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2008年7月31日 (木)

超ひも理論(5)

『陽子と中性子で構成される原子核の周りを電子が回っている』のが、物質を構成する原子構造であると、梅爺は学校で習いましたが、その後、陽子や中性子は『クォーク』と呼ばれる更に微細な一連の粒子で構成されることが判明し、今度は、その『クォーク』は、実は『ひも』と呼ばれる『究極の物質構成要素』が、エネルギーの場で振動している形態に他ならないらしいと分かってきたことになります。勿論、人間が目で確認できるような世界ではありませんから、『そう考えれば矛盾がない』という数学や物理法則を駆使した論理思考による帰結です。

『ひも』は、その名のとおり、『うなぎ』のような形状であったり、『輪ゴム』のような形状であったりすると考えられています。

宇宙のはじめは、『何もない真空状態』であったと説明されると驚きますが、『何もない』のではなく、巨大なエネルギーの場は存在していたことになります。何かの拍子に、エネルギーの振動で、一部が変換されて、質量をもつ『クォーク』(ひもが振動している形態)が出現し、ビッグバンが起こったというシナリオです。やがて、『クォーク』は、元素を作り出し、宇宙は膨張を開始します。地球上に生息する生物は、すべて元素で構成されているわけですから、ビッグバンが起きなければ、地球はもとより、地球の生物も存在しなかったことになります。

最初の『巨大なエネルギーの場』は、そもそもどうして存在したのかと、無学な梅爺は疑問を持ちましたが、この本には、それについては触れていません。物理学者には自明なことなのかもしれませんが、大変興味がわきます。

科学知識を持たなかった大昔の人間が、『神による天地創造』というような神話を考え出したのは、無理からぬことですが、現実は、『愛』や『希望』や『喜び』や『悲しみ』などといった、人間の思惑や情念などは、介入する余地のない単なる物理現象として宇宙はつくりだされたことになります。なんとも夢のない話になりますが、『夢』も人間の主観的な概念ですから、宇宙に『夢』を求めること自体が、お門違いということになのでしょう。『宇宙は人間のために創られた』という発想自体が、不遜のような気がします。

繰り返しで恐縮ですが、星空や夕焼けを見て、人間が感動することが、ばかげていると梅爺は言っているのではありません。人間にとって感動することは尊い行為ですが、あくまでも主観的な対応であって、何故感動するのかは、人間を究明しなければ分からないことです。そのことは、宇宙や自然の究明とは無関係であることを、理解しておく必要がありそうだと言いたいだけです。

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2008年7月30日 (水)

超ひも理論(4)

昨日は、『人間が創りだしたもの』のうち、『抽象概念』や『情念』に重きをおいて書きましたが、『人間が創りだしたもの』には、自然界には存在しない自動車やコンピュータといった具象的なものもあります。これらの多くは、『科学の知識』を応用しているものが多く、当然創りだすプロセスでは『理詰め』の考え方が重要視されます。従って、人間の思考対象の内、何が『理詰め』の対象で、何が『理詰め』だけでは対応できないかを、区別することが大切になります。

梅爺は、理科系の人間で、コンピュータの仕事に携わってきたというだけで、『理詰め』一辺倒の人間のように、思われることがありますが、梅爺も、一人の人間である以上、勿論そのようなことはありません。逆に、文科系の人間であるから、『理詰め』は苦手と回避しても、人は生きていけません。人間が、すばらしく魅力的であるのは、『理詰めの部分』と『理詰めでない部分』を、同時に持ち合わせているからではないでしょうか。

『超ひも理論』の話が、大分逸れてしまいましたが、『はじめての<超ひも理論>』という本は、難解なパズルを解くように、これでもか、これでもかと『理詰め』の説明が続きます。まさしく、論理をたどって矛盾のない事象を見つけようと追いかけると、想像もしていなかった世界が見えてくるという典型的な事例です。従来の理論では、宇宙に存在する4つの力、『重力』『電磁力』『弱い力の相互作用(中性子のベータ崩壊現象などで知られる力)』『強い力の相互作用(クォーク間に働く力)』の内、『重力』だけは他の力と統一的に記述できませんでしたが、『超ひも理論』は、全ての力を統一的に記述できそうだということで、世界中の学者が、解を求めて、しのぎを削っていることが分かりました。行列模型を利用した計算方法が有力と目されています。アインシュタインも湯川秀樹も、生前には到達できなかった領域へ科学は進もうとしているわけですから、ここ100年で、文字通り人類の『宇宙観』は、大きく変わろうとしてしていることになります。

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2008年7月29日 (火)

超ひも理論(3)

生命の始まりや宇宙の始まりに関する本を読んで、あらためて感じるのは、『科学』は、論理だけが説得性をち、人間の『好き、嫌い』といった情念が入り込む余地のない世界であるということです。

このような『理詰め』一辺倒な姿勢を、人間の行動や人間が作り出している社会の事象にまで持ち込むのは、勘弁して欲しいとおっしゃる方が、梅爺の周辺にも沢山おられ、梅爺も、『それは、そのとおり』と考えています。しかし、逆に言えば、『科学』の世界に、『理詰め』以外の考え方を持ち込むのもマチガイであると言えます。

『人間が単細胞生物から進化した』とか『宇宙は「ひも」が膨張してできた』とかいう話は、『嫌いであるから信じない』と言ってみても、始まりません。どうしても嫌なら、『理詰め』で『そうではない』と反論するしかありません。

世の中は、『自然が創りだしたもの』と『人間が創りだしたもの』で構成されていることに気づきます。星空や夕焼けや花々は、『自然が創りだしたもの』で、摂理に基づいて『そこに存在するだけ』であって、人間のために存在しているわけではありません。一方、星空や夕焼けや花々を見て、人間が『美しい』と感ずる『抽象的な情念』は、『人間が創りだしたもの』で、星空や夕焼けや花々にとっては、関係のない『ありがた迷惑』な話かもしれません。

人間の歴史は、宇宙の歴史にくらべれば『瞬間』にも等しい短いもので、その中で人間が獲得した『抽象的な情念の処理能力』の歴史も、これまた極めて短いことが分かります。『抽象的な情念の処理能力』といった『人間が創りだしたもの』は、人間が存在していてはじめて意味があるものですから、人間が存在していなかった宇宙の大半の歴史の期間は、『存在していなかった』ことになります。

つまり、人間の脳が生み出す『愛』とか『希望』とかいう『抽象概念』や、『嬉しい』『悲しい』『虚しい』などという『情念』をの多くは、人間にとっては、大変意味があるものであるにせよ、『自然が創りだしたもの』の世界にまで拡張して、それが普遍的に通用するものであると考えるのは無理がありそうです。

梅爺は、人間が獲得した『抽象概念』や『情念』は、無意味なことと言っているわけではありません。人間が生きていくうえで、大切なものであり、『信仰』や『恋愛』などといった、現在の『科学』では律することができない世界を保有していることには、重大な意味があると感じています。ただし、『抽象概念』や『情念』は神聖な領域であり、科学の対象にならないとは思いません。あくまでも、現状の科学では、説明する糸口が見付かっていないと認識することが重要と考えています。

一方、人間は、その持てる『論理思考能力』を駆使して、自然の摂理の真髄に迫ろうとします。『科学』はそれであって、この世界は、『情念』は無縁なものと切り分けて考えればよいと、梅爺は考えています。そう思ってみてみると、『科学』に『情念』を持ち込もうとしたり、『情念』に中途半端な『科学』をもちこもうとしたり、世の中は、ごっちゃになっていることが多いようにも思えてきました。

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2008年7月28日 (月)

超ひも理論(2)

地球上の生命の始まりに関する、最新科学の『定説』は、私達の常識的な感覚からは、思いもよらない内容です。なにしろ、数十億年昔に、メタンガス生成菌のような古細菌が、ミトコンドリアの祖先の細菌を呑み込んだことで、全ての動物、植物の共通祖先が出現したというのですから。『講釈師、見て来た様な嘘をつき』という諺がありますので、『そんな誰も見たことがない昔の話は信じられない』といいたくなりますが、先端の生物分子学などの研究成果は、『定説』が最も論理矛盾のないシナリオであることを示しています。

同じように、宇宙の始まりに関する最新科学の『定説』も、私達の常識的な感覚からは、思いもよらない内容です。137億年前に、ものの最小にして究極の構成単位である『ひも』から、宇宙は突然生まれたというのですから。梅爺が学校で勉強をしていた頃は、アインシュタインの『時空の歪み』理論や、量子力学の難解な理論に驚いていたわけですから、その後勉強を怠っている間に、『超ひも理論』という、従来の理論を越えた『学説』が出現し、それが現在の主流になっていたというわけです。

勿論、その間、『クォーク』やら『超ひも理論』という言葉が出現していることは、梅爺も知っていましたが、『はじめての<超ひも理論>』という本を読んで、十分ではないにしろ、それらが何を意味するのかが、ボンヤリ理解できました。この分野の学問は、先端の数学を道具として駆使した、『論理』の世界ですから、到底梅爺の能力では、『詳細に理解』することは、不可能ですので、頭の良い科学者が、追求している概要を、なんとなく理解したような気がする、というのがホンネです。

