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2009年1月31日 (土)

自律分散処理(4)

梅爺は会社勤めのころ、組織論などで、よく『あるべき姿は何か?』を議題に議論をしました。また商品やシステムを開発するときには、『どういう商品ならライバルに勝てるのか?』『どういうシステムなら顧客の満足を得ることができるのか?』を先ず考えました。

そう考える習性に慣れてしまっているため、自然界の現象にも、『あるべき姿』を考える能力を持った何者かが存在し、その意向に沿って宇宙や人間は創られ、統(す)べられていると『推測』し、この結果、『全知全能の神』という概念を人間は保有するようになったのではないかと思います。しかし、よく考えてみると、この世界で、かなり先の複雑な状況までを『予測』したり『推測』したりできる能力を、確かに持っていると言えるのは、『人間』だけであることに気づきます。神の存在は信じない人がいるとしても、自分に『予測・推測能力』があることは、自分で実感できますから、それを疑う人はいないでしょう。

勿論、人間以外の生物にも、直近のことを『予測』できる能力をもったものはいますが、人間だけが、飛びぬけた論理思考能力と予測能力をもっていると言っても良いのではないでしょうか。個人個人は、自分の予測で独自に行動し、その集積(平衡状態)が社会を作ります。

『全知全能の神』が宇宙や自然界を統(す)べていると『仮定』したり、『神』は自分に似せて人間を創ってくださったと『仮定』すれば、摩訶不思議な存在である『人間』や、『自然界の現象』は、一見説明がつくように見えます。ただ、この『仮定』で説明が難しいのは、『何故神は宇宙の中で点にも満たない地球にのみ、生命体を創造したのか』『何故神は邪悪な心を人間の中に仕組んだのか』『不都合な天災は何故善良な人間の命までも奪うのか』などに答えることです。しかし、宗教は、『何故と問うこと自体が、神を疑うことだ。信仰は理性の対象でない』と説き、ここで、なにやら『こんにゃく問答』のようになってしまいます。

しかし、このような『すべては神の思し召し』といった説明をしなくてもすむ、別の『仮説』もあるように思います。『全知全能なる存在がなくても、自律分散処理のルールだけで、宇宙や人間は創りだされ、その時々の平衡状態を探りながら存在できる』というのがそれにあたります。現状の宇宙や人間は、試行錯誤の結果、到達している『平衡状態の一つ』であって、あらかじめ設定された『あるべき姿』として、または『あるべき姿』へ向かって存在しているわけではないという説明が成り立ちます。ビッグバンまで時間を戻し、もう一度そこから試行錯誤を始めてみても、再び地球や人間が出現するとは限りません。つまり、『あるべき姿』は、だれも分かっていないという前提です。

この新しい『仮説』を認めることは、勿論神の存在の全てを否定することではありませんが、少なくとも宇宙や人間の創造には、神は関与していない可能性を示していることにはなります。従って、『人間を創造し、愛し、見守ってくださる神の存在』を信じておられる方々には、不愉快な『仮説』であるかもしれませんし、このようなことを言い出す梅爺は『悪魔の申し子』に見えるかもしれません。しかし、『断定』ではなく、『仮説』ですから、お許しいただけるとして、色々な事象を客観的に眺めてみると、ほとんどのことは、これで納得のいく説明ができるように梅爺は感じます。

これは、あくまでも『理性』で自然界や人間を観察すれば、という話で、『神や信仰は、心の安らぎを与えてくれるもの。理性で論ずべきものではない』という反論に、答えるものではありません。何故なら、『自律分散処理』は、人間にとっては重大な『心の安らぎ』とは、あまり関係のない冷徹な仕組みであり、人間や人間社会で必要とされる『心の安らぎ』の大切さの議論には、少しも役にも立たないからです。

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2009年1月30日 (金)

自律分散処理(3)

宇宙や自然は、神のような『スーパ-・インテリジェンス』が支配しているとも言えますが、そのようなものが存在しないから『自律分散処理』で動いている、とも見ることができます。梅爺は『自律分散処理』のほうが、色々な現象を矛盾無く説明できると感じています。

宇宙や自然は、その一員である人間にとって、不都合かどうかなどということとはお構い無しに、常に変化し、新しい平衡状態へ向かいます。地震や台風は、局部的に蓄積したエネルギや大きな気圧差で起きる物理現象で、『倣岸な人間を懲らしめたり、人間に試練を与えようとして』起きているわけではありません。災害に巻き込まれて命を落とす人間には、過酷な状況ですが、宇宙や自然は、『悪意』とか『善意』とかいう人間が作り出した『抽象概念』や『情』とは無関係に、『自律分散処理』というルールの中で、淡々と変転や新しい平衡状態を繰り返しているに過ぎません。

勿論、梅爺も人間ですから、善良で優秀な人が、災害で一瞬のうちに命を奪われることは、『理不尽』と思い、『悲しく』思いますが、宇宙や自然の『自律分散処理』側には、人間にとって重要な『理不尽』や『悲しさ』などという概念は残念ながら存在しないという冷酷な事実は認めざるを得ないと考えています。宇宙や自然は、人間の思惑とおりには動きませんし、思惑とおりに動かすこともできません。人間の運命は、『思惑で変えることができない』ものと『思惑で変えることができる』ものの、微妙な綾で決まりますが、少なくとも『思惑で変えることができる』ことも保有していることに、感謝すべきではないでしょうか。そうでなければ、ただただ『お先真っ暗』という悲観論だけに支配されることになってしまいます。

宇宙や自然、それに人間の脳が、『自律分散処理』で支配されているということが、正しいとすれば、このことは極めて重大なことを示唆しているのではないでしょうか。『自律分散処理』が、峻厳な『摂理』だとすれば、ここには、人間の『情感』などの入り込む余地がなさそうだと思えるからです。

『情感』とは無関係な、脳の『自律分散処理』が、結果として、人間に『情感』の保有をもたらしているという、不思議なパラドックスを、梅爺は感じてしまいます。

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2009年1月29日 (木)

自律分散処理(2)

『自律分散処理』などという、堅苦しいシステム用語に接すると、なにやら難しい話と思いがちですが、世の中に目を向ければ、沢山の事例を見つけることができます。インターネットはその代表ですが、国際的な政治や経済は、この仕組みで動いているといって良いのではないでしょうか。

各国(サブシステム)は、自分の国益を優先して、行動しますが、その行動が他国にとって不都合な場合は、他国からの牽制や圧力に遭遇します。北朝鮮やイランが核兵器を保有する意向を示せば、脅威を受ける国々はこれを阻止しようと圧力をかけます。圧力をかけている国のいくつかは、既に核兵器を保有している、という『理不尽』さがあるにもかかわらず、それとこれとは別と言わんばかりに、厚かましく圧力をかけます。圧力をかける側、かけられる側の様々な力関係で、何らかの新しい状況(平衡状態)へ向けて、国際政治が動きます。

『自律分散処理』の本質は、『試行錯誤を経て、新しい平衡状態に落ち着く』ことですので、試行錯誤の内容が、理不尽かどうかや、新しい平衡状態が理想に近づいているかなどは、必ずしも問われません。『強いものが横車を押し、弱いものが泣き寝入りをする』という決着も、『新しい平衡状態』の一つの形式です。しかし、理性を持つ人間のすばらしいところは、弱肉強食だけが決着様式ではなく、時に『弱者の正義』が『強者の横暴』を抑えるという決着(平衡状態)も、うまく振舞えば、不可能ではないということにあると梅爺は感じています。

国際経済も、まさしく『自律分散処理』で動いています。ITの利用で、行動の源となる情報が、一瞬にして世界を駆け巡りますので、『新しい平衡状態』がめまぐるしく変化するようになってしまいました。この変化の速さは、生物としての人間が感ずる『体内時計』の速さを、完全に凌駕していますので、環境の変化の速さについていけない人間が多数出現します。『デジタル・デバイド』と言われる『情報格差』を生み出す一つの要因がここにあります。

『自律分散処理』では、関係者が皆なんとか我慢できる『平衡状態』が見つからないときに、悲劇が生じます。戦争や紛争は、こうして起こります。冷酷な言い方をすれば、戦争や紛争も新しい平衡状態へ移行する手段とも言えます。もっと冷酷に言えば、『自律分散処理』である以上、戦争や紛争は『回避できるとは限らない』という恐ろしい話になります。世界中の人たちが平和を希求しているにもかかわらず、世界規模の平和が実現できないのは、このためではないでしょうか。『自律分散処理』の世界では、『相手の立場を思いやり、譲歩することも辞さないという勇気や理性』が、唯一壊滅的なことを避ける手段であることが分かります。

政治や経済を例にあげましたが、私たち個人の社会とのかかわりもこれと同様です。自分の立場だけを主張する個人が増えれば、社会が多くの問題を抱えることは、当然のことです。

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2009年1月28日 (水)

自律分散処理(1)

人間の脳に関する本を読んでいて、コンピュータ・システム屋であった梅爺の目からみると、脳は基本的には『超並列自律分散処理』の極地であると気づきました。ただし、脳は『ホメオスタシス』という『全体最適値管理機能』も保有していますので、単純な『自律分散処理』だけでは論ずることできません。

『自律分散処理』は、サブシステム同士が連携して作動するシステムの方式ですが、システム全体の最適値を想定して、それへ誘導しようと言うような『全体管理機能』が存在しないシステムであることが特徴です。インターネットも『自律分散処理』で動いています。インターネットでは、サブシステム間の通信規約(プロトコル)だけが規定されていて、中央司令塔はありません。

『自律分散処理』では、基本的に各々のサブシステムは、『自分が望むように』行動します。今サブシステムAがある行動をした結果、サブシステムBに対して、許容限度を超えた不都合な影響を与えた場合、サブシステムBは、サブシステムAに、アラーム信号を送り、行動を抑制(または昂進)して欲しい、と伝えます。または、サブシステムBは、サブシステムAを無視して、何も対応しません。それを受けたサブシステムAは、自分にとっては不本意であっても、許容の範囲で行動を抑制(または昂進)したり、行為を撤回したりします。つまり、双方が許容できるレベルで、バランス(平衡状態)点を見つけます。

ごく分かりやすいように、二つのサブシステムで説明しましたが、人間の脳は数十億ケの、脳神経細胞(処理と記憶の機能を併せ持つ多機能素子に相当)で無数のサブシステムを構成していると見ることができますので、これらがすべて『自律分散処理』で、刻々と平衡状態を変えながら、作動していると考えただけで、目のくらむような世界であることが、ご想像いただけると思います。生物が『生きている』ということは、そういう世界のことなのだと分かります。

