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2008年6月 4日 (水)

スピノザの『エチカ』(2)

スピノザの『神』に関する考え方は、『神即自然 (deus sive natura)』 で、アインシュタインが『自然の摂理の深奥(しんおう)に、神の存在を感ずる』という主旨のことを言っていることと同じではないかと思います。科学や数学が見出した法則で、多くのことが論理的に検証できますが、その法則自体が何故成り立っているのかという疑問が次に発生しますので、むしろ疑問は増えることになります。複雑に見える自然も、究極は単純な法則に支配されているというようなことが、やがて解明できるかもしれません。しかし、その『単純な法則』は、何故存在するのかという疑問が残り、最後は、その『単純な法則』を『神』と呼び代えることになるのかもしれません。しかし、この『神』は、人間の『願い』や『思惑』などはおろか、人間の存在とも無縁で、『宇宙』とともに存在し続けていることになります。スピノザの究極の主張である『この世は神しかいない』という認識は、こういうことを意味するのでしょう。

『自然そのもの』や『自然の摂理』を『神』とみなす場合、『神』は、非人格的なものになりますので、私達を『愛してくださる』『慰めてくださる』『救ってくださる』というような人格的な神を想定する宗教観とは相容れないものになります。

スピノザは、『神即自然 (deus sive natura) 』という『神』の存在を主張し、最後は、『この世は神しかいない』とまで主張したのに、カトリックからは『無神論者』と非難されたのは、お互いが違う『神』を想定しているからにほかなりません。

梅爺が、不満に思うのは、多くの人たちが、『神の定義』や『神の存在は真か偽か』という論理的な議論にばかりこだわっていて、人間にとって一番重要な、『心の悩みや苦しみから解放されたいという願望』と『神を信ずること(信仰心)』が、どのように関わっているのかに言及しないことです。

『心の悩みや苦しみ』は、脳が生み出す現象で、多少なりとも誰もが抱えることですが、これが『解放』されたり『軽減』したりするのに、『神を信ずること』が結果的に大きな効果をもたらすことは、幾多の事例から分かっています。しかし、『神を信ずること』以外にも、『解放』や『軽減』に効果的な要因は存在することも確かなような気がします。梅爺は、『神は存在するかどうか』などという議論より、人が何故『心の悩みや苦しみ』を抱えるのかという問題の解明の方が、重要であるように感じます。脳の中の『願望』と、『現実』に大きな差が生ずると、人は『悩み、苦しむ』ことになります。『願望』は生きる原動力の一つですが、『悩み、苦しみ』という反面を秘めていることになりますので、なんと絶妙なバランスであろうと感心してしまいます。ヒトは何故『願望』を抱き、『願望』が適えば有頂天で喜び、適えられないときに『悩み、苦しむ』のかについて、やがて、ある種の回答がもたらされるかもしれません。そうすれば、何故多くの人たちが『神』という概念を必要とするかも、見えてくるのではないでしょうか。

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