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2008年5月11日 (日)

清く正しく美しく(5)

『清く正しく美しく』の、程度や内容の解釈によっては、自分は『清く正しく美しい』と言えない事はありません。しかし厳密に考えて、『清く正しく美しく』を真面目に追求すれば、人は生きていけないことにもなりそうです。『清貧に生きる』ということも、すばらしいことですが、限度があります。

食欲や味覚を満足させるために、生き物を殺していますし、新しい経験や環境を求めて旅をすれば、乗り物の炭酸ガス排出で、地球環境の汚染に加担してしまいます。何よりも、自分が意図しないものであっても、迂闊な言動で他人の心を傷つけてしまうようなことは、全く無いと断言できる自信はありません。

人間の心の中に、善良な面と邪悪な面の両方が共存しているように、人間そのものの存在も、きわどい矛盾の上に成り立っているという認識があって、初めて、それでもなんとか『清く正しく美しく』ありたいと願うことに、大きな意味があるように感じます。

くどくどと書いてきましたが、皮相的に『清く正しく美しく』をとらえ、この言葉の裏にある大きな矛盾に気づかない人には、なんで梅爺がこんな言葉に、そのようにこだわるのかも理解していただけないかもしれません。

仏教の教えに従って、人間が悟りの境地にいたり、完全に煩悩から解脱できれば、その人は、正しく『清く正しく美しい』存在であり、『善良柔和』な人と呼べる存在であろうと思いますが、梅爺も含め、普通の人は解脱できませんから、自己矛盾を抱えながら、それでも『清く正しく美しい』『善良柔和』な存在に近づきたいと、願い求めることが、精一杯できることになります。

邪悪な心や悪意だけに支配されている人は論外ですが、凡人は死を迎えるに当たり、努力をしたけれども至らなかった人生であることは、許して欲しいと願うのではないでしょうか。梅爺は、『自分の人生は、天地神明に誓って、清く正しく美しいものであった。それが、何よりの誇りだ』などと言い残し、満足顔で死ねる自信は全くありません。

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