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2008年1月31日 (木)

月夜に釜を抜く

江戸いろはカルタの「つ」、「月夜に釜を抜く」に関する話です。

土間に作りつけた「かまど」で、鍋、釜を使い調理していた時代から縁遠くなってしまった現代の日本人には、「月夜に釜を抜く」は、何を意味するのか直ぐには思い浮かばなくなってしまいました。梅爺も、「月」とか「釜」とか、「性」に関する隠語かと思い、とんでもないいかがわしい話かと思いましたが、調べてみると、「月夜のような明るい夜に、釜のような人目につきやすい大きなものを、かまどから抜いて盗む」という単純な表現らしいことが分かりました。

つまり、盗まれる側は、こんな明るい晩に釜のような大きなものを盗む奴はいないだろうと、「油断」してしまうことで、「何事も思い込みで油断してはいけない」という教訓であることが分かります。

一方、盗人の方は、白昼堂々と、高価な宝石を盗むアルセーヌ・ルパンのような話ですから、「大胆不敵な行動の方が成功する確率が高い」という意味にも取れます。

いずれにしても、人は誰も「思い込み」「予断」という弱点があり、人生の落とし穴が待ち受けていることは、避けがたいこととはいえ、できるだけ入念に注意を怠らない努力は大切といった程度の教訓と理解しました。

「思い込み」や「予断」は、何回もブログに書いてきたヒトの脳が保有する、優れた推論機能や、それに基づく願望などが背景にありますので、「自分は事故に巻き込まれない」「自分は病気にはならない」となどと、根拠の無い話をつい受け容れてしまうのでしょう。一方、何から何まで、心配していては、何もできないという矛盾も孕んでいますので、注意をするといっても限界があります。

梅爺のように、歳をとると、人生の経験から、「何やらおかしい」という直感が働き、危険を回避できる有利な面もありますが、一方「物忘れ」という、もう一つのマイナス要因も加わりますので、人生の落とし穴に陥る確率は、減ることはなく、増える一方です。注意さえすれば、全てうまくいくという話ではなく、注意には限界があるけれども、それでも、自分の能力の及ぶ範囲では、注意をするに越したことは無いという程度に都合よく解釈することにしました。

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2008年1月29日 (火)

ユビキタス(6)

研究会の座長の大学の先生が、ユビキタス・ネットワーク社会になったときの実現サービスとして、以下のような事例を、得意げに話されましたので、梅爺は仰天しました。

「ある人が、AとBという薬を飲もうとした場合、その人の体質情報と照らし合わせて、二つの薬の併用は危険であると、ネットワーク・システムが判定した時には、即刻、アラームをその人に通知することができるようになります。薬のビンの蓋に、マイクロチップを埋め込んでおけば、このようなことも可能になります」

梅爺は、コンピュータ・システムの専門家として、このようなシステムが、「論理的には構築不可能ではない」ことは承知しています。しかし、1億人の国民の全てが、今どこに居て、何をしようとしているかを検知(この例の場合は、薬のビンを開けたこと)し、その人の個人的な情報(この例の場合は、健康、体質情報)に照らし合わせて、即刻、その行動の可否を、本人に通知するというシステムを構築するのは、並大抵なことではありません。当然、人間や、薬のビンの蓋に仕込まれたマイクロチップと交信出来る、膨大な無線ネットワークシステムを日本中に張り巡らさなければなりません。

技術問題のほかにも、「国民総背番号制度」や「プライバシー」の問題なども、社会の制度として、整備しておく必要があります。

ユビキタス・ネットワーク社会がもたらす「効能」として、例に挙げるには、あまりにも、現実離れをした内容であることに、梅爺は、仰天し、あきれました。一体この先生は、情報社会について、どのようなことを大学で生徒に講義しているのだろうかと、心配になりました。

情報社会の進展につれて、社会が、ユビキタス・ネットワーク社会として成熟していくことは、勿論間違いありません。しかし、その時点の技術的、経済的な制約は、現実にありますし、社会制度の見直しも必要になることが沢山出現しますので、「夢のような話」が、直ぐにでも実現するというわけではありません。しかし、幸いなことに、他国との相対的な比較論で言えば、日本は、今や最先端のユビキタス・ネットワーク社会に突入しています。

