トマスによる福音書(5)
『トマスによる福音書』の最初に、『これは、生けるイエスが語った、隠された言葉である』と書いてあります。『生ける』『隠された』に、特別な意味がありそうです。
『グノーシス派』は、イエスの『言葉』にこだわり、後の(現在の)キリスト教のように、イエスの生涯に関する『できごと』を重要な『教義』の中心にすることをしていません。生誕、行った奇跡、十字架の死などにこだわらないのは何故なのかと考えてみました。
昨日書いた、『グノーシス派』の考え方を前提にすれば、イエス(子)は、『真』と『善良な心』の純粋な体現者(単独者)であるのに対して、人間(子ら)は、『真』と『偽』、『善良な心』と『邪悪な心』をあわせ持つ存在である以外は、違いがないことになります。イエスは人間でありながら、非常に特殊な存在であるということになります。
つまり、イエスと言えども『創造神(自然の摂理)』に支配される『身体』をもった外見は『人』ですので、その『生誕』や『死』は、特別なことではないと考えていたとすれば、『できごと』に関心を示さないのは、当然のように思えます。『グノーシス派』には、イエスが『全ての人間の罪を一身に背負って、身代わりに死んでくださった』などという、考え方はないからです。
『グノーシス派』のイエス(単独者)は、仏教における『仏』と極めてちかい考え方に見えてきます。人間が、煩悩(偽や邪悪な心)を解脱して仏に近づくことが、仏教の基本的な教えですから、きわめて類似しています。
人は、単独者を目指すべき、という教えと、仏を目指すべきという教えは、ほぼ同じです。人間も、究極には、『単独者』『仏』になれる、可能性を示して、無限の努力を要求しています。
キリスト教(現在の)では、『神』と『人間』は、別の概念であり、『人間』は神に近い『聖人』にはなれても、『神』には絶対なれませんが、『グノーシス派』では、『単独者(仏教の場合は仏)』になれる『可能性を是認』していることになります。
『グノーシス派』が、『隠れた言葉』と言っているのは、仏教の『奥義(おうぎ)』と同様、ある特別な人たち(つまり『グノーシス派』の人たち)でないと、イエスの言葉は理解できないと言う、自負心(差別心)が、根底に働いているのではないでしょうか。自分は、『特別な存在』であると、考えるのは、人間の習性であると思えば、肯けます。
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