« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月31日 (土)

鉄と神話(3)

今年の同級会では、新日鐵名古屋製鐵所を見学する前に、熱田神宮(あつたじんぐう)を参拝し、翌日は伊勢神宮(内宮、外宮)を参拝しました。熱田神宮には、『三種の神器』の一つである、『天叢雲剣(あめのむらぐものつるぎ:草薙剣とも呼ばれる)』が、伊勢神宮には『八咫鏡(やたのかがみ)』が奉納されていると言われていますので、梅爺たちは、たった二日間で、二つの神器を間接的に拝んだことになります。『間接的』と書いたのは、二つとも『一般公開』されたことがありませんので、どんなものなのかは知る由もないからです。

『天叢雲剣(草薙剣)』は、神話によると、素箋鳴尊(すさのうのみこと:天照大神の弟)が、出雲に降臨した折に、八岐大蛇(やまたのおろち)を成敗し、その尾から取り出したものとされています。素箋鳴尊は、この剣を姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上し、その後、天照大神の孫にあたるニニギが、天皇家の祖先として日向の高千穂に降臨する際に、『三種の神器』としてつかわされた、と伝えられています。『三種の神器』は、その後今日まで、天皇家の正統性の象徴として伝えられてきたことになります。ちなみに、神器の一つの『八尺瓊勾玉(やさかにのぬがたま)』は、現在皇居内寝殿に安置されていると言われていますが、これも一般に公開されたという話は聞いたことがありません。

同級会の幹事のOさんによれば、江戸時代に『天叢雲剣を見たという人の記録が唯一残されている』とのことで、それによると、『白く輝く直剣』と描写されていることから、これは『鉄製の剣』であったろうとOさんは推測しています。当時としては、貴重な『鉄の剣』が、神器になったという話は、説得力があるように思いました。

| | コメント (0)

2008年5月30日 (金)

鉄と神話(2)

古代においては、鉄の利用技術を持っている民族が、日常の生活ばかりでなく、戦闘における武器、防具で、青銅の利用技術しか持たない他の民族を圧倒できたに違いありません。日本においても、各地の豪族が、独立した小国家を形成していた時代から、大和朝廷による統一国家へ移行する過程で、鉄の利用技術の支配が、大きな役割を演じたのではないかと推測できます。

現代社会では、鉄はあらゆる産業の基盤となる素材であり、工業化社会では『鉄は国家なり』とまで言われました。

しかし、鉄鉱石を高温で熱して、素材となる鉄を溶かして取り出す、という基本的な方法は、古代も現代も変わっていません。今回見学をした、新日鐵名古屋工場の4500立方メートル以上もの内容積をもつ巨大な高炉も、基本はこの方法により、鉄鉱石から銑鉄を連続的に作り出す方式のプラントですが、その規模と高度な制御技術(コンピュータ制御)は、古代とは全く比べものになりません。工場に隣接した岸壁に横付けされた巨大な輸送船から、輸入した鉄鉱石やコークスが、ほぼ無人操作で、積み下ろされ、連続的に高炉へ投入されていく様は圧巻でした。高炉から取り出された銑鉄は、転炉や真空脱ガス処理で、極低炭素の鋼に変わり、連続鋳造で鋼片(スラブ)にされた後、熱間圧延(今回はこの行程も見学)、酸洗、を経て熱延鋼板という製品になります。その後、需要に応じて、熱延鋼板は、冷間圧延、連続焼鈍を経て冷延鋼板に変わるか、冷間圧延、溶融亜鉛めっきを経て溶融亜鉛めっき鋼板に変わり、顧客へ出荷されます。

これらのプロセスが、巨大な工場の中で、整然と行われていくのを見るだけでも驚きますが、更に最終製品の仕様や品質を、顧客の要望に合わせて、細かくコントロールしているという話を聞くに及んで、一体この工場の中に、どれだけ多くの製造に関するノウハウが蓄積されているのだろうかと、考えててしまいました。

原材料を自国生産できる発展途上国が、製鉄工場を作ったら、日本は脅かされるなどという人もおられますが、今や、世界のどこでも『日本の生産技術』なしには、鉄は生産できないにちがいないと、梅爺は感じました。日本の鉄鋼業界と顧客業界(自動車や家電業など)は、厳しい条件を相互の努力によって乗り越えることで、世界最先端の工業製品レベルを実現し、維持しているのだということを再認識しました。

日本の製鐵技術、それを支える周辺技術、環境対策技術は、圧倒的に高いことを肌で感じて、梅爺は大いに安心し、誇らしく感じました。日本に自信が持てないという方は、一度製鐵会社の現場を見学されることをお奨めします。

| | コメント (4)

2008年5月29日 (木)

鉄と神話(1)

5月23日から24日にかけて、1泊の大学同級会(昭和39年工学部精密機械工学科卒)が開催され、梅爺は、いそいそと出かけました。卒業時は24名でしたが、残念なことに2名が既に他界され、現メンバーは22名です。今回は、都合で3名が欠席されましたが、それにしても、年齢を考えると、19名の参加というのは、大変結束力の堅い証のように思います。元々少数のクラスでしたが、年を経て一層親密な関係になっているように感じます。

今回は、名古屋在住のOさんが幹事で、事前に『鉄と民話の旅』という綿密なスケジュールが電子メールで送られてきました。インターネットの時代とは言え、この歳で、全員電子メールが使えるということは、すばらしいことのように思います。Oさんが、仕事の現役時代に重職につかれていた、新日本製鐵名古屋製鐵所の、高炉と熱圧延行程を見学し、さらに熱田神宮、二見浦(ふたみがうら)、伊勢神宮(内宮、外宮)、猿田彦神社などを巡るスケジュールでした(宿泊は、鳥羽シーサイドホテル)。

『鉄と神話の旅』は、最先端の製鐵工場の見学と、熱田神宮、伊勢神宮などを無理に結びつけた『苦肉のこじつけ』かと気軽に考えて出かけましたが、移動のバスの中で、Oさんが大変な『博識』を駆使して、『鉄と神話』の関係を解説してくださり、『こじつけ』などと浅薄に考えていたことが、大間違いであることに気付き、恐縮しました。

『鉄は宇宙に存在する(金属)元素の一種』という、当たり前の知識しか持ち合わせていなかった梅爺は、地球という『星』の成分の約1/3が鉄であることを知って驚きました。経済的に掘り出せるかどうかを別にすれば、鉄資源は、ほぼ無尽蔵と言えそうです。金属元素が重くなると、地球上の埋蔵量は少なくなる、という一般的な関係に反して、何故鉄だけが多いのかということを説明するには、ビッグバン以降の元素の生成プロセス、地球で鉄化合物(酸化鉄)が大量にできたプロセス、元々海中の鉄イオンが酸素と結びついて酸化鉄となり海底に沈殿したものが、何故現在陸地で鉄鉱石として掘り出せるようになったのかというプロセスなどに、合理的に言及する必要がありますが、Oさんの解説で、それらのいくつかについて、梅爺はなるほどと得心がいきました。

鉄も含め、純粋に精錬された金属の持つ、特殊な性質については、まだ人類は全てを理解しているわけではないということも神秘的ですが、鉄が、人類の歴史に果たした功績が大きいことは、説明を要しません。鉄を先に『実用化』した民族が、他の民族に対して有利な立場を獲得したであろうことも想像に難くありません。

それに従えば、神話や民話として伝承されてきた物語の中に、『鉄の果たした物語が隠されている』ということも、当然推察でき、日本の歴史も例外ではないという話をOさんはされました。鉄を実用化する知識が、どのような経路で日本にもたらされのか、そして、その有利さを誰がどのように利用したのかを追及していくと、日本の古代史の事実が見えてくるかもしれないという壮大なロマンに、梅爺は、うっとり聞きほれました。

| | コメント (0)

2008年5月28日 (水)

祖父母(3)

梅爺が、生前の祖父母に直に接したのは、母方の祖母だけです。といっても、この祖母は、確か103歳位まで永生きしましたので、梅爺が50歳位の『オジサン』になるまで、存命でした。祖父が、50歳半ばで亡くなっていますので、亭主の約倍生きたことになります。

晩年まで愛煙家でもあった祖母が、長生きできた理由は、物事を、あーだ、こーだと、くよくよ考えないおおらかな性格であったからであろうと想像しています。その反面、周囲のことを自分に都合よく解釈して、単純に思い込む性格でもあったように思います。

息子(梅爺の伯父)が、京都大学の数学の教授になり、亭主(梅爺の祖父、京都大学法学部教授)と同様、フランスへ留学したことを誇りに思っていたようですが、梅爺の伯父が、戦後の困難な時期に、栄養失調が原因で亡くなってしまったのを『嫁のせいだ』と決めつけていたようなところがありましたので、嫁姑(しゅうとめ)の関係は、その後も芳しくなかったのではないかと梅爺は推察しています。伯父は、真面目な性格が災いして、ヤミ物資を入手するようなことができなかったのでしょう。戦争がなければと悔やまれることの一つです。

伯父は、京都大学理学部で、湯川秀樹博士と同時期に教職についたらしく、祖母は湯川博士を息子のライバルと思い込んでいたふしがあります。そのせいか、後年湯川博士がノーベル賞を受賞した後も、湯川博士を決して良くは言いませんでした。母親としては無理からぬことですが『本当は息子の方が上出来』と信じていたのでしょう。