それにしてもプランクの長さといわれる、究極の長さの単位(1X10マイナス33乗メートル)から、『ビッグバン』を起点として膨張が始まり、現在の広大な宇宙ができ、今も膨張が続いているという話よりは、『神が天地を創造した』という説明の方が、まだ分かりやすいといえるほど、想像を絶するものです。

『ビッグバン』から、約3分後には、宇宙の物体を構成している『元素』類が出現し始め、4万9000年後に、現在の宇宙の原型ができた(宇宙の晴れ上がりと呼ばれる)と考えられています。地球の年齢は46億年といわれていますので、地球は『ビッグバン』の93億年後に生まれ、それから、数億年後に『生物』が、地球上に出現したという順序になります。現生人類という生物種にいたっては、まだ20万年程度の歴史しか持たないわけですから、宇宙の歴史の中では、『瞬間』ともいえる期間しか存在していないことになります。

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2008年7月27日 (日)

超ひも理論(1)

梅爺が学校で習った生物の知識は、間違いではないにせよ、今や古典的な知識になってしまっていることを、ミトコンドリアに関する本を読んで痛感しました。この分野の科学は、ここ40~50年で、画期的な進展をしており、その間梅爺が、自分で勉強をする努力を怠ってきたという、恥ずかしい話に過ぎないのですが、語学などのように、『学校で学んだことは、いつまでも通用する』と勘違いしていたことにも起因しています。

梅爺が科学の最新知識を獲得したからといって、世の中が変わるわけでもなく、自己満足であることは承知していますが、梅爺個人にとっては、自己満足は重要な意味があり、少なくとも『脳の論理回路』の見直しが行われることで、ボケ防止には貢献しているに違いないと勝手に想像しています。

人は、自分が知っていることを、他人が知らないことに気づいた時に、優越感から、つい『そんなことも知らないのか』などと言ってしまう不遜なところがありますが、人の関心事は、それぞれに異なっていますから、自分を標準に他人を律することは、大変危険なことであることが分かります。他人から見れば梅爺に『そんなことも知らないのか』と言いたくなることが、沢山あるにちがいありません。

梅爺は、新しい体験をしたり、テレビの番組を観たり、本や新聞を読んだりして、新しい知識を得たときに、ブログに書いていますが、これは、知識をひけらかすためではなく、知識を得たときに感じた自分の心象や感動を、書き残そうと考えているだけです。その心象や感動を、他人に強要するつもりはありません。従って『変な爺さんが、変なことに興味を持って、変なことを言っている』と受け止められることがあるのは当然と理解しています。

ミトコンドリアに関する本を読んで、『生命のはじまりと進化』についての梅爺の知識は大分増えました。梅爺にとって依然晴れない疑念は、『DNAのような情報処理に類するしくみを、生物が進化の過程で偶然獲得した』というのは『本当かなぁ』ということです。偶然にしては、あまりに見事な『しくみ』に見えるからです。勝手にそう『感じている』だけですので、そのうちに梅爺が納得する説明が出現するのを期待しています。

『宇宙のはじまり』に関する梅爺の知識も、今や古典的なものに違いないと思い立ち、『はじめての<超ひも理論>』(川合光著:講談社現代新書)という本を読み始めました。

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2008年7月26日 (土)

ジーザス・クライスト・スーパースター(5)

この映画は、キリストの十字架上の死で終わっており、その後の『復活』や『昇天』には触れていません。

従って、この映画とは関係がありませんが、梅爺は、その後の『キリスト教の布教や教義の確立過程』については興味があり、また、腑に落ちないこともあります。

キリストの死後、使徒たちが、身の危険もかえりみず、異民族にまで布教しようと命をかけたのは何故か、というのも疑問の一つです。生前のキリストの活動は、『ユダヤ人』『ユダヤ教』の枠を逸脱しない範囲であったように見えますが、パウロのように、生前のキリストとは一面識もなく、キリスト教徒を最初は弾圧する側であった人間が、後に突如異民族への布教の先頭に立つようになったのは何故かというのも不思議です(聖書では、ダマスカスへ向かう途上、キリストの『姿』が現れ、啓示を受けたとされています)。『枠』を越える必然的な理由があったにしても、考えようによっては、布教に命を懸けた使徒たちの行動こそが最大の『奇跡』といえるのかもしれません。パウロが居なければ、今日の『ローマン・カトリック』は存在しなかったのですから。

もう一つの疑問は、これほど『世界布教』を果たしたキリスト教が、何故キリストの母国ユダヤでは、受け容れられなかったのかということです。つまり、今でも多くのユダヤ人は、キリスト教ではなくユダヤ教を信奉しているのは何故かということです。

ユダヤ人であるキリストが、生前『神』と認めていたものは、ユダヤ人(ユダヤ教)の『神(エホバまたはヤーウェ)』であったはず(梅爺の想像)ですが、これをキリストの死後使徒達が『他民族の神』にまで格上げすることに、ユダヤ人は抵抗してきたのでしょうか。『エホバはユダヤ人だけの神』にこだわっているのでしょうか。

現代のキリスト教の『教義』が固まるまでには、幾多の議論や衝突があったことは、歴史が示しています。それらの議論や衝突(時には血なまぐさい弾圧)は、『人間達』が行ってきたことを理解しておく必要があるのではないでしょうか。『正統』を確立するために、人間は、権力を利用したり、策略をめぐらしたりしてきました。たまたま抗争に勝ちを収めたものが『正統』であり、敗北したものが『異端』ですので、何が本当の『正統』かは、誰にも分かりません。勿論、梅爺にも分かりません。

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2008年7月25日 (金)

ジーザス・クライスト・スーパースター(4)

この映画のキリストと並ぶ主人公がユダです。ユダは現世の栄達を求める『先の読める人間』として描かれます。キリストを利用し、自分も名声を得ようと従いますが、キリストがこのまま行動を続ければ、『体制側に殺される』ことをいち早く察知します。キリストに『自重するように』進言しますが冷たく退けられ、保身のために金でキリストの居場所に関する情報を、体制側(大司教カヤバ、ローマ軍)に売ります。

しかし、十字架の処刑の後、生前のキリストの言動を思い起こすと、『キリストの死』は『神の意図』であり、『神の意図』の実現のために、『自分が神によって利用された(キリストもそれを知っての上で)』ことに気付きます。ユダは、絶望のあまり、もらった金を投げ捨て、神を呪い、首を吊って自殺します。キリスト教に関する歴史学者の中には、『十字架の死』と『ユダの裏切り』は、キリスト教成立に双方必須であり、キリストもユダも、それを『神の意図』として、予め知っていた(ユダは承知の上で裏切り者を演じた)と主張する人もいます。

この映画では、ユダは、キリストを裏切った悪人という単純な評価ではなく、人間が誰しももつ現世欲と、それでいながら神を否定しきれない心を持ち合わせていることを暗示する役目として、描かれているように感じました。この映画を観た多くの人は、ユダに親近感を抱くのではないでしょうか。

ユダも、マグダラのマリヤも、キリストを『普通の男として見ようとするけれども、何か内に秘めた恐ろしいものを感じて怖くなる』と、このミュージカルの有名な『アリア』で歌います。

『普通の人間に見えて、普通の人間ではない。一体キリストは何者なのだろう』と問いかけることが、この映画のテーマであるように思います。勿論、『正しい答』はありませんので、各人が、自分で考えるしかありません。

ミュージカルや映画というような、商業主義の手段で、このようなテーマを扱うことの良し悪しも、人によって評価が大きく異なるのも当然なことでしょう。少なくともミュージカルは成功を収め、この映画も興行的に失敗したとは聞いていませんので、多くの人が『キリスト』か『ロック音楽』か、少なくともどちらかに興味を抱いて、劇場か映画館に出向いたことは確かです。

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2008年7月24日 (木)

ジーザス・クライスト・スーパースター(3)

この映画のキリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けたときに、『神の啓示』を受け、以後3年間、『神の教え』を説いてまわった『人間』として描かれています。民衆が『救世主』として受け容れようとする熱気が高まるにつれて、その存在を利用して、自分も有名になろうという人間も現れます。その小賢しい人物の代表としてユダが登場します。マグダラのマリヤは、通説の通り『娼婦』であったことになっていますが、純真にキリストを受け容れようとした女性として描かれ、ペテロは、純朴ながら凡庸な人物として描かれています。

キリストは、自分の死が『神の意図』であることを知りますが、その『死の意味』が理解できずに、最後の7日間、悩み続けます。ゲッセマネの園で、神に『死の意味』を教えて欲しいと祈り、請いますが、神からの『説明』はありません。最後に十字架の上で、『それが神の意図なら、身を委(ゆだ)ねます』と言って息を引き取ります。これらは、聖書に書かれている話ですが、キリストが『神の子』であるにも関わらず、『死の意味』を真に理解せずに死んだことになりますので、むしろキリストが『神の啓示を受け、それに絶対的に従った人間』であった、と考える方が自然に思えます。

