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2009年8月31日 (月)

人の心、動物の心(2)

動物全般にわたり、心があるかどうかを論ずる知識を梅爺は持ちませんが、我が家の飼い犬を観察すると、犬は明らかに『情』を持っているように見えます。嬉しさはしっぽをふって表現しますし、怒れば、うなり声で威嚇します。基本的には、人の本能的な『情』の表現と異なることはありません。

問題は、犬にも『理』が働いているかということになりますが、これは『理』の範囲をどのように定義するかで、異なった答になります。我が家の犬は、家の中ではなく、庭で飼われていますが、梅爺が2階のベランダでタバコを吸っていると、姿は見えなくても臭いで、梅爺の存在を感知し、『クンクン』と甘えた鳴き声で応えます。『タバコの香り』『梅爺の存在』を論理的に結びつけているわけですから、少なくとも『簡単な論理判断』はできていることになります。今は、耳が遠くなってしまいましたが、昔は、我が家の車のエンジン音で、飼い主が出かけたり帰宅したりすることも、理解して反応していました。

我が家の犬は、知らない人には吼えますが、一度見知った人には吼えません。昔一緒に暮らしていた、梅爺の息子も娘も、今は家を離れていますが、時折帰省した時でも、犬は覚えていて、しっぽをふって嬉しそうにしますから、『記憶を利用した判断』はできていることになります。息子は外国暮らしですので、帰省は何年ぶりというようなこともありますが、忘れることはありません。これは、『理』に属する行為です。

人間は、目が見えなくなったり、耳が遠くなったりすれば、失望したり悩んだりします。つまり『変化』がもたらすであろうことを、色々と『推測』して、多くの場合心に悩みを抱えます。『こうなったらどうしよう』『ああなったら大変だ』『あのことが今までとおりにはできなくなってしまう』と、『仮想状況』を推測することが、悩みを生み出すことになります。高度な『推論処理能力』を持っている故に人間は『悩む』と言えます。

少なくとも、我が家の犬は、耳が遠くなったことを、『悩んでいる』ようには見えません。『高度な推論処理機能』をもたないためか、高僧のように『煩悩』を脱却した境地にあるのかは、犬に訊くわけにもいきませんので、分かりませんが、多分前者なのでしょう。

高度な『推論処理』は、持たないにしても、犬は簡単な『論理処理』『記憶参照処理』はもっているとすれば、人の『理』とは同程度でないにしても『理』は働いていると考えることができます。

『情』と『理』の絡み合いが『心』であるとすれば、犬にも犬なりの『心』があるという結論になりそうです。犬も、不安には怯え、それが原因でノイローゼにもなりますが、少なくとも、人間のように『変化がもたらすであろう先のことを推察』して、悩んでいるようには見えません。犬にとっては、わけもわからない『現在の不安』がノイローゼの原因です。勿論、自分の中に『邪悪な心』があるなどと、悩んでいるようにも見えません。

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