっこ』は当分終わりそうもないなと『感じて』います。

科学者が『自然の摂理の深奥にある真理』を追求することは、宗教の定義する『神』が『偽』であることを暴くことだと、宗教にあまり関心を持たない人たちが面白おかしく言いふらし、宗教関係者は、『偽』であることが暴かれたら大変だと、防衛的に科学を冒涜のように非難したりするのは、いずれも馬鹿げたことだと梅爺は思います。異なった『神』の定義を混同して、混乱が生じているだけのことです。

宗教が『聖典』や『教義』で規定した『神』の姿は、現代人の目で見れば不条理のことが多いことは確かですが、宗教の本質は、『絶対なる神』という人間の脳で思い浮かべることができる『抽象概念』が、人間の精神生活を健康的で穏やかなものにするということにあるのではないかと梅爺は思います。何度もブログに書いてきたように『愛』という『抽象概念』が、人間の精神生活に意味があるのと同じことではないかと思います。くどいようで恐縮ですが、この『抽象概念』は『自然の摂理の深奥にある真理』と同じものではありません。

宗教にとっては、宇宙の真理が解明されることよりも、人間の脳のカラクリが解明され、何故『神』や『愛』といった『抽象概念』が、精神の安定に寄与するのかという『真理』が解明されることの方が、困った事態ではないでしょうか。ひょっとすると『神』は『愛』という『抽象概念』に置き換えてもかまわないということになるかもしれないからです。脳のカラクリの解明は、宇宙のカラクリの解明より、遅れていますが、やがて、全貌が解明されるかどうかは別として、多くのことが判明するに違いありません。

宗教が、自ら絶対視してきた過去の『教義』の束縛を排除して、宗教の本来の意義を見つめなおすことができるのかどうか、梅爺にはわかりません。しかし、『宗教の本質的な意義の重要さ』を、なんと『科学』が解き明かすといいう皮肉な事態が起こるかもしれないと感じています。そしてそれは、人間の脳の『情』の働きの意味が解明される時であろうとも感じています。

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2009年12月11日 (金)

科学者が神に迫る(3)

ドイツの数学者リーマンが、1859年に『素数』に関する研究論文を発表し、次なる『リーマンの予想』を提示しました。

ゼータ関数(ζ(s))の非自明なゼロ点はすべて一直線上に存在する

これまた、梅爺にはチンプンカンプンな『命題』ですが、ゼータ関数は、整数である『素数』を用いた関数です。『素数』は『2、5、7、11、13、・・・・』といった、自分以外の整数では割り切れない整数のことですが、数列上に『素数』が現れる頻度は、一見マチマチで、凡人には『素数の数列』に特別の意味があるようには思えません。しかし、リーマンは、『なにやら法則が隠されているらしい』と予想したことになります。

『素数列』には、『なにやら意味があるらしい』と探った先人の数学者、科学者はリーマン以外にもおり、18世紀にはオイラーが、素数を使った数式の答に『π(円周率)』が含まれること、19世紀始めにはガウスが、素数列は『e(自然対数の定数)』に関係があることを突き止めていました。

『π』と『e』は、自然の真理を追究する科学の世界では、王様、女王様のような数値ですから、このことから、『素数列』には、自然、宇宙の謎を解く、重大な鍵が秘められていると考えられるようになり、『神が仕掛けた暗号である』『この謎が解ければ万物の法則が明らかになる』などとまでいう人さえ現れました。

その後、『リーマン予想』を証明した人には、1億円の賞金を出すなどという機関まであらわれ、多くの天才数学者がこれに挑戦してきました。最近では、『ゼータ関数のゼロ点の間隔』を表す数式と、量子物理学の『原子核のエネルギーレベル遷移』を表す数式が、酷似していることなどが判明し、ますます『神が仕組んだ暗号』ではないかと期待が高まっています。さらに、『非可換幾何学』という新しい数学の考え方を用いれば、解ける可能性があるなどとも考えられるようになりました。

NHKのドキュメンタリー番組では、証明に一生を捧げてきたフランスの数学者ルイ・ド・ブランジェ(74歳)の日常生活に密着取材し、本人が『ついに解けた』と論文を書き終わる瞬間まで撮影しています。ブランジェは、過去に3回『解けた』と論文を発表しましたが、いずれも他の学者の検証で、『不備』であると判明し、この世界では『狼少年』と悪口をいう人もいる人物です。

