トマスによる福音書(1)
梅爺の周囲を見てみると、『宗教』を生きる心の支えとして、純真な『信仰』をもたれている方と、『宗教』は、なにやら自分の理解を超えた世界で、真剣には考えたくない、近寄りたくはないと思っておられる方がおられます。
梅爺は、自分を冷静に眺めてみると、そのどちらでもなく、極めて中途半端であることがわかります。つまり、『宗教』には多大な興味を抱きながら、『信仰』を持つほどにいたっていません。
『信仰』をお持ちの方からは、顰蹙(ひんしゅく)を買いそうですが、人類の歴史の中の『思想活動』の一つとして、『宗教』は、梅爺には興味深いものです。人類は、最初に、自分をとりまく自然の中に存在し、自分を支配しているように見える『理解を超えたなにものか』を感じ取り、これを『神(または仏や霊)』という『抽象概念』で呼び、仲間内の共通知識としたものと推定しています。
この原始的な段階では、後の宗教が思想体系として創り上げた『教義』などは存在していませんので、『信仰』も原始的であり、ただ、『自分達に恵みをもたらして欲しい、自分達に危害を与えないで欲しい』と願い、祈り、恐れる(畏れる)ものであったにちがいありません。願い事(良いことが起こるように、悪いことが起きないように)のために儀式をする、神にお供えをする、などという行為は、今でも多くの『宗教』に共通しています。日本には、『神様にじっとしていてほしい、祟(たた)らないでほしい』という、『鎮(しず)める』という考え方があります。
やがて、権力者が、人々を支配するために『神』を利用しはじめ、『宗教』は、ややこしい存在になります。エジプト、インカ、マヤなどの王は、『自分が神から遣わされた存在』であることを強調し、地位を権威付けようとしました。しかし、この王達も、勝手に神を『デッチあげ』て利用したのではなく、自らも神の存在を信じていました。
さらに、人類は、権力とは無関係に、『理性・知性』で、この『神』の問題をとらえ、納得したいと考えるようになりました。『理性・知性』でものごとを考えようとするのは『哲学』の始まりですが、この『哲学的な思考』と『神の存在』が、結びついて、現在の『宗教』の基礎ができたものと、梅爺は考えています。キリスト教は、ヘレニズム『哲学』の影響を強く受けているのではないでしょうか。
初期キリスト教の『グノーシス派』が残したと考えられている『トマスによる福音書』を解説した本(荒井献著:講談社学術文庫)を読んで、梅爺は、上記のような『宗教成立のプロセス』のとらえ方は、間違い無さそうだと一層強く思うようになりました。
『宗教』を論ずる時には、その宗教が、何時の時点の考え方を対象にしているのかを明確にしないと、話が混乱します。自然界に存在する私達を支配する力の大半は、既に『科学』によって解明されていますので、現代人は、古代人のように『太陽』や『月』が『神の化身』とは考えなくなりましたが、それでも哲学的思考で教義が作り出された『宗教』の『神』を、今でも多くの方々が『信仰』の対象にしています。原始宗教ではなく、人間の『知性・理性』が作り出した『宗教』が、現在でも人間や人間社会に影響を与え続けていると言えます。
現在のような科学知識がなかった時代に、高い『知性・理性』や『論理的な洞察力』を保有していた人たちが、『何をどのように考えたのか』ということに、梅爺には強く興味を惹かれます。理屈人間である梅爺と、時代は異なっても、体質的に共通するものを感ずるからなのでしょう。
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