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2008年12月31日 (水)

自我と無我(3)

『西洋の精神生活の中心は自我、東洋の精神生活の中心は無我』という主張は、ある一面の本質をとらえているように思いますが、少々荒っぽい主張のような気がします。言い換えると『西洋では自己主張しないと生きていきにくいが、東洋では反対に自己主張すると生きていきにくい』ということかと思いますが、西洋や東洋を一律に考えるのも無理があります。梅爺の経験でも、ドイツ、フランスとアイルランド、ノルウェイでは、精神文化がかなり異なっていますし、日本と中国でもかなり違います。言うまでもなく、中東のイスラム圏の国は、同じアジアといっても日本とは全く異なった精神文化を保有しています。

従って、『西洋』を『アメリカ』、『東洋』を『日本』と絞って置き換えてみれば、かなり焦点があってくるように思います。アメリカ映画を観ていて、登場人物の言動に、日本人の多くは『違和感』を覚えるのではないでしょうか。それは、風貌が日本人と異なるためだけではなく、個性同士の激しいぶつかり合いに、日本人が戸惑うからではないかと思います。まるで、異星人の生活を覗き見るような気がします。アメリカ映画では、ジョン・ウェイン、シュワルツネッガー、シルベスタ・スタローンがヒーローを演じますが、日本映画では、渥美清(寅さん)、西田敏行(釣りバカ日誌のハマちゃん)がヒーローとなります。チャップリンは一見『善良な弱者のヒーロー』のようにも見えますが、アメリカのヒーロー願望を逆手に取って、笑い飛ばしているようにも見えます。

この違いの根本理由として、『狩猟民族と農耕民族の違い』『一神教信仰と多神教信仰の違い』などが、よく挙げられますが、梅爺には、それだけでなく、もっと多様な要因が絡んでいるように思えます。

基本的には『周囲と対決して生きる(アメリカ)』と『周囲と融合して生きる(日本)』の違いのように思えます。『自然』も『周囲』ですので、日本人は、自然の一部として自分が存在しているという死生観を持っているように思います。勿論梅爺は日本人ですので、『周囲と融合して生きる』方が、居心地良く感じます。

アメリカにも、『気の弱いアメリカ人』はいますし、日本にも、やたらと『気の強い日本人』もいますから、アメリカと日本を、一律に論ずると、誤解を生じ易い気もします。これはあくまでも、『一般論』の話です。

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2008年12月30日 (火)

自我と無我(2)

『無意識』の領域は、生物としての人間の欲望や、体調管理を行う脳の部分の影響を受けますから、体調がすぐれない時は、『自我』が、いくら『頑張らなければいけない』と考えようとしても、『何もやる気が起きない』状態に見舞われます。逆に、心の悩みも、『無意識』の領域を介して、体調管理の部分へ影響を与えますので、体調を崩し、病気の元となります。『やる気』や『頑張り』は大切なことですが、人間全体は、それだけでは制御できない微妙なバランスの上に成り立っていることが分かります。

健康のためには、『笑う』ことは重要な意味を持つ、と言われますが、梅爺の長兄で独り暮らしのQ翁は、『テレビを観ていて、独りで笑ってみても、空しい』と述懐しています。人は、孤独の中で健全な『自我』を維持せよと言われても、難しいことが分かります。下賎で恐縮ですが、『屁をひっておかしくもなし独り者』という川柳は、実は人間の深い内面を表現していることになります。『自我』は、心を共有できる相手がいる時に健全でありうるものではないでしょうか。

Q翁は、義姉に先立たれてから、熱心にプロテスタントのキリスト教会へ通うようになり、信仰深い多くの方々との接触の中で、『心の中では、いつも神や義姉と一緒』という、心境を獲得しています。この心境は、『理屈』や『薬』では得られないものであることは、理窟屋の梅爺でも理解できます。梅爺が理窟を言っていられるのは、幸いなことに、今のところ、恵まれた環境で生きているからに過ぎません。

『無意識』の中に、『人間は、自分が帰属するものに無条件で愛着を感ずる』ということが、もしあるのであれば、『愛国心』などというものを、教育で強要する必要もあまりないように思います。中国やロシアを見ていると、『愛国心』は、為政者にとって都合の良い国民を作る手段になっているように感じます。もし、日本のサッカー・ナショナルチームが、ワールドカップで、次々に勝ち進めば、日本中が自然に『愛国心』で沸き返ることは必定です。『愛国心』の教科書より、サッカー強化へ投資した方が、安上がりで、効果的かもしれません。

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2008年12月29日 (月)

自我と無我(1)

大分前に、読売新聞の特集記事の中で、『西洋の精神世界の中心は自我であるのに対して、東洋の精神世界の中心は無我である』というような内容を読んだことを思い出しました。何の特集記事であったのか、どなたがそのように主張されたのかは、あまり前のことなので、残念ながら忘れてしまいましたが、この対比の面白さだけが、記憶に残りました。

日本語の『自我』と『無我』は、必ずしも対をなす言葉ではありませんので、少々こじつけの感がないでもありませんが、なんとなく本質を突いているようにも感じます。

梅爺は、高校の授業で、先生が『自我』という概念を懸命に説明されようとした時に、『自分が自分を主張するのは、当たり前ではないか』と単純に思い、どうしてこのように、もったいぶって説明する必要があるのだろうと、むしろ不思議に感じました。先生の説明が、適切でなかったか、梅爺の考えが浅かったかのどちらかですが、今となってみれば、後者であることは明白です。先生には、大変失礼な対応をしてしまったことになります。

心理学では、脳の働きを『意識』と『無意識』に分け、『自我』は『意識』の領域の活動と定義しています。『意識』は、自分で自分を律していると思っている領域ですが、実は『無意識』の領域からの間接的な影響を受けていますので、『自我』がどのような形で現れるかは、複雑な話になります。

『無意識』の領域とは何かも、難しい話で、一部は、生物としての本能(欲望)によるものもありますが、それ以外に、その人固有の過去の記憶などが作用することもあるように見えます。自分の中に、理性では『そうあって欲しくないと思うような自分』さえも抱え込んでいて、その『変な自分』が、『まともでありたい自分』に、色々ちょっかいを出すために、自我は、悩みを抱えることになるのでしょう。

人間は誰でも、『変な自分』を抱え込んでいるということが『正常』だと、受け容れてしまえば、一生それをなだめすかしながら、つきあっていこうと覚悟ができますが、『変な自分』を抱え込んでいることに、『罪の意識』を感じたり、自分だけが『異常』ではないかと悩んだり、『変な自分』などは抱え込んでいないと思い込もうとしたりすると、『自我』は苦しむことになります。

自分は『バカ』だという人は『バカ』ではなく、自分は『弱い』という人は弱いとは限らなく、むしろ自分は『バカではない』、自分は『強い』と思い込んでいる人に問題が生じるという、皮肉な結果になります。

高校生の頃の梅爺は、不遜にも自分の『バカ』さ加減に気づいておらず、人生は『強くいきるべきだ』と単純に考え、勝手にバラ色の将来を夢見ていたのでしょう。爺さんになって、今更という時期に、『自我』の本質を理解できるようになるとは、人生は、これまたなんと皮肉なものかと、嘆きたくなります。

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2008年12月28日 (日)

目の上のこぶ

江戸いろはカルタの『め』、『目の上のこぶ』の話です。

『煩わしく、邪魔なもの』のたとえであることは分かりますが、江戸の庶民がこの諺を聞いて、何を思い浮かべニヤリとしたのか、色々想像してしまいます。江戸いろはカルタ全体に流れる諧謔の精神を考えると、これだけが単なる軽妙な言い換えであるとは思えませんので、つい深読みして、何か人間の本性に関する『おかしさ』が込められているのではないかと考えたくなります。

同様な例えに、『のどに刺さったトゲ』というような表現があります。こちらは、四六時中気になって、気になってしかたがない『邪魔者』の感じが強く、何としてでも取り除いて、早く清々したいという、緊迫感がありますが、『目の上のこぶ』の方は、気にしだすと、煩わしくなる、といった程度の感じがしないでもありません。本人は、他人が『あの人は、夫婦喧嘩でもして、きっと奥さんに皿でもぶつけられたのだろう』などと、好奇の目で見るに違いないと体裁を考えて悩みますが、他人は、それほど気にしていないものですよ、皮肉っているようにも感じます。

一般には、『目の上』という表現から、出世や成功を目論んで、現状より上の状態への飛躍を強く望んでいる人間の前に、出世や成功の邪魔になるライバルや、邪魔者があらわれたような状況を表現するのに、この諺が良く用いられます。権力欲や出世欲が強い人間ほど、どんな手段を弄しても、『目の上のこぶ』を取り除こうとしますので、この後、おどろおどろしいドラマが展開することになったりします。

それほど、大袈裟な話でなくても、人は、誰でも何かしら『目の上のこぶ』を抱えていて、『これが無かったら自分は幸せなのに』と、人知れず悩むものです。何としてでも、それを排除しようとするか、それは自分に与えられた宿命とあきらめて、抱えたままで生きていこうとするかは、その人の人生観や価値観で決まります。