取材に対応するブランジェを観て、梅爺は『自信たっぷりの自己顕示欲の強い人物』ではないかと感じました。更にうがった見方をすれば、自分をアピールするために、NHKをうまく利用しているようにも感じました。いずれにせよ、世界の数学者達による彼の4度目の『論文』の審査〔検証)が終わるには、あと数年かかることになります。さて、どういう結末が待っているのでしょう。150年間、多くの天才数学者達を拒み続けてきた難問がついに証明されることになるのでしょうか。そして、人間はついに、『万物の法則』を見つけ、『神』の姿を垣間見ることになるのでしょうか。

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2009年12月10日 (木)

科学者が神に迫る(2)

1904年に、フランスの数学者(位相幾何学)ポアンカレが、宇宙の形態に関して、以下の有名な『ポアンカレの予想』を発表しました。

単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3(3はベキ乗の小文字)に同相である。

なんとも、梅爺にはチンプンカンプンな『命題』ですが、早い話が、地球から長いロープの一端を宇宙へ打ち出し、宇宙の隅々まで経巡らせた後に、地球に帰還させ、その後地球に残っていたロープのもう一端と一緒に、両端を持って手繰り戻し、ロープが全て地球へ回収できれば、宇宙は『球面体』である、ということを述べているのだということでした。

1960年から70年にかけて、『トポロジー』という考え方が数学者の注目を集め、これこそ、従来の微分幾何学に代わる新しい数学であると、アメリカを中心に多くの数学者が、『ポアンカレの予想』に挑戦し、もし宇宙が4次元以上であると仮定すれば証明可能というところまでこぎつけます。この間、サーストンという天才数学者が、『宇宙は、8ケの基本的な形態要素の集合体である』という『幾何化予想』を発表します。しかし、『ポアンカレの予想』の3次元での証明は誰もできずに、暗礁に乗りあがってしまっていました。

しかし、ついに2002年に、ロシアの天才的数学者ペレルマンが、『トポロジー』以前の数学手法(微分幾何学)と、物理学の概念(エントロピーなど)を統合することで、『ポアンカレの予想』および『幾何化予想』の証明に成功します。当時の最高の数学者でさえ、物理学の素養のない人には理解ができないものであったといわれています。梅爺ごときに、理解できるはずがありません。論理矛盾がないことを、世界の学者達が4年間かけて検証し、2006年に正式に証明が認められました。

ペレルマンは、16歳で『数学オリンピック』のロシア代表の一人に選ばれた経歴を持つ『天才』で、その頃は物理学にも興味を示す快活な少年でした。その後、アメリカへ渡って研究をしていましたが、段々他人との接触を避けるようになり、最後の『証明論文』は、ロシア(サンクト・ペテルブルグ)へ帰国し、一人部屋に閉じこもって書き上げ、インターネットで発表しました。

快活であった少年が、何故『社会との交渉を避けるようになったのか』は謎で、現在もペレルマンは友人、知人さえとも接触を拒否し続けています。『神に肉薄しすぎたから』とか『精神を病んでいる』とか憶測はありますが、真相は分かっていません。『また新しい問題へ挑戦している』とも言われていますが、その『問題』が何かも分かっていません。

人間は、宇宙の外側から宇宙を観ることはできませんので、『宇宙の形態』は、純粋な抽象概念の世界でしか、特定できません。それでも、観測可能な宇宙(可視宇宙)から、新しい『事実』が次々に分かってきています。

永い人間の歴史の中で、ここ100年に、一握りの『天才達』のおかげで、人類は急速に『神へ接近』したということが言えるかも知れません。しかし、凡人の梅爺には、接近すれば接近するほど、神は遠ざかっていくようにも見えてなりません。

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2009年12月 9日 (水)

科学者が神に迫る(1)

宇宙や人間を含め、万物は、『ミクロな法則』と、その『ミクロな法則』が生み出す様々な変化の相互作用である『マクロな法則』で支配されているように見えます。浅学な梅爺が、『マクロな法則』は『自律分散処理』ではないかと、無謀な『仮説』を度々ブログに書いてきました。論証なしに、勝手な『直感』で主張しているわけですから、我ながら畏れ多い話です。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5cb4.html