この映画の中で、キリストは一度も自分が『神の子』であり、『真のユダヤ王』であるなどと言っていません。むしろ、『否定すれば、命は助ける』とピラトに尋問時に言われても、沈黙を守ったために、死刑になるというストーリィになっています。『精神世界』を『現世の法』で裁こうとすることの無意味さを、キリストは知っていたからでしょう。

この映画では、キリストは『奇跡』も起こしていません。病気を治して欲しいと詰め掛ける病人の群れに、『自分にはそのような霊の力は、もはやない』と答えています。この映画の制作者は、『神の啓示を受けた人間』として、キリストを描こうとしていることが分かります。

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2008年7月23日 (水)

ジーザス・クライスト・スーパースター(2)

キリストが、何故1世紀初頭のユダヤに出現したかについては、当時のユダヤが政治的にどのような状態であったかということと、深く関わっているように思います。歴史学者の論ずる領域ですが、梅爺の少ない知識では、以下のように想像できます。

ローマ帝国の支配下(植民地)にあり、実質的な最高権力者は、ローマから派遣されていた総督ポンティオ・ピラトである。しかし、したたかな植民地政策で有名なローマ帝国の方針で、族長(ユダヤ王ヘロデ)の形式的な存在は認められており、土俗の宗教(ユダヤ教)も認められていた。換言すれば、族長や土俗の宗教の存続は、ローマ帝国におもねる形で、許されていた。ローマ帝国は、経済的な利益が第一の目的なので、税や農作物の搾取はあったにせよ、民衆の反乱があっては、元も子もないので、ひどい圧政を強いていたとはいえない。現在の中国のチベット支配の方がむしろ強硬ではないかと思われる。ユダヤ人の中に渦巻いていた不満は、むしろ民族の自尊心が傷つけられていることであった。ユダヤ人の中には、民族を救うために旧約聖書に予言されている『救世主(メシア)』の出現を期待する気持ちが根強くあり、丁度そのときに、『神の啓示を受け、神の国の教えを説き、病人を癒すこともできるキリスト』が出現し、民衆は『真のユダヤの王』『神の子』『救世主』が出現したと、熱狂的に受け容れ始めた。

梅爺の誤解が少しはあるにせよ、大雑把には上に書いたような状況ではなかったかと想像しています。ダライ・ラマが中国政府から目障りなように、キリストは、ローマ帝国および、それにおもねる体制(ユダヤの族長、ユダヤ教)からみると、『許しがたい存在』であり、これが『キリストの十字架の処刑』へとつながっていくことになります。実質的な罪状のないキリストを処刑するには『反逆罪』しかありません。『反逆罪』は、問答無用で権力側が使う便法で、現在でも、地球のどこかで利用され続けていることは、ご承知のとおりです。

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2008年7月22日 (火)

ジーザス・クライスト・スーパースター(1)

NHKBS第二放送で、放映された映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』を録画しておき観ました。有名な、ニューヨーク・ブロードウェイのミュージカルを映画化した、1971年のアメリカ映画です。

イエス・キリストの最後の7日間の『苦悩』をテーマにしたロック・ミュージカルを忠実に映画化したもので、全編がロック音楽とその歌詞で構成されており、いわゆる台詞(せりふ)は一切ありません。

聖書の世界を、よりによってロック・ミュージックだけで表現しようという発想が、そもそも前衛的ですが、荒れ野に組まれた撮影用のセットのデザインも前衛的で、その上、ジェット機が空を飛んだり、戦車が砂を舞い上げて走ったりしますので、人によっては、それだけで拒否反応を示すかもしれません。衣装も概して前衛的なデザインですが、キリストとマグダラのマリアは、古典的な聖画に近い衣装で登場します。梅爺は、『斬新な表現方法』として、あまり抵抗なくそれらは受け容れ、むしろ、イエス・キリスト、ユダ、マグダラのマリア、大司教(ユダヤ教)カヤバ、ローマ総督ポンティオ・ピラトといった、主要登場人物が、どのようなキャラクターとして描かれるのかに興味をもって観ました。

前衛的な演出を抜きに観ると、この映画は、ほぼ忠実に聖書に書かれているストーリィを再現しています。しかし、本当の制作者の意図は、『キリストは一体何者だったのだろう』『何故ローマ帝国支配下のユダヤに出現したのだろう』『何故十字架にかかって死ななければならなかったのだろう』『現代の我々にどのような関わりがあるのだろう』ということを、観る人にあらためて、自ら考えてもらいたいということではないかと感じました。

この映画は、批評家からは高い評価を得ましたが、一部のキリスト教会からは、神や聖書を冒涜するものとして批判を受けました。しかし、梅爺からみれば、キリスト教に従来興味を示さなかった人たち(ロック音楽に酔いしれるような若者達)に、興味を抱かせるための材料として、なかなか効果的なものであったのではないかと感じました。そもそも『ジーザス・クライスト・スーパースター』というタイトルは、若者が受け容れやすく感ずるための配慮で、茶化しているというより最大の賛辞と考えればよいのではないでしょうか。

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2008年7月21日 (月)

コンピュータ嫌い(3)

『コンピュータ嫌い』の原因は、多様であるように感じます。多くは、この得体の知れないモノを操る能力は、自分には無いと、最初からあきらめてしまっておられるのではないでしょうか。特に、自尊心の強い方は、軽薄そうに見える他人が、得意げにコンピュータを使っているのを見聞きするだけで、一層反感がつのり、『忌避反応』は強まるにちがいありません。

機械(モーター、機関車、自動車、飛行機など)が、工業社会を実質的に推進したように、IT(情報・通信処理技術)が、情報社会の牽引役であり、その中心的商品がコンピュータです。

産業革命を『ラッダイトによる運動(機械打ちこわし運動)』が押し止めようとしましたが、実現できなかったように、『コンピュータ忌避運動』は、情報社会を押し戻すことはできません。両方とも、『貧富の差の拡大』『人間の豊かな精神生活の破壊』を危惧している点では、共通で、その主張には一理があるのですが、動き始めたパラダイムを止めたり、押し戻したりはできません。

昔に戻ることができない以上、新しいパラダイムの中で『貧富の差の拡大』『人間の豊かな精神生活の破壊』を抑制する、あたらしいルールやしくみを人類は考案する必要があります。ITやコンピュータを悪者に仕立ててみても、問題は解決しません。

確かに、現在の世界情勢を殺伐にしている一つの要因は、競争が基盤にある『グローバル経済』と、『IT』が結びついていることにあります。一瞬にして、投機のための大金が、国境を越えて移動することになりますから、財政的に貧困な国家は、直ぐに経済危機におちいることになり、それが世界経済に影響を及ぼします。個々の金融機関の『部分最適追求』が、『全体最適』に反し、めぐり巡って自分も困難な状態に追い込まれる可能性を秘めているという、パラドックスになっています。炭酸ガス排出権益までも、国際商品として投機対象にしたら、どのような悲惨なことになるかは、見えています。

しかし、繰り返しになりますが、コンピュータやインターネットを悪者にしても、この問題は解決しません。『国益優先』などと、私達は気軽に言いますが、『国益』は、『部分最適』のことであることを、世界中の人たちが理解しないと、一層ひどい状況になるように思います。『競争原理』『国益』などにも、全体最適からの『制約』があるという単純な話ですが、自分は損をしたくないというエゴのために、本当に追い込まれるまでは認めようとしない人間は、賢い存在と言えるのであろうかと、首をかしげてしまいます。

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2008年7月20日 (日)

コンピュータ嫌い(2)

東大情報環学科のシンポジュームを中継する番組(NHKBS第二)の中で、東大の先生がコンピュータの将来像に触れた時に、同じくパネリストの、アートディレクターで東京女子美術大学の先生が、明らかにコンピュータを重視する姿勢に不快感を示され、『大体、コンピュータを使う時の人間の姿勢は、不健康で人を病気にする』とまで発言されました。たしかに、コンピュータを長時間使い続けるのは、梅爺も『健康的』とは思いませんが、やや『坊主憎けりゃ、袈裟までも』の感があると思いました。

この先生は、『今や、日本は、テレビといえば(低俗な)バラエティ番組しか観ないような、何も期待が持てない社会になっている』と発言されましたので、この文脈から推察すると、『コンピュータも、日本の社会を低俗にしている元凶の一つ』とおっしゃりたいのではないかと思いました。

テレビやコンピュータを、刹那的な娯楽提供道具としてしか利用せず、『自分で考える、自分で創造ずる』ことを放棄している社会には、期待が持てないとおっしゃることが主旨ならば、現在の日本社会には、そういう傾向が強いとは言えないことはありません。しかし、どの国の、どの時代の社会でも、『刹那的な娯楽しか求めない人』や『自分で考えない、自分で創造しない』人たちは、必ず存在しますので、『現在の日本社会は魅力的でない』と一言で切り捨てるのは、行きすぎのように感じました。

元々、日本人は自分の考えより、他人の考えを気にする性格が強いように思いますが、これほど、多様な情報が溢れた状態になると、他人の意見の確認どころか情報の量に押しつぶされて、一層自分で考えることをあきらめてしまっているように梅爺には見えます。