勿論、人間は、脳に匹敵する複雑、大規模な『超並列自律分散処理』を人工的に実現することはできていません。システムを構築する方法論も、評価する方法論も確立しているとは言えません。脳に比べれば、どんな複雑なコンピュータシステムも、インターネットさえも相対的には極めて単純なシステムに見えてきます。

『自律分散処理』は、絶対的なシステム管理機能が無いにも関わらず、全サブシステムが連携しあって、なんとか皆が許容できる(妥協できる)バランス点(平衡状態)を見つけようとするのですから、うまい方式ですが、どうしても許容できるバランス点が『見つからない』時が、大問題です。インターネットでは、ネットワークの渋滞や麻痺が起こります。

バランス点が見つからないとき、人間はどうなるかといえば、『病気になり、最悪死に至る』ことになります。血液中の酸素濃度が減少すれば、脳は肺に呼吸を早め、心臓に脈拍を挙げるように指示します。これで、新しいバランス点が見つかればハッピーな話ですが、肝心な肺や心臓がそれに応える機能を失っている時や、必要な酸素濃度が得られないときには、人間は『死を迎える』ことになります。『自律分散処理』は、極めて優れたシステムの形態ではありますが、最悪の場合システム全体が『死に至る』という『泣き所』があることが分かります。

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2009年1月27日 (火)

NHK特集『男と女』(4)

この特集番組で、『人類が滅亡に向かっている』原因として、『Y染色体』の劣化のほかに、男性の精子の数が減少し、精子の活動も弱くなりつつあると言う、各国医学者の指摘がありました。

北欧の統計調査結果では、ここ5年間で、明らかに弱まっていて、このままだと『自然妊娠』が難しいギリギリの領域に近づいているということでした。日本の調査結果も同様とのことでした。

このようになった原因としては、『生物進化のしくみ』に関係する要因と、そうでない要因とがあります。たった5年間で、顕著な『弱化』が認められるということから、『生物進化のしくみ』とは関係ない要因が強く作用していると梅爺は感じます。医学者は、真の原因を特定できていませんが、『環境』または『環境によるストレス』が脳に与えている何かではないかと思います。

『生物進化のしくみ』と関係すると考えられるものは、人類が社会制度として『一夫一婦制』を採用してきたことが関係していると、科学者は見ています。その証拠にチンパンジーの社会は『乱交』なので、異なったオスの精子間で、生き残りをかけた緊張感があり、人間の精子より、現在でも『活力』が高いと指摘していました。

人間の豊かな『知性』や『情感』が、『一夫一婦制』が社会秩序に最適と考えてきたわけですから、今更『乱交』社会に戻ることはできません。誰の子供であるかは、親には大切なことですから、子孫さえ残れば、誰の子供でもよいという価値観は、到底今後も受け容れられないでしょう。

精子の弱化の問題は、『Y染色体』の問題より、解決策が早くみつかるかもしれません。精子の製造、活性化にかかわっている遺伝子、ホルモン、化学物質と脳の機能の関係が、医学や生物分子学の研究で、明らかになる可能性が高いからです。そうすれば、食事の改善、薬の服用、ストレス回避策など、具体的な対応方法も見つかるかもしれません。

現に、弱い精子でも、人工的に妊娠を成功させる方法は、実用化されています。しかし、この『人工妊娠』が増えれば増えるほど、精子は『競争』にさらされなくなり、進化論からみれば、一層人類の精子の弱化には拍車がかかると指摘する学者もいます。

人工妊娠を認めるかどうかについては、宗教関係者からの強い反対もあり、今後も議論が続くことになるでしょう。子供が欲しいと願う不妊症の両親にとっては、『人工妊娠』は頼りの綱ですから、切実な問題です。

高尚に進化した人類も、根っこのところでは、他の生物と同じく、自然の摂理に強く支配されています。他の生物と異なっているのは、その自然の摂理に『手を加えることができるかもしれない智恵』を保有してしまったことにあります。この智恵をどう使うかが、人類の将来に大きく関わっているとだけは間違いなく言えるでしょう。

番組で、多くの科学者が、『今すぐに人類が滅亡してもおかしくない』などと述べていましたが、論理的な可能性としては、嘘ではないにしても、先進国はともかくとして、人口増加の抑制に躍起になっている国家はまだ沢山あることを考えると、私たちの実感とは合いません。それに数百万年後ということであれば、現生人類の歴史の10倍以上の長さですから、その前に、地球環境の変化や、小惑星との衝突などで人類が滅亡する確率の方がずっと高いのではないでしょうか。しかし、私たちは、内部に『滅亡』の因子を抱え込んでいるという『事実』を知っておくことは、重要なことだと思いました。

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2009年1月26日 (月)

NHK特集『男と女』(3)

哺乳類の『X染色体』は劣化があまり見られず、『Y染色体』だけが何故『劣化』するかは、生殖のしくみを考えれば、原因は明白です。

これは、親から子供へ『染色体』を受け渡す際に、母親は、母親自身が両親から引き継いだ『2本のX染色体』を『1本のX染色体』にまとめる(遺伝子組み換えを伴うコピーを行う)のに対して、父親は、もともと自分の父親から受け継いだ1本の『Y染色体』しか持たないために(もう1本は、母親から引き継いだX染色体)、そのなけなしの1本を現物コピーして、子供に渡すという『方式』に由来します。

つまり、母親の方は、両親から引き継いだ2本の『X染色体』を保有していますので、どちらかに、コピーミスや突然変異などで『欠陥』が発生していても、もう1本が正常であれば、遺伝子組み換えコピーのときに、『欠陥を修復』して、子供に渡せますが、父親は、自分の父親から引き継いだ1本の『Y染色体』しか持ちませんから、これに『欠陥』が生ずると、『欠陥』を含めてコピーして子供に渡すしかありません。これが、長い世代繰り返され、『欠陥』部分は退化してなくなり、人間の『Y染色体』の規模は、『X染色体』の規模の1/30にまで現在では縮小してしまっています。この傾向は、生殖の方式が変わらない限り続きますので、人類は『滅亡』は避けられないということになります。

しかし、この、『男の子は父親と同じY染色体を持つ』という特性を利用して、人類学者は、現生人類の始まりは17万年前のアフリカであることを突き止めました。

性を利用した生殖方式は、生物が生き残りのために選択した、当時としては『最強の方式』であったとすれば(生物進化の法則とはそういうものですので)、現代人が、『何でそんな欠陥のある方式を選んだのか』と、今になって嘆いたり、怒ったりしても始まりません。選択が行われたのは、数億年前の昔のことです。現実には、コピーミスや突然変異の起こる確率は『個体』の中では非常に小さいにもかかわらず、数億年かけての積み重なったために、眼に見える『差』となったという話ですから、私たちの染色体の中で、日常頻繁にエラーが生じているということではありません。雫(しずく)が永年かけて岩を穿(うが)つというような話です。

昨日も書いたように、この『欠陥』を回避して、人類が生き残れる可能性は、『非常に幸運な突然変異で、人類がY染色体無しで生殖できる生物』に変わるか、『科学』による手段に頼るか(解決策が見付かったとして)しかありません。

このような目的で『科学』が利用されることに、倫理観や宗教観から『反対』される方もおられます。勿論この方々は『滅亡は宿命』と考えてのことです。一方、『科学』はやがて人類を滅亡から救う方法を必ず見つけるだろうと楽観的な方もおられます。

梅爺は、どっちみち、自分が生きている時代の話ではないと思いますので、無責任のようですが、『どうあるべきか』などと、特別に『口出しをする問題』ではないと感じています。梅爺の能力を越えた『どうにもならない問題の一つ』です。したがって、どう対処するかの判断は、将来の人類の叡智に任せればよいと考えています。

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2009年1月25日 (日)

NHK特集『男と女』(2)

『男と女』の話題から逸れますが、昨日書いたアメリカ社会の『変化への対応力の速さ』について、先日象徴的とも思えるニュースをテレビで観ました。それは、疲弊するデトロイトの自動車大企業に対抗して、シリコンバレーに電気自動車(家庭用の電源から充電)を製造販売するベンチャー企業が何社か誕生したというニュースです。世界各地から部品を調達し、組み立てるというシリコン・バレー流のビジネスです。梅爺が昔仕事で付き合ったコンピュータ会社の幹部も、今は『電気バイク』のベンチャーの社長をやっています。やがてガソリン・エンジンの車は無くなり、クリーン・エネルギ・エンジンの車の時代が来ることは、明白ですが、このような『パラダイム・シフト』を先取りする挑戦者がアメリカでは、必ず出現します。現状では、象と蟻ほどの企業規模の差がありますが、蟻は象を倒せると信じて行動します。

日本では、トヨタ、日産、ホンダに対抗して、白紙の状態から車を作って売る会社を興そうなどという考えは、無謀であるという固定概念が強く(個人はおろか、他業種の大企業でも)、このような現象はなかなか起きません。シリコン・バレーが将来デトロイトに変わる車の産業拠点になるかどうかは、誰にも分かりませんが、その可能性が無いとは言えません。

話を、『男と女』に戻します。このシリーズで最も衝撃的な内容は、3回目の『やがて男が、男の資質を維持できなくなり、人類は滅びる運命にさらされている』というレポートでした。男だけが保有する『Y染色体』の『劣化』が進行していて、これが続けば、楽観的に見ても、あと数百万年後には『人類は滅亡する』という内容でした。

これは、別に人類や男に何かの落ち度があるということではなく、性を利用した生殖を行う全ての『哺乳動物』に共通する現象です。つまり、生物の進化の過程で、『試行錯誤で偶然に選択した』生殖の方式が、『しくみ』として持つ宿命的な『欠陥』です。

つまり、『Y染色体の劣化』は、最近始まったことではなく、数億年の進化の中で、『必然的に進行し続けてきた』ことに、人類が『最近、その原因と重要性に初めて気付いた』という話に過ぎません。

勿論、性を利用した生殖の方式は、『欠陥』だけではなく、多くの『利点』もあったからこそ、『選択』されたのであって、一概に『悪い方式』とは言えません。現在地球上に、人類を含め多くの哺乳類が棲息(せいそく)できていることが、その何よりの証拠です。

人間や世の中の事象と同じで、何事にも『長所と欠点』がある、ということだと考えれば、納得がいきます。

しかし『人類の滅亡』は、遠い先のこととは言え、穏やかな話ではありません。これを回避できるかどうかは、将来の進化の中で、『Y染色体』無しに(『X染色体』だけで)生殖が可能な生物に、人類が突然変異で変わるということしか、『自然な方法』としては考えられません。これは、極めて期待が薄い話です。もう一つは、『科学』の力で、『Y染色体』を『修復する方法』を、人類が発明、発見できるかどうかにかかります。このことは、『自然の摂理』に、人間が『手を加える』ということですので、もし可能になったとしても、『科学』の判断領域を超えた話になります。『科学』の問題ではなく、『科学の利用』について、人類がどのように判断するか、という問題になります。

