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2009年2月28日 (土)

死海の書(1)

1947年に、死海の北西岸にあるクァムランの崖に掘られた洞窟を、現地の放牧民ベドウィンの羊飼いが偶然発見し、内部に埋められていた土器の壷の中から、多数の古いユダヤ(ヘブライ語、アラミック語)の言葉で書かれた巻物古文書(Scrolls)が見付かりました。その後1979年に、別の洞窟でも見付かり、更に多くの古文書の存在が明らかになりました。これらは、『死海の書(Dead Sea Scrlolls)』と呼ばれ、その後、その内容の解釈や、歴史的な意味をめぐり、国際的な大議論に発展したことは、ご存知の方も多いでしょう。

巻物と言っても、書かれたのは『キリストが布教活動をしていた同時代またはその直後』と考えれれていますので、主として、山羊や鹿の皮に手書きで記述したもので、発見時には大半が、ジグゾーパズルのピースのように、バラバラになってしまっていました。従って、その復元、解読(古いヘブライの文字)には、想像以上の困難が伴いました。

発見当時の現地の政治情勢(イスラエルの建国は翌年の1948年)、古文書の内容に関わるユダヤ教とキリスト教の思惑の違い、古いユダヤの文字に精通した学者不足、などが絡み、一部の限定した学者(国際チーム)だけが、この古文書に接することを許されていたたこともあって、その内容の一部が公開され始めたのは、発見から約50年も経った1990年代の半ば以降のことでした。

最初に発見された資料は、エルサレムの骨董商が仲介人となり、色々な人の手に渡った後に、結局イスラエル政府が買い取り、現在もイスラエルの管理下にありますが、後に発見された資料(この方が、最初の発見より量が多い)は、当初ヨルダン政府の管理となりました(当時ヨルダンの支配下にあったエルサレム東地区のパレスチナ考古博物館が所有)。しかし、1967年の中東7日戦争の後に、エルサレム東地区もイスラエルの支配下になり、今では両方とも、イスラエルの管理下にあります。1990年代に、一部の学者しか研究対象としてアクセスできないのは、おかしいという国際的な圧力がたかまり、裁判沙汰にまでなった末に、ようやくマイクロフィルムの収められた資料が、一般公開されて、一般の学者や世間の注目度が高まりました。

当時のジャーナリズムは、『キリストの実像が分かるかもしれない』『キリスト教の教義に対する見方が変わるかもしれない』と、大袈裟に報じましたので、梅爺も、野次馬根性に駆られて、1996年に、『The Hidden Scrolls : Neil Asher Silberman著(秘匿された巻物)』という英語のノンフィクション本を購入し、読みました。もう10年以上も前のことで、内容に関する記憶はおぼろげになってしまっていました。ただ、期待したような、キリストに関する新事実や、明らかにキリスト教の教義と異なった内容がが見付かったわけではないと、当時は浅薄に理解し、野次馬としては少しガッカリした記憶は残っていました。

最近、キリストが生きた時代のユダヤの社会情勢に興味がわき、もう一度読み直してみれば、当時は知識不足から読み落としていたようなことで、実は重要なことが見付かるかもしれないと考え、上記の本を読み返すことを始めました。

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2009年2月27日 (金)

縁は異なもの

江戸いろはカルタの『ゑ』、『縁は異なもの』の話です。

誰もが、自分の人生は、『偶然の出会い』に大きく支配されていると感じます。数学的な確率で考えれば、普通は『ありえない』と考えられるような、『出会い』を経験すると、『これは神や仏のお導き』かと、考えたくもなるのも無理はありません。

江戸の庶民は、この『縁』にまつわる、人知を超えた事柄を、『異』と表現したことになります。『摩訶不思議』という意味で、現代でも『異』であることに変わりがありません。

梅爺が最近体験した『奇遇』については、前にブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_78f3.html

『出会い』が『偶然』に支配されやすいように、自分の出生に関しても、親も、性別も、時代も、国籍も自分では選べない『偶然』で支配されていますし、死に関しても普通は、原因や時期を選べません。受精の瞬間にDNAの配列が決定し、自分の先天的能力が決まってしまうというプロセスも、『偶然』の最たるものです。アンネ・フランクもあと数十年後に生まれていれば、ごく普通の女性として一生を全うできたかもしれません。人間の身体を構成する60兆とも言われる数の細胞も、外部からの偶然に属する刺激や情報に反応して、それぞれ必然的に働いているわけですから、人間も、世の中も、自然も宇宙も、すべて『偶然』と『必然』が織り成す、『摩訶不思議』な世界であると言えます。

この『摩訶不思議』は、現時点では、人知を超えていますので、『そういうものだ』と単純に受け容れるか、梅爺のように『自律分散処理』が基本ルールであるなどと勝手な『仮説』を唱えるか、『神や仏といった、緻密な設計者が存在する』と信ずるか、いずれかの選択をすることになります。いずれにしても『偶然』がもたらす影響は、幸運をもたらすポジティブなものと、不幸をもたらすネガティブなものの両面がありますので、『神や仏のお導き』とするならば、ネガティブなものも均等に受け入れなければならないように思います。江戸いろはカルタの作者は、考えたって、どうせ分からないものなのだから、『異』として受け容れなさいといっているようにも受け取れます。梅爺にとっても、『偶然』が、あくまでも単なる『偶然』に過ぎないのか、はたまた奥に『深い意図が込められているもの』なのかは、理解の範囲を越えていますので、『異』であることは確かです。仮に『深い意図が込められている』としても、それは『人間のためだけに良かれと意図されたもの』ではなさそうだと感じています。アンネ・フランクの死は、ナチの人為的な暴虐が原因で『偶然』ではないように見えますが、あの時代にユダヤ人として生まれたことは『偶然』です。この『偶然』を、『神の導きである』などと言える資格は、誰にもないように思います。

いずれにしても、『偶然』が『必然』を喚起するというしくみで、人も、世の中も、自然も運行しているように思えますので、『偶然』は『できれば避けたいもの』ではなく『必要なもの』であるように思います。『偶然』がなければ、人間の生も、人生も成り立ちません。

『偶然』は『異なもの』ですが、自分の意志や能力の範囲で、どう対応するかで、その人の人生は変わることは、まちがいなさそうです。

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2009年2月26日 (木)

マイケル・クライトンの小説『Next』(5)

マイケル・クライトンは、『Next』の巻末の『Author's Note(著者コメント)』で、遺伝子工学について以下の5項目を主張しています。

(1)遺伝子そのものを特許の対象にすることは禁止すべきである
(2)遺伝子操作を人間に適応する場合の明確なルール、ガイドラインを策定すべきである
(3)遺伝子に関する実験データは全て一般公開することを法で義務付けるべきである
(4)原則として、遺伝子工学の研究を禁止すべきではない
(5)大学研究者を優遇する現行法は見直すべきである

梅爺も、この主張は、いずれも妥当と感じています。

最も微妙な問題は(4)で、梅爺も現役の時に仕事で付き合いがあった元サンマイクロシステム者チーフ・サイエンティストのビル・ジョイは、『21世紀に人類を滅ぼしかねない、遺伝子技術、ナノ技術、ロボット技術は、即刻研究を禁止すべき』と主張しています。宗教関係者も『神が創造した摂理を人為的に変えるのは冒涜』として、賛意を表明していますが、多くの科学者は、研究禁止に反対しています。

これに関しては、前に『不老長寿の時代はくるか』というタイトルでブログに紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_d9ea.html

『人間は、真理探究(リサーチ)をする基本的な権利を有する』ことを原則として認めた上で、『研究成果の応用分野(テクノロジー)は、場合によっては法で規制する』という考え方が妥当ではないかと梅爺は考えています。

人間が生物として保有する『バイオ・インテリジェンス(主として脳の働き)』と、技術が創り出す『非バイオ・インテリジェンス(人工インテリジェンス)』の合体をどこまで認めるかは、確かに人類の未来に大きな影響があると思います。『生物進化』にあたる行為を人為的に行おうとすることの是非を問う問題ですから、深遠な洞察を要しますが、科学に関して本質を理解していないばかりか、字が読めなかったり、アルコール中毒症であったりする現状の政治的指導者が、そのような洞察ができるかどうか、極めて心配です。年寄りの梅爺が悩んでもしかたがないことですが、100年後の世界は、思いもよらないものに変貌している可能性があります。

(5)の問題は、米国では、税金で研究を行った大学研究者(教授など)個人が、研究成果を個人の特許にして、企業に売り渡すことが許されていることに関連しています。日本では、梅爺の認識が間違っていなければ、大学の研究成果の特許権利は大学に属し、大学はこれを金に換えても良いということになっています。つまり、個人は『発明者』としての名誉は記録に残りますが、権利の保有者ではないはずです。

米国の科学技術競争力を高めようと、大学の個人研究者を優遇した結果、大学の研究と民間企業の研究に差異がなくなり、誰もが『金儲けの研究』しかしなくなったという話です。こういう環境からは、ノーベル賞学者はなかなか出にくくなります。

『Next』という小説は、大衆受けを狙った、おどろおどろしい内容ですが、その背景は、切実な未来の問題を示唆しているという点は、評価に値するように感じます。

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2009年2月25日 (水)

マイケル・クライトンの小説『Next』(4)

この小説の背景は、ひとつは、チンパンジーや鸚鵡(オウム)に人間の遺伝子を適用してみて、『何が起きるか』を見てみたいという、好奇心ですが、もう一つは、遺伝子工学の将来に見えている『莫大な金儲けの機会』を逃すまいとする、大学の研究機関や薬品会社の野望です。

