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2009年5月31日 (日)

裏切り者ユダ(5)

『The Secrets of Judas(ユダの秘密)』という本の中に紹介されている『グノーシス派』の『旧約聖書アダムとイヴの話の解釈』を読んで、梅爺は、『グノーシス派』の人たちに、『親近感』を覚えました。『グノーシス派』は、2世紀頃のエジプト、中東、ヨーロッパに存在していたと考えられる、キリスト教の一宗派で、後にローマン・カトリックから『異端』として徹底迫害を受け、ほぼ消滅してしまいました。『グノーシス』というのは、ギリシャ語の『識(し)る』という意味に由来するものですから、現在の言葉で表現すれば、『理性、知性を重んずる』という人たちです。つまり、2000年近く前に、梅爺と同じように、神に関して『理屈をこねていた』人たちがいたということを知って、梅爺は、『よう兄弟、お互い苦労するね』と、労(ねぎら)いの言葉をかけたくなりました。

理性、知性で神に迫る行為は、『異端』『冒涜』として、その後キリスト教の歴史の中では、排斥し続けられました。ガリレオが宗教裁判で『有罪』になったのは、理性に導かれた事実が、教義に反するというだけの理由でした。現在でも、『宗教は理屈や論理ではない』という主張が大勢を占めていますし、ダーウィンの『生物進化論』は『信じない』と主張する宗教関係者は沢山おられます。

梅爺は、何度もブログに書いてきたように、『宗教は、現在の科学では解明できていない、人間にとって非常に重要な要素を秘めている。それは、善良、柔和、心の安らぎなどをもたらしてくれることに関連している』と考えています。しかし、そうであるが故に、『宗教は、論理や科学の対象ではない』と決め付ける必要はないとも考えています。『何故、人間の脳は、善良、柔和、心の安らぎを希求するのか、そしてそれは何故、神や仏という概念と関係してもたらされることが多いのか』という疑問を解明しようとする行為は、『冒涜』であろうはずがなく、それらの意義を『否定』することにもならないと思うからです。

旧約聖書には、『神はアダムとイヴを創り、エデンの園(パラダイス)に住まわせたが、林檎の実は、神のような知性を人間が得ることになるので、食べてはいけないと禁じた。しかし、小賢しい悪魔の蛇にそそのかされて、イヴは林檎を食べ、アダムにも食べさせた。途端に2人は裸であることを恥じ、イチジクの木の葉を身にまとった』というようなことが書かれています。

現代人がこれを読めば、疑問だらけで、にわかには受け容れがたい話ですが、2000年前の『グノーシス派』の人たちも、当時の『理性、知性』でこの話に疑問を感じたことが分かります。彼らの疑問は、『何故神は、人間が神に近い存在になることを妬(ねた)んだのか(人間を愛するはずの神が何故人間を妬むのか)』『2人が林檎を食べることを、何故神は予測できなかったのか(神は全能ではないのか)』などです。結局、彼らが理性で到達した結論は、旧約聖書に書かれてる『神』は、『本当の神』ではない、『本当の天国』は『エデンの園』ではない、そして『本当の神』はどこか違う『本当の天国』に存在するということでした。旧約聖書の記述が『真』ならば、そこに書かれている神は『偽』であるという、ややこしい論理です。しかし、彼らは『旧約聖書』全体が『偽』であるという論理には飛躍せずに、『どこかに本当の神がいる』という論理を採用していることが分かります。

梅爺も顔負けの『論理思考(理屈)』です。しかし、この『理屈集団』は、弾圧されることになりました。梅爺には、我がことのように悲しい話です。

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2009年5月30日 (土)

裏切り者ユダ(4)

パウロは、ユダヤ教との決別を決断し、厳格なユダヤ教の習慣や規律を信者に強いない宗旨に変えて、外国人にも受け容れやすいものにキリスト教を変貌させていきます。当然、エルサレム中心に布教をしていた、キリストと直接縁のあった人たちは、これは、面白くない話で、受け容れがたいものですから、代表をパウロのもとに送って、『反対の意』を表明しますが、パウロはこれを拒絶します。エルサレム中心の『Jewish Christian Church』は、自分が『本家』だとの自負はあったものの、布教実績では、パウロの率いる『Gentile Christian Church』に、圧倒的な差をつけられ、徐々に、『本家』の威光を失っていったものと想像されます。ギリシャ語をベースに洗練された教養をもつ『Gentile Christian Church』の人たちの中には、アラミック語を話す『Jewish Christian Church』の人たちを、粗野で無教養であると、蔑みの感情をもって見ていたのではないかと、梅爺は想像しています。または、キリストの直弟子(12使徒)より、パウロの権威の方を高く維持する必要があったとも考えられます。エルサレム側で、唯一ギリシャ語で対抗できるのは、マグダラのマリアだけだったのかもしれません。ペテロは、その後、エルサレム中心のグループを離れ、パウロのグループに加わって、ローマで殉教したと伝えられています。このペテロの行動(昔の仲間と離反した)は、梅爺には謎で、よく理解できていません。

新約聖書の4大福音書は、1世紀の後半以降に書かれたものと推測されていて、書かれた順序は、『マルコ伝』『マタイ伝』『ルカ伝』『ヨハネ伝』の順序であったと考えられています。『The Secrets of Judas』という本を読んで、『マルコ伝』『ルカ伝』『ヨハネ伝』は、『Gentile Christian Church』寄りであり、『マタイ伝』は、『Jewish Christian Church』寄りであることが分かりました。もしそうなら、パウロと近い時代に書かれた可能性のある『マルコ伝』『ルカ伝』には、パウロの意向が混入していると見るべきでしょう。この本には、『マルコ伝』『ルカ伝』では、ユダは勿論のことペテロも、読者に好印象を与えないような記述になっているのに対して、『マタイ伝』では、ペテロやユダでさえも『同情的』な記述になっていることが、英語の聖書を引用して、紹介されています。特に、『マタイ伝』で、ユダがキリストのことを、『ラビ(Rabbi):ユダヤ教の賢者の呼び名』と呼んでいることに注目しています。これは、あきらかに、『Jewish Christian Church』が、ユダヤ教の習慣や規律を重んじているためで、『Gentile Christian Church』では、キリストの呼称は、ギリシャ語から翻訳された『主(Lord)』に統一されています。

4世紀に『新約聖書』が編纂された時に、多くの『異端宗派』の『キリスト伝』は採用されませんでした(『ユダによる福音書』もその一つ)が、『マタイ伝』だけが辛うじて採用されたことで、1世紀頃のキリスト教の活動が、必ずしも一色ではなかったことの痕跡を、私達は窺い知ることができます。

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2009年5月29日 (金)

裏切り者ユダ(3)

キリストの死後、キリスト教がどのように布教されたかを知るには、『Jewish Christian Church(ユダヤに住むユダヤ人キリスト教派)』と『Gentile Christian Church(外国に住むユダヤ人キリスト教派)』の、二つのグループの存在、そして対立について知る必要があります。

『Jewish Christian Church(ユダヤに住むユダヤ人キリスト教派)』は、エルサレムを中心に国内で布教活動をしたグループで、キリストの義弟ヤコブを中心に、キリストの直接の弟子達(ペテロなど)やマグダラのマリアなどが、これに加わり、布教にあたったものと考えられます。生前のキリストに接していた人たちですので、教えを『直接』に聞いているという点では、最もキリストの教えを忠実に踏襲していたと考えられますが、基本的には、伝統的な『ユダヤ教』の習慣や規則などにも忠実であったと考えられます。彼らは、新しい宗教を興そうという考えより、腐敗してしまっている『ユダヤ教』を改革するのだという、意気込みで活動したのではないでしょうか。仲間内で、使われていた言語はアラミック語で、ガリラヤ湖の漁師であったペテロなどは、純真であっても、当時は文盲であったのかもしれません。このグループには『福音書』が書ける『教養人』が残念ながらいなかったのではないかと、梅爺は想像しています。もし、キリスト自身または直接の弟子が、『福音書』を書いていたら、現在の福音書とは異なった内容であった可能性が高いと思われます。

一方、『Gentile Christian Church(外国に住むユダヤ人キリスト教派)』は、パウロを中心に布教活動をしたグループですが、生前のキリストと直接接したことがない人たちが中心でした。つまり、何らかの伝承をベースに、教義を作り上げていったことになります。言語は、当時の『国際公用語』に近いギリシャ語が中心で、書簡が残されているパウロでも分かるように、相当な『教養人』が加わっていたと想像されます。後にローマ帝国の国教になり、その後現在の国際的な宗教であるキリスト教に発展していったのは、このグループの活動がベースになっています。パウロは、ユダヤ教の、『神』はユダヤ民族だけのものという考えを捨て、割礼などのユダヤ教独特の習慣も排除して、『ユダヤ教ではない新しい宗教:キリスト教』を文字通り作り上げた人物といえます。キリストの教えを利用していますが、新しい宗教を興したのはパウロであったと梅爺は感じます。

結局、『キリストと接したことのある人たちのグループ』は、パウロが率いる『キリストと接したことがない人たちのグループ』には勝てずに、ユダヤ国内ではやがて廃れ、近隣のシリアやエジプトで『グノーシス派』として活路を開こうとしますが、4世紀以降、ローマン・カトリックによって、『異端』とされ、実質消滅してしまいます。軒を貸したら母屋をとられたというような話です。一方、パウロが率いるグループ(ペテロは、最後はこのグループに加わり、外国へまで布教に出かけている)は、世界宗教となるキリスト教へと発展していくことになります。キリストは、自分の死後、このような展開になることまでも、見通していたのでしょうか。

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2009年5月28日 (木)

裏切り者ユダ(2)

『ユダによる福音書』は、4世紀に、後にローマン・カトリックから『異端』と烙印を押された『グノーシス派』のキリスト教徒が、コプト語(エジプトなどで使われていた言葉)で書き残した文献で(2世紀には、ギリシャ語の原典があったのではないかと想像されています)、その存在は、ローマン・カトリックが『異端』を排除した時の歴史資料から推定されていましたが、現物が見付かったことで反響を呼びました。『異端の書』は、徹底的に焼かれてしまい、現存しないと考えられていたからです。

キリストの死後、少なくとも200年近く経ってから、書かれたものですから、勿論『イスカリオテのユダ』自身が書いたものではなく、『イスカリオテのユダ』を『正当化』する、または『正当化』したい立場の人が書いたものであることが分かります。