梅爺は、小学生の頃、母親に連れられて、兵庫県伊丹市に住む祖母を何回も訪ねた思い出があります。派手好きな祖母(その当時はかくしゃくたるものでした)は、子供の梅爺を、京都の料亭や宝塚歌劇にまで、連れていってくれました。新潟県の長岡しか知らなかった当時の梅爺には、大阪や京都といった大都会や、絢爛たる宝塚歌劇の舞台は、夢のような世界でした。

| | コメント (0)

2008年5月27日 (火)

祖父母(2)

母方の祖父が、民法学者として、明治の終わりの時期に、どんな人間も生まれた時に保有している基本的な可能性を、理不尽な社会制度で摘み取ってしまうことを嫌っていたこと知って、多少なりともDNAを受け継いでいる孫の梅爺は、大変誇らしく思っています。

人が、能力差をもって生まれてくることは、誰もが異なったDNAで支配されている以上、認めざるを得ないことですが、前に『運命』というブログで書いたように、人の総合的な『運命』は、自分ではいかんともしがたい『天命(生まれつきの能力差や避けがたい事故への遭遇など)』と、『自分での意思や努力で切り拓いていけるもの』との、織り成せる綾で決まりますから、生まれつきの能力だけで、強運は保証されません。

人間社会の上下関係は、この『運命』で決まってしまうことが多いように思いますが、上に立った人間が、『自分は本当に偉い、自分だけには許されることがある』と勘違いしてしまう悲劇が、周囲に多いのは残念なことです。

話が、祖父から少し逸れてしまい、すみません。

梅爺の祖父が、なぜ幕末の古河藩(茨城県)の儒家の息子として生まれながら、『忠君愛国』という明治の国策の裏にある、個人の可能性をこの一言で押し殺す危険性と理不尽さを感じ取るようになったのかは、梅爺の興味の対象ではありますが、祖父の死後20年以上も経って生まれた梅爺には、知る由もありません。望んでも適わないことですが、現在の梅爺と、当時の祖父が、会話できたら、どんなことになるのだろうと、夢想してしまいます。質問してみたいことが山ほどあります。

祖父が残した膨大な著述資料は、立命館大学産業社会学部の鈴木良先生の収集努力のおかげで、現在同大学で所蔵保管されています。

| | コメント (0)

2008年5月26日 (月)

祖父母(1)

梅爺は、末っ子であったこともあり、生まれたときには、既に父方の祖父母および母方の祖父は、他界しており、おじいさん、おばあさんの話は、父母を通じて、断片的な話を聴くだけでした。当時のことですから、今のように豊富な写真などが残っているわけではなく、限られた写真の顔かたちや、断片的な話から、どんな人であったのだろうかと、子供心に想像はしてみましたが、当然のことながら、全体像は浮かんできませんでした。

父方の祖父は、茨城県の鹿島に、農地(新田)を拓いた長(庄屋)の家に生まれましたが、若い頃は、福沢諭吉の家で書生をしていたと聴いていますので、向学心が強い人であったのだろうと思います。新田に戻ってからも、読み書きができない農民のために、代わって貯金をするなどの仕組みを考え、終生農民から尊敬された人のようです。何しろ、知らない人から道を尋ねられた時に、夜道を提灯をもって、何里も送っていったという逸話が残っていますので、孫の梅爺などは、足元にも及ばない人徳者であったのでしょう。父方の祖母は、江戸の家臣関口家(東京の本郷に関口と言う地名が残っている)の娘で、武家の娘として気位の高かったのではないかと想像しています。残されている写真を見ても、凛(りん)とした雰囲気が伝わってきます。

母方の祖父は、明治の終わり頃に、京都大学の法学部教授(民法)を努めていましたが、フランス、ドイツへ留学たこともあってか、当時の日本の国策に合わない思想の持ち主で、岐阜で講演をした内容が問題になり、教授職を自ら辞して、大阪で弁護士を開業しました。残されている論文などを見ると、女性の地位の改善や、正規の結婚では無い環境で生まれた子供の人権擁護を訴えていますので、現在なら過激でもなんでもない当たり前のことに過ぎません。ただ、『忠君愛国』というような国策思想にも反対していたらしいので、文部省からは、要注意人物と看做されたのでしょう。

残されている著作物の多さを見ると、梅爺のブログなどは、取るに足らないものであることが分かります。梅爺の反骨精神も、多分にこの祖父から受け継いでいるのではないかと、想像していますが、祖父の場合は、命がけの筋金入りですから、これも梅爺の比ではありません。

| | コメント (0)

2008年5月25日 (日)

イラクからのアメリカ帰還兵(2)

梅爺は、前に『中世の人たちには、流血や死を見るのは日常的なことであったのに対し、現代人には、流血や死は、日常的ではない異常体験になってしまったので、現代人が中世の人たちの死生観を考えることは難しくなってしまった』というような内容が書いてある本を読んだことがあります。

しかし、本当にそうなのでしょうか。アメリカの純真な青年達は、現代人であるために、イラクの戦場でショックを受け、精神障害を発症したのでしょうか。梅爺は、むしろ人間は誰でも、過酷な経験に晒されると、程度の差はあれ、精神障害を起こす可能性を『本来秘めている』ように思えてなりません。確かに、日常的に死に接している医師や看護婦が、死に対して『慣れっこになる』ことはあり、また最初から異常な精神の持ち主は、『死(殺すこと)をなんとも思わない』ということがあるだろうと想像しますが、『普通の人間の、普通の反応』はそうではないように思います。

もし、梅爺の想像が正しいとすると、『人間の脳は、ある限度を越えたショックを受けると、正常に働かなくなる』ようにできていることになります。逆に言えば、『限度を越えたショックを、できれば回避して生きていたい』という本能を持っていることになります。そういう本能を持っている方が、生物種として生き延びる可能性が高いために、獲得した本能であるように思います。

一方、生物種として生き延びるためには、『殺す』『略奪する』ことも繰り返してきたために、この本能も人間の中には残っています。しかし、自分や家族が殺されたり、略奪されたりしたときの『限度を越えたショック』を想像すると、これも耐え難いことなので、人間は、ショックを回避するために、社会的『殺すな』『盗むな』という『法』や『ルール』を作り出してきたのではないかと思います。

人間は『性善説』も『性悪説』も当てはまる動物ですが、どちらかと言えば『性善説』を重視した方が、生き延びる可能性が高いと本能で知っている動物なのではないでしょうか。多くの宗教が、『自分の中の悪を退け、善良に生きよ』と教えるのは、そのためであるように感じます。高尚な『道徳論』などを好まれる方には、まことに味気ない話で、申し訳ありません。

| | コメント (0)

2008年5月24日 (土)

イラクからのアメリカ帰還兵(1)

アメリカのイラク侵攻から5年が経過し、その意味を問いかけるアメリカのテレビ局が作成したドキュメンタリー番組が、NHKBS放送で、5回にわたり放送されたのですが、梅爺は、うっかりしていて、1回分しか録画できませんでした。その内容は、『イラクからのアメリカ帰還兵』に焦点をあてたもので、最近観ました。

イラク侵攻の最初の作戦に参加し、1年後に帰還した4人の若者(将校ではない兵卒)のその後を、何年にもわたり追い続けた内容で、その深刻な内容に、観ていて心が暗くなりました。

昔から、戦場を体験して帰還した兵士の約1/3が、何らかの精神障害をその後発症するといわれていますが、アメリカのイラク侵攻も例外ではないようです。

番組で取り上げられた4人は、いずれも帰還時には、『英雄』として地元から熱烈な歓迎を受けるのですが、その後、うまく他人と接することができなくなり、社会復帰ができずに、悩むことになります。

敵味方なく転がる焼け焦げた死体や、バラバラの死体を乗り越えながら、敵を狙撃し、殺し、時には、今まで共に闘ってきた仲間の悲惨な死にも遭遇するという、地獄のような経験をした兵士達は、帰還後、幻覚や不眠症に悩まされることになります。

4人はいずれも、純真な青年で、出征前は、『愛国心』に燃え、または圧政に苦しむイラクの人たちを解放しようと考え、そのためには、最悪自分の死も受け容れようと覚悟をしていました。

しかし、開戦後、時間が経過するにつれ、アメリカ兵の犠牲者も増え、アメリカ社会に、イラク侵攻の意義を疑問視する批判がひろまり、帰還兵達は、一層自分達の身の置き場がなくなっていきます。

それでも、なんとか『自分達の行動は意味があったのだ』と、自分で自分に言い聞かせようとすればするほど、精神障害は重くなっていきます。

なんとか立ち直ろうと、大学へ復帰したり、モルモン教の宣教活動のために南アフリカへ出向いたり、不良の子どもを善導するボランティア活動に参加したり、恋人を作って交際したりしますが、いずれも、長続きしません。

梅爺が、最も暗い気持ちになったのは、その中の一人が、『結局アメリカ社会の中に自分の身の置き場はない。たとえ死ぬことがあっても、戦場に戻った方が、生きがいがある』と主張して、家族や友人の反対を押し切り、イラクの前線へ戻ってしまうことでした。しかし、この青年は、今度は前線には配置してもらえず、再び除隊して、結局貧しいアジアの国へ放浪の旅に出てしまいます。見かけ上豊かで、平和なアメリカと異なり、毎日死と隣りあわせで生きている貧しい人たちの生活が、世界にあることを知ってしまった真面目な青年は、もう、アメリカでは暮らせないと主張します。

