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2008年5月23日 (金)

ウンベルト・エーコの文学論(8)

ウンベルト・エーコは、最終章で、『自分の書き方(小説を作り上げていくプロセス)』を公開しています。これは、彼の作法であって、他の作家にも共通するものではないのですが、梅爺は大変面白く感じました。

梅爺は、エンジニアとして製品を具体化していくプロセスを体験してきましたので、作家も同じように振舞うのであろうと予想していました。つまり、テーマを思いつき、次に筋書きの梗概を考え、次に、登場人物、場所、時代などの詳細を特定して、最後に、具体的な文章に取り掛かるのだろうと、常識的に予想しました。

しかし、ウンベルト・エーコの場合は、意外なことに、ある特定な『場面(視覚的な)』を想起して、それを中心に、構想を練り始めるということが分かりました。『薔薇の名前』では、『修道僧が、修道院の隔離された図書室で、書物を読んでいる最中に殺害される』という『場面』を思いついたことが原点だというのです。具体的な文章を書き始める前に、数年にわたり、修道院の『地図』を描いたり、登場人物の衣服や顔つきを、『絵』に描いたりして、脳裏のイメージを確定していく努力を繰り返すとのことでした。この作業を抜きにしては、『自信をもって、文章が書けない』と述べています。エーコが、一作に5年から8年からかける理由の一端がわかりました。エーコにとって、一番寂しいときは、作品を書き終えた時と述懐しています。自分が精魂込めて作り上げてきた『世界』と、決別しなければならないからなのでしょう。

『もし、明日地球が滅亡すると分かったら、今日書くか?』との質問に、エーコは、『読者がいないと分かったら書かない。しかし、誰かが生き残って将来自分の作品を読んでくれる可能性があれば書く』と答えています。

『自分だけのために書く』などという作家は、嘘つきで、自分だけのために書くものは『買い物メモ』だけでよいと、エーコは皮肉っています。

梅爺も、ボケ防止と言いつつも、どなたかが、梅爺の、喜びや、感動や、嘆きや、悲しみを理解してくださるかもしれないと『期待』して、ブログを書いていることに、思い当たりました。しかし、当然、梅爺閑話が、エーコの作品に、匹敵するようなものだと、思い上げっているわけではありません。

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