したがって、この発見をもって、『聖書(新約聖書)』に書かれている『イスカリオテのユダ』の著述は『間違い』であるということにはなりません。ただ、2~4世紀には、『イスカリオテのユダこそが、真の使徒である』と、『信じていた人たち』が、『存在していた』ということは確かなことと言えそうです。

何故『イスカリオテのユダこそが、真の使徒』なのかは、『理』で導かれる『論理』であって、そう考える人たちが存在したということは、屁理屈爺さんである梅爺にとっては、驚きではありません。『神の子イエス』が、『それと知らずに、不都合な人物(ユダ)を使徒に加えた』はずはなく、したがってユダには与えられた任務があり、神とキリストの『意図』を正しく理解していたからこそ、『キリストの十字架の死』に加担したのだという論理です。

『全ての人の罪を身代わりで一身に背負い、神の子が死ぬ』という、『神の意図』が実現されなければ、キリスト教の教義は成り立たなくなりますので、ユダは、それを理解し、あえて『非難される役目』を果たしたのだという考え方です。キリストは、生前何度も『自分は(旧約聖書の)予言とおりに、とらえられ、殺され、三日後に蘇る』と述べて(予言して)いますが(特にマルコ伝)、この言葉の真の意味を他の使徒たちは理解できなかったのに、ユダだけは理解していたということになります。

『イエス』の言動には、誤謬が無いという前提で導かれる『論理』で、探偵小説の最終章で、探偵が事件の真相を暴くような『一理ある』話ですが、あくまでも、後の人間が『理』を追い求め、作り上げた論理であるように感じます。これが『真相』であるかどうかは、誰にもわかりません。

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2009年5月27日 (水)

裏切り者ユダ(1)

3年ぐらい前だったと思いますが、『ユダによる福音書』が発見されて、欧米のキリスト教社会が騒然となったことがありました。アメリカの出版社『ナショナル・ジオグラフィック』が、大金をはたいて、出版権を独占し、巧妙な宣伝で、『世紀の大発見』と煽り立てましたので、関連書籍が飛ぶように売れました。あの裏切り者のユダの視点で書かれたキリスト伝であるとすれば、キリスト教に縁の無い人でも『真相暴露本』として興味が尽きないからでしょう。

当時、梅爺も、宣伝に乗せられて『The Secrets of Judas(ユダの秘密)』(James M. Robinson著)という、英文のノンフィクションを購入し、読みました。『ユダは裏切り者ではない』という説が、2世紀頃に存在したらしいというだけの感想でしたが、その後、イエスが存在した当時のユダヤの状況、初期のキリスト教布教などについて、ブログを書くことで、少しばかり、当時のことに関する理解が深まったように感じていましたので、もう一度この本を読み返して見たら、当時認識が浅く、読み落としていた何かを見つけることができるかもしれないと、読み返してみました。

当時のユダヤの状況や、最初の頃のキリスト教の布教に関しては、色々な本を読んで、梅爺が『こうであっただろう』と『推測』していることに過ぎませんから、『歴史的な事実として、そうであった』とは断言はできません。しかし、梅爺の頭の中では、『そう推測すれば、辻褄があうことが多い』と『感じる』ことができるものですので、個人的には自分の推測内容に納得しています。

この本を読み返してみて、梅爺の『推測』を、根本から覆す必要はないこと、というより、むしろ『推測』を更に裏づけすることをいくつか見出すことができました。歴史的な文献は、『それを書いた人が、どういう立場で、何の目的で書いたのか』を、推測して読まないと、理解できません。つまり、著述内容には、『何らかの作者の意図』が含まれているということです。『聖書』や発見された『ユダによる福音書』も例外ではないと、梅爺は考えています。

『ユダ』は『イスカリオテのユダ』、つまり、キリストの12使徒の一人で、『裏切り行為』で、キリストを十字架にかける直接の引き金をひいた人物と一般に考えられています。当時のユダヤには、『ユダ』はごくありふれた名前であり、聖書にも何人かの別の『ユダ』が登場します。

『ユダによる福音書』は、私たちの今までの『常識』とは、まったく逆に、『イスカリオテのユダ』こそが、キリストの使命を最も正しく『理解していた使徒』であるということを示唆している内容です。

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2009年5月26日 (火)

意識(2)

梅爺が読んだ『(新)脳の探検』という本には、『意識的思考』は、ほとんどが『言語』を基盤に行われると書いてありました。『言語』を基盤としない例外的な行為は、仮想の立体形を脳に思い浮かべたり、それを脳の中で回転させたりする場合くらいしかないとも書いてありました。『意識』は脳の独立した機能ではなく、『認識』『学習』『記憶』などが総動員された総合機能であろうと推測されますので、『言語』が、その基盤であるという『仮説』は、もっともな気がします。人間の脳では、『言語』をベースとする何らかの『記号』で、情報が分類され、記憶されていると考えられるからです。

もし、そうだとすると、『言語』を持たない、人間以外の動物や、生まれたばかりの人間の赤ん坊は、『意識をもたない』ということになります。人間の子供は、やがて『言語』を覚え、それと並行して色々な経験を積み、『意識』が段々に高度な発達を遂げるということにもなります。

私達が、日常の会話で使っている『意識』という言葉の概念からすると、そのように言われても、『ほんとうかなぁ。何かしっくりこないなぁ』と感じたりしますが、これは脳神経科学者の『意識』に関する定義に基づいた『仮説』ですから、自分の異なった『定義』で、反論してみても議論にはなりません。

『意識』と似たような言葉に『心』があります。『心ここにあらず』『心をこめる』『心ない行為』などと、日常頻繁に使い、分かっている気になっていますが、これも面と向かって『心とは何か』と問われると、即答に窮します。

脳に関する本では、『心』は、『脳全体の働き』であり、『意識』は、『言語系で処理された脳の一部の働き』と、区別して定義してありました。この定義を理解していないと、心理学者ジュリアン・ジェインズの『私たちの心は、しばしば意識が追いつけないほど速く働く』などという表現は、何を言っているのか分からないことになります。

とっさに危険を回避するなどという行為は、『意識』が先行しているとは思えませんので、こういうことを説明するために、上記のような表現をしたのだろうと、ようやく理解することができます。

日常の生活で、いちいち『定義』を確認しあっていたのでは、日が暮れてしまいますが、学問の世界では、『定義』を確認することが、議論に参加するための最低条件であることがわかります。したがって、『七面倒くさいことは嫌いだ』と言う人は、学者に向いていません。梅爺は、『特に嫌いではない』ので、頑張れば、学者になれたのかもしれませんが、今や遅きに失しています。

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2009年5月25日 (月)

意識(1)

普段私達が、何気なく使っている言葉に『意識』があります。『意識を失う』『意識不足』『意識改革』などと言われれば、どういう状況を表現しているのかは、大体想像がつきます。

しかし、それでも『意識とは何か』と、面と向かって問われると、説明に窮します。分かっているようで、分かっていないというのが抽象概念の難しいところです。『自分自身の精神活動や身体活動に気付いている状態』という定義で、概ね納得がいきますが、脳の神経科学者達は、これで十分な説明であるとは、必ずしも同意していません。何故なら、彼らにとって、『意識を担う脳のしくみ』は、まだ解明されていないからです。

したがって、ヒトの『意識』については、今でも論争が続いており、脳神経科学者のほかに、哲学者、神学者、それにコンピュータ科学者までが参加しています。コンピュータ科学者の興味の一つが『人工知能』であるからです。『鉄腕アトム』は、この問題が解明されない限り、実現できません。

梅爺流に、表現すれば、ヒトの精神活動や身体活動は、脳がその基本機能を担っており、その脳には、『随意』の部分と、『不随意』の部分があるということになります。これに関しては、何回もブログに書いてきました。この分類も抽象概念であって、実際の脳のどの部分がどのようにかかわっているのかは、脳神経科学者も、詳細には解明できていませんし、勿論梅爺は、到底解明できません。

ヒトは、生物進化の過程で、先ず『不随意』の脳の機能を獲得し、その後『随意』の機能が加わったと、時系列的には考えられます。しかし、『随意』の部分と『不随意』の部分が、お互いに独立して機能しているわけではないらしいことが、人間の行動を、分かりずらいものにしています。

『美を探究する』『神を信仰する』などは、人間ならではの高度な精神活動で、脳の『随意』の機能が引き金になっていますが、『感動する』『心が救われる』といった、『不随意』に関連する結果を求めての行動であるように思われます。

『感動』や『心の救い』は、ただ意図したからといって得られるものではなく、何故かわからないのに、突然何かのきっかけで『感動』したり、『心の救い』を感じたりするという不思議な現象です。

脳の機能は、元々生物としてのヒトが生きていくために必要なものとして付与されたものと思います。『感動』や『心の救い』といった、高度な精神活動と考えられるものも、元は、自分の身を守るための『怪しい、怖い』と感ずる本能であったり、『苦しい状態を回避しよう』という本能に由来しているのではないでしょうか。

原始的な『不随意』の本能機能を、『随意』の思考機能と組み合わせて、人間は、『芸術』や『宗教』を編み出せるほどの生物に進化してきたのではないかと、梅爺は推測しています。

何から何まで、生物進化論にこじつけて説明しようと言うのは、味気ない話で、梅爺の本意ではありません。ただ、このように考えると、自分では納得がいくことから、生物進化論を受け容れています。

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2009年5月24日 (日)

京の夢大阪の夢

江戸いろはカルタの『ん』、『京の夢大阪の夢』の話です。

2007年1月に、『梅爺閑話』を開始した記念すべき第一回目が『犬も歩けば棒にあたる』でしたから、最後の『ん』に到達するまでに、2年以上を費やしてしまいました。もっと早く『ん』に到達するだろうと予測していましたが、途中で、色々な『雑念』が湧いてきて、文字通り『梅爺も歩けば神にあたる』『梅爺も歩けば脳にあたる』と、脱線を繰り返した結果です。

『ん』で始まる言葉は、日本語にはありませんので、作者は苦肉の策で、東海道53次の、終点『京の三条大橋』をイメージしたのでしょう。自分達の『江戸』を起点(日本橋)としての洒落た発想です。