梅爺は、完全無欠な人間などこの世にいないと考えていますので、むしろ『目の上のこぶ』は、人生で自分の弱点や欠点を、思い起こしてくれる貴重なもののように感じます。ただ、そればかりを『言い訳』にしていると、『どうせ』とか『所詮』とかを連発することになり、向上心を放棄して、開き直ってしまいますので、その辺のバランスは難しいところです。人生は、なかなか釈然とはいかないものです。

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2008年12月27日 (土)

『教え』と『できごと』(8)

『教え』を理解するために、背景の『できごと』を必ずしも知る必要はありませんが、知っていれば、より深い理解が可能になるように思います。

キリストの時代の背景を、梅爺は自分の知識で『想像』して書いてきましたが、勿論これが真実である確証はありません。しかし、そう考えることで梅爺はキリストの『教え』の深さをより納得できるような気がします。

キリストは、当時の他の信仰深い人たち(ユダヤ教の)のように、荒野や不毛の地に逃れて、自分達だけの清貧な生活を守ろうとせずに、むしろ苦難に喘ぐ人々の中に入っていって、『心正しい生活を続けて待てば、必ず神の裁きがくだり、邪悪は排除される日が来る』ことを、教えようとしたのではないでしょうか。少なくとも、目の前の理不尽なローマ帝国の支配や、堕落したユダヤ教の神官たちに立ち向かって決起するように扇動などは行っていません。そのような行為は、更に憎悪を増幅し、事態を悪化させて、人々の苦しみが増すことを知っていたのではないでしょうか。しかも、一般論としてではなく、そのような状況下で『汝の敵を愛せよ』などと言える器の大きさは、並みのものではありません。『無抵抗主義』でイギリスから独立を勝ち取ったガンジーのような偉大な『思想』と通ずるものを梅爺は感じます。

仏教で言えば、世俗を離れ、厳しい禅宗の戒律を求めた道元ではなく、民衆に念仏を唱えることで救済されることを教えた法然や親鸞の姿を想像してしまいます。

キリストの死の、30年後に、ユダヤの民衆は、ついにローマ帝国に対して決起しますが、強大なローマ軍に一蹴され、徹底した殺戮と破壊をこうむります。エルサレムは、完全に破壊されたと歴史は伝えています。壮大であったユダヤ教の神殿も、その時の破壊で今は、『嘆きの壁』だけが残っていることはご承知のとおりです。

歴史に、『もしも』はつきものですが、『もしもキリストが、十字架で処刑されることなく、生きていたら』どういう展開になったのだろうかと、梅爺は想像してしまいます。しかし、キリスト教の教義からすれば、『キリストの十字架の死』は、『人類の罪を贖うために神が下した必然』ということですので、『もしも』などという発想そのものが『罰当たり』であるということになります。

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2008年12月26日 (金)

『教え』と『できごと』(7)

ユダヤにおける『原始キリスト教(キリストの生前および死後近辺の宗派)』が、特にキリストの死後、どのように布教活動を行ったのかは、全貌が分かっていません。少なくともパウロをリーダーとしたグループの布教が、最終的に現在のキリスト教(非ユダヤ人までを対象とした世界宗教)として残ったことは確かですが、その他にも、いくつかの異なったグループによる布教があり、それぞれ、教義は微妙に違っていたのではないかと思われます。マグダラのマリアとキリストの義兄ヤコブを中心としたグループが、後にカソリックから異端とされたグノスティック派の始まりではないかと考えられていますが、これも確証はありません。少なくとも中世にいたるまで、複数の『微妙に異なった教義』を信奉するグループが、エジプト、中東、ヨーロッパにまで影響を及ぼしていた形跡は沢山あります.。現在も、秘密の宗派が存在しているという想定は、多くのミステリィ小説が好んで採用するプロットです。ローマン・カトリックが『宗教裁判』で、それらを『異端』として厳しく弾圧した史実が、それらの異なった宗派が少なくとも過去は存在していたことの証拠です。

ローマン・カトリックからも、正当なユダヤ教からも、『原始キリスト教』は、都合の悪い存在であり、『死海の書』のような、『原始キリスト教』の存在を証明しそうな証拠が見付かると、バチカンとイスラエルが共謀して、その内容の発表を拒んでいるのではないか、というような憶測が現在でも流れます。

『原始キリスト教』の宗派の中には、キリストを『神の子』ではなく、『神の啓示を受けた卓越した預言者(人間)』として扱っているものが存在することが判明したりすると、バチカンは、『神の子』『復活』『昇天』といった基本的な教義を脅かされることになりますので、非常に神経質になっている事情は理解できます。そうであるが故に、この題材を扱ったミステリィ小説の出現は後を絶ちません。

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2008年12月25日 (木)

『教え』と『できごと』(6)

『バプテスマのヨハネ』の父親は、ユダヤ教の高い位の司祭で、母親エリザベートは、『ナザレのイエス』の母親マリアと親戚であったと聖書には書かれています。父親も高潔な人で、腐敗したユダヤ教を非難したために排斥されたと言われています。『バプテスマのヨハネ』が改革に身を投じたのはその血筋を引いていたのでしょう。『バプテスマのヨハネ』と『ナザレのイエス』が親戚であるとすれば、幼年期、青年期にお互いの面識があったと想像できますし、少なくともお互いにその存在は知っていたと考えられます。2人は、イエスが洗礼を受けた時が『最初の出会い』ではなかったのではないでしょうか。『ナザレのイエス』は『バプテスマのヨハネ』の生き方や、考え方に共感を覚えていたと見るのが自然です。

『バプテスマのヨハネ』は、その後ヘロデ王の息子の結婚に、ユダヤ教の教義に反すると異を唱え、そのために捕らえられ、斬首の刑にあいます。この事件は戯曲やオペラ『サロメ』で有名です。

腐敗したユダヤ教の改革を行おうとしたグループのリーダーの多くが、体制側に捕らえられ、斬首などで殺されています。中には『我こそは救世主』と主張していた人物がいたことも分かっています。私達は、キリストの『十字架の死』を、非常に稀な特別な事件と考えがちですが、『殉死』したのは、キリストが初めてというわけではありません。十字架の刑は、ローマ法では、帝国への反逆者に対する極刑でしたので、刑のかたちから類推すると、キリストは、ローマ帝国にとって、極めて都合の悪い人物であったことになります。

『死海の書』のなかに、『聖徳の師が刺し殺された』と嘆く詩が発見されていて、これが『ナザレのイエス』の十字架の死を意味するのかどうか、議論になっています。殉教者はキリスト一人ではないので、名前や時代が明示されていない以上、特定は難しいように思います。

『ナザレのイエス』の言動の特徴は、現実から逃避した生活を選ばずに、困窮する民衆の中に自ら身を置き、ローマ帝国や腐敗した体制打倒のために決起することではなく、清廉に生きて神の裁きを待つように、マハトハ・ガンジーのような『無抵抗主義』を説いたことではないかと梅爺は思います。既に、身近にゲリラ活動があり、ローマの軍隊の過酷な制圧を見聞きして知っていたにちがいありません。歴史上、武力で邪悪を倒した英雄は沢山いますが、『無抵抗主義』を唱えた偉人は多くはありません。

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2008年12月24日 (水)

『教え』と『できごと』(5)

現在のキリスト教の『教義』が確立したのは、4世紀以降のことで、その内容は、ローマ帝国の唯一の国教として、都合よく編集されたと考えるのが自然ではないでしょうか。少なくとも、当時の関係者が協議して(公会議での激しい論争も含め)教義は決まりました。都合よく編集されたということは、『都合の悪いもの』は『異端』として排除された可能性があるということです。最近発見された『トマスの書』『ユダの書』などが、そのことを示唆しています。キリストの『教え』や、考え方が、そのままの形で教義に反映されたわけではない、と梅爺は考えています。『古事記』や『日本書紀』が大和朝廷に都合の良い歴史として編纂されたという話と似ています。

誤解がないように申し上げれば、梅爺は現在のキリスト教の『教義』が、正しくないと言っているわけではありません。『異なっている』ということと、『正しいか、正しくないか』は別の話です。

ローマ帝国の圧政下で、堕落した『ユダヤ教』の改革を試みた人や集団は、キリストとその弟子達だけではなかったと考えるのも自然です。不毛の地である死海沿岸で過酷な集団生活を送り、『死海の書』を残した人たちもそれに属しますし、荒野で修行僧のような生活をおくった集団もあったと想像できます。『バプテスマのヨハネ』は、この荒野の修行集団の一員かリーダーであったのではないかと、梅爺は思います。『バプテスマのヨハネ』からキリストが洗礼を受けたという事実は、非常に大きな意味があるように感じます。これらの集団は、そのリーダーの主張に、少しの違いはあるにせよ、『ユダヤ教』の改革のために立ち上がった人たちで、基本的に『ユダヤ教』を排斥しようとしたのではない、ということも理解しておく必要があります。当時のユダヤ社会で、『キリストとその弟子達』は、ある程度注目度が高かったとは思いますが、唯一の『改革推進集団』ではなかったと梅爺は想像しています。