確かに、『不治の病』と今までは考えられてきた、ダウン症やアルツアイマーなどが『治せる』ということになれば、多くの人が救われますし、人間の寿命が延ばせるとなれば、惜しげもなくお金を使う人たちが現れるにちがいありません。このために、研究機関や薬品会社は、こぞって『DNAの中の特定な遺伝子とその役割』を見つけ、『特許』を取得しようと躍起になっています。

人間の遺伝子は、3万5千種と考えられていますので、このままいくと、3万5千の『特許』が出現しそうな話です。遺伝子は、人間の創意で創りだされたものではなく、自然界に既に『存在していた』ものですから、それ『見つけた』といって、特許の対象にするのが妥当なのかと、梅爺は単純に疑ってしまいます。『富士山』を始めて見つけた人が、『富士山』を特許にして、登山者や写真を撮る人から、特許料をせしめようとしている話に似ているからです。遺伝子のしくみを利用した『治療法』や『新薬』は特許の対象であろうと思いますが、遺伝子そのものは特許の対象ではないと思います。

大体、『ある遺伝子とその役割』の関係を、単純に律することは難しいのではないでしょうか。『倫理観に乏しい人』『泣き虫な人』『語学に堪能な人』は、勿論なんらかの遺伝子の影響を受けているとは思いますが、それらに1対1で対応する『特定な遺伝子』があるとは思えません。人間の脳は、もっともっと複雑な相互作用で機能していると考えられるからです。特に、『情感』に関してはそうであろうと思います。梅爺は、『ネアンデタール人は慎重であるという遺伝子を持っていたために滅んだ』等という説を読むと、『そんな単純な話ではないだろう』と疑ってしまいます。

ある特定の病気と遺伝子の関係を見つけるために、研究機関は、その病気にかかっている人の、血液や細胞を採取します。病人本人は、自分の治癒のために行われていると考えていたのに、後日、自分の血液や細胞が、『新薬開発』に利用されていたことが分かり、その会社が莫大な利益を上げていることが判明した時に、病人は、『他の利用目的を承認していたわけではない』として、製薬会社を訴える(利益の一部は自分に権利があると)ことができるかどうか、ということになります。『Next』という小説には、この種のエピソードが描かれています。

若いときに『精子バンク』に自分の精子を提供したことがある人の前に、突然DNA鑑定を証拠に『私はあなたの娘だ』という女が出現したり、研究機関に自分の『卵子』を売るために、誘卵剤を常時服用する若い女の子が現れたりと、なんともおどろおどろしい話が、次々にこの小説では展開します。

人間社会は、新しい事象に遭遇すると、色々な問題を起こし、やがて、新しい秩序を見出していきます。そういう意味では、遺伝子工学がもたらす問題を、予測し、待ち受けるのには、この小説は、少々役立つかもしれません。

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2009年2月24日 (火)

マイケル・クライトンの小説『Next』(3)

生物の『個』の細胞には、みな同じDNAが含まれていますが、『個』のどの部分を構成する細胞かによって、DNAに含まれる情報の利用部分が異なります。『個』のDNA内容は、受精、受粉などの生命誕生の瞬間に決定し、その後『個』の中で細胞分裂が行われる時には、必ず同じDNAがコピーされて受け渡されます。何という見事なしくみでしょう。

生物進化の過程で、時代と共に、『種』のDNAに含まれる情報量は変わっていきます。

コンピュータに例えれば、生物の生命活動を生み出す全ての指令が、『個』によって異なる一本の『ソース・プログラム』にまとめられているという話です。各々の細胞が、その細胞だけが必要とする部分的な情報(プログラム)だけを保有するという、別の方法も論理的には考えられますが、そうなっていないことに、重要な意味や理由があるのでしょう。

種によって、DNAの基本構造は同じですが、DNAに書かれているプログラムは異なっていて、それが、個の違いを生み出しています。地球上には65億人の人が居ますが、全部外見、能力が異なっているのはこのためです。クローンは『遺伝子操作』で、『個のコピー』を人為的に作り出そうという試みで、既に、マウス、羊、牛などで、成功しています。自然に生まれてきた同種の生物より、クローンは『短命』であることが、現象的に分かっていますが、その理由は詳細には分かっていません。人間のクローンも論理的には『可能』であると推察されますが、現状では『倫理』や『法』が、その実験を規制しています。

自然界では、近い関係の種の間で、交配が一部可能であることが分かっています。トラとライオン、馬とロバ、豚と猪などは『ハイブリッド(あいの子)』の子供ができますが、一世代限りの命であることも分かっています。

『人間』と『チンパンジー』の間の交配が可能かどうかと興味がわきますが、自然交配で成功したという事例は、聞いたことがありません。ヒトラーやスターリンが、科学者にそれに類する研究を命じたと言われていますが、真偽の程は分かりません。ロボット兵士のように、従順に戦場に赴く兵隊(人間とチンパンジーのハイブリッド)を量産したかったのかなと、想像しますが、もしそうなら恐ろしい話です。

自然交配では成功しないとしても、チンパンジーの胎児のDNAを『人間のDNA』に置き換えたら、何が起きるかという実験は論理的には可能です。勿論、このような実験も『倫理』や『法』が規制していますが、それを破ってこっそり実験を行い、『新種の生物』が出来上がったというストーリーが、小説『Next』では、繰り広げられます。なんと更に同じような手法で、鸚鵡(オウム)に『人間のDNA』を適用した例まで登場します。この鸚鵡は、簡単な論理的な会話ができるばかりか、単純な計算までできるという話になっています。いくらなんでも、人間と鸚鵡の脳構造は違いすぎるので、そんなバカな話はないだろうと、梅爺は疑いますが、残念ながら『ありえない』と断ずる知識を持ち合わせていません。

小説に登場する人間とチンパンジーの『ハイブリッド』は、外見は、双方の特徴が交じり合っていて、知能は、人間の小学生なみということになっています。通常の会話や簡単な計算もこなします。もっともらしい、都合の良い話ですが、これまた、『嘘だろう』と反論する能力がありません。

小説なので、どんなプロットも許されるとしても、読者に対する、間違った期待や偏見を与えるような気がして、梅爺は、どうもついていけません。と言いながらも、途中で本を投げ出さずに、最後まで読みましたので、偉そうなことは言えません。あやしい見世物小屋を覗きたいという好奇心旺盛な方にはお奨めしますが、現状の科学レベルを知りたいという真面目な方には、あまりお奨めできない本です。

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2009年2月23日 (月)

マイケル・クライトンの小説『Next』(2)

地球上の生物は、動物も植物も全て『遺伝子』というコードで、その生命活動が維持されているという『事実』を科学が明らかにしました。遺伝情報の担い手はDNAと呼ばれる高分子の核酸で、その構成単位は、たった4種類のヌクレオチドと呼ばれる化学物質(A、C、G、Tと呼ばれる)であることも判明しています。DNA(デキシリボ核酸)が、二重らせん構造であることが発見されたのは1953年(J・ワトソン、F・クリック)ですから、梅爺が生まれた頃は、誰も上記のような『知識』を持ち合わせていなかったことになります。

ヌクレオチドは、アルファベットのようなものですので、この組み合わせで遺伝の『文字』『単語』『文章』にあたる情報が、指定されることになります。摩訶不思議にみえる生物の生命活動の基本が、たった4種の基本記号から作り上げられているという単純なルールに驚かされます。このことのアナロジーから、同じく摩訶不思議にみえる宇宙の活動も、根本は極めて単純なルールで構成されているのではないかと、梅爺は想像してしまいます。

『生物進化論』は、上記の基本ルールさえもが、気が遠くなるような時間をかけた偶然をベースにした試行錯誤のなかから、生まれてきたものという『仮説』ですが、いまのところ、この『仮説』以上に、矛盾なくルールの存在を説明する方法は見付かっていません。したがって、『生物進化論』は、『定説』として、多くの人が認めています。勿論、梅爺もこれに反論する能力を持ち合わせていません。ただ、偶然からルールができていくシステムは『自律分散処理システム』が基本であれば、可能かもしれないと感じています。これについては、前にブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-5cb4.html

人間は、『目的があって結果が生ずる』という論理でものごとを理解しようとする習性をもっていますので、上記のような『気の遠くなるような、もどかしい話』よりも、『ルールは神がデザインした』という説明の方が、手っ取り早く理解しやすいと感ずるのも、当然のように思います。『生物進化論』を思いつかなかった時代の人は、尚更のことです。ダーウィンは『種の起源』を発表してから、まだ160年しか経っていません。

DNAの構造や生物進化論といった『知識』を保有し、飛行機、高速列車、自動車、テレビ、携帯電話、パーソナル・コンピュータ、インターネット、エアコンなどを当たり前に利用している現代人は、17万年の人類の歴史の中では、極めて特殊な人間であることが分かります。こういう知識や体験を保有していなかった時代の人たちのことを、現代の前提を排除して考えることは、意外に難しいことです。自然災害や病気は、『悪魔のたたり』と『本当に信じていた人たち』と、同じ視線で、当時の状況を考えることができる現代人は、かなり柔軟な思考能力の持ち主であると言えますが、多くはありません。

生物の種によって、DNAの情報量が異なっていますが、基本的な『しくみ』は『同じ』であるという『事実』が、次なる可能性を人間に思いつかせます。同一種の中の『遺伝子操作』だけでなく、異なった種の間の『遺伝子交換』といった、自然の摂理に反する行為さえも思いつきます。

『Next』という小説は、『人間』と『チンパンジー』といった異なった種の間で『遺伝子交換』が行われると、何が起きるかといった、恐ろしい想定の話をも含む小説です。

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2009年2月22日 (日)

