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2008年6月17日 (火)

理詰め(2)

日本の学校教育では、『問題に対して正しい答を言い当てる(論理で導くか、知識として記憶していることを表現する)』訓練が主に行われます。問題には、必ず『正しい答』があることが前提になっていますから、全ての問いに、間違いなく答えると100点満点が取れて、頭の良い子の勲章になります。

勿論、世の中には、『問題に対応する唯一の正しい答え』が存在するケースが無いわけではありませんが、むしろ比率としては少なく、大半の問題は、『対応方法は幾通りか考えられるが、どれが客観的に正しいかは分からない』ケースの方が圧倒的に多いのが現実であるように思います。そして、そのことが、世の中の多様さを生み出す要因になっています。

学校で、『問題に対する唯一の正しい答』を見つける訓練をつんだ『頭の良い人』が、世の中に出て、問題に遭遇した時に、『正しい答の存在を疑わず、それを見つけようとする』のは、無理からぬことかもしれません。懸命に答が書いてある参考書や答を知っている人を探しだそうとしたりしますが、それも見つからない時には、途方にくれて、立ち止まってしまいます。『結婚願望』はあっても、誰が自分に『最もふさわしい伴侶』かについて答を見い出せないでいるうちに婚期を逃したりするのと似ています。

『理系』の人間は、『理屈っぽくて、付き合いきれない』と言われることがありますが、確かに『理系』の人の中には、何事も『理詰め』に考えれば、『正しい答』に到達できると単純に考えているように見える人がいることも確かです。自然科学の領域は、正しい論理を積み重ねて、真理へ到達しようとしますので、この手法が何にでも通用すると錯覚してしまうためでしょう。一番手に負えないのは、『自分が思いついた考えが、唯一の正しい答』と短絡してしまう場合です。

世の中の大半のことは、『正しい答があるかどうかさえ分からない(現状の人間のレベルでは)』ので、『理詰めに考える』ことは、あまり意味がないという主張には、梅爺は同意しかねます。

正しい答が見つからないといって、何もしないで立ち止まっていることは、現実には許されませんから、何らかの対応方法を決めて行動する必要に迫られます。この『なんらかの対応方法』を決めるプロセスにも、『理詰め』の考え方が有効に働きます。他の対応方法に比べて矛盾が少ない、自分に不利な要素が少ないなどと考えるのは、『理詰め』に他ならないからです。

フィンランドの『考える教育』が話題になっていますが、これは、『正しい答』を見つけるというより、『自分で相対的に納得できる対応方法』を見つける訓練を重視していることに他なりません。梅爺は、後者も『理詰め』の思考であろうと思います。

『理詰め』を、融通の利かない、『理系』人間のばかげた習性と切り捨てるのは、行き過ぎのように思います。『理詰め』は人間の誰にも与えられた特権でもありますので、これを活用しない手はありませんし、誰もが利用しています。自分より『理詰め』ですぐれた人に出会うと、劣等意識もはたらいて『なんとなく煙たい』と避けたくなることはありますが、そうだからといって『理詰め』を否定する理由にはなりません。

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