梅爺には、これらの事実を小賢しく論評する資格がありませんが、それでも、過酷な体験で人間が変わってしまうことについて考え込んでしまいました。

| | コメント (0)

2008年5月23日 (金)

ウンベルト・エーコの文学論(8)

ウンベルト・エーコは、最終章で、『自分の書き方(小説を作り上げていくプロセス)』を公開しています。これは、彼の作法であって、他の作家にも共通するものではないのですが、梅爺は大変面白く感じました。

梅爺は、エンジニアとして製品を具体化していくプロセスを体験してきましたので、作家も同じように振舞うのであろうと予想していました。つまり、テーマを思いつき、次に筋書きの梗概を考え、次に、登場人物、場所、時代などの詳細を特定して、最後に、具体的な文章に取り掛かるのだろうと、常識的に予想しました。

しかし、ウンベルト・エーコの場合は、意外なことに、ある特定な『場面(視覚的な)』を想起して、それを中心に、構想を練り始めるということが分かりました。『薔薇の名前』では、『修道僧が、修道院の隔離された図書室で、書物を読んでいる最中に殺害される』という『場面』を思いついたことが原点だというのです。具体的な文章を書き始める前に、数年にわたり、修道院の『地図』を描いたり、登場人物の衣服や顔つきを、『絵』に描いたりして、脳裏のイメージを確定していく努力を繰り返すとのことでした。この作業を抜きにしては、『自信をもって、文章が書けない』と述べています。エーコが、一作に5年から8年からかける理由の一端がわかりました。エーコにとって、一番寂しいときは、作品を書き終えた時と述懐しています。自分が精魂込めて作り上げてきた『世界』と、決別しなければならないからなのでしょう。

『もし、明日地球が滅亡すると分かったら、今日書くか?』との質問に、エーコは、『読者がいないと分かったら書かない。しかし、誰かが生き残って将来自分の作品を読んでくれる可能性があれば書く』と答えています。

『自分だけのために書く』などという作家は、嘘つきで、自分だけのために書くものは『買い物メモ』だけでよいと、エーコは皮肉っています。

梅爺も、ボケ防止と言いつつも、どなたかが、梅爺の、喜びや、感動や、嘆きや、悲しみを理解してくださるかもしれないと『期待』して、ブログを書いていることに、思い当たりました。しかし、当然、梅爺閑話が、エーコの作品に、匹敵するようなものだと、思い上げっているわけではありません。

| | コメント (0)

2008年5月22日 (木)

ウンベルト・エーコの文学論(7)

『真実(Truth)には力がある』『正義(Justice)は最後に勝つ』などという表現を、私達は、従順に受け容れていますが、ウンベルト・エーコは、『それでは、真実でないものには力が無いのか?』という問題提起をしています。世の中には、このように、梅爺以上に理屈にこだわる人がいるので楽しくなります。もっとも、『Fiction(つくりごと)』を書く作家としては、気になることなのでしょう。

エーコは、『真実』と断言できるものは、科学の法則や検証された事実のようなものを除いて、存在しないのではないかと主張しています。神様ではない人間の知識は限定されていますから、それはごもっともな話です。つまり『真実』と称するものの大半は、『人間が真実であると思ったこと』に他なりません。

ダーウィンの生物進化論が認められるまでは、『人間は神によって創られた』という考え方が『真実』でしたし、コペルニクスのような学者の主張が認められるまでは、『太陽が地球の周りを回り、地球は平らである』という考え方が『真実』であったことになります。これらの、現在では『真実ではない』と判明していることをを、当時は『真実』として多くの人が信じ、ローマン・カトリックは、これに反する主張をする人達を、弾圧しました。

このような、話は、『昔の不幸な出来事』ではなく、現代も、『自分が真実であると思うものが真実であり、それを真実と思わない他人は異端者として排除する』という人間の習性は、少しも変わっていません。ブッシュとオサマ・ビン・ラディンの対立を例に挙げるまでもなく、梅爺も、知らず知らずにこの習性で、自分と他人の関係を律していることになります。恐ろしい話です。

科学の法則が、社会や歴史を動かす力であることは明確ですが、『人間の思い込み』も、これに劣らず社会や歴史を動かす力であることは、過去の事例を見れば、これまた明確です。

『真実』や『正義』は、自分の思い込みを正当化するときに、使われる言葉である場合が多いので、この言葉を耳にしたら、まず疑ってかかる方が良いのかもしれません。

エーコは、ある作家が書いた『作り事』が、やがて一人歩きして、『真実』となり、歴史を動かすようなものにまで発展した例を、いくつか紹介しています。見方によっては、『神話』『聖書』『コーラン』『経典』なども、その部類に入るのかもしれません。つまり『真実であろうがなかろうが、人間が思い込んだことには力がある』というのが問いに対するエーコの回答です。

| | コメント (0)

2008年5月21日 (水)

ウンベルト・エーコの文学論(6)

文学の鑑賞は、著作者と読者の間で交わされる『ゲーム』のようなものだと昨日書きました。著作者の意図が、あまりにも高尚で、読者の理解能力を越えていると、読者は、『面白くない作品』と感じ、ゲームを放棄します。一方、読者の理解能力や感受性が高ければ、同じ作品が『たまらないほど面白い作品』と評価されます。このように同じ作品に対する評価は、読者によって異なります。

ウンベルト・エーコは、著作者が、このような単純な評価に終わらせないために、作品の中に仕掛ける『ダブル・コード』について触れています。つまり、能力の高くない読者でも、それなりに『面白い』と感じさせ、能力の高い読者は、また違った面で『面白い』と感じさせるように、『二重の意図(ダブル・コード)』を、作品の中に準備するという話です。

ウンベルト・エーコの作品『薔薇の名前』を、梅爺は、推理小説として『面白く読んだ』と前に書きましたが、もし、梅爺に、ヨーロッパの中世や、当時のキリスト教の状況などに関する深い知識があったり、文体に込められている寓意を推察できる洞察力があれば、全く異なった読み方で、この作品を堪能できたに違いありません。エーコが、親切にも、梅爺でも理解できる一面(推理小説の一面)を、意図的に用意してくれたことに、感謝するしかありません。

この『ダブル・コード』は、文学の世界だけではなく、音楽の世界にもあります。有名なものは、ビートルズの曲で、音楽理論などには詳しくない世界中の若者を熱狂させた面と、その斬新な和声コードの進行で、音楽理論に詳しい人たちを感服させた面の、双方を内包しています。ビートルズの曲がオーケストラ用に編曲され、演奏される機会が多いのはこのためです。

オペラなどにいたっては、『ダブル・コード』どころか、『三重コード』『4重コード』と、仕掛けがありますから、観客は、自分の能力の範囲で、それぞれに楽しめることになります。

梅爺の専門であった『工学』の分野でも、良い製品は、能力の低い利用者でも『それなりに利用』でき、能力の高い利用者には、『奥深い利用』ができるように配慮します。パソコンなどは、『ダブル・コード』が仕組まれた、代表的な商品と言えます。

能力の高い、芸術家は、『ダブル・コード』を作品の中に、忍ばせて、鑑賞者にゲームを挑み、その結果、幅広い鑑賞者を魅了した作品が、後世まで『名作』として残るのでしょう。このゲームは、仕掛ける側の芸術家に圧倒的な有利な状況で展開されますので、梅爺のようなレベルの低い鑑賞者は、すっかり手玉にとられてしまうことになります。

| | コメント (0)

2008年5月20日 (火)

ウンベルト・エーコの文学論(5)

当然のことながら、ウンベルト・エーコの『On Litarature(文学について)』を読んで、梅爺は、自らの洞察力の浅さを思い知らされました。沢山引用されているギリシャの古典や、ダンテの『神曲』などに関する知識を持ち合わせていないのは、それを専門にしてきた方との違い、ヨーロッパ人と日本人の違い、文科系と理科系の違いと、言い訳ができますが、梅爺が『何気なく見過ごしている事象』に思いもよらない深い洞察が示されるのを読むと、世の中には、すごい人がいるものだと、感心し、『参った。参った』と言いたくなります。洞察力の違いは、言い訳ができません。

この本の内容は、梅爺がここ数年読んだ本の中では、『最も難解』なもので、表面的な字面は追えますが、著者が言いたいことの3割程度しか、理解できていないのではないかと感じています。難しいので、面白くないというのではなく、滅法面白いのに、分からないという、哲学の本をよんでいるような実感です。

ウンベルト・エーコは、文学における、『空間』や『時間』は何だろうと自問し、見解を述べています。私達の実生活においては、『空間』や『時間』は自然の法則に支配されているもので、人間が自由に操ることができませんが、文学で示される『空間』や『時間』は、読者の脳の中に想起される仮想概念ですから、異質なものであることは直ぐに想像できます。ウンベルト・エーコの認識は、深遠なものですが、梅爺流に理解すれば、以下のようになります。

『その部屋は、10畳くらいの広さだった』とか『そして、10年の歳月が流れた』とか、書けば、『状況』を伝える目的は果たしますが、文学は、著者と読者の間に繰り広げられる『ゲーム』のようなものであり、著者は、読者に『情念』を想起させる『しかけ』を施そうとしますので、『状況』を伝えることは手段であって、必ずしも主目的で無い場合が多く、『空間』や『時間』の表現にも『しかけ』を施します。