それにしても、『京の夢大阪の夢』で作者は何が言いたかったのでしょう。また江戸の庶民は、何を思い浮かべたのでしょう。

江戸にいても、夢ならば京であろうが、大阪であろうが、自由に行くことができる、という意味にとれば、夢は『いやな現実』を一瞬忘れることができることから、『せめて夢くらいは楽しく見たいもの』と、やや嘲笑気味に言っているようにも思えます。当時の江戸庶民の大半は、『江戸で生まれ、江戸で死ぬ』生涯を送り、京や大阪は『話で聞くばかりの所』であったに違いないからです。

京は、帝(みかど)や公家が住まわれる高貴な所、大阪は、商人の金儲けの中心地ということで、『偉い人になる』『金持ちになる』ことを夢想するともとれます。しかし、夢から醒めれば、途端に厳しい『現実』に逆戻りするわけですから、『せめて夢くらいは壮大に』という、これも庶民の自嘲の意味が込められているようにも感じます。

梅爺がブログに何回も書いてきたように、人間の脳は、ストレスを回避し、癒すために、本能的に、『楽しいこと』を希求するようにできている、ということの裏づけのように思われます。人間にとって『笑う』ことが、いかに重要なことかということも、これに属します。

さて、『江戸いろはカルタ』が、これで一段落つきましたので、次は『上方いろはカルタ』に挑戦したいと考えています。実は、『江戸いろはカルタ』と『上方いろはカルタ』で共通なものは、『月夜に釜を抜く』しかありません。江戸と上方(大阪)の、文化の違いは、情報の流通が激しい今日でも存在しますので、当時は、庶民の考え方には、もっと大きな差があったのではないかと、推測しています。

とは言え、例によって梅爺の勝手な解釈になりますので、『正統な解説書』とは程遠いものになることは、ご容赦いただきたいと思います。

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2009年5月23日 (土)

寡黙で謙虚(2)

梅爺の大学時代の男声合唱団同期生は、結束も固く、つい最近、卒業45周年記念文集『マイライフ・マイウェイ』を発刊したばかりです。こういう編集に、プロの技量を発揮する、Mさん、Kさんの献身的な努力で、カラー印刷、200ページの素晴らしい文集ができあがりました。既に他界された3人のメンバーの追悼も兼ねた内容になっています。

このグループの幹事役のお一人KJさんは、快活、豪放な方ですが、ご自分の特徴は『寡黙で謙虚』であることだと、常々口にされます。仲間は、これを聞いて、ユーモアであると知りつつも、『現実とのギャップ』に、つい笑ってしまい、今では『寡黙で謙虚』が仲間内の流行語のひとつになっています。梅爺も、もし自分のことをまじめに『寡黙で謙虚』と表現したら、皆の笑いものになるにちがいありません。

『寡黙で謙虚』は、日本的な美徳のひとつであり、熱海の『起雲閣』に展示されていた福沢諭吉の『書』の内容と通ずるものがあります。

しかし、『寡黙で謙虚』は、必ずしも世界中で評価される『美徳』ではありません。特に、アメリカ人とのビジネスを経験した梅爺は、これは時に『無能』の代名詞のように受け止められることを体験しました。

『寡黙で謙虚』が威力を発揮するのは、その人が、『本当は、大変な能力の持ち主である』ことを周囲が熟知しているときです。『黙っておられるのは、何か深い意味があるのだろう』と、周囲は考えて畏れます。逆に、梅爺ごときが外面だけ『寡黙と謙虚』を装ってみても、『中身がないことを隠す、見え透いた行為』ととられ、失笑を買うだけになります。

福沢諭吉が、処世術として、表面的な『謙虚で寡黙』を推奨しただけとは、考えにくいので、この教訓の裏には、『自分(中身)を磨き上げることの方が重要』という、意味がこめられているのかなと、深読みをしてしまいました。

『寡黙で謙虚』だけでなく、世の中には、『中身』とは関係なく、外面だけ装っている場合が多く、度を越すと『軽薄』に見えてきます。しかし、何はともあれ『形式だけは整える』ことが、やがて『中身』が身につくことになる、という主張もあり、人の生き方は、本当に難しいことに気づきます。

『好々爺』になることは、『寡黙で謙虚』が条件のように思いますので、梅爺の修行は、まだまだ続くことになりそうです。

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2009年5月22日 (金)

寡黙で謙虚(1)

5月16日に、昔の同業他社のメンバーで集う『サンフラワー夫婦の会』の昼食会が、熱海で開催され、梅爺夫婦もでかけました。8組の夫婦がメンバーですが、今回は、夫婦5組と旦那さんだけ一人参加の、計11人が集まりました。

当日、18年寝起きをともにした飼い猫が、危篤となり、急遽欠席となった、ご夫婦が一組おられました。犬や猫も、家族の一員になってしまうと、このようなことが起きます。我が家も老犬が家族ですので、他人事(ひとごと)ではありません。

昼食は、幹事のYさんご夫婦の推挙で、熱海の『隠れ家』の風情のある『浪漫亭』で、美味しい和食をいただきました。

42fbe95c002 熱海『起雲閣』

昼食の前に、時間がありましたので、全員で『起雲閣』という、大正時代に建てられた、『金持ちの別荘』が、現在は、熱海市の所有となっていて、観光向けに公開されているというので見学しました。昭和のある時期、旅館として使われ、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、船橋聖一、武田泰淳などの、文筆家にも愛されたという、由緒ある建物です。

広大な日本庭園を囲むように、建物が建てられていて、いつの時代にも、途方も無い『金持ち』はいるものだと、感心しました。梅爺には無縁の世界です。

『起雲閣』の中に、資料展示室があり、伊藤博文や福沢諭吉など、明治の著名人直筆の『書』が展示してありました。中でも福沢諭吉の書が、梅爺の興味をひきました。

漢文で書かれた内容を書き留めることを忘れましたが、主旨は『思いを口に出してはいけない。軽々に行動してもいけない。世の中を平安に生きていくためには、それが必要だ』というような内容でした。

これだけ読むと、『口は災いの元』に通じる、いかにも『ネガティブ』な教訓で、『思ったことはハッキリ言いなさい。そして直ぐに行動しなさい。それがあなたの人生を拓きます』という、よく言われる教訓の逆であることが、梅爺の興味をひきました。

『学問のすすめ』を書いた福沢諭吉が、わざわざこのような表現をしたことには、なにやら深い思惑があるのであろうと、梅爺は、しばし考え込んでしまいました。

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2009年5月21日 (木)

ドナルド・キーン(3)

ドナルド・キーンの天才ぶりは、『飛び級』で、16歳にしてコロンビア大学文学部に入学していることでも分かります。そこで、中国人の友人の影響で『漢詩』に興味を持ち、18歳で日本の『源氏物語』に興味を持ったというのですから、『並みのアメリカ人』ではありません。『日本思想史』で博士号を取得し、その後日本へ留学(京都大学)して、日本文学にのめりこんでいきます。『源氏物語』は勿論のこと、近松門左衛門、松尾芭蕉、から谷崎潤一郎、三島由紀夫、大江健三郎、阿部公房と、古典から近世、現代の小説まで、造詣を深めていきます。86歳の現在は、正岡子規の生涯について執筆したいと言っていました。畏れ入るほかありません。2008年には、日本の文化勲章を授与されていますが、当然といえば当然の話です。

『文学』は、ストーリィ作りなどに『理』は求められますが、価値の大半は『情(情感)』の表現で決まります。日本文学の歴史をたどるということは、日本人の『情感(美意識や死生観など)』の歴史をたどることに他なりません。

ドナルド・キーン氏は、日本人の他に類を見ない繊細な情感は、『うつろい行くもの』『はかないもの』に共感する精神性にあり、それを育んだものは、『日本の四季(はっきり区別できる気候の変化)』であると、結論付けていました。つまり、周囲の自然の変化に、きわめて敏感であるという習性が、日本人の精神文化の基盤をなしていることで、この指摘に梅爺はまったく異存がありません。

しかし、『はっきりした四季の区別』を保有する国は、日本ばかりではありませんので、これ以外にも、日本の精神文化を特異なものとして要素があるはずです。梅爺は、それは『日本語の特性』ではないかと想像しています。精神という『抽象概念の世界』を『表現し、共有する手段』は『言葉』であるからです。

日本語は、欧米の言葉などに比べて『理(論理を正確に伝える)』を表現するにが適していないとよく言われますが、その反面極めて繊細な『情』の表現には適しているのではないでしょうか。移り変わる自然との一体感を、言葉で表現するために、言葉を研ぎ澄まし、発展させ、その相乗効果が、日本人の『精神文化』を作り上げてきたのではないかと考えています。つまり『四季(自然)』と『日本語』が、精神文化の両輪ではないかという想定です。

『うつろい行くもの』『はかないもの』への『美意識』は、自分も自然の中の一要素にすぎないという『死生観』に基づいています。自分の人生の浮き沈みも、自然の変化になぞらえてとらえようとします。西欧から移入した『哲学』や『宗教』を、日本人が『しっくり理解することが難しい』のは、このためではないでしょうか。

キーン氏は、日本人への、提言として、『四季(自然)を友にすべき』とも語っていました。現代の日本人から、『四季を友とする』習性が、失われつつあるという警告と梅爺は理解しました。日本人が、日本人でなくなりつつあるということに他なりませんので、悲しい話です。

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2009年5月20日 (水)

ドナルド・キーン(2)

番組は、ドナルド・キーン氏(米国人、日本文学研究者)と、梁石日(ヤン・ソギル、在日韓国人作家)という、日本を知り尽くした『外国人』同士の『対談』形式で進められました。日本人による『日本人論』より、斬新で鋭い視点が期待できると、NHKは考えたのでしょう。

梅爺が、最も関心を持ったのは、『日本人の西欧コンプレックス(裏返しで東洋蔑視)』の話題でした。梅爺も、無意識にそのような意識が働くことが、まったく無いとは言えません。

梅爺は、40歳を過ぎてから、アメリカの会社(コンピュータ関連会社)とビジネス折衝をしなければならない立場になり、最初は、『日本人であるからといって、アメリカ人にバカにされてなるものか』と、肩肘張って折衝の場に臨んでいたような気がします。そのような姿勢は、時に同僚や上司から『あなたは白人に弱い』と指摘されるようなことにもなりました。

