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2008年9月30日 (火)

生態系(3)

地球環境の変化を、人口の増加と、人間の欲望(それを喚起する経済活動)が作り出しているという点が、従来の要因と決定的に異なっていることは明白です。生物の1種に過ぎないヒトの活動が、環境の平衡条件を変え、他の全ての生物を含む生態系に大きなストレスを与えてしまっています。原因を作り出してしまったヒトが、現時点では解決策を完全に見出していないという無責任な状態にもなっています。

炭酸ガスの排出量だけが、大きくクローズアップされていますが、その大半が、石油や石炭、天然ガスといった地球の資源を消費してのことですので、仮に温暖化に歯止めがかけられたとしても、一難さってまた一難で、次はエネルギー資源の枯渇という試練が待ち受けています。炭酸ガスが悪者のように騒がれていますが、本来バランスが取れた状態なら炭酸ガスは、地球の生態系にとっては、『地球の表面を適温に押さえる温室効果』をもたらし、『植物が光合成で酸素を作り出す』ための資源として、『必要』なものであることは言うまでもありません。

地球を食いつぶして、ヒトが他の惑星に移住するというようなSFまがいの話は現実にはないとすると、ヒトが生きるための食料、水、エネルギーを現在の地球およびその自然環境に求めるより以外に方策は見当たりません。

ここで、一挙に人口を減らす方法もないとすると、食料、水、エネルギーは、『科学によるブレークスルー』で確保しなければならないことになります。当然、無尽蔵な資源か、繰り返し再生可能な資源しか利用できないことになり、エネルギーでは、核融合、太陽光、太陽熱、風、海の波の利用、水は海水の浄化、食料は、遺伝子組み換えなどによる、工業と農業や畜産業を一緒にしたような即席栽培、即席飼育などに期待がかかります。しかし、科学が需要を満たすだけの成果を挙げられる保証は現在なく、かりに実現できても、実現のプロセスで、多大なエネルギや資源を必要とするという矛盾に遭遇したり、無害な遺伝子組み換え技術を見つけるといった、科学自体がブレークスルーしなければならない課題を残しています。

温暖化さえ克服すれば、地球は安泰というような短絡議論になっていますが、地球の歴史を見れば、人間が『悪さ』をしなかった時でも、氷河期と間氷期を繰り返してきたのですから、何時までも現状が続くという保証は何もありません。

救世主のような『科学』の出現と、『公平な我慢』以外に、少なくとも難局を乗り越える方法は、思い浮かびません。梅爺の悲観論を吹き飛ばすような、結末が待ち受けていることを期待するばかりです。

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2008年9月29日 (月)

生態系(2)

第二次世界大戦のときに、日本人は『欲しがりません、勝つまでは』と言って、貧しい生活に耐えました。このスローガンは、裏返せば『勝ったら、欲しがってもよい』という、夢にせよ一縷の希望を持たせているところがポイントです。

現在人類が遭遇している、『地球環境変化をくいとめる』『現在の生態系を維持する』ためには、『死ぬのが嫌なら、我慢せよ』というスローガンしか思い浮かびません。しかし、梅爺もそうですが、『直ぐに自分が死ぬことはないだろう。そのうちなんとかなるだろう』という根拠のない思い込みや、色々な口実を作って『我慢する』ことを回避しようとしています。一度獲得した『快適さ』を手放して『我慢する』ことができない人間の習性を考えると、このスローガンも空虚に見えてきます。精々『これ以上の快適さは望まず、我慢せよ』ということになりますが、先進国が獲得している『快適さ』と発展途上国が獲得している現状の『快適さ』には、大きな違いがありますので、発展途上国の人たちに、『あなたは、そのままで、それ以上は我慢せよ』とは、言えない後ろめたさがあります。

その上、『快適さの追求』は、個人の欲求満足だけにとどまらず、人間社会の『経済行為』と直結していますので、実に厄介な話になります。『中国とインドが存在しなかったら、地球環境は何とか維持できる』という説は、『中国とインド以外の国や人間が存在しなかったら、中国とインドだけで地球環境は維持できる』というのと同じように、現実的でない、説得力に乏しい説ということになります。

『自分は、最低限現状を維持して、他人に我慢してもらう』という考え方の延長には、解決策は見えてきそうにありません。

『全体最適』を『部分最適』に優先させる、という考え方は、『それはそうだ』と思いながら、人類が、それを実行できてこなかった本当の理由は、『エゴ』は理屈ではなく、捨てることができない『生物の業(ごう)』で、これがヒトを支配しているということではないかと思います。生物の中で、ヒトだけが、この業(ごう)から脱出できるのであれば、ヒトは、他の生物とは違うと、初めて公言できるような気がします。昨日梅爺が、解決できるかどうか確信が持てないと書いたのは、自分自身の業(ごう)を捨てきれる自信がない(煩悩から解脱できない)ためです。

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2008年9月28日 (日)

生態系(1)

地球の環境と、そこに棲む生物の生態系の調和は、実に見事にできていて驚くばかりです。どんな天才でも、人間には、こんな見事で入り組んだデザインは不可能ですので、背後に神のような『超能力者の意図』を感じるのは無理からぬことです。

しかし、ダーウィンが、『生物進化論』という『秘密の扉』をあけたために、この『見事な調和』は、誰かが意図してデザインしたものではなく、40億年もかけて、生物が生き残るために続けてきた壮絶な試行錯誤や闘争の結果生まれた現状におけるバランスであることが分かってきました。しかも、その進化には、その時々の地球の気象条件も絡んでのことです。

私達は、現在『地球環境の破壊は、人類の絶滅につながる』などと、危機感をつのらせ、叫んでいますが、今までに、地球環境は何度も『破壊』され、ヒトに先行して存在した人類も含めて、人類と呼ぶなら、人類は何度も『絶滅』してきました。少々理屈っぽい言い方をお許しいただければ、『環境』は破壊されることはなく、『ある平衡状態から別の平衡状態へ移行する』ことで、存在し続けます。地球環境は『変わる』ことがあっても『破壊』はされません。冷たい言い方で、これも恐縮ですが、地球の温度が2度上がろうが、5度上がろうが、地球とその環境は何らかの形で『存続』します。そして、現在の生態系は、そのために『絶滅』するか、新しい環境に適応できる生物が創りだす新しい生態系として『存続』するか、どちらかでしょう。

現在の生態系の変化や、特にヒトに都合の悪い環境変化は、ヒトにとっては『困る』と考えるのは当然のことですが、地球の歴史を考えれば、『生態系』は何度も絶滅の危機に瀕し、ある生物種は、恐竜やマンモスのように、本当に絶滅し、その都度、生き残った生物種で新しい『生態系』を構築してきたことが分かります。『生態系』の変化は、地球の歴史では、珍しいことではありません。むしろ現在の地球のように、ヒトに適した気象条件が続いていることの方が『幸運』とも言えます。

しかし、今までの地球環境の変化は、小惑星との衝突であったり、大量の真水が海に流れ込んで、海流の状態が変わることでの気象変化であったり、『自然現象がその原因』でしたが、今回の地球環境変化は、『人間がその原因』となっているらしいところが、初めての体験であり、『罪深い大問題』であるゆえんです。『快適に生活しようとしたら、死ぬかもしれない危険に遭遇した』という、笑うに笑えない皮肉な話です。

梅爺は、『それみろ』と、他人事(ひとごと)のように、言っているわけではありません。人間は、『部分最適』の追求には、熱心で、それなりの智恵も発揮してきましたが、『現在の生態系維持』や『世界平和』といった、『全体最適』には、極めて智恵が及ばない存在であるといいたかっただけです。勿論、梅爺もその一人で、解決のための『智恵』や『具体策』を持ち合わせていません。地球の気象条件の急変が、本当は何に因るのかという確証を人類はつかんでいませんし、つかんだとしても対応できるものであるかどうかは分かっていません。人類の叡智が、この危機を回避して欲しいとは願いますが、『世界平和』も実現できない人類が、『生態系維持』には成功できるという確信はありません。

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2008年9月27日 (土)

文明と人間の進化の関係(3)

生物としての人間の進化と、人間社会の文明の進化は、どのような関係にあるのでしょうか。梅爺は、今まで単純に、『人間の進化が文明の進化を促す』と考えてきました。しかし、良く考え直してみると、これは『ある面では正しいが、全てそうだとは言えない』ことに気付きました。むしろ、文明が先に進み、それに適した生物的な進化が後から起こると考えた方が、事実と合っているようにも思えます。

確かに、『現生人類』は、『現生人類の祖先にあたる人類』とくらべ、脳機能が進化したことで、『高い文明のレベル』を獲得したとは言えますが、『現生人類』は、少なくとも、過去数千年の間に、生物種として著しい進化をしたとは見受けられないにも関わらず、『文明』はその間著しく進化しているところを見ると、『人間の進化が文明の進化を促す』とは限らないことになります。

見方を変えれば、『現生人類』は、当初から、『高い文明レベル』を実現できる『潜在能力』を保有しており、たまたま、この数百年の間に、その具現化が加速度的に進んだ、とも言えそうです。仮にキリストと同世代の人間を、タイムマシンで現代に連れてきたとすると、最初は、環境の違いに戸惑うに違いありませんが、やがて、馴染んでしまうのではないでしょうか。赤ん坊をタイムマシンで連れてきて、育てれば、間違いなく現代人と遜色のない人間に成長するのではないでしょうか。つまり、梅爺が、仮にキリストの時代に生まれたとしても、梅爺の潜在能力は、現在の梅爺にくらべて劣っていたとは思えません。

