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2009年9月30日 (水)

映画『ギルバート・グレイプ』(1)

NHKBS放送で放映された、1993年公開のアメリカ映画『ギルバート・グレイプ』を録画して観ました。原題は『What's Eating Gilbert Grape(何がギルバート・グレイプを悩ませ続けるのか)』で、ピーターヘッジスの小説を映画化したものです。監督は、ラッセ・ハムストレムで、この監督が作った映画は、観終わった人に『暖かい余韻』を残すものが多く、梅爺好みです。

とは言うものの、梅爺は、この映画そのものの存在を今回初めて知りました。マッチョなヒーローが、次々に襲い掛かる危機を、超人的に克服するという、単純明快な最近のハリウッド映画に、少々食傷気味の梅爺には、このような、人間味溢れる映画は、清涼剤のように思えます。17年前のアメリカには、まだ、このような映画を作ろうと言ういう人たちがいたことが分かります。もっとも、日本でも『勧善懲悪・ハッピーエンド』の『水戸黄門』が、今でも延々とテレビで放映され続けていますので、アメリカ人の商業主義や、観衆のレベルだけを、けなすわけにはいきません。それにしても、アメリカで昔一世を風靡した『西部劇』が最近作られなくなったのは何故でしょう。インディアンを単純に、『野蛮』『悪者』扱いすることに、アメリカ人が、ようやく良心の呵責を感ずるようになったためなのでしょうか。

この映画は、アメリカのアイオワ州の片田舎の町に住む、母親と二人の息子、二人の娘の5人家族の『心の絆』を、描いたものです。何事にも、無感動であった父親は、ある日、何も言い残さずに、地下室で、首をくくって自殺してしまい、それがショックで母親は、過食症の肥満になり、ソファーに座りきりで、7年間一度も外出したことがありません。昔は美人であった母親は、今では『浜辺に打ち上げられた鯨』のようで、見る影もありません。しかも、男兄弟の弟の方は、知的障害(自閉症)を持っているという、痛ましい家族環境がドラマの舞台です。

この家族が、悪人でもなく善人でもない町の住民たちとの間で繰り広げられる、日常の中で、傷つき悩みながら、懸命に『家族の心の絆』を維持しようとする姿が、描かれていきます。最悪の環境でも、責任を誰かに転嫁することなく、自暴自棄にならずに、人間の尊厳とプライドを守って生きていこうとする家族の姿が、観る人の心を打ちます。

登場人物を演ずる全ての役者の演技にみとれますが、兄(ギルバート・グレイプ)役のジョニー・デップ、弟(アニー・グレイプ)役のレオナルド・デカプリオの演技が、特に秀逸です。脚本、キャスティング、監督など、すべての条件がそろわないと、このような映画はできあがりません。

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2009年9月29日 (火)

Freakonomics(10)

この本の巻末には、レヴィット先生が、最近雑誌に投稿した文章や、先生のブログに寄せられた読者の意見に対する回答などが『おまけ』として掲載されていて、考えようによっては、本文の内容より『面白い』とも感じました。

読者から寄せられた多くの批判は、『青少年の凶悪犯罪発生率』や『小学生低学年の学力差』の分析の背後に、『黒人蔑視(人種差別)』の考え方が垣間見えるのは怪しからん、というものです。『理』に対して『情』で反応している典型例です。

先生は勿論、『データが自ら語る事実』を述べているだけで、その事実に関する『モラルに関する見解』や『好き嫌い』は述べていない、と回答しています。両親が白人であれ、黒人であれ、同じような社会的地位、経済レベルであれば、子供の『犯罪率』『学力差』には差がないことも、念のために付言しています。

梅爺が、何回もブログに書いてきたように、人間の脳は、『理』と『情』で反応し、厄介なことに、これを区別することが難しいということが、人間を摩訶不思議な存在にしています。『好きな人のいう事は正しいと思い、受け容れる』『嫌いな人のいう事は疑わしいと思い、排除するう』という、反応を、無意識のうちに日常繰り返しています。梅爺も、黒人であれば、レヴィット先生の説には『人種差別』がある、と反感を持つかもしれません。

『理で情を律してはいけない』『情で理を律してはいけない』ということは、分かっていても、なかなか峻別はできません。『にんじんは体に良いから食べなさい、と言われても、嫌いだから食べたくない』という子供を叱っている大人も、実は同じような行動を無意識にとっているということでしょう。

『科学』は純粋な『理』の世界ですから、これによって導き出される『事実』は、『情』を排してまず受け容れる必要があると、レヴィット先生は言っているに過ぎません。『事実』が、自分にとって好ましいか、好ましくないかは、『情』の問題で、ましてや、どう対応するかは別問題です。このことを理解している人は、意外に少なく、多くの人は、『情』で『事実』を判断したり、排除しようとします。

梅爺も、『客観的にものを観たい』とは願いますが、所詮『自分の能力(理と情の総合能力)でしか、ものを観る事ができない』という、非情な現実から逃れることができません。その上、この能力は、個人個人ですべて異なっているわけですから、人間社会が複雑になるのも、また避けがたい現実です。

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2009年9月28日 (月)

Freakonomics(9)

皆さんもご興味をお持ちと思いますので、この本で紹介されている『小学校低学年の学力テストの成績』と、『その両親の資質』との『相関関係』を以下に掲載します。アメリカ、ニューヨークでの調査結果であることを配慮してご覧ください。

相関関係が高いもの
(1)両親の学歴が高い(+)
(2)両親の社会的、経済的地位が高い(+)
(3)母親が最初の子供を産んだのは30歳以降である(+)
(4)子供が生まれたときの体重は軽かった(-)
(5)両親は家庭内で英語を話す(+)
(6)子供は養子である(-)
(7)両親はPTA活動に熱心である(+)
(8)子供は家に沢山の本を持っている(+)

相関関係が低いもの
(1)家族構成に問題(両親が離婚して、片親であるなど)がない
(2)家族は最近環境が良好な地域へ引っ越してきた
(3)母親は、出産後その子供が幼稚園に入るまでは育児に専従した
(4)子供は、小学校入学前に特別保育施設(Head Start)へ通っていた
(5)両親はよく子供を博物館へ連れて行った
(6)子供はよく叱られ、ひっぱたかれて育った
(7)子供はテレビを頻繁に観ていた
(8)両親は、ほとんど毎日子供に本を読んで聞かせた

『相関関係』はプラス要因(成績が良い)と、マイナス要因(成績が悪い)がありますので、印をつけました。さて、皆様の『直感』と一致しているでしょうか。梅爺は、『相関関係が低い』とされたものの、いくつかは『成績に影響する』と想像していましたので、意外に感じました。

レヴィット先生は、この結果から、『非情な現実』を読者に提示します。つまり、『相関関係が高い』と言われる項目は、主として『どんな両親である(be)か』を示しており、『相関関係が低い』と言われる項目は、主として『両親が子供に何をした(do)か』を示している、ということです。もっとはっきり言ってしまえば、子供の学力は、両親から受け継いだ遺伝子に強く影響を受けているということです。世の中は、どんな『きれいごと』を言ってみても、『非情な現実』で満ちているということでしょう。

ここで、誤解をしてはいけないのは、これは、『平均像』であって、個別ケースには、必ずしもあてはまらないことと、『学力テスト』という子供の『理』の能力を対象にしているということです。もしも、『思いやりのある子供』と『両親の資質』の関係を調べれば、異なった結果が得られるのではないでしょうか。『学力テストで好成績な子供』と『思いやりのある子供』の、どちらが人間として好ましいのかは、また別の議論です。『学力テストで好成績な子供』が、幸せな大人になるとは限らないからです。

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2009年9月27日 (日)

Freakonomics(8)

世の中の事象は、原因があって結果が生じていると考えられますが、原因と結果の対応は、単純な1:1ではなく、多く場合、複数の原因(要因)が複雑に絡み合っているために、因果関係が分かりにくくなっています。政治や経済は、その最たるものと言えます。

全ての要因の、結果に対する影響を詳細に調べ上げるのも科学の一つの手法ですが、現実的には、要因の中の影響度の大きいものを特定して選び出し、影響度の小さいものは『無視する』という手法もとられます。このように要因の中の『相関』の高いものを見出すのも科学の手法の一つです。

梅爺は、大学では、機械工学を専攻しましたが、この分野で重要な『材料力学』は、この『相関』が高い要因だけを残して、単純にモデル化した計算式で、材料の強度を計算します。厳密に言えば、誤差が生じますが、実際の構造物の強度計算では、これで十分役に立ちます。『工学』は、実用性が最優先ですから、これでよいことになります。

『Freaconomics』を提唱するレヴィット先生は、『経済学の先生』というより、『経済学が利用する手法で、世の中のこと、特に人間の行動パターンを解析しよう』ということに、興味を持たれているのだと、梅爺は理解しました。

この本では、『学校の学力テストで良い成績を上げる子供の両親は、どのような資質を持っているか』を、『両親の資質の内、子供の学力テストに影響を与えているもの(相関関係が高いもの)は何か』を解析することで、説明しようとしています。

このような『問題』には、多くの場合、『教育』や『育児』の『専門家』と称する人たちが、テレビに現れたり、本を書いたりして、『子供の成績を上げたければ、両親はこういう風に振舞いなさい』などと、もっともらしい話をします。専門家でない梅爺でも、『こういうことが重要であろう』と思いつくことはあります。しかし、それは『直感』で考えているだけで、科学的な検証がなされているわけではありません。専門家が述べる『常識』が、往々にして的を射ていないことを、レヴィット先生は、明らかにしようとします。

この本では、ニューヨークの公立学校で行われた小学校低学年の『学力テスト』の成績と、生徒の両親の資質の相関関係を、膨大なアンケート調査をもとにコンピュータで分析し、『相関関係の高いもの』『相関関係の低いもの』を見出していきます。

結果は、確かに、『直感』で、想像したものとは、必ずしも一致しない、興味深い内容です。政治や経済の、専門家、評論家が、言っていることも、この程度の『怪しいものですよ』とレヴィット先生は、言いたいのでしょう。

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2009年9月26日 (土)

Freakonomics(7)

アメリカの公立学校の教師が、自分の評価をよくするために、生徒の学力テスト答案内容を改ざんしているのではないかという疑いや、日本の大相撲では八百長が行われているのではないかという疑いは、疑っているだけでは、始まりません。レヴィット先生は、この本の中で、経済学者なら、こうやって実証するのですよという実例を挙げています。

日本の大相撲の場合は、1989年から2000年までの、十両以上の取り組みの全てを参照データとして、コンピュータで分析し、『八百長(騙し)』があると結論付けています。

方法は簡単で、千秋楽を7勝7敗でむかえた力士の『勝率』を計算するだけです。特に、対戦相手が、既に『勝ち越している』場合に注目します。そうすると、7勝7敗で千秋楽をむかえた力士の最終日の勝率は、なんと73%から79%と『異常に高い』ことが分かります。同じ対戦相手との過去の平均勝率は、47~48%ですから、『何か特別な配慮が働いている(つまり八百長が行われている)』ことが分かります。

大相撲の評価は、『勝ち越す』か『負け越す』で、天地の差がありますので、既に『勝ち越し』が決まっている力士は、千秋楽で『かど番』に立たされている力士に『わざと負けてやっている』らしいことが分かります。これが、『裏取引』なのか、そういうことで恩を売っておいて、自分が同じ環境に立たされた時には、相手に『配慮してもらう』のが、大相撲の世界の暗黙の風習なのかは分かりませんが、『不自然な取り組み』が存在することだけは、確かと言えます。

八百長疑惑が起こり、日本相撲協会は、当時『八百長はない』と言い張っていましたが、最近は、大分トーンダウンしてしまっています。上記のデータは2000年までのものですが、その後の取り組みでも、同じ現象がつづいているのかどうか、残念ながらこの本には書いてありませんでした。

レヴィット先生は、大相撲の八百長を暴くことが目的ではなく、『経済学者たるものは、疑問に遭遇したら、適切な解明手法を考え出し、数値的に回答をだしなさい』といっているだけです。

八百長疑惑が起こると、直ぐに関係者に尋問して、『あったか、なかったか』を明らかにしようというのが『Conventional Wisdom』での思いつきですが、関係者が『嘘をいうかもしれない』ということを考えると、適切な方法ではありません。上記のような方法で、数値を明らかにすれば、関係者の尋問などを必要とせずに、『実態』が浮かび上がってきます。

そういえば、日本でも延々と『構造改革』の是非の論議がありましたが、『推進すべき』『推進すべきでない』という感情的、定性的な意見ばかりで、誰も明解に数値的な説明をした人がいなかったのではないかと思い至りました。

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2009年9月25日 (金)

Freakonomics(6)

レヴィット先生の、三つ目の指摘は、『ドラマチックに見える事象は、一見それとは無関係に見える小さな原因で起きることがある』というものです。これも、日本流に言えば『風が吹けば桶屋が儲かる』という話で、目新しい視点ではありません。しかしながら、現実に『一見無関係に見える小さな原因』を見つけることは易しくありません。

この事例として、この本では、『1990年代のはじめ頃、米国で深刻な社会問題となっていた、青少年による凶悪犯罪の増加』を挙げています。犯罪学の専門家は、この現象は、2000年へ向けて更に悪化すると予測し、時のクリントン大統領も、『憂慮』を国民に訴えています。ところが、現実には、1990年代の半ばから2000年にかけて、青少年の凶悪犯罪は、急激に減少することになります。増え続けると予測した専門家達は、手のひらを反して、今度は『景気が好転したから』『拳銃保持規制を厳しくしたから』『警察の画期的な対応戦術が実を結んだから』とその原因を、もっともらしく解説して見せました。

しかし、レヴィット先生は、本当の原因は、1973年に、米国最高裁が下した『全米で合法的な中絶を認める』という判決によるものだと、指摘しています。つまり、これで、貧困層の出生率が、劇的に下がり、『犯罪者予備軍』の数が減ったことの効果が、1990年代後半から表れはじめたのが、青少年の凶悪犯罪の劇的な減少の真因だという指摘です。犯罪学の専門家は、誰一人この因果関係に気付かず、的外れの『もっともらしい説明』をしていたことになります。

凶悪な犯罪が増えれば、ジャーナリストをはじめ、多くの『見識者』が、『懲罰の厳格化』『道徳教育の徹底』などを唱えますが、そういう『Convetional Wisdom』は、犯罪減少には、あまり効果がないという一例なのかもしれません。

大体、誰も彼もが口をそろえて『同じことを言っている』時には、『当たらない』ことが多く、更に結果が判明した後に、もっともらしい原因の説明をすることは、誰にでもできることです。そう思って、新聞を読んだり、テレビを観たりすると、この種のことが、日本でも横行しているように感じます。

レヴィット先生は、因果関係を、『直感』で言い当てるのではなく、因果関係の存在を、経済学者なら、道具を駆使して『数値的』に示すべきだとも唱えています。

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2009年9月24日 (木)

Freakonomics(5)

レヴィット先生のもう一つの経済に関する指摘は、『Conventional Wisdomは、往々にして正しくない』というものです。『Conventional Wisdom』という英語の概念も、日本語に直訳するのは難しい言葉です。『誰もが口にするような、ありきたりの智恵』とでも言う概念で、時には、少々蔑(さげす)みのニュアンスが含まれるように、梅爺は感じます。日本には『市井(しせい)の智恵』というような、尊重の意を含む言葉がありますが、これに対応する英語は『Street Smartness』です。

確かに、世の中には、経済に限らず、『当たり前』なことを、さも偉そうに話したり、書いたりする『偉い先生』や『評論家』と呼ばれる方々がおられます。『言語明瞭、意味不明』は論外としても、よくよく聞いてみると、『もっと前向きに、真剣に考える必要がある』などと何も言っていなかったり、『雨の降る日は天気が悪い』とか『犬が西向きゃ、尾は東』とか言っているに過ぎなかったり、『死亡診断書』をみながら、死の原因をとくとくと説明しているに過ぎなかったりで、梅爺は苦笑してしまいます。

単一の視点ではなく、異なった視点、時に自分を否定する視点で、ものごとを観ることは、一般に易しいことではありません。それは時に、苦痛を伴うことでもあるからです。

経済を、人間の『本性』に立脚して考えた人はレヴィット先生が始めてではありません。『人間は、自分の利益を極大化するように行動する』と唱えた大学者も過去にはいましたが、これをポジティブに肯定して、行き着いたところが『金融資本主義』のように梅爺には見えます。

レヴィット先生は、人間は、『インセンティブ』で行動し、その行動には『悪いこと』や『騙し』も宿命的に入り込むものだと観ていますが、『騙し』を肯定しているわけではありません。経済行為にも『光と影』があることを、認めた上で、『それでは、どうすべきか』を考えるべきと言っているだけです。

こんな当たり前な視点が、『新しい視点』と言えるなら、経済学は今まで、何をやってきたのかと、『経済音痴』の梅爺は、戸惑ってしまいます。

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2009年9月23日 (水)

Freakonomics(4)

人間が行動する時に、『善いことをする』とは限りません。残念なことに、人間は『悪いことをする』可能性を秘めていますし、この『悪いこと』にも『インセンティブ』が働いています。ここでいう『悪いこと』とは、法律に触れるようなことばかりではなく、『嘘の弁解をする』『さもしいことをする』なども含まれますので、『悪いことは悪い人がすること』と、他人事(ひとごと)で片付けるわけにはいきません。自分のなかにある『さもしさ』を認めて、苦笑できる人は、梅爺の好みですが、『何も天に恥じることはない』と思い込んでいる人とお付き合いするのは苦手です。

スーパーで買い物をする時に、できるだけ新鮮な野菜を選ぼうとしたり、賞味期限の長いものを選んだり、ドリンクバー付のレストランでは、何杯もお代わりをしたりと、人は、少しでも得をしようと、考えようによっては『さもしい』行動をします。この程度のことは、あまり罪の意識なく誰もが行っていることで『微笑ましい』ことですみますが、この『さもしさ』が少し悪いほうへ転ずると、ホワイト・カラーが出張の旅費や宿泊費を少し水増しして請求したり、仲間内の飲食代を交際費として請求したりということになります。これが会社なら、会社の利益を減ずることになり、官庁なら税金の無駄遣いになりますので、摘発されないところで、『騙(だま)し』の経済行為が日常茶飯的に行われているということになります。

このほかにも、医者が必要以上に薬を処方したり、必要ない手術や施療を行ったり、学校の先生が、自分の評価を上げるために、生徒の学力テスト回答用紙の内容を改ざんしたり、店の店員が、粗悪品を高級品と偽って高価に客に売りつけたりと、摘発されないだろうという前提で、『騙し』の経済行為は、いたるところで行われています。レヴィット先生に言わせれば、不動産屋が、『手入れの行き届いた物件家屋』と説明する時は、『直ぐには倒壊することはない家屋』と言っているのに等しいと、辛口な指摘をしています。

経済の本質を観るには、このような人間の『本性(ほんしょう)』を配慮する必要があるというのが、レヴィット先生の主張です。『騙す』とは怪しからんと、モラルの問題として糾弾するのは容易ですが、経済行為には、『騙し』がついてまわることを直視しなさいという主張ならば、梅爺は、嫌々ながらも認めざるをえません。それでは、『正直者が損をしない』『弱者が保護される』という世の中は、どうしたら実現できるのでしょうか。経済学者の一つの任務は、こういうことへの具体的な提言をすることにあるのではないかと、梅爺は感じました。『百年に一度』の経済危機で、人間はどのような智恵を手にいれるのでしょう。

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2009年9月22日 (火)

Freakonomics(3)

事象を、定量的、計数的にとらえ、その意味を考える、という点では『経済学』も他の『科学』と同様です。一見、無秩序に見える事象に、統計的な手法をあてはめて、法則やルールを見出そうとする考え方も同じです。

ただ、経済学の事象は、『人間の行動によって起こる』ことを考えると、『人間の特性(本性)』を知ることが、経済学にとっては、基本中の基本であるということになります。にもかかわらず、経済学では、『人間臭さ』が希薄になった専門語が、さもその言葉が大事と言わんばかりに使われます。例えば、GNP(国民総生産)という指標や数値は、マクロに事象をとらえる上で、重要ではありますが、GNPが、国民の『欲望』や『汗』にまみれた、そもそもの個人個人の行動に立脚しているという側面は、薄らいでしまっています。

レヴィット先生は、人間の起こす経済活動は、その人の『インセンティブ(Incentive)』が何であるかを考えることから始めないと、事象の意味が理解できない、という単純な指針で、事象を観ようとします。

『インセンティブ』という英語は、日本語に訳すのが易しい言葉ではありません。『行動の動機になる要因』というような意味ですから、行動を起こす『プラス要因』も、行動を起こさない(差し控える)『マイナス要因』も含まれます。『行動しない(差し控える)』という行為も、行動の一種です。

『食べてみたい』『行ってみたい』『見てみたい』『知りたい』などという、単純な欲望に立脚したものから、『金儲けをしたい』『栄誉を得たい』『偉くなりたい』などと、エゴが垣間見える深い欲望に立脚したものまで、『プラス要因』に属する『インセンティブ』は多様です。

一方、『叱責されたくない』『嫌な思いはしたくない』『殺されたくない』などは、『マイナス要因』となる『インセンティブ』です。

更に、『インセンティブ』は、人間の『善意』『悪意』にも、深く関係していることがわかります。人間を、『性善』と『性悪』が、複雑に共存する存在と、見ない限り、人間の経済的な行動の動機は見えてきません。綺麗事では、本当の姿は見えてこないということになります。

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2009年9月21日 (月)

Freakonomics(2)

『Freakonomics』は、『Freak Economics』を縮めた『造語』で、『薮にらみ経済学』『型破り経済学』『岡目八目経済学』などと、梅爺は訳したくなりますが、この本は、『ヤバい経済学』という日本語の『腰巻』がついて売られていました。本そのものは、ペンギン・ブックスから発刊されている英語版です。

『ヤバい』という言葉は、最近では、多様な意味をもつ日本語として定着しているようですが、年寄りの梅爺には、少し品を欠くネーミングのように感じられます。

タイトルの下に、『A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything』というサブタイトルがついていて、これは日本語の『腰巻』には、『悪ガキ教授が世の裏側を探検する』と書かれていました。これも、梅爺なら『茶目っ気たっぷりな教授が、ものごとの裏側を見抜いて、真実を暴き出す』というような、意訳をしたいところです。

可愛そうに『悪ガキ教授』と名指しされているのは、著者に名を連ねているSteven D. Levittのことです。彼は米国シカゴ大学の若手経済学教授で、若手経済学者に与えられるこの分野のノーベル賞にも匹敵するJohn Bates Clark Medalを受賞しているほどの俊英ですが、『これから世界の経済動向はどうなりますか』などと質問をされると、『わかりません、もし分かっているようなことを言えば、嘘をつくことになります』と答えたり、『本を出版しませんか』と持ち掛けられると、『考えたい疑問が山ほどあるので、そんな暇はありません』と答えるなど、確かにアカデミックな世界では、風変わりで、『悪ガキ』といわれても、しかたがない人物のように見えます。しかし、こういう人物は、へそ曲がりな梅爺は大好きで、波長が合います。

従って、この本は、レヴィット(Levitt)先生の考えや、口述を、ジャーナリストのStephen J. Duberが書き起こした本です。

レヴィット先生の、現在の『経済学』に対する認識は、『疑問に答えるためのすばらしい道具が準備されている学問なのに、その肝心な疑問が適切に表現される場合が極めて少ない』というものです。つまり、トンチンカンでつまらない疑問を提示して、それにもっともらしく答えることで、権威を保っている偉い先生が多いと、皮肉っているのでしょう。『これから世界の経済動向はどうなりますか』などという質問は、競馬で、『どの馬が勝ちますか』と言うのに等しく、『愚の骨頂』の最たるものということになります。

『正しく疑問が表現されれば、正しい答が見つかったも同然』という考え方は、他の分野にも通用する話であり、梅爺は、納得がいきます。

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2009年9月20日 (日)

Freakonomics(1)

梅爺は、恥ずかしいことに『経済音痴』です。『梅爺閑話』にほとんど経済に関する話題が登場しないのは、そのためです。別に、経済は、所詮『金儲け』『金勘定』のことだと蔑んでいるわけではありませんが、何を差し置いても、そのことに興味がわくという状況に自分がならなかった(なっていない)のは何故かは、自分でも分かりません。多分、根底に人間の『心理』や『欲望』といった、定量化し難い多元的な要素があり、最後に現れる表面的な事象を、分析、評論してみても、しかたがないという思いがあるのかもしれません。そういう性格なので、我が家の資産運用なども、いい加減なもので、手堅く抜け目なくやっているとは、とても言えません。

とは言え、会社の現役時代は、事業経営の一端を担っていたわけですから、財務諸表や損益計算書には、目を通し、それなりの課題や問題点を指摘したりしていましたので、その程度の『知識』は持ち合わせてはいることになります。ただ、こういう資料は、結果を知ることにはなりますが、まるで『死亡診断書』を眺めているようで、今更何故死んだのかを知ってみてもしかたがないという『味気なさ』を感じていました。死なないように、適切な処置をとることは、きわめて重要で、難しいことですが、『死亡診断書』を見て、死の原因を、もっともらしく解説することは、誰にでもできることです。

経済を論ずる時に、多くの専門家が、得意げに、皮相な専門用語や指標数値を口にするのも、梅爺には、なんとなく『いかがわしく』感じられます。こちらが『音痴』なので、無知であるが故に『ヤッカミ』も多少あろうと思いますが、『経済といえども、元はと言えば、人間の行動に立脚しているのではないか。そうであれば、経済現象は、もっと人間が持つ基本的な資質と関連して考える必要があるのではないか』と、漠然と考えていました。端的に言ってしまえば、経済は数字を弄ぶ世界ではなく、もっと『人間臭さがプンプン臭う世界』ではないかと考えていました。

梅爺が、愛読しているブログの一つ、『おゆみ野四季の道』を書いておられる山崎次郎さんは、何日かに一回、世の中の『経済現象』に関して、裏側で動いている人間の思惑を絡めて、梅爺にも分かるように解説してくださいますので、『なるほど、そういうことか』と得心をすることができます。人生のもっと早い時期に、山崎さんのような方が、梅爺に経済の手ほどきをしてくだされば、今頃『音痴です』などと、投げやりなことを言っていなかったかもしれません。

今更、正統な経済学をまともに勉強する気概はありませんが、本屋で『Freakonomics(.Steven D.Llevit & Stephen J. Dubner)』という、ノンフィクション(英語版ペパーバック)を見つけ、興味を惹かれました。裏表紙の宣伝文句などを読むと、とんでもなく『型破りで、人間臭プンプンの経済解説書』らしいと感じたからです。

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2009年9月19日 (土)

下手の長談義

上方いろはカルタの『へ』、『下手の長談義』の話です。

『話下手(はなしべた)』の人に限って、長々と話をしたり、挨拶をすると茶化していますが、そういう人は、挨拶の最後に、必ず『簡単ではございますが・・』と付け加えますので、苦笑してしまいます。

とは言うものの、梅爺も、仲間内の会合で、挨拶をしようとすると、『短くやれ!』というような野次が飛ぶことがありますので、あまり偉そうなことは言えません。

反対に『話上手』の人は、聞き手の興味を予測する能力や、どういう順序で話したら、分かりやすいか、というような論理構成を事前に頭の中で組み立てる能力に秀でていることになりますので、一般的には『頭の回転が速い、頭が良い人』ということになります。

世の中には、初めてあった人でも5分間くらい会話を交せば、『大体その人の器量が分かる』と豪語するような人もいて、恐ろしい話です。そういう梅爺も、会社時代に、学生の採用面接を担当したときには、それに近いことを言っていました。今考えると、若気の至りとはいえ、生意気な話で、冷や汗がでます。

日本のような、報道の自由が重視される民主国家では、総理大臣などは、毎日のように『会見の様子』がテレビで流されるわけですから、総理大臣がいくら見栄や虚勢を張ってみても、見る人が見れば『器量』を見抜かれてしまいます。政治家にとってメディアとの関係は、『両刃の剣』で、うまく利用もできますが、下手をすれば、国民に『能力のなさ』を見透かされてしまうことにもなります。お隣の独裁国家のように、都合の良い写真や、都合の良いとこだけテレビや新聞に流すというわけにはいきませんから、日本は『能力のない政治家』には辛い環境であるように思えますが、それにしても、国民がうなってしまうような能力の高い政治家が一人くらい現れてもよさそうにと思うのは梅爺だけでしょうか。

誰でも政治家になれるという条件は、民主主義の最低条件で、『能力の高い人が国民から支持され政治家として選ばれる』というのが、成熟した民主主義の理想像ではないでしょうか。そういう意味では、日本のレベルは、あまり自慢できるものではないように感じます。

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2009年9月18日 (金)

前田幸市郎メモリアル演奏会(2)

梅爺たちは、大学生の頃、前田幸市郎先生を『酋長』と呼んでいました。ご容貌が、精悍なインデアンの酋長に似ていたからです。生意気で青二才の学生が、『大マエストロ』の先生を、そのように呼ぶことは畏れ多い話ですが、勿論敬愛の念を込めてのことです。

『酋長』の持論の一つは、『音というものは、出だしのエネルギーで、その後の運命が決まる』というものでした。確かに、鐘やピアノは、たたかれたときの最初のエネルギーで、音は決まってしまいます。しかし、人間を『楽器』とする声楽は、この単純な理論を実践するのは難しく、特に、発声や音程に自信のない素人は、探りながら小さな声を先ず発し、その後確認しながら、音量を増そうとします。勿論、そのような音楽表現もありますが、『一般的な自然の原則』はそうではないと、口すっぱく叩き込まれました。

今回の演奏会は、いずれも『神や死者へ捧げる音楽』だけでしたので、聴いてくださった方々には、『重い』内容であったかもしれません。それでも、三人の作曲家の宗教観、音楽観は、異なっていて、ケルビーニは『重厚』、フォーレは『華麗』、シューベルトは『静麗』ですので、『ということは、天国にも、色々な天国がありそうだ』と、それぞれに感じていただけたのではないかと思います。

作曲家は、複雑な『音楽理論』を駆使し、演奏家は、鍛錬による時に人間業とは思えないようなテクニックを駆使して、音楽は成立しますので、特にクラシック音楽は、『理解が難しいもの』と敬遠されがちですが、聴く人は、全ての先入観念を排除して、『心で聴けばよい』と梅爺は考えています。静かに眼を閉じて、心の赴くままに受け容れれば、色々な情感を楽しむことができるはずです。色々な芸術の中で、音楽ほど、純粋に人間の『情』へ訴えるものはありません。もし、苦痛や不快が勝るようなら、無理をしてその音楽を受け容れる必要はありません。音楽に関しては、『好き』『嫌い』を鮮明にすることは、わがままではありません。

今回の演奏会のために、梅爺たちは、9ケ月間、練習を重ねてきました。『前田先生を偲び、ケルビーニのレクイエムを歌う』と呼びかけただけで、普段より沢山のOBが集まったのは、『前田先生』と『ケルビーニのレクイエム』が、如何に一人一人の人生の中で、『大きな意味』を持っているかの証左のような気がします。学生の頃とは比較にならないほど、それぞれが『死者への鎮魂』を身近に感じながら、歌ったのではないでしょうか。

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2009年9月17日 (木)

前田幸市郎メモリアル演奏会(1)

『前田幸市郎メモリアル東京合唱団・アカデミカコール演奏会』が、9月13日(日)に東京の紀尾井ホールで開催され、不肖梅爺もアカデミカコール(男声合唱団)の一員として、ステージに立ち、歌いました。

当日のプログラム内容は以下です。

L.ケルビーニ 『レクイエム ニ単調』 (アカデミカ・コール)
G.U.フォーレ 『レクイエム ニ単調』 (東京合唱団)
F.シューベルト 『ミサ曲 ト長調』 (東京合唱団・アカデミカ・コール合同)

いずれも、『KMG合奏団』による、オーケストラ伴奏付きで、前田幸市郎先生のご子息、前田幸康氏が指揮をされました。

戦後の日本クラシック音楽の復興に、多大な貢献をされた指揮者前田幸市郎先生が、お亡くなりになって20年が経ち、今回は、生前の先生にご指導をいただいた、関係者(東京合唱団、アカデミカ・コール、KMG合奏団)による『記念演奏会』となりました。

前田幸市郎先生は、ご先祖が加賀前田家の殿様ですから、文字通り『華麗なる一族』に属する方です。戦時下の昭和19年に東京音楽学校(現在の芸大)を卒業されましたので、『音楽どころではない時代』に、音楽を目指していたことになります。その分色々なご苦労があったのではないかと思います。戦後の疲弊した時代に、クラシック音楽を復興させるために、オーケストラ、合唱などの指導を献身的に行ってくださいました。特に、バロック音楽、宗教曲に造詣が深く、本邦初演でいくつかの名曲を日本へ紹介されました。今回の、『ケルビーニのレクイエム(ニ短調)』『フォーレのレクイエム(ニ短調)』も、先生の指揮で本邦初演が行われた曲です。

梅爺は、新潟県長岡市の高校を卒業して、東京の大学へ進学し、クラブ活動として『男声合唱団(東京大学コールアカデミー:アカデミカ・コールはコール・アカデミーのOB合唱団)』に入部しました。約50年前の話です。そして、この男声合唱団の指揮を引き受けてくださっていた前田幸市郎先生と初めて出会いました。高校時代にも合唱経験があるとは言え、先生の、深い音楽理解、音楽理論に始めて接して、感銘を受けたことを、今でも鮮明に覚えています。人生において『本物の人物』に出会うことが、どれほど大きな意味を持つかを、この年齢になって痛感しています。今回歌った『ケルビーニのレクイエム』は、『レクイエム』としては珍しい男声合唱だけで演奏されるもので、大学生の頃に、先生の指揮で歌いました(本邦初演)。先生や、亡くなった友人などのことを偲びながら、そして、やがて訪れるであろう自分の死を思い、心を込めて歌うことができました。

普段は、『神はいるのか』などと、ブログで偉そうなことを言っている梅爺ですが、ケルビーニの魔力にかかったように、今回ばかりは、敬虔な気持ちになって、神を賛美し、死者を追悼しました。まことに身勝手な話で、恐縮です。

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2009年9月16日 (水)

オペラ『マリア・ストゥアルダ』(2)

『ブラッディ・マリー(Bloody Mary)』という、ウォッカとトマトジュースをベースにしたカクテルがあるのをご存知の方も多いと思います。確かに、赤い色は血を連想させますが、『血塗られたマリー』とは、穏やかなネーミングではありません。口当たりが良いので、梅爺は、若い頃、パーティなどで所望し、気取って飲んでいました。

梅爺は、『ブラッディ・マリー』の語源は、マリー・アントワネットに由来するのかと想像していました。彼女が、ギロチンで首を切られ、血を流したからです。しかし、その後、ある人から、これはスコットランド女王『マリー・スチュアート』に由来すると聞かされました。彼女も、最後は『断首刑』で血を流していますので、そのことかと思いましたが、どうも真相は、彼女が女王時代に、スコットランドのプロテスタントを迫害し、300人も処刑したことに由来しているらしいのです。いずれにせよ、彼女の一生には、処刑やら、暗殺やら血なまぐさい話が沢山つきまといます。

世界の王室の歴史には、『世継ぎ』の選定を巡って、血なまぐさい事件が、必ずといってよいほどあります。特に、中世ヨーロッパの王室には、この種の事件、陰謀が多く、華やかな宮廷生活の裏で、暗殺、毒殺を恐れて、貴族の間に疑心暗鬼が横行していたと言われています。『権力の座』が目の前にちらつくと、人は、変ってしまうのでしょう。今や、好々爺(こうこうや)を目指す梅爺ですから、自分に限って、そのようなことはないとは思いますが、現実に、『眼もくらむような権力や利権』が手に入るという状況になれば、突然『悪鬼のごとき因業爺(いんごうじじい)』に早変りしないと言い切る自信はありません。なんとも、人間は、弱いものと、心もとなくなります。

このオペラでは、どちらかというと『エリザベス一世』は、無慈悲な暴君で、『マリー・スチュアート』は、無実の罪で処刑される誠実な犠牲者として描かれていますが、現実は、そのような単純な図式ではなかったのではないでしょうか。『エリザベス一世』は、ヘンリー八世の娘ですが、母親は、2番目の王妃アン・ブーリンですから、カトリックの視点で見れば、アン・ブーリンは正規の王妃ではない(ヘンリー八世の1番目のスペインから嫁いできた王妃との離婚は認められていない)ということになりますので、『庶子』であり、王位継承権はないということになります。カトリックのフランス宮廷で育った『マリー・スチュアート』が、そのように考え、自分こそ、正統なイングランド王の継承者であると、主張していたとしても、不思議ではありません。『ヘンリー八世』については、前にブログを書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ce28.html

『エリザベス一世』は、『イングランドの安泰を脅かすもの』という名目で、自分の存在を否定しようとする『マリー・スチュアート』を処刑したと思われます。なんとも、おどろおどろした話です。

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2009年9月15日 (火)

オペラ『マリア・ストゥアルダ』(1)

NHKBS第二の番組『芸術劇場』で放映された、ドニゼッティのオペラ『マリア・ストゥアルダ』を録画しておき観ました。ドイツの戯曲家シラーの原作をベースに、イタリアのドニゼッティが作曲したものです。

梅爺夫婦は、2007年11月に、梅爺の大学時代の仲間達(大半が夫婦連れ)と一緒に、ウィーン、プラハ、ブタペストを回って、本場のオペラ鑑賞をしてきたくらいですから、梅爺自身は、オペラは嫌いではありませんが、何を差し置いてもオペラにのめりこむほどの愛好家ではありません。正直に白状すれば、台詞(せりふ)が、イタリア語、ドイツ語、フランス語など、梅爺にとって耳で聴いても理解できない言葉であることが、『鑑賞』の障害になっています。それでも、梅爺が所属している『男声合唱団(大学の男声合唱団のOBで組織)』では、時折オペラの有名な合唱曲を、原語で歌いますので、日本人の爺さんとしては、オペラには縁がある方かもしれません。中欧のオペラ鑑賞旅行については、前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_fe21.html

今回、『マリア・ストゥアルダ』を観る気になったのは、勿論オペラそのものへの興味もさることながら、女主人公『マリア・ストゥアルダ』のモデルが歴史上の実在人物である、16世紀のスコットランド女王『マリー・スチュアート』であることに惹かれたからです。

『マリー・スチュアート』の生涯は、スコットランド、フランス、イングランドの宮廷事情が絡み、一度や二度くらい、話を聞いただけでは、とても理解ができないほどの、『波乱万丈』なものですが、最後は、イングランド女王『エリザベス一世』によって、『断首刑』で処刑されました。『スコットランド女王(マリー・スチュアート)』と『イングランド女王(エリザベス一世)』の、女同士の権力闘争と単純に割り切れないのは、二人の先祖は、イングランド王のヘンリー7世という同一人物であるからです。『マリー・スチュワート』は曾孫、『エリザベス一世』は孫にあたります。

日本流に下世話に言ってしまえば、『お家騒動』の結果、本家筋の女が、『我こそは、正当な相続者』と主張する分家筋の女を、邪魔者として処分した、ということになります。このオペラは、『エリザベス一世』が処刑を決意する前後の二人の女性の葛藤を描いたものです。オペラでは、二人が直接会って、『対決』しますが、歴史上は、そのような『直接対決』はなかったとされています。

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2009年9月14日 (月)

法隆寺(5)

『日本書紀』によれば、『法隆寺』は670年に火災で全焼したと伝えられています。しかし、『釈迦三尊像』など主要の仏像が、火災にあった形跡がないことから、『火災はなかった』という説もありました。しかし、近年『若草伽藍跡』が発掘され、『火災は実際にあった』ことが分かりました。

最近、金堂の補修が行われ、使われている木材の年輪調査で、これらの木材は、670年よりも前に伐採されていることが判明しました。これにより、金堂は670年以前に建設が始まっていたことになり、主要な仏像は、こちらに移されていて火災を免れたのではないか、と推定されることになりました。『日本書紀』には、火災の記録がありますが、『再建』に関する記述がないため、『全焼した法隆寺』と『現在の法隆寺』の関係は、依然『謎』に包まれた部分があります。

最近読んだ『出雲抹殺の謎』という本では、豪族『蘇我氏』を排除することを目的に、権勢を握った藤原不比等が、『日本書紀』を編纂させ、成り上がりの『藤原家』の正当性を主張するために、歴史上、蘇我入鹿(そがのいるか)を、極悪人に仕立て、『聖徳太子』を稀代の『聖人』に祭り上げたのではないかと、書いてありました。『聖徳太子』の子息達は、蘇我入鹿によって、死に追いやられたと伝えられています。

今回のNHKの番組では、中国や朝鮮半島との関係で、国難を抱えていた当時の日本が、『国家安泰』を祈願するために、天皇中心に『法隆寺』を建立し、国を一つにまとめる象徴として『聖徳太子』の存在を利用したのではないか、というような説明がなされました。

いずれも、ごもっともな話ですが、本当にそうなのかどうか、梅爺には判断がつきません。『法隆寺』や『聖徳太子』については、今後もそう簡単に『真相』が判明するようには思えません。

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2009年9月13日 (日)

法隆寺(4)

『聖徳太子』は、推古天皇の摂政として優れた手腕を発揮した(17条の憲法、中国皇帝への書簡の作文など)と伝えられていますが、『聖徳太子』の実績なのかどうかは、確証がありません。仏教を深く信仰したと伝えられていますが、生涯出家をせずに『在家信者』であったことになっています。

『法隆寺』五重塔の4つの塑像の一つが『維摩経』の教えを表現していることから、『在家信者』でも、『救われる』と『聖徳太子』が考え、『庶民も救われる』ことを伝えようとしたのだと言われています。『維摩経』の主人公であるインドの『維摩詰(ゆいまきつ)』は、実業家として成功しながら、釈迦の教えに帰依した『在家信者』でしたが、釈迦の弟子達も、言い負かされるほどの論客でした。『維摩詰』の、『生と滅、正と邪など対となるものは、別々のものではなく、本来一体のもの』という主張は『維摩経』の真髄として有名です。

『聖徳太子』は更に、『女人往生(にょにんおうじょう)』で、女性も『救われる』という考え方を説いたと言われています。もし本当なら、女性は救われないものという当時の仏教の教えに対して、極めて革新的です。このために以降『法隆寺』には、高貴な女性から多くの寄進がなされました。『法隆寺』は今でも、庶民や女性の信仰の対象として、根強い人気があるのは、こういう歴史の故なのでしょう。これらを総合すると、『聖徳太子』は、『仏教』を基盤に、国を治めることを『理想』と考えていたのではないかと、推察できます。外国から渡来したばかりの『教え』の本質を理解し、これを日本の国の『基盤』にすれば、優れた国家が出来上がると洞察したわけですから、実在の人物であるとすれば、大変な『器量の持ち主』『ビジョナリー(優れたビジョンの提示者)』であったと言えます。『高速道路をタダにする』とか『子育て手当てを支給する』などという、行き当たりばったりなことばかりを言っているリーダーとは、かなり質が違います。

しかし、『飛鳥・天平』の頃の日本は、仏に導かれた平穏な国ではなく、絶えず天皇の後継者を巡って、豪族間の権謀術数や陰謀が横行する時代でした。人間が、宗教を希求するのは、決して平穏な社会ではなく、むしろドロドロした社会や、困窮した社会が背景にあるときのように、梅爺は感じます。そういう時代であったからこそ、『聖徳太子』の教えは異彩を放っていたのではないでしょうか。ローマ帝国の支配下のユダヤに、キリストが出現したのと、同じような背景を、何となく感じてしまいます。

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2009年9月12日 (土)

法隆寺(3)

『法隆寺』や『聖徳太子』を考える上でのキーワードは『仏教』であろうと思います。『仏教』が日本へ渡来して、間もない頃であったからです。日常生活の中で、当たり前に『仏教』に接している私たちの『感覚』で、当時のことを推察すると、間違った理解になってしまうかもしれません。当時の人たちが『仏教』に初めて接して『驚いた程度』を、現代の私たちが推察するのは容易ではありません。

『仏教』が渡来する以前の日本は、原始的な『アミニズム』から発した『神々への信仰』という考え方が定着していました。天皇家は、自分たちの祖先の神(皇祖神)を祀る、社(やしろ)を有し、『神道』は、それなりの『形式』を整えるまでに、なっていたのではないかと想像できます。基本的には、『神々』は人々の『畏れ、敬い』の対象であったと考えられます。

『仏教』の、人間の内面(精神世界)に深く関与する『教え』の存在を知って、当時の日本人は、『驚いた』のではないでしょうか。『恵み』や『災厄』をもたらす、得体の知れない神々に、祈祷をささげることしか知らなかった人たちが、自分の精神的な悩みや苦しみを、『慈悲』で救ってくれる『仏』の存在を知って、驚いたに違いありません。特に、理性、知性に富んだ人たちには、『衝撃』であったであろうと思います。この『驚き』や『衝撃』は、ローマ帝国時代の人々が、『キリストの教え』の存在を知って、味わったものと類似しているのではないでしょうか。

しかし、為政者にとっては、『仏教』は、採用した方が『得か損か』という手段の一つでもありますので、当時の豪族『蘇我氏』が『崇仏派』、『物部氏』が『廃仏派』に分かれたのは、当然のことのように思います。『聖徳太子』は、母方の家系が『蘇我氏』でもあり、『崇仏派』を代表する人物であったものと推察できます。『物部氏』は、『蘇我氏』との武力抗争に破れ、衰退していきます。

『聖徳太子』は、『仏教』を日本の国を繁栄させていく『基盤』にしたいという、現在の言葉で言えば『ビジョン』を有していたように見えます。勿論、単なる手段としてだけではなく、自らもこの新しい『教え』を理解する、高い知性、感性の持ち主であったであろうと推察できます。朝鮮半島から渡来した僧侶から、直接『教え』を受けたとはいえ、高い知性と感性がなければ、それを吸収し、自分のものにすることはできなかったであろうと思うからです。

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2009年9月11日 (金)

法隆寺(2)

『法隆寺』が、『聖徳太子』ゆかりの寺であることは、現存する資料や伝承、仏像から間違いのなさそうなことですが、『法隆寺』『聖徳太子』とも、謎に満ちていて、何が『真実』なのかは、必ずしも定説が確立しているわけではありません。保有する36ケの『国宝』の数は、お寺としては日本一であり、それだけでも、『特別な寺』であることがわかります。

金堂の国宝『釈迦三尊像』の中央仏は、『聖徳太子』の顔を模したものと伝えられているほか、明治になって、フェノロサと岡倉天心が、初めて明るみに出した夢殿の秘仏『救世観音像』は、『聖徳太子』の顔ばかりか、背丈まで模した等身像であると言われています。数ある日本の仏像の中に、歴史上の人物を模して作った仏像というのは、他に見当たりませんので、それだけでも『法隆寺』が特殊な寺であると推察できます。『救世観音像』を包んでいた白布を取り除くときには、『罰が当たる』といって、当時の僧侶は逃げ惑ったと伝えられています。

『聖徳太子』という呼び名は、平安時代以降確立したもので、記録では『厩戸皇子(うまやどのおうじ)』など、いくつかの名前で呼ばれている人物と考えられています。用命天皇の皇太子で、推古天皇(女帝)の摂政をつとめ、渡来した仏教に最初に帰依した皇室関係者であると、伝えられています。

日本の歴史上の人物で、『聖徳太子』ほど、『非の打ち所がない』人物は、あまり見当たりません。生身の人間で、『非の打ち所がない』などということは、普通ありませんから、『本当はいなかった(作り上げられた人物である)』『別人である』『実は暗殺された』などと、諸説が今でも飛び交っています。梅原猛氏の『隠された十字架』は特に有名です。同じような議論にさらされやすい『キリスト』と似ています。

梅爺は、『聖徳太子』も『キリスト』も、大変魅力的な実在の人物であったであろうと『感じ』ますが、『非の打ち所がなった』というのは、後世の人間が、何らかの事情で『美化』した話ではないかと、これまた『感じ』ています。勿論、論証する能力がありませんので、推測に過ぎません。もしそうなら、何故『聖徳太子』を『美化』する必要があり、誰がそれを意図的に行ったのかを知りたくなります。

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2009年9月10日 (木)

法隆寺(1)

録画機に録り貯めてあったNHKハイビジョン特集の『法隆寺』に関する番組(前編、後編の2回にわたり放映)を観て、梅爺の脳は大変刺激を受けました。梅爺は、日本の『飛鳥・天平時代の歴史』『法隆寺』『聖徳太子』『仏教』に格段の知識を持ち合わせているわけではありませんので、今まで持ち合わせていた知識と、番組を観て得た知識を、勝手につぎはぎして、色々妄想を膨らませてしまいました。なけなしの知識で、勝手な『推理』をしてしまうのが、梅爺の悪い癖です。

技術者であった梅爺の目でみると、『法隆寺』は『驚愕すべき建築物』に見えます。『世界最古の木造建築(金堂)』として、約1400年、風雪に耐え、地震や火災の難からも逃れ続けてきたこと自体が『驚愕』ですが、何よりも当時の日本人大工が、有していた『知識』と『技』には舌を巻きます。

唐、髄時代の中国や、同時代の朝鮮半島の仏教建築様式を踏襲したものと思いますが、日本の大工が、どのようにして、これらの『知識』や『技』を習得したのか、その習得にどれほどの時間を要したのかを、思い巡らせてしまいました。

現代の宮大工が見ても、ちゃんとした図面(設計図)や強度計算の技法などがなかったであろう時代に、材質の特徴を最大限に活かす技法(日本のヒノキを採用)、耐震構造を実現する技法、現在でも再現が難しいうような複雑な『木組み構造』、それに、不純物含有量の少ない鉄を鋳造して作り上げた錆びにく鉄釘などは、『驚くべきもの』であることを知りました。勿論、屋根の優美な曲線など、洗練された外形美も、現在でも粗野な印象などとは程遠いものです。『日本書紀』の、現実とは思えない『神話』などを読んで、当時の日本人は、『幼稚なレベルであった』などと、想像するのは、大変失礼な話であることがわかります。

勿論、1400年の間には、何度かの『補修』が行われていますが、その時々の日本の大工は、建造当初の意図を尊重し、新たな『知恵』も加えてきたことになりますので、『名もない庶民の大工が歴代保有していた知恵と技』は、世界に誇りうるものであると痛感しました。『外来技術を咀嚼(そしゃく)し、自分のものとして、もっと優れたものにしてしまう』という習性を、日本人は、現在まで伝統的に持ち続けてきたように感じます。昔も今も、日本の文化は、日本人の庶民の能力で支えられています。『法隆寺』を建立しようと思いついたのは『偉い人』かもしれませんが、実際に実現したのは、庶民です。

お手本になったはずの、中国や朝鮮半島の木造寺院は、今では一つも残っていないわけですから、『幸運』もあったとはいえ、『法隆寺』は、堂々たる『世界文化遺産』であることがわかります。

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2009年9月 9日 (水)

岸恵子(5)

岸恵子さんが『男性的』と感ずるのは、その好奇心の旺盛さと、行動力に関してです。ユダヤやイスラムに興味を持てば、沢山の関連書物を読破し、ついには、ご自分の眼で確かめてみたいと現地へ出かけます。時には、トイレやシャワーのないナイル川上流のアフリカ奥地にまでもでかけます。当然、不便な環境であったり、異教徒の女に冒涜されたと現地の人から迫害をうけたりしますが、『そういう相手の文化を知らずに出向いた私がバカでした』と、非は相手ではなく自分にあるというとらえかたをされます。梅爺も好奇心は旺盛ですが、まず自分の身の安全を優先して考えてしまいますから、行動に関しては、岸恵子さんにはかないません。

『100年インタビュー』というこの番組のタイトルは、将来の日本人へのメッセージを残すことが一つの目的であり、岸恵子さんは以下のようなことを話されました。

前に、イスラエルの首相にインタビューする機会があり、『日本をどのように見ておられますか』と質問したところ、『日本は、ぎっしり宝物がつまった家のようなものだ。でも、困ったことに、この家にはドアや窓がない』との答がありました。私(岸恵子さん)も、日本人は、ドアや窓が無い家の中で、家の内側だけを見て生きているように感じます。自分の意思でドアや窓を開くことは、勇気のいる行為で、時には、外の冷たい風が吹き込んだりもしますが、一方今まで知らなかった世界に接することができ、新しい関係も構築できます。家の中だけが関心事というのではなく、勇気を持って窓を開く必要があるのではないでしょうか。

梅爺も、女優の麻薬疑惑事件が、連日トップニュースとして報道され続けるのに辟易していますので、このご意見には賛同します。視聴率を稼ぐためと言う大義名分はあるのでしょうが、国民もジャーナリズムも、自分の『幼稚さ』に気づかないのは、『窓の無い家に住んでいて、外の世界を知らないから』ではないでしょうか。

『宝物のつまった窓の無い家』は、やがて外から壁を壊されてしまうかもしれません。それよりは、自分達から窓を開き、外との関係を自ら模索する方が賢明です。窓を開ければ、『自分を維持すべきこと』と『自分を変えなければならないこと』があることに気づきます。自分を変えるには、外の言葉や文化に関する知識も習得しなければなりませんので易しくはありませんが、そうしなければ、今後世界の中で日本は生き残れません。梅爺は、岸恵子さんほど、外国や外国人との関係体験が豊富ではありませんが、少ない経験からも、『自分から窓を開く』ことが、重要と感じています。

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2009年9月 8日 (火)

岸恵子(4)

イヴ・シャンピ氏は、人生の機微について、以下のようなフランスの教養人らしいエスプリの効いた『警句』を用い、妻の岸恵子さんと会話されておられた様子が、番組の中で紹介されました。

『オムレツが食べたければ、卵を割らなければならない』

これは、言うまでも無く、『何かを優先したら、何かは犠牲にしなければならない』ということで、人生では、何度も『優先度の選択』を迫られることがあります。当たり前のようなことですが、人は往々にして、『オムレツは食べたい。しかし、卵は割りたくない』と、考えるものです。『生活や福祉のためのバラマキ政策歓迎。でも、増税は反対』という主張はその典型的な例です。岸恵子さんは、その後イヴ・シャンピ氏と離婚することになりますが、その原因は、女優として、ハリウッドや日本へ長期間仕事ででかけ、パリの家を留守にしていたためで、『こういうことに、男性がどう反応するかということさえ、私は知らないほどバカでした』と笑顔で話されました。事態を知ったときに『離婚は、自分のせいでしかたない』とすぐ覚悟ができたものの、結果的には、一人娘に深い心の傷を負わせることになり、今でも後悔しているとも話されました。

『復讐は、冷めた料理のようなものだ』

この『警句』を、岸恵子さんは、最初、『激情に駆られず、時間を置いて冷静に考えなさい』という意味だと考えたようですが、75歳になって、考え直してみると、『そんなこと(復讐)はどうでも良いことだ(冷めた料理はまずくて食べられない)』と気づいたと言われました。『理』による鋭い観察です。

『警句』は、どちらかと言えば理屈っぽい男性が好む傾向にあり、真の理解には、深い知性や感性を必要とします。岸恵子さんが、このような『警句』を、『面白い』と興味を示されること事態、才能に溢れた方であると同時に、『男性的』な性格の方でもある証拠と、梅爺は感じました。

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2009年9月 7日 (月)

岸恵子(3)

岸恵子さんは、ご主人であったイヴ・シャンピ氏のいくつかの『言葉』に、啓発されたことを、インタビューで紹介されました。その一つが、結婚直後に言われた『他人の言葉を鵜呑みにしてはいけない。自分の考えで判断しなさい』です。個人主義が徹底しているフランス人の教養人なら言いそうな言葉で、『従順』を美徳とすると考えられている日本女性の奥さんへ、特に釘をさしたものとも思えます。日本は、さだまさしの『関白宣言』がヒットするような国ですので、新婚の夫が妻へ、わざわざこんなことは言わないのが普通です。しかし、へそ曲がりな梅爺も、誰に教えられたわけではなく、このように行動してきましたので、異論はありません。『梅爺閑話』でも、他人の言葉や考えを、そのまま紹介することはせず、梅爺がそれをどう判断したかについて書き続けてきました。

『自分の考えを持ち、それに従って行動する』は、ごもっともなことですが、易しいことではありません。論理思考能力や、複数の価値の優先度を設定できる能力を持ち合わせていないとできないことです。西欧では、小さい頃からこの考えを叩き込まれますので、誰もがそうしたいと思いますが、能力を持ち合わせていない人には、つらい話になります。

そこで苦し紛れに、『他人の意見』を、『自分の意見』として代用することになります。『他人の意見』を受け容れるのではなく、『他人の意見』を『自分の意見』であると思い込もうとします。その結果、影響力の強い『他人の意見』が、その社会を席巻することにもなります。『個人主義』を信奉するはずのアメリカが、『9・11事件』の後、『報復、テロ殲滅、愛国』一色に染まってしまったことは、記憶に新しいところです。