『ユダヤ教をベースに派生した当時のキリストグループの唱えた宗教観』と後に『ローマ帝国が国教としたローマン・カトリックの宗教観』は、『異なっている』と梅爺は考えています。そもそも、ユダヤがローマ帝国へ反旗を翻す元となった『ユダヤ教の新宗派』が、ユダヤから見れば『憎い敵であるローマ帝国』の、しかも『唯一の国教』となるという話は、アメリカが『イスラム教』を『国教』に定めたという話に匹敵しますので、歴史の奇跡のように思えますが、これを実現する下地は、民族土着の『ユダヤ教』を、普遍的な『キリスト教』に変えたパウロの布教功績によるものです。パウロは、梅爺にとっては、非常に興味深い人物です。

『伝統的なユダヤ教』『ユダヤ教の新宗派ともいえる原始キリスト教』『非ユダヤ社会にまで浸透したキリスト教(ローマン・カトリック)』は、同根ではありますが、『教義』に大きな違いがあると、梅爺は考えています。この三つを混同しないように見る必要があるのではないでしょうか。

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2008年12月23日 (火)

『教え』と『できごと』(4)

現代の日本は、他国の直接支配下にはありませんが、『資本原理による自由経済』至上の考え方が蔓延し、私利私欲に走る人が多く、テレビ番組もお笑い芸人に独占されていて、刹那的な快楽が優先されている、と見れば、程度の差はあれ、キリスト時代のユダヤと変わらないと嘆く方もおられるかもしれません。しかし、オーム真理教のように、『アルマゲドン(神の審判が下る人類最後の日)』が近いなどと信ずる人は稀で、多くの日本人は、この状況が、『神』や『救世主』の出現で救われるなどとは考えていません。

旧約聖書に書かれたユダヤの建国の歴史や、ユダヤ教の教え、予言(救世主の出現)、『審判の日の到来』などを、当時の信仰深いユダヤの人々は、『本当に信じていた』と梅爺は想像します。これが現代の日本社会と決定的に異なることです。当時は、宗教と生活は一体であり、耐え難い苦難であればあるほど、宗教に頼って『希望』と『期待』で癒そうとしたに違いありません。人間の脳は、苦しい状況では、そういう『ヒーリング(癒し)』を求めるようにできているからです。

ローマ帝国におもね、権力と富の側についてしまった、体制側のユダヤ教を排して、本来のユダヤ教の教えに立ち返ろうという、宗教改革運動が、このような状況下で起こるのも当然の帰結のように思えます。堕落したカトリックに対抗して、ルターやカルバンが『宗教改革』を起こしたのと同じ状況です。

つまり、当時のユダヤ社会を理解するには、『他国による過酷な政治支配』『社会の荒廃(権威主義、拝金主義、快楽主義)』『形式だけを重視するような宗教の堕落』『宗教改革希求運動』『神や救世主による救済(審判の日の到来)の希求』などを、総合的に考える必要があり、キリスト出現の意味もこれら無しでは、理解できないのではないかと思います。キリストの普遍的な『教え』故に、私達は、自分と同じ身近な環境の中に、キリストの存在を想定して考えますが、原点は、当時のユダヤ社会にあることも、同時に理解しておく必要があるのではないでしょうか。そうでないと、そのような苦しい環境の中で、敵をも含め『隣人愛』を説いたキリストの本当の『凄さ』が見えてこないからです。

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2008年12月22日 (月)

『教え』と『できごと』(3)

前に、『ジーザズ・クライスト・スパースター』というロック音楽で構成された映画を観た感想を書きました。この中で、当時のユダヤの状況を想像し、現在の中国の異民族支配より、当時のローマ帝国のユダヤ支配は、寛容であったのではないかと書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_2a5a.html

しかし、その後色々な本を読んでみて、特に『死海の書』に関する本を読み返してみて、当時のユダヤは、想像以上に『悲惨な状態』であり、梅爺の以前の認識は正しくなかったとったと考え直すようになりました。『死海の書』については、また別の機会に書こうと思います。

キリストの生誕時は、悪名高いヘロデがユダヤの王(ローマ帝国の属領のユダヤ人族長)でしたが、キリストが7歳の時にヘロデは死に、ユダヤは彼の4人の息子に分割され、依然彼らは族長の地位にありました。ユダヤ教の神殿や神官達は、実質、族長に支配され、その族長もローマ帝国の支配下にあったわけですから、エルサレムは、悪徳と私欲がはびこった町になっていて、真の『ユダヤ教』や『ユダヤの神(エホバ)』を信ずる信仰深い人には、耐えられないような場所になっていたものと想像できます。

そこで、敬虔な人たちは都会を離れ、荒野や不毛の地に逃れ、そこで信仰を守る厳格な集団生活を送るようになったと言われています。『死海の書』はそういう人たちが、自分達の『願い』を書き残したものと、今では考えられています。当時の人たちには、信仰と生活が一体であったことの証左です。このような集団の数はどのくらいあったのか、集団同士連携していたのか、考え方の違いで対立していたのかなど、疑問は尽きません。

これらの人々は、『目の前に展開する悪夢のような現実(ローマ帝国の支配、堕落した同胞達の存在)』と『神や、神が遣わす救世主が、やがて悪徳を駆逐する』という『希望』が交差する、厳しい生活を強いられていたことになります。

キリストの死後、30年経って、ついに信仰だけでは埒(らち)があかないと業を煮やしたユダヤ人が、決起し、武力でローマ帝国へ立ち向かいますが、ローマの軍隊に打ち負かされ、エルサレムの壮大な神殿も徹底破壊され、エルサレムは、乞食がうろつくような廃墟の街になってしまいます。この『ユダヤ戦争』で、数十万人が殺されたと推測されています。

このような時代背景の中で、出現した『バプテスマのヨハネ』や『ナザレのイエス』(いずれも、『ユダヤ戦争』以前の人物)は、どのような人物で、この状況にどのような対応をしようとしたのかを理解しないと、『教え』も本当には理解できないのではないかと、梅爺は感ずるようになりました。

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2008年12月21日 (日)

『教え』と『できごと』(2)

聖書に書かれている、キリストにまつわる『できごと』を検証するためには、キリストが存在した時代のユダヤがどのような状態であったのかを背景として知る必要があります。キリストといえども、社会と隔絶した孤高の存在ではなく、環境からの強い影響があった、と考えて差し支えないと思うからです。『教え』は後々、普遍的な内容として、世界中に布教されましたが、元々は、ユダヤ社会の『環境』と風土の中で、『環境』や風土の影響を受けて生まれたものであろうと想像しています。

特に、生誕に関する話、その後ヘロデ王が行ったベツレヘムの男の新生児皆殺し(自分の王権が危うくなる真のユダヤ王が生まれたと恐れて)の難を逃れて、キリスト一家がエジプトのアレキサンドリアへ逃避した話、キリストが7歳の時に、一家がエルサレムへ戻った話の後に、突然30歳に達したキリストが、『神の教え』を説く『師』として再登場しますので、男盛りの30歳になるまで、キリストは、その間、どこで、どのように過ごし、何を見、何を学んでいたのか、と次々に知りたくなります。聖書が何故、その間を空白としているのかも気になります。特に、民族の宗教『ユダヤ教』や民族の神『エホバ(ヤーヴェ)』をどう理解していたのか、あるいは他民族の宗教や神にどれだけの知識を持ち合わせていたのかも知りたくなります。なぜならキリストは、ユダヤ民族に対してユダヤ民族のための『教え』を説いたのであって、後のキリスト教のような人類全般への『教え』という展開になろうとは、そもそもキリスト自身は全く考えていなかったのではないかと想像できるからです。

キリストが幼児期のエジプト以外、外国を体験したらしい形跡はありませんが、少なくともローマ帝国の支配時代(ユダヤは属領)ですから、色々な周囲の情報から、ローマ帝国規模の世界観は保有していたと思われます。当時のユダヤは、ヘブライ語、ギリシャ語、アラミック語が併用されていましたので、どの程度の『言語能力』の所有者であったのかも、気になります。人は言語能力で知識の量は格段に異なるからです。

梅爺には、『バプテスマ(洗礼者)のヨハネ』と、キリストとの関係も、極めて唐突に見えます。荒野の修行僧のような『バプテスマのヨハネ』も、興味深い人物ですが、何故キリストがヨハネから洗礼を受けたのかは、重大な意味をもっているように想像してしまいます。洗礼はユダヤ教の重要な儀式でした。

キリストが、神に選ばれた優れた『預言者』として、突如登場する背景は、多くの謎に包まれていて、興味が尽きません。

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2008年12月20日 (土)

『教え』と『できごと』(1)

宗教の根幹は、『教えの内容』にあることは、梅爺も承知しています。『教え』は、普遍的に人間の精神生活に深く関係するもので、哲学や芸術同様に、科学的な論証の対象になり難いものです。『教え』に接した人が、『心が安らかになる』『心が満たされる』『心が癒される』といった影響を受けることに重要な意味がありますが、その度合いは、その人の資質や感性に関係し、個人差があるということを理解しておく必要があります。

前にも何度かブログに書きましたが、精神生活における『個人差』を認めるということは、意外に難しいことで、人は、他人も自分と同じように感じたり、信じたりするものと勝手に思い込んだり、時には、自分と同様に感じたり、信じたりしない人間を、『けしからん』と非難したりしがちです。