『知識の発見、共有化とその組み合わせ応用』が、加速度的に『文明』を進化させると言う現象が、人間の永い歴史のなかで、この100年位の間に、顕著に現れていることを見ると、偶然に、梅爺がその時代に生を受けたことに、感謝すべきと感じています。テレビで地球の裏側の事件を観たり、クルマを自分で運転したり、携帯電話を利用したり、インターネットを利用したり、新幹線や飛行機で旅行をしたり、と梅爺の祖父母の時代には、誰もが体験していない生活を、当たり前のように享受しているからです。

『文明』は、『快適な生活環境』をもたらすとは言えますが、『文明』は『幸せな生活環境』をもたらすとは、必ずしも言えそうにありません。『幸せ』は心の問題であり、祖父母が、梅爺より『不幸であった』とは言えないからです。

『物質文化』と『精神文化』は、同次元の話ではないことが分かります。ただ『精神文化』を省みない『文明』は、人間に真の豊かさをもたらさないということも確かなような気がします。

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2008年9月26日 (金)

文明と人間の進化の関係(2)

もし、『文明』は、人間社会の『物質的な豊かさ』と『精神的な豊かさ(他者への配慮、知識の共有、個性や自由の尊重など)』のバランスで評価するものとすると、現在の日本は、残念ながら、極めて前者に偏った『文明』の保有国であるように見えます。

梅爺が興味を持つのは、『物質的な豊かさの加速は、精神的な荒廃の加速を生む』という『命題』が、一般則として成り立つのかどうかということです。もし成り立つのであれば、『物質的な豊かさ』と『精神的な豊かさ』を双方高度に保つことは『不可能』ということになりますので、精々あるレベルでバランスをとることが関の山で、少なくともどちらかは、ある程度『犠牲』にしなければならないことになります。本当にそうなのでしょうか。『衣食足りて礼節を知る』という言葉があるところをみると、『物質的な豊かさ』だけを罪悪視するわけにはいかないような気もします。

現在、目を覆いたくなるような犯罪が多発するのを見て、多くの方々が『昔の日本には、このようなことがなかった』と嘆きますが、これはひょっとするとあまり意味のある意見ではないのかもしれません。何故ならば、昔の日本と現在の日本では『物質的な豊かさ』で大きな違いがあり、『昔の精神的な豊かさ』を獲得するために、『昔の物質的な豊かさ』のレベルに、逆戻りすることは、現実には、もうできないからです。

従って、日本は、現在の『物質的な豊かさ』をある程度肯定した上で、『精神的な荒廃』を抑止する方法を、見つけなければなりません。『昔の日本』も『外国』も、あまり参考にはならないと覚悟すべきではないでしょうか。もし、『物質的な豊かさ』と『精神的な豊かさ』が両立できる方法を日本人が見つければ、人間の歴史に大きく貢献できますが、それができなければ、社会は崩壊する道を辿ることになりかねません。ローマ帝国など、栄耀栄華を誇りながら、内部崩壊した事例は、過去に沢山ありますから、楽観は禁物です。

『物質的な豊かさ』の環境で、人が絶望的な『孤独感』『疎外感』を持つようになりやすい要因は、単純には割り出せませんが、心を通わせることができる対象を持たない人間の、心の闇が、そこにあることは分かっています。そしてそれは、結果的に人の脳の情感制御機能の問題に帰結することも分かっています。『道徳教育の強化』などという、誰でも思いつきそうな皮相な対応では、大きな成果は期待できそうにないと梅爺は感じています。

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2008年9月25日 (木)

文明と人間の進化の関係(1)

私達は『文明』という言葉を、気軽に使いますが、『文明』とは何かを定義しようとすると、意外に難しいことが分かります。『広辞苑』を引いてみても、『そういうことか』と納得できるとは限りません。

『社会の成熟度や豊かさ』に関係する言葉であろうと思いますが、『成熟度や豊かさ』は、何を基準に計るのかが釈然としません。

日本は、世界の中で『文明国』に属することになっていて、たしかに、多くの日本人が海外旅行を経験すれば、日本の方が、高度に成熟した社会であることを、実感することができます。勿論、日本人は『日本は理想的な社会を実現している』などとは考えていませんが、それでも、『相対的に比較』すると、『日本の方がまだ進んでいる』と感じることができるという意味です。

日本人は、『日本では体験できない自然や風景に接してみたい』『日本にはない外国の古い文明遺跡を見たい』『日本では食べられないものを食べてみたい』『日本では買えないものを買いたい』などと、考えようによっては、きわめて皮相な欲望をみたすために、海外に出向き、最後は『でも、住むなら日本が一番』などとこれまた、少々不遜にもみえる感想をもって帰国することになります。つまり、現状で日本より高い文明レベルを体感しようと外国に出向いているわけでもなく、期待もしていないように見えます。多くの日本人が、リタイア後、夫婦で、外国へ移り住む(長期滞在)ような時代になりましたが、経済的に有利な生活環境か、日本にはない自然のままに近い環境を求めてのことです。

『文明』は、その社会に住む人々の、『物質的な豊かさ』『知識の豊かさ』『感性の豊かさ』のバランスで成り立つもののように思えますが、『物質的な豊かさ』『知識の豊かさ』が、『感性の豊かさ』をむしろ阻害する要因になりつつあることに、日本人が気付き、それに大きな危惧を抱き始めているように感じます。『物質文化』と『精神文化』のバランスをとる方法は、他国にその例を求めても、現在の日本に参考になるものは、あまりありません。日本は、そういえるほど『先に行ってしまっている』わけですから、むしろ、世界が日本の方式を参考にするような、『人類の先例』を自らの智恵で、生み出さなければならない状況にあると言えます。

梅爺は、『教育』がその鍵を握っていると感じていますが、それは『道徳教育』といった単純な話ではありません。従来の『知育』『体育』に加え、幼児期からの『情育』に、新しい方法論を採用することが要(かなめ)ではないかと考えています。もう一つは、『一律の価値観』を煽り立てることを慎むことでしょう。このことについては、今まで何度となくブログに書いてきました。

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2008年9月24日 (水)

えてに帆をあげる

江戸いろはカルタの『え』、『えてに帆をあげる』の話です。

風向きの話なら『追い手(追い風)』のことと思われますので、『得手(得意な事)』とかけて、表現したのでしょうか。『元々得意な分野なので、うまくいくところに、更に好機が到来し、その好機をうまく利用して、全てが順調に推移する』という意味とうけとれます。

『順風満帆』と同じような表現ですが、『えてに帆をあげる』は、『帆をあげる』という、当事者の主体的、能動的な行動が含まれていて、微妙にニュアンスが異なるように感じます。つまり、『得手(得意分野)を保有していること』と『追い手(追い風:好機)をそれと察知する能力』の両方を持ち合わせていることが『条件』になっているように見えます。

『得手』も『好機察知能力』も持ち合わせないのに、あなたは『自分の人生は逆風ばかりだった』などと嘆いていませんか、とチクリと皮肉られているようで、江戸いろはカルタの卓越した『諧謔精神』を感じます。

梅爺は、今までの人生を振り返って、自分が意図して『えてに帆をあげた』ことがあっただろうかと懸命に思い出そうとしましたが、該当する事例を思い浮かべることができませんでした。

確かに、偶然にも色々なことが良い方向に重なって、うまくいったことはありますが、自分の察知能力で『帆をあげた』のかと尋ねられれば、『そうです』と答える自信がありません。

世の中には、『得手』と『追い風の察知能力』を両方持ち合わせている人は少ないと思われますので、多くの方々が梅爺同様、『おっかなびっくり』人生を送っているのではないかと、勝手に想像しています。

勇を鼓(こ)して、帆をあげてみたら、急に風向きが変わったり、思いもしない嵐が待ち受けていたりするのが人生ですので、『えてに帆をあげる』などといわれても、『そうは、うまくいきませんよ』と言いたくなります。梅爺は、『大胆な挑戦』よりも『臆病な対応』の方が無難であることを、沢山見聞きしてきたからにちがいありません。誤解がないように申し添えれば、失敗に懲りずに何度も『大胆な挑戦』を繰り返す人を、梅爺が軽蔑しているわけではありません。

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2008年9月23日 (火)

不可知論者(5)

昨日は、『有神論者』寄りの、パウロ・コエーリョを読んだ感想を書きましたが、今日は、バランスをとって、『無神論者』のチャンピョンともいえる、ニーチェの『アンチクリスト(反キリスト)』の日本語翻訳本(タイトルは『キリスト教は邪教です』:適菜収訳:講談社新書)を読んだ感想を書きます。

ニーチェは、プラトンに始まり、キリスト教の教義形成やヨーロッパの社会形成に大きな影響を与え続けてきた『超自然的原理(絶対なるものの存在を肯定する考え方)』を批判した哲学者であり、『哲学』を『ニーチェ以前』と『ニーチェ以後』に分類する必要があるほどの影響を与えた人です。

彼の『アンチクリスト』を読むと、全ての『神』と言う概念を否定してはいませんので、彼を『無神論者』と決め付けるのは適切ではないかもしれません。ただ、プラトンの『超自然的原理』と、それを基盤とするキリスト教の教義に対して、過激な反論を展開しています。その過激ぶりは、狂気と思えるほどで、『不可知論者』の梅爺でも、辟易とするような、悪口雑言を、これでもか、これでもかと教会の神職者や、キリスト教よりの哲学者(パスカル、デカルト、カントなど)に浴びせかけています。『自分以外はみんなバカ』と言わんばかりの論調です。本人は得意満面であることは分かりますが、読んでいて、感情的にとても痛快な気分にはなりません。こういうタイプの人間は、梅爺は苦手です。しかし、ニーチェが、『イエス・キリスト』と『キリスト教』とを分けて論じていることには、興味を惹かれました。ニーチェは、『イエス・キリスト』は、強い意思で人生を全うした『人間』として、むしろ尊敬し、評価しています。