自分が考える上で、情報が多いことは、本来歓迎すべきことのはずが、逆に、考えることをあきらめる要因になっているというパラドックスのようにも見えます。コンピュータが情報社会を推進する牽引車にはなっていることは確かですが、情報社会が人間にとって都合が悪いのは、コンピュータのせいとするのは、車社会が不都合なのは、車のせいだとするのと同様、少し論点がずれているように思います。

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2008年7月19日 (土)

コンピュータ嫌い(1)

世界の中で、情報社会の先端を走る日本の中でも、『コンピュータは嫌い』『コンピュータは苦手』と公言される方々が沢山おられます。

コンピュータに接する機会や、使い方を習得する機会に恵まれなかった方が、『取り残されて』そのように言われるのはともかくとして、過去に機会があり、教育レベルも高く、経済的余裕があるにもかかわらず、コンピュータを毛嫌いされる方がおられる現象を、梅爺は興味深く感じています。

梅爺の大学時代の合唱仲間である友人の中にも、『音痴』になぞらえて、自分は『電痴(でんち)』であると、自嘲気味におっしゃる方々がおられますが、社会的には高い地位まで上られた登られた方々ばかりですので、多分『秘書』に、コンピュータを利用する仕事を任せているうちに、『リテラシー(使い方)』の習得に遅れをとってしまったのでしょう。こういう方々は、ある程度コンピュータ利用の便利さは理解しておられますが、今更習得する気概は失せているということであろうと推測しています。

コンピュータの裏側に潜む、複雑多様な世界を、何となく察知し、表面的な『リテラシー』を身につけることが、コンピュータを理解したとは言えないと感じておられるのかもしれません。『Nice to meet you』『Your welcome』などと簡単な応対ができるから『英語の会話を理解した』とは言えないという話と同じですから、もしそうであれば、その心情は理解できます。

このような、自らを『電痴』と認める、ある意味で可愛げのある方々ではなく、コンピュータやコンピュータを利用する人の存在を否定するような、強い『忌避反応』を示す知識人がおられることに、梅爺は興味を惹かれます。

何故、こんなにコンピュータは『憎まれる』ことになったのでしょうか。

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2008年7月18日 (金)

大学の役割(3)

人が『自分の生き方を見つける』ということは、生易しいことではありません。自分が望むように生きていけるほど、世間は甘くはないからです。敗戦後の日本のように『生き方』どころか、『生きる』こと自体が難しかった時代は、極端な例であるにしても、現在でも、人間社会は『競争』で成り立っているという現実が、世間を甘くないものにしています。競争社会では、ある分野に限定すれば、勝者と敗者が必ず出現します。しかし、これは『ある分野』に限定した話であり、全人格を対象とした人間としての勝者、敗者を意味しないという論理を、混同しないことが重要です。現在の多くの悲劇は、この混同から発しているように見えます。

『自分の期待』『自分の能力』『社会のしくみ』を、天秤にかけて、『生き方』を見つけることになりますので、冷静さはもとより、選択には勇気と覚悟が必要になります。ここでも、現在多くの人が『自分の期待』だけで、ものを言っているように見受けられます。『自分の期待』は、『自分に相応の能力があり、更にその上に並々ならぬ努力を継続すること』『それを認める社会のしくみが存在すること』があって、はじめて実現するという条件を忘れて、『音楽家になりたい』『画家になりたい』『英語を話せるようになりたい』『年収1000万円以上の男性と結婚したい』などと発言するのは、もしそれが、条件を度外視した話なら、自分の愚かさを露呈していることに他なりません。

『有名になる』『金持ちになる』ことだけが、人生の勝者という価値観が生まれる土壌や背景は理解できますが、この価値観から脱却できない限り、誰もが自分の生き方を決めることは難しくなります。『生き方を決める』ということは、自分の価値観を定めるということでもあるからです。

『他人への思いやりを最優先する生き方』や『どんな時でもさわやかな笑顔を絶やさない生き方』は、『有名になる』『金持ちになる』こともよりも、簡単であるとは思えません。人間として価値がないことであるとも到底思えません。そう実感するのは、梅爺が努力しても、なかなかそういう人間になれないことを、体験し続けてきたからです。

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2008年7月17日 (木)

大学の役割(2)

文明国では、『教育』は多くの人の人生の1/3程度を費やす貴重な時間ですから、『幼児教育』『初等教育』『高等教育』『大学(大学院)教育』が、それぞれ『何のために勉強をするのか』をハッキリさせておく必要があるのは当然のことです。

それにしても、これほど勉強をしても、一人前になったとは言い切れない生物は人間だけのように見えますので、非常に特殊な存在であることに気付きます。理由は簡単で、人間は誰も、一生かかっても使い切れないほどの『脳の潜在能力』を保有しているからに違いありません。脳をあるレベルで使用するためには、どれだけ準備をしても十分と言えることはないということに他なりません。大学には、是非生涯学習の場を提供してもらいたいと、梅爺が考える所以(ゆえん)でもあります。

東大の小宮山総長の、『第三の創生期論』は、教育の目的を『全体のため』から『個人のため』にシフトすることを示唆しているようにも見えます。『国家に忠誠を誓う国民の育成』『世界に通用する企業戦士の育成』などの目的が、立ち行かない時代になっている証でもあります。

梅爺が会社の現役時代には、『産学共同体』という言葉が流行りました。企業側は、大学を卒業して会社に入社したら、直ぐに使える人材を育成して欲しいと望み、大学側も、卒業生の就職の便宜や、研究費(企業からの献金)の獲得という思惑があってのことでした。産学が協力することに、特段反対するつもりはありませんが、もし、『産学共同体』の議論が、現在では薄らいでいるのなら、梅爺は『健全』なことのように感じます。企業が、『大学は自分達のためだけに存在する』などと考えるのは、少々思い上がりと感ずるからです。

『大学(大学院)』は、社会人として独立する前に、個人が『自分の進路を定める場所』ではないでしょうか。『進路を他人に決めてもらうのではなく、自分で決める』という前提には、既にかなりの予備知識と、何よりも勇気と覚悟を必要とします。もし、この時点で多くの学生が、『今の世の中には、生き甲斐が見出せない』などと、他人依存の、甘ったれたことを言っているとしたら、それ以前の『教育のシステム全て』が、機能していないからではないでしょうか。この梅爺の考え方は、やや理想論のようにも思いますが、それでも大学の目的は、高い理想に裏付けられていて欲しいと願っています。

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2008年7月16日 (水)

大学の役割(1)

NHKのBS第二放送を、何気なく観ていましたら、東京大学情報環学科の主催するシンポジュームの様子を放送していました。IT爺さんを自称しながら、情報環学とは、一体何を対象とした学問なのか知らないというわけにはいかないと、興味をもって観ました。

21世紀は、哲学とか、神学とか、情報処理技術を特段に必要としそうもない分野を除いて、情報処理技術が科学の基盤として必須の手段となりつつある、いわば『情報処理と科学の世紀』ともいえる時代になっていますので、情報処理を仲介役とする『学際(異なった学問同士の交流)』が必要になり、情報環学科が新設されたのかと予想しましたが、どうも、それだけが目的ではないことが分かりました。

番組の中に、東大小宮山総長へのインタビューがあり、以下のような主旨の内容を話しておられました。

『日本の大学は、今第三の創生期にある。第一の創世記は明治維新の後、第二の創世記は、太平洋戦争で負けた後であった。今までの創世期では、大学がどのような人材を世に送り出すかについて、明確な目標があった。明治維新の後は、日本を西欧の列強と肩をならべられる国家にすること、太平洋戦争の敗戦後は、いち早く国を復興させることが目的であった。しかし、それらの目的を達した現在は、何を目的とするかの合意がなくなっている。日本の将来像を描ける人材を育成するためにも、大学自身が、新たな挑戦や議論を開始する必要がある。更に、国立大学が法人化することになり、各大学が独自に特色を模索する必要もあって、情報環学科を8年前に新設した』

なーるほど、おっしゃることは、ごもっともと思いますが、平たく言ってしまえば、『大学が存在目的を見失っている』ことの正直な告白だなと、感じました。

梅爺は、東大の総長の発言を非難しているのではありません。梅爺の世代は、学校でも会社でも、目の前に人参をぶら下げられた馬のように、一心不乱に走ってきましたので、たしかに、突然目の前から人参が消えうせたら当惑しますが、誰かが設定した目的のために走ることが『幸せ』で、目的が分からないのに走らなくてはならない状態を、必ずしも『不幸』とは思いません。むしろ、全員が疑問も持たずに同じ目的へ向かって走ることの方が、危険である場合もあると感じています。作家の城山三郎氏が、ご自身の不幸な戦争体験の後、生涯『旗を振るな、振らせるな』といっておられたことに、共感を覚えます。

新しく、日本や日本の大学が『目標』を設定したい気持ちはわかりますが、時代は一律の目標が設定できるほど単純でなくなってきています。それよりも、日本人の一人一人が、『自分はどのように生きたいのか』を考えることが、先決のように感じます。他人が決めた路線ではなく、自分で決めた路線を歩める日本人が増えれば、日本は、格段に『民度』の高い国になり、大学のあり方も見えてくるのではないでしょうか。