『不可知論者』の梅爺は、『キリストが神の子である』かどうかは、知る術もありませんが、それでも、聖書に記述されたキリストの『教え』には、深く感動し、何も違和感を覚えません。勿論、敵さえも愛せよというような徹底した『隣人愛』や、弱者への制限のない『慈しみ』は、弱さをもつ梅爺には、『教え』とおりに振舞うことは、到底できそうにないと感じてしまいますが、それであるが故に『教え』の深遠な価値が減ずるものとは思いません。キリストが『神の子』であれ、『人間の預言者』であれ、2000年近くの間、現代に至るまで人類の歴史に与え続けた影響の大きさを考えれば、その重要さは疑いのないものと思います。アレキサンダー大王、カエサル、ナポレオン、ヒットラーなど、ある時期、歴史的な影響をもたらした人物は沢山いますが、キリスト、釈迦、ムハンマド(モハメット)など、精神生活の『教え』を残した人の影響には比べものになりません。

しかし、聖書に記載された『キリストにまつわるできごと』ということになると、これは『教え』とは別の、『史実であるかどうか』という検証の対象になります。『できごと』の一部は、キリストが『神の子』であることを裏付ける話として語られているために、『できごと』が否定されると、キリスト教の教義全体が否定されるという論理になりかねないために、極めてややこしい話になります。人間が決めた教義が、やがて絶対的なものになり、そこから逃れることが難しくなるという皮肉な話に思えます。

キリスト教が、『できごと』に関しては、聖書の著者の『誤解』や、当時のやむをえない『知識不足』が反映しているかもしれないとあっさり認め、でも重要なのは『教え』の部分ですと宣言すれば、話は簡単ですが、そうすると『神の子』である証拠も曖昧になるために、『できごと』も含め、聖書に記載されたことは『事実である』と、権威にこだわって主張し続けますので、論争のタネが尽きません。

梅爺も、人間にとって理性が全てなどとは考えていません。『感動』や『心の安らぎ』などは、理性だけでは得られないからです。しかし、そのことは、人間にとって理性は『無意味なもの』という証左にはなりません。理性の対象として考えられることは、理性で納得しようとします。理性で納得できない『できごと』には疑念を抱き、『本当は、何が起きていたのだろう』と、野次馬的な興味を持ってしまいます。卑弥呼は、誰で、どこに墓が祀られたのだろうと、好奇心を抱くのと同類の話です。

梅爺が、『キリスト一家の墓』らしいものが見付かったといえば、早速その本を読み、キリストと同時代のユダヤ民族が残した古文書が、死海の沿岸で見付かったといえば、それに関する本を読もうとするのは、この野次馬根性によるものです。

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2008年12月19日 (金)

老いの原因(2)

人間の体は、独立した非常に多数の機能分担サブシステムが、『超並列自律分散処理』で、全体を構成しているシステム(系)とみなすことができそうです。微細に観れば、いずれかのサブシステムの構成要素である細胞が、正常を維持できない状態になり、そのサブシステムの機能が劣化することから、『老い』は始まるのではないでしょうか。

『超並列自律分散処理』の特徴として、いずれかのサブシステムの劣化は、他のサブシステムへの負担になったり、悪影響を与えたりしがちですので、系全体の『平衡状態』は、すべてが正常であったときに比べ、『悪い方向へ移行』し、玉突きのように『悪循環』へ入って、どんどん更に悪い方向へ移行し続けるのではないでしょうか。視力や聴力が衰えれば、取得できる情報量が減り、以前のような迅速で的確な『認識』や『判断』ができなくなるというような状況になります。

人間の脳神経細胞の数が、35歳くらいから減り始めるところをみると、『老化』はそのころから、徐々に進行するのかもしれません。最後は、悪化への変化が加速度的に速まり、やがて系が維持できなくなり、『死』にいたるということでしょう。

自分では求めない『老い』が、自分の中に確実に忍び寄ってきていることを人は色々な経験で、実感するようになり、不安や寂寥を感じますので、それが精神生活に反映します。爺さんにたとえれば、天真爛漫な子供のようになったり、すべてを達観して柔和な好々爺になったり、僻(ひが)みっぽくなったり、世界中を敵に回しているのかと思えるほど怒りっぽくなったり、馬鹿にされまいと突っ張ったり、自己主張の塊(かたまり)のように頑固になったり、色々なタイプとなって現れます。

梅爺は、自分では『柔和な好々爺』になりたいと願っていますが、今のところ、梅婆からは『頑固で独善的な爺さん』と批判を受けています。確かに『頑固で独善的な爺さん』では、みんなの鼻つまみ者になってしまいますので、大いに反省し、修行を積みなおして、なんとか『柔和な好々爺』へ路線変更したいと願っています。

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2008年12月18日 (木)

老いの原因(1)

『人は老いて死ぬ』ということは、現象的な事実として、誰もが知っていることですが、現代科学をもってしても、『何故老いが始まるのか』ということは、必ずしも解明されていないらしいことを知りました。

原因を知ったからといって、死ぬことにはかわりはないので、原因などどうでも良いと言ってしまえばそれまでですが、好奇心の対象にはなります。

脳に関する本には、以下の4つの仮説が記載されていました。

(A) 遺伝子プログラムには、特殊な『老化』遺伝子が組み込まれていて、ある年齢になるとそれが働き始め、老化が始まる(思春期に性的な機能が働き始めるように)。
(B) 遺伝子情報(DNA)を使い切ってしまい、老化が始まる。
(C) 遺伝子プログラムは長い年月で損傷を受け、細胞が多くの不活性タンパク質や有害タンパク質を作り出し、まともなタンパク質が減り、老化が始まる。
(D) 免疫系が、体内にできた機能しないタンパク質を異物とみなして攻撃し、抗体をつくり、この抗体が老化を促進する。

この分野に基礎知識を持たない梅爺には、どれが正しそうかさえ、推測もできませんが、正常な細胞も、一部は死んで、新しい細胞に置き換わる時に(健康な人間でも、これが日々起きている)、『細胞死(アポトーシス)』と言うメカニズムが働き、これにはミトコンドリアが関わっていると、前に別の本で読んだことがありますので、何かが『細胞死(アポトーシス)』の引き金になって、正常な置換が行われず、細胞が減っていくのではないかとも考えてしまいました。

体の各機能の『老化』も気になりますが、なんと言っても『脳の老化』が一番気になるところです。現在では、35歳から60歳にかけて、脳の容積の10%が失われることが分かっています。つまり、脳神経細胞Z(ニューロン)の数が減って、『脳が萎縮する』というこわい話です。

これは、アルツハイマー病などの発症がない人にも、普通に起きることらしいので、梅爺の、『物忘れ』や『反応の鈍り』はこれによるものと思います。被害の程度が、10%程度であるかどうかは、判別できませんが、自覚症状は十分にあります。

筋肉同様、脳も使っていれば老化の促進を少しは遅らせることができる、というのは、どうも本当らしいので、長い目でみれば『無駄な抵抗』であることを承知の上で、気合を入れなおして、ブログをせっせと書いています。

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2008年12月17日 (水)

脳と性別の関係(2)

『(新)脳の探検』という本に、心理学が見出した男女の『違い』3点が記述されていました。

(1)男は攻撃的である。幼児期にこの傾向は現れ、世界共通である。

(2)女は、言語を流暢に話す。

(3)男は立体的にものを見る能力(空間視能力)で優れている。

これだけのことを『発見』するのに、心理学がどの程度の年月をかけたのか知りませんが、失礼ながらなんとなく悠長な学問だなと感じてしまいました。この程度の違いなら、いくらでも『発見』できるような気がします。勿論この『違い』は、統計学上の違いで、個人差を表現したものではありません。攻撃的な女性もいるでしょうし、言語を流暢に話す男性もいますから、早とちりは禁物です。

一般に、言語は左脳、空間視能力は右脳と関係していると見られていますが、上記の男女の『違い』の真因を追究する脳生理学の研究では、そう単純な話ではないことが分かっています。いずれにせよ、『違い』の真因は判明していません。

男が攻撃的である、といわれると、『ほら、みなさい。戦争を始めるのはいつも男で、泣くことになるのはいつも女と決まっているではないですか』などと、得意げに言い出す人がいて、男には分が悪いことになりますが、本来、男が攻撃的になったのは、家族やグループの安全を守るために必要なことであったからではないでしょうか。人間の先祖は、『おっとりしていたら、自分たちが殺されてしまう』という、緊迫した環境で生活していたことを示す証左ではないかと思います。女が子供を生み育て、男が家族を守るという分担は、ごく自然なものであったに違いありません。現代社会で、『男が攻撃的である』必要があるかどうかは別の議論で、不必要なら今後の進化の過程で、違う資質にとって代わられることがあるかもしれません。とにかく、鉄の女サッチャーなどを見ていると、国の指導者が女なら、戦争はなくなるというような、単純な話ではなさそうです。