例えば、『その広場は、右手に教会があり、左手に王宮があった』と書けば、その『空間』の規模と同時に、読者は、その広場の歴史や雰囲気までも、一気に想起しますし、『玉手箱をあけた途端、白い煙が立ち上り、浦島太郎は白髪のお爺さんになりました』と書けば、読者は、この世と竜宮城では、時間の経過が違うのだと初めて知って、文字通り『あっと、驚く』ことになります。

人間の脳の中で、想起できることは、『自由に操れる』ということを利用し、著者は、色々な手を尽くして、読者に迫ります。『空間』や『時間』といった、普通は『変えられないもの』と思い込んでいるものさえ、文学は『操る』対象にしてしまっていることになります。読者の『ゲーム』能力が高ければ、その程度に応じて、文学作品を通じ、自分だけの『情念』を獲得して、感動したり、楽しんだりできることになります。

| | コメント (0)

2008年5月19日 (月)

ウンベルト・エーコの文学論(4)

梅爺は、心外なことに、仲間から『お前は毒舌家だ』とよく言われます。普通は『当たり前なこと』と思われていることに、異なった視点から疑問を投げかけるようなことを言う癖があるためなのでしょう。

作家は、文学作品の中で、独創的な『警句(Aphorism)』を、作家の視点として、または登場人物の視点として、よく利用します。夏目漱石の『智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい』などは、出色の『警句』です。『警句』と同様なものに『金言(Maxim)』や『諺(Proverb)』などがあります。いずれも、機智、諧謔に富んでいるものが、好まれますが、時に、毒舌や皮肉に類するものもあります。

ウンベルト・エーコは、この『警句』論を、『警句』を多用したことで有名なオスカー・ワイルドを主として例に挙げて展開しています。『警句』は、自然科学の『公理(Axiom)』とは異なり、ものごとの一面を鋭く突いているとは言えますが内容が『真』であるとは限りません。『警句』の一部は、それを裏返した表現も、それなりの主張となる場合があり、パラドックスの一種となります。

梅爺がブログで紹介した江戸いろはカルタの『花より団子』『論より証拠』は、『団子より花』『証拠より論』としても、それなりの主張となりますので、パラドックスの一種が出来上がります。

『警句』は、高度な『言葉遊び』として楽しめばそれでよいと梅爺は思いますが、中には、目くじらを立てて怒り出す人もいますので、厄介です。例えば、『弱みを持たない人は、他人の弱みを見て喜ぶことができない』『若い頃は、誰も信仰深くありたいと思うがそうではない。歳をとって、信仰などどうでも良いと考えたくなるが、そうもいかない』『育ちの良い人は、他人を許せないが、賢い人は自分が許せない』『真実が明るみに出て宗教は終わる。科学は宗教の死亡診断書である』などというウンベルト・エーコが例に挙げている『警句』を読んで、『不謹慎にも程がある。怪しからん』と怒り出す人は、作家の『遊び心』とつきあえないことになります。

ウンベルト・エーコの小論の中には、ここで紹介をし始めたらきりが無いほどの、沢山の『警句』が掲載されています。興味深いことに、最後にオスカー・ワイルドの究極の『警句』として、『全ての芸術は無意味である』を挙げています。梅爺ではなく、偉大な作家が、これを芸術に対する『究極の警句』としていることに大きな意味があります。

| | コメント (0)

2008年5月18日 (日)

ウンベルト・エーコの文学論(3)

小説の中には、部分、部分の表現は決して幻想的なわけではなく、明解な記述であるにもかかわらず、読んでいるうちに『なにやら霧の中へ迷い込んでしまった』ような『感じ』を受けるものがあります。日常で体験しないこの『感じ』を、私達はその文学作品の『深み』として受け取ります。

ウンベルト・エーコは、このような作品が、どのような『しくみ』で『霧の中の感じ』を作り出しているかを、手品の種明かしをするように、分析、解析して見せてくれています。記号論に詳しい哲学者でもある、エーコの面目躍如といったところです。

これを読んで、私達は、『そんなしくみに騙されていたのか』と嘆く必要はありません。『しくみ』は方便であり、作品の価値がそれで損なわれるわけではないからです。

エーコは、2次元のグラフを用い、横軸に時間の経過を、縦軸に出来事(イベント)をプロットします。日常の出来事は、時間の経過に従ってイベントが起こりますから、時間の経過通りに、物語を進行させれば、読者は、自然にその経緯を受け容れることができます。多くの小説は、当然このスタイルを採用しています。

しかし、作者が著述する順序を、時間の経過とおりに一方向に限定せず、時に過去に戻り、また現在に戻り、そしてまた違った過去に戻るというように、頻繁に行ったり来たりを繰り返すと、読者の頭は、少し混乱してきます。

更に、作者は、登場人物の性格や、場所の特徴が、語られる時間によって、『変化』していることを『対比』的に示そうとしたりしますので、『あれあれ、前はそうではなかったのに』と読者の混乱は更に増します。

最も頭が混乱してしまうのは、『ある記述』が、作者の第三者的な視点で述べられているのか、作中の登場人物の視点で述べられているのかが判然としない場合です。『おいおい、どうなっているんだよ』と言いたくなります。

文学作品は、自然科学の論文とは異なりますので、全体が理路整然としている必要はなく、『霧の中の感じを醸し出す』ことが、むしろ目的であれば、このような『しくみ』を利用して、読者の脳を惑わせることも許されるのでしょう。

ウンベルト・エーコの手にかかると、芸術的な文学作品も、このように『丸裸』にされてしまうことを知って、梅爺は、驚きました。

| | コメント (0)

2008年5月17日 (土)

ウンベルト・エーコの文学論(2)

ウンベルト・エーコは、文学が作り出す『社会的な共通認識(絆)』を指摘し、これを『時間をかけた社会投資のひとつ』と表現しています。物語の『語り手』と『聞き手』、文学の『作家』と『読者』の間で、時間をかけて作り上げられた『仮想事実』には、誰も異論を挟まないという一種の不文律があるということでしょう。

例を挙げれば簡単な話で、『桃太郎は、鬼が島へ渡り、鬼を征伐した』という話は、社会の中で『仮想事実』として定着しており、誰も『桃太郎は、鬼が島で、鬼との戦いに敗れ討ち死にした』と主張しないということです。

物理法則は、人間や人間社会とは無関係に『存在』しますが、この文学が創りだす『仮想現実』は、人間や人間社会がなければ『存在』しないことになります。このプロセスを、ウンベルト・エーコは『社会投資の成果』と呼んでいるのだと理解しました。

オリジナル作品の全ての部分が、神聖な『仮想事実』として残るわけではなく、作家が、意識的に、または無意識に判断を読者に委ねる部分が含まれることは当然です。物語の些細な部分については、『聞き手』や『読者』が、故意に、『表現を変える』ことも、ある程度は許されています。

梅爺の母親が父親(梅爺の祖父)から聞かされた桃太郎の話では、桃太郎が、家来に黍団子を『一つ』与えたのではなく、『もったいないから』と言って『半分』与えたとなっていたと、母親は生前語っていました。祖父が、茶目っ気で話を変えたのか、大切なものは大事にしなさいという教訓で変えたのかは、梅爺には分かりませんが、そのような祖父でも、決して『桃太郎は、実は鬼が島で討ち死にしてしまった』とか『金銀財宝を独り占めにして、おじいさん、おばあさんの所には帰りませんでした』などと、『仮想現実』を変えたりはしなかったことでしょう。

コンピュータによる、電子データとして文学の素材が扱われるようになると、この『作者』と『読者』の間の関係が、大きく変わる可能性があることも、ウンベルト・エーコは指摘しています。つまり、オリジナルな『桃太郎』に、読者が勝手に手を加え、『新桃太郎』『新々桃太郎』が登場する可能性が高まり、従来不文律として存在していた、『絆の形』が変容するかもしれないと推測しています。不文律が消失すれば、著作権でしかオリジナル作品は保護されませんが、限界があることは確かです。

ブログの流行などを見ていると、良し悪しはともかくとして、『一億総白痴化』ならぬ『一億総作家化』の時代に突入しているとも見えますので、鋭い本質指摘であると感じました。読者参加型の『創作』で、『創作』とは何かの概念は変わるかもしれませんが、それでも文学の本質は、人間の『運命』や『死』に関わる表現であろうとウンベルト・エーコは指摘しています。

| | コメント (0)

2008年5月16日 (金)

ウンベルト・エーコの文学論(1)

文学を体系的に学んだことが無く、予備知識も無い梅爺が、無謀にも前に『文学とは何だろう?』というブログを書きました。その折に、イタリアの現代作家のウンベルト・エーコの『On Literature(文学について)』という本を一応は買い求めてあって、未だ読んでいないと報告しました。

プロ中のプロで、大御所の本を敢えて読まずに、先ず自分の考えを書いてみて、後で、どのくらいのレベルの違いがあるのかを確かめてみるのも、一興と気楽に考えてやってしまったことですので、罪滅ぼしに早速『On Literature』を読み始めました。

ウンベルト・エーコは、記号論で世界的に有名な哲学者であると同時に、大学教授、小説家もこなす、当代きっての才人の一人で、日本でも『薔薇の名前』と言う小説がベストセラーになりました。『薔薇の名前』は、14世紀の北イタリアの修道院で次々に起こる怪事件を解き明かしていくと言う、推理小説(探偵小説)の形式をとりながら、当時の宗教論争(異端摘発)、や清貧論争を背景として扱う、エーコの才覚がぎっしり詰め込まれた面白い小説でした。中世ヨーロッパの歴史、文化、宗教に詳しい方には、こたえられない面白さであろうと思いますが、そういう背景をあまり持ち合わせていない梅爺は、『上質な推理小説』として読むにとどまったように記憶しています。日本で、このような難しいテーマを扱った本がベストセラーになったのは、やはり梅爺と同じく『推理小説』として読んだ方が多かったからではないでしょうか。

