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2008年5月18日 (日)

ウンベルト・エーコの文学論(3)

小説の中には、部分、部分の表現は決して幻想的なわけではなく、明解な記述であるにもかかわらず、読んでいるうちに『なにやら霧の中へ迷い込んでしまった』ような『感じ』を受けるものがあります。日常で体験しないこの『感じ』を、私達はその文学作品の『深み』として受け取ります。

ウンベルト・エーコは、このような作品が、どのような『しくみ』で『霧の中の感じ』を作り出しているかを、手品の種明かしをするように、分析、解析して見せてくれています。記号論に詳しい哲学者でもある、エーコの面目躍如といったところです。

これを読んで、私達は、『そんなしくみに騙されていたのか』と嘆く必要はありません。『しくみ』は方便であり、作品の価値がそれで損なわれるわけではないからです。

エーコは、2次元のグラフを用い、横軸に時間の経過を、縦軸に出来事(イベント)をプロットします。日常の出来事は、時間の経過に従ってイベントが起こりますから、時間の経過通りに、物語を進行させれば、読者は、自然にその経緯を受け容れることができます。多くの小説は、当然このスタイルを採用しています。

しかし、作者が著述する順序を、時間の経過とおりに一方向に限定せず、時に過去に戻り、また現在に戻り、そしてまた違った過去に戻るというように、頻繁に行ったり来たりを繰り返すと、読者の頭は、少し混乱してきます。

更に、作者は、登場人物の性格や、場所の特徴が、語られる時間によって、『変化』していることを『対比』的に示そうとしたりしますので、『あれあれ、前はそうではなかったのに』と読者の混乱は更に増します。

最も頭が混乱してしまうのは、『ある記述』が、作者の第三者的な視点で述べられているのか、作中の登場人物の視点で述べられているのかが判然としない場合です。『おいおい、どうなっているんだよ』と言いたくなります。

文学作品は、自然科学の論文とは異なりますので、全体が理路整然としている必要はなく、『霧の中の感じを醸し出す』ことが、むしろ目的であれば、このような『しくみ』を利用して、読者の脳を惑わせることも許されるのでしょう。

ウンベルト・エーコの手にかかると、芸術的な文学作品も、このように『丸裸』にされてしまうことを知って、梅爺は、驚きました。

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