しかし、場数を重ねて、相手の話の『内容』『論理』『ユーモア』のレベルなどが、ある程度理解できるようになり、アメリカ人の中にも『優秀な人』『普通な人』『ダメな人』がいるという、当たり前なことを体感し、判断できるようになりました。つまり、目の前に現れた人物が、アメリカ人であるから、皆優秀であるという、無意識の先入観は消え去りました。

その後、中国で仕事をする機会が増え、やはり同じことを経験しました。優秀であるかないかは、人種で決まるわけではなく、個人で決まるという、当たり前なことを、実感できるようになったわけです。こういう仕事の機会が無ければ、梅爺は一生無意識の『偏見』を持ち続けていたかもしれませんので、梅爺の『国際感覚』にとっては、大きな転機になりました。

日本人の『西欧コンプレックス』は、明治維新以後の、『西欧へ追いつけ、追い越せ政策』が強く関与していると思われます。西欧には劣っているという思い込みが『劣等感』を抱かせ、同時に、でも、東洋の諸国よりは進んでいると自己弁護したい気持ちが、東洋に対する歪んだ『優越感』を産み出したのではないでしょうか。

西欧人の体格や容貌が、『立派であり、美しい』という考え方も、この『劣等感』から生まれたものと考えられます。鎖国時代の江戸の庶民は、初めて遭遇した西欧人を、『怪異』と感じ、決して『立派で美しい』とは感じなかったに違いありません。西欧人の女性を、『美人』とは感じなかったのではないでしょうか。

福沢諭吉のように、『西欧の良いところ、悪いところ』を、見極めることができる能力を、日本人全員が持ち合わせていれば、是々非々の対応ができたはずですが、『すべてに優れている』と思い込まされてしまったことは、不幸なことでした。

現在、100万人の日本人が、海外で生活していると言われています。この人たちを中心に、『その国の良いところと悪いところ』を見極めることができる日本人が増えれば、根拠の無い『劣等感』や『優越感』は、やがて薄らいでいくものと思います。個人レベルで外国人と付き合える日本人が増えることが、重要なことは、言うに及びません。

ドナルド・キーン氏の日本人への提言は、『他人(外国人)を友にしなさい』ということでした。たしかに『友』は、異なった立場を相互に理解しなければ成り立ちません。

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2009年5月19日 (火)

ドナルド・キーン(1)

5月7日に、NHKハイビジョンで放映された『プレミアム8未来への提言:日本文学研究者ドナルド・キーン』を観て、キーン氏の鋭い日本文化、日本人、日本文学への洞察に、あらためて驚嘆しました。

人は、他人の優れた能力について、何となく『感ずる』ことはできますが、それがどれほどのものかを、定量的に『知る』ことはできません。それでも、天才的な運動選手の能力については、そのパフォーマンスを観て、自分との違いを、ある程度はうかがい知ることができます。

梅爺は、40歳から50歳になるまでの10年間、欠かさず『青梅マラソン』に参加し、いずれも完走しました。その中で、もっとも速い記録は、2時間40分(30キロメートル・ロードレース)でしたが、このコースの記録は、たしか瀬古選手の1時間27分です。30キロメートルを走って、天才(瀬古選手)と常人(梅爺)では、1時間10分以上の『差』があることから、その『能力差』をうかがい知ることができます。

ドナルド・キーン氏の、日本に関する洞察力の深さは、その全著作を読めばある程度推察できるのかもしれませんが、梅爺は読んでいませんので、番組の中で、キーン氏が、話される『断片的なこと』から、それを推察することになりました。そして、それが梅爺の想像をはるかに超えているものであろうと『感じ』、ただただ畏敬の念を持ちました。

運動能力では、100人力という天才は、そうはいないと思いますが、知的能力では、千人力とか万人力という、人間が存在するのではないでしょうか。アインシュタインのような大天才になると、もう何人力なのかと想像することさえもできないほどの桁外れです。

しかし、知的能力が高い人も、外見は『普通の人』と変わりがありませんので、多くの人は、その高い能力に気づかず、時には『自分と同じ程度の人間』と不遜な評価をしがちです。

ドナルド・キーン氏も、86歳のアメリカ人のお爺さんですから、それと知らずに、どこかですれ違っても、『アメリカ人のお爺さん』にしか見えません。しかし、番組の中で、このお爺さんが、話をする(当然日本語)のを聞き、その内容を知ったときに、梅爺は、驚愕し、深い畏敬の念を抱きました。

キーン氏が日本を理解しているように、梅爺はアメリカを理解しておらず、キーン氏が話す日本語のレベルと同等の英語を梅爺は話せない、と感じた途端に、梅爺は『参りました』と降参しました。仮に、梅爺が若いころアメリカへ渡り、アメリカ文学史や、アメリカ文化を勉強したとしても、アメリカ人も唸る『アメリカ文学史』を書けるとは、到底思えないからです。キーン氏の大著『日本文学史』は、日本人でさえも、その洞察に驚嘆する内容なのです。

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2009年5月18日 (月)

宇宙とフラの旅(3)

今回の旅行は、幹事Oさんの、周到な計画で、マイクロバスを利用し、効率よく移動しました。『スパリゾートハワイアンズ』で宿泊した翌日は、小名浜港などに立ち寄り、茨城県北部の『袋田の滝』へ向かいました。

200pxe8a28be794b0e381aee6bb9d 『袋田の滝』の景観

『袋田の滝』は、40年ほど前に訪ねたことがありますが、観光地としての開発が進み、絶景ポイントへ直行できるトンネルや、エレベータを利用して高いところから眺めることができる展望台などができていて、様変わりしていました。お土産屋や、食事処なども、増えていました。40年の月日が、日本を豊かに変えたことが分かります。

Museum_info_photo1 水戸の『徳川博物館』

旅程の最後は、水戸市内の『徳川博物館』の見学でした。水戸は、梅爺の出生地であると同時に梅婆の出身地で、亡くなった義父は、歴史学者でした(『水戸光圀』などの著作があります)ので、この博物館の設立(1977年)にも関与しています。梅婆の家系には、歴史学に関係した先祖が多く(特に『水戸学』)、先祖は『大日本史』の編纂にも参画しています。そのような関係がありながら、梅爺は、お恥ずかしいことに今回が始めての見学でした。エンジニアの梅爺は、『歴史には興味が無かろう』と生前の義父は、娘婿に紹介を控えていたのかもしれません。それにしても、今頃ノコノコ現れることになった梅爺は、不徳の娘婿であることには、変わりがありません。今回、館内を案内してくださった学芸員の方も、義父のことはよくご存知でしたので、梅爺は一層恐縮してしまいました。

徳川家康は、伊達政宗の挙動を牽制するために、親藩『水戸徳川家』を水戸に配置したものと思いますが、水戸藩出身者で徳川幕府の『将軍』になったのは、最後の将軍、徳川慶喜だけです。英明であった慶喜は、難局時の『将軍職』に就くことを拒みたかったにちがいありません。結果的には、徳川幕府の幕引きという、嫌な役目を負うことになりますが、『大政奉還』を決断したことは、その後の日本を考えると、立派な英断と言えます。その後生涯『沈黙』を守り続けたことも、梅爺には大人(たいじん)に見えます。

梅爺は、倒産が目に見えている会社の経営を押し付けられ、予想とおり倒産に追い込まれたとしたら、『だから、俺は最初から嫌だと言ったのに』などと、愚痴をタラタラこぼすに違いないからです。

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2009年5月17日 (日)

宇宙とフラの旅(2)

Img_gps_top スパリゾート・ハワイアンズのポリネシアンショー

宿泊した、福島県の『スパリゾートハワイアンズ(旧常磐ハワイアンセンター)』の賑わい振りには驚きました。5月の連休明けで、閑散としているのかと想像していましたが、なんのなんの、子供ずれの家族中心に大賑わいで、100年に一度の経済危機などは、どこ吹く風という風情でした。日本ばかりか、台湾からの観光客らしい人たちもいましたので、今や『常磐炭鉱』の面影などは残さない、日本の観光資源のひとつになっています。梅爺は、昔顧客であったアルプス電気(福島県に工場がある)との合同研修会で、滞在したことがありますが、その当時とは桁違いの発展振りです。

日本映画グランプリを獲得した映画『フラガール』の宣伝効果もあるものと思いますが、巨大な娯楽施設として、健全な経営が継続できていることは、喜ばしいことです。それにしても、いくら苦肉の策とは言え、『炭鉱跡』に『ハワイ』を実現するという、発想には畏れ入ります。日本人だけで、本場のショーと遜色の無い『ポリネシアン・ダンスショー』が繰り広げられるのも、見事な話です。

夜の宴会では、各人の近況報告があり、中には、『漢詩』や『和歌』をはじめたという人がいて、驚きました。梅爺は、恥ずかしくなり『川柳』を始めましたと言いそびれてしまいました。『漢詩』を始めたTさんは、この同級会を詠んだ詩が懸賞応募で入選したということで、以下の見事な『漢詩』を披露されました。

同胞会

一別黌窓四十年 
蒼顔華髪集長筵
任他世路塵中事
尚認当時眉目辺

ひとたび黌窓にわかれて四十年
蒼顔(老いた顔)、華髪(白髪)長筵(長い宴席)に集う
さもあらばあれ、世路塵中のこと
尚、当時を認む、眉目の辺りに

これを見る限り、理系の人間は文学に弱いなどとは、とても言えません。漢詩としての、『韻』や『平仄(ひょうそく)』も、完璧とのことです。

このような、才人が集う仲間に列することができる喜びは、梅爺にとって望外なものです。それにしても、『梅爺川柳』は、もう少し修行を積まないと、お披露目は到底無理と感じました。

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2009年5月16日 (土)

宇宙とフラの旅(1)

240pxhiigtv 筑波宇宙センターのH2ロケット実物展示

毎年恒例行事の『大学同級会1泊ツアー』の時期がめぐってきて、今回は、現役時代日立製作所に勤務されたOさんが、地の利をいかして、茨城県、福島県を対象に、『宇宙とフラの旅』を企画してくださり、5月9日~5月10日に出かけました。『宇宙』は『筑波宇宙センター見学』、『フラ』は『スパリゾートハワイアンズ(旧常磐ハワイアンセンター)宿泊でフラダンスショー鑑賞』のことを意味します。

昨年の愛知県中心の『鉄と神話の旅』の命名を踏襲し、『宇宙とフラの旅』とOさんが名づけただけで、『宇宙とフラの深遠な関係を探ろう』などという意図があるわけではありません。来年は佐渡島に行こうと決めましたが、当分この『○○と○○の旅』のパターンが続きそうな気がします。『鉄と神話の旅』は前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_eb9a.html

