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2008年6月16日 (月)

理詰め(1)

梅爺は、友人・知人の仲間内で『理屈っぽい人間』と評され、大学で『理系』の学科を卒業した人間の共通する性格であると、言われることがよくあります。しかし、小学校を卒業する時の文集には、将来なりたいもの(職業)として、『新聞記者』か『弁護士』と書いていますので、この頃は『理系』へ進もうとは考えていなかったことがわかります。

『理系』を選んだのは、大学受験時に進路選択を迫られ、『それならば理系で』と決めた程度のことですので、今でも、自分の資質は『理系以外にはない』と確信しているわけではありません。従って、もし梅爺が大学で『文系』を専攻していたら、『理屈っぽい人間』になっていなかったとは思えません。梅爺の『理屈っぽさ』は、生まれつきで、DNAのなせる業です。

『理屈っぽい人間』が嫌われる理由の一つは、『何でも理詰めで考えれば、正しい答や対応策が見つかる勘違いしている人間』と受け取られているためと、感じています。現に、『世の中は、理屈だけで片付くものではないよ』と、仲間内からたしなめられることがあります。

梅爺がこのような人間であると受け取られているのは、梅爺の不徳のいたすところで、梅爺本人は、『何でも理詰めで考えれば、正しい答や対応策が見つかる』と考えているわけではありません。『理屈っぽさ』と『正しい答への執着』は、必ずしも一体ではないのです。

梅爺は、本を読んだりテレビを観て、ある事象に遭遇すると、どうしてそれが起きたのかとか、何故それが存在するのかなどと、『因果関係』を推測したがる性格が強く、自分なりに思いついた『因果関係』を『仮説』として提示する癖があります。『梅爺閑話』の大半は、それに属するものであることは、お読みくださる方には、ご理解いただけるでしょう。このような場合、自分が提示した『仮説』が、正しいと主張しているわけではありません。

カッコヨク言えば、梅爺は自分の『思索を楽しんでいる』ことになりますが、思索の基となる教養・知識を欠くために、時に『とんでもない誤謬』を、それと知らずに述べている可能性があることも承知しています。

自分の考えを開示したりするのは、わざわざ世の中に、災いの種を蒔き、敵を作ることになって『損だ』と考え、『沈黙は金』を決め込む方もおられますが、梅爺のような年齢になると、世の中には『具眼の士』がおられて、こちらがどんなに気取ったり、黙っていても、能力のレベルや本性は、見破られてしまうものであることも、承知していますので、どうせそうならと、恥を忍んで『梅爺閑話』を書いています。

人は『恥をかかずに生きていく』などということはできませんので、恥をかいたときは、生きている証拠と感謝し、次は少しでも恥をかくまいと発奮する材料にすればよいと考えています。

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