マイケル・クライトンの小説『Next』(1)

アメリカの大衆小説作家は、ご他聞にもれず『アメリカン・ドリーム』で、一攫千金を狙うのか、とにかくサービス精神旺盛で、『面白さ』をテンコ盛りにしようとします。知識と才能を駆使して、読者をあっと言わせようとします。アメリカの読者の多くがそれを求めるという需要と供給の関係もあるのでしょう。

確かに、ストーリー・テラーとしての才能には恵まれている作家が多いと梅爺も感じますが、刹那的な『面白さ』で終わってしまい、日本の山本周五郎、藤沢周平の小説のように、『面白くて、胸にジンとくる』というような、両面を満たしてくれませんので、読後に深い感動が残るような作品にはなかなか遭遇しません。最近癌で亡くなったマイケル・クライトンも、代表的な『アメリカ型大衆小説作家』ですので、梅爺も、題材に惹かれて時折読みますが、傾倒する作家ではありません。

梅爺が、翻訳本ではなく、英語のペーパバックでアメリカの大衆小説を読むのは、別に気取っているからではなく、できるだけ英語に接して、自分の英語能力を維持したいということと、異文化を直接体験したいという両面を求めてのことです。40歳をすぎたころから、この習慣を続けています。現在では、英語の語彙、文法、イデオムを理解しながら、異文化にふれることは、普段使わない脳の回路を活性化するという点で、脳の老化防止に役立っていると、勝手に悦に入っています。『英語速読術』と『英語の本を読む習慣』については、前にブログで紹介しました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_628c.html

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_9f05.html

遺伝子操作が、近未来に人類にもたらす影響を扱った、マイケル・クライトンの『Next』という小説を、最近読みました。想像とおり、これでもか、これでもかと、話題をテンコ盛りに提供している本であることが分かりました。

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2009年2月21日 (土)

ネアンデタール人(4)

ネアンデタール人について、もう一つ面白い科学的な推察が、『Next』という小説で紹介されていました。それは、ネアンデタール人は『金髪(ブロンド)』や『赤毛』であったということです。

『人類の足跡10万年全史』という本を読んで、現在地球上に存在する人類(現生人類)は、全て17万年前にアフリカ中央のサバンナ地帯に出現した『同一の先祖』を持つことを知りました。ミトコンドリア遺伝子、Y染色体を手がかりに、科学的に追求すると、そういう『事実』に辿りつくということでした。

ヨーロッパ、特に北欧系の人種の金髪、碧眼、白い皮膚、アフリカ系の人種のちじれた黒髪、黒い肌、アジア系の直毛黒髪、黒い瞳、黄色い肌を比べると、とても同じ先祖を持つとは想像できませんし、頭の格好や顔面の彫りの深さの度合い、それに鼻の形状などを比べても、あまりに風貌は異なっていますので、『同一先祖説』には当惑しますが、科学の証明する事実ですから、受け容れるほかありません。

『Next』で紹介されている、ネアンデタール人金髪説では、ネアンデタール人と現生人類の混血で、『金髪の資質』が、現生人類に引き継がれたのであろうとの説が述べられています。

しかし、梅爺が読んだ『人類の足跡10万年全史』では、『ネアンデタール人と現生人類の混合(混血)』の顕著な跡は、見受けられないと書いてありましたので、どちらが正しいのか、梅爺には判断がつきません。常識的に考えて、共存期間があったとすれば、『混血』が無かったとは考え難いので、『金髪』は、ネアンデタール人から受け継いだものという説は、可能性があるように思います。もし、混血があったとすれば、『金髪』以外にもネアンデタール人の資質は、現生人類に引き継がれていることになります。その中には『慎重に行動する』という資質もふくまれているのかもしれません。ネアンデタール人の頭蓋骨から復元した顔の容貌をみると、確かにヨーロッパ系白人に似ているように梅爺は感じます。

『金髪』は、現生人類自身が、進化の過程で獲得したものか、ネアンデタールとの混血で獲得したものかは、梅爺にはわかりませんが、少なくとも『混血』は全く無かったわけではなく、その名残が現生人類に引き継がれているのではないかと、推測しています。

考古学、人類学、遺伝学に詳しい方からみると、とんでもない誤解かもしれませんので、真相をご存知の方がおられましたら、是非ご教示いただきたいと思います。

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2009年2月20日 (金)

ネアンデタール人(3)

『慎重になる』という行動パターンは、『推論能力』の高い人にありがちなことです。色々な将来の状況を総合的に考えれば考えるほど、思い切った変化に身を投ずることが怖くなって、決断できずに、グズグズと現状を維持しがちです。あまり色々なことを考えることが苦手な人は、思いつきでパッと行動してしまうことができますが、危険で、向こう見ず、無鉄砲であるとも言えます。少々無鉄砲な行動をする子供は、『活発で子供らしい』と評価され、臆病な子供は『グズ、小心』と低く評価されますが、臆病な子供が、実は『劣っている』とは限りません。

人生の面白いところは、慎重な人がいつも良い結果を得るとは限らず、大胆な行動をした人の方が、成功を収める場合もあるということでしょう。勿論、逆の場合もありますので、『慎重』が良いか『大胆』が良いかは、一概には言えません。梅爺は、どちらかといえば『慎重』な性格ですが、人生を振り返ってみれば、それで得をしたことも、損をしたことも、同じように思い浮かびますので、自分の経験からも、どちらが良いとはいえません。

もし、ネアンデタール人が『慎重』であったとするなら、現生人類より、脳の『推論応力』が進んでいたと言えない事はありません。

迫り来る環境の変化に対して、『進化レベルで劣っていた現生人類』は、さっさと現状維持をあきらめ、無謀ともいえる危険を犯して新天地への脱出を試み、結果的にうまくいって生き延びたのに対して、『進化レベルで優れていたネアンデタール人』は、現状のままで、なんとかしのごうと頑張った結果、結局死に絶えてしまった、というようなストーリーが思い浮かびます。なまじ『少しばかり進化で勝っていた』ことが災いしたという皮肉な推測です。勿論、これは、仮に、ネアンデタール人が『慎重』な性格であったが故滅んだという説が正しいのとして、梅爺が考えうる一つの『推測』に過ぎません。もっともらしい話にも見えますが、『そんな単純な話ではないだろうと』とホンネでは疑っています。

ただ、生き残ったのは現生人類で、死に絶えたのはネアンデタール人であるという史実だけで、現生人類がネアンデタール人より『優れている』と判断するのは、単純すぎるかもしれないと梅爺も考えるようになりました。

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2009年2月19日 (木)

ネアンデタール人(2)

小説『next』の中に、ネアンデタール人は、現生人類より『慎重に行動する』遺伝子に支配されていたので『滅んだ』という説を、アメリカの遺伝子学者が発表していることが紹介されています。勿論、その遺伝子も個別に特定したと発表したと報じられています。

人間の遺伝子構造(ゲノム)は、スーパーコンピュータのお陰で、期待以上の速さで解読が終わり、約3万5千種の遺伝子で、『人間は支配されている』ことが最近分かりました。更に、驚くべきことに、『人間』は『チンパンジー』より、たった500ケの遺伝子が多いだけであることも分かっています。種として、『人間(現生人類を含む全人類種)』と『チンパンジー』が枝分かれしたのは、500万年前と推定されていますので、その後『人間』は、500万年かけて、500ケの遺伝子を獲得追加したという表面的には単純計算になります。かなり下等な生物でさえも、約2万種の遺伝子を持つことも判明していますので、人間だけが、飛びぬけて進化した生物であろうと想像していた、多くの人たちを当惑させました。生物に共通する遺伝子は、遺伝子の構造や機能だけで言えば、文字通り『共通』ですので、このことからも、生物として、人間は原生生物から進化したものであり、特別な存在ではないことが分かります。

前に梅爺は、『エデンを離れて』というブログを書いて、ネアンデタール人は現生人類より『劣っていた』故に滅んだ、と勝手な推察を書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-b880.html

しかし、実は『劣るどころか、優れていた』という見方があることを知りました。ネアンデタール人は、現生人類より脳容積も大きく、身体も頑健であったとするならば、全体的に現生人類よりも『優れていた』と想像できますので、『優れているもの』が滅び、『劣っているものもの』が生き残ったという話になります。サッカーや野球でも、『強いチーム』が『弱いチーム』に、ヒョンなことで負けてしまうということがありますので、ネアンデタール人も、ヒョンなことで滅んでしまったという説は、ありえないことではありません。

しかし、そのヒョンなことが、『慎重に行動する性格』であったという説は、梅爺には、にわかには信じがたい話です。特定の遺伝子が、生物の特定な性格と、1対1で対応しているという単純な話ではないだろうと、これまた勝手に推察するからです。

歴史的に、最後の氷河期以前に滅んだネアンデタール人ですが、その前には数度の氷河期を生き抜いたと考えられますので、環境変化に、対応しきれずに、グズグズしているうちに、滅んでしまったという、単純な説は説得力を欠くように感じます。

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2009年2月18日 (水)

ネアンデタール人(1)

アメリカのミステリー小説作家、マイケル・クライトン(Michel Crichton)が、癌で亡くなった(2008年11月4日:享年66歳)という報道があり、梅爺は風貌から推察して、彼はもっと若いと思っていましたので驚きました。

彼の名前をご存じない方でも、映画『ジュラシック・パーク』はご存知でしょう。彼の原作が映画化されたもので、世界中で大ヒットしました。考古学者が採取した化石の中に、恐竜の血を吸った『蚊』が発見され、この血の遺伝子から、太古の恐竜が生きた生物として『復元』されるという、少々奇想天外な話です。