ニーチェの基本的な考え方は、人や国家は『意思を保有することが重要で、権力を志向する強い存在であるべき』というものです。弱い人間は、人類の未来に役に立たず、同情する必要もないと言い切っています。『人間は皆平等』などという考え方は、とんでもないということになります。現に、彼は『ユダヤ人』は、危険な人種であると公言しています。勿論、『ユダヤ教を信奉するユダヤ人』に対する批判ですが、彼のこの思想は、ハイデガーなどにも受け継がれ、やがては、ヒトラーのナチズムで、『ドイツ人はすぐれた人種、ユダヤ人は危険な人種』と単純化され、利用されます。

ニーチェは、キリスト教が、ヨーロッパをダメにした、と主張しましたが、彼の死後、彼の思想が、ヨーロッパどころか世界中に悲惨な死をもたらしたともいえる、皮肉な話です。『思想』は、都合よく解釈する人たちによって、どんな武器よりも危険なものに変貌することが分かります。

ニーチェは、自分は『強い人間』であるとの自負があったのでしょう。そうでなければ、弱者を排斥せよなどとは、言えないからです。しかし、梅爺は今までの人生で、『強がる人』が『本当に強い人』である例を、あまり見たためしがありません。ニーチェの哲学者としての功績は、認めるにしても、このような性格の人に出会ったら、逃げ出したくなります。『強い人間』であるはずのニーチェは、晩年は精神錯乱に陥り、肉親の看護の中で死を迎えています。神の悪口を言い過ぎて、罰(ばち)が当たったのでしょうか。

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2008年9月22日 (月)

不可知論者(4)

パウロ・コエーリョというブラジルの作家は、ユーモアと愛に満ちた文体で、世界中の人たちを魅了しています。彼は、自らを『有神論者』であると、殊更に言うことはありませんが、深い信仰に対する理解があるのだろうと、梅爺は想像しています。彼が書いたほんの短い文章を読んでも、『生きる』『死ぬ』ということについて沢山の示唆を受けます。何よりも、読んですがすがしい気持ちになれます。

パウロ・コエーリョの『錬金術師(Alchemist)』を読んだ感想は、前にブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_69db.html

またいつか、機会があれば、パウロ・コエーリョに関する感想をブログにまとめて書きたいと考えています。

彼の『Like The Flowing River(川の流れのごとく)』という英語版のエッセイの中に、ヘンリー・ドラモンドの『世界で最も偉大なもの』という本からの抜粋がありました。『信仰』や『愛』に関するものです。梅爺の拙訳で以下に紹介します。

『昔から、「最も善良なるものは何だろう」と人々は問い続けてきました。私達は生を受け、一度だけの人生を歩みます。こういうものが持てたらと熱望するもの、つまり高貴な願いとは何でしょうか。宗教の世界で深い信仰を持つことが最も重要と教えられてきました。信仰と言う偉大な言葉は、宗教のキーワードであり続け、私達も、容易にそれを受け容れてきました。しかし、それは違います。そう教えられてきたとすれば、肝心なことを見落としていることになるかもしれません。コリント人への手紙1章13節で、パウロはキリスト教の根幹へ私達を導いてくれます。「最も重要なものは、愛である」と。パウロは、信仰の重要さを見落としているわけではありません。なぜなら、この言葉の直前に、信仰について「もし、私が完全な信仰を持っていて、山を動かせたとしても、愛がなければ何の意味がありません」と語っています。信仰のことを忘れていたのではなく、わざと対比して示してくださっているのです。「信仰、希望、愛に生きなさい」そして躊躇ない結論が続きます。「それらの中で、最も大切なのは愛です」と。』

パウロ・コエーリョは、他人の言葉を引用していますが、それは、彼がこの内容に共鳴しているからに他なりません。

『不可知論者』の梅爺も、『愛』という脳の中の抽象概念が、人には重要なものであるという主張は十分に理解できますので、この一文は、何のわだかまりもなく受け容れることができます。

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2008年9月21日 (日)

不可知論者(3)

『不可知論』の議論とは外れますが、人間の歴史の中で、『宗教の対立』が深刻な問題であり続けていることは、不幸なことだと感じています。考え方や好みの異なった他人を『全面否定』するという、極端な行動に、人が走りがちな習性を持つことは、認めざるをえないとしても、なんとか理性で、それを回避して欲しいと願っています。イスラム教原理主義者の人に、ダライ・ラマのようになれと言っても無理かもしれませんが、せめて冷静に考えれば、『巨人ファン』が『阪神ファン』を全面否定するようなものだと、分かって欲しい気がします。

『信ずる』という行為は、論理を超えていますが、それでも『有神論者』『不可知論者』『無神論者』が、それぞれ、自分の考え方を述べることは意味のあることのように思います。主張の違いを認めた上で、相手の存在は認めることが大切と考えています。『あなたの立場は分かりました。しかし私の立場はこうです』と冷静な対応が条件です。自分と同じように考えないからといって、『けしからん』と怒ったり、何としても釈服しようとしたりすると、悲劇のもととなってしまいます。

梅爺は、ブラジルの作家で、その文章内容から『有神論者』であろうと想定できるパウロ・コエーリョの小説やエッセイも大好きですし、『無神論者』の、ニーチェのような哲学者の過激な主張も、興味深く読みます。部分的には、なるほどと感銘を受けたりしますが、今のところ、『不可知論者』から、どちらかへ鞍替えするほどの影響は受けていません。『無神論者』の代表のようなイギリスの生物学者リチャード・ドーキンスの『The God Delusion(神は妄想の産物)』という本を読んだ感想は、前に6回にわたりブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/the_god_delusio.html

梅爺の80歳になる長兄は、昨年妻に先立たれ、それ以降老人の一人暮らしを続けています。その様子は、『独居Q翁のつぶやき』というブログに毎日書かれています。

http://ameblo.jp/dokkyohisashi/

Q翁は、『心の安らぎ』を求めて、熱心にプロテスタントの教会へ通うようになり、最近洗礼を受けた様子がブログに綴られています。Q翁は、梅爺の今の年齢で、夫婦ともに健在であった時には、『教会へ通う自分』などは想像もしていなかったのではないでしょうか。このことは、逆に、将来梅爺が、このように変貌する可能性もありうるということに他なりません。

戦争という運命で、人生を翻弄され、多くの死を周囲に見てきたQ翁と、基本的に恵まれた環境で生きてきた梅爺とでは、『何ものかに自分が生かされている』という感じ方の程度が異なるのであろうと想像しています。

しかし、Q翁と梅爺が兄弟であることの絆は、生き方や考え方の違いで、変わるようなことは何もありません。Q翁が、自分の選んだ道を歩み、『心の安らぎ』を得ていることは、梅爺にとっても、ただただ嬉しいことにほかならないからです。

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2008年9月20日 (土)

不可知論者(2)

梅爺は、戯れに『神を知らない国』という、大人向けの寓話を書いてみようと思い立ったことがあります。主人公がガリバーのように、知らない陸地に漂着してみたら、そこは、『神』という概念を全く知らない人たちの国であった、というような想定です。

私達は、『神や仏』といった概念が、先人から伝承され、それが当たり前に根付いている社会で生きていますが、もし、この概念を人間が知らない(獲得できていない)としたら、一体そこでは、どのような人間が、どのような社会を構成しているのであろうかと考えてみることで、逆に、一層『神や仏』への理解が深まるかもしれないと期待してみたからです。

しかし、人間の歴史に、現在のような科学知識を持ち合わせていない時代が必ずあったことを想定すれば、自然現象や自分達の生死に関して『不思議な力』の存在を、『神』として推測しないことがあるとは、到底考えられず、いくら寓話の世界とはいえ、そのような『想定』は難しいことを知って、創作は断念しました。現状で、地球上で発見されているどのような未開の人間部族も、必ず何らかの『神』の概念を保有しているように見えます。つまり、『神』の概念に遭遇しない人間の歴史は、考えられません。

もし、『神を知らない国』が存在するならば、『昔はそのような概念があったけれども、別の理解に置き換えられて、今はなくなってしまった』という想定しか考え付きません。将来、『宇宙の始まり』『生命の始まり』『脳のカラクリ』などが、解明されるとすれば、そのような状態が存在する『可能性』はないとは言えません。しかし、現状の梅爺の能力をいくら振り絞ってみても、そのような『想定』を、『矛盾のない話』として作り上げることはできません。つまり、『宗教と科学』の関係で、『科学が最終的に宗教を解明してしまう』という説得力あるストーリィを、創りだす能力が梅爺にはありません。宗教が存在しない社会が、存在する社会よりも、幸せと言えるのかどうかさえも判断できません。

自然の摂理の根源にある『何ものか』を、『神』という概念で認識することと、人間が『心の安らぎを得る』ということとは、本来つながりがないように思えますが、『何ものかに自分が生かされているので、その何ものかに、自分の生の全てをゆだねれば、何も思い悩むことはない』という、宗教の考え方が登場するのも、当然であるように感じます。

