« ウンベルト・エーコの文学論(1) | トップページ | ウンベルト・エーコの文学論(3) »

2008年5月17日 (土)

ウンベルト・エーコの文学論(2)

ウンベルト・エーコは、文学が作り出す『社会的な共通認識(絆)』を指摘し、これを『時間をかけた社会投資のひとつ』と表現しています。物語の『語り手』と『聞き手』、文学の『作家』と『読者』の間で、時間をかけて作り上げられた『仮想事実』には、誰も異論を挟まないという一種の不文律があるということでしょう。

例を挙げれば簡単な話で、『桃太郎は、鬼が島へ渡り、鬼を征伐した』という話は、社会の中で『仮想事実』として定着しており、誰も『桃太郎は、鬼が島で、鬼との戦いに敗れ討ち死にした』と主張しないということです。

物理法則は、人間や人間社会とは無関係に『存在』しますが、この文学が創りだす『仮想現実』は、人間や人間社会がなければ『存在』しないことになります。このプロセスを、ウンベルト・エーコは『社会投資の成果』と呼んでいるのだと理解しました。

オリジナル作品の全ての部分が、神聖な『仮想事実』として残るわけではなく、作家が、意識的に、または無意識に判断を読者に委ねる部分が含まれることは当然です。物語の些細な部分については、『聞き手』や『読者』が、故意に、『表現を変える』ことも、ある程度は許されています。

梅爺の母親が父親(梅爺の祖父)から聞かされた桃太郎の話では、桃太郎が、家来に黍団子を『一つ』与えたのではなく、『もったいないから』と言って『半分』与えたとなっていたと、母親は生前語っていました。祖父が、茶目っ気で話を変えたのか、大切なものは大事にしなさいという教訓で変えたのかは、梅爺には分かりませんが、そのような祖父でも、決して『桃太郎は、実は鬼が島で討ち死にしてしまった』とか『金銀財宝を独り占めにして、おじいさん、おばあさんの所には帰りませんでした』などと、『仮想現実』を変えたりはしなかったことでしょう。

コンピュータによる、電子データとして文学の素材が扱われるようになると、この『作者』と『読者』の間の関係が、大きく変わる可能性があることも、ウンベルト・エーコは指摘しています。つまり、オリジナルな『桃太郎』に、読者が勝手に手を加え、『新桃太郎』『新々桃太郎』が登場する可能性が高まり、従来不文律として存在していた、『絆の形』が変容するかもしれないと推測しています。不文律が消失すれば、著作権でしかオリジナル作品は保護されませんが、限界があることは確かです。

ブログの流行などを見ていると、良し悪しはともかくとして、『一億総白痴化』ならぬ『一億総作家化』の時代に突入しているとも見えますので、鋭い本質指摘であると感じました。読者参加型の『創作』で、『創作』とは何かの概念は変わるかもしれませんが、それでも文学の本質は、人間の『運命』や『死』に関わる表現であろうとウンベルト・エーコは指摘しています。

|

« ウンベルト・エーコの文学論(1) | トップページ | ウンベルト・エーコの文学論(3) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ウンベルト・エーコの文学論(1) | トップページ | ウンベルト・エーコの文学論(3) »