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2008年6月28日 (土)

「完成」の意識(1)

梅爺が、昔から是非知りたいと思っていたことに、芸術家が、どの時点で「作品が完成した」と思うのか、ということがあります。

私達は、「既に完成した作品」を、観たり、聴いたり、読んだりしていますので、その作品が存在していることを、なんの疑いも無く受け容れていますが、作者にとっては、「無」から始めて「作品完成」までに、時間的経過、プロセスがあり、どこかで「完成した」と「意識した時点」があったはずです。

音楽は、時間的経過を利用する芸術様式ですので、作品自体の「終わり」はどこにするかは、比較的明白ですが、作曲家が作曲の途中で、曲想をもっと良くしようと楽譜に修正を加えることはあるはずです。もっとも、モーツァルトの残された直筆楽譜には、ほとんど「添削の跡」がありませんので、モーツァルトの場合は、頭の中で「音楽が既に完成していた」と推測できます。凡人には、想像を超えた天才の世界です。

文学も、様式上の「終わり」は明白ですが、内容に関しては、「推敲に推敲を重ねる」という表現があるように、修正のプロセスがあるはずです。原稿用紙に書いていた時代は、第三者が作家自身の添削の跡をたどることができるために、作家の思考過程を推測できましたが、ワープロで原稿が書かれてしまうと、第三者は「完成品」しか眼にすることができないことになります。これをもって、ITが、文学をダメにした、と非難する方もおられますが、電子媒体で受け渡すことができる原稿は、その後の編集、製本などのプロセスを、圧倒的に効率よくしていますので、万年筆と原稿用紙が文士の必需品である時代ではなくなりました。

梅爺が、一番不思議に思うのは、絵画や彫刻といった、作品自体には時間的要素が無い美術の世界で、芸術家が、どの時点で、「これ以上は筆を加える場所はない、これ以上はノミを入れる場所は無い」と「意識」するのだろうということです。

ダ・ヴィンチがモナリザを完成させるのに、3年間を要したと伝えられていますが、「3年間の終着点」は、どのように訪れたのだろうと考えてしまいます。どうでもよいことのようにも思えますが、それにしても不思議です。

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