彼は、先端科学が、近い将来『実現するかもしれない』ことを題材に、小説を書いてきました。科学の現状レベルや、現実の制約を理解している人は、『今すぐに、ものごとは、そうは簡単にはいきませんよ』と思いながら、フィクションとして読めるので、問題ないのですが、科学知識を持たない人は、今すぐにでも起こりえることと早とちりをして、『恐ろしい時代になったものだ』と、驚くことになります。科学者も、『将来にわたって実現はしない』とは、言い切れない、微妙できわどい題材を、小説のネタとして取り上げるところが、この小説家の才覚と言えます。一種のSF(サイエンス・フィクション)小説ですが、他のSF小説のようなスペース・ファンタジーではありません。

梅爺も、『科学的興味』から、今までに何冊か彼の小説を読んできましたが、梅爺好みの『理と情が絶妙に絡み合う小説』からは、程遠い内容なので、面白いと思うことがあっても、感動するようなことはありませんでした。はっきり申し上げれば、大好きな作家の部類には入りません。

それでも、『遺伝子操作』を題材にした『Next』という小説を本屋で見つけて、英語版ペーパー・バックを購入し、読まずに本棚に積んでありましたが、作家が亡くなったことを知り、これが遺作かもしれないと思い、読み始めました。『Next』の感想は、いずれブログで紹介したいと思います。

『Next』の中の随所に、『実際に報道された関連記事』のコピーが挿入されていて、小説そのものより、こちらの方が梅爺には、面白いと感じたくらいです。その中に、ヨーロッパの先住人種『ネアンデタール人』に関するものがいくつかありました。現生人類の『クロマニオン人』と入れ替わりで、3万年くらい前に絶滅してしまった人種で、梅爺は、かねがね『何故ネアンデタール人は絶滅したのか』という疑問を抱いてきました。考古学から、ネアンデタール人は、現生人類より、脳容積は大きく、体も頑強であったことが分かっているからです。

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2009年2月17日 (火)

伊豆『河津(かわづ)』の桜を愛でる

Dscn6732001 Dscn6733001 2月の9日から10日にかけて、梅婆と伊豆伊東へ、車で一泊旅行にでかけました。梅爺の大学コーラス仲間で、残念ながら3年前に亡くなられたWさんの奥様が、『東急ハーベストクラブ』というリゾートホテル・チェーンのメンバになっておられて、豪華ホテルに廉価で宿泊ができる『利用券』を、梅爺たちのために、ご親切にも用意してくださったからです。

昨年11月に、Wさんの奥様と、同じくコーラス仲間のUさんご夫妻、それに当方夫婦の5人で、軽井沢へ一泊旅行にでかけましたが、この時もWさんの奥様のご好意で、『東急ハーベストクラブ』を利用することができました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-05be.html

今回も、年金生活の梅爺たちには、少し贅沢なホテルに泊まり、ゆったり温泉につかって、伊豆の海の幸を満喫することができました。

10日は、天気予報では雨模様とのことでしたので、ついでの伊豆半島観光は、あまり期待していませんでしたが、幸い晴れ間が見える天候になり、それならばと、南に下り『河津(かわづ)の桜』を観にでかけました。『河津の桜』は早咲きで有名ですが、いくらなんでも2月のこの時期には、そうは咲いていないだろうとたかをくくっていましたところ、なんのなんの、現地では『桜祭り』が既に始まっており、平日にもかかわらず、現地は大変な人出で、びっくりしました。桜は、6から7分咲きで、川の両岸の桜並木の遊歩道を、約5キロメートルくらい、ゆっくり歩きながら、鑑賞することができました。遊歩道の脇には、菜の花が植えられていて、この黄色と、桜のピンクの対比が、すばらしい『色の光景』を生み出していました。

東京の中でも、特に寒い青梅に住んでいる梅爺たちには、突然夢の世界へ迷い込んだような体験でした。昨年は、東北地方へ、『桜前線(満開)を追いかける旅』にでかけましたが、今年も、『こいつぁ、春から縁起がいいぞ』と、ご満悦で帰宅しました。

早速『梅爺川柳』を、ひねりだしました。

老夫婦桜並木をとぼとぼと

桜観るときはさすがに好々爺

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2009年2月16日 (月)

突然川柳に目覚める

『田辺聖子の人生あまから川柳:(集英社新書)』という本を購入し、読んで、梅爺は突然『川柳』に目覚めました。

田辺聖子氏の、大阪弁をうまくあしらったエッセイは大好きで、昔、『週刊文春』に連載されていた『カモカのおっちゃん』は、毎週楽しみに読みました。

田辺氏ご自身は、比類なきユーモアと文学のセンスをお持ちですから、ご自分でいくらでも『川柳』くらいは作れるものと思いますが、この本は、専門家の作品から、田辺氏が好みで選び、それぞれに短い文章を付したもので、川柳と、田辺氏の洒脱な文章の両方を楽しむことができます。

『いろはカルタ』に魅せられて、梅爺は『駄文』を『梅爺閑話』で紹介してきましたが、『川柳』も、日本人の『諧謔精神』がいかんなく発揮されているものとして、誇りうる文化の一つと言えるのではないでしょうか。何といっても五七五の日本語のリズムが、脳に心地よく響き、短い表現という制約であるために、反って、語られていない状況を彷彿とさせ、読む人は、『そう、そう』と相槌を打ちながら、勝手な想像を楽しんでしまうわけですから、『脳の活性化』と『明るい楽しい気持ち』が一挙両得で得られるという優れものです。

この本に紹介されている川柳で、梅爺が、『うまいなあ』と感心した句には以下のようなものがあります。

このご恩忘れませんと寄りつかず (大田佳凡)
よくよくの心配事に犬も起き (岸本水府)
酔っぱらい真理を一ついってのけ (岸本水府)
かしこい事をすぐに言いたくなる阿呆 (亀山恭太)
恋すればおもしろいほど嘘がつけ (古下俊作)
あらかたは社長が笑う社長室 (川上三太郎)
貧乏もついに面だましいとなり (前田雀郎)
年というものは畳の上で転(こ)け (小島祝平)

梅爺は、文学的な素養には自信がなく、今更季語の制約などを細かく勉強するのも億劫なので、『俳句』には手が出ませんが、『川柳』なら、少しはなんとかなるのではないかと、無謀にも思いつきました。68年生きてきて、それなりに『人生経験』もあり、『諧謔精神』も、人並みにはあるという、勝手な思い込みです。

そこで、早速、『梅爺川柳』に挑戦してみました。梅爺の大学時代のコーラス仲間Kさんは、『川柳』の選者を務めるほどの達人ですので、Kさんにかかれば、『この程度では修行不足』と一喝されそうですが、以下に披露します。今後も、駄作が溜まった時に、『梅爺閑話』で、息抜きに、時折紹介したいと思います。

桃太郎金銀財宝(きんぎんたから)を持ち逃げし
金太郎小さな熊には寄り切られ
浦島は鯛やひらめを刺身にし

踏ん張って長生きをしても惜しまれず
ピンコロリ願う割には薬漬け
大往生通夜に並ぶは安堵顔

飼い犬と一緒に老いて散歩する
『あれのそれどうなった』と訊くもどかしさ

神仏に背を向けながら神頼み
大願の割には小銭のお賽銭

未曾有(みぞう)とは読めても出世ままならず
字が読めぬ子が宰相になると言い

世も終わりと言われながらも世は続き
とりあえず分かりましたで切り抜ける

やらねばと思いながらに先延ばし

お粗末さまでした。

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2009年2月15日 (日)

テロの時代(5)

『正義のために戦う』『信念を貫いて生きる』ことは、崇高なことと、私達は教えられてきました。しかし、『正義』や『信念』は必ずしも、絶対的なものではなく、相対的なものであると考えると、単純に『崇高』とも言えないことに気付きます。多くの『自爆テロ』実行犯は、自分は『正義のために戦い』『信念を貫いている』と確信しているからです。中には、ただ貧しい家族に『報酬金』を残すために、『自爆テロ』の道を選ぶといった、悲惨で哀しい例もあると、言われていますが、それは例外であろうと思います。

ヒズボラ(レバノンを中心に活動するイスラム教シーア派の政治組織)が支配する地域では、『自爆テロ』実行者の大きな顔写真がポスターとして、街中のいたるところに掲げられていることを番組は伝えています。英雄として美化されていることが分かります。

『邪悪に支配されるくらいなら、死んだ方がまし』などと、頭では考えますが、正義のために立ち上がって戦おうとしても、何の成果もなく、ただ悲惨な死のみが待ち受けているという、極めて過酷な現実もあります。

第二次世界大戦下のポーランド(ワルシャワ)で、侵攻してきたナチ・ドイツに抵抗したゲリラ組織の悲惨な最期を描いた映画『地下水道(アンジェイ・ワイダ監督)』を、録画しておいて最近観ました。『愛国心』に燃えて、立ち上がった多くの人たちが、圧倒的なナチの武力の前に、なす術もなく、都市の下水道に追い込まれ、悲惨な最期を迎えるという現実を、描いた映画です。ワルシャワ近くを流れる川の対岸まで、進軍してきた、スターリン配下のソ連軍は、そこで止まり、数十万のポーランド人がドイツ軍に虐殺されるのを助けずに、傍観していたといわれています。ドイツの敗戦を予測していたスターリンは、ソ連が進駐する前に、ナチに『過激な愛国者』を一掃しておいてもらった方が得と冷徹に考えていたと言われています。