梅爺のような『不可知論者』は、中途半端ながら獲得した科学知識で、、『神の概念』と『心の安らぎ』が、必ずしも一対一で対応するものではないと考えていますが、『有神論者』は、この二つは、切り離せないほどに、強く結びついていると感じておられるのではないでしょうか。つまり、『神』を信じなければ、真の『心の安らぎ』は得られないと考えておられるのではないかと思います。

勿論、梅爺には、『一体ではない』と論証する能力がありません。梅爺も『心の安らぎ』は求めますので、『心の安らぎ』の背景に『神の概念』が必要かどうかに関する考え方(感じ方)の違いのように思います。従って、自分は『一体ではない』と感じているからといって、『一体である』と感じている人に、小賢しいことを言う能力も資格もないと考えています。

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2008年9月19日 (金)

不可知論者(1)

梅爺は、ブログを始めてから、『神』や『仏』について何度も書いてきました。それ以前、深く考えたこともなかったことに、自分でも不思議なほどこだわるのは、意識の中に、『神』や『仏』と言ったものへの関心が根強く存在するのであろうと推測しています。『信ずるかどうか』ということより、何故人間は『神』や『仏』という概念を必要とするのだろうという興味がわいてきます。その証拠に、未だ読んでいませんが『数学者の無神論(J.A.パウロス著、松浦俊介訳:青土社)』『神はなぜいるのか?(パスカル・ボイヤー著:鈴木光太郎、中村潔訳:NTT出版)』『God is not Great (Christopher Hitchens)』などという本を購入し、これから読もうと、本棚に積んであります。

現時点で正直に自分を分析すれば、梅爺は、『不可知論者(agnosticism)』に属すると考えています。『不可知論者』は、『神や仏が実体として存在するかどうかは自分の能力では判断ができないと考えていて、仮に存在しないと言われても、今のところ特段の不都合は感じない』という人のことです。梅爺が、このような暢気なことを言っていられるのは、人生で、本当の苦しみや悲しみに遭遇していないためかもしれません。『追い詰められて初めて神を知る』ということであれば、逆説的になりますが『神を知らずに死ぬ』ということが、最も幸せな人生かもしれません。

世の中には『無神論者(atheism)』という方がおられ、こちらは『神や仏は絶対に存在しないと確信している人』のことですので、『不可知論者』とは、表面的には、似ていますが、その立場は大きく異なります。

神や仏を信ずる立場は、『有神論者(theism)』ですので、『不可知論者』は、『有神論者』でも『無神論者』でもない、どっちつかずで優柔不断のようにも見えます。『白黒をつけろ』と迫られても、梅爺の場合、現状では『分からないものは分からない』としか言いようがない、というのがホンネです。

『不可知論者』にも色々なレベルがあり、『有神論者寄りの考え方』と『無神論者寄りの考え方』がありますので、『不可知論者』は一色で規定できません。

今までブログを書いてみて、梅爺が到達している『不可知論』のレベルは、以下のとおりです。

『人間の脳は、自然の摂理の中に、自分の生死や運命を支配する「何かしら」が存在すると推量する潜在能力を持っており(梅爺も含め誰もが)、この「何かしら」を歴史的に「神や仏」と呼んできた。しかし、この「何かしら」は、自分の現状の能力では解明できないものに対して、人間の脳が創造した「抽象的概念」であることは確かと言えるが、人間の脳の外に「実在する実態」であるかどうか、言い換えれば人間(自分)が存在しない世界にも神や仏が存在するのかどうかは分からない(実在を理性で納得できる説明には遭遇したことがない)』

別の表現をすれば、『人間の脳が、神や仏といった抽象概念を保有することと、その意義については、十分理性で納得できる』が、『抽象概念ではなく、脳の外に実態が存在するかどうかは、理性では納得できていない』と言うことになります。梅爺の理性は、自慢できるほどのものではないことは承知していますが、梅爺にとっては、判断基準として頼れるものは自分の理性しかありません。ただし、梅爺は理性が全てと考えているわけではありません。『感動』などという素晴らしい世界は、理性で得られるものではないことも承知しています。

『愛』も、これに類する抽象概念の一種であろうと考えています。脳では実感でき、言葉や行為で表現できますが、脳の外に、『愛』という『実態』があるようには思えません。しかし、そのような概念を人間が生きるために保有することには、大きな意味があるように思います。『感動』や『心の安らぎ』に、『愛』はつながるものであるからです。従って、『不可知論者』である梅爺は、『神や仏という脳の中の抽象概念』の存在や、その意義を否定するつもりはなく、むしろ、これを『信ずる』ことで、『心が癒される』という、脳の現象が、何故起こるのかについての興味を抱き続けています。

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2008年9月18日 (木)

嘘(3)

『状況に応じて、自分に好都合な仮想の論理解』を考え出すという、人間の優れた習性が、時に『嘘』も生み出すということと、梅爺は理解しました。

この習性は、『抽象的な概念の論理処理』のために、脳皮質の神経細胞を無数に結合できるように、人間の遺伝子がプログラムされていることに由来します。この習性がなければ、人間の歴史には、科学の進歩も、宗教や芸術の出現もなかったことでしょう。

しかし、もっとも驚くべきことは、この習性を持たない生物(例えばチンパンジー)の脳と、人間の脳の遺伝子の違いは、このことに関しては精々5~6個に過ぎないということです。たった、5から6個の遺伝子配列の違いが、チンパンジーと人間の運命を大きく変えてしまったと言えます。

歴史上、どの時点で、人間は、この遺伝子の違いを獲得したのか、その違いは何故起こったのか(突然変異か)などは、科学が現在総力をあげて解明に取り組んでいます。現生人類の祖先で、今は絶滅してしまっている人類種から、この習性の少なくとも一部は受け継いでいる、というのが現状の定説のようです。

もし、そうだとすれば、5~6個の遺伝子の違いを獲得するために、何百万年という時間が、『進化』に費やされたことになります。

言語の駆使や、科学、宗教、芸術といった、多様な人間の世界は、たった5~6個の遺伝子の違いに由来しているという話は、『あっけにとられてしまう話』ですが、単純な要因が、複雑な異なった結果をもたらす事例のひとつとして、梅爺は理解しました。

人間とチンパンジーの違い(種としては500万年ほど前に決別)の原因の一つは分かりましたが、現状では、人間の『抽象概念の論理処理』は、ほとんど未知の分野ということになります。

『嘘』の話が、ついつい人類の系譜に関する大きな話になってしまいました。

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2008年9月17日 (水)

嘘(2)

人間は、『こうあって欲しい、こうあって欲しくない』という状況に遭遇すると、『仮想の論理解』を脳で創り出す習性をもっており、その能力が4歳くらいから芽生えるということが分かりました。嫌なことを回避しようとするのは、『自己ヒーリング(癒し)機能』で、健康を維持するために重要なことなのかもしれません。

前に、梅爺の孫の男の子(4歳)が、『ホシズ』という『仮想分身』の存在を主張している話をブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_91d4.html

大人の基準では『ホシズ』は、『嘘』の部類に属しますが、これを『嘘はいけません』の一言で、抑制することは危険です。子供の豊かな創造力、想像力の芽を摘み取りかねないからです。

大人の世界でさえも、『嘘はいけません』という単純な基準で律することが難しいほど、『嘘』は多様で、複雑なものです。

『善意の嘘』『他愛のない嘘』『保身の嘘』そして勿論『相手を傷つける嘘』など様々です。あらゆる状況に応じて、適切に『嘘』と対応できる人が、『健全な大人』なのかもしれません。『何でも、本当のことを言うのが正しい』などと単純に考えているのは『健全な大人』ではありません。『本当のことを言う』ことが、『嘘をつく』以上に、他人を不幸にすることもあります。どちらを採用するかは、『相手への思いやり』の判断にかかります。十分配慮をして、『本当のことを言う』場合も、『嘘をつく』場合も、結果がうまくいくとは限らないので、人生はまことに厄介です。

故意に相手を貶(おとし)めたり、傷つけるための嘘や、保身だけを考えた嘘は、明らかに『邪悪な心』『弱い心』に支配されている結果といえますが、自分は『健全な大人』であると自認している人にも、時として『邪悪な心』や『弱い心』の誘惑があるので、これまた厄介です。『自分は、邪悪な心や弱い心など持ち合わせていない』と豪語する人は、『嘘をついている』のではないかと、梅爺は失礼ながら疑っています。

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2008年9月16日 (火)

嘘(1)

人間の脳に関する本を読んでいましたら、『人間は4歳くらいから、嘘をつくことを覚える』という文章に遭遇し、この文章の持つ深遠な意味を感じ、『うーん。なるほど』と唸ってしまいました。

善良な両親は、子供にわざわざ『嘘のつき方』などを教えませんから、『人間の子供は、嘘をつくことを自分で考え付く能力を持っている』ということになります。しかし、この事実をもって『人間の邪悪な心が4歳で芽生え始めるのか』などと嘆く必要はありません。そのように考えるのは、大人が『嘘は邪悪』という固定観念に支配されているからにほかなりません。

子供は、『願望が本当であって欲しいと時や、困った事態を忌避したいと考えた時に、自分に都合のよい論理を脳で創造し、表現している』と理解すればよいのではないでしょうか。たまたま、その内容が大人の基準では『嘘』に見えることがあるということでしょう。