在学時(工学部精密機械工学科)は、24名でしたが、残念なことに2名が亡くなられ、現在メンバーは22名です。そのうちの20名が参加すると言う、驚異的な出席率を誇る同級会です。47年前に偶然クラスメイトになった仲間ですが、当時も今も、お互いに腹蔵なく話し合える素晴らしい『絆(きずな)』は、少しも変わることがありません。そして、爺さんになっても、一人ひとりの個性が変わることがないのも、面白い話です。人生は、偶然な出会いに強く支配されることを改めて感じます。

『筑波宇宙センター(JAXA)』の見学は、一般の見学客に混ざって行いました。やさしいガイドのお姉さんに引き連れられて、所内のいくつかの施設を観て回りました。本来なら『うるさい爺さん達』ですので、鋭い、難解な質問が飛び出すところですが、一般のお客様の迷惑にならないように、今回は自重しました。『KY(空気が読めない)』な爺さん達ではないという証拠です。

仲間のうち、現役時代にそれぞれ異なった会社に勤務しながら『人工衛星』にかかわったことがある人間が、Hさん(通信衛星)、Yさん(気象衛星)それに梅爺(放送衛星)と3人がいて、それぞれ、昔を懐かしく思い出しました。

梅爺は、人工衛星が専門ではありませんが、たまたま技術責任者であった時代に、配下に『放送用人工衛星事業部門』があり、種子島のロケット打ち上げ場や、筑波の管制センター(今回見学した施設内にある)にも通いました。ロケットの技術担当者は、打ち上げの直後に『成功』を確認できますが、人工衛星技術担当者は、衛星が地球を1周して、日本の上に戻ってきて、正常に作動していることを確認して初めて『成功』ということになりますので、その間、生まれる子供を待つ父親のような心境で、祈りながら待つことになります。衛星は、事前にありとあらゆる可能性をチェックし、万全を期しますが、それでも宇宙では思いもよらない事態に遭遇し、そのたびに胃の痛む思いをしました。

現在では、国際宇宙ステーションに日本担当の実験施設『きぼう』を提供するほどの、高い技術を日本は有し、何人もの宇宙飛行士も送り込んでいます。日本自前の、ロケット技術、衛星技術を保有するこのと是非に関しては、高額な税金を使うこととの見合いで、色々な議論がありますが、梅爺は、日本の国力から見て、当然必要な『貢献』であると考えていますし、日本人として誇らしくも感じています。

日本の素晴らしい最先端の研究体制や施設を見たら、北朝鮮は、きっと、羨ましいと思うに違いありません。

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2009年5月15日 (金)

スペイン雑感(2)

Dscn7453 地中海に面する『コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)』地帯の、白壁の家々

スペインは、日本から遠い国で、精神文化も日本とはかなり異なっている国であると今回旅行をしてみて感じました。多様な民族の流入、支配の歴史を経て、厳しく永い抗争の後にカトリック以外の宗教を実質排除し、それを国家のアイデンテティにしているという歴史は、基本的に島国に守られ、その中で均一な精神文化を醸成してきた日本の歴史とは、対極的に異なったものであるからであろうと理解しました。『人間みな兄弟』などというスローガンは、生物学的な資質は同じという意味ならそのとおりですが、『精神文化』に関する限り『人間みな異星人』とも言えることになります。『兄弟』であると思って付き合えば、裏切られますから、『異星人』であると思って、『異文化の共存』をはかることが、いかに重要であるかがわかります。日本人は、『人間みな兄弟』であると、本当に信じている人や、信じたいと願っている人が多いように梅爺は感じています。

『立憲君主制の政治体制』『平均的な身長』『イカやタコを食べる食習慣』などの部分的な事象を見れば、スペインは日本と似ていると言えますが、『カトリック一色』という宗教的な均一性は、日本人には異質な世界です。ヨーロッパの歴史を変えたルターやカルバンの『宗教改革』の影響を受けていないスペインは珍しい国で、このことがスペインを理解する上で重要なカギではないかと梅爺は思います。

歴史を考えれば当然のことですが、スペイン人は『混血』の度合いが高いのではないでしょうか。ラテン系のヨーロッパ人が主体であろうと思いますが、アラブ系、ユダヤ系のほかに、北から進入したゲルマン系の血も混ざっていると考えられます。本土に住む人の人口は、日本の1/3ですが、植民地時代に、南米、北米へ移住した人の子孫を含めると、世界のスペイン人系の人口は、日本より多いことになります。世界の3大流通言語のひとつがスペイン語であることが、それを証明しています。

風光明媚な景色、中世のヨーロッパ文化遺跡、闘牛、フラメンコなどを、旅行で見て回るだけなら、気楽な話で問題はありませんが、日本人が、スペイン人社会の中に入って生活していくのは、大変な苦労を伴うのではないかと想像しました。

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2009年5月14日 (木)

スペイン雑感(1)

Dscn7547 セゴビア名物、子豚の丸焼き、やわらかいことを誇示するために、包丁ではなく皿で切り分けてくれる

外国を旅行する時、その地の食べ物は、興味の対象です。日本の醤油、味噌ベースの味付けとは異なり、スペイン料理は、塩、胡椒、ハーブなどの香辛料、オリーブ油、バター、バルサミコ酢(ぶどう酒からつくる酢)で調理されますので、日本人にとっては『西欧料理』の味付けになります。しかし、素材としては、魚介類(イカやタコも含まれる)や米(パエリヤという料理が有名)も使われますので、比較的『親しみやすい料理』と言えます。少々『塩気が強い』と感ずることもありますが、それほど気にはなりません。イベリコ豚の生ハムなどは、絶品です。

ツアーでは、旅行会社の配慮で、代表的なスペイン料理が食事にひととおり含まれていますので、労せずスペイン料理は堪能できます。しかし、自由時間の食事は、自分たちで、探し、選らばなければいけませんので、言葉が通じないこともあって苦労しました。その中では、日本の居酒屋料理にあたる『タバス料理』というのがあり、イカやタコの揚げ物、アンチョビの酢漬けなど、梅爺は気に入りました。ビールやワインには、よく合います。

ペインはEU圏に属して以来、物価が上がり、給料はあがらないという状況になり、生活は苦しいと現地ガイドが教えてくれました。平均収入は日本の半分くらいではないでしょうか。『シエスタ(昼寝)』の習慣も、国際基準に合わない(スペインの国際競争力が失われる)ということで、マドリッドなどの大都会では、減りつつあるようですが、地方都市へ行くと、午後2時から5時までは、店のシャッターをおろしてしまう所が今でも大半です。レストランの夜の開業は、午後8時半以降が常識です。

日曜日は、カトリックの『安息日』ですから、デパートもお店もすべて休業で、これはスペイン全土共通です。

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2009年5月13日 (水)

セゴビア

Dscn7524 セゴビアに残るローマ帝国時代の水道橋

マドリッドの北110キロメートルにある都市セゴビアも、スペインの観光名所のひとつです。古くは、ピレネーを越えてきたケルト人が居住していましたが、その後ローマ帝国やイスラムの支配を経て、11世紀以降は、カトリック教徒が奪回し、現在に至っています。

大聖堂や、ディズニーが『白雪姫』のお城のモデルにしたと言われているアルカサル(古城)などが、観光名所ですが、なんと言っても、ローマ帝国時代に建設された、全長728メートルの石造りの『水道橋』が圧巻です。セゴビアの旧市街と『水道橋』は、世界遺産に登録されています。

『水道橋』の建設は、1世紀頃と考えられていますので、約2000年を経ているわけですが、石だけで、漆喰などの接着剤などを一切用いず組み上げた巨大な建造物が、風雪に耐えて、ほぼ完全な姿で残されています。水が流れるように勾配も配慮されているわけですから、いかにローマ帝国の、土木技術、建築技術が進んだものであったかを、あらためて思い知らされます。

ローマ帝国自身は必ずしも文化的に最初から進んでいたわけではありませんが、ギリシャ文明や、征服した地域の優れた文化や技術を、柔軟に取り込み、自分のものにしていったと考えられています。明治維新以降の日本の姿勢と似ているように思います。

『全ての道はローマに通ず』と言われた領土内に張り巡らせた道路や、神殿、城砦、橋の遺跡を観ると、ローマ帝国には、優れた土木技術、建築技術を継承、流布させていく、『システム的なノウハウ』があったにちがいありません。エンジニアであった梅爺は、有名な皇帝などより、このような『ノウハウ』を担っていた無名の技術者達を尊敬してしまいます。国家や会社は、皇帝や社長だけで成り立っているわけではありません。

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2009年5月12日 (火)

サンチャゴ・ベルナベウ

Dscn7611 レアル・マドリッドの本拠地『サンチェゴ・ベルナベウ』スタジアム

『サンチャゴ・ベルナベウ』と聞いて、これがスペインの名門サッカー・チーム『レアル・マドリッド』の本拠地スタジアムの名前であることをご存知の方は、相当な『サッカー通』です。チームを隆盛に導いた経営者の名前をとって名づけたものです。『レアル・マドリッド』は、少し前に、イギリスのベッカム、ブラジルのロナウド、ポルトガルのフィーゴなどの世界のスーパー・スター達を金の力で集め『銀河系軍団』と呼ばれましたが、成績は振るいませんでした。日本の巨人軍が、スーパー・スターを集めて勝てなかったのに似ています。

スペインには、もう1チーム、バルセロナに本拠を置く『FCバルセロナ(通称バルサ)』という名門強豪チームがあり、この本拠地スタジアム『カンプ・ノウ』です。『サンチャゴ・ベルナベウ』と『カンプ・ノウ』は、日本で言えば『サッカーの聖地・国立競技場』のような場所ですが、国立競技場と異なり、『サッカーの専用スタヂアム』で、それにも関わらず6万人の観客を収容できる大スタジアムです。

スペインは、昨年のヨーロッパ・チャンピョンで、現在FIFAランキング世界第一位のサッカー強国ですが、不思議なことにワールド・カップの優勝経験がありません。

今回のツア・グループに、『サッカー・オタク』のFご夫妻(梅爺夫婦と同年輩)がおられ、サッカーには、少々うるさい梅爺も、この奥様には脱帽しました。なにしろ、日本代表チームの試合が放映される時は、『青いシャツ(日本のユニホームの色)』に着替えて、『気合を入れて』テレビの前に陣取り、応援すると言うのですから。