『On Litarature』は、折にふれエーコが書いてきた小論文やエッセイを一冊にまとめたものですので、文学について、体系的に説明した教科書のような本ではありません。梅爺閑話と比較するのは、大変おこがましい話ですが、エーコの興味の対象に関する心象が、鮮明に浮き彫りにされていて、一見バラバラな話題の羅列に見えながら、反って『文学の本質』が提示されているように、梅爺は感じました。

覚悟はしていましたが、梅爺の『文学とは何だろう』とくらべてみると、背景の知識量、本質のとらえかた、問題の洞察力、表現力の全てで、『月とスッポン』の違いがあることに直ぐ気づきました。勿論、梅爺の書いたものが『スッポン』です。

| | コメント (0)

2008年5月15日 (木)

のど元過ぐれば熱さ忘るる

江戸いろはカルタの『の』、『のど元過ぐれば熱さ忘るる』の話です。

人は、辛かった時のことを、それが過ぎ去ってしまうと、忘れてしまうものだということで、誰にも身に覚えがあることでしょう。段々に、時を経て忘れるというより、『のど元過ぐれば』は、直ぐに忘れてしまうというニュアンスが強いように感じます。一度経験した辛いことは、二度と繰り返さぬようにしなさい、という教訓にもとれますが、むしろ、『人は、性懲りも無く、同じことを繰り返すもの』という、人間の弱さを、『諧謔』的に表現しているように梅爺は感じます。

事件が起きるたびに、『再発防止策を徹底します』などと、関係者は、神妙に答えますが、本当に、再発しなくなるなどとは、よほどお人好しでも無ければ、心の中で信じている人はいないのが実情で、実際、同じような事件はあとを絶ちません。

人が持つこのような『弱み』を、擁護すれば、社会秩序が保てませんが、少なくとも自分もそのような『弱み』を保有しているということだけは、認識しておく必要があるように、梅爺は感じます。

人間は、辛い経験を、忘れるどころか、むしろ、『楽しい、懐かしい』思い出に変えてしまうという、奇妙な習性も持ち合わせています。『貧しかったけれども、肩を寄せ合って家族が生活していた時の方が充実していた』とか、『苦しい環境で、必死に頑張ったあのころが懐かしい』とか述懐します。多分、そういう『楽しい、懐かしい』思い出に変えた方が、『からだ』の健康のために良いということを、無意識に実行しているのではないかと思います。

しかし、戦争経験のように、『忘れたり』『風化させたり』『美化したり』してはいけないものがあることを、強く認識し続ける理性も、私達には求められています。何でもかんでも、『のど元過ぐれば熱さ忘るる』といって、笑い飛ばすわけにはいきません。

| | コメント (0)

2008年5月14日 (水)

ベートーベンの『荘厳ミサ』(3)

今回のような演奏会を聴きに行くたびに、梅爺は『日本の文化レベルの高さ』を実感します。今回の合唱に参加された方のように、ドイツ語やラテン語の歌詞を音符に従って歌うことができる能力をもった人たちは、日本には数え切れないほどおられますし、高度なオーケストラの演奏に加われる、プロ・アマの楽器演奏家も沢山おられます。それに、『東京芸術劇場』のような素晴らしいコンサート・ホールは、日本中にいくつもありますし、なんといっても、演奏会に、会場を埋め尽くす聴衆が集まるということも、文化レベルの指標として見逃せません。

梅爺は、世界各国の音楽的文化レベルに詳しいわけではありませんが、少なくともアジアの中では、日本は飛びぬけたレベルにあるのではないでしょうか。アジアの多くの国では、政治信条や宗教の違いから、キリスト教の宗教曲が公に演奏されることさえも規制されることもありえます。最近の日本は、俗悪な犯罪だけが報じられて、『日本はダメになった』と多くの人が嘆きますが、一方で、このような、世界に誇りうる高い文化水準と自由な表現権利を保有している国であることも正しく認識すべきであると感じています。

今回の混声コーラスのメンバーは熟年の方が大半とお見受けしましたが、、女性の数が男声の2倍以上であることも面白いと感じました。梅爺は高校卒業後は男声コーラスしかやったことがないので、普段あまり意識していませんでしたが、日本の熟年層のコーラスレベルは、『オバサンパワー』で保たれているのかもしれません。

今回の聴衆も、熟年層が圧倒的に多いことにも気づきました。大半は、日常的にキリスト教とは無関係な生活をしていながら、短時間とは言え『敬虔な気持ち』を求めて、集まったのかもしれません。年齢と共に、人はそのような境地を求めるのでしょう。このような現象は、キリスト教を知らない人の情念の根底せも揺さぶる力を、ベートーベンの音楽は秘めているからではないでしょうか。ベートーベンの信仰に起因しているとも言えますが、もっと単純に、人の情念と音楽の関係を知り尽くしていたためと考えれば納得できるような気がします。

| | コメント (0)

2008年5月13日 (火)

ベートーベンの『荘厳ミサ』(2)

西洋音楽、特に合唱形式は、教会音楽、宗教音楽の発展とともに、成熟した体系に成長していったという話は、前にも書きました。神への敬虔な祈り(言葉)と、音楽とを同時に表現する方式が確立していったことになります。

初期のローマン・カトリックでは、『教義』はラテン語で表現することだけが許されていました。ミサ曲がラテン語の歌詞を採用するのはこの伝統によるものです。余談になりますが、ヨーロッパの各国が、『自国語で書かれた聖書』を保有するのは、中世以降のことです。日本は、西欧とは歴史事情が異なりますが、『日本語の聖書』を保有するようになったのは、明治維新以降で、最初は格調高い『文語形式』でしたが、現在は『口語形式』の聖書が普及しています。梅爺は、どちらかといえば『文語体の聖書』の方が好きです。『自国語の聖書』の普及は、『教義』を庶民へ浸透させる布教には役立ちましたが、『教義の解釈』の違いも引き起こす要因になり、プロテスタントのように、ローマン・カトリックと袂を分かつ宗派が現れる遠因にもなったように思います。『情報』の開示が、新しい『情報』を生み出すという現象は、人間の歴史では良くあることですが、現在は、ITによって、『情報』が過剰なほどに満ち溢れているために、反って混乱状態を呈しているようにも見えます。

ベートーベンの『荘厳ミサ』も、定型的なラテン語の『歌詞』を使うという条件を受け容れています。数多くの作曲家が、同じようにラテン語の歌詞を用いるという制約条件の中で『ミサ曲』を作曲しています。18世紀のバッハが、一つの頂点で、19世紀のベートーベンの『荘厳ミサ』が、集大成であるとも言われています。いずれのミサ曲も荘厳ですが、特に『荘厳ミサ』と呼ぶにふさわしい傑作をベートーベンは残したことになります。ステンドグラスから漏れる光と蝋燭の光だけの、大聖堂の中でこれを聴けば、『荘厳』さは、さらに格別であろうと梅爺は想像しながら聴きました。

| | コメント (0)

2008年5月12日 (月)

ベートーベンの『荘厳ミサ』(1)

昨年12月に、『メサイア(ヘンデル)』の演奏のコーラス・メンバーとして、ご夫婦で参加されたUさんが、今度もまたご夫妻でベートーベンの『合唱幻想曲』と『荘厳ミサ』を歌われるというので、梅爺は、5月10日に、池袋の東京芸術劇場の大ホールまででかけました。

Uさんは、梅爺の大学時代の合唱団同期生で、現在もOB男声合唱団で一緒に歌っている仲間です。Uさんご夫妻を、今年の3月に、青梅の観梅にお招きしたこともあってか、今回は、演奏会のチケットを無償で贈呈いただきました。観梅の当日も、今回の演奏会のための練習があるということで、いそいそと夕刻には、青梅から都心へ向かわれました。大曲に次々挑戦されるご夫妻には頭が下がります。

今回のプログラムは『合唱幻想曲』『荘厳ミサ』と、いずれもベートーベンの円熟期の宗教曲2曲でした。指揮は、ヴォルフディーター・マウアー氏で、オーケストラは、オラトリオ・シンフォニカJAPAN。コーラスの参加者は男女合わせて300人を越すという大編成で、さすがの東京芸術劇場大ホールの舞台も、溢れてしまい、一部は舞台上の2階客席までも使うという大規模なものでした。『荘厳ミサ』はさらに、プロのソリスト(歌手)が4人加わりました。

モーツァルトは、人の脳が心地よいと感ずるリズムや旋律を、当意即妙とも思える方法で、苦もなく創り出していく天才ですので、その特徴を『軽妙』だとすれば、ベートーベンは、もっと広範に、例えば『畏怖』『苦悩』『希求』といった、人の深い情念にまで触れる音楽表現を求めた作曲家であると思います。従って、その特徴を『重厚』とか『荘厳』という言葉であらわすのは、最も適切であるように感じます。この違いは、両者の人柄や、世界観、人生観に依存しているのでしょう。

