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2008年5月21日 (水)

ウンベルト・エーコの文学論(6)

文学の鑑賞は、著作者と読者の間で交わされる『ゲーム』のようなものだと昨日書きました。著作者の意図が、あまりにも高尚で、読者の理解能力を越えていると、読者は、『面白くない作品』と感じ、ゲームを放棄します。一方、読者の理解能力や感受性が高ければ、同じ作品が『たまらないほど面白い作品』と評価されます。このように同じ作品に対する評価は、読者によって異なります。

ウンベルト・エーコは、著作者が、このような単純な評価に終わらせないために、作品の中に仕掛ける『ダブル・コード』について触れています。つまり、能力の高くない読者でも、それなりに『面白い』と感じさせ、能力の高い読者は、また違った面で『面白い』と感じさせるように、『二重の意図(ダブル・コード)』を、作品の中に準備するという話です。

ウンベルト・エーコの作品『薔薇の名前』を、梅爺は、推理小説として『面白く読んだ』と前に書きましたが、もし、梅爺に、ヨーロッパの中世や、当時のキリスト教の状況などに関する深い知識があったり、文体に込められている寓意を推察できる洞察力があれば、全く異なった読み方で、この作品を堪能できたに違いありません。エーコが、親切にも、梅爺でも理解できる一面(推理小説の一面)を、意図的に用意してくれたことに、感謝するしかありません。

この『ダブル・コード』は、文学の世界だけではなく、音楽の世界にもあります。有名なものは、ビートルズの曲で、音楽理論などには詳しくない世界中の若者を熱狂させた面と、その斬新な和声コードの進行で、音楽理論に詳しい人たちを感服させた面の、双方を内包しています。ビートルズの曲がオーケストラ用に編曲され、演奏される機会が多いのはこのためです。

オペラなどにいたっては、『ダブル・コード』どころか、『三重コード』『4重コード』と、仕掛けがありますから、観客は、自分の能力の範囲で、それぞれに楽しめることになります。

梅爺の専門であった『工学』の分野でも、良い製品は、能力の低い利用者でも『それなりに利用』でき、能力の高い利用者には、『奥深い利用』ができるように配慮します。パソコンなどは、『ダブル・コード』が仕組まれた、代表的な商品と言えます。

能力の高い、芸術家は、『ダブル・コード』を作品の中に、忍ばせて、鑑賞者にゲームを挑み、その結果、幅広い鑑賞者を魅了した作品が、後世まで『名作』として残るのでしょう。このゲームは、仕掛ける側の芸術家に圧倒的な有利な状況で展開されますので、梅爺のようなレベルの低い鑑賞者は、すっかり手玉にとられてしまうことになります。

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