『女は言語を流暢に話す』といわれても、男の梅爺にはあまりピンときません。ただ、この本には、男が作文能力で劣るわけではない、と書いてありましたので、少し救われました。そこで頭に乗って論理思考をしようという資質は男が強いのではないかと勝手に想像してしまいました。つまり、女は『情感』と言葉が直結しているのに対して、男は、一度論理回路を通して、納得してから話そうとするのではないかと、これまた都合よく解釈しました。つまり、男は思慮深いがゆえに、言葉は流暢ではない、という『仮説』になります。

女性から総反発を喰らいそうですので、この辺で止めます。

 

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2008年12月16日 (火)

脳と性別の関係(1)

前に、『男は火星人、女は金星人』という、アメリカでベストセラーになったノンフィクションを読んだ感想をブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_b3dc.html

男女ともに、お互いに、『感じ方、考え方』『行動パターン』が異なっていることを、正しく認識しなさい、そうすれば、なんとかやっていけますよと言う、離婚カウンセラーが経験則で書いた本で、指摘されていることの大半は、我々夫婦にも当てはまることを知って、梅爺は苦笑いしてしまいました。

肉体的な違いや機能の違いは勿論のこと、脳の動作に関しても、男女に違いがありそうだと、誰もが感じていますが、これらの違いが、何故起きるのかという、本質論は、現代の科学でも究明されているとは言えません。

人間のの性が、どのような仕組みで決定されるか、という仕組みについては現象的には分かっています。男性の染色体X、Yと女性の染色体X、Xが受精時に、新しい組み合わせを作り出し、X、Yなら男、X、Xなら女と決まります。その後の発育のすべてに、この細胞内の情報が、参照され、必要時に、必要なホルモンが作り出され、人間は一生を全うします。『必要時に必要なホルモンが作り出される』などと、簡単に書きましたが、人の一生の長いスパンの中で、これらのことが、DNAのプログラムにしたがって整然と動作するという仕組みは、考えただけでも、呆然としてしまうような複雑、繊細なものです。遺伝子の組み換えや染色体の組み合わせは、ある確率で異常が発生し、たとえばXXYというような染色体を持ってしまうと、『性同一障害』などになることが分かっています。避けえない偶然とは言え、これでその人の運命が決まるということは過酷な話です。

『男女産み分け法』などという、経験則によるもっともらしい話はありますが、仕組みの上での確率は、五分五分で、地球上の男女比も、これに従っています。この比率が大きく変わってしまえば、人間の種の継続が難しくなるともいえますので、進化の過程で、この比率が選択されたのであろうと推測できます。赤ん坊の生後の死亡率は男の方が高い(医学の救済が期待できなかった時代の話)ので、男の子の出生率が少し高いように、バランスがとられているなどというもっともらしい話を聞いたことがありますが、染色体の組み合わせ確率以外の要因が働くのかどうか、梅爺には分かりません。

男女の考え方の違いや、行動パターンの違いも、種の保存の原則にとって、その方が有利であるからそうなっていると、推測されますが、種の保存との因果関係は、現状では明快に理解はできていません。

心理学者などが、観察された現象をもとに、統計学的に見出した『違い』と、脳の生理学的な行動が一致するかどうか、という研究は始まったばかりです。現状では、現象的には分かっていても、本当の理由が分からないという状態ですが、やがては究明されていくのであろうと梅爺は、予測しています。

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2008年12月15日 (月)

『懐疑』と『鵜呑み』(4)

人に限らず動物は、今まで経験したことがない相手や事態に遭遇した時、『あやしい』『信頼できそうだ』と『感じる能力』を保有しているように見えます。これは、自分の身を守るために必要な本能として、DNAにプログラムされているに違いありません。

しかし、人間の場合は、『疑う』『全面的に受け容れる』という習性を、瞬間的な身の危険を回避するための判断に止めず、更に高次元な世界にまで発展させました。『科学』の基本は『疑う』ことであり、『宗教』の基本は『全面的に受け容れる』ことではないでしょうか。

もともと相対する行為に立脚しているわけですから、『科学』と『宗教』は、なじまないのは当然のように思います。そう考えると、『科学で宗教を論ずる』のも『宗教で科学を論ずる』のも、的外れのような気がします。『疑う』先には、その時点で『仮に正しそうなこと』が見つかりますが、更にそれがマチガイであることも判明することがあるため、『マチガイを正す』ことができますが、『全面的に受け容れる』では、受け容れた内容を変えることは難しいことになります。

重要なことは、誰の脳の中にも、『疑う』ということと、『全面的に受け容れる』という、矛盾する性質が、プログラムされているということです。言い方を変えれば、『科学する心』と『信仰する心』を誰もが持っているということになります。この『矛盾』の存在を認めた上で、それとどう付き合いながら生きていくかは、その人の選択に任されるのではないでしょうか。人は、基本的に『疑う』だけでは生きていけませんし、また『全面的に受け容れる』だけでも生きていけないのではないかと、梅爺は感じています。

『危険から身を守る』という、基本的な能力を、なまじ『科学』や『宗教』などという高度な世界までに発展させる能力をもっているために、人間は、生きることに『新たな悩み』を抱えることになったと言えそうです。

脳の基本機能と、それを発展させた高度な世界の関係を考えれば考えるほど、『人間の脳』の深遠さを思い知ります。

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2008年12月14日 (日)

『懐疑』と『鵜呑み』(3)

『懐疑心の強い人にかぎって、時に鵜呑みをする』『何でも鵜呑みにする人にかぎって、時に強く疑う』という二つの『命題』が正しいかどうか、梅爺は分かりませんが、懐疑心の強い梅爺自身のこととして考えてみると、前者は当てはまるような気がします。

前にもブログに書いたように、梅爺は生物分子学者の福岡伸一氏の、『語り口』や『著作』が一度好きになってしまうと、以降は福岡伸一氏の全てを無条件で受け容れてしまう(鵜呑みにしてしまう)というのも、その一例です。まるで恋する乙女のように、いそいそと福岡伸一氏の著作や、氏が推奨する本を買いに、本屋へ出向くことになります。

仕事の現役時代に、セールス・エンジニアのスキル向上のために、ボストン出向いて、アメリカのコンサルタント会社の講習を受けたことがありますが、その時『購入に抵抗を示す顧客ほど、その顧客の琴線に触れる言葉を提示すれば、いっぺんに態度が変わり、以降は熱烈な支持者になってもらえる』と教えられました。自社の商品や技術の長所を説明することは誰でもできますが、顧客の琴線に触れる言葉は顧客毎に異なっており、それを見出す能力は、誰にも備わっているとは言えません。セールスやセールス・エンジニアの腕前が試されることになります。優秀なクルマのセールスマンは、クルマの説明は二の次で、そのクルマを保有した時のライフ・スタイルが、如何に素晴らしいものに変わるかを説明することを思い出すと、『なるほど』とうなづけます。

一度脳の中の『判断基準』がセットされてしまうと、人はその『判断基準』から逃れることが難しいという習性を持つことが分かります。セットし難い人ほど、逆に一度セットされると、強固なものとして以降影響を及ぼすということがわかります。これを悪用するのが、『洗脳』なのでしょう。特に、未だ批判能力が未熟な子供に、ある『判断基準』を植えつけることは、非常に危険な可能性を秘めていることになります。とはいえ、『善悪の判断』などは、逆に子供のうちに植えつけた方が良いものもあり、大人の慎重な対応が求められます。

精神分析医は、ある人の脳の中に、その人が気付かずセットされてしまっている『判断基準』を見つけ出し、それをリセットすることで、精神的な病を癒そうとします。『疑う』『鵜呑みにする』は、脳の中にセットされているその人の『判断基準』と深く関わっていることが分かります。

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2008年12月13日 (土)

『懐疑』と『鵜呑み』(2)

梅爺が『懐疑癖』が強いのは、少しカッコよく言えば、外部の情報に接した時に、他人の論理ではなく、自分の論理に照らしてみてから、納得したいという性質が強いと言うことだと考えています。これは、別に他人の論理は絶対に受け容れないということと同じではありませんが、そう見える場合もあるらしく、『不遜、傲岸』と受け取られてしまう場合もあります。

会社の現役時代にも、このやり方で『判断』を下してきましたが、結果がまずかった時には、自分の論理で判断した以上、他人に責任の転嫁のしようがありませんから、責任をとることへの不満はあまり感じませんでした。『懐疑癖』の強い人の欠点は、結果がネガティブになることも、常に想定の一つとして判断しますので、どうしても、『思い切った決断』というよりは『手堅い、無難な決断』になりがちだということでしょう。経営者や政治家には、このような資質が、多くの場合求められますが、『本物の経営者、本物の政治家』は、これだけではダメで、他人からは、楽天的としかみえない『思い込み(信念)』で、大きな決断をしなければならない場合があるように思います。

『楽天的な信念』で行動する人は、魅力的な人物として多くの人が共感して従う可能性が高いので、リーダーが備えるべき資質の一つということになります。しかし、実際には何でもかんでも『楽天的な信念』では通用しませんので、真の大人物は、『懐疑心』も十分心得ながら、それを表に見せないという、自己抑制ができる人なのでしょう。『豪放磊落(ごうほうらいらく)に見えて、じつは繊細』と表現されるのは、そのことではないかと思います。

直ぐに、『懐疑心』が、表に現れてしまう梅爺のような人物は、大人物にはとてもなれません。

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2008年12月12日 (金)