今回の2曲共に、そのベートーベンの世界を如実に表現しているものと感じました。ソリスト(ソプラノ、アルト、テノール、バス)と、後方の混声コーラスとの受け渡し、弦楽器、管楽器、それに深い低音を奏でるパイプオルガンの役割など、『どの情念には、どの表現が適切か』を知り尽くしたベートーベンならではの音楽を堪能しました。

熱唱された、Uさんご夫妻も、演奏後は、心地よい満足感に浸られたことと想像しながら、家路につきました。

| | コメント (0)

2008年5月11日 (日)

清く正しく美しく(5)

『清く正しく美しく』の、程度や内容の解釈によっては、自分は『清く正しく美しい』と言えない事はありません。しかし厳密に考えて、『清く正しく美しく』を真面目に追求すれば、人は生きていけないことにもなりそうです。『清貧に生きる』ということも、すばらしいことですが、限度があります。

食欲や味覚を満足させるために、生き物を殺していますし、新しい経験や環境を求めて旅をすれば、乗り物の炭酸ガス排出で、地球環境の汚染に加担してしまいます。何よりも、自分が意図しないものであっても、迂闊な言動で他人の心を傷つけてしまうようなことは、全く無いと断言できる自信はありません。

人間の心の中に、善良な面と邪悪な面の両方が共存しているように、人間そのものの存在も、きわどい矛盾の上に成り立っているという認識があって、初めて、それでもなんとか『清く正しく美しく』ありたいと願うことに、大きな意味があるように感じます。

くどくどと書いてきましたが、皮相的に『清く正しく美しく』をとらえ、この言葉の裏にある大きな矛盾に気づかない人には、なんで梅爺がこんな言葉に、そのようにこだわるのかも理解していただけないかもしれません。

仏教の教えに従って、人間が悟りの境地にいたり、完全に煩悩から解脱できれば、その人は、正しく『清く正しく美しい』存在であり、『善良柔和』な人と呼べる存在であろうと思いますが、梅爺も含め、普通の人は解脱できませんから、自己矛盾を抱えながら、それでも『清く正しく美しい』『善良柔和』な存在に近づきたいと、願い求めることが、精一杯できることになります。

邪悪な心や悪意だけに支配されている人は論外ですが、凡人は死を迎えるに当たり、努力をしたけれども至らなかった人生であることは、許して欲しいと願うのではないでしょうか。梅爺は、『自分の人生は、天地神明に誓って、清く正しく美しいものであった。それが、何よりの誇りだ』などと言い残し、満足顔で死ねる自信は全くありません。

| | コメント (0)

2008年5月10日 (土)

清く正しく美しく(4)

『宝塚歌劇団』のモットーを『清く、正しく、美しく』と決めたのは、小林一三氏であったのかどうかは、梅爺は存じません。しかし、『宝塚歌劇団』にこのようなモットーが必要であったであろう背景については、初回に推測し、付言しました。

もし誰かが、梅爺に向かって、『人生は、清く、正しく、美しく生きるべきだ』と教訓を垂れたり、『自分は、人生を、清く、正しく、美しく生きてきた』と述懐されたりしたら、梅爺は、少々戸惑うのではないかと思います。梅爺のように、60年以上も生きてくると、自分も含めて『人間は、清く、正しく、美しい面と、清くもなく、正しくもなく、美しくもない面を、双方持ち合わせている存在である』ことを知ってしまっているからです。

人間が何故、『良い心と悪い心』の両方を持ち合わせるように、創られたのかは不思議ですが、ヒトという生物の種が、生存し続けるために、何らかの理由で『必要』であるためかもしれません。両方を持ち合わせていることから生ずる、苦悩、葛藤、矛盾が多くの文芸作品の主題であり、人間の摩訶不思議で、奥深い側面に多くの人がひきつけられるのもそのためです。

『良い心と悪い心』は、誰しも持ち合わせているからこそ、理性で『悪い心』や『悪い誘惑』を抑制できるかどうかが、その人のその後の人生を決める決め手となります。こういう言い方自体が理性的であり、『悪い心』が芽生えている時は、そもそも理性が働き難い状態になっているわけですから、そう簡単な話ではありません。

宗教の一部では、『悪い心』は、悪魔が忍び込んだ、邪悪に取り付かれた状態と表現しますので、真面目な人は、『本来、自分は良い心だけの持ち主なのに、自分の不注意で悪魔や邪悪に取り付かれてしまった』と悩むことになります。しかし、仏教では、『誰もが本来仏の心と、邪悪な心を持っているので、仏の心をやしなって、邪悪な心を抑制しなさい』と説いています。この方が、梅爺には『分かりやすい教え』のように思えます。

同じようなことを言っているようで、邪悪の元が、自分の外にあるのか、内にあるのかの認識の違いは、大きな違いです。

『良い心と悪い心の両面を持ち合わせているからこそ、良い心に支配されるように努力しなさい』と言われれば、梅爺は、『おっしゃるとおり』と納得しますが、条件無しに、ただ『清く、正しく、美しく』と言われると、『人間は、そんな綺麗事で済むようにはできていない』と、一言反論したくなります。我ながら、困った性分です。

| | コメント (0)

2008年5月 9日 (金)

清く正しく美しく(3)

梅爺は、母親が娘の頃、宝塚に通い詰めていたという話を聴いても、なんとミーハーなと眉をひそめたりはせず、むしろ微笑ましく感じます。青春時代には、誰もが色々な夢を見るものですが、やがて夢と現実のバランスをとることの重要性も認識するようになります。大人になっても、夢と現実が区別できない人は困りものですが、夢の部分(遊び心)を持っている大人は、魅力的です。

梅爺が大企業に勤めていたころ、同じ工場の2年先輩にSさんという方がおられ、何かの話題の折に、Sさんが、『猛烈な宝塚ファン』であることを知りました。申すまでもなく、Sさんは男性です。梅爺は、小学生の頃、祖母に連れられて、何度も宝塚大劇場に通ったことがあり、母親も娘時代に宝塚ファンであったという話をしたことで、心を許して梅爺だけに『告白』されたのかもしれません。『ベルサイユの薔薇』をはじめ、著名な公演内容や、スターの名前や特徴まで、生き字引のような承知しておられ、梅爺は圧倒されました。

Sさんは、大変知性的で優秀なエンジニアであり、風貌も立派な紳士ですから、『宝塚』との組み合わせは、想像しがたいものですが、梅爺は、その話を聴いて、Sさんを変人と思うより、むしろ親近感を覚え、一層、Sさんを尊敬するようになりました。

Sさんの『宝塚への入れ込み』は中途半端なものではなく、なんとニューヨーク公演の時には、現地まで『追っかけ』ていって、その時、客席でこっそり録音したテープも『お宝』のようにしておられ、梅爺もそれを借用して拝聴しました。知性と理性を持ち合わせているSさんが、夢だけに溺れるはずはありませんから、夢を承知で、それに熱中する自分を『演じ』ることが、現実からのストレスを軽減する術(すべ)であることを、心得ておられたのでないでしょうか。

雪国の長岡でつつましく育った梅爺には、小学生の頃、伊丹の祖母を訪ねた折に連れて行ってもらった『宝塚』は、大劇場も遊園地も、この世のものとは思えない『別世界』でした。大劇場のレビューは、最後が近づくと、必ず舞台一面に大きな階段がセットされ、上の方から、腰や頭に駝鳥の羽のようなものをつけた、『綺麗なお姉さん達』が、鈴を鳴らし、宝塚のテーマソングを歌いながら降りてくる『しきたり』になっていることを知りました。

大人になってからも、何度か東京宝塚劇場に観劇に出かけたことがありますが、この『しきたり』が伝統として、今日まで残されていることを知り、遠い昔の思い出が、郷愁のように一挙に蘇ったことを覚えています。

| | コメント (0)

2008年5月 8日 (木)

清く正しく美しく(2)

男性だけで構成される日本伝統の歌舞伎に対抗して、若い女性だけで歌劇団を構成するという小林一三氏の発想は、ユニークで世界に類を見ません。梅田の繁華街やデパートの隣に大劇場を造ろうと、普通は集客を考えたら発想するはずですが、梅田は、黙っていても誰もが電車を利用する場所なので、むしろ辺鄙(当時)な宝塚に大劇場を造って、『電車を利用してもらう』つまり『電車が乗客を創造する』という経営哲学を実行したことになります。

若い女性だけできらびやかな舞台を作り上げれば、若い女性の観客はあこがれて、女性同士の友達を誘って見に行くであろうと読んだはずです。当時の日本では、若い女性だけで、観にいける興行モノは少なかったはずですから、今で言えば『新しい市場の開拓』をしたことになります。多分、阪急沿線の神戸や芦屋に住まう良家で、裕福な家庭の娘達をターゲットにしたのでしょう。男の役者に娘が入れあげたら、親は眉をひそめたことでしょうが、女性の『男役』に娘達が、『キャーキャー』騒いでいる分には、親は安心して、娘の外出を許可したのではないでしょうか。

小林一三氏は、更に、子供づれの家族客を増やすために、宝塚に遊園地も造り、『安定した市場創出』のために、念には念を押しています。

少女歌劇も、いい加減な内容では、繰り返し顧客の獲得ができませんので、『宝塚音楽学校』を開設し、本格的に、『歌って、踊って、演技ができ、美人で頭がよいスター』を次々に排出する仕組みも作り上げました。

『清く、正しく、美しく』というモットーを聴けば、娘が宝塚に入団したいと言い出しても、親の反対は少なかろうと読んだのかもしれません。総合的なマーケティング能力に優れた経営者の典型を見るような気がします。

| | コメント (0)