マドリッドでの自由時間に、Fご夫妻と梅爺夫婦は、『サンチャッゴ・ベルナベウ』スタジオを見学に、タクシーで出かけました。試合の無い日でしたので、外観だけでも拝んで帰ろうと気軽にでむきましたら、『場内見学ツアー』があることが分かり、早速一人15ユーロを支払って入場しました。観客席、試合中選手が座るベンチ(ピッチ・レベル)、選手の更衣室(ロッカー・ルーム)、記者会見場、それに、博物館などをゆっくり見学できました。梅爺は、ことのほかはしゃいで、観客席で『ゴーーーーール!』などと叫んだりしてしまいました。元気で無邪気な老人とも言えますが、年甲斐も無く恥ずかしいことと、反省しています。

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2009年5月11日 (月)

スペインの超高速鉄道AVE

Dscn6990 スペインの超高速鉄道AVE

約45年前に、日本は新幹線を開通させ、一躍鉄道技術で世界の頂点に立ちました。明治政府が、ヨーロッパから鉄道技術を導入してから、約90年後のことです。日本の新幹線は、45年の間、中越大地震の時でさえも、多数の死傷者を出すような大事故を一度も起こしていませんから、他の輸送手段と比べると驚異的な信頼性を維持していることになります。ギネス・ブックに登録できるような大記録です。

鉄道先進国を自負してきたヨーロッパのフランス、ドイツなどが、日本に負けてなるものぞと、超高速鉄道の開発にその後着手し、現在では、数カ国で、日本の新幹線同様の超高速鉄道が稼動しています。中国も導入計画を進めていますので、先進国の中では、アメリカがこの分野で遅れをとっていることになります。全米網はともかくとして、部分的には(ニューヨーク、ワシントン間、ロス・アンジェルス、サン・フランシスコ間など)有効な手段ではないかと梅爺は想像します(注:この計画は既に進行中と、ブログを読まれた方からコメントを頂戴しました。ご教示に感謝します) 。スペインも、バルセロナ・オリンピックに合わせて超高速鉄道を導入し(ドイツ製の電車)、現在では、マドリッドを中心に、バルセロナ、グラナダ、セビリア、マラガなどが結ばれています。

今回の旅行では、前半にバルセロナ、マドリッド間、後半にマラガ、マドリッド間と、2回AVEに乗りました。それぞれ2時間半程度の時間でしたが、最高時速300キロメートルに達し、乗り心地も上々でした。

ツア・メンバーの中に、お2人『鉄道オタク』の男性が偶然おられて、色々な薀蓄(うんちく)をうかがうことができました。自由時間になると、このお2人は、別々に電車で遠出をされたり、駅で写真を撮ったりと、満喫のご様子でした。多分、AVEに乗れることが、このツアーを選んだ理由だったのでしょう。

日本の新幹線と異なるのは、乗車前に、飛行機搭乗前と同様な厳しい持ち物検査があることです。列車テロで、大惨事になった苦い経験のあるスペインなので、当然なのでしょう。逆に考えると、日本の新幹線は、あまりにも無防備すぎるのではないでしょうか。経済性や運用効率性を考えると、たしか持ち物検査は億劫(おっくう)ですが、テロによる大惨事が起きてからでは、取り返しがつかないように思います。

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2009年5月10日 (日)

セビリア

Dscn7301 セビリア大聖堂の聖壇背面を覆い尽くす金箔装飾の彫刻群

セビリアは、アンダルシア州(スペイン南部)の州都で、現在もスペインの主要都市のひとつですが、古代から、カルタゴ人、フェニキア人、ローマ人などが支配した古い歴史を持つ都市です。当然8世紀にはイスラムの支配下になりますが、13世紀に、カスティーリャ王国(カトリック)によって奪還(レコンキスタの過程で)されます。

梅爺は、大航海時代に、セビリアが貿易港(税関を設け税金を徴収)として繁栄したという話をきいて、怪訝に思っていました。何故ならば、セビリアは、大西洋岸からは100キロメートルも内陸に位置する都市で、海に面していないからです。

しかし、今回初めて訪れてみて、その『カラクリ』が分かりました。セビリアを流れているグアダルキビール河を、貿易船は大西洋岸の河口から遡航(そこう)して、セビリアの川岸に着岸していたということです。当時のグアダルキビール河は、現在より川幅が3倍も広かったということなので、かなりの大型帆船も着岸できたのでしょう。南米から略奪した、大量の金、銀や特産物が陸揚げされ、それに税金をかけたわけですから、セビリアがスペイン繁栄の拠点であったことは、頷ける話です。

セビリア大聖堂の、聖壇背面は、床から天井まで彫刻がほどこされていますが、すべて多量の金箔で装飾されています。当時ヨーロッパで希少価値の金(きん)を、これだけふんだんに使えるだけの財力があったことの証明です。歴史的には、イサベラ女王が、コロンブス(イタリア人)の航海を資金援助をしたことが、スペイン繁栄のきっかけになっています。

折角大金持ちになったスペインでしたが、その後イギリスとの覇権争いの戦争の戦費がかさみ、財力を失うことになります。何時の時代も、戦争は、多くの人命を失うと同時に、財力を疲弊させる原因となることが分かります。それでも、人間は、今でも戦争をすることをやめないわけですから、なんとも手に負えません。

街の中心の広大な公園は、1922年に、『セビリア万国博』が開催された時の跡地で、今も当時の各国パビリオンが他の目的で使われています。残念ながら、『日本館』は、木造建築であったために、今では残っていません。

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2009年5月 9日 (土)

アンダルシア地方

Dscn7261 ゴルドバ、『メスキータ』の旧イスラム教モスク様式の内部

スペイン南部のアンダルシア地方は、8世紀から15世紀まで約800年続いた、イスラムのイベリア半島支配の中心地でしたので、イスラム文化が色濃く残っている地方です。グラナダのアルハンブラ宮殿、コルドバのモスク『メスキータ』(現在はカトリックの大聖堂)などが代表です。

現在のイスラム圏諸国と、キリスト教圏である西欧の先進国を比較して、イスラム諸国が、キリスト教国に総合的に『劣っている』と受け止められやすいのですが、イベリア半島をイスラムが支配した時は、全く逆で、科学(特に医学、建築学、数学)の面では、イスラムが進んでいました。イスラム教徒がキリスト教徒を『野蛮人』だと嘲笑しているような文献も残っているほどです。真実の解明を積極的に推奨したイスラム教の姿勢と、聖書の記述内容と異なった考え方は『異端(神への冒涜)』と封印したカトリックの姿勢の違いが、この差を生み出しました。しかし、当時のカトリック教徒は、宗教的な思い込みと、侵略された経験から『イスラム教徒は野蛮人だ』と信じていたようです。人間は、誰もが、自分は正常で、相手が異常であると、思いたがるものです。

イスラムの支配時代でも、領土内では、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒は『共存』が認められていました。その名残が、コルドバやセルビアの『旧ユダヤ人街』などとして残っています。しかし、『レコンキスタ(国土奪回)』を果たした敬虔なカトリック信者のイサベラ女王は、イスラム教徒とユダヤ教徒を国外へ追放してしまいました。まるで、現在の『イスラム原理主義者』が、他宗教を容認しないのと同じで、この時代はカトリックの方が『過激』であったという興味深い話です。

しかし、そのようなイサベラ女王も、アルハンブラ宮殿のあまりにも見事な美しさに魅了され、これを破壊しなかったお陰で、私達はこの美しさを今でも堪能できます。砂漠の民のイスラム教徒は、オアシスのイメージと天国のイメージをダブらせていたようで、アルハンブラ宮殿では、見事な噴水、花々が咲き乱れる庭園、星空を思わせる天井装飾を見ることができます。動力のない時代に噴水を実現させるために、30キロメートル以上はなれたシェイラ・ネバダ山脈の雪解け水を引き込んでいて、今でもそれが見事に作動しているわけですから、如何にすぐれた土木、建築技術を保有していたかが分かります。

コルドバのカトリック大聖堂(メスキータ)は、元はイスラムのモスクであったものを、利用して増築したものなので、現在では、イスラム様式とキリスト教様式が共存する珍しい観光スポットになっています。イスラムの美しい建築様式と、カトリックの壮麗な祭壇が、両方一緒に見られるという、不思議な光景を経験できます。

梅爺は、前から一度メスキータを観てみたいと願っていましたので、ゴルドバの観光は、大いに満足しました。

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2009年5月 8日 (金)

セルバンテス

Dscn7103 ラ・マンチャ地方コンスエグラの丘の風車群

世界中で最も読まれている本が『聖書』で、2番目は、スペインの作家セルバンテス(1547-1616年)の『ドン・キホーテ(正確にはドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ)』であると言われています。

ミュージカル『ラ・マンチャの男』は『ドン・キホーテ』を題材にしています。セルバンテスは、スペインが世界に誇る文豪で、彼の命日4月23日(一説にはシェークスピアの命日と同じとされていますが、定かではありません)は、スペインの『本の日』とされていて、家族や恋人に『本を贈る』習慣になっていることを知りました。丁度旅行中に、この時期に遭遇したため、どの街でも、本の特売日(通常より安く販売)が開催されていました。日本の『バレンタイン・デー』に相当しますが、『義理チョコ』より『本』の方が、スマートな習慣のように思います。

セルバンテスの一生は、不遇の連続で、従軍したパントの海戦で被弾し、左手の自由を失い、その後海賊に捕らえられ、身代金が準備できないために投獄されたり、ようやく解放された後に多額の借金を抱え込んだりと散々な目に会い続けます。厭世的になり、書き始めた小説の中の『ドン・キホーテ』が売れますが、版権を安く売ってしまったために、本人は必ずしも裕福になったわけではないと伝えられています。セルバンテス本人は、『神は、私に小説を書かせるために、左手を奪われた』と、強気なことをいっているようですが、負け惜しみにも聞こえます。

『ドン・キホーテ』とシェークスピアの関係は、前にブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-64b5.html