『ミクロな法則』のいくつかは、偉大な科学者達によって、今までに明らかにされてきましたが、全てが解明されているわけではなく、全部でいくつ存在するのかも未だ分かっていません。

『ミクロな法則』が、何故成立したのかも、分かっていません。『円周率π』や『自然対数の定数e』が、自然現象と関わる重要な数値であることはわかっていますが、『π』や『e』が何故そのような数値として存在するのかは、分かりません。

因果関係を論理的に推定することができる人間の中には、『ミクロな法則』を『設計(デザイン)したもの』が存在するはずだと考え、その万物の基となる法則の『偉大なる設計者』は『神』であると主張される方もおられます。この部分だけとれば、『天地は神の創造』という聖書の記述に合致しますが、この『神』は冷厳で、『人間を愛してくださる慈愛に満ちた存在』であるようには見えないところが難点です。法則そのものは、冷徹なもので、それによって生み出される現象の中には、『人間にとっては極めて不都合なもの』も含まれますので、『慈愛に満ちた存在』とは、到底考えられません。

しかし、冷徹であっても『設計者』が仮に存在し、それを『神』と呼ぼうというのなら、梅爺もこの『神』を受け容れることはできると、これまた何度もブログに書いてきました。しかし、これは『もし、設計者が存在するなら』という前提の話で、『ミクロな法則』が、ランダムな試行錯誤の中から『偶然』成立する可能性があるとすれば、『意図的な設計者』はいないということになり、『神』は必要なくなります。本当は何が真実なのかは、梅爺の理解をはるかに越えており、その上、人類が、これに関して真実を見つけ出せるのかどうかも予想がつきません。

NHKBSハイビジョンの特集番組で、数学の難問『ポアンカレの予想』と『リーマンの予想』の証明に、挑戦してきた『天才的数学者達』がドキュメンタリーで紹介され、梅爺は、この二つの番組を録画して、続けて観ました。

この難問を証明しようと、数学者が純粋な抽象概念の世界を追求した結果、なんと、万物を支配するルールに肉薄することになったという話なので、梅爺はワクワクしながら観ました。勿論梅爺には、『証明』内容を詳細に理解する能力はありませんが、ひょっとすると『神への肉薄』かもしれないという話には興味をそそられました。

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2009年12月 8日 (火)

栗田美術館

Dscn8578 栗田美術館本館

足利市にある『栗田美術館』は、『伊万里焼(陶磁器)』の名品を集め展示する、3万坪の敷地に、本館、歴史館、資料館などが点在する大規模な美術館です。個人の収集家である栗田英男氏(1912-1996)が、資力と情熱で収集した『伊万里』『鍋島』が、これでもか、これでもかといわんばかりに展示されており、壮観です。

梅爺は、焼物に造詣が深いわけではありませんが、それでも、外国へ出かけた折に、マイセン(ドイツ)、ロイヤル・コペンハーゲン(デンマーク)、デルフト(オランダ)、バッチャン(ベトナム)などの、外国の陶磁器工房を見学したことがあり、ヘレンド(ハンガリー)やウェッジウッド(イギリス)のお店にも出向いたことがあります。

17世紀のヨーロッパでは、中国や日本の色絵陶磁器が、憧れの貴重品であり、なんとかこれを自国でも作れないかと悪戦苦闘の結果、マイセン焼きが完成し、その後ヨーロッパ各地でも作られるようになりました。今では、日本から観光客が押し寄せて、これらの高価な陶磁器をお土産で購入するようになり、立場が逆転しているようにも見えます。

日本の陶磁器の生産は、秀吉の朝鮮征伐に同行した武将が、朝鮮から陶工を連れ帰ったことが、本格的な始まりと言われています。朝鮮は、無地の白磁、青磁が中心であったのに対し、日本では、中国の景徳鎮(けいとくちん)の色絵陶磁をまねたものが作られるようになりました。その後、酒井田柿右衛門などの、名工が出現し、日本独自の繊細な工芸品に発展していきます。

『伊万里焼』は、肥前(佐賀県)の伊万里港から出荷された陶磁器の総称で、付近の『有田焼』や、鍋島藩お抱えの『鍋島焼』も含むと一般には言われています。日本人の美意識が凝縮したものは、日本には沢山ありますが『伊万里(焼)』もその一つと言えるのではないでしょうか。梅爺のような人間でも、ただ見ているだけで心が落ち着く気になります。日本人であるからなのでしょう。わざわざ出かけた甲斐がありました。