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2009年1月24日 (土)

NHK特集『男と女』(1)

3回にわたって、NHKが放送した特集番組『男と女』は、大変啓発的な内容でした。『紅白歌合戦』は、NHKでなくても放送できそうですが、こういう内容の番組は、NHKならではの番組のような気がします。こういう番組に視聴料を払うことには、梅爺は抵抗を感じません。

前に、ノーベル賞受賞者の小柴先生が、高校生を対象に講演をし、その後質疑を受けた時の様子をブログに書きました。この中で、先生は『世の中で最も難解なものは人間です』と語っておられます。科学の対象として人間は難しいと言う話です。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_30a5.html

ニュートンも『天体の動きは計算できるが、人の心は計算できない』と言っています。物理学の解析、計算手法の延長では計算できないのは、無数の機能の『相互関係が作り出す全体』が『人間』であるからで、こういう対象を扱う数理科学『非線形科学』の研究が、最近活発になってきました。発想を変えれば、今まで分からなかったことが分かってくるということもありますから、『非線形科学』は注目に値します。

そうは言うものの、最近の医学、遺伝子工学、生物分子学などの進展は目覚しいものですので、『難しいとはいえ、かなりのことは分かっているのだろう』と梅爺は想像していましたが、この番組を観るかぎり、『男と女の脳の違い』などという、基本的なことも、ようやく少しづつ『分かってきた』レベルであることを知りました。

現生人類の歴史17万年のほとんどを、人間は『自分のことを知らずに生きてきた』ことになり、言い換えれば『知らなくても生きてこれた』ということは、興味深いことと思いました。しかし、今後『重大な事実』が明るみに出れば、人類は、『生き方の変更』を迫られることになるのかもしれません。

この番組が伝えた一つの事実は、『同じ問題に対応するのにも、男と女では、異なった脳のネットワークを利用していることが判明した』ということです。男は、比較的に『空間認知能力』を利用し、女は『言語能力』を利用しているということでした。心理学者が、現象面で今まで唱えてきた男女の考え方や感じ方の違いや、私たち自身が何となく『感じていたこと』を、科学的な手法で、ようやく追認、確認したことになります。

この違いの原因は、生物進化の過程で、男と女が分担してきた役割の違いを、遺伝子で継承しているのであろうと、科学者は推測しています。現時点では、これ以外の有力な『仮説』は見付かっていません。

アメリカでは、この違いを認めて、公立小学校で男女別々の授業を開始し、企業も男女の役割分担を見直そうとしていることがわかりました。アメリカの素晴らしいところは、このような拙速と思えるほどの『速い対応力』です。間違っていたら、また直せばよいという発想ですので、グズグズ議論ばかりしている日本は、遅れをとることになります、

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2009年1月23日 (金)

脳の潜在能力(3)

何故そのようにつくられたのかは、不思議ですが、人間は脳の中に、『無尽蔵といえるほどの空き部屋と、総本数に制約があるにせよ、他の動物に比べれば圧倒的に多い空き部屋をつなぐ通路をつくる能力』を保有していると言えそうです。

物理的には制約条件があるコンピュータ環境を利用して、人間が無数の『アプリケーション(応用動作)』を生み出してきたのと同様に、人間は脳を利用して無数の『アプリケーション』を開発し、それを伝承してきたと見ることができます。キリストの時代の人間も、現代の人間も、『人間としての基本資質』は、脳の基本資質も含めて同じなのに、生活環境や共通知識が大きく異なっているのは、保有している『アプリケーション』の数が圧倒的に異なっているからに他なりません。

繰り返しになりますが、『人間がこのような潜在能力を予めもってつくられた』という事実に、梅爺は驚きと不思議さを感じます。生物進化のプロセスの中で、偶然と必然が混ざり合って、このような存在が生まれたということなのでしょうが、結果だけ見れば、まさに『奇跡』に近いことのように感じます。有り余った資源を前もって準備し、後から、やおら『何のために、どう使おうか』と考えるという話ですから、『必要なものを、その都度付け加えていく』という、人間が普通思考するプロセスとは、逆のプロセスを、『脳の進化』は辿っているように見えるからです。

もし、『神が人間を創った』とすれば、神はこの潜在能力の具現化の行き着く先まで見通しておられたのでしょうか。何故ならば、人間はこの潜在能力を利用した『アプリケーション』の一つとして、『神の存在を否定する』ような不遜な行為にまで及ぼうとしているからです。自分の存在を否定しようとする人間を、それと承知で創りだしたのであれば、『神は、大変太っ腹である』としか言いようがありません。

いずれにしても、『アプリケーション』の数が、この100年だけで、幾何級数的に増えたことは事実で、永い人間の歴史の中で、偶然そういう『期間』に梅爺が生を受けたことは、僥倖としか言いようがありません。しかし、『アプリケーション』の数が増えれば人間は幸せになるとは限らない、という『難題』を人間は抱え込んでしまいました。

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2009年1月22日 (木)

脳の潜在能力(2)

脳容積の広さや、脳の重さが、必ずしも『頭の良さ』と関係していないことは、人間より重い脳を持つ動物がいることや、アインシュタインの脳は常人より特別重くはなかったということから分かります。

脳神経細胞を、『抽象概念処理』『論理概念処理』『情感処理』『記憶処理』などのために、どれだけ多く、効果的に接続することができるか、という能力が『頭の良さ』に関係しています。『言語処理』は、これらを更に総合活用する形態のように見えます。

『人間は、脳を全て使いきれずに死ぬ』ということは、どういうことなのでしょう。『一生かかっても使えなかった脳の部分』は、何のために存在しているのでしょう。誰もが使わないのなら、『不要部分』ですから、進化の過程で退化してなくなりそうですが、なくなっていないところをみると、『使おうと思えば使えるが、使うのには色々な制約がある』か、『不要部分』は人によって異なり共通な特定はできないか、のどちらかなのではないしょうか。梅爺は、なんとなく『不要部分』は人によって異なるという説が有力のように感じます。

制約の一つとして推測できるのは、脳細胞の接続本数には限界があるということでしょうか。空き部屋は誰も沢山保有していても、部屋と部屋をつなぐ通路の本数に制約があるため、人によって、どの部屋をどのような通路でつないで利用するかは異なる、と考えると納得できるような気がします。スポーツ選手、芸術家、学者と、皆『空き部屋と通路の使い方』が異なっているのかもしれません。勿論、人は生まれてから後に、『空き部屋と通路の使い方』を自分なりに開発していくわけですが、DNAの遺伝子プログラムで、『どういう使い方』に適した人間かは、決められている部分もありそうな気がします。

『生まれつきの才能』と『その後の努力』の関係も、なんとなくこの考え方に照らしてみれば、納得できます。人の運命は『与えられたもの』と『創り出すもの』の、織り成す綾で決まると、前にブログに書きましたが、このこととも矛盾しないような気がします。

人間は、『どう使うかは任されている多くの空き部屋』をもって生まれてくる、という『しくみ』が、なぜ出来上がったのかは、不思議ですが、そうなっていることに、私達は感謝すべきなのでしょう。

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2009年1月21日 (水)

脳の潜在能力(1)

現生人類は、非常に荒っぽい乱暴な言い方をお許しいただければ、既に絶滅してしまった他の先行人類や、他の動物よりも相対的に『頭が良い』と言えそうです。特に、抽象概念や論理を表現でき、相互にコミュニケーションできる『言語能力』のレベルは際立っています。言語を記号化(文字化)することにより、遺伝子に頼らずに、子孫に知識を継承できるようになったことは、画期的なことと言えます。

動物にも、子供が親のやり方を見て『餌の捕獲方法』を身につけるといった、遺伝子によらない『知識の伝承』例はありますが(動物園で生まれたライオンの子供は餌の捕獲方法を知らない)、人間の文字による知識継承ののレベルは段違いです。

『抽象概念処理』や『論理処理』は、脳皮質の神経細胞を、蜘蛛の巣のように複雑に接続することで実現していることは分かっていて、言語能力はこれを最大限に利用しています。現生人類とチンパンジーの、この部分の脳神経細胞の遺伝子配列の違いは、たった5%と言われていますので、先行人類とチンパンジーが生物種として枝分かれした500万年前以降に、進化によって、この違いを獲得してきたことになります。たった5%の遺伝子配列の違いが、結果的には『雲泥の差』を生み出していることに興味を惹かれます。『小さな原因の違い』が『大きな結果の違い』を生み出すということは、人生でも体験することです。

アメリカの著名な言語学者チョムスキーは、『現生人類は、ビッグバンのように突如言語能力を手に入れた』というような仮説を述べています。たしかにそう思いたくなるほど、人間は驚くほどの言語能力を保有していますが、梅爺は、ビッグバンの例えは大袈裟すぎるように感じます。現生人類の先祖となる人類も含め、長い進化の過程で、脳の能力を獲得し、ある時それが『言語』という形で開花したのではないでしょうか。

梅爺が、不思議に思うのは、『人間には、何故一生かけても使い切れないほどの脳の能力が付与されているのだろう』ということです。

他の身体の部分は、与えられた能力を精一杯使って生きているのに、何故脳だけは、使いきれないほどの能力を予めもって生まれてくるのだろうということです。

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2009年1月20日 (火)

ヘテロジニアスふたたび

一月15日から4日にわたって掲載した梅爺の『ヘテロジニアス』に、『G爺さん』から、素晴らしいコメントを頂戴しました。コメントを読めば、『G爺さん』が、ノーベル賞文学者パムク氏(トルコ)や政治学者ハンチントン教授(アメリカ)に関して、梅爺よりずっと深い知識をお持ちであることが分かります。梅爺は生半可な知識で、訳知り顔のブログを書いてしまったことを、大いに恥じ入りました。

『G爺さん』は、梅爺が『情』と『理』で区分けした考え方の違いを、『文学者的(理想的)』と『政治学者的(現実的)』と、もっと分かりやすく分類されておられます。同じことを表現しておられるのですが、より具体的です。

『G爺さん』のコメントに触発されて、梅爺の『思索(妄想?)』は更に拡大しました。議論や思索というものは、このような『相互作用(Interaction)』で深まっていくものだと、あらためて感じました。

よくよく考えてみると、人間社会には本当の『ホモジニアス(均一)社会』は存在しないのではないかと気付きました。人間は、夫婦、親子と言えども『他人』で、好みや考え方も異なっているのですから、どんな人間関係も、厳密に言えば『ヘテロジニアス(非均一)な関係』です。少々理屈っぽい皮肉な言い方をお許しいただければ、実際には無いものを、あるかのように、関係者が『信じている』ものが『ホモジニアス(均一)の関係』と言えるのではないでしょうか。