よぼよぼのロバ、ロシナンテが名馬に見え、村娘がお姫様に見える願望選考の誇大妄想癖のドン・キホーテと、超現実主義の家来サンチョ・パンサの取り合わせの妙が、この小説の面白さです。この二つの矛盾する性格は、多少なりとも誰も同時に持ち合わせていますので、読者は共感を覚えることになります。梅爺も『こうあって欲しい』と望む気持ちと、『世の中はそうはいかない』という冷めた気持ちが、常に交差しながら生きていますので、ドン・キホーテでありサンチョ・パンサでもあると自覚しています。しかし、どちらかというと、サンチョ・パンサの性格が強いようにも感じています。

スペインのラ・マンチャ地方には、『ドン・キホーテの道』という観光ルートがあり、怪物と勘違いして突撃した風車や、最初に立ち寄った旅籠(はたご)屋と称するものなどが残されていて(勿論、当時のものであるという保証はありません)、梅爺たちも立ち寄りました。

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2009年5月 7日 (木)

フラメンコ

Dscn7350_2 セビリアのフラメンコショー

『闘牛』とならんで、『フラメンコ』もスペインの代名詞のようなものです。日本舞踊のように優雅さが売り物ではなく、激しい動きや所作が売り物ですから、『情熱の国スペイン』と言われるのは『フラメンコ』のイメージによるものではないでしょうか。今回の旅行では、セビリアで、夜のショーを観ました。

梅爺は、15年ほど前にバルセロナで、フラメンコを観たことがありますので、本場のフラメンコを観るのはこれで2度目です。前回は、地下の穴倉酒場のような場所で、いかにもフラメンコらしい雰囲気でしたが、今回は、外国人観光客向けの専用劇場で、内容も、外国人向きにショーアップしていると感じました。それでも、前回同様、今回もビデオカメラを持参しましたので、前から2列目の席に陣取って、バッチリ迫力ある映像を記録しました。

ツアーメンバーの中に、日本でフラメンコを趣味で習っているという『オバサン3人組』がいましたので、終わってから、『いかがでしたか?』と感想を聞きましたら、『イマイチでした』というので、『さすが、鋭いですね、どこがイマイチなのですか?』と聞き返しました。すると『男のダンサーが、イケメンではありません』という予期せぬ答がかえってきて驚きました。梅爺は、『踊り、ギター演奏、歌などのテクニック』について訊ねたつもりでしたが、オバサンたちは、もっぱら男のダンサーの顔に気をとられていた様子です。

もっとも、梅爺も、女のダンサーを、『これは若くてカワイイ』、『これは、踊りはうまいが、少々太り気味で歳がいっている』などと品定めをしながら観ていましたので、オバサンたちを非難する資格はありません。

ギターのたたきつけるような奏法、ダンサーの足踏みの音、カスタネットの音、それに歌い手が鳴らす手拍子が、微妙にずれて醸し出すリズムが、フラメンコの雰囲気を盛り上げます。それに、歌は、西欧音楽というより、イスラムの祈りの音楽に近いように感じます。8世紀から15世紀まで、イベリア半島を支配していたイスラムの文化の影響は、思いのほか多く残っているのではないかと想像しました。勝手な想像ですから、まちがっているかもしれません。

『オバサン3人組 』は、マドリッドでも自由時間を利用して、フラメンコを観てきたというので、『イケメンがいましたか?』と訊ねましたら、『踊りが素晴らしかったです』と今度はマジメな答がかえってきました。よくよく、聞いてみるとマドリッドでは、ダンサーは女性だけであったらしいのです。なるほど、それなら、邪心無く踊りだけに集中して観ることができたのだなと、合点がいきました。

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2009年5月 6日 (水)

闘牛

Dscn7051_3 マドリッドで観た闘牛

外国人から、日本人は、『何を考えているのか分からない』と言われることがありますが、スペインで『闘牛』を観ると、日本人も『スペイン人は何を考えているのか分からない』と言いたくなります。

今回の旅行中、梅爺たちはマドリッドで『闘牛』を見学しました。映画『陽はまた昇る』で登場したあの闘牛場です。いかに、形式美化しているとは言え、『牛を殺す見世物』に、スペイン人が、何故これほど熱中するのかと、首を傾(かし)げてしまいました。一方、『闘牛』には、細かいルールが沢山あることも知りました(20分以内でしとめなければならない等)。観客は目が肥えていて、少しでも不満な演技があると、容赦なくブーイング(3拍の手拍子を繰り返す)が飛びます。

『あらゆる殺生はいけないこと』と、幼い時から教えられている日本人も、『生きる(食べる)ために殺生はやむをえない』という矛盾からは脱却できていませんので、スペイン人に『数頭の牛を殺すことだけで、何故ガタガタ言うのか、お前達も、魚を生き造りで食べているではないか』と、もし言われれば、なかなか反論はできません。たしかに、毎日数え切れない牛が、屠殺場で殺されているお陰で、梅爺は『吉野家の牛丼』を食べたり、時には奮発してステーキやすき焼きを、『旨い』と感激しながら食べているのですから。

理屈はたしかにそうですが、日本人の『情』では、牛が血を流して殺されるのを観るのは『むごい』ことで、今回の見物中も、気分が悪くなり、退場する日本人がいました。

スペインに『闘牛』が定着した由来を、梅爺は知りませんので、想像にすぎませんが、元々は、狩猟民族の『勇気』や『誇り』を示す行為であったのではないでしょうか。500~600キログラムの牛に、肉体的には劣る人間が挑むわけですから、命がけです。今では、人間に有利なルールになっていますが、それでも、時折マタドール(闘牛士)やピカドール(馬に乗って牛を槍で刺す人)が、牛の角で突かれて命を落とすことがあるわけですから、『命がけの見世物』であることには、かわりがありません。

ヨーロッパの古代人にとって、牛は『神の化身』と考えられていたという説もあります。家の中に牛の角を『魔よけ』として飾っていたらしいことも分かっています。この『神』は、現代の私達が思い浮かべる慈愛に満ちた存在ではなく、時に得体の知れない災厄を人間にもたらす存在と考えられていたとすれば、崇(あが)める一方、これを戦って倒すことにも、本来は宗教的な意味が込められていたのかもしれません。

マタドールが、最後に剣を牛の頭の後方に突き刺し、牛が倒れる瞬間を、スペインでは『真実の瞬間』と呼んでいることを知りました。確かに『生』が『死』に変わる瞬間は、自然の摂理を考えると『厳粛な真実の瞬間』であるとも言えます。

ともあれ、敬虔なカトリック信者であるスペイン人が、このような『殺生』に熱狂する(かなり小さな町や村にも必ず闘牛場があります)のは、なにかチグハグを感じますが、人間はそもそもチグハグなものだということを、承知の上是認しているとすれば、スペイン人は、日本人より『大人』なのかもしれません。

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2009年5月 5日 (火)

トレド

Dscn7090 タホ川に囲まれた中世都市トレド

マドリッドから南へ71キロメートルのところにあるトレドは、6世紀に西ゴート王国がフランスから首都を移した場所で、蛇行するタホ川に囲まれた丘にある要塞都市です。現在は、旧市街全体が世界遺産に登録されています。8世紀初頭にイスラムの手に落ちますが、11世紀にカスティーリャ王国(カトリック)がレコンキスタ(国土奪還)の過程で奪還します。

16世紀に、スペイン・ハプスブルグ家のフェリペ2世が、首都をマドリッドに移しましたが、トレドの大聖堂は、その後もスペイン全土のカトリックの総本山(大司教座がある)として君臨し、現在に至っています。フェリペ2世が遷都した理由は、当時寒村であったマドリッドが、自分の狩場に近いというだけの理由だったと伝えられていますので、本当なら王様のわがままにすぎません。

しかし、中世の要塞都市トレドが、大規模な近代都市として発展するには、地形的にも無理なところがありますから、結果は大正解ということになります。マドリッドに取って代わられ、トレドが廃れたために、中世の姿を止めることになり、現在世界遺産として観光対象になっているわけですから、皮肉な話です。ベルギーのブリュージュのように中世の面影を残す街も、『一度は見捨てられたために、古いものが残っている』という、同じ運命を経験しています。『怪我の功名』というところです。逆に、マドリッドはヨーロッパの大都市としては、比較的歴史の浅い都市であることが分かります。

8世紀頃は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教が交差する宗教の『坩堝(るつぼ)』であったトレドは、現在は、スペインのカトリック総本山(大司教座を持つ大聖堂がある)がある場所として、スペイン人にとってはカトリック一色の『聖地』になっています。

画家『エル・グレコ』が滞在して、多くの『聖画』を残していることでも、トレドは有名です。当時としては、斬新な画風であったとはいえ、『エル・グレコ』は梅爺には、少し『お利口さん』すぎるように思えます。ドロドロした人間の内面を正直に描いた後代の『ゴヤ』のような魅力を、個人的にはあまり感じません。

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2009年5月 4日 (月)

プラド美術館

Photo ベラスケスの『ラス・メニーナス(女官たち)』

世界の3大美術館は、パリの『ルーヴル』、サンクト・ペテルスブルグの『エルミタージュ』そしてマドリッドの『プラド』と言われています。梅爺は今までに『ルーヴル美術館』しか観ていませんでしたので、今回の旅行で初めて『プラド美術館』を観ることができました。こうなったら、残りの『エルミタージュ美術館』も、是非いつかは観たいものいう思いが強まりました。

スペインが生んだ中世の3大画家は、時代順に『エル・グレコ』『ベラスケス』『ゴヤ』です。『プラド美術館』では、この3人の巨匠の名画を一挙に観ることができます。『エル・グレコ』は、厳密にはスペイン人ではなく、ギリシャ人(エル・グレコはギリシャ人という意味の通称)ですが、活動の拠点は主としてスペインでした。彼は、マドリッドの宮廷画家を目指しましたが、彼の人物をデフォルメして描く画風は、時のフェリペ2世の好みではなく、願いがかなわなかったために、トレドに移って多くのキリストや聖書を題材にした大作を残しました。梅爺は、今回、『プラド美術館』に展示されている絵のほかに、トレドの大聖堂内に飾られている絵や、同じくトレドのサントトメ教会にある『オルガス伯の埋葬』なども観ることができました。