『願望が現実であって欲しい時や、困った事態を忌避したい時には、自分に都合のよい論理を脳で創造する』という、生きるために必要であろう能力の高さこそが、生物の中で人間が他の生物と異なっていることで、人間の大人は誰でも持っている能力です。この能力が、社会や科学を発展させる原動力(時に破壊力)になってきました。問題は、『自分に都合が良い論理』を優先し、『他人』を優先していないことであることは、前に『理詰め』というタイトルでブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_7281.html

子供が4歳で『嘘』をつき始めたら、両親は『嘘はいけません』などと頭ごなしに叱ったりしないで、『わが子は、大人へ向かって順調に成長している』と喜び、赤飯でも炊いてお祝いをしたほうが良いのかもしれません。

勿論、梅爺は、『嘘の中には邪悪なものもある』ことはよく承知していますので、全ての『嘘』を肯定するつもりはありません。子供に『善悪の違い』を教えることは、両親の大きな仕事のひとつであることも承知しています。しかし、子供が『善悪の違い』を理解することと、『自分に都合の良い論理を創造しようとする』こととは、同次元の話ではないことを、両親は理解していないと、子供の可能性を、『嘘はいけません』の一言で、摘み取ってしまうことになりかねません。逆に、子供は『批判する能力』が未熟ですので、『言われたことをそのまま受け取る』という習性があります。この習性は、良い面でもあると同時に、大人の価値観が無条件に刷り込まれる『危険な面』でもあります。いずれにしても、大人の子供への接し方は、難しく慎重を要するものであることが分かります。

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2008年9月15日 (月)

『マギの聖骨』(3)

『Map of Bones』という小説は、アメリカの作家の作品ですから、例によって、アメリカの特殊訓練を受けた秘密工作部隊に属する主人公が、幾多の困難を『超人的に乗り越え、不死身の活躍をする』という内容ですので、背後に、ハリウッドへの売り込みも感じられます。

このほかに、バチカン市国の『情報部員』、バチカンに潜入している『異端教派』のスパイ、中世からヨーロッパで継承されてきた『秘密政治結社』、国際的な『工作』を請け負う民間の秘密組織、イタリアの『美術品、歴史遺物盗難』担当の特殊警察、などが、くんずほぐれつ、追いつ追われつ、の『活劇』を展開します。

背景となる場所も、アメリカ、バチカン(法王庁)、ドイツ(ケルン)、エジプト(アレキサンドリア)、スイス、フランス(アビニオン)と多彩です。『東方の3博士の骨』の実態は、『骨』ではなく、古代エジプトの錬金術師が作り出した貴金属合金粉末で、常温で超伝導体の性質を持ち、人間が飲めば、脳の信号伝達速度が速まり、また強い電磁場におけば、大爆発をするという、代物という設定になっています。

小説ですから、どんな『設定』でも、とやかく言う必要はありませんが、古代エジプト人が、現代でもつくりだすことが難しい『貴金属合金粉末』を実現していたという設定は、いくらなんでも無理があるように梅爺は感じました。しかし、それに目をつぶれば、アレキサンダー大王の墓の所在(実際には見つかっていない)、カソリックと異端教派のキリストの死の直後から続く確執、法王庁内の権力闘争の歴史、などが、ストーリィの背景にあり、梅爺は、それなりに楽しみながら読みました。

しかし、荒唐無稽な『設定』は好みにあらず、とおっしゃる方には、お奨めはできません。

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2008年9月14日 (日)

『マギの聖骨』(2)

ローマン・カソリックが『聖なる遺物』としているものは、現在でも沢山あり、多くは十字軍(11世紀から13世紀)の戦利品としてヨーロッパへもたらされたのではないかと思います。しかし、中には、ローマのコンスタンチヌス帝が、キリスト教をローマ帝国の唯一の宗教と定めた前後(4世紀)に、ユダヤ地方からもたらされたものもありそうです。コンスタンチヌス帝の母へレナは、もともとキリスト教徒で、『聖なる遺物蒐集』に熱心で、現地まで出向いたと言われています。

『Map of Bones』の『東方の3博士の骨』は、12世紀の始めに、イタリアミラノの大聖堂から、ドイツのケルン大聖堂へ移され、今でも金の装飾を施された棺の中に収納され、祭壇に祀られています。時期的に、十字軍が持ち帰ったと考えられます。梅爺もケルン大聖堂で、この棺を見たことがありますが、当時は、『Map of Bones』などという小説を読んでいませんでしたので、失礼ながら『よくもまあ、こんないかがわしいものをでっち上げたものだ』と、感じただけでした。イタリヤからドイツに移すことには、カソリック内部の権力闘争当が絡んでいて、当然イタリアの抵抗があったことは、歴史的な事実として伝えられています。

『聖人の骨』を祀る風習は、キリスト教ばかりではなく、仏教にもあることはご承知の通りです。仏教の布教と一緒に、アジアの各地に『仏舎利塔』が建立され、皆『お釈迦様の骨(舎利)』を分けてもらったと主張しているわけですから、『どうして、お釈迦様の骨はそんなに無尽蔵にあるのだろうか』と、梅爺は不思議に思ってしまいます。

本当の『聖なる遺物』があるとすれば、『キリストの骨』『聖母マリアの骨』などが、特定されれば、まさしくそれに当たります。肉体的に復活、昇天したキリストの骨は、キリスト教の教義に従えば、あるはずがなく、仮にあったとしても、普通に考えれば、そのようなものの発見は、不可能に近いと感じますが、真面目に追いかけている人たちもいて、1980年に、『キリスト一族の墓』らしきものが見つかったという話が、大ニュースとして世界を駆け巡りました。これに関しては、『The Jesus Family Tomb(キリスト一族の墓)』という、ノン・フィクションが発刊されています。梅爺も、興味を引かれて、この本は購入してありますが、まだ読んでいません。

『キリストの骨』『聖母マリアの骨』が見つかれば、現代科学は、DNA鑑定分析で、ローマン・カソリックにとっては『不都合な真実』を暴き出す可能性がありますので、『もっとも見つかって欲しくない遺物』なのではないでしょうか。

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2008年9月13日 (土)

『マギの聖骨』(1)

青梅から都心へ出向く行き帰りの電車の時間などを利用して、『Map of Bones (James Rollins)』という、歴史ミステリー(実態は、冒険活劇小説)を英語版ペーパーバックスで読みました。

タイトルをそのまま日本語に訳せば『骨の地図』となりますが、本屋では『マギの聖骨』という日本語の意訳名が付けられていました。『Magi』は、一般的には、聖書で、星を頼りにベツレヘムを訪れ、キリストの生誕に立ち会ったとされる『東方の3博士』のことで、英語では『マギ』ではなく『メイジャイ』と発音されるはずです。たしかにストーリィは、『東方の3博士』の遺骨をめぐる話なのですが、『マギの聖骨』で、何のことか内容を想像できる人は、相当な教養人です。

『Magi(単数はMagus)』には、『魔法使い』という意味もあり、英語の『Magician(奇術師)』の語源にもなっています。昔の人間にとっては、魔法使いはいかがわしい人間ではなく、『不思議な力の持ち主』として、あがめられていたと思われますので、その存在意義は、現代人の感覚とは異なっていたのであろうと推察できます。

キリストの生誕に立ち会った『東方の3博士』とは、何者なのか、『東方』とはどこなのかは謎に包まれています。話の必然性があまり感じられないことから、キリストの生誕を権威づけるために、無理に挿入した逸話のようにも思えます。ユダヤの東方は、現在の中東にあたり、ペルシャ(現在のイラン)に『Magus(賢人)』という言葉があるらしいので、『東方』とはペルシャの付近とも推定できます。『3博士』が持参した宝物(黄金、もつ薬、乳香)は、いずれも、エジプトのミイラをつくるのに欠かせない『材料』のようにも見えることから、この話は、キリストよりずっと以前に、中東の賢人が、エジプトの権力者に『秘物』を献上した話を、聖書の著者が流用したのではないかという説もあり、この方が説得性を秘めているようにも思えます。例えば、アレキサンダー大王の時代には、ペルシャ(イラン)も、エジプトも彼の支配下にあったのですから。

中世ヨーロッパには、十字軍がエルサレムから戦利品として持ち帰ったと称する『聖なる遺物』が氾濫しました。特に、有名なものには、イタリアトリノの聖ヨハネ大聖堂に、今でも安置されている『聖骸布(せいがいふ)』があります。十字架から下ろしたキリストの遺体を包んだ布ということになっており、キリストの姿がぼんやり浮かび上がっていることで、カトリックの信仰の対象になっています。このほかにも、キリストの磔(はりつけ)につかった『釘』であるとか、十字架の一部とされる『木片』とか、真偽を確かめることが難しいものが沢山あります。中でも、キリストが最後の晩餐で使ったワインの杯(聖杯:Holy Grail)は、それを手にした者が、この世の最高権力者になれるというような伝説まで生んで、後にローマン・カソリックから『異端』として弾圧された『テンプラー騎士団』が、それを利用して財力を築いたという噂は、今でも絶えません。『聖杯』の所在は今も不明で、多くの人がその行方を追い続けています。『聖杯』にまつわる話は、最近では『ダ・ヴィンチ・コード』にも登場しました。

『Map of Bones』では、『東方の3博士』の遺骨は、実は骨ではなく、エジプト、プトレマイオス朝時代のの錬金術師が作り出した、貴金属特殊合金の粉末で、現在でも使いようによっては、大変な威力を発揮するものであった、という梅爺には、どう見ても荒唐無稽に見える話が土台になっています。『インディ・ジョーンズ』の映画同様、娯楽として面白ければそれでよいではないかと言えば、それまでですが、なまじ『科学的な説明』などが小説に含まれていると、『それはないだろう』などとつぶやきながら、それでもストーリィそのものは、結構面白いので、最後まで読んでしまいました。

