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2008年5月20日 (火)

ウンベルト・エーコの文学論(5)

当然のことながら、ウンベルト・エーコの『On Litarature(文学について)』を読んで、梅爺は、自らの洞察力の浅さを思い知らされました。沢山引用されているギリシャの古典や、ダンテの『神曲』などに関する知識を持ち合わせていないのは、それを専門にしてきた方との違い、ヨーロッパ人と日本人の違い、文科系と理科系の違いと、言い訳ができますが、梅爺が『何気なく見過ごしている事象』に思いもよらない深い洞察が示されるのを読むと、世の中には、すごい人がいるものだと、感心し、『参った。参った』と言いたくなります。洞察力の違いは、言い訳ができません。

この本の内容は、梅爺がここ数年読んだ本の中では、『最も難解』なもので、表面的な字面は追えますが、著者が言いたいことの3割程度しか、理解できていないのではないかと感じています。難しいので、面白くないというのではなく、滅法面白いのに、分からないという、哲学の本をよんでいるような実感です。

ウンベルト・エーコは、文学における、『空間』や『時間』は何だろうと自問し、見解を述べています。私達の実生活においては、『空間』や『時間』は自然の法則に支配されているもので、人間が自由に操ることができませんが、文学で示される『空間』や『時間』は、読者の脳の中に想起される仮想概念ですから、異質なものであることは直ぐに想像できます。ウンベルト・エーコの認識は、深遠なものですが、梅爺流に理解すれば、以下のようになります。

『その部屋は、10畳くらいの広さだった』とか『そして、10年の歳月が流れた』とか、書けば、『状況』を伝える目的は果たしますが、文学は、著者と読者の間に繰り広げられる『ゲーム』のようなものであり、著者は、読者に『情念』を想起させる『しかけ』を施そうとしますので、『状況』を伝えることは手段であって、必ずしも主目的で無い場合が多く、『空間』や『時間』の表現にも『しかけ』を施します。

例えば、『その広場は、右手に教会があり、左手に王宮があった』と書けば、その『空間』の規模と同時に、読者は、その広場の歴史や雰囲気までも、一気に想起しますし、『玉手箱をあけた途端、白い煙が立ち上り、浦島太郎は白髪のお爺さんになりました』と書けば、読者は、この世と竜宮城では、時間の経過が違うのだと初めて知って、文字通り『あっと、驚く』ことになります。

人間の脳の中で、想起できることは、『自由に操れる』ということを利用し、著者は、色々な手を尽くして、読者に迫ります。『空間』や『時間』といった、普通は『変えられないもの』と思い込んでいるものさえ、文学は『操る』対象にしてしまっていることになります。読者の『ゲーム』能力が高ければ、その程度に応じて、文学作品を通じ、自分だけの『情念』を獲得して、感動したり、楽しんだりできることになります。

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