他者の視線(5)
仏像は、『自分を理解してくれる他者の視線』を求めている人の心理を、巧みに利用しているとも言えます。全体として人間に似た姿であると同時に、中でも『視線』を感じさせる『眼』が大きな役割を演じていることが分かります。日本の仏教文化の中で生み出された『円空仏』について、前にブログに書きました。
http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_6f16.html
番組の中で、宗教学者の山折氏は、仏像の大半の『眼』が、『半眼』に作られていることの重要性を指摘されました。『半眼』は、見えるもの、見えないもの、この世、あの世など、全てを見通している印象を心理的に与えるというのです。番組で紹介された宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀仏も『半眼』でした。
そういわれてみると、時代劇で、強い剣士は、切り結ぶ前に、『半眼』で相手を見据える表情をよくします。『お前の身体の動き、心の動きを全て見通しているぞ』と相手を威嚇している時に用いる表情です。『半眼』の仏像に接した人は、苦しみや悲しみも含め、自分の全てを理解していただけたと感じて、救われた心境になれるのでしょう。自分の周囲の理解者を全て失ってしまった、または、周囲には沢山の人がいるけれども、自分を理解してくれる人は一人もいない、と感じている人にとって、『仏像の半眼』は、かけがえの無い『他者の視線』の代替物になるにちがいありません。多くの宗教が、『神や仏の視線』を説く事で、人々に心の安らぎを提供していることがわかります。
仏教の場合は、現代人のような『深層心理学』の知識を持ち合わせていない仏師が、経験則で『半眼』の効用を見出した、と言えますので見事というほかありません。
ヨーロッパの教会を訪ねると、どこから見ても、キリストが自分を見つめているように感ずる聖画によく出会います。不思議に思って、その『カラクリ』を尋ねたことがありますが、『あなたが、キリストに見てもらいたいと思っているので、そう見えるのです』という教会関係者の素っ気無い解答でした。『見てもらいたい』と思っているかどうかは別として、『こちらを見ているかもしれない』と思って見ると、『こちらを見ているように見える』という、心理を利用していることは確かなようです。勿論、画家の計算し尽くしたテクニックもあるのでしょう。
平等院の創建当時の色彩を、コンピュータグラフィックで堪能すると同時に、『半眼』の意味まで知ることができました。
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