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2008年7月15日 (火)

負けるが勝ち

江戸いろはカルタの『ま』、『負けるが勝ち』の話です。

常識的な論理を、逆転させて、『そういう見方もありますよ』と教える典型例です。大人になって社会経験を積み、人間社会の多様性を理解している人には、思い当たることがあっても、けんかに負けて泣きじゃくっている幼児に、この言葉を使っても、何のことかは理解できないことでしょう。

勝負を避ける時や、負けてしまった自分を肯定するための、『口実』としても便利な言葉です。『負けるが勝ち』は、あらゆる状況に適用できないことを、一方で知っておく必要があります。世の中には『勝てば官軍』という、逆の表現もあります。これもまた、あらゆる状況に適用できないことも、知っておく必要があります。要するに、人間は、その時々、自分に都合の良い『論理』をもてあそぶものだということでしょう。

負けることを体験することが、人生では重要であることを、多くの先人が語っています。身を滅ぼしてしまうような『敗北』は、一巻の終わりですが、そうでなければ、敗者を経験することが、人の器量を大きくすることは、確かなような気がします。真の友人が誰であるかを知ることにもなり、思いやりの心もはぐくまれます。スポーツは、『勝ち』と『負け』を経験できますので、人生修行の手っ取り早い方法であることが分かります。大企業が、『体育会系の学生』をすすんで採用するのは、そのためです。

負けることの大切さを教えた『家訓』として、以下の徳川家康の言葉があります。以前、日光の神社の宮司さんから教えていただきました。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ
勝つ事ばかり知りて、負くる事を知らざれば害その身に到る
己を責めて、人を責むるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり

徳川家康が、何歳で、このような心境を得たのかは、知りませんが、『人がこの世で生きていくために必要なこと』を、過不足なく表現していることに驚きます。徳川家康という人物が、並みの器量の持ち主でなかったことがわかります。しかし、こういう人物も、周囲の凡人には『煮ても焼いても食えぬ、狸おやじ』と受け取られるわけですから、やっかいです。

『及ばざるは、過ぎたるにまされり』も、『負けるが勝ち』と同様、論理の逆転表現ですが、梅爺は好きです。『過ぎたるもの』を持たない多くの人は、この言葉に救われます。

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2008年7月14日 (月)

ミトコンドリア(14)

『ミトコンドリアが進化を決めた』という本を読んで、梅爺は、生命活動の素である細胞のようなものが、海中の硫化ガスの微細な泡の膜の内と外の電位差を利用し、物理反応、化学反応を開始することで、無機物質から有機体へ変貌したという『仮説』は、非常に稀有な偶然であれ、『起こるかもしれない』と理解できました。

しかし、細胞の生命活動が、世代を受け継いで継続するために、細胞内に仕組まれたDNAのカラクリは、その基本は、コンピュータと同じ『情報処理』であり、物理や化学の世界とは異なった『合理的な論理体系』で構成されていることを考えると、このカラクリが、非常に稀有な偶然で出来上がったという説明は、否定できないまでも、納得するのは少々難しいように感じています。むしろ『神がデザインしたもの』ではないかと疑ってしまうほどに、この『カラクリ』は、絶妙にできているからです。

DNAは、たった4個の基本記号(ヌクレオチド)を用い、人間の言葉で言えば、『文字』や『単語』を表示し、『単語』の一部は遺伝情報として、20種類のアミノ酸を組み合わせて、沢山あるタンパク質の中から、特定目的のタンパク質を合成する『指令』として利用されます。これだけのことで、人間の複雑な体のどの部分も作り出されます。正常でない遺伝情報を持っている人が、特定の病気を発症することは、ご存知のとおりです。遺伝情報以外の大半のDNA情報は、『ジャンク情報』と呼ばれ、その存在理由は、今のところ解明されていません。ただし、『ジャンク情報』は驚くべきことに、人間の言語の論理構造と『似ている』ことが分かってきています。

更に、梅爺が驚くのは、DNAは2本の螺旋構造の上に書かれていて、どちらかの情報にエラーが発生しても、正しい情報へ修復できる『しくみ』を保有していることです。このエラー修正の『しくみ』は、メモリやディスクの情報がエラーを起こしたときに、自動修復する目的でパソコンやコンピュータには利用されていますが、数十億年前に、『自然が偶然にこのようなしくみを生み出した』という説明に対しては、正直のところ呆然としてしまいます。

人間の脳も、『情報処理』がベースですが、『制御処理』『知識処理』に加えて、現状のコンピュータでは対応できない『情念の処理』までも行っています。ヒトが生物としての進化の過程で、どのようにして『情報処理』能力を獲得したのかについては、あまり説得力のある説明に出会ったことがありません。従って、これに関しては『神のデザイン』であると言われても、目下のところ梅爺は反論する能力を持ち合わせていません。

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2008年7月13日 (日)

ミトコンドリア(13)

『ミトコンドリアが進化を決めた』の著者ニック・レーンは、ヒトの全体的な寿命を延ばす方法として、興味深いアイデアを提示しています。

現代の医学は、ミトコンドリアではなく、細胞内のヒトの遺伝子を研究することで、遺伝子配列の異常と『特定の病気』の関係を明確にし、人工的な遺伝子配列の修正で、難病といわれている病気から、ヒトを解放しようとしています。これは、個々のヒトの死を先延ばしにするという観点で、意味のない話ではありませんが、ヒトの『老化』とは直接関係する話でもありません。

『老化』は、加齢とともに、細胞内のミトコンドリアの数が減り、ミトコンドリアに負荷がかかるために有害な『フリーラジカル』を発生する機会が増えて、この『フリーラジカル』が、細胞を殺したり、色々な病気を起こす引き金になっていることから、もしも、何らかの方法で、細胞内のミトコンドリアに、『もっと、ミトコンドリアの数を増やしなさい』という人工的なシグナルを送ることができれば、ミトコンドリアが増殖し、活動に余裕ができて、結果的に『フリーラジカル』の発生が減少し、ヒトは、現在よりも『長寿』になるであろうという提言です。一つ一つの病気を克服するより、『元を断って』全ての病気の発症率を下げてしまうという考え方です。

日本人は、世界では『長寿』民族に属しますが、日本人の中の100歳を越えたヒトのミトコンドリア遺伝子の配列が、1箇所だけ普通の寿命の人と異なっている確率が高い事実も判明しています。もし、これが本当で、ミトコンドリア遺伝子の人工的な組み換えが可能なら(100歳以上に多く見られる配列に変える)、日本人の平均寿命は更に50%くらい伸びることになります。

しかし、個々の人間の寿命を延ばしたり、日本人の寿命を延ばしたりすることが、個人や日本社会にとって、全体的に『幸せな話』かどうかは、別問題です。寿命を延ばす方法を追求するのは『科学』ですが、その結果を適用するかどうかは、『科学』の問題ではありません。同じく『安楽死の取り扱い』も『科学』の問題ではありません。

『科学が進歩すればするほど、人類は不幸になる』という『命題』は、正しいとは思いませんが、『科学がもたらすものの本質を洞察できなければ、人類は不幸になる』という『命題』は正しいように思います。

この本は、ミクロな細胞やミトコンドリアの活動に関する最新知識を得るには最高な本ですが、マクロな人間の『生き方』に何らかの示唆を与える本ではありません。ミクロな部分では、単なる化学反応、物理反応で生きている人間が、マクロなヒトとして、『情念』などという、世界を保有していることの大きなギャップに、梅爺は、以前よりまして興味を抱くようになりました。梅爺閑話のネタは尽きそうにありません。

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2008年7月12日 (土)

ミトコンドリア(12)

ミトコンドリアは、ヒトが摂取した食物と、呼吸して得た酸素を資源として、ヒトが生きていくために必要な熱発生(体温維持)とエネルギー源(ATP)を蓄積する働きをしています。細胞内の小器官であるミトコンドリアが、生命維持の中心的役割を果たしていることになります。

『熱発生』と『ATP蓄積』を、平常時どのような比率で行うかは、ミトコンドリアの遺伝子配列で決まります。アフリカに住む人種は、『ATP蓄積』の比率が高く、エスキモー(イヌイット)は逆に『熱発生』が高くなるように、ミトコンドリア遺伝子配列が異なって継承されていることも判明しています。言い換えれば、ミトコンドリア遺伝子配列も、自然環境に適応するように『進化』をしていることになります。一般に、ミトコンドリアの進化の速度は、宿主細胞の進化よりも『速い』と言われています。エスキモーは、エネルギ源を獲得するために、『沢山食べる必要』がありますが、アフリカ人が『沢山食べる』と、ミトコンドリア周辺に『フリーラジカル』と呼ばれる有害電子(活性酸素)が発生し、これが、遺伝子の変異を起こし、糖尿病や心臓病の原因となることも分かっています。『飽食』と『成人病』の一般的な関係が、これに起因していることが分かりました。