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2008年9月12日 (金)

ハイデガーとナチズム(2)

ハイデガーが、『何故ナチズムに加担したのか』の原因については、興味がわきます。『反哲学入門』の著者木田元先生(哲学者)は、ヨーロッパの歴史の根底を形成してきた、『プラトン哲学』『キリスト教』などの『超自然原理が世界を創造した』という考え方から脱却し、『新しい世界観』に変えていくために、ハイデガーは、ナチズムを利用しようとしたのではないかと、推測しておられます。

梅爺のような凡人は、逆に『世の中はそんな単純に変えられるものではない』と『直感』が働きますから、権力を利用して『新しい世界観を浸透させる』などという考え方は、『夢想』にすぎないと判断してしまいますが、ハイデガーが、本気でそれを期待していたとすれば、哲学は分かっていても、よほど世事に疎いか、よほど純粋な理想主義者であったかのどちらかではないかと、考えてしまいます。

ハイデガーは、カソリックの家に生まれ、最初はカソリック系神学を学びますが、その後、プロテスタント系神学の大学教授職を得るために、カソリックとは疎遠になり、更に今度は、哲学教授職を得るために、神学とは疎遠な関係になるといった、『変節』を繰り返しています。ニーチェの思想の影響を受けて、『超自然原理による世界創造の考え方を否定する立場』になっていったとはいえ、最後はナチズムを利用しようとしたことも考え合わせると、ハイデガーは、『栄達』や『権力』求める心が強い人間であるようにも見えます。

木田先生は、著書の中で、ハイデガーを、『20世紀最大の哲学者』と認めながら、一方『すごいけれども、いやな男』と評しておられます。梅爺などは、『凡人ながら、可愛げのある男』と言ってもらった方が嬉しいのですが、ハイデガーには、そのような考えはなかったのでしょう。

そう考えてみると、『非凡』と『可愛げ』が共存する男(女)の人は、そう沢山はいないような気がしてきました。

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2008年9月11日 (木)

ハイデガーとナチズム(1)

20世紀最大の哲学者と、多くの人が評価するドイツのハイデガーが、ヒトラーのナチズムを初期の段階で支持したことは有名です。誰かの欠点を、見つけて溜飲を下げるのは、凡人の愉しみの一つですので、『偉そうにしているけど、あいつはたいした人間ではない』と言いたくなる気持ちはわかりますが、類稀(たぐいまれ)な頭脳の持ち主と言えども、必ずしも『完璧な人間ではなく、誤謬を犯すことがある』ということも確かなことですので、このことだけで、ハイデガーの哲学における偉業や、彼の全てを否定することはできないように思います。

モーツァルトも、下品な言動は有名ですが、これで、モーツァルトの音楽を否定できないのと似た話です。

勿論、梅爺は、ハイデガーの『過ち』を擁護したり同情したりしているわけではありません。ハイデガーは、ナチズムが、『怪物的な犯罪組織』に成長していくことを『見通せなかった』としても、弁解にはなりませんし、少なくとも、ナチズムには、有名な哲学者(ハイデガー)が『親派』であることを、たくみに宣伝に利用され、ハイデガー自身も『闘う学長』などと呼ばれて、その気になっていたことの『責任』からは、逃れることはできないように思います。繰り返しになりますが、この『責任』と『哲学における偉業』を一緒にして、論ずることは避けるべきだと言っているだけです。

ハイデガーは戦後、ナチズムとの関係については、一切沈黙を貫き通していますので、彼が『誤謬』を認めた上で『弁解』を拒んだのか、本心『誤謬』を認めていなかったのかは、推測するほかありません。

ハイデガーとは比べ物にならない凡人の梅爺は、今までの人生で、数え切れないほどの『結果的に間違いと判明する判断』を繰り返してきました。中には、梅爺が、『間違った』と認識していないものもあるに違いありません。それらの間違いは、少なからず周囲の方々に、何らかの影響を与えてきたにもかかわらず、『我慢』していただいたり、『許容』していただいたりして、こんにちに至っていることを考えると、畏れ入るばかりで、ただただ感謝のほかありません。

自分には落ち度がない、と言わんばかりに、他人を批判する人を見ると、心のどこかに『虚しさ』を感ずることはないのだろうかと、不思議に思うことがあります。

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2008年9月10日 (水)

ティル・オイレンシュピーゲル(3)

伝説では、ティル・オイレンシュピーゲルは、先ず、聖職者に化けて、信者に偽の説教をし、次に、騎士に化けて、美女に求婚しますが、美女にフラれ、人間不信に陥った後に、今度は学者に化けて、デタラメな学説を説いたということになっています。

聖職者、騎士、学者は、確かに、社会的な地位が認められた『職業』ですが、その地位に守られて、『もっともらしく、とりすまして』生きている人物、極端に言えば『偽善者』にも見えないこともありませんので、イタズラ者のティル・オイレンシュピーゲルが、鼻をあかしてやろうと企んだ職業としては、ある意味で、適切な選択であったと言えそうです。

しかし、自分が他人を欺こうとしておきながら、美女にフラれて、『人間不信に陥った』というのは、あまりにも身勝手な話ではないかと、笑ってしまいました。

しかし、ここで梅爺は、ひょっとしてティル・オイレンシュピーゲルは、自分の行為を『面白半分のイタズラ』とは考えていなかったのではないかと、思いつきました。つまり、世の中の通常の人たちの『常識』とは、正反対の『常識』をもっていて、『イタズラをしている』のではなく自分では『当然のことをしている』と、真面目に信じていたのかもしれないと思いつきました。もし、そうなら、美女にフラれて『人間不信に陥った』という表現は、切実な意味を持ってくるからです。

人間は、大人になっていく過程で、世の中の『常識』を、自分の『常識』として受け容れていきますが、中には、それができずに、『個性的な常識』にずっと固執する人が、いてもおかしくはありません。ただし、このような人は、世の中の『常識』に裁かれて、最悪ティル・オイレンシュピーゲルのように、世の中から抹殺されてしまうという悲劇に遭遇することにもなりかねません。

ティル・オイレンシュピーゲルの話は、『愛すべきヤンチャなイタズラ者』では片付けられない、『世の中の常識』とは一体何なのか、という問いを、私達に提示しているのかもしれないと感じました。

私達は、『世の中の常識』に反するという一言で、他人を何の疑いもなく裁いているのかもしれません。

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2008年9月 9日 (火)

ティル・オイレンシュピーゲル(2)

人は何故イタズラをするのかについて、梅爺は今まであまり深く考えたことがありませんでした。梅爺も、学生時代や会社に入って独身寮に住んでいた頃までは、色々『手の込んだイタズラ』を考え、実行していました。『イタズラの天才』『イタズラ・ノオト』などという本を買ってきて愛読していた記憶があります。さすがにそれ以後は、『大人としての品性を疑われないようにする』ことを重視するようになったのか、イタズラは影を潜めました。そのかわり『ジョーク』や『冗談』を頻発するようになり、時折度を越して『軽薄である』とか『辛らつすぎる』と顰蹙を買い続けています。イタズラやジョークは、同じ性質のもので、イタズラのほうは、言葉の遊びだけに終わらず、具体的な行動をともなうところに本質があるように思います。いずれも、『笑い』を誘発することで、楽しさを生み出し、対極になる嫌なこと、苦しいことを緩和したいという、無意識に脳のヒーリング(癒し)を求めているのではないかと思いつきました。

梅爺は、高校時代は男子高校(ごく少数の女生徒が居ましたが、どういうわけか梅爺は3年間一度も、同じクラスにはしてもらえませんでした)でしたので、『イタズラ愛好家』の仲間と、授業中の先生に色々なイタズラをしかけました。勿論、当時の生徒と先生の関係は、最近報道されるような殺伐たるものではなく、イタズラ生徒も、先生への基本的な敬愛の念は、持ち合わせていましたので、イタズラの内容はユーモアの限度を心得たものでした。時には、先生からお目玉も頂戴しましたが、多くの場合は、双方笑って済ますことになりましたので、むしろ、生徒と先生の親密な関係を示すものであったのかもしれません。

イタズラやジョークは、脳のヒーリングを無意識に求めるものである面と、『とりすました人』や、『あまりにも都合よくできている状況』に、『でも、本当は違うのではないですか』と、いいたくなる『反骨精神』が関わっているように思います。『ティル・オイレンシュピーゲル』は、取り澄ました人の代表として『僧職者』『騎士』『学者』を選び、笑い者にしようとした結果、裁判にかけられ、処刑される結果になりました。まさに、『命がけのイタズラ』ということになります。ユーモアを解さず、本気で侮辱されたと思う人には、イタズラやジョークは通用しません。イタズラは、相手をみてしかける必要があります。

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2008年9月 8日 (月)

ティル・オイレンシュピーゲル(1)

日曜日の朝、テレビ朝日放送で放映される『題名のない音楽会』については、新しい司会者の佐渡裕氏の魅力も含め、前にブログに書きました。

http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_ae49.html

この番組で、指揮者の佐渡氏が、ご自分の好きな音楽を紹介するシリーズが始まり、初回はリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』でした。

バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブラームスなどではなく、R・シュトラウスの音楽を取り上げるところに、佐渡氏の音楽観が垣間見えて、面白いと感じました。『ティル・オイレンシュピーゲル』は14世紀の北ドイツに実在したと伝えられる『イタズラの天才』で、今でもドイツ人に愛されているといわれています。『イタズラの内容』は、ドイツ人なら皆が知っているわけですから、『ああ、あの場面だな』とストーリィを追いながら、交響詩を聴くことができるのでしょう。

