トマスによる福音書(8)
キリスト教の『教義』は、後にローマン・カトリック中心に確立された『正統』と、これに反するとして排除された『異端』とに分かれます。現在私達が接するキリスト教の『教義』の根幹は、信者が教会で唱える『使徒信条』の短い文章の中に集約されています。『正統』が確立したのは、4~8世紀にかけてであり、それ以前のキリストの死から400年の間は、各地に『色々な教義のキリスト教』が並存していたと考えるのが自然です。『使徒信条』も原型ができたのは2世紀の半ばで、現在の形になったのは中世以降ということになります。
キリスト教にあまり詳しくない方のために、現在、日本基督教団(プロテスタント)で採用されている『使徒信条』を以下に紹介します。カッコ内は、中世の『使徒信条』には無かったもので、後に追加された表現です。
我は(天地の造り主)全能の父なる神を信ず。我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は精霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに(苦しみを受け)十字架につけられ、(死にて)葬られ、(陰府にくだり)三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、(全能の)父(なる神)の右に座したまえり、かしこより来たりて、生けるものと死ぬるものを審きたまわん。我は聖書を信ず、聖なる(公同の)教会、(使徒の交わり)、罪の赦し、身体のよみがえり、(永遠の生命)を信ず。アーメン
見事に、短い文章で、キリストの生涯とその意義を表現していますが、梅爺にとって興味深いのは、これらは『できごと』とその意義を著述したもので、肝心なキリストの『教え(言葉)』が含まれていないように見えることです。後に『異端』とされた『グノーシス派』のように、『できごと』には興味を示さず、『教え(言葉)』だけに意味を見出そうとしたグループがいたとしても不思議ではないように思います。
『できごと』に重きをおくと、『それは本当の話か?』という疑念が生じますので、教会は『信じなさい』という言葉で疑念を封印することになります。疑念を抱くこと自体が『信仰が薄い』証拠とされかねません。
一方、『教え(言葉)』に重きをおくと、『教え』の本質を『認知する(理性で得心する)』ことが重要になります。『認知』の程度は様々でも、それぞれに人は自分の理解で得心します。『グノーシス』はギリシャ語の『認知する』から出た言葉ですから、このグループが『グノーシス派』と呼ばれるのはそのためです。
『信ずる』ことも『認知する』ことも、人間の高度な脳の精神活動で、どちらが重要かを論ずることは意味がありません。信じながら疑いたくなる、疑いながら信じたくなる、という具合に人間は、そもそもできているからです。
キリストは、神の子ゆえに、神の言葉を代弁できたのか、神の言葉を代弁できる才能を持っていたが故に、後に神の子とされたのか、梅爺にはわかりません。しかし、神と人間との関係を深く考えさせ、人間はどう生きるべきかを述べた『教え(言葉)』に本質があるように、梅爺は感じます。
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