2008年5月 7日 (水)

清く正しく美しく(1)

日本の歴史のどの時代にも、商才に長けた人がいて、中には紀伊国屋文左衛門のように『豪商』として名を馳せた人もいます。偉人としての評価は、武将、学者、文学者、宗教家などに及ばないのは、裏側に見え隠れする『金儲け』に、金儲けの下手な庶民が嫉妬心を抱くからなのでしょうか。

明治以降、西欧式の『会社経営』で、優れた才能を発揮された方が沢山おられますが、阪急グループの創始者である小林一三氏もその一人です。小林一三氏は、必ずしも恵まれた家庭環境で育ったわけではありません(山梨県の商家の子供として生まれ、幼くして母は死別、父とも離別)が、慶応義塾を卒業後、三井銀行へ入社し、その才能を周囲に認めさせた上で、関西の証券会社へ転職(現在の言葉で言えば、ヘッドハンティングによりリクルートされた)し、その折に鉄道事業の将来性を洞察して、阪急グループの創設にまで至ります。

つまり、高等教育を受けられずに、丁稚奉公からたたき上げ、成功した実業家とは異なり、社会のエスタブリシュメントを、スマートに利用しながら、階段を上り詰めていった例です。勿論、周囲が認める『才能、能力』に恵まれていなければ、このようなサクセス・ストーリィは成り立ちません。

小林一三氏の優れた経営才能を端的に伝える言葉として、『電車が乗客を創造する』という言葉が残されています。今でこそ、『沿線デベロッパー』などという概念がありますが、私鉄の黎明期に、電車を需要に合わせて走らせるのではなく、電車を走らせることで需要を喚起するという視点を持っていたことは、驚くほどの洞察力といえます。

梅田ターミナルに、百貨店を併設するというアイデアは、梅爺でもなんとか思いつくような気がしますが、当時鄙びた温泉地であった宝塚に、今で言うアミューズメント・パークを造り、客寄せの一つとして、『宝塚唱歌隊(現在の宝塚歌劇団)』を創設するというアイデアは、到底梅爺には思いつきません。常磐炭鉱が廃業に追い込まれ、苦肉の生き残り策で『常磐ハワイアンセンター』を作ったと言う話も、突飛な発想として驚きますが、小林一三氏の発想は、そのような悲壮感を伴わないスマートなものです。

梅爺の母親は、娘時代に『宝塚へ入れあげていた』ということですので、すっかり小林一三氏の術中にはまってしまった一人だったのでしょう。

しかし、当時(大正の始め頃)の日本を考えると、女の子が、人前で歌ったり、踊ったりすることは、『はしたない』と思われる風潮もあったのではないでしょうか。そのためか、『宝塚歌劇団』のモットーは、『清く、正しく、美しく』と決められ、今に引き継がれています。

| | コメント (0)

2008年5月 6日 (火)

ピーナッツ

梅爺は、無類のピーナッツ好きです。ピーナッツと言っても、昔ロッキード事件の裏側で動いた、怪しげなお金のことでも、双子の姉妹歌手のことでもなく、正真正銘の『落花生』のことです。

食材で好きなものは、と問われれば、間違いなく『豆類』と答えますが、中でもピーナッツに目がありません。カシュー・ナッツ、マカデミア・ナッツなどナッツ類も好きですが、ピーナッツには敵いません。死ぬ前に、『何か食べたいものがありますか?』と訊かれたら『ピーナッツ』と答えるだろうと、真面目に話すので、家族の失笑をかっています。もっとも、ピーナッツを噛み砕く歯が残っていたらのことですが。『最高級霜ふり肉のステーキ』とか『ツバメの巣のスープ』とか『フォアグラ、キャビア、トリフ』とか、高価な食材の料理を指定していないのですから、こんな経済的な『最後の晩餐』はないだろうと、家族には反論しています。

テレビで、健康な食事を紹介する番組では、先ず『豆類』が推奨されますので、自分は『自然に健康を指向する体質』なのだと悦に入っています。勿論、豆を使った食材、豆腐、納豆、餡(あん)類、味噌、醤油も全て好物で、料理も煮物、スープと何でもござれです。納豆は、子供のころ必ず我が家の食卓にありました。多分、関西育ちの母親ではなく、茨城県出身の父親の好物だったのでしょう。梅干、ハリハリ漬け、オカカ、卵などをダシ醤油で混ぜた納豆もありますが、梅爺は、シンプルに、多めのからし、薬味のネギ、生醤油でかき混ぜたものが好きです。あったかいご飯に、納豆をかけて食べれば、ミシュランの三ツ星レストランへ行かなくてもすむわけですから、これも経済的です。

梅婆は、水戸の出身であるにもかかわらず、納豆はそれほど好物ではなく、その上、ご飯にかけて食べる食べ方は『品が無い』と母親から教わって育ったらしく、梅爺の食べ方を最初は胡散臭そうに見ていましたが、今ではあきらめているようです。梅爺は、勿論『旨い』を『品格』に優先させて、押し通しています。

ピーナッツも、塩、バター、砂糖、味噌などで色々加工したものがあり、どれも好きですが、やはり、ただ煎っただけのものが最高です。千葉県産の高価な落花生は、断然味が違うのですが、年金梅爺は、『中国産』も厭わないようにしています。ウィスキーのおつまみにして食べ始めると、終わらなくなりますので、『後引き豆』とはよく言ったものです。

| | コメント (0)

2008年5月 5日 (月)

芋の煮へたもご存じなく

江戸いろはカルタの『ゐ』、『芋の煮へたもご存じなく』の話です。

誰が『ご存じない』のかが分からないと、何を言いたいのか理解できませんが、この諺が江戸の庶民の中で、諧謔を込めて使われたことから、『殿様』とか『良家の子女』であろうと推測できます。

つまり、庶民が食べている芋のことなど、どうせ高貴なお方は『ご存じない』のでしょうと、やっかんでいるとも、こんな旨いものを知らないなんて、お可哀想にと、こっそりほくそ笑んでいるともとれます。階級社会の江戸で、庶民が、武家などを直接批判することは、許されませんから、この諺は、庶民がギリギリの間接表現で、『偉そうにしている人たち』をからかっているものと、梅爺は解釈したくなりました。庶民や平社員が、偉そうにしている支配者や経営者を、ジョークで、こっそり笑い飛ばすということは、どこにもある話で、梅爺は、人間の健全なバランス感覚として、大好きです。

『芋』は、梅爺の好物の里芋であって欲しいと思いますが、江戸期には薩摩芋も、食料として存在していたらしいので、どちらかは梅爺には分かりません。

実は、私達にも『ご存じない』ことが沢山あり、『ご存じない』ことで、一見平穏に時を過ごし、この状態がいつまでも続くと思いがちですが、『思いもかけない落とし穴』が前に控えていることは、よくあることです。『うすうす知りながら、知らないふりをする』のも『ご存じない』の一種とみれば、思い当たることが沢山あります。

中国製冷凍餃子に農薬が混入しているなどということは、『知らなかった』と弁解できますが、梅爺が、身体に悪いと知りながらタバコを吸い続けていることや、石油資源がなくなることを知りながら、自動車や飛行機を利用し続けていることも、『ご存じない』部類に入ります。『芋の煮へたもご存知なく』は、殿様や良家の子女の話ではなく、誰にも当てはまる教訓であることが分かります。

人間は神様ではないので、『知らないこと』があるという事実からは、逃れられませんが、『知らぬが仏』などと、言い逃れようとしても、いつかはその『つけ』を払うことになることだけは、覚悟しておきなさい、そして、限度があると投げ出さずに『知る努力は続けなさい』という大変重い教訓であるような気がしてきました。

| | コメント (0)

2008年5月 4日 (日)

エカテリーナ2世(3)

エカテリーナ2世の奔放な男性関係は有名で、生涯に10人の愛人がいたとも、女帝版『ハーレム』をつくっていたとも言われています。しかし、男を変えるたびに、『切った張った』の事件を起こしたりしていないのは、『金で解決した』こともあったにせよ、憎めない得な性格でもあったのでしょう。

有名な愛人のひとりが、軍人ポチョムキンで、彼女が本当に『夫』と思ったのは彼だけとも伝えられています。ポチョムキンとの連携で、コサックの反乱軍を制圧したり、ウクライナやクリミヤを併合し、黒海沿岸に、念願の不凍軍事港を確保して、ロシアはヨーロッパにも影響を与える大帝国になります。ポチョムキンとエカテリーナの交わした手紙をみても、ポチョムキンは、形式ではなく、本心『偉大な女帝』を尊敬し、忠誠を尽くしていたようにように見えます。

エカテリーナ2世は、ロシアをヨーロッパが認める大国ににしたいと夢見て、法整備、教育などにも力を注ぎますが、ロシアの威光を示すために、ヨーロッパの美術品の収集にも尽力します。それらは、現在はエルミタージュ美術館の所蔵となっています。梅爺も、一度は訪れてみたい美術館の一つです。

民衆による帝政打倒という、フランスの事件が、ロシアにも飛び火することを彼女は案じていましたが、彼女の存命中は、そのような事態にはなりませんでした。しかし、その後ロシアの共産革命で、ロマノフ朝は消滅することになります。