具体的なストーリィが先に存在していて、それを『言語』ではない『音楽』で表現するわけですから、ある意味で、大変難しい表現力が求められます。多彩な、楽器の音色、旋律、リズムの組み合わせで、具象的な世界を想起させる『面白さ』を佐渡氏は挙げておられました。抽象的な『情念の世界』を音楽で表現するのとは、一味違いますから、指揮者にとっては、通常の音楽とは異なった体験なのかもしれません。

『ティル・オイレンシュピーゲル』が、どのようなイタズラ者であったのか、梅爺は知りませんでしたが、番組内の解説を聞いて、梅爺も親近感を持ちました。彼は、イタズラの度が過ぎて、最後は裁判にかかり処刑されてしまったと伝えられていますので、とても『愉快なイタズラ』とはいえず、むしろ『悲壮なイタズラ』といった方が、近いのかもしれません。

そういう人物が、ドイツ人に愛され続けてきたという事実は、誰の中にも『ティル・オイレンシュピーゲル』の『反骨精神』に共鳴する部分があるからではないかと想像しました。人一倍『反骨精神』が強いといわれている梅爺が、共鳴し、親近感を持つのは当然のことと言えます。

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2008年9月 7日 (日)

ダライ・ラマ(4)

Sさんに送っていただいた『抄訳』の中の、ダライ・ラマの発言の大半には、異論が無いのですが、ひとつだけ、梅爺と考え方が異なっていることがありました。

それは、『(人の)心の持つ基本的な性質は純粋である』という主張です。梅爺も、そう思いたいのはやまやまですが、そう単純には言い切れないと感じています。

ダライ・ラマのこの考え方は、仏教の『全ての人は、自分の中に仏性を秘めている』という考え方に由来していることは承知していますし、このことには異論がありません。他の宗教と(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)仏教の一番の違いは、『自分の外に神(仏教の場合は仏)を想定していない』ことにあります。仏教では、内なる仏性を追求することで、だれもが仏になることができる可能性を認めていますが、他の宗教では、神は神、人間は人間であって、決して人間は神にはなれません。

梅爺が異論を感じたのは、『人には、闘争を好み、戦争に走る遺伝的な傾向があるというのは、科学的に間違っている。そのような遺伝子に、組み込まれているわけではない』とダライ・ラマが述べているところです。異論と言うのは、梅爺が正しくて、ダライ・ラマが間違っているという意味ではありません。どの遺伝子が、人間のどの『性質』に関わっているかは、『分かっていない』というのが実情ですので、現時点では『推測』するしかありません。

梅爺も、人間は闘争を好まない存在であると信じたいところですが、『人には、自分に不都合な状況(身の危険が脅かされる、名誉が毀損されるなど)では、それを強いるものを闘ってでも排除しようとする生物的な本能がある』と考えています。闘争や戦争は目的ではなく、その手段になります。勿論、理性を欠いた、ただ欲望や自分の主義主張のために、邪魔者を排除するという、ひどいことも起こりますが、これも程度が低いとは言え『自分の欲望を果たせないのは不都合だ、自分の主義主張以外は有害だ』と自分勝手な理論で考えた結果といえないことはありません。

『人は本来清らかな存在』であって欲しいと願いますが、『清らか』だけではすまされない一面も具備していると考えた方が現実的のように思います。これは、生物の進化の過程を経て現在に達している人間の宿命ともいえるものです。闘争本能がなければ、スポーツやオリンピックに、人間はこれほど熱中するはずがありません。親鸞が自らを『非僧非俗』と認めているように、『清らかであって、清らかでない』という矛盾したところが、人間の『摩訶不思議なところ』で、だからこそ、『清らかでありたい』と願うことに重要な意味があるように感じます。自分を『清らかなもの』と想定すると、清らかな自分を汚す、『邪悪なるもの』や『悪魔』が、神同様、自分の外に存在するという、誰かのせいにする主張になってしまいます。

ダライ・ラマがチベットの人々の心の支えであることは、すばらしいことと思いますが、政治と宗教が分離されている国際社会の中で、政治的なリーダーの役も担うことには、多くの無理や困難がともなうことでしょう。政治は、その本質上、宗教の精神的価値観だけでは律することができない、いわば『権謀術数』『かけひき』の場であるからです。

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2008年9月 6日 (土)

ダライ・ラマ(3)

『「強い憎しみは国益にとって良いことだ」という人がいる。これは非常にネガティヴな考え方だと私は思う。非常に視野の狭い考え方だ。このような盲信に対抗することが、非暴力と相互理解の精神の基礎である。‘敵’は忍耐を養うために必須の条件である。‘敵’の行為がなければ忍耐の機会は失われる。友はそのような機会をもたらさない。違った見方はしなやかな心によって培われる。しなやかな心もたらす恩恵は、人生のさまざまな生き方を肯定することである。怒りや憎しみを取り除くために、忍耐や寛容を養うことが必須である。富や教育や法律では、怒りや憎しみから自由になることは難しい』

『忍耐と寛容』は、生物の中で、理性が発達した『人間』にだけ与えられている資質であることを思えば、これを最大限に活用しない手は無いと梅爺も思います。徳川家康も『堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え』と同じように諭しています。頭では理解できることですが、あらゆる場合に、忍耐と寛容で、お前は対応できるのかと問われれば、自信がありません。

『自信と傲慢とを区別するのは容易ではない。正直であることと自己確信とは密接に関係していると自分は考える』

梅爺の発言は、友人から『いわれのない自信』とからかわれていますが、本当は『正直をベースとした自己確信』なのだと、都合よくダライ・ラマの言葉を解釈しました。

『仏教の僧侶として、仏教が最適な宗教だと思う。しかし私がそう思うからと言って、仏教がすべての人に最適であるという意味では全くない。それは明らかなことであり、決定的なことだ。すべての人にとって仏教が最適だと私が思うとしたら、それは全く愚かなことだ』

ダライ・ラマの発言の中で、もっともすばらしいものではないでしょうか。他の宗教の神官や僧職者は、『唯一絶対なる神』に仕える手前、少なくとも公に、このような発言はできないのであろうと、推測しました。

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2008年9月 5日 (金)

ダライ・ラマ(2)

『我々の行動が健全であるか、不健全であるかは、我々の行動あるいは欲求が、規律ある心から発せられたかどうかにかかっている。伝統的には、宗教が我々の振る舞いが健全であるかないかの基準を決めていた。しかし今日の社会では、宗教はそのような特権を失うと共に、宗教に代わるもの、たとえば世俗的倫理なども、宗教を置き換えるに至っていない』

宗教が特権を失った背景には、宗教側の問題(冠婚葬祭を収入源とする世俗化など)と、人々が科学的な知識を持ち始めたこと、社会が実利を求める価値観に変わってしまったことなどがあるのでしょう。それでも、何が正しいかは、『知る(理で判断する)』ことよりむしろ『感ずる(情による直感で)』ことが重要と梅爺は思いますので、世俗倫理が宗教の代役にはなり難いという主張には同感です。道徳教育は無駄とは思いませんが、あまり効果は期待できないのではないでしょうか。

『同情(Compassion)はおおまかにいえば、非暴力的で、害を加えない、攻撃的でない心の状態と定義される。他人が不幸から自由になることを望み、他人を尊敬することを基盤とする心の持ち方である。同情には2種類あり、それを混同してはならない。1つは、愛など付属物を伴う同情であり、もう1つは、それらを伴わない本来的なものである。同情を育むためには、あなた自身が苦痛を望まず、幸せになる権利を持っていることを認識することだ。そうすれば、他の人もあなたと同様、苦痛を望まず、幸せになる権利を持っていることが分かるだろう』

梅爺が何回もブログに書いてきた、『Emotional intelligennce』の真髄はこのことなので、意を強くしました。『Emotional Intelligennce』は『Intellectual Intelligence』のように遺伝子に支配される比率が少なく、誰もが幼児期の『情育』によって、はぐくまれることが、脳生理学や、教育心理学の研究で分かってきたからです。親や周囲の幼児期の対応が、大きくその人の人生に関わるかという重要なテーマです。

『私が人生は本質的に満足のいかないものであるという(発言する)のは、仏教思想に基づくものであることを理解してほしい。苦痛がこの仏教の文脈で正しく理解されない限り、悲観的でネガティヴな考え方と誤解される危険がある。苦痛や苦悩はすべての人が経験するものであるが、私は東洋文化の下で育った人の方が、受け入れやすく耐えられる人が多いと常々感じている。それには信条の問題もあるが、貧しい国では苦痛がありふれていることにも関係しているだろう』

徳川家康も、『不自由を常と思えば不足なし』と家訓で述べていますから、確かに東洋人には、受け容れやすい考え方ですが、最近の日本人には『自分が不自由なのは、誰かのせい』という論調や『欲のためなら手段を選ばず』という行為が横行していますので、東洋人であるからといって自慢はできません。100年前にフランスへ留学した梅爺の祖父が、当時のフランス社会をみて、『文明は人間をダメにする』と感じ、日本の将来を案じていると日記に書いていることを思い出しました。

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2008年9月 4日 (木)

ダライ・ラマ(1)