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2009年12月 7日 (月)

足利学校

12月4日、お天気に誘われて、梅婆と栃木県の足利市まで日帰りのドライブに出かけました。目的は、『足利学校』『鑁阿寺(ばんなじ)』『栗田美術館』の見学と、栃木の美味しい新蕎麦を食べることでした。

青梅から関越花園ICまで、高速道路を利用、あとは一般道を走り、先ずは、蕎麦の『一茶庵』へ直行して、目的の一つ『新蕎麦』を食しました。その後『鑁阿寺(ばんなじ)』の駐車場に車を置いて、足利氏の氏寺『鑁阿寺(ばんなじ)』と『足利学校』は歩いて見学しました。

『鑁阿寺(ばんなじ)』は、四方に土塀をめぐらせた、鎌倉時代の武家屋敷を思わせるような、広い境内を持つお寺ですが、残念ながら目下本堂は『平成の大改修中』で、覆いがかけられているために、その姿を見ることができませんでした。境内には見事な銀杏(イチョウ)の大木があり、丁度まっ黄色に色づいていました。

Dscn8555鑁阿寺(ばんなじ)の銀杏の大木

鑁阿寺(ばんなじ)Dscn8576 の多宝塔

『足利学校』は、日本最古の『大学』史跡で、『入徳門』『学校門』『杏壇(きょうだん)門』などの門や、『孔子廟(聖廟)』は、江戸時代の建築物で、講義が行われた『方丈(ほうじょう)』や『庫裡(くり):台所』、それに庭園などは、古文書を参考に最近復元されたものでした。

創設は、奈良時代、平安時代、鎌倉時代などの諸説があるようですが、歴史が明らかになるのは上杉憲実(のりざね)が室町時代に書籍を寄進し、学校の制度として再興したところからです。江戸時代になって、諸藩が独自の『藩校』をもつようになるまでは、日本最大の教育の場であったことが、色々な史実から分かっています。日本へキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルも、その著作の中で『日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学』と紹介しています。戦国時代に殿様に抱えられた『軍師』は、『足利学校』で『兵術』や『占術』を学んだことが『箔(はく)』になっていたとのことですので、日本人の『学歴尊重』性癖はこのころ芽生えたのかもしれません。江戸時代は『儒学』が勉強の対象で、孔子を祀る儀式が今でも行われています。『昌平』などという孔子にまつわる名前が、足利の町名として残っています。

Dscn8565 入徳門

方丈

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都ではなく、地方に学問の中心があったという『文化の質の高さ』は、日本の歴史や、昔の日本人の習性を考えるを考える上で、重要なことを示唆しているように梅爺は感じます。

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2009年12月 6日 (日)

綸言汗の如し

上方いろはカルタの『り』、『綸言(りんげん)汗の如し』の話です。

『綸言』は、皇帝が発する言葉(命令)のことで、このような難しい言葉を江戸時代の庶民の多くが理解していたのかと思うと驚きです。私達現代人は、書物、新聞、テレビ、ラジオ、インターネットなどを介して、昔の人に比べることができないくらい多数の言葉を、知識として知っていますが、その分、使われなくなってしまった言葉も沢山あることが分かります。日本人の生理的な脳の能力総量が、基本的には江戸時代の人と変わっていないとすれば、何かが増え、何かが減るのは当然のことなのでしょう。

『綸言汗の如し』は、中国の諺を移入したものと思われますので、日本の諺に比べて、表現がやや堅苦しい感じを梅爺は受けます。

表面的に解釈すれば、『皇帝が一度発してしまった言葉(命令)は、正しかろうが、間違っていようが、取り消すことはできない(一度身体の外に出た汗は、もう一度身体の中へ戻すことはできない)』という意味になります。

皇帝、天皇、将軍様、法王などの最高権力者の『誤謬』は質(ただ)すことができない、ということになり、日本流にやわらかく表現すれば『泣く子と地頭には勝てない』に近い意味かと思います。