しかし、何から何まで『角(つの)をつき合わせて生きていく』のは、効率の悪いことですので、『同じ立場を共有していると錯覚するグループ概念』を考案し、これでグループ内の軋轢をへらす努力をしてきたのではないでしょうか。『民族(人種)』『イデオロギー』『宗派』などは、その代表です。夫婦や親子と言った極めて近い関係であっても、この『共有意識』が保たれなくなれば、破局します。

東大の山根千枝先生が、日本人は、『ウチ』と『ソト』という抽象概念をうまく使い分けて、『ウチ』の中では、揉め事がなく、安泰であると考えようとしている、という論文を昔発表され、梅爺も『なるほど』と感服して読んだことを思い出しました。

日本人は、『学校の同窓会(同級会、同期会)』『県人会』『会社の同期会』など、『ウチ』の概念を多用して、その場その場で『同じ立場』を確認し、連帯意識の中で安心しようとします。学校の同窓会では、仲間でも、会社は異なったライバル同士などという、矛盾した関係はあるはずですが、その時はその時で、都合よく『同じ立場』になれるという、器用さを発揮します。

『ウチ』の中が『安泰』であるということは、『ウチ』と『ソト』との関係は『対立』であるということになります。『ウチ』は仲間であり、『ソト』はライバル(敵)であるという概念からは、『争い』しか生まれてきません。『ウチ』と『ソト』が『仲良く共存』する『智恵』としては、『寛容と忍耐』しか思い浮かびません。基本的に、『ソト』は争って打ち負かすべき対象であるという認識がある限り、地球上に『平和が訪れる』ことなど、望むべくもないと悲観的になってしまいます。スポーツでは、『ルールと、中立的なジャッジで、勝敗を決する』という、巧妙な方法で『決着』をみることができますが、思想、価値観、宗教の対立は、このように簡単にはいきません。

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2009年1月19日 (月)

アメリカ人の沈着さ

1月16日に、ニューヨークのハドソン川へ不時着した飛行機事故で、全員が無事救出されたことが分かり、明るい気持ちになりました。最悪の惨事を回避した機長の冷静な対応は、絶賛に値します。浸水している客室から全員が退出したことを確認して最後に退去した行為も、プロとは言え、素晴らしい対応です。機長ばかりではなく、乗客の対応も『見事』と感じました。

救出された乗客のインタビューを聴いて、何時起こるかもしれない沈没や爆発の不安を抱えながら、全員で、『パニックにならないように、リラックスしよう』と声を掛け合い、子供や女性から退出するように行動したことを知りました。フライト・アテンダントの呼びかけもあったことと想像しますが、同じ状況が日本で起き、日本人だけの乗客であったら、同じ対応になったのだろうか、皆が自分だけ助かろうと我先に逃げようとするようなことはなかったのだろうかと、梅爺は考えてしまいました。

突然死の恐怖に襲われれば、誰でもパニックになりますが、どれだけ速く『冷静な理性』を取り戻し、全体を優先した判断ができるのか、また、そういうことができる人が、どのくらいの割合で存在するかは、その国の『民度』のレベルと関係しているように思います。日本では、アメリカ人は『個人主義』と考えられていますが、自分にとって不都合な事態の中で、全体を考え『沈着』に行動するという点で、アメリカ人の多くは立派だと、梅爺もいくつかの過去の経験から感じたことがあります。『個人主義』は、『自分勝手』であることだと、日本人は誤解しがちですが、本当は、他人の『個人主義』も同時に尊重することであるということが分かります。

日本では、オジサンやオバサンが、ちょっとしたトラブルや不都合でも、『どうしてくれるんだ』と、鬼の首を取ったように、関係者に詰め寄ったりすることがよくありますが、アメリカ人は、多くの場合冷静な対応をするように感じました。長い行列でも、辛抱強く並んで待ち、わめいたりすることはあまりありません。

今回のような、死に直結した緊急事態に、梅爺自身が遭遇したら、冷静に振舞えるのかどうかは、全く自信がありませんが、少なくともテレビのニュースを観ていて、『アメリカ人の沈着さ』は、たいしたものだと感心しました。

梅爺は、アメリカの全てを礼賛するつもりはありませんが、今回は、アメリカの『良い面の一つ』を観たような気がします。

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2009年1月18日 (日)

ヘテロジニアス(4)

トルコのノーベル賞作家、パムク氏が、『異文化の共存』を人類が達成する日が来ることを期待するのは、トルコが100%近いイスラム教徒で構成される『ヨーロッパの国家』であるという、特異な状況によることは、容易に推測できます。トルコは建国の父アタ・チュルクが下した『世俗主義(政教分離政策)』を今でも守っていますが、『世俗主義』の支持母体が『軍』と『最高裁判所』であるために、国民がこれに反対することは、『実質不可能』という、民主主義の考え方からすると、『好ましくない状況』が存在しています。パムク氏は、『世俗主義』を支持すると表明していますが、トルコの体制に不合理があることは、正直に認めています。

それでも、敬虔なイスラム教徒にとっては、『世俗主義』を守ることが苦痛と感ずることがあり、『緩和』を求める声も絶えません。『世俗主義』では、女性は公の場(大学、役所など)で、ベールや頭を隠すスカーフの着用が禁じられていて、これを『許すかどうか』が重要な政治争点になっています。日本人から見れば、こんな論争は、まさしく『異文化』です。

しかし、いずれの政党も『世俗主義』の限りない『緩和』が、過激な『イスラム教原理主義』の台頭につながることを恐れていて、トルコがEUに加盟することが、『原理主義』を抑制する重要な手段になりうると考えているようです。トルコがEUに加盟すれば、EU側にも、トルコ側にも、新たな『寛容と忍耐』を強いることになりますので、人類が『異文化の共存』へ一歩近づくことには貢献するかもしれません。パムク氏もこれを望んでいます。

ものごとを『理』で考えれば、『異文化の共存』が望ましいという結論に到達します。しかし、一方人間には『情』という、『理』だけでは律することができない面があり、ハンチントン教授の『文明の衝突』は、『情』の支配の強さが、現実には無視しがたいことを指摘しているのではないかと、梅爺は感じます。両者の意見の違いは、『理』を重んずるか、『情』を重んずるかの違いではないでしょうか。

モンゴル人の強い力士が『横綱』になるのは、『当然』と考えるのは『理』であり、上位力士がモンゴル人に占められてしまっているのは『面白くない』と感ずるのは『情』のなせる業です。

『異文化の共存』を許容することは、どれだけ人類が『情』の支配を克服できるかにかかっています。しかし、結局現状以上に『過酷な体験(失敗)』の繰り返しという辛い経験を経て、人類は『情の支配の危うさ』にようやく気付くことになるのかもしれないと梅爺は、少し悲観的になっています。人間は、基本的には『情』で動くことが『自然』なようにできていると思えてしかたがないからです。

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2009年1月17日 (土)

ヘテロジニアス(3)

1月9日の読売新聞朝刊一面に、『大波乱に立ち向かう』という特集記事があり、トルコのノーベル文学賞作家オルハン・パムク氏が、寄稿をしています。最初の部分だけを抜粋して紹介します。

「無邪気すぎる」といわれるかもしれない。でも、私は、出自や人種、民族、信仰の異なる人々が共存できる社会が理想だと考えているし、その可能性を信じている。故サミュエル・ハンチントン米ハーバード大教授は、著書「文明の衝突」の中で冷戦後の世界を諸文明間の対立として描いた。私は、この考え方が世界に広がるのには、賛成できない。

梅爺は、『文明の衝突』を読んでいませんので、早速インターネットで梗概を検索して読んでみました。現状の世界を8つの『文明(日本文明はその一つ)』に分類し、その間の相克が今後激しくなることを予測し、特にアメリカは、ヒスパニック系の人口が増えて、英語とスペイン語の併用国家になり、伝統的なアメリカ文化が廃(すた)れてしまうことを懸念している内容であることを知りました。

どちらかといえば、梅爺はパムク氏に加担したくなりますが、人類の歴史を振り返ってみると、『理想的な異文化の共存社会』が実現していたと言える例はあまりありませんから、確かに『無邪気すぎる期待』と言えるかもしれません。ローマ帝国の一時期や、現在のアメリカは『異文化の共存』が、比較的うまくいっている例と言えますが、『一触即発』の緊張感でそれが保たれていて、とても『穏やかに異文化が融合している』という状態には見えません。

理想的とはいえないまでも、現在のアメリカは最も『異文化共存』が進んでいる国と言えます。歴史的な事情がそうせざるを得ない状況であったためですが、『異文化共存』のケース・スタディの素材にはなります。『WASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)中心のホンネ』を、抑えて黒人の大統領をも許容するわけですから、民衆の『異文化共存理解』のレベルは、高いと言えます。中国で、チベット系中国人が『国家主席』になれるとは、到底思えません。

国内で『異文化共存』を許容している(せざるを得ない)アメリカが、こと外交となると、たちまち『異文化を許容しない国家』になってしまうところが、皮肉です。テロリズム反対を唱えていますが、テロリズムを生む原因が、アメリカの『異文化排斥姿勢(自分の文化を押し付ける姿勢)』に起因していることを、一部の識者を除いて、多くのアメリカ国民はまだ正しく理解していないように見受けられます。

『異文化共存』の問題で現状苦悩するトルコのパムク氏と、『異文化共存』がある程度うまくいっているアメリカのハンチントン教授が、一方は『期待し』、一方は『懸念し』ているわけですから、この見解の相違は、何故起きるのだろうと、梅爺は大変興味をそそられました。

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2009年1月16日 (金)

ヘテロジニアス(2)

お金と時間をもてあましている日本の『老人達』が、大挙して『海外旅行』に出かける風潮は、日本が豊かな国である象徴の一つですが、これが、日本人の『異文化理解』に貢献しているか、と問われれば、なかなか『そうです』とは答えにくいように感じています。

そういう、梅爺と梅婆も、日本の旅行会社のパック・ツアを度々利用していますので、他人事(ひとごと)ではありませんが、この種の旅行は、日本人の添乗員や、現地のガイド(日本人または日本語ができる外国人)が、いたれるつくせりの面倒を見てくれるわけですから、メンタリティは『日本人のまま』で、身体だけ『海外環境に置いている』というに等しい状況に過ぎません。言葉も日本語だけで、さほど『困窮する状況』に遭遇しないで済みます。