宿主細胞の遺伝子と、細胞内のミトコンドリアの遺伝子の『相性』が悪いと、病気のもととなり『共生』がなりたたないことになりますから、親が子供に伝えるミトコンドリア遺伝子は、原則として『母親のミトコンドリア遺伝子』の1種類に限定し、『相性』の悪さが発生する確率を減らす『選択』が進化の過程で行われたことは理に適っています。『二つの性による有性生殖』のしくみは、生物とそれに寄生するミトコンドリアの『共存共栄』を実現するための『妥協点』として、これも理に適っているように思えます。

ヒトが老いてやがて死に至るという現象も、ミトコンドリアの活動面からは何が起きているかは分かっています。つまり、有害な『フリーラジカル』の発生頻度が高まり、細胞やミトコンドリアの遺伝子が損傷を受けやすくなって、病気が発症しやすくなったり、細胞が再生されずに、死に絶えていくからです。ヒトの生命は、そんなもので支えられているのかと、あっけにとられるほどに、環境条件と遺伝子に書かれたプログラムに従って、細胞やミトコンドリアは、化学反応、物理反応を繰り返しているだけに過ぎないことがわかります。その微細な活動の集大成の結果が、『老い』や『死』というマクロな『現象』を作り出しているということになります。

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2008年7月11日 (金)

ミトコンドリア(11)

地球上の動物の大半が、雄(オス)と雌(メス)で構成されており、その生殖活動で子供が生まれる、というような『事実』は、『自然界はそうなっているもの』と多くの人は、理屈抜きに受け容れていますが、科学者は、『何故、多細胞生物の進化の過程で、有性生殖のしくみができたのか?』『何故性の数は2つ(雄と雌)になったのか?』と迫っていきます。論理的に納得できる因果関係を明らかにしなければ、気が済まないという科学者魂には、屁理屈屋の梅爺でさえも畏れ入るばかりです。

そう言われてみると、単性生殖の方が、効率が良さそうなのに、何故性の数が2つ(雄と雌)の有性生殖になったのか、不思議に思えてきます。ヒトの場合は、普通二人の親(男女)から一人の子供が生まれますので、子孫を増やそうという種の保存の目的のためには効率が悪く、不利な要因にも見えるからです。

受胎時に、両親の遺伝子のランダムな『組み換え』が一度だけ行われ、子供の遺伝子が決定します。このしくみのおかげで、地球上のヒトは、全て事実上『異なった遺伝子』を持ち、そのおかげで、人間社会は、個性や能力の異なったメンバーで構成され、社会の多様性を生み出しています。『皆同じ』よりも『一人一人が異なっている』方が、種の保存に『有利』であるがために、進化の過程で、この『しくみ』が生き残ったものと考えていましたが、どうもそうではなさそうです。

宿主細胞(元は単細胞生物)に呑み込まれたミトコンドリアの祖先(これも単細胞生物)は、その後、双方の『生存』をかけて、激しい闘争を繰り返しながら、やがて双方とも共存して生き残る方法を見つけだしていきます。その過程で、『多細胞生物』が生まれ、『有性生殖』や『宿主の老いや死』といったしくみが確立していった、というのが、現在最先端の生物分子化学者が唱える仮説です。現時点で、結果だけを見れば、生命のしくみは、『神のような高い知性がデザインしたもの』としか思えないほどに、絶妙なものですが、実は、40億年もかけて、最初は単細胞からはじまった『生きもの』間の、種の存続をかけた激しい闘争や試行錯誤の末に行き着いた結果なのだということになります。『絶妙な生命のバランスやしくみ』は、『偶然』と『適者存続の進化』が繰り返された結果だという説明は、崇高でもロマンチックでもありませんが、説得力があるように梅爺は感じます。

ミトコンドリアは、『やどかり』ですので、宿主の細胞が死ねば、自らも死ぬことになりますが、『有性生殖』で、母親のミトコンドリアを子供に伝える(定説、しかし最近例外もあることが判明しつつある)ということで、ミトコンドリアも種の継続を果たすことになります。前述のように、『二つの性による有性生殖』はヒトにとっては必ずしも有利なものとは言えませんが、ミトコンドリアにとっては、必要なしくみであることがわかります。

宿主とミトコンドリアの祖先がもし出会わなければ、地球上に多細胞生物(動物、植物)は現在存在していなかったことになります。その奇跡的な偶然の出会いの後に、ミトコンドリアが生物進化に果たした役割は、非常に大きいものであったということは、これまた確かなようです。私達が、泣いたり笑ったりしているのも、ミトコンドリアのおかげということになります。

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2008年7月10日 (木)

ミトコンドリア(10)

ヒトの細胞の中の『小器官』ミトコンドリアの中にも、ミトコンドリアの遺伝子が存在するというのは、どういうことなのでしょう。普通、二つの細胞がどちらかを呑み込んだり、融合した場合、双方の遺伝子は『水平移動』して、遺伝子の組み換えが行われ、残った不必要な遺伝子は、進化の過程で退化してなくなったりするものと考えられますが、何10億年もかけて進行した進化の中で、ミトコンドリアの遺伝子が『残っている』ということは、『残っている』ことに『意味がある』と考えざるをえません。

この本によると、ミトコンドリアの遺伝子の存在が、宿主個体の『生殖』と『死』を促す要因になった可能性が高いというのです。生物の『生殖』と『死』が、実は同根であるということは、深い意味を内包しているように梅爺は感じました。

宿主細胞の遺伝子が『損傷』を受けたことを感知すると、ミトコンドリアは自分の遺伝子のプログラムに従って、宿主細胞を『死に追いやる』行為を行います。宿主が死ねば、ミトコンドリアも死ぬわけですから、この行為は無謀なように見えますが、元々は、損傷された宿主の遺伝子を『修復』する目的での『生殖』を促す行為であったのではないかという仮説です。生殖で、遺伝子組み換えが行われ、損傷していた遺伝子は修復または隠蔽され、新しい個体(子供)が生まれ、少なくとも、母親のミトコンドリアが子供に引き継がれることで、大局的には、ミトコンドリアは、『存続し続けられる』ことになるからです。

絶妙としか言いようのない、生命のカラクリは、気も遠くなるような永い時間をかけた『生存のための闘争』の結果、宿主細胞もミトコンドリアも、双方ハッピーという『バランス点』を見つけ出した結果といえそうです。

この自然の過酷な大原則に従えば、『生殖』に関する責任を、一応果たした梅爺のような老人は、生きていること自体が『穀(ごく)つぶし』であるという、味気ない話になります。梅爺の願いや欲望などというものは、自然の摂理の前では、取るに足らないものであるということなのでしょう。そうは言ってもまだまだ煩悩に支配されながら生きているわけですから、せめて、ご迷惑を最小限度に止める努力だけは、怠るまいと、思い直しました。

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2008年7月 9日 (水)

ミトコンドリア(9)

この本を読むと、沢山のことが分かってきますが、同時に、沢山の疑問がわいてきます。人生同様『知れば知るほど、分からないことが増える』ことになります。世の中には、『分かった』と言い切れることが少なく、大半が『わからない』ことだらけであるおかげで、梅爺閑話はネタ切れになりません。『どうせ考えたって分かりっこない』と言えばそれまでですが、『分かろうとする』プロセスが、梅爺には重要なことで、結果として『分かる』『分からない』は二の次ということになります。

『学校で習ったこと』が、私達の知識のベースになっていますが、『生命の誕生と進化』『宇宙の誕生と拡大』『ヒトの脳の働き』については、ここ50年で、理解が格段に進み、新しい理論や知識が増えていますので、梅爺のような年寄りが、『過去の、自分が知る限りの知識』で考えてみても、トンチンカンで時代遅れであることは否めません。『ミトコンドリアが進化を決めた』という本は、3800円で少々高額ですが、これで、『最新の知識の一端』に触れられるのですから、安いもので、ありがたい話です。

ただし、『ヒトの脳の働き』については、最新の知識をもってしても『殆んど分かっていない』というのが、実情のように感じています。人間にとって、最も未知なるものが、自分の『脳』であるといっても過言ではなさそうです。約1兆個の細胞(ニューロン細胞+グリア細胞)が、総合的に醸し出す、『認識(具象形状や抽象概念)』『記憶』『発想』『情念』などといった『摩訶不思議な世界』は、ほとんど手付かずの未知の宝庫ともいえます。

『脳生理学』『生物分子学』『情報処理学』『心理学』などが、それぞれの切り口でこの宝庫の扉を開けようとしています。それらの知識を総動員すれば、いつの日にか、『少しは分かってきた』という状態へ進展することになるでしょう。しかし、これはある意味で『パンドラの箱』を開けるのと同じことを意味しますので、人間は、このことで『大いなる試練』に遭遇することも覚悟しておくべきでしょう。

『分かる』ということは、時に『こわいこと』でもあるのです。

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2008年7月 8日 (火)

ミトコンドリア(8)

『God Delusion(神は妄想)』という本の著者である、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスは、『人間は、遺伝子という人形遣いに操られている、操り人形のようなもの』と表現しています。見方によってそれはそうなのですが、この表現だけでは、誤解が生ずるように梅爺は感じます。