江戸時代の庶民は、最高権力者というより、身近で権力をかさに着て、威張り散らしている人間に対する反抗心を、わざと難しい表現で表していると同時に、身の危険を冒してでも諫言(かんげん)するのは、馬鹿らしいと、『長いものには巻かれるしかない』という、あきらめの心境も含まれているようにも思えます。

誰かが、身の危険を挺してでも、『諫言(いさめること)』しないと、やがて、全員が滅んでしまうというような事態にも遭遇しますので、人間社会で生きていくことは容易ではありません。

人間や、人間社会には、どうしても『誤謬』は付きまとい、『誤謬』をただす人も、やがては違う『誤謬』を犯すことがありえますので、誰もが『自分も誤謬を犯しながら生きている』と考えれば、まだ救われますが、他人の『誤謬』を、あたかも自分は『誤謬』を犯さない人間であるかのように、得意げに糾弾ばかりする人が増えてくると、世の中はギスギスしたものになります。

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2009年12月 5日 (土)

金子兜太(5)

金子氏は、俳句は『無用の要』であると述べられました。つまり、俳句は、人が生物として生きていくだけのことを考えると『必要』ではありませんが、人が『より人らしく生きる』ためには、重要な意味をもつものだ、ということなのでしょう。『理』と『情』の複雑な絡み合いが創り出す『精神世界』を保有するにいたった人間は、『生物としてただ生きる』ことだけでは、満足できない存在になっています。その意味で、『芸術』全般が、『無用の要』であると言えます。芸術においては、『好き』『嫌い』の選択のは鑑賞者に任されます。自分の『好き』『嫌い』を他人に強いることは、邪道です。

哲学は、真理の追究と言う点では、『科学』と相通ずるところがあり、芸術と同じ意味で『無用の要』とは言えないように思います。しかし、哲学に関心がなくても、人は生きていけるというところは似ています。

宗教は、マルクスのように『人類にとってはアヘンのようなもの』と断ずる人までいますので、単純に『無用の要』とは言えません。『教義』や『戒律』と引き換えに『心の安らぎ』や『罪の救済』が得られるとは言え、『好き』『嫌い』が自由に許される世界ではないからです。

金子氏は、将来の日本のために、二つのことを話されました。一つは、五七五という、日本人の身体に染み込んだ音律を『型』とする俳句のような『無用の要』を大切にすること、そして二つ目は、『どんな理由があるにせよ、戦争は悪である』ということでした。悲惨な戦場体験をされた方ならではの言葉ですが、それでも人間は『祖国を守るため』『正義を貫くため』『邪悪を排除するため』という『論理』で、現在も、戦い続けていますので、『戦争は悪』という当たり前の主張を認めることが、いざと言うときにどのように振舞うかの『決め手』にはならないという難問を、抱え続けていることになります。

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2009年12月 4日 (金)

金子兜太(4)

金子兜太氏は、現代俳句の重鎮で、90歳とはお見受けできないほどに、矍鑠(かくしゃく)たるもので、驚きました。脳も身体も実年齢よりは、ずっとお若いのでしょう。東京帝大の経済学部を卒業し、日銀に入行、その後主計武官として戦地(トラック島)に赴き、戦争の残忍さを体験、復員後日銀へ復職しますが、地方勤務の後に、『俳句』が自分の『天命』と悟り、『俳句』一筋の道に進まれた方です。

『俳句』に疎い梅爺には、現代俳句とは何かを論ずる能力がありませんが、番組で紹介された以下の金子氏の代表句は、自然の情景を対象とするより、脳に浮かぶ奔放なイメージを、ほとばしるような生命感あふれる言葉で表現しているように感じました。従来の『季語』にとらわれる制約もありません。

彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン

この句は、長崎の原爆爆心地付近を、一週間放浪して、頭に浮かんだイメージを詠んだものとのことです。実際のマラソンに遭遇したわけではなく、空想をもとに、原爆の悲惨な光景を、堅い感じの『音読み漢字』で表現しています。

銀行員等朝より螢光す烏賊(いか)のごとく

日銀の地方支店に勤務していた頃、朝出社したときの印象を、前日見た烏賊漁の光景とダブらせて表現した句です。頭上に光る蛍光灯の下で、いつもと同じ仕事を始めようとする同僚を見て、自分も、こんなことでよいのだろうかと、自身に疑問を投げかけているようにも感じます。