そんな体験でも、体験しないよりはましとは言えますが、とても『異文化に接した』とは言えません。それでも、『海外旅行』に出かけた回数や、訪れた国の数などを、さも『外国通』のように自慢する方がおられますので、梅爺は閉口してしまいます。梅爺たちが参加したパック・ツアにも、時折『どこも日本と同じ』と勘違いしているのではないかと思われる、異文化に対して無神経なオジサンやオバサンのグループがいて、他人事ながらはらはらした経験があります。もっとも、海外で出会う中国人旅行グループは、更に『傍若無人』であることが多いように感じます。

梅爺は、仕事の現役時代は、出張で海外へよく出向きましたが、このときの苦労に比べると、パック・ツアは『夢のようにラクチン』です。更に経済性や効率を考えると、パック・ツアは大変有利ですので、『背に腹は変えられず』利用しています。90%以上が『見た、食べた、買ったという自己満足』だけで、『本当に異文化に接した』と言える部分は、ほとんど無いと感じています。

日本の企業の多くが、海外進出をして、多くの企業戦士が海外に駐在して仕事をするようになりました。中には、それでも『日本人の殻』に閉じこもってしまう人もおられますが、多くは、本人や家族を含め、『異文化といやおうなしの対応』をせまられ、悪戦苦闘することになります。こういう人たちの汗と涙が、経済大国日本を支えています。

こういう方たちの体験が、実は、将来の日本のための、『大きな資産』になりつつあることは、まちがいありません。日本といえども『ホモジニアス(均一)』だけではやっていけず、必ず『ヘテロジニアス(不均一)』な社会で生きていく智恵を要求される時代になるにちがいないからです。

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2009年1月15日 (木)

ヘテロジニアス(1)

少々大雑把な言い方をお許しいただければ、日本は、人種、言語、文化の点で『ホモジニアス(均一)社会』ですので、日本人は、日常的に『異文化との共存』を強く意識したり、実現努力をしようとする必要がありません。日本人は、『ヘテロジニアス(非均一)社会』をあまり意識せずに今まではやってこれました。今までは日本にとってこのことは有利な要素であったかもしれませんが、将来のことを考えると、大変不利な要因になる可能性を秘めているように感じます。異文化の坩堝(るつぼ)のアメリカと日本は対極の社会です。

理論物理学でノーベル賞を受賞した、益川先生が、『私は英語はできません』と表明したことに、多くの日本人は、内心ほっとしたのではないでしょうか。『あんな偉い先生でも英語ができないのなら、自分ができないのも恥ずかしくない』『英語ができなくても、世界に認められるチャンスがある』と思ったのではないかと想像します。

しかし、益川先生といえども、論文は英語で発表する必要があったに違いありませんし、世界の研究動向を探るためには、日常的に英語の論文を読まなければならないはずなので、『英語ができない』には謙遜が含まれていて『英語を自由に聴いたり、話したりはできない』という表現が適切なのでしょう。理論物理学は、純粋な『理』の世界なので、思考は日本語で行える(結果を英訳すればよい)上に、言語間のニュアンスなどという文学的な厄介なものを配慮する必要が無い有利さがあります。世界が認めたのは『英語』ではなく、先生の『理論』であったからです。

同様に、世界が認める内容が、言語によらないスポーツや芸術の分野では、『英語ができない日本人でも世界的に活躍できる』可能性があります。しかし、サッカーの中田英寿選手(イタリア語、英語)、F1の佐藤琢磨選手(英語)、テニスの錦織圭(英語)、卓球の福原愛選手(中国語)のように、流暢に外国語ができる選手は、才能を世界の舞台で更に開花させる上で有利であることは間違いありません。

音楽の世界でも、指揮者は、『言葉は二の次』とは言っていられません。オーケストラや合唱の団員と、適切なコミニュケーションをする必要があり、言葉は必須の手段になります。小澤征爾氏や佐渡裕氏が、世界的に認められているのは、音楽的な才能に加えて、外国語が堪能であるからです。梅爺の所属する素人爺さん男声合唱団の指揮を引き受けてくださっている三澤洋史(ひろふみ)先生は、バイロイト音楽祭の合唱指揮をされるような世界的な合唱指揮の権威ですが、ドイツ語、フランス語、イタリア語、英語それにラテン語まで堪能です。

専門分野だけの能力ではなく、言葉を含めた総合能力で、世界が認める人材を、どれだけ輩出できるかは、これからの日本の大きな課題であるように感じます。そういう人材が、日本の政界や財界で大物といわれる方に少ないことは残念なことです。それでも、世界企業化してきた日本の大企業のトップには、外国語を苦にしない方が増えてきました。梅爺が勤めていた会社の社長さんは、ここ数代全て、外国での生活体験があり、英語で外国人と交流できる能力をお持ちです。仕事の上で、それが必須の条件になりつつあるからです。最も、国際的な視野を必要とする政治家に、そういう人材がなかなか現れない(外国語なしでもやっていける土壌が原因であり問題)のは、政治の世界がもっとも遅れている証拠のような気がします。母国語の日本語さえも、おぼつかないというのは論外です。

勿論、言葉さえできればよい、という話ではなく、専門分野の秀でた才能や教養に加えて言葉もできるということが、望ましく、必須になりつつあるという意味です。

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2009年1月14日 (水)

誕生日

P1000001 P1000004 本日は、梅爺の68歳の誕生日です。一人の平凡な爺さんが68歳になったというだけの話ですから、別にブログの話題になるようなことではありませんが、当の本人にとっては、『幸運にも到達できた』という感慨があります。自分だけの力で生きてきたと胸をはるほど、梅爺は不遜ではないつもりですので、自分の人生を支えてくださった全ての方々に感謝したくなります。

アメリカに住む息子夫婦と、一昨年結婚した娘夫婦から、『誕生日プレゼント』が届きました。

津田沼に住む娘夫婦からは、カードと『千葉八街産の殻つきピーナッツ』『イベリコ豚(豚肉)』が、息子夫婦からは、5歳の孫の手作りの誕生日カードとともに、アメリカで売られている『爺さん婆さんのための日めくりカレンダー』が届きました。

梅爺の『ピーナッツ好き』は、家族みんなが知るところで、就寝前に、これをつまみながら、梅婆と他愛の無い会話とともに、一緒にお酒を呑むことが、我が家の日課になっています。これも他人には、格別面白い話でもなんでもありませんが、とりあえず健康であることの証拠ですから、梅爺本人にとっては大切な時間です。『千葉八街産』は、値も張りますが、その分、味は格別です。しかし、いつも入手できるわけではありませんので、普段は、安価な『中国産(我が家では年金ピーナッツと呼んでいます)』を買ってきて食べています。

息子夫婦からは、毎年梅爺の性格と好みを配慮した、珍しい贈り物が届きます。息子のお嫁さんの細かい心遣いであろうと、感謝しています。今年は、アメリカで売られている『爺さん婆さんのための日めくりカレンダー』でした。爺さん婆さんの心が和むような、『ちょっといい話』が毎日、気の利いた英文で綴られています。日本の日めくりカレンダーは、どうしても『人生訓』や『真面目な内容』になりますが、そういうものではなく、つい読んで、微笑んでしまいたくなるものです。通常、爺さん、婆さんに関する話題は、どうしても、生きるの死ぬの、寂しいの辛いのという『暗い話』になりがちですが、誰もが経験する『人生のある時期』と達観して、ユーモアで対応しようというアメリカ人らしさが溢れていて、アメリカ文化の良い面の一つを垣間見たような気になります。日本版を売り出したら、売れるのでしょうか。

例えば、こんな風です。

兄のビリーが、妹のドリーと弟のジェフィに言い聞かせていました。『お婆ちゃんが、「手短に言うと・・」と切り出したら、長い話になるから覚悟しておきな』

いかがですか。なんとなく『おかしい』でしょう。

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2009年1月13日 (火)

経済活動(3)

人間の活動が『理的活動』と『情的活動』の組み合わせで成り立っているとすれば、いずれにも『価値』があり、どの『価値』が一番重要かという客観的な判断基準はありません。『理的活動』に属する『真理探究』『利益追求』や、『情的活動』に属する『感動』『愛情』『美の探究』『信仰』などは、いずれもその『価値』を保有しています。生きる上での優先度は、個々人がその時の状況や、主観的な比較で判断するしかありません。

『金にこだわることは卑しいこと』『人生は金だけではない』などという主張は、勿論一理がありますが、ある程度の金を持っている人の言い分で、明日食べるものさえ購入できない人にとっては、そんな暢気(のんき)なことではすまされません。大体誰でも、胸に手をあてて考えてみれば、時に『美味しいものを食べたい』『温泉に入ってのんびりしたい』などとも考えるはずですが、金が無ければ『美味しいもの』や『温泉』は望むべくもありません。梅爺が、のほほんとブログを書いていられるのは、働いて得た少々の蓄財と、年金があるからに他なりません。

人間社会が、『経済活動』なしでは、成り立たないことは明白ですが、『経済活動』だけが全てではない、という単純な話ではないでしょうか。個人が、異なった『価値』のバランスをどうとるかが、その人の『人生観』で決まるように、国家も、どのようなバランスにするのかが『国家ビジョン』で決まります。

日本の現状は、『国家ビジョン』が存在せずに、野放しにされて弊害が明白になった『価値の偏重』に、あわてて場当たり的に対応することの繰り返しであるように見受けられます。緊急時の『消火』は勿論必要ですが、政治の根幹は『防火』を先回りして実行する洞察力にあります。

民主党の『生活が一番』というスローガンは、庶民にとっては、なにやらありがたい『ご託宣』のようにも聞こえますが、『生活』は、全ての価値観の入り混じりで支えられているものですので、優先度に関しては『何も言っていない』ことに等しいように感じます。『高速道路をタダにする』ことが、『生活』にとって一番重要なこととは思えません。『福祉』を今よりも重視するというのであれば、現状のバランスを変えることを意味しますので、何かを軽視しなければならないことになります。普通に考えれば重い税率を受け容れなければならないはずです。両面を提示して、国民の判断を仰ぐという姿勢なしに、選挙に勝つために、当面耳に心地よいことだけを言うのであれば、あまりにも程度が低すぎます。

少なくとも、『経済活動』と切り離して『生活』は成り立ちません。日本にとって健全な『経済活動』とは何かを、洞察でき、正しく国民にその意図を提示できる政治家が現れるのは、いつのことなのでしょうか。

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2009年1月12日 (月)

経済活動(2)

人類は、『物々交換』という、商取引の原型を最初に思いつきました。『塩』と『毛皮』の交換といった、一見比較ができないものを、『価値』という抽象概念を想起して比較し、『価値がある』と『思えば』、『交換』が成立し、双方が有益であったと『満足』しました。高度な抽象概念を思いつける人間にしかできない行為です。人間に一番近いといわれるチンパンジーの社会にも、『物々交換で双方が満足する』などという習慣は存在しません。