『悲しい』『嬉しい』などの『情感』や、『知りたい』『成し遂げたい』『勝ちたい』などの『意欲』も、崇高なもののように見えても、実際は遺伝子のプログラムに従って、人間が環境に対して反応しているだけといえるのではないでしょうか。しかし、『何を知るか』『何を成し遂げるか』『何に勝つか』の内容までを、遺伝子が指定しているわけではありません。つまり、基本機能は遺伝子が操りますが、基本機能を組み合わせた複雑な総合機能は、遺伝子のコントロール外で、人間に託されているのではないでしょうか。人間は、自分の意思ではコントロールできない遺伝子がもたらす基本機能と、自分でコントロールできる総合機能の絶妙なバランスで成り立っているように思えます。『どうせ、操り人形に過ぎない』などと悲観だけするのも、マチガイですが、基本機能まで自分の意思の支配下にあると勘違いするのも、またマチガイであるように思います。

『老い』や『死』は、基本機能の延長にあることなので、個人差や、少々の努力の違いはあれ、受け容れざるを得ないものであるというのは、言うまでもありません。

生物(あらゆる動物、植物)は、『個体』としては死にますが、DNAという『情報』を子孫に引き継いで、種としては生存し続けることになります。ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者ファインマンは、『物理学は永久運動が不可能であることを立証したけれども、生物学は死が必然であることを立証していない』と言いましたが、種が進化するためには、『個体』の死と誕生を繰り返す必要がある、つまり世代交代する必要があるという、単純な話のように、梅爺には思えます。世代交代を繰り返さないと種は進化しないからです。より良い種の未来のために、『個体』にとっては悲しく残念なことであっても、『個体』は『死ぬ必要がある』のです。全体目的のために、私達の身体の中で、毎日沢山の細胞が死んでいるのと同じことです。

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2008年7月 7日 (月)

ミトコンドリア(7)

『自分は何故存在するのだろう?』『自分は何のために生きているのだろう?』などと、基本的で、哲学的な疑問を発するのは、人間だけのように見えます。犬や猫がどう考えているのか、知る術もありませんが、少なくとも我が家の老犬を見ていると、少し耳が遠くなっているようですが、それを悩んだりせずに、素直に運命を受け容れて生きているように見えます。

『自分が生きているのは、自分の意思だけによるものではない』と、誰もが薄々感じていながら、それでも、『自分は自分が制御している』と思い込もうとします。『ミトコンドリアが進化を決めた』という本を読んで、梅爺は、ボンヤリながら、人間の内部の『生命活動』について少し理解が進んだような気がします。

人間は、約60兆個の細胞で構成されていて、そのうち約1兆個の細胞が毎日死んで、必要ならばまた新しい細胞が誕生して補っていると言われています。全体としての自分は『生きている』と思っていても、部分的な自分は、刻々『死と誕生』を繰り返していることになります。個々の細胞が、自分だけは『死なずに生き延びたい』と自己主張せずに、全体目的のために、自己犠牲的に死を受け容れるのは何故か、というのが、梅爺には不思議に思えていましたが、生物学や分子生物学の研究で、多くのことが明らかになりつつあることを知りました。ミトコンドリア(細胞の中の小器官、これ自体固有の遺伝子を持つ)が、宿主の細胞や、ひいては人間全体の『老い』や『死』に関係しているらしいというのです。

人間の身体の中には、いわば『強力な警察機構』があり、不都合な細胞や不要な細胞には、『死を宣告し、死刑を執行している』ように見えます。このような『警察機能』は遺伝子のプログラムで実現しているわけですが、これは永い進化の過程で、ヒト(他の生物も)が生き残るために獲得してきたもので、進化の最初のころは、全体目的に従わない利己的な細胞同士の『闘い』が繰り広がられた(未だ強力な警察が存在しなかった)と想像できます。『ガン』はその頃の『闘い』の名残といわれています。『ガン』は、全体目的を守ろうとする警察機構の命令に従わず、勝手に増殖して宿主の人間を死に至らしめます。つまり、宿主の死で、『ガン』も死ぬわけですから、自らも死へ向かって暴走していることになります。病原菌細胞は、宿主が死んでも、他の宿主へ感染して生き残れるわけですから、『ガン』の増殖とは決定的に異なっています。

60億人の人間で構成される地球と、60兆個の細胞で構成される人間は、生き残るための『しくみ』が、似ているように、梅爺は感じ、大変興味をそそられました。60兆個の細胞が、遺伝子情報に従って、プログラムどおりに、黙々と化学・物理反応を実行し、死んだり誕生したりを繰り返しているおかげで、人間は『生きている』のです。自分の細胞の一つ一つに、『私のために、ご苦労さん』と声をかけたくなります。

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2008年7月 6日 (日)

ミトコンドリア(6)

ダーウィンの進化論は、人類が獲得しえた驚くべき知識の一つです。ヒトはサルのようなものから進化したという説は、多くの人を不快にし、人間の尊厳が傷つけられたと感じたのも無理からぬことです。ダーウィンはDNAの存在など知らなかったわけですが、DNAの発見でも、彼の仮説は覆ることはありませんでした。むしろヒトはサルから進化したどころか、地球上のあらゆる生命体(動物、植物、菌類)は、『同じ祖先』から発生したらしいことが確かなことと思えるようになってきました。

しかし、梅爺の素朴な疑問は、『細菌は大きな進化をせずに、何故細菌のままで留まっているのか』『ヒトが、今でも生物として進化しているとは感じられないのは何故か』などで、ダーウィンの進化論を少し疑ったりしてきました。この本を読んで、その謎が解けました。無知に起因する懐疑は、恥ずかしいことであると痛感しています。

細菌が進化しないように見えるのは、細菌にとって、『進化する方が損であり、生き残るために進化しないでいる』ということに過ぎないことが分かりました。進化する潜在能力を待たないのではなく、進化しないことを選んでいるということです。『種の存続』のために『進化しない』という選択肢があるという単純な話です。

ヒトの場合は、生殖時の遺伝子組み換え時や、その他の理由で、今でもある確率で、DNAの異変が起きており、それによって『より優れたヒト』と『より劣ったヒト』が出現し続けていますが、人間社会は、全ての人の基本権利を認めようという『しくみ』を採用するようになってきたために、『より優れたヒト』だけが生き残り、『より劣ったヒト』は抹殺されることがありません。ヒトラーが妄想で試みたような、『より優れたヒト(アーリア人)』だけの生存を認め、『より劣ったヒト(ユダヤ人)』を抹殺するというようなことが続かないかぎり、誰もが子孫を残す『権利』を享受しているわけですから、大多数のヒトは、常に平均的な存在を維持し、顕著な進化が現れないことになります。医学が進歩し、『より劣ったヒト』も救済されることになればなるほど、進化は現れにくくなるということになります。

梅爺は、無知から、ダーウィンを疑ったりして、ダーウィンに大変申し訳なく思っています。

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2008年7月 5日 (土)

ミトコンドリア(5)

ヒトは、太古に、『ある種の真核単純細胞生物』が、ミトコンドリアの祖先となる同じく『ある種の真核単純細胞生物』と出会い、後者を呑み込んで、体内に共存させることを起点に、進化したらしいということが、明らかになってきました。それでは、宿主となった生物は一体どんなものであったのかを、科学者が、細胞の特徴の類似性で調査した結果、思いもよらない『事実』に遭遇することになりました。なんと、『宿主』は、深海やヘドロの中でメタンガスを作り出している『メタン生成菌』に近いものらしいというのです。この種のものは、生物学の分類では、細菌の変種で『古細菌』と呼ばれています。

よりによって、『メタン生成菌』のようなものが、ヒトのご先祖様だと言われると、醜いアヒルの子が、白鳥に変わった以上の驚きを感じますが、一方、この事実は、生物分子学者達に、大変な『難題』を提示することになりました。

『古細菌』は一般に、酸素のない場所で、少量の水素を摂取して生きており、酸素のある環境では生きていけません。酸素と水素が共存するところでは、酸素と水素が反応して水に変わってしまいやすいからです。ヒンデンブルグ号の爆発はその例です。一方、『ミトコンドリア』の先祖は、酸素を摂取して生きていたとすると、逆に酸素がない環境では生きていけません。酸素を嫌う『宿主』が、酸素を好む『宿かり』と『出会った』という矛盾を解決する必要に迫られたことになります。

この問題に『解』を見つけるために、学者の間では、目下議論が続けられていますが、まだ確かな定説は確立していないようです。

細胞を形成する素材の化学的な特性や、遺伝子の研究で、学者達は、ヒトの原点に近いところまでは、追い詰めてきていますが、その先の『そもそも生命は、どのように誕生したのか』という問題は、まだ、仮説の域を出ていないことがわかりました。宇宙がビッグバンで始まったということまで、追い詰めても『ビッグバンが起きる要因(真空で無の世界に存在した巨大なエネルギー)は何故存在したのか』について、分からないことが多いのに似ている状況のように感じました。

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2008年7月 4日 (金)

ミトコンドリア(4)

『真核生物(細胞内に遺伝子情報を持つ核を有する動物、植物はこれにあたる)』の細胞は必ず『ミトコンドリア』を持つか、今は無いように見えるが昔は持っていたということと、細胞内の『小器官』である『ミトコンドリア』の祖先も、実は、独立して生息する細菌のようなものであったという説が定説のようです。