エカテリーナ2世は、確かに『型破りな女性』ですが、スターリンやプーチンに比べれば、まだ『人間くさい』ところがあり、『可愛げ』があります。伝統的に、『権謀術数による権力闘争』が『政治』であるロシアでは、知識人は、本心では、政治家を全く信頼していないのではないかと、梅爺は想像しています。現在でも、プーチン政権を批判した女性の新聞記者が暗殺されたり、全てのテレビ局が厳しい検閲下にあったり、プーチンを称える『青年行動隊』が存在していたりするのをみると、このような権力の亡者のような独裁者に支配されるより、頼りない首相がいても、まだ日本の方が幸せのようにも感じています。

| | コメント (0)

2008年5月 3日 (土)

エカテリーナ2世(2)

エカテリーナ2世は、18世紀後半に、ロシアのロマノフ朝を最も繁栄期に導いた、8代目の皇帝(女帝)です。

彼女は、ロシア人ではなく、ドイツの小侯領主(貴族)の娘でしたが、縁があって、ロシア皇太子妃の候補として、14歳で母親と一緒にサンクトペテスブルグの宮廷へ移り住みます。時の皇帝は、エリザヴェータ(女帝)でした。賢いエカテリーナは、直ぐに将来の夫である皇太子(エリザヴェータの甥で、後のピュートル3世)が、『箸にも棒にもかからないダメ男』であることや、宮廷で生きていくために必要な社交術、エリザヴェータに気に入られる方法などを直感的に理解してしまいます。『KY(空気が読めない)』と言われる人には、なんとも羨ましい能力です。

将来のロシア皇帝妃の座を得るために、あらゆることを耐え忍んだと言えばそれまですが、もしも、エリザヴェータの不興を買えば、命の保証もない(現にエリザヴェータはそういうこともやりかねない冷酷な女帝でした)という現実を理解し、受け容れたとみるのが正しいように思います。

宗教もプロテスタントからロシア正教へ改宗し、表向きは『バカ皇太子』や『冷酷女帝』とも問題をおこすことなく、ついに皇太子と結婚するにいたります。賢いと同時に、相当の演技にたけた役者でもあったのでしょう。『簡単に改宗する』『尊敬に値しない男と結婚する』『権力者に忠誠を誓って媚びる』という彼女の生き方に対して、『節操がない』と言うのは簡単ですが、外国人の小娘が、自分の才能だけで、命がけで、宮廷内の地位を勝ち取ったとみれば、『アッパレ』であったとも言えます。誰にでもできることではありません。

やがて、エリザヴェートが死に、彼女の夫のピュートルが帝位につきますが(ピュートル3世)、『バカ男』の本性が直ぐに露見し、近衛兵とロシア正教の結託によるクーデターで、エカテリーナが帝位につきます。エカテリーナの奔放な男性関係は有名で、何人も父親が誰かが分からないような子どもを生んでいますが、近衛兵の隊長であったオルローフとも恋仲でしたので、クーデターの本当の黒幕は、エカテリーナ自身であったのかもしれません。ピュートルはその後病死と発表されましたが、歴史家は、オルローフ兄弟による暗殺とみています。これもエカテリーナの指示であったかどうかは不明です。

一方、彼女は、知識欲も豊富で、フランスのボルテールの著作を読んだり、同じく知識人のディドロなどをロシアに招いて、交流したり、生涯手紙を交わしたりしています。『権謀術数』『奔放な私生活』『知識希求欲』といったものが、一人の人間の中に、当たり前のように混在しているところが、エカテリーナの不思議な魅力です。

| | コメント (0)

2008年5月 2日 (金)

エカテリーナ2世(1)

イギリスのテレビ局が作成した、ロシアの『エカテリーナ2世』という女帝のドキュメンタリー番組を録画しておき、最近観ました。NHKBSハイビジョンで放送されたもので、彼女の生涯をドラマ風に紹介しながら、歴史学者がコメントするという形式です。

梅爺は、昔ヨーロッパへの出張の途中、トランジット(乗り継ぎ)でモスクワ空港へ降りたことがありますが、旧ソ連時代も含め、ロシアの領土へ正式に入国したことが一度もありません。何らかの現地体験を持たずに、ある国を評することは、思い込みや誤解に基づいた危険で失礼なことであることは承知していますが、正直に告白すれば、ソ連もロシアも、『なんとなく好きになれない』と感じています。

仕事の上で、アメリカへ移住し活躍するロシア人のソフトウェア技術者の何人かとは、個人的に接したことがあります。彼らは、非常に高い学力や知識を持ちながら、純朴、謙虚で、アメリカ人のような傲岸さはなく、大変好感が持てる人たちでした。偶然出会った数少ないロシア人で、『ロシア人全体』を評することも、間違いのもとであることも、これまた承知はしていますが、梅爺は感覚的に『ロシア人が嫌い』なわけではありません。従って、梅爺の独善的な『ロシア嫌い』は、その『国の政治体質』に対して『感じている』ものです。

政治の理想は、優れた能力と徳とを持ち合わせた『指導者』が、自らの権力獲得やその維持を目的とせず、民衆の安寧と幸福のレベルを上げるための施策を行うことであろうと思いますが、歴史上、そのような理想的な治世が実現した例は稀有ですので、残念ながら、政治は、『民衆のため』という口実をもった『権力抗争』の側面を『必ず有している』と考えた方が現実的です。

社員や消費者のことは二の次で、金儲けだけに走る経営者や、国民のことなどは二の次で、利権や保身に走る官僚の『暗いニュース』が相次いで、うんざりしますが、『もし、自分がようやく登り詰めた経営者であったり、利権に囲まれたエリート官僚であったりしたら、どう対応したのだろうか』と考えてみると、誰もが、少し自信を失う側面を持ち合わせているのが、人間なのではないでしょうか。つまり、程度の問題であって、『この程度は許される』と、自分で自分を肯定しがちな性質は、聖人でもないかぎり、誰もが持ち合わせていると、梅爺は感じています。自分の過去を考えても、『保身のことなど考えたこともない』と言い切る自信はありません。

『エカテリーナ2世』は、ロシア(ソ連時代も含め)が歴史上生み出した、最も有能な指導者であったと、梅爺は思いますが(スターリンもプーチンも足元に及ばない)、『権力を獲得し、維持するための権謀術数』『個人生活の欲求実現(男女関係や豪奢な生活)』『知的興味の探求』といった、時に相互に矛盾するかに見える、次元の異なった世界のバランスを、見事にとり続けた女性として、『興味深い人間』にはちがいありません。

ある側面だけを見れば、『冷酷な為政者』であり、『次から次へ男を変える好色な女』であり、『美術品を買い漁る贅沢好きな女』であり、『哲学書を好んで読む知的な女』ですが、その全てを同時に持ち合わせているという不思議な存在は、興味深く、そんな人間が本当にいることを知って、少々あっけにとられてしまいました。

| | コメント (0)

2008年5月 1日 (木)

みちのくの桜追っかけ旅(3)

梅爺は、自分にとって『あたりまえのこと』と受け容れてきたことが、実は、自分の性格や美意識、死生観の形成に大きく影響していることを、歳をとるにつれて、より強く実感するようになりました。

今の時代の日本人として生まれたこと、先祖から受け継いでいるDNA、育った家庭環境や土地柄(新潟県長岡市)などが、それにあたります。これらは、自分で『選択』したものではなく、与えられた『条件』ですが、もしも、『条件』が一つでも異なっていたら、全く違う人生を歩んでいたことでしょうし、現在の年齢まで健康に生きながらえてこれたかどうかさえも、定かではありません。梅爺は、幼児期を戦時下で過ごしたとはいえ、親や兄弟のようには直接戦争によって人生を翻弄されたといえる状況ではありませんから、家族の誰よりも『幸運を授かっている』ことに感謝するほかありません。

同じく、四季や自然に恵まれた日本人が、『あたりまえのこと』と受け容れていることが、実は、日本人に共通した美意識や死生観の形成に大きく影響しているように思います。廻り来る季節とともに景観や色彩が変わる豊かな草木に覆われた山や肥沃な平地、身近に存在する海や川、などは、世界のどの国もが保有している『環境条件』ではありません。『人と自然の穏やかな共生』などという考え方は、世界のどこにでもあてはまる話ではありません。

日本人にとって、春の開花、秋の紅葉は、廻り来る季節の象徴であり、特に春の桜は、短期間にパッと華やかに咲いて散る様子が、ただの美しさではなく、『はかない美しさ』と受け取られ、自分の人生とダブらせた死生観を形成しているように思います。個々の花や人は、一度だけの命で散っていくけれども、時が廻れば、また違った花や人に命が与えられる、という大きな自然の流れの中の存在として自分を認識することができます。『特別な自分』の周囲に自然があるという思い上がった考えではなく、自分は自然の中の『ありきたりな一部』であると知ることができます。日本人が、何故これほど桜を愛でるのかは、このような死生観が脈々と受け継がれてきたためではないかと感じています。

桜の淡い色彩や、秋の紅葉の色の組み合わせ、グラデーションが、日本人の原色よりも微妙な中間色を好む美意識を形成する要因になっているようにも思います。自然の景観の中には、シンメトリーな造形物はほとんどありませんので、日本人が、西欧の人たちと異なって、非シンメトリーな形状に美を感ずるのも当然なような気がします。西欧の人工的な庭園と異なり、日本庭園は、自然を模していることがその真髄です。

みちのくを旅して、梅爺は、自分の中の『日本人』をあらためて痛感しました。

| | コメント (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »