人の心、動物の心(1)
『動物にも、人の様な心があるのだろうか』という議論を耳にすることがあります。梅爺のような理屈っぽい人間は、先ず『心』の定義を明らかにしてもらわないと、闇雲にこのような議論には乗れません。
脳に関する本を色々読んでみて、『脳の総合的な働き全体が示す現象』というような定義が、『心』の定義としては、無難なところではないかと考えるようになりました。脳は身体の一部ですから、脳あっての『心』であり、『心』や『魂』や『霊』が、身体とは別に存在するという説には疑念を抱いています。
梅爺流に拡大解釈すると、脳の総合的な働きは、『意識(随意』『無意識(不随意)』、『理』『情』が、複雑に絡み合う状態が醸し出す現象ということになります。
『情』は、本来生物としての生き残りに必要な、本能的な機能で基本的には構成されていて、『無意識』に支配されることが多いように感じます。『悲しい』『寂しい』『楽しい』『腹立たしい』は、現象が起きた後で、その理由は何であるかを『理』で確認することはできたとしても、本来『なぜか悲しい』『なぜか寂しい』『なぜか楽しい』『なぜか腹立たしい』というような、不意に襲ってくる感覚が先行しますので、脳の中の、『情』でかつ『無意識』な部分が、先ず反応しているように思われます。
『ひとりぼっちは寂しい』という感覚は、人間の先祖が、本能的に一人でいると身に危険が迫ることを感じ、仲間の群れに戻るようにという『危険信号』として、進化の過程で獲得したものではないかと思います。人間なら誰でも感ずる共通の感覚ですが、本来は『本能』であったものが、『情』に組み込まれたのではないかと推察されます。したがって『理』で、『頑張って寂しさを克服しなさい』などと諭しても、寂しさが解消するようなわけにはいきません。人間は、どちらかと言えば『理』より『情』に強く支配されるようにできているのではないかと思われます。
独り暮らしの老人が、ペットを飼ったり、テレビに向かって話しかけたり、亡くなった人の遺影に向かって話しかけたりするのは、『寂しさを紛らわせようとしている』ことには違いがないのですが、大昔の本能の話しに戻れば、『仲間の群れに戻る行為』に代わるものとして、『誰かと一緒にいる』という感覚を無意識に欲していることの表れではないかと思います。人間は、基本的には、群れをなさないと生きていけないようにできています。
梅爺の長兄のQ翁は、妻を亡くし独り暮らしになり、『言いようの無い寂寥感で、何もする気がなくなった』と語っていました。『情』に厚い人ほど、この感覚は強いのでしょう。Q翁は、その後、プロテスタントの教会に通い、信仰の仲間を得、『自分の中に、神や亡くなった妻が存在している』という実感を得て、むしろ『感謝の日々を送る』ようになりました。Q翁は独り暮らしでありながら、精神生活では、『独り暮らし』ではないという心境を得たことになります。
人間にとって、いかに『信仰』が強い力を発揮するかが分かります。医者の助言や、薬だけでは、このようなことは起こらないからです。しかし、Q翁が『自分の中に神や、亡くなった妻が存在している』と考えるようになったのは、『情』だけでなく『理』も大きな役割を果たしているように梅爺は感じています。自分で自分を納得させる行為は、『理』の典型的な機能であるからです。もっとも、Q翁からは、『そんな、小賢しい、単純な話ではない』と、叱られそうな気もします。
人間の『心』は、脳の総合機能を駆使した精神活動であることが分かります。もし、これと同じことが動物の脳の中でも起きているのであれば、動物にも『心』がある、ということになりますが、果たしてどうなのでしょうか。
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