この映画は、ソ連支配下のポーランドで製作されたものですので、ソ連を直接非難はできず、過去のナチとの戦いを描くことで、間接的に『抵抗』したものと考えられますが、大変優れた映画であると思いました。『愛国者の行動』を、英雄視したり美化したりしないことで、むしろ『愛国心』の尊さを伝えようとしているように感じました。

『正義(愛国心)』や『信念』を貫くことは、綺麗事ではなく、悲惨な現実や自らの死をも招くことを知りながら、それでも人間は立ち上がり、行動するという、人間の不思議な習性について深く考えさせられました。

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2009年2月14日 (土)

テロの時代(4)

現在世界が抱えているテロの問題の根に、『イスラム過激派』が関与していることから、宗教が元凶のように言われますが、過去のテロ事件を見ると、むしろ政治抗争、権力抗争や、時には単なる欲得や怨恨が根にあるものが多く、必ずしも宗教だけが元凶とは言えません。

テロは、弱者が強者に対抗する、手段の一つであり、突き詰めて考えれば、『自分に不都合な相手の存在を消し去りたい』という、人間の本能的な欲望が、極端な形で実行に移されるものと言えるような気がします。いやな話で恐縮ですが、誰もが切羽詰れば、『あいつさえいなければ』と、妄想します。ただ幸いなことに、大概は理性で『行動』を抑制しているために、問題が表面化しないだけの話です。犯罪の多くは、低俗な欲望や妄想を理性が制御できない時に起きています。

最近は『自爆テロ』という、自分の命を犠牲にするという、極端な方法が採られるために、『命より崇高な目的や栄光が存在する』という、大義名分が必要になり、これを宗教が提供しているように見えますが、本当は、『自分に不都合な相手の存在を消し去りたい』という欲望を、行動に移すことの正当性を創り出すことに、宗教が利用されている、とも見ることもできます。テロの元凶を宗教とする見方だけでは、洞察が浅いように思います。

『テロの時代』というシリーズ番組の一つのサブタイトルは『In the Name of God(神の名のもとに)』でした。『神の望まれる正義を実行する』ということですから、新撰組の『天誅(てんちゅう)を下す』と同じ発想ですが、『殉死すれば、天国でアラーの祝福を受け、神の右に列することができる』という『お墨付き』がついているところが異なります。これで、疑う心をもたない純真な若者が、テロの実行犯になります。幼児の頃から、学校で徹底した洗脳教育を受けている様子が、番組で紹介されていました。女の子にも同じような洗脳教育がほどこされますので、彼女達はやがて大人になって『英雄(殉死者)の母』になることを夢見ることになります。アメリカがイラクやアフガニスタンで、いくら過激派戦士の掃討を行ってみても、次から次へと『予備軍』が控えていることになります。仮に、オサマ・ビン・ラディンを捕縛、殺害してみても、問題は解決しませんし、むしろ悪化する可能性さえあります。

梅爺のように、疑い深い人間でさえ、時折他人に騙されるわけですから、このような洗脳教育を受けたら、『疑念なく信ずる』人間が出来上がるのは、当然のことで、このことの方が、テロ以上に『恐ろしい』ことと、感じました。

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2009年2月13日 (金)

テロの時代(3)

イギリスの著名な生物学者で、『無神論者』としても有名なリチャード・ドーキンスは、『人類が、神、天国、地獄などという概念を思いつき、それを集団の共通概念にしたことが、現在では、むしろ災いのタネになっている』というようなことを言っています。また、最近では、アメリカのある州の上院議員が、裁判所に『テロリストの黒幕は神である』として、『神』を訴えようとしたというニュースが伝えられています。

確かに、テロリストの大半は、『神の正義のために身を捧げれば、天国で神の祝福が得られ、永遠の命が与えられる』と固く信じていますので、『神さえいなければ』という主張にも、一理があるような気がします。

抽象概念を創りだせる人間の能力は、心の『悩み』『苦しみ』『寂寥感』などといった『情感』をも、同時に保有しますので、これらの自分の『理性』では制御できないネガティブな『情感』を、緩和したり、癒したりする手段として、『神』という概念を創りだしたのではないかと、梅爺は想像しています。したがって、『神という概念を持たない人類は存在しない』であろうと思われますので、今更『神さえ居なければ』などと、悔やんでも、しかたがありません。それに、『神を信ずる』ことで、心の安らぎを得、善良、柔和な人間になれたという『実感』を、多くの人が体験しているわけですから、『神』の概念を一方的に否定することもできません。

勿論、王などの権力者が、自分の現世の権威を強化するために、『自分は神から選ばれた特殊な人間』であると主張し、『神』を利用したケースは、過去にはありますが、現代では、通用しない話になっています。

宗教は、あくまで『個人の精神生活の範疇』で意味があるものであり、『神の意図』や『神の正義』を、実生活の他人や、社会や、国家の活動にまで、持ち出して適用しようとすると、『難問のタネ』を生み出すことになるように梅爺は感じています。テロが宗教と絡めて論じられることを、多くの宗教団体や信者の方々は、不本意と感じておられることでしょう。しかし、宗教組織の維持も、実社会と無関係には存在できない存在ですので、一歩間違うと、宗教組織でさえも、『権威』や『利益』と結びつきやすい側面も有していることを、否定できないような気がします。

その意味で、宗教が信者をひきつけるために、『天国』や『地獄』という、生きている人には実証し難い概念を持ち出して迫ることは、梅爺は、あまり好ましいこととは感じていません。特に、理性の判断が成熟していない子供に、このような概念を教えることは、危険なことと考えています。

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2009年2月12日 (木)

テロの時代(2)

『テロ』は、現代社会の『敵』というような、表面的なことは誰でも言えますが、『敵であるから撲滅すべし』というような単純な論理では、無くならないのではないでしょうか。『消火』をしても『防火』にはならないという簡単な話です。『テロは悪い』という考え方が『正常』で、テロリストは『異常者』と私達の多くは考えますが、テロリストにとっては、『聖戦の手段としてテロは正当』という考え方が『正常』で、自分達と異なった考え方の人たちは『異常者(悪魔)』ということになります。いずれも、自分が『正常』で、相手が『異常』と考えている点は、立場(ポジション)は異なっていますが、同じです。

梅爺が、このように書くと、『お前はテロリストを擁護(支持)するのか』『私達をテロリストと同等扱いにするのか』と、感情的に反応される方もおられると思いますので、念のために申し上げれば、そのような意図はありません。ただ、上記のような論理思考で、この問題の『本質』に迫らないかぎり、『抗争の繰り返し(目には目を、歯には歯を)』を阻止する方法は見付からないだろうと、申し上げたかっただけです。

基本的な価値観の違いを人間が克服することは、至難の技であるという『現実』は、何もテロリストを例にあげるまでもなく、私達の周辺にはいくらでもあります。『夫婦の関係』『親子の関係』『職場の人間関係』『ビジネス折衝相手との関係』『国家同士の外交関係』などが直ぐに思い浮かびます。

『話し合いで解決することが大切』などと、これまた、皮相的にものを言うことは易しいことですが、実際は、『関係者のいずれかか、または双方が寛容と忍耐で対応する』ことで、きわどいバランスを保っているのではないでしょうか。自分の周囲に『きわどいバランス』など存在しないと、言い切れる人は大変幸せな方です。関係者が『きわどいバランス』さえ許容できないと判断した時は『破局』を迎えます。『破局』の最悪ケースは『殺人または戦争』ということになります。

『価値観の違い』が、『テロリスト』を生む温床になっている以上、現状の『テロリスト』を殲滅しても、『テロ』はなくなりません。『価値観の違い』を少なくする努力(話し合いなど)か、『価値観の違い』を認めた上で(寛容と忍耐で)共存する方法を模索するか、どちらかしかないように思いますが、それも『完全解決』とは言えません。

双方が、『干渉しない』完全分離した状態で、生活ができれば、それは一つの方法ですが、今や、ITの普及で、経済や文化のグローバルな影響を受けない『干渉無しの完全分離』は無理になってきています。北朝鮮でさえも、『隔離国家』として、世界の中で生きてはいけません。

『価値観の違い』で、もっとも厄介なものが『宗教観の違い』です。相手を『悪魔』と信じている人同士が『妥協する余地を見つける』ことなどは、到底望めないからです。『宗教観の違い』に立脚するテロリストの問題は、人類が抱え続けてきて、解決の糸口が見付かっていない、難問中の難問です。

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2009年2月11日 (水)

テロの時代(1)

録画装置に撮り貯めておいた、NHKBSテレビ放送の世界のドキュメンタリー『テロの時代』シリーズを観て、梅爺は、暗然たる気持ちになりました。2005年に放映されたものの再放送で、作品は2003年当時にイスラエルの放送局が作成したものですが、世界で『現在起きていること』を想起してみても、事態が好転しているとは到底思えませんので、内容の深刻さは、少しも変わることがありません。

イスラム過激派が絶え間なく『自爆テロ』志願者を生み出している宗教的な信条背景、イスラエルで、『全てのアラブ人を国外追放する』ことを掲げて行動するユダヤ人極右主義集団の信条背景、『9.11事件』の11年前にアメリカで起きたイスラム過激派によるユダヤ人極右主義集団のリーダー(メイル・カハネ)暗殺事件の真相と、アメリカ政府の対応誤り(この事件の背景を正しく認識していれば『9.11事件』は回避できたはずとする)などが、番組の内容でした。