梅爺の大学男声合唱団同期生で、碩学、読書家のSさんは、最近関西の堺へ引っ越されましたので、今までのように、爺さん合唱団の練習で、毎週お会いすることはできなくなりましたが、インターネットのメイルを利用して、毎週『爺さん論争』のタネを、仲間に送ってくださいますので、お互いの『健在』を確認でき、おかげで心が疎遠になることはありません。

今回は、『The Art of Happiness (Dalai Lama & H.C.Cutler)』という英語の本を読まれて、その抄訳(Sさんご自身の)を送ってくださいました。A4で6ページにもなる労作です。

タイトルを日本語に訳せば、『幸福を得るには』というようなところでしょうか。多分Cutler氏が、ダライ・ラマへインタビューを行い、その内容を本にしたものと思います。Cutler氏が、どのよう背景をお持ちの方なのか、梅爺は存じません。

Sさんの抄訳を読んだけで、自分も全部読んだような生意気なことを言うことをお許しいただければ、ダライ・ラマが、極めて卓越した仏教の高僧であることを再確認できました。その発言の大半に、梅爺は違和感を覚えません。外国人の読者を想定した発言であることを、差し引いても、自然体で正直な『もの言い』に感心してしまいます。例えば、目下最も深刻な渦中にある『チベット問題』も、こういう事態になった責任は、中国だけではなく、チベット国民にもある(数世代にわたって怠慢であった)と述べています。チベットの同胞が、この発言をどう理解するのかも気になりますが、こういうリーダーと折衝しなければならない中国も、厄介に違いありません。オリンピックで中国の国威を世界に示せたと、ご満悦な中国の政治指導者たちには、『異星人』にも見える、理解しがたい存在なのではないでしょうか。

Sさんの『抄訳』のなかで、梅爺が特に、興味をもった発言内容を、いくつかご紹介したいと思います。原典の『孫引き』のようなもので、恐縮ですが、これもお許しいただきたいと思います。

『私は人生の目標は、まさに幸福の追求であると信じている。これは明らかだ。人に信仰があろうとなかろうと、人がいかなる宗教を信じようと、我々はみんな人生においてよりよいことを求めている。だから人生は幸福へ向かっての行動だと信じている。幸福というものは、財産があるとか、成功したとかいう、外的なことがらよりは、心の状態によって左右される。我々の心の持ち方が、富、地位、あるいは健康すらもしのぐ、幸福に到達する早道である。もう一つの幸福の源は、心の内なる満足感、すなわち自分が価値あるものであると感じることである。』

梅爺には、極めて『当たり前』のように思えることですが、このようにズバリといっていただくと反ってズシンと響きます。『当たり前』と思いながら、今でも財産や成功への執着から逃れられない(年金爺さんになった現在はともかく、仕事の現役時代には)自分の中の弱さを感じてしまうからです。頭で理解することと、自分の実態の乖離を理解しないと、どんな高僧の説話も知識の一片として、単なる『絵空事(えそらごと)』になってしまいます。

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2008年9月 3日 (水)

子は三界の首枷

江戸いろはカルタの『こ』、『子は三界(さんがい)の首枷(くびっかせ)』の話です。

『三界(さんがい)』などという、仏教の難しい言葉が、庶民の日常生活で通用していたことに驚きます。『三界』は、『欲界』『色界』『無色界』のことで、『欲』は、淫欲と食欲、『色(しき)』は、物理的条件を意味します。梅爺のような凡夫(ぼんぷ)は、生死を繰り返すことで、この『三界』を繰り返し体験するという『輪廻(りんね)』の思想です。お釈迦様は、凡夫ではありませんので、生きながらにしてこの『輪廻』から解脱(げだつ)したと言われています。

普通の人間が生きている間は『欲界』に属していますので、庶民は『三界』という言葉を、『自分が所属しているこの世界全般』と理解していたように推測できます。『三界は安きことなく、なお、火宅のごとし』とか『三界に家なし』とか言われますので、生きていることは、すなわち悩み苦しむことで、安住の地はないと考えられていたのでしょう。

従って、『子は三界の首枷』は、『子供は、親が生きている限り、親の重荷になる』というような意味であろうと思います。転じて『他のことには理性が働く親も、こと子供のことになると理性を失いがちである』という意味にもとれます。チヤホヤ育てた『つけ』で、親が苦境に立つ例は、有名な女優の息子が、麻薬の世界から抜け切れないなどといった事件を含め、身近に沢山あります。一方、『子供は親の所有物』という概念から逃れられず、思い通りに子供を制御しようとして悲劇を招く例も後を絶ちません。

しかし、老人ばかりが増えてしまった現代の日本では、介護、養護の負担が子供にのしかかりますから、むしろ子供が『親は三界の首枷』と言いたくなるのではないでしょうか。『三界』は、親にとっても、子供にとっても、悩み苦しみに満ちた世界であることがわかります。

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2008年9月 2日 (火)

木田元先生の『反哲学入門』(7)

どのような学問でも、新しい概念に遭遇すると、定義をしたうえで新しい『名前(言葉)』を付与することになります。哲学も例外ではないことは理解できますが、それにしても哲学で使われる『言葉(名前)』や文章表現は、どうしてこうも難しい必要があるのかと、基礎知識に乏しい梅爺は、考えてしまいます。まるで、『素人さんお断り』と言っているような感じを受けます。

さも、もったいをつけて『易しい話』を、ことさら『難しい話』のように見せかけるのも、困りものですが、『難しい話』を難しく表現されては、普通の人はとてもついていけません。本当に分かっている人が、『難しい話』を易しく説明してくれるのは、ありがたい話で、『反哲学入門』は、それに相当します。

この本は、口述内容を文章にしていますので、分かりやすいのですが、その分、『ややこしい話を避けようとして、四角の部屋を丸く掃いているような欠点がある』と、木田先生ご自身が、『あとがき』で述べておられます。

しかし、梅爺のような初心者には、この程度の内容で十分です。初心者にとっては、対象に興味が持てるかどうかが重要で、一度興味を持ったものには、今後、更に難しい内容に出会っても、めげずに、なんとか理解しようと努力するにちがいないからです。最初に『門前払い』をくらい、興味が持てなかったことには、人はよほどのことがない限り、二度と挑戦しないものです。

この本を読んで、梅爺の最大の収穫は、著名な哲学者(ソクラテス、プラトン、アリストテレス、トマス・アクィナス、デカルト、カント、ニーチェ、ハイデガーなどなど)が、『何を主張したのか』の概要が理解できたことと、『ニーチェ以前の哲学(プラトンを源流とする超自然的原理を基盤とする)』と『ニーチェ以後の哲学(超自然的原理を否定する)』の大きな違いを理解できたことです。

哲学に造詣が深い方からは、『今頃、そんなことがようやく理解できたのか』と笑われそうですが、梅爺にとっては、『大変な前進』です。しかし、このまま『哲学病』にかかり、『哲学爺さん』の道をまっしぐらに、走ることは無さそうな気配なので、我ながら一安心しているところです。

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2008年9月 1日 (月)

木田元先生の『反哲学入門』(6)

中央大学の名誉教授であられる木田先生が、『反哲学』とおっしゃるのは、勿論、ご自分が取り組んでこられた『哲学』の世界に、『決別』しようという意味ではありません。近世まで、ヨーロッパの哲学の主流であった、プラトンの『超自然的原理』に基づく考え方に反論する、ニーチェのような人が出現して『反プラトニズム』『反哲学』の概念が確立しました。ニーチェの、『キリスト教は、庶民のためのプラトニズムである』とか『神は死んだ』とかいう言葉は有名です。従って、ニーチェ以前の哲学と、その後の考え方とを一線上で論ずることは無理があり、別なものと考えた方が分かりやすいと、木田先生は述べておられます。

日本人である木田先生の感性では、どちらかといえば、自然を無機質な素材と見るような『超自然的原理』より、ニーチェのような考え方の方が受け容れ易いという意味が『反哲学入門』に込められているのだと、梅爺は理解しました。勿論、読者に『できれば哲学などに深入りしない方が良いですよ』と諭しておられるところもあるのでしょう。

ギリシャ語やラテン語で原書を読み、プラトニズムにも精通しておられる木田先生であるからこそ『反哲学』という言葉に重みがあります。日本の知識人や哲学者は、西欧に対する劣等感と、それの裏返しの日本の庶民に対する優越感があって、分かっていないものを無理に翻訳したりするために、日本語に翻訳された哲学書を読んでも、理解が難しいと、木田先生は言っておられます。梅爺は、いまからギリシャ語、ラテン語の習得をする元気がありませんから、木田先生の本を読んで、『哲学』のごく上っ面に触れる程度が関の山であると思い知りました。

ニーチェは、『知』より『意志・意欲』が優先すると言っています。この『意志・意欲』は高尚な意味ではなく、人間が環境に適応して生きていくための『衝動』のようなものですので、梅爺流に、荒っぽく言ってしまえば、『情が理に優先する』となり、異論なく受け入れられます。科学で獲得した『理』のようなものを除いて、大半の『理』は、その時々の環境に応じて認識されるもので、絶対的なものではないという危うさが付きまとうことになります。敗戦を契機に、『鬼畜米英の軍国主義』から『欧米崇拝の民主主義』に、変わった日本が、将来環境が変われば、また主義を変える可能性もあるように感じます。

人は、自分にとって都合の良いものを、あたかも絶対的な『理』と認識して生きていることになり、屁理屈のかたまりのような梅爺は、その『典型』であるような気がしてきました。大学時代の友人から、梅爺の言動は『いわれのない自信』と評されていますが、まことに『言いえて妙』と畏れ入るばかりです。

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