『懐疑』と『鵜呑み』(1)

人は、接した情報に対して、『何となく怪しい』『何となく正しい』と『感じ』ます。脳の不思議な機能の一つですが、人間ばかりではなく、我が家の犬も、知らない人でも、犬好きの人と犬嫌いの人を、何となく感じているらしく、直ぐなついたり、吼えたり対応を変えますから、人間だけの特徴とは言えないように見えます。

しかし、人間が、動物とは異なっているのは、一時的な『感じ』がやがて強固な『信念』に変わることがあり、これが言動に現れて、他人との関係で悲喜劇を生む要因にまで発展することがあるということではないでしょうか。

何でも疑う人は、『ものごとに慎重な思慮深い人』とも言われますが、『何を考えているのか分からない陰険な人』と敬遠されがちです。一方、何でも鵜呑みにする人は、『楽天的で大らかな人』とも言われますが、『脳天気で単純な人』と、軽蔑されることもあります。

遺伝子に起因する生まれつきな性格が大きく作用するように思いますが、育った環境も関係しているように見えます。どちらも、一長一短で、人生でどちらが得をするかは、なんともいえません。

面白いことに、懐疑心の強い人は、期待に反する結果が判明した時に、他人のせいにするより、自分の『判断の甘さ』を反省する傾向が強く、逆に、何でも鵜呑みにする人は、期待に反する結果が判明した時に、自分を責めるより、他人のせいにしたがる傾向が強いように見えることです。

梅爺は、どちらかといえば『懐疑心』が強い方で、最初から、ネガティブな結果もあることを想定して行動しようとしますので、梅婆からは、『それでは、人生が楽しくないでしょう』と、よくたしなめられます。しかし、性格は変えられませんので、楽天的なら『人生が楽しい』のかどうかは、残念ながら経験しようがありません。

梅爺の人生経験では、一般に教養の高い人程、『印刷された文字情報』を『正しいと感ずる』傾向が強いように感じます。本を読むことで勉強をしてきた習性から、新聞や本を読むことが、『正しい情報を得る近道』と信じてのことではないでしょうか。梅爺も、『印刷された文字情報』を読むことは大好きですが、多くの場合『それが正しい』という前提で読むわけではないことに、前々から気付いています。しかし、こういう性格が、人生で得なのか損なのかは、繰り返しになりますが、自分では分かりません。

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2008年12月11日 (木)

油断大敵

江戸いろはカルタの『ゆ』、『油断大敵』の話です。

うっかり、気を許して準備を怠ると身の破滅をこうむることになりかねない、という教訓ですが、『うっかり気を許して準備を怠る』事例は、日常生活の中に数ある中で、江戸時代の人が『油を切らす』ことを取り上げ、『油断』という表現を用いている感覚が、興味深いところです。勿論、この『油』は、食用の油ではなく、火をともすための油のことです。暗がりのために、敵や賊の発見が遅れ、やられてしまうということでしょう。江戸の人たちは、油を『大変な貴重品』と考えていたわけではなく、その気になれば、いつでも入手できるものと考えていたからこそ、『つい、うっかり準備を怠る』ものの例として取り上げたに違いありません。些細なものが、身を滅ぼす『大敵』になるという、思いもかけない因果関係で、面白さを表現していることになります。

ところが、堺屋太一氏の著書『油断』でも分かるように、現代人にとっては、石油の枯渇や供給停止は、悲惨な状態を招くことは、誰もが実感するところですので、『石油の確保を怠る』ことは、『些細なこと』どころか、最も重要なことの一つになってしまい、『油断大敵』は、そのとおりですが、思いもかけない因果関係ではなく、切実な因果関係に変わってしまっているところが、皮肉な話です。

梅爺は、この諺を、『油断大敵、火がボウボウ』と教えられてきました。燃えるもの(油)が無いので安全と思い込んでいると、とんでもない他の理由で、火事に巻き込まれることもあるという教えなのでしょうか。

『つい、うっかり怠る』は、自分で分かっていて、やらなかったことですから、『怠らないように努力する』ことは、可能ですが、火事にならないように『油』を遠ざけておいたのに、違う理由で火事に巻き込まれる、というのでは、注意のしようがありませんので、むしろ、『人生は、思いもかけない災難に遭遇することがある』という、異なった意味の教訓に変貌してしまいます。

『油断大敵、火がボウボウ』では、救いの無い話になりますので、『油断大敵』で、止めておいていただいた方が、ありがたいように感じます。

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2008年12月10日 (水)

脳神経細胞のネットワーク(7)

脳神経細胞の結びつき(シナプスを介した)は、相互に『相手を確認しながら』行われます。つまり、脳神経細胞には、DNAで『目的』が付与されており、必要な相手と結びつくことになります。勝手な組み合わせは許されません。接続を望む脳神経細胞が特定の化学物質を放出し、受け手となる脳神経細胞はその化学物質を感知して、接合が行われます。この辺のカラクリは、現代科学ではかなり詳細に把握できています。まるで、フェロモンを発して、求愛活動を行う生物の生態とそっくりです。人間が、原始的な生物から進化してきたことを証拠のように、梅爺は感じます。

シナプスは、生後4ケ月くらいまでは、アトランダムに過剰生産され、その後有用なものが残って、不要部分は消滅していきます。視覚や聴覚など、生物として基本的に必要な部分のシナプスは、生後1年で、ほぼ有用な部分の成熟を迎えますが、高度な論理思考に関わるようなシナプスは、思春期までかけて成熟へ向かいます。

この、有用な部分を確認して、不要な部分が消滅する時期において、外部の環境の影響が個人差で大きくでることを梅爺は知りました。このことは、大変重要なことを示唆しています。情感や倫理観を成熟させる時期に、適切な外部環境に遭遇しないと、『無表情で笑わない若者』や『人としての基本的倫理観の乏しい犯罪者』を作り出してしまう可能性を示しているからです。幼児期における家族、特に親の子供への対応が、いかに重大な意味を秘めているかがわかります。折角、十分な資源をもって生まれてきながら、脳の成熟期に『道を誤って』、このような人間をつくってしまうことは、残念ですし、社会的にも大きな損失です。

梅爺は、『幼児期の情感教育』を根本的に見直すべきと、いままで、直感で述べてきましたが、どうやら正しそうだと確信がもてるようになり、意を強くしました。貧しかった時代の日本人は、『思いやりがあった』と多くの方が述べられますが、『幼児期の情感教育』の場が、自然に備わっていたためではないでしょうか。裕福な社会を求めた結果、代償として『思いやり』を失ったとすれば皮肉な話です。裕福な社会で『思いやり』は復権できないと決まったわけではありません。繰り返しで恐縮ですが、『幼児期の情感教育』が鍵を握っているように思います。

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2008年12月 9日 (火)

脳神経細胞のネットワーク(6)

赤ん坊のシナプス(脳神経細胞同士の結合)が、生後4ケ月の間増え続けるという事実は、人間が生物として進化してきたことの名残なのではないでしょうか。つまり、試行錯誤の後に、適切なものを選択する(適切なものが残る)という習性がここでも行われているように思えます。何が適切かが分からない状態では、先ず『めくら滅法』に余分な行動してみて、不適切なものは、その後取り除いていくという方法しかないからです。

人間は、赤ん坊から幼児期を経て、段々に高度な認識能力が身についていき、どのシナプスが有用であるかが次第に判明していきます。逆に不要なシナプスも明確になり、これらは消滅することで、全体としては『シナプスの数が減少する』ということが起こるのではないでしょうか。人間は死ぬまで、脳を使えばシナプスが利用され(一部はシナプスが新しくでき)、活性の状態を保てますが、使わなければ、不活性化したり消滅してしまいます。これは運動筋肉と同じことです。歳をとると、この不活性化の進行が速まるために、梅爺のように、簡単なことも『思い出せない』ような状態になります。脳神経細胞そのものも、死んでしまうらしいので、この『脳の老化』が更に進行します。せめて、くいとめる方法は、『脳を使う努力』をするほかありません。これも筋肉を維持する話と同じです。

個々の脳神経細胞は、自分の宿主の人間が『生きていくため』に、どのような役割を分担しているのかを、まったく知らずに、ただDNAのプログラムにしたがって、『環境に対応している』に過ぎません。全体目的を知らない『部分』が、懸命に自分のミッションを遂行することで、結果的に『高度な全体の存在』を維持していることになります。システムの観点でみれば、『自律分散型システム』ということになります。ただ、体温や血圧の維持など、全体としての『最適値(セット・ポイント)』を維持しようとする『ホメオスタシス』と呼ばれる、監視機能も存在しますので、単純な『自律分散処理システム』では、なさそうです。

人間の論理思考は、全体目的を先に示して、それに必要な部分を準備しようとと考えます。エンジニアは勿論そのように発想します。しかし、人間は、まったく逆の発想で『維持されている(生きている)』ように見えます。

人間を解明することは、『超並列な自律分散処理システム』を究明することと等しいと梅爺は、感ずるようになりました。

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2008年12月 8日 (月)

脳神経細胞のネットワーク(5)

