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2008年5月22日 (木)

ウンベルト・エーコの文学論(7)

『真実(Truth)には力がある』『正義(Justice)は最後に勝つ』などという表現を、私達は、従順に受け容れていますが、ウンベルト・エーコは、『それでは、真実でないものには力が無いのか?』という問題提起をしています。世の中には、このように、梅爺以上に理屈にこだわる人がいるので楽しくなります。もっとも、『Fiction(つくりごと)』を書く作家としては、気になることなのでしょう。

エーコは、『真実』と断言できるものは、科学の法則や検証された事実のようなものを除いて、存在しないのではないかと主張しています。神様ではない人間の知識は限定されていますから、それはごもっともな話です。つまり『真実』と称するものの大半は、『人間が真実であると思ったこと』に他なりません。

ダーウィンの生物進化論が認められるまでは、『人間は神によって創られた』という考え方が『真実』でしたし、コペルニクスのような学者の主張が認められるまでは、『太陽が地球の周りを回り、地球は平らである』という考え方が『真実』であったことになります。これらの、現在では『真実ではない』と判明していることをを、当時は『真実』として多くの人が信じ、ローマン・カトリックは、これに反する主張をする人達を、弾圧しました。

このような、話は、『昔の不幸な出来事』ではなく、現代も、『自分が真実であると思うものが真実であり、それを真実と思わない他人は異端者として排除する』という人間の習性は、少しも変わっていません。ブッシュとオサマ・ビン・ラディンの対立を例に挙げるまでもなく、梅爺も、知らず知らずにこの習性で、自分と他人の関係を律していることになります。恐ろしい話です。

科学の法則が、社会や歴史を動かす力であることは明確ですが、『人間の思い込み』も、これに劣らず社会や歴史を動かす力であることは、過去の事例を見れば、これまた明確です。

『真実』や『正義』は、自分の思い込みを正当化するときに、使われる言葉である場合が多いので、この言葉を耳にしたら、まず疑ってかかる方が良いのかもしれません。

エーコは、ある作家が書いた『作り事』が、やがて一人歩きして、『真実』となり、歴史を動かすようなものにまで発展した例を、いくつか紹介しています。見方によっては、『神話』『聖書』『コーラン』『経典』なども、その部類に入るのかもしれません。つまり『真実であろうがなかろうが、人間が思い込んだことには力がある』というのが問いに対するエーコの回答です。

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