日本は、一人一人が、『自分の意見』を言い出したら切がないということで、できれば、自己主張などせず、皆に合わせて協調しておいたほうが無難、という考えが強い国ですので、『自分の意見』ばかりを言う人は、嫌われ勝ちですが、逆に、『他人の意見』に逆らえず、こちらも社会が、時に一色になってしまう弊害を持っています。民主党の圧勝も、弊害であるかどうかは別にして、この現象のように思います。

人間の社会は、『個人主義』であろうが『協調主義』であろうが、同じように一色にそまる弊害を持っているので、厄介です。

岸恵子さんは、75歳になられた現在、新婚当時に夫から言われた『自分の考えをもち、行動する』ことは、自分の人生にとって、重要な指針であったと述べておられます。岸恵子さんのような、知性と感性に恵まれた方には、そうに違いありません。しかし、これは岸恵子さんであったからあてはまったことで、自分にも当てはまるかどうかは、『自分で判断』する以外にありません。

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2009年9月 6日 (日)

岸恵子(2)

フランスの映画監督イヴ・シャンピ氏は、若い頃、ナチの占領下のパリで、地下抵抗運動に参加し、生き残った数少ない戦士の一人です。裕福な家庭に育ち、医学を勉強して医師の資格を得ますが、好きな映画製作の道に入りました。この経歴が示すように、フランスのトップレベルの教養人で、サルトルやヴォーボアールなどとも親交がありました。

1957年封切りになった映画『忘れえぬ慕情』の撮影のため、来日し、若い女優の岸恵子さんと出会います。これが縁で、二人は結婚することになり、岸恵子さんは、日本でのトップ女優の座を捨てて、フランスに渡りました。当時の多くの日本人は、これを、かなり『突飛で、思慮を欠いた行動』と受け取りました。当時高校生であった梅爺も、『西洋かぶれで世間知らずの女優が、女たらしの中年白人の餌食になった』と単純に考えていたように記憶しています。不遜にも、女優は、外見が美しいだけで、お頭(つむ)は空っぽ、という偏見をもっていたからです。実情を知った今は、岸恵子さんに土下座して謝らなければならないような恥ずかしい話です。

梅爺も歳をとって、ようやく『お頭(つむ)が空っぽ』かどうかを、少しは判別できるようになりました。確かに芸能人の中には『お頭が空っぽ』の人もいることは、最近の色々な事件で皆様も、痛感されておられるでしょう。中には、『お頭が空っぽ』であることを逆手にとって、『おバカキャラ』など称して、自分を売り出す人も現れ、畏れ入るばかりです。ご愛嬌と言えば、ご愛嬌ですが、これを寛容に受け容れる日本の文化は、他国からは少々特異に見えるものであることを知っておく必要があります。『リコウ』が『バカ』を装うコメディアンなどは、世界中で受け容れられる存在ですが、『バカ』が『バカ』を売り物にしたり、幼稚な大人を『カワイイ』といって受け容れる日本は、世界から見ると『変な国』です。上述のように、これが嵩(こう)じて、『バカで何が悪い』と『バカ』が居直るようになる風潮まで現れ、梅爺は戸惑っています。『真の大人』が評価されるのが、外国(特に西欧)における一般的な価値観、文化です。

岸恵子さんの話がそれてしまいましたが、イヴ・シャンピ氏の中に『真の大人』を感じ、それに魅せられたわけですから、当時の若い日本女性としては、特異なすぐれた感性と、知性を希求する能力の持ち主であったのでしょう。その後の岸恵子さんの言動を見ても、『日本人離れ』していると感じます。しかし、言葉も通じない仲で、お互いの中に無限の可能性を感じ取ったわけですから、日本流に言えば『一期一会』の典型例ということになります。

岸恵子さんは、インタビューの中で、『人生には、日常の中で非日常に遭遇することが何度もあり、これをアンテナ感度を高めてとらえ、探求してみようと思うことが大切です。結果的に、それはその人を不幸にすることもありますが、逆にそこから、思わぬすばらしい人生が展開することにも多いように感じます』と述べておられます。『興味の対象』をとことん追求しようとし、実行もされてこられたわけですから、有言実行です。これに比べて、非日常を捕らえるどころか、避けて無難に通ろうとする典型的な日本人である梅爺は、岸恵子さんのような『すごい日本人』には、全く頭が上がりません。

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2009年9月 5日 (土)

岸恵子(1)

NHKの『100年インタビュー岸恵子』を録画しておき観ました。1時間半、ほとんどアナウンサーの質問に答える、対話形式で終始するものでしたが、梅爺は、偉いお坊さんのありがたい説話や、評論家のもっともらしい解説を拝聴するより、『人の生き方』や『世界の中の日本』について、ずっと多くのことを学ぶことができたように感じました。

『天は二物を与えず』などという諺がありますが、岸恵子さんの75歳にして衰えぬ美貌と、語り口から推量できる感性と知性に接すると、世の中には例外があることを痛感します。『天は二物を与えず』は、凡人が、とてもかなわない人物を根拠無く貶(おとし)めるために、考え出した諺なのではないでしょうか。

梅爺の年代の日本人は、岸恵子さんは、かつて一世を風靡した大女優で、フランスの映画監督イヴ・シャンピ氏と結婚(後に離婚)した人という程度の知識は持ち合わせていますが、近年、岸恵子さんが書かれた、随筆や旅行記などを読まれた方は、少ないかもしれません。梅爺も、すべて読んだというほどではありませんが、いくつかを拝読して、『日本語のすばらしい書き手』であることに、注目していました。『女優岸恵子』の肩書きで得をしているというような見方もあるのかもしれませんが、そんな肩書きが無くても、文筆家として大変な能力をもっておられると感じていました。インタビューを観て、それが間違っていないと確認できました。

一言で言ってしまえば、岸恵子さんの、発想や、行動動機は、『極めて男性的』であると感じました。イタリヤ人と結婚された日本人の女性作家塩野七生(ななみ)さんとあい通じるところがあります。誤解を恐れずに言ってしまえば、男性は『理』で判断しようとし、女性は『情』で判断する傾向がありますが、岸恵子さんの発想は、『理』が重要な役割を果たしていると言う意味です。

この番組を観たり、著作を読まれたりした人の中では、多分女性より男性の方が、『共感』する度合いが高いのではないかと思いました。『そんなことはない、私も共感しました』とおっしゃられる女性がおられれば、その方は『男性的な発想が理解できる女性』であろうと、梅爺は思います。更に、誤解が無いように申し上げれば、梅爺は『男性的な発想がすぐれている』と言っているわけではなく、『男性的な発想と女性的な発想には、違いがある』と言いたいだけです。

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2009年9月 4日 (金)

民主党の大勝利(2)

民主党の鳩山代表の30分のテレビインタビューを観て、梅爺は、80から90点の高い評価をつけました。個々の政策の内容というより、『質問の内容を的確に理解し、冷静に品格のある答を返している』『分かりやすい自然な日本語で論理的に話している』『後々、つまらない揚げ足取りをされないように、即座に慎重な言葉選びをしている』などが理由です。当たり前のように思えますが、そのような対応能力は、非凡であり、リーダーに求められる資質の一つであると思うからです。むしろ、質問をしているマスコミ各社の記者の日本語の方が、論理性を欠いていたり、品格を欠いていると感じました。政治家の質が向上しないのは、ジャーナリストのせいではないかと疑いたくなります。

選挙速報の番組に登場した、コメンテーターの中にも、『あなた、自分を何様だと思っているの?』と尋ねたくなる様な、不遜な人がいて、梅爺は不快に感じました。政治家に鋭い質問をすることを売り物にするテレビ番組の司会者がいることは承知していますが、『鬼の首をとったように、誰彼かまわず見下して、偉そうに振舞う人』は梅爺の好みではありません。

鳩山代表の答で、唯一梅爺が不満に感じたのは、『あなたは、将来日本をどのような国にしたいとお考えですか』という質問への回答内容でした。今後の世界は、従来の『軍事優先』『経済優先』だけでは、維持できないことは分かっていますが、それならば、何を優先するしくみ(パラダイム)に変っていくのかを、予測し、日本がその中で、立ち遅れないように、できれば率先してモデルとして尊敬される国になって欲しいと梅爺は願っています。そういう歴史観やビジョンに、少しでも触れてもらいたいと思いましたが、回答は、『国民が安心して暮らせる国』といったありきたりの内容でした。

このインタビューで、鳩山代表の、志(国民主導政治、二大政党制)は十分分かりましたが、従来の『党利党略』になれた他のベテラン党員や、今回時流にのって『当選してしまった』沢山の『ひよこ議員』が、鳩山代表と同じレベルの志や能力を持っているのかどうかは、梅爺には分かりません。プロ野球やプロサッカーの選手は、『なりたい』と思っても誰もがなれないように、政治家もその資質がなければ『なれない』ということを、政治家も国民ももっと認識できている国に、日本はなりたいものです。

先ず、組閣や、党の重要人事を巡って、民主党の中に、低次元の仲間割れや確執が表面化しないように願うのみです。

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2009年9月 3日 (木)

民主党の大勝利(1)