梅爺は、ソクラテスの『自分は、自分が知らないことを知っている』という言葉が好きです。ソクラテスは、論敵を議論で打ち負かす論客であったとされていますので、彼は、相対的には周囲の人より『もの識り』であったにちがいありません。その彼が、『自分は、自分が知らないことを知っている』と言っているのは、『謙譲』ではなく、『自分の知っていることの範囲で、判断するとマチガイを起こす危険性がある』と自戒しているのではないでしょうか。

テロリストは、必ずしも『狂人』とはいえませんが、明らかに『狂(強)信者』である共通点があります。『自爆テロ』に志願するイスラム過激派の若者(最近は女性も急増)達は、『イスラム教徒を迫害するアメリカおよびアメリカ人は悪魔であり、聖戦(ジハード)でこれを殲滅しなければならない、この目的のために殉教すれば、天国でアラーの神の右の高いランクに列せられ、自分にとっても、家族にとっても、同胞にとっても光栄なことだ』と、強く信じていて、この考えに『微塵の疑い』も持っていません。一方、『ユダヤ人極右主義者』は、『イスラエルは、神(ユダヤ教の神)によってユダヤ人に約束された土地であり、ここでアラブ人と共存はできない。ユダヤ人に刃向かうアラブ人は、全て復讐の対象として殲滅するように神も望んでおられる』と、強く信じていて、この考えに『微塵の疑い』も持っていません。

『狂信者』の『敵』は、必ずしも『異邦人』だけではなく、『軟弱な考えの同胞』も対象になります。イスラム教の宗派間の暗殺事件、パレスチナとの平和共存を推進しようとしたイスラエル首相の暗殺などは、全て『同胞間の抗争』で、穏健なイスラム教徒にとっては『過激派』が、イスラエル政府にとっては『極右集団』が皮肉なことに『頭痛のタネ』になっています。

『狂信者』の多くは、『極めて特殊な人たち』ではなく、私達から見ると『狂信的』と思える考え方を、幼い時から『正しいこと』として、繰り返し頭にたたき込めれてきた『普通の人間(むしろ純真な人間)』であることに、梅爺は恐ろしさを感じます。日本も、少し前に『普通の日本人』が、『鬼畜米英』を叫び、『竹槍』で立ち向かおうとした過去を持つからです。

息子が『自爆テロ』で殉死した父親は『何よりも光栄』と話し、幼子を抱いた母親は『この子も神の栄光に殉じて欲しい』と番組の中で語っています。未だ少年の面影が残る殉死した若者の『笑顔の写真』などを見ると、梅爺は言葉を失います。何故『老人』ではなく、『若者』が『殉教者』になる必要があるのかも、解せません。死の近い老人より、死が程遠い若者の方を、アラーの神は望まれるのでしょうか。アフガニスタンやパキスタンの過激派母体地域では、生まれてきた男の子に『オサマ』という名前をつける親が急増していると番組は伝えています。『オサマ・ビン・ラディン』を英雄と考え、彼のように生きて欲しいと願っているためです。

『自分は、自分が知らないことを知っている』という、賢人の『教訓』は、テロリストの中には、まったく活かされていません。人間は、いつになったら、『自分の知らないこと(知らない価値基準や考え方があるかもしれない)』があることに気付くのでしょう。

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2009年2月10日 (火)

文明崩壊の危機(3)

冷静に考えれば、人類の将来として、以下の三つのシナリオを思いつきます。

『シナリオA』 : 人類の智恵(科学的方法、政策的方法)で、環境変化を克服し、現状の人類が、ほぼそのまま存続する。

『シナリオB』 :: 人類の智恵は、環境変化を克服できずに、人類は絶滅に近い状況になる。

『シナリオC』 : エゴ闘争の結果、勝者である一部のグループが、新しい環境の中で生き延びる(敗者の犠牲のもとに)。

なんとしても『シナリオB』は避けたいという議論が多いのは当然として、なんとしても『シナリオC』は避けたいという議論が、表面化しないのは、なぜなのでしょうか。ひょっとして、最後は、『どんな手段に訴えても、自分達だけは生き残ろう』という、ホンネが、特に大国に(日本にも)潜んでいるのではないかと、勘ぐりたくなります。

『シナリオA』が、好ましいことは、誰も異論がありませんが、地球上のどこかの人たちが、生活困難になった時に、他の地域の人たちが、難民を受け容れるかどうか、ということを考えてみただけでも、難しいことがわかります。日本が難民を受け容れる必要が生じた時のこと、日本人が難民として他国へ移住しなければならなくなった時のことを想定してみれば、その難しさは想像できます。『マグロやバターが、マーケットから消えた』などという、のんきなこととは、レベルが違います。

力ずくで、自分達を守ることができるグループ(環境変化の影響をうける度合いが少なく、国民が住めるだけの国土のひろさと資源を保有している国は有利)だけが、生き残るという、もっともいやな『シナリオC』を、梅爺は、夢想の産物として、念頭からはずすことができません。更に最悪のシナリオは、エゴ闘争の結果、誰も勝者になれずに、人類が絶滅する(核兵器の応酬など)という話になります。

勿論、梅爺は『暗い話』が好きで、このようなことを書いているわけではありません。『シナリオC』や、その先の最悪の想定を議論することや論評することが、何となくタブーのように、表面化していないことを危惧しています。もっとも、最後の最後まで、どのグループも『自分の本当のエゴ』を表に出さずに、政治的なきれいごとを言い続けるにちがいありませんから、国同士で議論をしろという要求が、土台無理なのかもしれません。

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2009年2月 9日 (月)

文明崩壊の危機(2)

個人生活でもそうであるように、人類にとってもっとも難しい課題は、自らの『エゴ』にどう対応するかということではないでしょうか。『エゴをなくせ』と言うのは簡単ですが、人間も生物である以上、誰もが『エゴによる闘争で勝ち残ったもの』が、生き延びるという『生物進化』の資質をもって生まれてきている以上、『エゴは元々生きるために備わっている資質』と考えざるをえません。

ただ、救いは、理性も備えていますので、『エゴを抑制する努力』や『エゴを外に見せない努力』は不可能ではないということでしょう。

そうは言うものの、梅爺自身のことを考えてみると、理性ではエゴを主張することは控えるべきことだと分かっていても、あらゆる状況で、『自分に都合の良い理屈』を考えたり、『このくらいは許してもらえる範囲であろう』と考えたりしてしまいますので、『エゴの克服』は生易しいことではないと感じてしまいます。

怪我や病気を何とか癒そうとする物理的な免疫機能を人間が、DNAで持っているように、都合の悪い状況で、『自分に都合の良い理屈』を考え、精神的な苦痛を癒そうとする機能も、DNAによる遺伝で、人間は持ち合わせていると考えざるをえません。この機能がなければ、精神的なストレスを緩和できないからです。

従って、『エゴは恥ずべきことだ』という綺麗事ではなく、『エゴは自然なことだ』という認識の上でしか、本当の『抑制方法』は見つからないのではないでしょうか。味気ない話ですが、精神論ではなく、『強制的なルールの策定と執行』という現実的な方法以外には、効果的な方策を思いつきません。しかし、アメリカのような大国が、少なくともブッシュの時代は、『エゴ丸出し』で、『強制的なルール』さえ認めようとしない政治姿勢を、『個人の自由を優先』というタテマエで、,とり続けているわけですから、『もっとも味気ない方法』でさえも、実現が難しいというというのが現実です。

『一人一人が、できることを始める』という対応方法に、異論はありません。しかし、これまた味気ない話で恐縮ですが、『何故自分だけがやらなければならないのか』という、『不平不満』を最後まで言わずに、それを続けることができる人は少ないのではないでしょうか。

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2009年2月 8日 (日)

文明崩壊の危機(1)

米国アース・ウォッチング研究所(地球監視研究所)所長で、数々の地球環境に関する警告書の著者でもあるレスター・ブラウン氏が、最新の著作『プランB(Ver/3.0)』の紹介を兼ねて訪日し、テレビのインタビューに応えておられるのを大分前に観ました。

最後に、人類への警告メッセージとして、『一人一人が、今できることを開始しなければ、人類は石油資源をベースに作り上げてきた現状の文明を崩壊させることになる』というような内容を話されました。

梅爺は、ブラウン氏の著作を、読んでいませんので、誤解を承知で申し上げれば、『人類の文明は崩壊するとは限らない』というシナリオもあると考えています。勿論『人類の文明』とは何か、という定義によっても話は変わってきます。現状における地球上の生活バランスの総称を『人類の文明』と呼ぶならば、これを延長させ、維持することは難しいという主張には異論はありません。意地悪爺さんのようで恐縮ですが、『現在の我々の常識で考えれば、極めて都合の悪い新しい形で、一部の人類が生き延びる(その人たちは文明を継続し発展させる)』という本当は考えたくもないシナリオもあるのではないかと、考えています。

残念なことに、今までの人類の歴史は、あるグループが、闘争でエゴを主張する連続でした。勝者は繁栄し、敗者は、壊滅的な状況を蒙ってきました。ただ、幸いなことに、長期的な視野でみると、あるグループが『常に勝者』であり続けることができずに、『新しい勝者』にとって変わられる、という状況が繰り返されてきました。『あるグループ』は、『民族』『国家』『宗派』『企業』等を意味します。

『民族』『国家』によるエゴ追求闘争は、『戦争』という、ひどい爪あとを残し、それが経験となって、『エゴの抑制』の必要性は、ある程度認識されてきていますが、それでも、切羽詰ると『国益優先』が『愛国』というヴェールをまとって表面化することは、毎日のニュースを見ていればわかります。企業活動にいたっては、『競争による勝敗』は、今でも当然のことと考えられています。ルールはあるとは言え、負けは負けで、命は奪われないにしても、『負けた企業の従業員や家族』は、悲惨な生活を強いられます。競争のない生産様式を目指した共産主義が失敗に終わり、今では、『企業間の競争』を、けしからんという人は見当たらなくなりました。