見事に整った情景描写で、能の『幽玄』『妙』という境地にちかい世界を句にした芭蕉、弱者への憐れみをもち、自分も弱者であることを、恥じず、恨まず認めて、『諧謔』を句にした一茶などの古典的な俳句と、金子氏の俳句は、決定的に異なっているように感じます。

スペインの絵画の三大巨匠で例えれば、芭蕉はベラスケス、一茶はゴヤ、金子氏はダリのような印象を受けます。絵画や音楽に、色々なスタイルがあるように、『俳句』にも、色々なスタイルがあるのは、当然なことで、鑑賞者は、わがままに、自分の感性の『好き』『嫌い』で接すればよいのではないでしょうか。芸術は、無理に『理』で、解説したり、説得したりする必要のない世界です。

    

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2009年12月 3日 (木)

金子兜太(3)

『俳句』のような、極端に制約した文学的表現形式を、何故日本人は尊ぶのかも、梅爺が不思議に思うことです。

これに関しては、前にもブログで触れたことがありますが、日本人、中国人など漢字文化を持つ民族と、西欧人とでは、『言葉』のもつ本質的な可能性に関する認識が、異なっているのではないか、というのが梅爺の『仮説』です。

聖書に『太初(はじめ)に言葉あり、言葉は神なりき』と書かれているように、西欧人は、『言葉』は、全ての真実を正しく伝えることができるものと考えているように見えます。確かに、『言葉』が、真実を正しく伝える側面を持っていなかったら、『科学知識』などの伝承はできませんので、『言葉』のその側面は否定できませんが、『全ての真実』を伝えられるかどうかは、疑わしいように感じます。

漢字文化圏の人たちは、むしろ『言葉』によって伝えられる内容には、限界があり、あとは受け取った人間の中の、想像能力で補うしかないと考えていたのではないかと思われます。むしろ、逆に、短い言葉で、受け取ったひとが、個々に、壮大な世界を想像できることに価値を置いたのではないでしょうか。当然、皆が同じことを想像するとは限りませんので、そのことよりも、たとえ異なっていても『壮大な世界』を想像させることの意義を重んじたことになります。特に、『仁』『義』『愛』などという抽象概念は、そういう前提で作られた言葉であるように感じます。

その考え方の延長で、中国の『詩』や、日本の『短歌』『俳句』などが尊ばれるようになったというのが梅爺の『仮説』です。『短く制約された言葉の組み合わせ』で、どれだけ『壮大、深遠な世界を相手の脳に想起させることができるか』がを競うことに興味を覚えたのではないでしょうか。これは西欧人にとっては『異文化』にほかなりません。

日本人にとって、『もののあわれ』『ワビ』『サビ』などという言葉は、『壮大な世界』を表す記号にしか過ぎず、この言葉を使うときには、『間違いなく同じ真実を伝えることが可能』などとは、はなから期待していません。従って、『定義』を重んずる外国語にこれを翻訳するのは、非情に難しいことになります。

言葉は、必ずしも万能ではない、という考え方を逆手にとって、むしろ、言葉で、言葉では表現しきれない世界を創出してしまおうと言う、中国人や日本人の発想が梅爺は好きです。

いつもの梅爺流の表現をすれば、『理』は、言葉で表現でき、または表現できないと困る世界ですが、『情』は、言葉で表現するには限界があるということになります。

『哀しい』と言われても、どの程度『哀しい』のかは、想像するしかないからです。話し手と聞き手が、『正しく真実を共有した』などとは、とても言えないのが『情』の世界です。

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2009年12月 2日 (水)

金子兜太(2)

日本語の基本的な素養のある人なら、誰でも『俳句らしいもの』は作れます。五七五の音律を守って、言葉を当てはめれば良いからです。選べる言葉の母数は、有限であるとは言え、『可能な組み合わせの数』は、現実的には無限に近いことになりますので、『新しい俳句』を生み出すことは、それほど難しくはありません。