やがて、抽象概念であった『価値』を、相対的、具象的に可視化した『貨幣』を発明し、商取引の仲介物として『貨幣』が利用されるようになりました。『貨幣』を誰もが乱造しては、『貨幣の一貫した価値』は失われますので、『貨幣』を管理する組織が生まれ、多くは権力者がその元締めになりました。元締めといえども、勝手に『貨幣』を製造しては、取引の信用が保てませんので、希少な『金』や『銀』が、裏づけとして確保されました。これによって、権力者は『金持ち』になり、逆に『金持ち』であることが、権力の一つの象徴になりました。

人間は更に、『金を他人に貸して、元金に利子をつけて返してもらう』という、巧妙なしくみを考え出しました。銀行業の始まりです。『銀行は、金を右から左へ動かすだけで金儲けをするのはけしからん』などと叫ぶ人もいますが、これは、国家権力などで、銀行が『絶対に損をしないように守られている』場合の話で、貸した金が利子どころか元金も戻ってこないこともあるわけですから、銀行業は、本来非常にリスクを孕んだビジネスのはずです。

現在では、価値の変動を利用して利益を得ようとする投資の対象が、『株式』『債権』『資源』『不動産』『ローカル貨幣』などと多様に広がり、専門の金融業者ばかりか、個人までもがリスクを承知で投資に参加するという、地球を覆う化け物のような分かり難い(少なくとも梅爺には)システムに人類の経済活動は変貌してしまいました。表向き、このようなシステムが運用できるのはITのお陰です。言い方を変えれば、金融システムを化け物にしたのは元凶の一つはITであるとも言えます。

全てが、うまく回転している時は、『化け物システム』は、金の卵を産み続けるガチョウのように見えますが、どこか一箇所回転を阻害する要因が発生すると、とたんに『バブルがはじけて』全体が破綻することになります。冷静に考えれば、1の投資が20になって帰ってくるなどという、実態経済ではありえないうまい話が何時までも続くはずはありません。今回の世界的な経済恐慌は、人間の『賢さ』が生み出した『愚かさ』であることがわかります。

『自由経済』『金融の自由化』を唱えていた専門家が、一転して『政府の管理、介入が必要』と言い出したのは、素人の梅爺には笑止なことに見えます。『自由』と『規制』のバランスは、人間社会では、どのようなことにも必要です。

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2009年1月11日 (日)

経済活動(1)

人間は、優れた脳の機能を用いて、人間ならではの『活動(行動)』をします。何回もブログに書いてきたように、基本的には、『理的活動』と『情的活動』に大きく分類され、それらは、独立したものではなく、相互に影響を及ぼすことがあることも、人間の活動を複雑にする要因です。しかし、生物として進化の過程で最初に獲得している『情的活動』の支配力が、『理的活動』に勝る場合が多いように感じます。理性だけで冷静な判断をしたいと考えますが、多くの場合、何らかのかたちで、情的な要因が判断に加わってくることを、私達はよく体験します。

『理的活動』は、更に『科学(学術)活動』と『経済活動』に分けられるように思います。人類は、初期の段階から、自分を利するために『経済行動』を始めました。仙人でもない限り、人は『経済』と無関係には、生きていけません。

梅爺のブログにコメントを下さる『山崎次郎さん(ペンネーム)』は、ご自身も毎日『おゆみ野四季の道』という、すばらしいブログを毎日写真入りで掲載されておられます。

http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/

『次郎さん』は、お住まい近辺の『おゆみ野(千葉県)』が『世界で一番美しい遊歩道になるように、定年パワーを全開させよう』と、ブログのサブタイトルに謳(うた)っておられるように、『ものすごい行動力』の持ち主で、圧倒されます。梅爺より5歳以上お若いとは言え、梅爺が逆立ちしても及ばない才能の数々には、ただただ畏れ入るばかりです。

『次郎さん』は、近所の学校で、パソコンや、ランニングの指導員をされておられるほか、地域美化・浄化運動や、恒例事業の運営にボランタリーとして、参加され、更に、ご自身の趣味の『読書会への参加』や『市民マラソンへの参加』と、よくまあ時間配分ができるなあと、感心するばかりです。

書斎に閉じこもって『うんこら』言いながら、なけなしの能力を振り絞って書いている梅爺の『梅爺閑話』とは異なり、『次郎さん』の『おゆみ野四季の道』には、臨場感と躍動感があります。

『次郎さん』のブログのもう一つの特徴は、現役時代に金融関係のお仕事をされておられた経験を活かして、時折『経済状況』に鋭いコメントをされることにあります。それも、報道された内容をただなぞるものではなく、背景や今後の動きに関して『ご自分の意見』を述べられることにあります。

全く『経済音痴』の梅爺には、『ほー、本当はそういうことなのか、へー、今後はそうなるのか』と、大変勉強になります。『次郎さん』の解説や予測が、『当たっている』かどうかは、梅爺の興味の対象ではありません。深い知識や鋭い論理思考で、『ご自分の意見』を明言されることに感銘を受けます。こういうタイプの方に、梅爺は弱く、したがって、こういうタイプの方は大好きです。

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2009年1月10日 (土)

身からでた錆

江戸いろはカルタの『み』、『身から出た錆(さび)』の話です。

『自分の身に、不都合なことや不名誉なことが起こるのは、不運のイタズラなどではなく、あなた自身がその原因をつくりだしているのですよ』と、諭してくれている諺であることはよく理解できます。

現代人は、金属の錆(さび)や、有機物の腐敗の原因は、それぞれ外気との間の化学反応、ばい菌の活動と、科学的に知っていますが、江戸時代の人は、現象的に錆や腐敗は、『まずい事態』であることは経験則で知っていたものの、原因は正しく理解していなかったことでしょうから、金属の錆は、金属の内部にその原因が隠れていると想像し、このように『身から出た』というような表現をしたものと推察できます。

何でもかんでも『自分のせい』と考えるのは、何でもかんでも『他人のせい』と考えるのと同様、極端ですが、梅爺は、この歳まで生きてきて、どちらかというと『自分のせい』と考える方が、人生は健全にやっていけると感じています。『日本をダメにしたのは、ヘボな政治家のせい』と言うのは簡単ですが、『ヘボな政治家が選ばれるしくみしか思いつかない日本人(自分)の責任』とも言えないことはありません。

確かに、『確信犯』で、『この程度のことは騙しとおせる』『この程度のことは、許してもらえる』と積み重ねた結果が、身を滅ぼすような結果をもたらした事件などに接すると、自分のことは棚に上げ、『とんでもない悪い奴だ』と言いたくなりますが、問題は、自分では気付かずに続けてきた行為が、思いもよらない、不幸な事態をもたらすということも、人生には沢山あり、事後にその因果関係に知って、『あのとき、それに気付かなかった自分は、なんと愚かだったことか』と、後悔することも多々あります。

こういう場合は、どう対応するべきなのかと考えていましたら、『爺さん論争』の仲間のSさんから送っていただいた、ダライ・ラマに関する資料の中に、『もし、抜け出す方法がなく、解決策がないなら、思い悩んでもしかたがない。なぜなら、どうしようもないからだ』というダライ・ラマの言葉を見つけました。

自分の能力ではいかんともしがたいことは、『どうしようもない』と割り切れ、ということで、なるほどと思いますが、『どうにかなったのではないかと、割り切れないから、悩んでいる』わけですから、これは『こんにゃく問答』のような気がします。

人は、健康も含め、将来錆となって、あらわれることを、内に抱えながら、それと知らずに生きているわけですから、錆となって現れたものだけを悔やむのも、おかしな話であると気付きました。やっぱり、『どうしようもない』が正解なのでしょうか。

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2009年1月 9日 (金)

キリスト一家の墓(8)

欧米のジャーナリストは、『公正な記述』を基本的に心がけますが、今回のようなケースでは、『キリスト一家の墓の第一発見者』という名誉を勝ち取りたいという気持ちがあることは否めません。当然のことながら、『自分に有利な証拠や条件』を探そうとします。この種の本を読む時は、そのことをわきまえておく必要があります。

一方、欧米のキリスト教関係者からは、内容に対して強い拒否反応が示されました。ドイツでは、ドキュメンタリー映画のテレビ放映が中止され、アメリカでは、番組を放映したディスカバリー・チャンネル(この調査の資金提供者)へ広告を提供する会社の『商品不買運動』まで起こりました。もし、これが、『アレキサンダー大王の墓』や『クレオパトラの墓』が見付かったという発表なら、このようなことは起こらないでしょう。自分(現代人)の生きる基盤が、攻撃されたなどと、だれも感じないからです。

イスラエルも、この発表後の反応は冷たく、更なる追加調査要請などにも、消極的な対応のように見えます。『世界中のキリスト教徒を敵に回す』ことへの『政治的な配慮』が働いているのかもしれません。

『神の子』『死後の復活(魂の復活ではなく、肉体的な復活が聖書では語られている)』『昇天』に疑問を呈する材料の出現は、1500年以上守ってきた『教義』そのものへの挑戦とも言えますので、キリスト教にとっては都合の悪い話であることは、理解できますが、仮に『キリストは神の啓示を受けた特別の預言者(人間)』であったと想定すれば(梅爺はそのように想像しています)、キリストの教え(神の言葉の代弁)そのものまでを否定することにはならないように梅爺には思えます。『キリスト一家の墓が見付かった』としても、『ああ、そうですか』ですむ話ですが、『教義』に対してそのように柔軟に対応することは、キリスト教徒は許されないのでしょう。

科学の世界では、『仮説の提示』や、『仮説の修正または撤回』は、ごく当たり前に起こることですが、宗教の世界では、『一度確立した教義』の修正や撤回は、『権威の失墜』になるために、『絶対にあってはならない』という難しい側面があるのでしょう。今回のことは、かなり本格的に『科学』が、『宗教』の世界の一部に介入した事例(表向きは、墓や骨の特定のように見えて、実質は間接的な『教義』への疑義提示)ですが、今後もこれに類することは頻繁に起きるのではないでしょうか。宗教が昔科学の世界に介入したツケが、今になって廻ってきたとも言えます。宗教側は、腹を決めて一切『無視する』か、感情的な反撥ではなく、『科学』がなるほどと思う論法で冷静に『反論する』か、どちらかの選択を迫られることになりそうです。

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2009年1月 8日 (木)

キリスト一家の墓(7)