受精後、母体の中で胎児が最初に形成されるのは、脳の中枢部分であることが分かっています。これは、脳を持つ他の生物でも同じであろうと思いますので、人間も、同じ生物の祖先から枝分かれして進化してきたことの有力な証拠のように思います。

新生児の脳神経細胞の70%は、胎児のうちに出来上がり、残りの大半は、生まれてから幼児期にいたるまでに増えると見られています。脳神経細胞をつなぐシナプスの数も、出生後どんどん増え、4ケ月後にピークに達しますが、その後は減少することが分かっています。このことは、大変重要なことを示唆しているように梅爺は感じます。

その一つは、人間は、人間としての完成度が低い赤ん坊の時に、少なくとも脳に関しては、その後の生涯に必要であろうと思われる、ほとんどの『資源』を既に保有しているという事実です。しかも、驚くことに、そしてありがたいことに、その資源の量は、死ぬまでに使いきれないほどの潤沢なものなのです。

梅爺のようなエンジニアは、商品やシステムをデザインする時に、使われる状況を想定して(推察して)、将来使い切れそうも無いほどの資源を、あらかじめ準備するようなことはありません。経済的で無いばかりか、効率も悪いからです。少なくとも、必要になったら追加できるしくみを配慮する程度にとどめます。もし、神が人間をデザインしたのなら、神のデザイン・コンセプトと、エンジニアの常識的なデザイン・コンセプトは、決定的に違うと言うことになります。しかし、人間に関する上記の『事実』は、むしろ、神と言ったスーパー・エンジニアが、人間をデザインしたのではない、ということを逆に示唆しているように梅爺は感じます。気も遠くなるような生物の進化の過程で、膨大な試行錯誤が繰り返されるという、非常に効率の悪いプロセスを経て、人間は現在の様式に到達したと考える方が、自然に思えるからです。全体を見通せるスーパー・エンジニアならば、こんな効率の悪いプロセスを選ばないだろうと思うからです。生物進化論は、スーパー・エンジニアがいなくても、人間は『つくられる』ということを説明する『仮説』ですが、現状では、この『仮説』を覆す事象は見つかっていないと梅爺は理解しています。

赤ん坊の時に、シナプスの数がピークであるという事実も、重要な示唆を含んでいるように思います。長くなりますので、この件は次回に回します。

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2008年12月 7日 (日)

脳神経細胞のネットワーク(4)

人間の脳について、『ほとんど分かっていない』と梅爺は、ブログに書き過ぎたように思います。脳を構成する部品要素については、梅爺が想像していた以上に、現状では細かいことが『分かっている』ことを知りました。部品要素としての脳神経細胞の仕組みや、どのような化学成分の物質が脳の活動に使われているか、かなり詳細に分かっています。脳のどの部位が、どのような目的(知識処理、情感処理、生理機能制御など)で使われているかも、大体分かっています。

部品や、サブシステムの概要が分かっていても、『全体として、どのように動作しているのかがわからない』というのが正しい表現になります。人間が一番知りたいことは、この『全体としての動作原理』ですから、『分からない』と言う表現が、つい強調されてしまいます。

誰もが、同じ部品を保有していても、その部品をつなぎ合わせるネットワークの形態は、詳細には、個人個人で異なっているらしいことも、解明を難しくします。コンピュータのように、みんな同じ回路基盤で出来上がっていないということです。そうであるがゆえに、人間はマクロに見れば『同じ』と言えますが、詳細には、個人個人で『異なっている』ことになります。PCのように中央集権的な司令塔を持つのではなく、部分部分が『自律的に作動し、なおかつ全体のバランスも失わない』という見事な『しくみ』になっています。PCはどこの会社の製品を買っても、基本的に同じですが、人間はそうはいきません。

前に、『人の心はどこまで分かるか?』という本を読んだ感想を書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_2a2c.html

この中で著者が『人の心は、百人百様』と書いておられるることの原因は、この脳の詳細レベルの個人差にあることが分かります。

同じ状況を体験しても、厳密に言えば、感動や認識の度合いは、一人一人異なっています。しかし、私たちは、他人もみんな自分と同じように、感じ、理解しているのであろうと『錯覚』しますから、人間関係において、微妙な齟齬をきたすことになります。

多くの人にとって、『異常に見える犯罪行為』が増えていますが、これも犯人の脳が、常人とは大きく異なった動作をしていることになります。道徳教育や刑罰の強化だけでは、本当の解決にはならないように思います。犯人の脳が、何故異常にみえる動作をするようになったのかを推測ではなく、究明する必要がありますが、これは現状では残念なことに至難の業かもしれません。

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2008年12月 6日 (土)

脳神経細胞のネットワーク(3)

人間の体の各部位を作り上げている細胞は、どの細胞も驚嘆するような『しくみ』で構成されていますが、特に『脳神経細胞』のできばえは、見事というほかありません。昨日ブログに書いたように、『処理能力(内蔵するプログラムに従った)』『記憶能力』『自律的なネットワーク構成能力』を有しているほか、活動に必要なエネルギーも自分で作り出す能力を保有しています。これは、脳神経細胞にも他の細胞同様に、ミトコンドリア(小器官)が含まれているからです。ミトコンドリアは、日夜たゆまず酸素と栄養素を原料として、エネルギーの元を製造し続けています。

数十億ケの『自家発電機能つき多機能エンジン』が、膨大なネットワークを組んで自律分散的に活動している内容を、詳細に把握することが、いかに困難であるかがわかります。しかも、『生きている人の脳』の活動を観察することには、更に難しさが加わります。現代科学の粋を集めても、脳は、科学者をあざ笑うように、『よくわからない』ものとして存在しています。更に皮肉なことに、科学者をはじめ誰の頭の中にも、脳が存在しているのです。

コンピュータは、電子制御という物理法則と論理処理回路で基本的に作動していますが、人間の脳は、基本は『化学反応の法則』で作動しています。勿論、ある部分は、電子パルス信号に変換して情報伝達するところもありますが、基本はあくまでも『化学反応の応用』です。コンピュータは、『1』か『0』かのデジタル処理がベースですが、脳神経細胞は、化学反応がベースですので、目的別に化学信号を使い分けたり、『濃度』の違いなども利用でき、その意味では、単純な『1』、『0』の処理ではなく、アナログ的な処理であるとも言えます。

『私はアナログ人間なので、コンピュータは嫌いです』などとおっしゃる方がおられますが、人間は、そもそも誰もが『アナログ人間』ですので、冗談にせよ、そのような言い分は説得性に乏しいように思います。

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2008年12月 5日 (金)

脳神経細胞のネットワーク(2)

現在のPC(パーソナルコンピュータ)の内部メモリ容量は、数Gバイト(約80億素子)にまで達していますので、人間の脳神経細胞の数十億ケに、迫っていて、脳に近づいた、または超えたと考えがちですが、PCのメモリ素子と脳神経細胞は、機能がまったく異なっていますので、単純な比較は意味がありません。

PCでは、CPU(中央演算装置)とメモリ素子で、『処理』と『記憶』が機能分担されていますが、人間の脳には、『処理』だけを専門に行う『器官』は見当たりません。つまり、脳神経細胞は、DNAによって個々に固有のプログラムが仕組まれている処理装置でもあり、記憶を分担するメモリ素子でもあるという、多機能素子です。しかも、この多機能素子は、目的に応じて、相互に柔軟に接続が可能という、驚くべき『しくみ』になっています。

数十億ケの多機能素子が、柔軟なネットワークを形成して、処理と記憶を『並列的かつ相互補完的』に行っているわけですから、限られた数のCPUと、記憶だけを担当するメモリ素子、それに決まりきった回路構成(ネットワーク)で作動するPCと人間の脳は、その仕組みにおいて、比較することに、あまり意味がありません。PCが、中央集権的な制御方式であるのに対して、脳は自律分散的な制御方式であることも、決定的な違いです。

人間は、悲しい状況を認識すれば『泣き』、愉快な状況を認識すれば『笑い』、自分にとって理不尽な状況を認識すれば『憤り』、勝てば『喜び』、負ければ『悔しがり』、困難に打ち勝つために『意欲を燃やし』、失敗したと思えば『落胆』します。五感で取得した外部情報や脳の経験記憶情報を総合的に駆使して、状況を『認識』し、自然に(不随意に)それに反応するように、生まれながらにしてプログラムされています。

コンピュータは、決められた論理演算の速さでは、人間の脳を圧倒的に引き離していますが、上記のような、状況の認識とそれに対応する行動は、基本的にできません。勿論、コンピュータやロボットに、『こういう場合には笑いなさい』とプログラムで命令すれば笑うことは可能ですが、それ以外の想定外のおかしい状況では、笑うことができません。それに対して、人間は、赤ん坊でも、お母さんの笑顔に接すれば笑います。別に、『こういう場合には笑いなさい』などと教える必要はありません。

脳神経細胞と同じような機能の『多機能素子』を開発し、それらが柔軟に自律的に接続できる『仕組み』を考えれば、少し脳に近づくことができるかもしれません。現にそういう研究努力は既に始まっています。しかし、それらの『多機能素子』や『仕組み』の開発や実用化には、可能であるとしても、まだまだ年月を要するでしょうから、近い将来、本当の意味の『人工頭脳』が出現することはないと、梅爺は予想しています。