しかし、多くの人が『共感する本物の俳句』は、誰にでも詠めるとは言えません。『俳句らしいもの』と『本物の俳句』の間には、大きな違いがあります。

五七五という音律が、何故日本人には『心地よい』のかは、梅爺が不思議に思うことです。音楽が、世界共通の言語と言われることから分かるように、人類は、『音律(リズム)』を『心地よい』と感ずる、基本的な脳の資質を備えているのでしょう。しかし、五七五は、日本語が作り出す『音律』ですので、日本独特のものであり、日本語の環境で生まれ育ち、『唱歌』『演歌』『民謡』『俗曲』などに接することで、身体に染み付いたものになるのではないかと思います。もし、外国の環境で育った日本人には、五七五の『音律』はそれほどの意味を持たず、逆に日本語環境で育った外国人には、『心地よい』ということが調べてみて分かるのなら、五七五の『音律』は、『日本人特有』というより、『日本語環境独特』のものと言えることになります。五七五の『音律』を『心地よい』と感ずるのは、日本語環境で育った人間(日本人とは限らない)が、後天的に得る資質である、というのが、梅爺の『仮説』です。日本語が日本語環境で育った人の精神文化の根底を築くという推定です。外国語環境で育った日本人は、同じ日本人でも、精神文化の根底が異なるという推定にもなります。

金子氏は、ご自分が幼少期をすごした秩父の『秩父音頭』が、五七五の音律として身体に刷り込まれ、父親が俳句好きで、身近に『俳句』があったために、大人になってから、『俳句などもう作るまい』と思っても、自然に『俳句』ができてしまうのだと話されました。『あなたにとって、俳句とはなんですか』と問われたら、『私自身が俳句です』と答えるしかないというのですから畏れ入ります。

梅爺は、この歳になっても『OOのために生まれてきた』などと、言い切れるものがありませんので、『俳句を詠むために生まれてきた』と言い切れる人は、『野球をするために生まれてきた』と言い切る人同様に、羨ましい限りです。

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2009年12月 1日 (火)

金子兜太(1)

NHKの『百年メッセージ』という対談番組で、俳人の金子兜太(とうた)氏が、『人間として魅力的な人は、知的野生の持ち主だ』というような主旨の発言をされ、梅爺は、『なるほど、なるほど』と頷きました。

金子氏が幼少の頃、秩父の実家で父親(医師)が自宅で『句会』を催し、そこに、普段は農夫や木こりをしている若者が数十人集まるのを見て、『知的でないと思われている人が、実は意外に知的な面を持っている』と感じたと、話されました。句会の後、必ず酒盛りになり、お互いの俳句の評価を巡って、喧嘩に及ぶようなこともある人たちに、『魅力』を感じたのでしょう。

金子氏は、『人間の本質』を知るには、『漂泊の人生を送った人』を研究するに限ると思いつき、江戸時代の俳人小林一茶を徹底的に調べて、『結局人間は生きもの(生物)である』という結論に達したとも言われました。

これで、梅爺は、金子氏が何故『知的野生』を、人間の魅力とされるのかが、ぼんやり理解できました。『知性』こそが、人間を他の生物と分ける優れた資質であるという考え方だけでは、人間を本当に理解することはできないということなのでしょう。金子氏は、歳をとるに従って、『知性』だけを振りかざす人間には『嫌悪』を覚えるようになったとも発言されました。

梅爺は、人間の脳の機能を、『理』と『情』、『随意』と『不随意』が複雑に絡み合うものと、度々ブログに書いてきました。ブログを書いているうちに見えてきた理解ですから、梅爺にとっては最大の『ブログの効用』と言えます。この認識で人間の行動を観ると、多くのことに納得がいきます。

金子氏の言う『知性』は、梅爺の『理』に、『野生』は『情』にあたります。『情』の根源は生物の進化の過程で、原始的な時代から引き継いできた『本能』が支配していることを考えると、『野生』という言葉の意味が見えてきます。『本能』は、『生き残りのために都合が良いか悪いか』を嗅ぎ分ける能力として、引き継がれてきたと考えられます。この『野生的な本能』を見て見ぬふりをしても、人間の本質は理解できないというのが、金子氏の『人間観』なのでしょう。

全ての芸術は、この『野生的な本能』と『知性』の『せめぎあい』であるということなら、梅爺も大いに賛同します。極端に形式化され、制約された世界の中で、この『せめぎあい』をどのように『言葉』だけ表現するかが、『俳句』であるということなのでしょう。『野生』だけでも『知性』だけでも、『俳句』は作れないことになりますが、『野生』を欠いた『俳句』は、人に訴えかけるエネルギーを欠くことになるという主張は、分かるような気がします。

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