著者達は、数学の『確率論』の権威に頼んで、この墓所が『キリスト一家』のものであるかどうかの『確率』を計算してもらいます。当時のユダヤ社会で、『イエス』は男性の14人に一人、『ヨセフ』は男性の7人に一人、『ユダ』は男性の10人に一人、『マリア』にいたっては女性の4人に一人と、ありきたりな名前であることが、他の墓所から発見された骨箱の碑文情報から分かっています。ただし『マリアンヌ』は極めて珍しく、他にあまり例がありません。これらを総合して、楽観的に確率を計算すると、発見された墓所は、240万ケの墓を発掘して、一つだけ見付かる珍しい墓ということになります。つまり、常識的には『キリスト一家の墓』であることは、ほぼ間違いないということになります。

しかし、この墓がキリスト一家のものであれば、存在してもおかしくない『父ヨセフ』の骨箱や、聖書に記されているキリストの義兄妹(男4人、女2人、全て名前は分かっている)の骨箱が、この墓からは特定できないなどの、ネガティブ要素を加味して、最もシビアに確率を求めると、600ケの墓を発掘して、一つだけ見付かる墓であるということになります。

600ケに一つを、『珍しい』とするか『珍しくない』とするかは、科学の話ではなくなりますので、判断が分かれますが、常識的には、『キリスト一家の墓』である可能性は、依然として『高い』と梅爺は感じました。個々の名前はありきたりなものなので、この墓は『キリスト一家の墓』ではないと、簡単には言えません。

実は、見付かった骨箱のうち9個は、イスラエル政府によって今でも管理されていますが、一つが、発見直後に『紛失』していることが分かっています。その後、『骨董品市場』に、『ヨセフの子ヤコブ、イエスの兄弟』と碑文が彫られた骨箱が出現し、これが、紛失した一個ではないかと、著者達は科学分析を行います。結果は、『同じ墓所にあった可能性が極めて高い』ことが分かりました。聖書には、イエスの義兄弟にヤコブ(James)という名がありますので、もしこれが失われた一個であれば、『キリスト一家の墓』である確率は、600ケに一つなどという低いものではなくなり、かなり決定的な証拠になります。

確率をどう見るかは、人によって判断が異なりますので、断定的なことは言えません。人の判断や好き嫌いで、『肯定』や『否定』はできますが、いずれにしても確率だけでは、『断定』はできないということでしょう。

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2009年1月 7日 (水)

キリスト一家の墓(6)

マグダラのマリアに関しては、キリストの『復活』を確認した最初の人物という重要な役割を負いながら、確かに謎が多い女性です。キリストの死後、南フランスへ逃れ、布教をしたと伝えられていますが、確かな証拠はありません。1976年に、ギリシャの修道院から、少なくとも5世紀の時点で古文書をコピーしたと考えられる『フィリップ伝(The Acts of Philip)』がほぼ完全な形で見付かりました。フィリップはキリストの弟子の一人で、マグダラのマリアは彼の妹と記されています。キリストは生前、フィリップへ『ギリシャ語を日常語とするユダヤ人が住む地方』へ布教に行くように命じますが、気の弱いフィリップは尻込みします。その時、イエスは妹のマグダラのマリアに、兄に随行して布教を助けるように命じます。マグダラのマリアは、『霊能力(病気を癒すような)』も強く、キリストが最も信頼していた弟子であると『フィリップ伝』は伝えています。

このノンフィクションには、『マグダラ』という町は、ギリシャ語を話す地方に属し、彼女の名前が、ギリシャ語表示であったことや、兄と一緒にギリシャ語圏への布教を行ったこととも符合すると書いてあります。また、キリストの死後は、エルサレムを本拠地として、イエスの義弟ヤコブ(英語ではJames)と布教グループのリーダーを努め、エルサレムで死を迎えたと推測しています。『師と呼ばれた』という碑文は、男性優位のユダヤ社会では極めて異例で(使途ペテロは、女性の弟子がイエスに寵愛されることを、快く思っていなかったことを示す内容が古文書に書かれている)、それを示すものという説明です。

ローマン・カトリックは、最近になってようやくマグダラのマリアが『娼婦』であったという定説を取り消しました。彼女の本当の姿がわかると、ローマン・カトリックの教義上、『極めて都合の悪い』ことが何かあり、ことさらに貶(おとし)めてきたのではないかとの、憶測が絶えません。ローマン・カトリックが、『異端』として排除したグループ(グノスティック派など:キリストを人間の預言者として崇め、復活や昇天を認めない)のリーダーであったという説が有力です。

梅爺は、キリストの妻であったかどうかは別としても、マグダラのマリアは、キリストの教えを布教するための重要な女性であったのではないかと想像しています。

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2009年1月 6日 (火)

キリスト一家の墓(5)

『イエス』と『マリアンヌ』の骨箱から、それぞれ人間のミトコンドリア遺伝子(DNA)が抽出され、コピーにも成功したという事実は、カナダの法医学研究所の調査結果ですから、信用がおけると考えて良さそうです。ミトコンドリアDNAが分かれば、現代科学の成果のおかげで、人種や親子関係などが推定できることになります。

判明した結果は、2人ともセム族(ユダヤ人、アラビヤ人を含む)の人種に属していた可能性が高く、ユダヤ人であることと矛盾していません。従って、2人が聖書の『イエス』と『マグダラのマリア』であるとすれば、聖画に描かれたヨーロッパ系白人の容貌ではなかったと考えられます。最も注目すべきは、二人の間に母系の血のつながりは認められず(同じ母を持つ兄妹ではない)、『他人同士』であるという調査結果です。『イエス』『マリアンヌ』『イエスの子ユダ』が同じ墓所に埋葬され、『イエス』と『アリアンヌ』は、血のつながりがないとなれば、『イエス』と『マリアンヌ』は夫婦で、『ユダ』は2人の子供である可能性が高いという推測になります。

現在のキリスト教が正統と認めている『新約聖書』には、『イエスが妻を娶っていた』『妻はマグダラのマリアである』『2人の間に男の子がいた』などとは、どこにも明示されていませんので、この調査結果で、発見された墓所がキリスト一家のものである可能性が高いなどと発表するのは怪しからんと、キリスト教関係者からは、猛反対を受けました。このような『仮説』を認めれば、『神の子イエス』の神性の土台がゆらぐことになりますから、当然の反応とも言えます。

しかし、中立的に梅爺がみれば、『仮説』はその『仮説』を支える論理が示されていれば、誰にでも発表する権利があると思いますし、『聖書に書いてないことは無かったこと』という反論は、反論としては少し弱いように感じます。

現在の聖書としては採択されなかった、『キリスト伝』『使途伝』は、エジプトやギリシャでいくつか発見されており(エジプトで見付かった福音書『トマス伝』は特に有名)、その古文書の中には、マグダラのマリアがキリストに最も愛され、妻であったことを匂わせる記述もあります。キリストの処刑の翌日、遺体を安置した岩屋を訪れたのは、マグダラのマリアであったことも、妻であったとすれば自然なように思えます。

キリストの死後、布教は、いくつか異なったグループで行われ、それぞれ微妙に教義内容が異なるようになっていったのではないかと梅爺は想像しています。マグダラのマリアは、一つのグループの『重要なリーダー』であったのではないでしょうか。ただ、パウロが率いたグループの考え方(教義)が、後にローマ帝国の国教として『正統』の座を勝ち得たのに対し、彼女のグループは、『異端』として排除されることになったのではないかと想像しています。

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2009年1月 5日 (月)

キリスト一家の墓(4)

キリスト一家の墓ではないかと、著者が主張する墓所からは、いくつか興味深いものが見付かりました。アパート建設のためのブルドーザーによる整地中に、偶然発見された地下の墓所は、前室と、10ケの骨箱がみつかった埋葬室に分かれていて、埋葬室の入り口の上に、V字を逆さにした傘マークの下に円形のマークが配された、『印(しるし)』が彫られていました。他で見付かった墓所からはこのようなマークは見付かっていません。傘マークは『神殿』を、『丸(円形)』は、『全てを見通す神の眼』を象徴するのではないかという説もありますが、確かなことはわかりません。ただ、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子が描いた『キリスト復活』の画には、不思議なことに、キリストの頭上にこれに似た『謎のマーク』が描かれていたり、秘密結社フリーメーソンが使っていたマークは、ピラミッド状の三角錐の中に眼が描かれていますので、大変似ています。『三角錐の中の眼』は、現在のアメリカのドル紙幣にも描かれています。

このマークが、キリスト一家の墓であるという証拠には直結しませんが、何らかの『宗教的な意味』が込められていた可能性は高く、それが、後代まで伝えられていたのかもしれません。最もうがった見方は、十字軍がエルサレムに侵攻したときに、この墓を発見し、伝えたという話です。『テンプラー騎士団』がエルサレムで、『大変なものを発見』したという話は、有名ですが、それが何なのかは現在でも不明で、多くの憶測を呼んでいます。

もう一つ興味深いものは、『ヨセフの子イエス』と碑文が彫られた骨箱の名前の前にXマークが彫られていたことです。『骨箱を作った石工がつけた単なる目印』であるとか『十字架の処刑を表すものとか』色々な解釈があるようですが、これも真意は分かりません。ただ、ユダヤには『神の正義』の象徴としてXマークが使われていたという記述が旧約聖書にあるらしいので、これも『宗教的な意味』が込められている可能性があります。

いずれにしても、この墓所は、過去に『盗掘』にあっている可能性が高いと考えられます。副葬品が一切見付かっていないことや骨箱の中は空であったことがその理由です。

もっとも興味深い発見は、『イエス(ヨセフの子)』と『(師と呼ばれた)マリアンヌ』の骨箱の内側底にこびりついていた堆積物から、『人間のミトコンドリア遺伝子(DNA)』が、抽出されたことです。残念ながら現代の科学では『人の細胞の遺伝子(DNA)』そのものの抽出はできませんでしたが、それでも『ミトコンドリア遺伝子』は、多くのことを明らかにすることになります。

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2009年1月 4日 (日)

キリスト一家の墓(3)

梅爺は、このノンフィクションを読んで、キリストが生きた時代のユダヤの『死者の埋葬方法』を始めて知りました。当時の社会のしきたりや法は、宗教が定めたものが支配的であったと想像できますので、『ユダヤ教が定めた方法』であろうと思います。

聖書では、キリストの遺体は十字架の処刑後、布(シュラウド)に包んで、アリマタヤのヨセフが所有する(一説には掘らせた)岩屋(小さな人工の洞窟)に移されたたとされています。処刑日は、金曜日であったと考えられていて、ユダヤ教の安息日との関係で、『その日の日没前に岩屋へ移す』ことが、『必要』であった推測されています。ローマ帝国支配下の地では、十字架で処刑された罪人の遺体は、『そのまま放置する』のが原則であったと、前に読んだ『The Sign of Cross』という小説には書いてありました。このことの真偽は別としても、聖書に書かれていることが、本当であるとすれば、アリマタヤのヨセフという人物は、『かなり身の危険を冒した』ことになります。

