他者の視線(4)
『人間は他者の視線無しでは生きていけない』ということは、『孤独』は死以上の苦しみであるということに他なりません。自分の存在は、他者との相対関係で成り立っているので、他者を『思いやらない』ことは、自分を『ないがしろにする』ことに等しいということになります。ロビンソン・クルーソーも、孤島でフライディと出合って、孤独から解放されます。
しかし、自分の存在を認めてくれる家族や友人を全て失ってしまうという過酷なできごとは、誰の身にも起きないとは言えません。そのような絶望的な状況で、『自分を優しく見守ってくれる神や仏の視線』を『感じる』ことができれば、どれほど『救われ、心休まり、生きることへの感謝の念が蘇る』かは、梅爺のような屁理屈爺さんにも、理解できます。四国のお遍路さんが『同行二人(どうぎょうににん)』を掲げ、いつもお大師様と一緒で、独りではないと『感ずる』心境がこれに当たります。
世の中には、『他者の視線』の重要さを理解せず、自ら周囲との関係を拒否し、一切他人を信用せずに、自分しか見えない世界に閉じこもってしまう人がいます。このような人たちの行き着く先は『凶悪な犯罪』であったり『自殺』であったりしがちです。このような人たちが増える社会は、良い社会とは言えません。人は、どのようにしたら『他者の視線』の重要さを理解できるようになるのかを、真剣に考える必要があるのではないでしょうか。
禅宗では、外界との交渉を一切断ち切って、『自分の内面だけを見つめる』厳しい修行をします。自らに『孤独』を課す苦しい修行ですが、その結果、逆説的に見えますが『自分は孤独ではない』ということを『悟る』のではないでしょうか。自分は『仏の慈悲の中で生かされている』ということを『悟る』ために、自分を『孤独』の極致にまで追い詰めてみる、という手段を採用していることに、宗教の本質が垣間見えるような気がします。キリスト教の修道僧なども同じと言えます。
『人間は他者の視線なしには生きていけない』という山折氏のご指摘は、特に宗教と絡めて理解する必要はないと思いますが、そのことを端的に理解させる方法として宗教が存在するとは言えそうです。














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