『エゴを優先した闘争』から、今まで基本的に逃れられなかった人間が、直面している地球環境の変化に対してだけは、『脱却できる』という見方は、楽観的すぎるように感じます。人類全体が生き延びるのではなく、一部が勝者として生き延びるという、『いやなシナリオ』を、見て見ぬ振りをするわけにはいきません。環境汚染や資源不足より、厄介なものは、実は人間の中にある『エゴ』であるという共通認識が確立できるかどうかにかかっているように思います。

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2009年2月 7日 (土)

知らぬが仏

江戸いろはカルタの『し』、『知らぬが仏』の話です。

これは、人間の不思議さを端的にあらわした深遠な諺であると思いました。つまり、人間は、五感を使って情報を取得し、その意味を理解することがなければ、心が乱れることがなく、『仏の境地』でいられるということを示唆しています。

しかし、この諺は『つまらぬことを知って、くよくよ心配するより、知らずに居た方が幸せですよ』と言っていると同時に、『誰もが事の重大さを知って、対応しようとしている時に、それと知らずに、のほほんとして居るのは笑止なことだ』と、蔑んでいるとも解釈ができます。『仏の境地』を希求する面と、軽蔑する面の両面を示唆しているわけですから、江戸いろはカルタの奥深さの真骨頂と言えます。大聖人でもない限り、人は生きながらに仏にはなれませんので、生きていく限り、苦悩は道ずれですよ、と諭しているのではないでしょうか。

梅爺のように、野次馬根性のかたまりのような人間は、自分から色々なことに首を突っ込んで、『知ろう』としますので、当然『仏の境地』からは、極めて縁遠いのは仕方がないことですが、よくよく自分を観察してみると、なんでもかんでも首を突っ込んでいるいるわけではなく、自分が好奇心をもつ対象には、貪欲に向かいますが、自分に都合が悪そうだと『感じた』ときには、意図的にそれを避けていることが分かります。

人間は、心身が傷つくと、それを自ら癒すヒーリング機能を持ち合わせていて、『知ろう』『知らないようにしよう』という本能的な選択は、心のヒーリング機能を、知らず知らずに使っていることになります。生物として、高度に進化した人間ならではの話です。『笑う』ことは、健康につながるという話も、このヒーリング機能の活用に他なりません。

人間の持つ『自己ヒーリング機能』のメカニズムに関しての知識などは、江戸の庶民は持ち合わせていなかったことを考えると、現象の奥に、何か重要な意味がありそうだと洞察していたことに驚きます。

これからも梅爺は、その場その場で『知らぬが仏』を、都合よく使い分けて生きていくことになりそうです。それでなくても、知りたくない『嫌なニュース』で世の中は溢れかえっているわけですから、自分から求めて『嫌なこと』を増やす必要もなかろうと、これまた都合よく考えています。

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2009年2月 6日 (金)

アレキサンドリア・リンク(5)

『アレキサンドリア・リンク』という小説で、重要な役割を演ずるのが、アレキサンドリアにあったと伝えられる図書館です。紀元前300年ごろ、エジプトのプトレマイオス朝の学問好きなファラオが、世界中から本や巻物を集めた『大図書館』を建設したことが史実として残っています。学者だけがアクセスできる図書館と、一般の人でもアクセスできる図書館に分かれていたとも言われています。

現在のような印刷技術のない時代ですから、全て『手書き』の原書を収集することが、如何に大変で、金のかかることであったかが想像できます。原書の所有者には大金をはらい、コピーを製作して交換したといわれています。1世紀頃には、原書だけでも50万冊に達し、哲学、宗教、科学、歴史、文学などのあらゆるジャンルの本が所蔵されていたと伝えらられていますので、その時代の『知識』の全てがそこにあったと考えられます。現在なら、さながら『インターネット』に相当するものだったのでしょう。『知識』所有を、一種の権力の象徴と考えていたファラオには、人間的な興味を覚えます。

その後、火事や地震の被害を受けたり、ローマ帝国、キリスト教徒、イスラム教徒に攻め込まれたりして、5世紀頃に、この図書館は、歴史の舞台から消え去ってしまいました。もし、当時の本が今でも残っていたら、人類の歴史を変えるような大発見もあるのではないかと想像でき、極めて残念なことです。

『アレキサンドリア・リンク』という小説では、図書館が消滅する直前に、主要な本は、持ち出されて、シナイ半島にある修道院の中に、こっそり移されたということになっています。この本の筋書きでは、古代資料を利用して世界制覇を企てた悪者達は滅ぼされ、コペンハーゲンに住む良識的なユダヤ人富豪の厳重な管理下に、この古代資料は移され、現存しているという結末になっていますが、勿論これはフィクションです。

知識を書物にして書き残す、という行為は、発達した言語体系と文字を保有する『人間』にしかできないことで、遺伝のしくみを利用せずに、後の世代に『知識』を継承できたことが、現在の人類の文明を築いてきました。現在のように、自分の能力では処理仕切れないほどの『情報』に囲まれているという状況は、私達の先祖の大半は経験したことがないということに、思いを馳せる必要があるのではないでしょうか。

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2009年2月 5日 (木)

アレキサンドリア・リンク(4)

ユダヤの神が、民族の始祖アブラハムに与えた『約束の地』は、現在のパレスチナではなく、アラビヤ半島の一部であるという説は、この本の著者が考え出したものではなく、レバノンの学者カマル・サリビが唱えたものです。

サリビは、ヘブライ語の旧約聖書を研究していて、『エルサレム』が一つの都市名ではなく、その中に複数の都市を含む『地方』の名称であることに気付いたといわれています。その後旧約聖書に書かれているそれらの都市名に類似した場所が、旧約聖書に書かれている通りの配置で、アラビヤ半島に存在することを発見したと言われています。

確かに、『約束の地』とされるカナンを、いくら考古学者が発掘しても、古代人の居住区跡が見付かっていません。一方、サウジアラビヤ政府は、サリビの指摘した場所にあった村の住民を別の場所に移住させ、村ごとブルトーザーで整地してしまいました。そして、この地方の考古学的な発掘を一切許可していないことも、疑惑を増加させています。サウジアラビヤとしては、敵国イスラエルとの間に、更に紛争の種を作ることを嫌ったのかもしれません。

前に『エデンを逃れて』というタイトルで、梅爺がブログに書いたように、現生人類は、アフリカから先ず、アラビヤ半島に進出し、その後、アジア、ヨーロッパへと移住していったことが分かっていますので、アラビヤ半島に住んでいたユダヤ人の祖先が、後にパレスチナへ移住したという説は、そうかもしれないと思わせます。

『アレキサンドリア・リンク』という小説では、ラテン語の旧約聖書を作成していた聖ジェロームが、上記の矛盾に気付き、エルサレムを特定の都市名として翻訳することに、良心の呵責を感じながら、『新約聖書』との一貫性をとるために、あえて『誤訳』をそのままにした、ということになっています。

キリストの時代のユダヤ人は、カナンこそが『約束の地』であると、信じていたことになりますが、民族の歴史の記憶の中に、自分達は、アラビヤ半島から移住してきたという伝承(もし、それが本当なら)が、何も残っていなかったというようなことがあるのだろうかと、梅爺は、疑問を感じています。

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2009年2月 4日 (水)

アレキサンドリア・リンク(3)

『新約聖書』に採用された福音書の原典(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝)が、本当は、何時誰によって書かれたのかは、必ずしも明確に分かっていません。『旧約聖書』となると、キリストの出現よりさらに1000年近く古い話になりますので、どのように成立したのかは、追求が更に困難になります。ユダヤ民族の伝承である『歴史』『予言』『文学(詩歌)』『信仰』を集大成したものであろうということと、多分、永い時間をかけて改定され編集されたものであろうことは推測できます。勿論、原典はヘブライ語で書かれていたに違いありません。

やがて、ヘブライ語の聖典は、パレスチナ地方の言葉アラム語(アラミック)に翻訳され、次にギリシャ語に翻訳され、キリスト教徒によってラテン語に翻訳されます。カソリックが採用した『旧約聖書』は、5世紀に、聖ジェロームが、エジプトのアレキサンドリアに出向き、ヘブライ語版、ギリシャ語版などを参照しながら、ラテン語に翻訳したものとされています。アレキサンドリアには、当時世界最大規模の図書館(エジプトのプトレマイオス朝時代に創設)があり、50万冊以上の、貴重な文献が収納されていたからです。

15世紀に、ルターが宗教改革を提唱し、プロテスタントがカソリックと袂を分かつことになりますが、このときルターは、ヘブライ語版の聖典から、『旧約聖書』の内容を翻訳しなおしています。カソリックのラテン語版は、カソリックに都合よく翻訳されていると疑ったからかもしれません。現在のキリスト教では、カソリックもプロテスタントも同じ『旧約聖書』『新約聖書』を採用しているように見えますので、その後どのような調整が行われたのか梅爺は知りません。

ユダヤ教の聖典は、今でもヘブライ語版であろうと思いますので、ユダヤ教の聖典とキリスト教の『旧約聖書』の内容は、微妙に異なっているのかもしれませんが、これに関しても梅爺は知識がありません。

『アレキサンドリア・リンク』という小説では、聖ジェロームが、ヘブライ語版とギリシャ語版の聖典を参照しながら、ラテン語版を作成したときに、ギリシャ語版に『翻訳ミス』があることに気付いた、という設定で話が展開します。