つまり、地球の歴史の中で、『単細胞真核生物の祖先のいずれか』が、『ミトコンドリアの祖先である、これまた単細胞真核生物のいずれか』を『呑み込んで』、その『共生のメリット』が、受け継がれ、やがてはヒトのような多細胞で構成される高等動物にまで進化した、というのが定説であるということです。単細胞生物が、単細胞生物を呑み込む、という偶然な出会いは他にも沢山あったのでしょうが、いずれも共生関係が成り立たなかった(継承できなかった)と考えると、上記の『出会い(呑み込み)』は、非常に幸運な、稀有ともいえる偶然であったということになります。もし、この『出会い』が無かったら、地球上には、現在のような動物も植物も存在しなかったことになります。当然、梅爺も、梅爺閑話も存在しないことになります。

地球の歴史を、ビデオテープを巻き戻すように、太古に戻し、再度再生してみても、必ずヒトが出現することになるとは限らないということだと、梅爺は理解しました。上記の『稀有な偶然による幸運な出会い』を『神の意図』とするのは、こじつけのように感じますので、私達は、『神』よりも『偶然の出会い』に先ず感謝する必要がありそうです。この『偶然な出会い』は、歴史上、『一回だけ起きた』と考えられているので、尚更です。

この『偶然な出会い』は、20~40億年前の出来事と考えられていますが、やがて『単純細胞の真核生物』を『多細胞の真核生物(ヒトのような)』へと進化させることになります。

DNAやミトコンドリアの研究、生物分子学などは、ここ40~50年で、顕著な成果を挙げた分野ですので、梅爺の子どもの頃には、誰も『知らなかった』ことになります。これらの知識を獲得した新しい世代の人間は、梅爺たちとは異なった『世界観、人生観』を持つことになるのであろうと予測できますが、それがどのようなものなのかは大変興味があります。もっとも、それを見届けるまで、梅爺は生きていけそうにありません。

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2008年7月 3日 (木)

ミトコンドリア(3)

『ミトコンドリア』は、多細胞生物(動物、植物)の細胞内に存在する『小器官』で、ヒトの場合は、一つの細胞に平均300~400ケ存在しますので、一人の人間は、約1京(けい:1兆の1万倍)ケの『ミトコンドリア』を持っていること(体重の10%に相当)になります。

人間の活動に必要なエネルギーのほぼ全ては、この『ミトコンドリア』が、体内に取り込まれた酸素と栄養素を利用した化学・物理反応て生み出している(正確には、潜在エネルギーを熱やエネルギーに変換している)ということですので、私達は、体内に1京(けい)ケの『分散型発電所』を保有していることになります。しかも、そのエネルギー生成効率は太陽より優れているというのですから驚きです。この発電所は、私達のために昼夜兼行で、黙々と活動し続けてくれているわけですから、なんとも、いとおしく、頼もしい存在です。

科学の眼で見れば、『ヒトが生きている』ということは、『遺伝子情報に組み込まれたプログラムに従う微細な化学・物理反応の複雑多彩な集合』で成り立っているということになり、そのように言われると『人間の尊厳』が失われたように感じて、不快や味気なさを感じる方もおられるかもしれませんが、梅爺は、そうは思いません。

全ての生物(動物、植物)は、、『遺伝子情報に組み込まれたプログラムに従う微細な化学・物理反応の複雑多彩な集合』で『生きている』という共通要素をみれば、『ヒトだけが特別な存在ではない』ということになりますが、高度に進化したヒトの脳は、現状の科学では、まだ十分に解明することができていない『情感の処理や抽象概念、論理概念の処理能力』を保有しています。『人間の尊厳』があるとすれば、こちらの世界の話で、ヒトが生物であるからといって尊厳が失われることにはなりません。つまり、ヒトは生物としての宿命からは逃れられませんが、ヒトだけが獲得した能力も保有しているという、両面で理解する必要があるように思います。思い上がることは危険ですが、へりくだる必要もありません。

地球上の全ての生物(動物、植物、細菌類)は、共通の祖先である単細胞生物から約40億年かけて進化したという、気の遠くなる話ですが、単細胞生物が、動物や植物のような多細胞生物に何故『変身』できたのかの謎に、この本は迫っていきます。勿論『ミトコンドリア』が主役です。

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2008年7月 2日 (水)

ミトコンドリア(2)

『Power, Sex, Suicide』という原書のタイトルの意味を、梅爺は『権力、性、自殺』と社会現象を評論したものであろうと、早とちりしましたが、本当の意味は、『生命体の活性エネルギ製造源、性を利用した生殖のしくみ、生物体の宿命的な死』が、全て『ミトコンドリア』で論理的に説明できるかもしれないという意味であることを知りました。いずれに関しても、恥ずかしいことに梅爺は今まで無知であったことばかりですので、大げさに言えば、驚愕しました。

ニック・レーンという著者は、福岡伸一先生同様、分子生物学の学者ですが、このような一般啓蒙書を書ける文才も持ち合わせていることに感銘を受けました。難しい内容を、読者の興味が損なわれないように、筋道だって論旨を展開したり、時に比喩を用いたりして、面白く読ませる才能は、凡人には真似ができません。ただし、この本は、素人読者向けに手を抜いていることはなく、詳細な専門知識が網羅されていますので、スラスラ読めるというものではありません。稚拙で単純な表現が氾濫し、それが好まれる現代社会で、このような高い総合知性を有し、真の大人の雰囲気を持つ作家に遭遇すると梅爺は脱帽すると同時に、ほっとします。

この本は、何故地球上に、遺伝子継承というしくみを備えた生命体が、突如現れたのか、という根源的な疑問には、ある可能性を示すにとどめています。この可能性は、『単なる奇跡』などではなく、ある環境が整った時におこる『化学・物理反応』として説明されていますので、梅爺は『明解に理解』できたわけではありませんが、大いに説得性のある内容として得心しました。一度出現した生命体が、何故人間のような高度な生命体に進化したのか、という疑問には、この本は、論理的な説明が存在することを教えてくれています。

ミトコンドリアが、その鍵を握っているということです。当然ながら、この本には、『未だ解明されていないこと』が沢山存在することは記されていますが、獲得できた科学的な知識を、組み合わせて、いままで分からなかったことへ、合理的な説明をしながら、探求を続けると言う、基本姿勢が貫かれています。

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2008年7月 1日 (火)

ミトコンドリア(1)

『ミトコンドリア』という言葉に、梅爺は興味を抱きながら、その実態を知る機会を逸してきました。興味を抱いた原因は、『人間の細胞に含まれるミトコンドリアの遺伝子をたどると、ヒトの原点である数人(または一人)の大昔の女性に到達することができる』という話を聞いたからです。

 

この女性は、『アダムとイヴ』に因んで、『ミトコンドリア・イヴ』と呼ばれたり、『ファースト・レディ』と呼ばれたりします。そして、その出身地は17万年前のアフリカであることも特定できるということでした。

 

『生物と無生物のあいだ』という本を読んで、梅爺がすっかりファンになってしまった福岡伸一先生が、前に読売新聞の日曜書評欄に『ミトコンドリアが進化を決めた(ニック・レーン著、斉藤隆央訳、みすず書房)』について紹介されているものを読み、またまた、福岡先生が推奨される本が面白くないわけがないと、単純に思い込み、早速購入して読みました。内容は、期待以上の面白さでした。

 

『ミトコンドリアとは何か』『ミトコンドリアの遺伝子とは何か』『何故母系の祖先をたどることができるのか』など、ボンヤリ抱いていた疑問が解けたばかりではなく、『ミトコンドリア』が、人間ばかりか生命体(動物、植物、菌類)の進化を解明する、大変な鍵を握っていることを知って、驚きました。

 

『ミトコンドリアが進化を決めた』という本のタイトルは、翻訳本の意訳タイトルで、英語の原書タイトルは『Power, Sex, Suicide...Mitochondoria and the Meaning of Life』です。そういえば、梅爺は本屋の洋書コーナーに、この本が陳列されていたことを思い出しました。『Power, Sex, Suicide』という大きな文字のタイトルだけを見て、肝心の『Mitochondoria and the Meaning of Life』と小文字で書かれたサブタイトル見逃し、てっきり『権力、性、自殺』と社会現象を論じたノンフィクションであろうと勘違いして、購入しなかったことになります。

 

翻訳本を読んでいて、日本語として少し不自然な箇所や、難解な箇所に遭遇すると、この部分は原書の英語では、どのように表現されているのだろうかと想像することが度々ありました。この本の翻訳が粗雑だという意味ではなく、翻訳ではどうしても避けがたいことです。つまり、意訳を避けて忠実に原文を訳すと、不自然な日本語になることがあるということで、原文の方が、すっきり論旨が理解できることもあるからです。

 

梅爺は、原書を購入して、対比して読む程の根性はありませんので、今回は翻訳本で済ませました。勿論、基本的な理解がこれで損なわれたとは思いませんので、十分満足しています。

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