アリマタヤのヨセフという人物は、当時のエルサレムのユダヤ人社会で有力者(金持ち)であったと考えられていますが、『ローマ帝国の罪人キリスト』の遺体を譲り受けるには、それなりの『裏工作(賄賂など)』が必要であったのではないでしょうか。それが可能なほどの人物であったことになりますが、『キリストの支持者』であることが判明すれば、自らも罪に問われることは避けられませんので、『金の力』以外にも、『それなりの名目の設定』が必要であったと推測されます。

梅爺が、初めて知ったことは、この『岩屋』は、『一時的な埋葬場所』で、野生動物などから遺体を守るために、石の扉で封印しますが、一般的には、白骨化した遺体を、1年後に、関係者(家族など)が扉を開けて取り出し、主要な骨を石灰岩でできた『骨箱(Ossuary)』に移して、一家の墓所に埋葬(永久埋葬)しなおす『しきたり』が、行われていた、ということです。こうする事で、『最後の審判』が下る時に、死んだ人は『復活』できると信じていたものと思われます。エルサレム近郊からは、現在でも沢山の『骨箱』が埋葬された墓所が発見、発掘されていますが、キリストの死の30年後に起きた、ローマ軍によるエルサレムおよび神殿の『徹底破壊(ユダヤ民族の反ローマ蜂起に対する報復)』以降は、この『しきたり』が、どういうわけか行われなくなったことが、考古学の調査で分かっています。従って、『骨箱』が埋葬されている墓所は、『キリストと同時代』の可能性が高いということにもなります。

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2009年1月 3日 (土)

キリスト一家の墓(2)

ノンフィクションの本のタイトルは、『The Jesus family Tomb』で、文字通り『キリスト一家の墓』です。著者は、Simcha JacoboviciとCharles Pellegrinoで、2人ともアメリカを基盤に活躍するジャーナリストです。Jacomoviciは、優秀なジャーナリストに与えられるエミー賞を何度も受賞しているノンフィクション・ライターで、ドキュメンタリー映画のプロデューサーとしても有名です。ユダヤ系のカナダ人らしく、ヘブライ語も堪能で、今回の調査にはそれが役立っています。Pellegrinoは、古生物学分野で博士号を持つ、科学知識をベースにするノンフィクション・ライターで、彼の本が、ジェームス・キャメロンが監督をした映画『タイタニック』の土台になっていると言われています。彼は、考古学に初めて法医学の手法を取り入れたことでも有名です。ジェームス・キャメロンは『The Jesus Family Tomb』というこの本の序文を、支援者として書いています。

この本は、世界中でベストセラーになった(2006年)といわれていますが、日本で翻訳されベストセラーになったのかどうか、梅爺は寡聞にして知りません。

問題となる『墓』は、エルサレム郊外Talpiot(ベツレヘムへの道路沿い)で、1980年に発見され、『ヨセフの子イエス』と碑文が掘られた骨箱(石灰岩で作られたもの、オシュアリィ:Ossuaryと呼ばれる、石棺よりは小さい)や、『マリア』と碑文の掘られた二つの骨箱、『イエスの子ユダ』と碑文が掘られた骨箱を含む、計10ケの骨箱が見付かり(内6ケに碑文が彫られていた)、話題になりましたが、イスラエルの考古資料を管理する政府機関が、『イエス、ヨセフ、マリア、ユダは、キリストの時代には、いずれもごくありふれた名前で、名前だけでこの墓をキリストと関係づけることはできない』と直後に発表し、その後、忘れられていました。発見時に、墓室の床には、三個の頭蓋骨と手足の骨などが『明らかに意図的に配置され置かれてあった』といわれていますが、現在は、それらの消息が分からなくなっており、骨箱の中には、見かけ上骨らしいものは残っていなかったと報告されています。

2人のマリアの内、一人の碑文はヘブライ語であるのに対して、もう一人は、ギリシャ語で碑文が書かれており、しかも厳密には『師と呼ばれたマリアンヌ』と書かれていることに、著者達は注目し、2002年から自分達だけで再調査を開始します。『マグダラのマリア』の本名は、ギリシャ語表記の『マリアンヌ』であったと、主張する宗教学者に遭遇したことがきっかけです。

著者たちは、数学的な確率論、墓の内部の壁や骨箱内部に付着した堆積物の科学的な分析、遺留物からのDNAの抽出や鑑定が可能かどうかの調査などを進め、判明した事実が、聖書や当時の古文書の内容と一致するかどうかなどを検証していきます。

著者達は、この墓が、『キリスト一家の墓』である確率はきわめて高いと判断し、ドキュメンタリー映画と本を2006年に公開しましたが、キリスト教関係者からは、大反発を受けることになります。彼らの説を認めると、キリストとマグダラのマリアは夫婦で、ユダという名前の子供がいたという、聖書には記述の無い話の信憑性が高いことを認めることになるからです。

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2009年1月 2日 (金)

キリスト一家の墓(1)

宗教が、純粋に人の『情念』や『倫理』といった、抽象的な概念の世界だけを説いていれば、今のところ科学が介入できませんので、問題は起きませんが、教義の成立の過程で、本来は科学の対象となる分野に踏み込んだり、科学の法則や原理では説明できない『奇跡』のようなものを、『現実に起きたこと』と説明したために、科学者など『理屈っぽい人』からの、反撥を受け続けています。宗教優勢の時代には、将来科学が、極めて厄介な存在になって、こんな形で刃向かってくるものになるとは、夢にも考えなかったのでしょう。

人が、なぜ『信ずる』のか『愛する』のかは、『生物として生き残るために必要な資質』であろうということは、推定されていますが、どのようなカラクリでそれが起きるかは、解明されていません。しかし、『信ずる』『愛する』という人間の脳の行為が、人間や人間社会にとって重要な意味を持つことには、多くの人が違和感なく肯定します。『汝の隣人を愛し、許せ』という教えは、エゴも併せ持つ人間にとって、実際に実行することが極めて難しいことは感じても、『そうありたい』と多くの人が共鳴します。科学者でさえ、このような教えには反対などしていません。共鳴できない人や、真意が理解できない人は、よほどのへそ曲がりか、前頭葉発育不全の人ではないでしょうか。

しかし、『天地や人間は神が7日間で創った』とか、『死後の世界には天国と地獄があり、どちらに行くかは神の審判で決まる』などという話になると、万人が違和感なく受け容れるというわけにはいかなくなります。梅爺も、『人の死に対する不安』を緩和する話としてなら分からないでもないですが、生きている人間にとって確認しようがない『天国や地獄』の話を持ち出し、『不信心は地獄行き』と脅かすのは、少々行き過ぎのように感じますが、いかがでしょうか。

『宇宙生成のプロセス』や『生物進化のプロセス』を科学が追求し、宗教が説明してきた内容と異なる『事実』が判明するに及んで、宗教は、沈黙を守るか、『それでも科学では解明できない世界がある』とコメントしてきました。『人間は自らの脳のカラクリを解明できる能力を持たない』と予測した学者もいますから、梅爺も、人間の脳には限界があり、科学で全てが解き明かされることはないのかもしれないと考えたりしますが、真相は分かりません。現に、『人間の心のあり方』を説く宗教の教義の根幹が、何故人の心を癒すのか、現状の科学では解明できていないことは承知しています。しかし、全てが解明できるかどうかはともかく、少しでも『理解の範囲』を拡大しようとする『科学の姿勢』は、真相を求めるこれまた人間の本能に立脚していますので、これが神を冒涜する行為であるとも思いません。イスラム教は、科学による真理追究をむしろ奨励しています。

しかし、もし『キリストの遺骨』が発見され、それが本物と判明したら、キリスト教の教義は大きな影響を受けることになります。『神の子』『復活』『昇天』といった教義の上で重要な『キリストの神性』に対する疑義の提示になるからです。

1980年に、エルサレム郊外で偶然発見された『墓』が、キリスト一家の墓ではないか、ということを執拗に追いかけた過程を書いた英語のノンフィクションを本屋で見つけ、読みました。内容は、なかなかスリリングなものでした。

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2009年1月 1日 (木)

自我と無我(4)

パスカルは『我思う、故に我あり』という有名な言葉を残しました。これに従えば『無我』は、『我あり。然れども我なし』という境地ですから、パラドックスに他なりません。

仏教の『無我の境地』は、一切の煩悩を解脱した状態で、西洋では崇高とされる『愛』という概念さえ『煩悩』として排除されるのだと、梅爺が加わっている『爺さん論争』の論客のお一人であるSさんから、前に教わりました。仏の『慈悲』というのは、『からだの苦しみ(病気)、こころの苦しみ(悩み、悲しみ)』から、人を救済しようという考え方であることも教わりました。

『無我の境地』に達することができる高僧は別として、普通の人間は、煩悩を解脱できませんので、『生きる』ことは、とりもなおさず『苦しむ』ことであるということになります。こう言ってしまうと、悲壮感溢れる暗い話になってしまいますが、ありがたいことに、人には『楽しむ』という考え方が、バランスをとるように与えられています。

勿論何を『楽しい』と考えるかは、人によって異なり、『低俗な楽しみ』『高尚な楽しみ』などと区別もありますが、中には、本来『苦しい』であろうことを『楽しい』に変えて受け止めることができる素晴らしい人もおられます。

多くの『苦しみ』は、自分が意図したものでないが故に『苦しい』ことになりますが、人は『楽しさ』を自分の意図で見出すことができることが救いのように思います。しかし、根本的な違いは、度を越した『苦しみ』は、これまた自分で意図しない病気(心の病)につながる可能性があるのに対して、『楽しみ』は、自分で制御できる分、そのような恐れが少ないということでしょう。勿論『楽しみ』も度を越せば、『朝寝、朝酒、朝湯で身上(しんしょう)をつぶす』ことにはなります。

『低俗な楽しみ』は、自分はあまり努力せずに、他人から『楽しみ』を与えてもらうものが多いのに対して、『高尚な楽しみ』は、自分の努力や創造力で見出すものが多いように思います。

『ただ苦しいだけの人生』『ただ楽しいだけの人生』という極端な例はあるのかもしれませんが、普通は、『苦楽が相殺される』故に、人は、局面的な『苦しさ』にも耐えて、生きていくことができるのではないでしょうか。

偉そうに言ってしまえば、『苦しいのは生きている証拠。楽しめるのも生きている証拠』ということになります。

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