トマスによる福音書(3)
この本の著者、荒井献(あらいささぐ:東京大学名誉教授)氏は、ドイツに留学して神学博士号を取得された、聖書学に関する世界的権威で、特に『グノーシス派』に造詣が深いことを知りました。多分、ギリシャ語、コプト語、アラミック語、ヘブライ語等にも精通しておられるのでしょう。どのような分野にも『世界的権威』を排出する、日本人の素晴らしさを誇らしく感じました。ご自身が、クリスチャンであられるのかどうかは、分かりませんが、客観的な記述内容に感銘を受けました。『イエス・キリスト』『グノーシス派(主義)』に関する沢山の著作がありますので、詳しく知りたい方が読むには、最適なガイドであろうと思います。お陰で、梅爺は『グノーシス派』について、多くの知識が得られました。
『グノーシス派』の発祥の地は、現在のシリア(そこに住んでいたユダヤ人主体)であろうと考えられています。『知性・理性でものごとを認識(知覚)する』ことを重視したグループで、このグループの考え方と『イエスの教え』が合体して、『キリスト教グノーシス派』が誕生したのではないかと、梅爺は昨日書きました。既に保有していた自分達の『基本的な考え方』に『イエスの言葉』を当てはめたと感じるからです。多分、ギリシャ哲学の影響が基本にあったのであろうと推察できます。したがって、現在のキリスト教の視点とは、かなり異なった認識が前提になっています。『共観福音書』の中では、『ヨハネ伝』が、もっとも近い考え方のように感じます。前に、『ヨハネ伝』の最初の部分についてブログに書きましたが、『ヨハネ伝』は際立って、哲学的(形而上学的)で、難解な表現であることに気付きます。
http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_8650.html
『トマスによる福音書』における、『父』『子(イエス)』『子ら(人間)』『母』『光』『魂』『神』『天地』『肉体』『単独者』の認識は、極めて難解です。荒井氏は、これらの関係を、以下のように『要約(推定)』しておられます。
はじめに『父』と『母』と『子』があった。人間は『子ら』として『父』(と『子』)の本質『光』を、あるいは『母』の本質『魂』を保有しているが、『神』(創造神)によって『天地』と『肉体』の中で支配されている。『子』なるイエスの啓示によってその本質を認識し、『単独者』となれば、終局において始源に復するであろう。
ちょっと読んだだけでは、何を言っているのか分かりずらいのですが、梅爺流に、思い切った言い方をしてしまえば、『人間(子ら)は、イエスの中にある本質(光と魂の一体化)を認識した時に、単独者(仏教の悟りの境地にような状態)になり、イエス(子)と同じ存在になることができる』ということになります。煩悩を脱却して、仏になるという仏教の考え方に近いように感じます。人間が神になれる『可能性』を示していることは、現在のキリスト教と決定的に違います。
創造神のほかに、『父』『母』『子(イエス)』を神と同格の存在としてとらえているところは、純粋な『一神教』ではないように思えます。天地や肉体を介して人間を支配している創造神に、大きな重きをおかず、『イエスの境地に達すること(つまり、父と母のようになること)』を、最重要視しているところが、注目に値します。
自然の摂理(天地や肉体)の支配は、宿命であるけれども、人間としては、『邪悪』を排して、『善良』な存在になるべきだ、と読み取れば、現代人の梅爺にも異論のない『考え方』のように思えます。
『グノーシス派』を過大評価するつもりはありませんが、約2000年前に、このような『洞察』をしていた人たちの存在には、驚きます。
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