『ベラスケス』は、フェリペ4世の宮廷画家として、当時から名声を博した画家で、その驚異的な写実技法は、写真の無かった時代には、大変貴重なものであったと思われます。『プラド美術館』には、名画『ラス・メニーナス(女官たち)』などが展示されています。『ラス・メニーナス』は、幼い王女マルガリータと女官、道化師を、ベラスケス自身が描いている場面が描かれていますが、よく観ると奥の鏡に、この様子を見ているフェリペ4世と王妃の姿が映っています。つまり、この絵を観る人は、王様と王妃と同じ視点で観ているという、凝った構図になっていて、見事に心理的『空間』を表現していることが分かります。円熟期の『ベラスケス』の絵は、この『立体空間表現』が特徴です。

『ゴヤ』は、当時としては遅咲きの画家ですが、カルロス4世に宮廷画家として仕えました。梅爺は前に『宮廷画家ゴヤは見た』という映画を観て、ブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-b844.html

『プラド美術館』には、『着衣のマハ』『裸のマハ』はじめ、多くのゴヤの作品が展示されていますが、梅爺は、ゴヤが宮廷画家を辞めて晩年描いた、厭世的で暗い画風の絵が心に残りました。彼は、外見だけではなく、人の心も描き出し、時には、自分を含め人間の中にある『どす黒い部分』さえも、絵として表現できる才人であったと思います。ゴヤは、梅爺が最も好きな画家ですので、『プラド美術館』には、大いに満足しました。

今回の旅行では、マドリッドで一日半の自由時間があり、『プラド美術館』のほかに、『国立ソフィア王妃芸術センター』『ティッセン・ボルネミッサ美術館』も訪れて、スペインが生んだ近代画の巨匠ピカソやミロなどの絵も沢山観ることができました。

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2009年5月 3日 (日)

アントニオ・ガウディ

Dscn6948 サグラダ・ファミリア教会(西門)

スペインのカタロニア地方の中心都市バルセロナは、19世紀から20世紀の始めに活躍した偉才の建築家アントニオ・ガウディの設計した建造物が残る街として有名です。グエル公園、カサ・ミロ(ミロ邸)などが観光対象になっていますが、なかでもサグラダ・ファミリア教会(聖家族教会)が、異彩を放っています。

もっとも、サグラダ・ファミリア教会は、19世紀末に建築を開始してから、まだ完成していませんから、100年以上建築作業中ということになります。梅爺は、15年ほど前に一度見学していますが、その時の説明では、完成までにあと100年以上はかかるだろうということでした。しかし、今回見学してみると、前には無かった礼拝堂主要部も姿が出来上がりつつあり、現在の建築責任者は、2022年には、完成予定と語っていることを知りました。寄付と観光客の入場料が資金源ですが、これも今のところ潤沢であるということなのでしょう。

ガウディが、サグラダ・ファミリア教会の設計責任者であったことは確かですが、設計図は残されておらず、その他の検討資料も内戦時に紛失したりしてしまっていますので、引き継いだ建築家達は、『彼の意図』を忖度(そんたく)しながら、建築を継続しているというのが正しい表現です。東門(ファサード)には、キリストの生誕を表わす彫刻群が、西門には、キリストの受難を表わす彫刻群が施されていますが、東門の彫刻の責任者は、日本人の外尾悦郎氏です。世界中で活躍する日本人が多いことは、誇らしいことです。

2006年に、この教会の真下に、スペイン新幹線(AVE)のトンネルを掘る計画が浮上し、教会が崩壊するのではないかと議論を呼びました。しかし、今回、それに関する説明がなかったところをみると、問題は解決しているのかもしれません。

ガウディの建築の特徴は、従来の西洋建築の無機質な幾何学的対称性を排除し、生物体のような印象を観る人に想起させることです。西洋人には、斬新なものかもしれませんが、日本人は、茶道の陶器茶碗のような、故意に対象性を崩したものへの美意識を保有していますので、それほど異質には感じません。ガウディが好きだという日本人が多い理由も、そのためかもしれません。

それでも、ガウディが設計したような家に住みたいかと聞かれれば、梅爺は、やはり躊躇することでしょう。それでなくても、へそ曲がりな爺さんだと思われているところに、こんな家に住んでいたら『本当にへそ曲がり爺さん』のレッテルを貼られてしまうことになりかねないからです。というのは、少しばかり冗談で、単に家は芸術的であるより、生活する上で機能的であることを優先したいと思うからです。

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2009年5月 2日 (土)

スペインの歴史(2)

Dscn7152 グラナダのアルハンブラ宮殿

スペインの歴史を、大雑把に時代別に分類すると、以下のようになります。

(1)原始・古代時代
(2)ローマ帝国時代
(3)西ゴート王国時代
(4)イスラムの支配時代とレコンキスタ(国土奪還戦争)
(5)スペイン・ハプスブルグ朝時代
(6)ブルボン朝時代
(7)フランコ独裁時代
(8)現代(ブルボン朝の復活と立憲君主制)

(1)原始・古代は、紀元前14000年頃のクロマニオン人(北スペイン)、紀元前5000年頃のイベリア人(巨石文化、北アフリカから南スペインへ移住)、紀元前1200年頃地中海から南スペインへ移住したフェニキア人、紀元前1000年頃ピレネー山脈を越えて北スペインへ移住したケルト人と、多彩な民族が移住を繰り返した期間です。

(2)のローマ帝国時代は、ポエニ戦争でカルタゴに勝ったローマ帝国が、スペインを支配した時代で、有名なトラヤヌス帝はスペイン出身です。(3)の西ゴート王国は、ローマ帝国崩壊後、フランス、スペインを支配したゴート族の王国で、560年にスペインのトレドに遷都しています。しかし、711年に、ジブラルタル海峡を渡って来たイスラム勢力に滅ぼされ、その後(4)のイスラムの支配時代が、15世紀後半まで続きます。13世紀のイスラム・ナスル朝がグラナダに建造したアルハンブラ宮殿は有名です。

イスラム勢力によって、北スペインへ押しやられたキリスト教(カトリック)勢力は、国土奪還(レコンキスタ)を目指し、カスティーリャ王国(イサベラ女王)、アラゴン王国(フェルナンド王)の結婚合併で力を盛り返し、ついに1492年にイスラム最後の砦グラナダを奪還し、『レコンキスタ(国土奪還)』は成就します。

その後、イサベラ女王の王女フアナと、ブルゴーニュ公フィリップの結婚で、その子供カルロスがスペイン・ハプスブルグ家を啓(ひら)くと同時に、神聖ローマ帝国皇帝(カール5世)にも即位し、大航海時代に便乗し、『陽の沈まぬ帝国』で全盛期を迎えます。しかし、1588年に無敵艦隊がアルマダの海戦でイギリスに破れ、スペイン・ハプスブルグ家は後継者が途絶えて、1700年に、ブルボン家のフェリペ5世が即位して(6)のブルボン朝に入ります。1808年には、ナポレオンに侵攻され、一時ブルボン朝は途絶えたこともあります。

1820年以降、スペインは、社会主義革命(王政廃止)、共和政権成立、王政復活、内戦などを繰り返した後、1939年に、(7)のフランコ総統独裁時代に入り、フランコの死後1978年に、ブルボン朝が復活して、(8)の現在の立憲君主制となります。

民族、権力者、宗教が複雑に絡むスペインの歴史は、一回や2回聞いたくらいでは、なかなか頭に入らない複雑なものです。梅爺は、従来断片的に知っていたことを、全体の流れの中で理解するのに苦労しました。イサベラ女王、フランコ総統などは、梅爺にとって、非常に興味深い人物です。


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2009年5月 1日 (金)

スペインの歴史(1)

Dscn7200 アンダルシア地方延々と連なるオリーブ畑

外国を旅行して、私達はその国の『現在に受け継がれている文化』と『歴史的な遺物』に触れることになります。ヨーロッパの国々には、いずれも波乱万丈の歴史がありますが、特にスペインは格別であることを実感しました。

梅爺は、スペインの歴史を今まで体系的に理解していませんでしたが、今回の旅行で、少しばかり理解が進みました。旅行しなければ、知らないままで終わったはずですので、副産物とは言え、ありがたい話です。

スペインは、平均標高500メートルの平坦地に恵まれた国です。勿論、北にピレネーや、南にシェイラ・ネバダなどの高い山脈もありますが、日本に比べれば、山岳地帯が少なく、古代から人間の居住には適した環境風土であったと言えます。後期旧石器時代(紀元前14000年頃)に、クロマニオン人が、アルタミラ洞窟(スペイン北部)に壁画を残していることがその証拠です。

日本の1.3倍の国土(これは地図上の比較で、山岳部が少ないスペインの方が実質的にはずっと広い)に、日本の1/3程度の人口しか住んでいないわけですから、都市部を少し離れれば、人気の無い景色が延々と続くことになります。ただし、平坦地と言っても、南のアンダルシア地方などは、年間を通じて気温が高く、降雨量も少ないために、農地としては肥沃と言えず、オリーブ畑、ブドウ畑、ひまわり畑などが主流です。この地方の延々と続くオリーブ畑は圧巻でした。それでも、地球温暖化の影響で、国土が埋没する懸念のあるオランダや、暖流のストップで寒冷地となる恐れのあるイギリスなどに比べて、恵まれた地理条件の国であると言えます。

南は、ジブラルタル海峡を挟んで、アフリカと接している上に、地中海、大西洋にも面しているわけですから、歴史的には、多くの民族や国家がこの地を支配したり、利用したりしようとしたのは当然で、それが、スペインの歴史を複雑にしています。

何時の時代に、どの権力者が、何の目的でスペイン(イベリア半島)を支配しようとしたかを辿れば、スペインの歴史は見えてきます。宗教も歴史に多大な影響を及ぼしていますが、敬虔なカトリック信者であったイサベラ女王が、イスラム勢力とユダヤ教徒(ユダヤ人)を15世紀後半に国外追放して以来、ヨーロッパでも珍しい『カトリック一色の国家』を維持し続けています。近世に、ジョージ・オーウェルの著書『カタロニア賛歌』でも紹介されているような共産主義、社会主義の動き(内戦)もありましたが、カトリックの支持を受けたフランコ将軍の独裁政権によって、排除されています。

情熱の国スペインと言われますが、カトリックを基盤とした保守的な文化を抜きにしては、現在のスペインは理解できないと強く感じました。そのお陰で、各地に、南米から略奪した金(きん)で内装を施した古い大聖堂があり、日本人観光客は、『これぞ中世ヨーロッパ』と、ため息がでるような絢爛豪華さを、満喫することができます。

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