随意と不随意(1)
心理学の世界の、『意識』と『無意識』は、身体の筋肉を動かす『脳の指令』に例えれば、『随意の部分』と『不随意の部分』と言い換えることができます。
私達は、自分のことは自分で『随意に』制御できると錯覚しがちですが、実は、脳の中には、『随意に関わる仕事』をしている部分と、『不随意に関わる仕事』をしている部分があるということを、知ることが重要であると気付きました。
環境に合わせて脈拍を変える心臓に代表される内臓の動き、暗闇で瞳孔が開く動き、寒かったり、ゾッとした時の鳥肌断つ動きなど、全て『不随意な仕事』を、脳が行っている結果です。本人の意思とは無関係に、生物個体としての生命を維持するための『しくみ』が脳の中に組み込まれているということです。『自殺』は例外とすれば、人の『死』は、『不随意』の最たるものであることに気付きます。一方、『歩く』『走る』『投げる』『捕る』『打つ』などといった、『随意な仕事』にも、勿論脳は関わっています。これも、本来は、生きるために必要な機能として備わっていると見ることができます。
物理的な行動に、『随意』と『不随意』なものがあるように、『精神や心』と考えられているものにも、『随意』と『不随意』があると考えれば、いくつかのことが納得できます。
ただ、『精神や心』の場合は、物理的な行動のように、『随意』と『不随意』の部分を判然と区分できないために、『自分ながら、自分が分からない』という摩訶不思議なことを体験することになるのではないでしょうか。『不思議な夢を見る』『霊感に打たれる』など、私達は、それを日常体験しています。
あまりにも不思議なので、つい『身体とは別に霊が存在する』などと推察してしまいますが、人の『心』『精神』『意識』『霊』は、全て『脳の随意、不随意の部分の相互作用(Interaction)』で起きていること、と考えるのが合理的であるような気がします。ただ、その『相互作用』の実態、メカニズムは、ほとんど解明できていません。
死と共に、全てが消滅すると言われると、味気なさを感じて『せめて霊は永遠に存在し続ける』と願いたくなり、エジプトのファラオのように、星になって天空に昇り、やがて復活して地上に舞い戻る、などということを信じたくなりますが、残念ながら『全てが消滅する』が現実ではないかと梅爺は考えています。
故人の家族や、親しかった人たちの『脳の中』には、故人との関係が記憶として残っていますので、『生きている人の脳の中に、故人は死後も存在する』のは当然ですが、故人の霊が、実体として、『生きている人の脳の外に存在する』という考えにまで拡大するのは、無理があるように思います。
外界の霊を信じない人を、冷淡な人と決め付けるのも行き過ぎです。故人との関係が脳の中に思い出され、『悲しい』気持ちになるのも、誰もが持つ『脳』の働きの一つですので、霊の存在を信じないから、その人は涙を流さないということでは、ないのですから。



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