しかも、その『翻訳ミス』の内容は、些細なことではなく、ユダヤ民族の神が、アブラハム(ユダヤ人の始祖)に『乳と蜜がしたたる土地』として授けた『約束の地カナン』は、実は、現在のパレスチナではなく、アラビヤ半島(サウジアラビヤ領土)の一地方であったというのですから、大変なことで、これが本当なら、イスラエルの建国大義名分も覆り、国際的な政情不安を招きかねないことになります。

小説は、現代のアメリカ、イスラエル、サウジ・アラビア、ヨーロッパを舞台に、この『事実』を明るみに出そうとするグループと、なんとか阻止しようとするグループが、壮絶な闘争を繰り広げるという、冒険活劇になっています。

例によって、アメリカ人作家の小説ですから、元CIAのアメリカ人が、この事件に巻き込まれ、大活躍するという話です。

梅爺は、勿論この筋書きの前提を全て信じて読んだわけではありませんが、『事実』と『作り事』の絶妙な組み合わせには感心し、歴史的な背景を想像しながら、楽しむことができました。

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2009年2月 3日 (火)

アレキサンドリア・リンク(2)

キリスト教で、聖典とされる『旧約聖書』が、何故キリスト教にとって必要なのかという単純な疑問を梅爺は持ち続けてきました。『旧約聖書』の内容は、ユダヤ教の聖典であり、キリスト教とユダヤ教という、反目しあう宗教が、同じ内容の聖典を採用していることが不思議に思えるからです。

推測できる一つの理由は、『キリストの出現を正当化する大義名分として必要であった』ということでしょうか。ユダヤ民族は、苦難に遭遇すると、『神から特別の啓示を受けた預言者や救世主が出現し、民族を救済し、民族を苦しめる悪は神の審判を受け、この世に神の国が到来する』という信仰を持ち続け、それは『旧約聖書(ユダヤではユダヤ聖典)』に依存しています。4世紀にキリスト教は、ローマ帝国の国教として認められたとは言え、受け容れない人たちからの批判や攻撃も受けて、地盤は必ずしも堅固のものではなかったために、『キリストの出現は偶然ではなく必然である』ことを示そうと『旧約聖書』を必要としたという説明が、一番納得がいく話です。

使徒パウロが、『コリント人への手紙』等の中で、『旧約聖書』を参照していることも、採用の理由の一つかもしれません。

しかし、キリスト教がユダヤ教の聖典を採用したことで、基本的な『矛盾』を抱え込んでしまったように梅爺は感じます。『天地創造』や『アダムとイヴ』の話が、現代の科学知識と異なっているというような話は、時代によって人間が獲得していた知識の違いと思えば済む話ですが、『神の概念の違い』や『救世主の定義の違い』は、説明が難しいように思います。

ユダヤ教の『神』は、『ユダヤ民族だけの神』であって、決して異民族には寛容ではありません。モーゼの立法(十戒)にしても、ユダヤ民族『In-Group(仲間内)』の掟として神から授かったものであり、異民族も含めた一般的な掟というわけではありません。『旧約聖書』には、ヨシュアが異民族の街(城砦)ジェリコを攻撃したときの話があり、ヨシュアは徹底した殺戮、略奪を行っています。つまり、『殺すなかれ、奪うなかれ』は、異民族には適応されていませんが、ヨシュアは今でもユダヤ民族の英雄とされています。キリストの出現以降、『神』は、『ユダヤ民族の神』から『人類全体の神』へ変身したという話には無理があるように思います。

もう一つの大きな違いは、ユダヤ教の『預言者』や『救世主』は、神から特別の啓示を受けた『人間』とされていますが、キリスト教では、『キリスト=救世主=神の子』とされていることです。同じ『救世主』という言葉が使われるので、紛らわしいのですが、両者の考え方は決定的に異なっています。ユダヤ教の聖典では、『救世主』の到来は予言されていますが、『神の子』の到来には触れていません。

キリストの正当性を立証しようと、『旧約聖書』を採用した当時の事情は、理解できますが、そのために、説明が難しい矛盾も、抱え込んだしまったのではないかと梅爺は感じます。パウロは、ユダヤ人が『神の意図』を一部誤解していたのだ、という巧妙な説明でこの難問に対応しています。つまり『旧約(それまで存在していた神と人間の約束)』には一部誤解が含まれているが『新約(新しい神との約束)』こそは正統なものだとして、ユダヤ教との決別をはかったことになります。このユダヤ教とキリスト教は『異なったもの』という認識がなければ、ローマ帝国がキリスト教を国教にすることなどはなかったと考えられます。

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2009年2月 2日 (月)

アレキサンドリア・リンク(1)

都心へ出向く電車の時間を利用して、『The Alexandria Link : Steve Berry著』という、歴史冒険ミステリィ小説を、英語版ペーパーバックスで読みました。同じ著者の『The Templar Legacy(テンプラー騎士団の伝説)』という、同じく歴史冒険ミステリィ小説を購入した際に、隣にあったので、つい一緒に購入してしまった本です。

テンプラー騎士団(またはテンプル騎士団)は、第一回の十字軍エルサレム攻略の後、キリスト教徒の聖地巡礼の安全を守るた目的で、11世紀の終わりにフランス人を中心に結成された騎士修道会です。エルサレムのユダヤ教神殿跡に本部を建設し、ヨーロッパでは、豊富な資金を活用して、一時は、強大な勢力を誇りましたが、ローマン・カトリックから『異端』とみなされ、1307年10月13日に、主要メンバーが一斉にフランス王フィリップ4世によって捕らえられ、その後火あぶりの刑で処刑されて、騎士団は実質的に消滅しました。この一斉逮捕の日が金曜日であったことから、以後『13日の金曜日』は、縁起の悪い日ということになりました。

ヘロデ王が、エルサレムに建設したユダヤ教の神殿(キリストの死の30年後に、ローマ帝国に破壊された)跡に、今度はキリスト教のテンプラー騎士団(十字軍)が本部を建て、それが今ではイスラム教のアル・アルサーク・モスクになっているわけですから、エルサレムが如何に複雑な歴史を持つ都市であるかが分かります。現在でも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれもが『聖地』としていますので、微妙なバランスの上で成り立っています。

テンプラー騎士団は、資金運用に長けていたとは言え、何故強大になれたのかについては謎が多く、多くのミステリィ小説の題材に取り上げられてきました。エルサレムの神殿跡に隠されていたユダヤの財宝を見つけたのではないかとか、キリストが最後の晩餐で用いた杯(聖杯)を見つけたからではないかとか、色々な噂が絶えません。

梅爺は、テンプラー騎士団の消滅は、宗教上の理由は口実で、フィリップ4世が、財産を取り上げるために仕組んだ『陰謀』であったのであろうと推察しています。当時の法王クレメンス5世は、フランス人で、フィリップ4世の意のままになっていたと言われているからです。王より強大な財産を持つ騎士団の存在は、許せなかったのでしょう。

『テンプラー騎士団』の謎は、梅爺の野次馬的興味の対象なので、小説を購入しましたが、実はこの本は未だ読んでいません。その前に、同じ著者の作品『アレキサンドリア・リンク』を読み始めてしまいました。この本は、『テンプラー騎士団』とは関係がありませんが、旧約聖書の謎に迫るもので、これはこれで、結構面白く読みました。

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2009年2月 1日 (日)

自律分散処理(5)

『自律分散処理』の良いところは、『あるべき姿』は誰も知らないにも関わらず、システムが、現状を維持または新しい平衡状態へ移行できる仕組みであることです。勿論、システムが破綻する危険もはらんでいます。しかし、論理思考に長けた『人間』は、『あるべき姿』を掲げて行動することに慣れており、どこへ向かうのか分からないという状態には、非常に不安を感じます。

共産主義が掲げた『計画経済』や、独裁者による国家統治は、ある意味で『ここへ向かう』という『目的』が明示されますので、それが本当に『あるべき姿』かどうかは別にして、目標があるという点では、安心できます。論理的には、『神にも匹敵するような賢人』が、目標を定めたり、独裁者になれば、理想的な政治・経済システムが可能であると言えないことはありません。前に『独裁国家で何が悪い』という、ビートたけし司会のテレビ番組を観た感想をブログに書きました。この番組でも、そのような論調がありました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_442f.html

しかし、現実には『神にも匹敵する賢人』は存在せず、『目標経済』は、計画とおりに遂行できないことや、独裁政治は、弊害の方が大きいことを、人間は経験則で知り、世界の大半は、『民主主義』や『自由経済』の仕組みを基本として採用することになりました。『民主主義』や『自由経済』にも『行き過ぎや暴走』という弊害がつきまといますので、それらは、『ルール』を作って規制しようという知恵が働きます。現状の経済危機は、このルールの設定が『甘すぎた』ことに由来しています。あれほど『自由経済』を褒め上げていた人までが、実態にそぐわない金融システムには『強い規制が必要』と一転して主張しています。

『誰もがハッピー』というような仕組みがあれば、それこそ『あるべき姿』ですが、それが分からないので、大きな代償を払いながら人間は、試行錯誤を行い、現状に到達しているというプロセス(生物進化のプロセスと全く一緒です)を見れば、まさしく『自律分散処理』で国際政治や経済が動いているように見えます。『誰もが安心して暮らせる平和な国家を目指す』などと、政治家は気軽に言いますが、本当は『誰もが安心して暮らせる平和な国家』とはどのような国家なのか、誰も分かっていないわけですから、少々無責任な話です。でも、小賢しい政治家は、『実現する』とは言っていない『目指す』と言っているのに、何が悪いと、きっと反論するのでしょう。

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