8月30日に行われた衆議院総選挙は、大方のマスコミが予想していたように、民主党の大勝利で終わりました。

人間は、基本的には『変革』よりも、『現状維持』を優先する保守的な習性を持っています。社会学者は、農耕民族から発展し、ほぼ単一民族、単一言語、単一文化で構成される日本は、特に『変革』を望まない国であると、言ってきました。小さな『変革』はともかく、大きな『変革』をさほど必要としない環境であったからでしょう。その日本人が、今回は総意として『変革』を選択したことになりますので、いかに自民党が国民からみると、非魅力的で希望の持てない存在になってしまっていたのかの証左でもあります。『変革』を望んだというより、『現状にあきれた』、『我慢にも限界があり、愛想が尽きた』ということでしょう。

梅爺は、日本が『改革』を選択したことにはあまり違和感がありませんが、今後反動で、国民が民主党に『過大な期待』を寄せることになるのではないかと、そのことの方を心配しています。民主党になれば、手品のように諸問題が解決するというほど、日本の財政危機や、日本を取り巻く世界情勢は、単純なものではないと思うからです。『美味しい話』だけを信じて民主党に投票した人が、事後に『自分にとって不都合なことや苦痛もあること』を知って、『話が違う』とブーイングの大合唱が巻き起こるのではないかと懸念しています。『ほれ、みなさい』とその時自民党の政治家が、得意げな顔をするのも眼に浮かびます。

民主党が、目の前の個々の難題にどのような政策で立ち向かうかは、勿論、梅爺にとっても関心事ですが、それよりも、今度の結果で『官僚主導の政治が、本当に国民主導に変るのか』『国家の運営を担える健全な二大政党体制が本当に根付くのか』に強い関心があります。この二つがうまくいけば、日本は、より高いレベルの民主主義国家へ成長できたといえるのではないかと期待しています。いずれにしても、能力がないにも関わらず、利権、権力、名声などを求めて政治家になる人たちが減らない限り、そして、そういう人たちを許さない国民が増えない限り、二つとも進展はしそうにありません。

現在のように、『大勝、大敗』が顕著になる『小選挙区制』は、好ましくないという議論もありますが、『健全な二大政党政治』が根付いていれば、政権を担う政党にとっては、『黒白(こくびゃく)が鮮明』な方が、『ハッキリ自己主張ができる』という、利点もあるように思います。『単純な黒白(こくびゃく)で区別する』ことは、危険でもありますが『分かりやすい』という利点もあるという話です。もともと、自民党が『長期政権を維持』するために、導入した『小選挙区制』が、今度は自民党に牙をむいたという皮肉な話に見えます。

選挙の大勢がほぼ決した時点で、民主党の鳩山代表が、30分のテレビインタビューにこたえるのを梅爺は観て、党首として国民が、麻生さんより鳩山さんを選択するのは、当然かなと感じました。人相がどうしたとか、声の質がどうしたとかいう好き嫌いの話ではなく、総合的な知性や洞察力で、鳩山さんの方が大分勝っているというのが、梅爺の評価です。確かに、鳩山さんには、もっと柔和な表情はできないのか、温かみののこもった話し方はできないのかと、梅爺も注文をつけたくなりますが、それはまあ差し置いての話です。このインタビューを観た外国の人は、『ようやく日本にもまともで、外国にとっては少々手ごわい政治家が出現した』と感じたのではないでしょうか。

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2009年9月 2日 (水)

人の心、動物の心(4)

人の中にある『善良な心』と『邪悪な心』は、人間が未だ高等動物へ進化していない時代には、存在していなかった概念で、行為を行う時の、別の区分を強いて挙げるとすれば、種の存続のためにそれが『有利』か『不利』かの区分だけが存在していたのではないかという『仮説』を、昨日書きました。

勿論、その時には、行為を行っている本人は、『有利』か『不利』かなどは、知る術もありませんから、あらゆる行為が試行錯誤的に行われ、結果として『有利』な行為を行った『個』や『グループ』が生き残り、その行為を行うことを特徴とする『遺伝子』を、子孫に伝えてきたという考えです。

その後、高度に進化した人間は、行為や考えに、『善良なもの』と『邪悪なもの』があるという『概念(区分)』を論理思考で導き出したのではないかと推測します。自分の中に『善良な心』と『邪悪な心』が、何故存在するのかは、人間にとっては説明がつかない『不可思議なこと』でしたが、『善良な心』を優先したほうが、『個』も『社会』も安泰が保てる可能性が高いことを、経験則で感じ取り、『善良であるべきだ』という『教え』が、親から子へ、そして、時には『宗教』の『教え』として、受け継いできたのではないでしょうか。その結果、更に推測は進み、天地創造の直後から、この世は『正邪の争いの場』であり、『正』の化身は『神』、『邪』の化身は『悪魔』という考え方が、多くの人たちに、今でも受け容れているように見えます。

現代人は、小さい時から『善良であるべきだ』、『邪悪な心に屈するのは弱い人間だ』と繰り返し教えられてきていますので、それは『理』として『当然のこと』と受け止めていますが、時として、『情』が優先するような判断や行為の中で、『邪悪な心』が自分の中にあって、自分を支配しそうなことがあることを知り、『悩む』ことになります。

中には、自分の中にある『邪悪な心』などは、認めようとしない人もいますが、多くの人はそれを認めた上で、それをなんとか抑制したいと願って生きていることになります。そして、そのような場合、最も頼りになるのが『宗教』であることも体験として知っています。

このブログを読まれた方が、誤解をされないように、あえて申し上げれば、梅爺は人間の中に『善良な心』と『邪悪な心』という区分があることは『意味が無い』などとは少しも考えていません。むしろ、非常に重要な概念であると考えています。そして、梅爺自身、正邪を分ける塀の上を、何とか邪の方に落ちないように、危なっかしく、よろよろ歩いているように感じています。

ただ、今まで梅爺に、『何故、二つの矛盾する心が自分の中にあるのか』の理由を、『理』で納得できるように説明してくださった方は、残念ながらおられませんでした。そこで、意を決して、その『理由』に関する『仮説』を自分で考えてみただけのことです。

生物は、その進化のレベルに応じて『心』を持っていて、人間の『心』はその進化の影響をうけてはいるものの、更に高度に進化したものに到達している、というのが梅爺の推測です。

ご批判は覚悟していますし、喜んで拝聴したいと思っています。

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2009年9月 1日 (火)

人の心、動物の心(3)

我が家の犬は、かたい骨も噛み砕く歯を持ちながら、梅爺に『噛(か)みつく』ようなことはありません。子犬の頃から、愛情込めて育ててきたので、犬も愛情を理解し、『善悪を区別し』、飼い主に接しているのだろうと、梅爺は『自分の価値観』で、考えたくなります。犬は、人間の愛情を感じ取る優しい動物だとも感じ、一層愛(いと)おしくなります。

しかし、本当にそうなのでしょうか。我が家の犬には、誰も『道徳教育』などをほどこしたり、『ありがたい説教』を聴かせたりしていないのに、何故『やっても良いこと』と『やってはいけないこと』を、自然に判別できる能力を持っているのでしょう。

このことには、何故人間には『善良な心』と『邪悪な心』が混在していて、多くの場合『善良な心』に従うことの方が『正しいと感ずる』のかを知るヒントが隠されているのではないでしょうか。

前に梅爺は、宇宙や地球の歴史、生物進化の歴史は、『自律分散処理』という、冷厳なルールだけに支配されてきたのではないかという『仮説』をブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5cb4.html

『自律分散処理』は、その時々の環境条件で、システムが『新しい平衡状態』に、動的に遷移していくだけで、ルール自体は『善良』『邪悪』などという人間が考え出した『抽象概念』とは無関係なものです。したがって『理不尽』とか『悲しい』とかいう価値観や情感とも無関係です。自然がもたらす天災や恵みも、こう考えれば納得いくような気がします。自然を観て、人間は感動したりしますが、自然は、人間の存在に感動などしていません。

もし、梅爺の『仮説』が『正しい』とすれば、数十億年前に、地球上に『生物』が誕生した時には、『生物』は、生き残りのために『有利な選択』を試行錯誤で繰り返しただけで、その世界には、現在の人間にとっては大切な『善悪』の概念や判断などは、存在していなかったという推測になります。

犬が、従順で善良に見えるのは、犬にとって、『そう振舞うことが生きるために有利』と本能で感じ取っているだけではないでしょうか。人間も含め、高度に進化した動物は、皆同じ本能を潜在的に持っているとすると、人間がやがて『善いこと(行為)』と感じたことは、元々は、『その方が、種として生き残るために有利』なことを本能的に嗅ぎ分けた結果ではないかと思います。『殺すなかれ』『盗むなかれ』は、自分が殺されたくない、盗まれたくないと考える能力をもった人間なら、自然に生み出せるルールなのではないでしょうか。つまり、そのルールに従うほうが、自分もグループも生き残る確率は高いと言う本能的な選択なのではないかと思われます。

宗教は、『善良な心』は、宗教が言い出したことで、これを獲得、維持するには宗教が必要と説きますが、仮に宗教が無くても、人間は『生き残りに有利なことを判断する能力』を本能で持っており、人間のグループが生き残るためには、現在『善良な心』と呼ばれている判断基準を見出せた、と梅爺は感じています。

試行錯誤で進化してきた人間には、生き残りのためなら『何でもする』という生物種としての資質は今でも保有し続けており、その中には、現在では『邪悪な心』に起因すると考えられる行為も当然含まれていると考えられます。生物にとっては、『生き残りに必要な行為』はありますが、『良い行為』『悪い行為』という区別は存在しないからです。

善悪の概念は、人間が考え出したものであり、人間や人間社会に適用した時にのみ重要な意味を持ちますが、自然界は、そのような概念を必要としていないように梅爺には見えます。『自然を守ることは善いこと』という主張は、人間には都合が良いという意味の『片思い』で、自然は、そのような価値観とは無関係に、変転を繰り返しています。

少なくとも、そう考えると、多くのことに納得がいきます。

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