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2008年12月 4日 (木)

脳神経細胞のネットワーク(1)

『(新)脳の探検(上・下)』という本を読んでみて、梅爺が今まで、脳に関して何も知らないで生きてきたことを痛感すると同時に、現状で科学が獲得している知識の一部を知るだけでも、呆然としてしまいました。自分の中に、未知なる世界があるとは承知していましたが、想像以上の絶妙な仕組みが、『随意』であれ『不随意』であれ、日夜活動していると考えると、呆然とするという表現以外の言葉を思いつきません。

ここ50年の間に、人類が獲得した(発見した)脳に関する知識は、膨大なものですが、それでも、脳全体のカラクリに関しては、ほとんど分かっていないというのが実情ですから、これも呆然とする話です。

この本は、心理学や生理学に興味を持つアメリカの学生のためにかかれた教科書ですが、著者は、この本が『大前提』としていることを以下のように最初にことわっています。

『「心」は抽象的な概念で、人格、自己同一性、自己の信念に依存すること、などのいわゆる「魂」の意味だけではなく、理性や情動の自覚の意味も含みます。今でも心は、体の器官としての脳とは無関係に存在すると考える人がいます。しかし、他の多くは、私たちのように、精神機能を完全に説明するには、脳の化学、・構造・生理を科学的に研究しなければならないと考えています』

いかにも欧米人らしい、『ポジション(立場)』の明示から入る記述ですが、多分宗教関係者に対する配慮が頭にあってのことでしょう。『魂』は別に存在すると信じている人に、『そういう考え方があることは承知していますが、私は違いますよ』と、やんわり『挨拶』を送っていることになります。

梅爺自身は、この著者の『大前提』に、あまり異論がありませんので、違和感無く、本を読み続けることができました。

人の脳には、何十億という脳神経細胞(ニューロン)があり、その一つは平均して約1万個の他のニューロンとシナプスと呼ばれる接続形式で連携し、目的別に化学信号を用いて情報のやりとりを行っています。現在までに、約40種類の化学信号が特定されているようですが、これはまだ一部と推定されています。

これだけでも、コンピュータが、足元にも及ばない、複雑な器官であることが分かります。

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2008年12月 3日 (水)

政治と宗教(2)

近代国家では、為政者が特定の宗教を信ずることは自由ですが、国の重要な政策を決定するのに、「神」や「仏」の「ご意思」を持ち出されては、困ります。ブッシュ大統領が「イラクの開放は神のご意思」などと公然と演説して、世界の良識者は眉をひそめました。さすがの小泉前首相も、「郵政民営化は神のご意思」とは、言いませんでした。

日本の歴史でも、宗教が、政治に利用された史実は沢山あります。最近も「日本は神の国」と、発言した政治家がいましたが、軍国主義の時代には、「神国日本」の思想が、「天皇の神格化」とともに、国民結束の手段として利用されました。

現在の日本における、政治と宗教の関係は、「まあまあ健全な部類」と梅爺は考えています。公明党の背後に創価学会があることや、皇室と神道の歴史的な関係は、国民は「知りながら、理解を示している」からです。結社の自由、伝統の尊重とのバランスの中で、容認していると言えます。しかし、もし政治がある宗教に支配されたり、宗教を利用しようとすれば、国民の多くは、強く反発するであろうと予測できます。日本は、その程度の『民度』レベルを保有する国家には、既に成長していると言えるのではないでしょうか。

日本のこの「健全さ」は、日本の基盤が「多神教」で、「一神教」に支配されたことが無いためと説く、多くの人たちがいます。日本が、「一神教」に支配されなかったのは、偶然なのか必然なのか、梅爺には興味がありますが、「多神教」が日本の健全化に役立っていることは確かなように思います。

元日には、神社に詣で、葬式はお寺さんにお願いし、お彼岸は墓参りして、クリスマスには、皆で「聖しこの夜」「もろびとこぞりて」を歌う日本人は、「一神教」の国民から見ると、理解できない無節操なものでしょうが、この無節操が、「健全」の基盤であるところが、なんとも意味深いような気がします。しかし「無節操は健全の素」と何事にもいえるのかどうかは、検証を要します。

梅爺も、勿論日本人として、宗教に関しては、無節操の最たるものですが、この無節操は、外国人にたとえ何と言われようと、保持していた方が、日本にとっては得なように感じています。

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2008年12月 2日 (火)

政治と宗教(1)

あるコミュニティを強く結束させる要因として、「人種」「宗教」が機能することは、誰もが知っています。

しかし、広域な国家になると、領土内に、「異なった人種」「異なった宗教」が混在することになりますので、「同一人種」「同一宗教」は結束の手段として利用できなくなります。

したがって政治は、「宗教」に関しては、「強引に一つの宗教だけを認める」か、「異なった宗教の共存を認めて、関与しない態度をとる」か、「宗教は一切認めない」かの選択を迫られます。

歴史的に見ると、為政者が「異なった宗教の共存」を寛容に認めた時の方が、その国家は、経済的、文化的に繁栄した例が多いことに、梅爺は興味をそそられます。キリスト教を認める前のローマ帝国、イベリア半島を支配していたイスラム系のナスル朝(アルハンブラ宮殿が有名)などがその例です。

アメリカは、イギリス国教会の改革を唱え、弾圧された清教徒(ピューリタン:プロテスタント)が、難を逃れて建国した国でもありますので、政治と宗教の分離を建国の方針としました。特に、建国の父の一人である、ジェファーソンは、「無神論者」といえるキリスト教嫌いで有名で、身内や友人に送った手紙の中に、それが示されています。

アメリカは、国家として公認する宗派を認めなかったために、反って、色々な宗派に別れ、商業主義的な宣伝まで利用して、布教拡大がなされたと看做されています。テレビやインターネットを動員した、布教活動はご存知のとおりです。

勿論、それでもアメリカはキリスト教を基盤としていますので、政治と宗教が完全に分離できているわけではありません。大統領は、就任時に聖書に手を置いて、正しい政治を行うことを「神」に誓いますし、法廷で証言する証人も、事前に、嘘をつかないことを「神」に誓わされます。

大統領が、国民ではなく「神」に、証人は裁判長ではなく「神」にそれぞれ誓うのは、「神への誓い」が、「一種の儀式」とは言え、もっとも人の責任感を喚起するものと無意識に考えられているからなのでしょう。

建国の精神からして、宗教に対して最も中立であるはずの、アメリカの政治が、実は、もっとも宗教に支配されていると、「The God Delision(神は妄想の産物)」の著者リチャード・ドーキンスが、危惧を表明しています。

敬虔な信者であることを表明しないと、大統領にはなれない「しくみ」や、ブッシュ大統領が、カソリック聖職者のご意見番を身近に置いていること、「イラクの開放は神のご意思」などと演説で述べること、などを挙げています。

建国の父達が生きていたら、この現状を見て、どう言うのでしょうか。

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2008年12月 1日 (月)

随意と不随意(2)

脳の中にあって、身体の各器官の生命維持に命令を出し続けてくれる『監視・制御機能』の存在は、『不随意』であるからといって困惑するものではなく、むしろ昼夜分かたず黙々と活動し続けてくれることに感謝すべきものです。心拍数や血圧を調整したり、体温を保ったり、病原菌を撃退したり、怪我を治したり、大活躍してくれているのですから。しかし、この『監視・制御機能』も永遠に継続できるわけではなく、対応できない環境の変化が出現すれば、機能を失い、人は、病気や老いなどのために、やがて死を迎えます。都合が良い時は、頼もしい味方ですが、『病』や『老い』や『死』は、『不随意』であるが故に、人を『不安』にします。

一方、『意識』や『心』の活動に関わる、『脳の不随意な活動』は、『自分ではない自分が、自分の中にいる』ように感じて、人を戸惑わせます。しかし、これも、勝手な活動をしているというより、一般には、何らかの形で、生きるために都合の良い調整をしようとしている(そのようにDNAにプログラムされている)、と考えられます。『喜び』や『悲しみ』といった、『不随意』な反応も、何故それを感じたかという因果関係が理性で理解できる場合は、笑ったり、泣いたりで済みますが、自分の理性では因果関係が理解できない『不安』や、『耐えられないようなショック』『強い願望が実現しないと判明した時の落胆』などに遭遇すると、脳の健全な調整範囲を越えてしまい、人は『心の病』にかかってしまうのではないでしょうか。

個人差はあるにせよ、こういうことは人間である以上『誰にでも起こる』可能性を秘めていると、梅爺は想像しています。このような、『心の病』は、脳の意識に関する不随意機能の最も厄介な現れ方であるように思います。

少なくとも、自分の中に、『不随意な脳機能』を保有していると、わきまえることが先ず重要なことではないでしょうか。わきまえていたからといって『心の病』にかからないという保証にはなりませんが、少なくとも、そういう『手に負えない何者かが自分の中にいる』ということを知って、『なんとか、だましだましでもつきあっていくしかない』と考えれば、『自分は正常ではないのでは』などと、悩まなくてすむケースが増えるように思います。

それにしても、脳は『複雑怪奇』『摩訶不思議』です。

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