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2008年1月28日 (月)

ユビキタス(5)

前にも書いたように思いますが、中央官庁の主催する委員会、研究会などの座長や委員長には、「中立」であるという理由で、大学の先生が指名されることが大半です。

大学の先生が全て「世間知らず」であると非難するつもりはありませんが、技術専門の先生は、「世の中で、あることを実現するには、技術以外の複雑な要因を全て克服しなければならない」ということに関する配慮が、足りないような場合が多く、梅爺は、企業代表の委員として、少しイライラすることがありました。

日本がユビキタス・ネットワーク社会になった場合の、5年後、10年後の「図」も、綺麗事に思えましたので、以下のような質問をしました。

「ここに描かれている絵を実現するには、総額どの程度の投資が必要になるのか、概算でも検討する必要がありませんか。サービスが国民に有償で提供される分と、無償で提供される分の区分けも必要でしょう。有償のサービスは、国民が対価を支払える程度の範囲に入るかどうかもチェックしておく必要がありますし、無償サービスは結局税金負担になりますから、それが可能な範囲かどうか検討しておく必要もあるでしょう。更に申し上げれば、有償サービスは、民間企業に任せておけばよいのであって、政府の検討は、国民に無償で一律でサービスできる内容は何か(行政サービス、福祉サービスなど)に絞って議論すればよいのではありませんか」

この質問に対して、座長の大学の先生は、せっかく作った「図」に対してケチをつけられたと思われたのか、明らかに不快な顔をされ、「そのようなことを言っていると、何も、ことは前に進みません。どういうことになるのかを見極めるために、とにかく何かをやってみようと言っているのです」と、梅爺には、トンチンカンに思える返答をされましたので、梅爺は、それ以上の議論は無駄と考え、止めました。

対価を支払ってまでも、サービスを受けようと国民が考えることは、黙っていても民間企業は「事業化」を進めます。しかし、山奥の寒村に住む一人暮らしの貧しい老人にまで、一律の「福祉サービス」を提供することは、民間企業は利益になりませんので、進んで始めることはありません。政府が考えるべき、「どこでも、誰でも、何でも」というサービスは、一体何なのかを検討すべきと梅爺は考えましたが、それは、「厚生・労働省」や「文部・科学省」の管轄だと総務省に言われかねないことに気づきました。政府が、特に介入しなくても、民間主導のサービスに関しては、日本は、先進のユビキタス・ネットワーク社会になると、当時梅爺は楽観していましたが、携帯電話サービスを中心に、そのようになりつつあります。

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2008年1月27日 (日)

ユビキタス(4)

総務省の「ユビキタスネットワーク技術の将来展望に関する調査研究会」で、座長を努められた大学の先生は、「キャッチフレーズ」が重要なので策定しようと提唱され、以下のようなものになりました。

① どこでもネットワーク
② 何でも端末
③ 自在にコンテンツ
④ らくらくネットワーク
⑤ 安心ネットワーク

確かに、ユビキタスネットワークを実現する時に、必要となる要件ですが、梅爺には、宝塚の「清く、正しく、美しく」というキャッチフレーズよりも、一層「空々しい」ものに思えました。

ユビキタスに関するブログの最初に書いたように、ユビキタスは、「遍く(あまねく)存在する状態」を示す言葉ですので、分かりやすい例は「空気」です。しかし、このような比喩が陥りやすいマチガイは、類似点のみを述べて、大きな相違点を見落とすことにあります。

「空気」と「ユビキタスネットワーク」の大きな相違点は、前者が自然の恩恵で、「無償で」誰にでも提供されているものであるのに対して、「ユビキタスネットワーク」は、人為的に人間が作り出すものですので、「コスト」がかかり、そのコストは誰かが負担しなければならないことにあります。これは、決定的な違いです。

上記のキャッチフレーズは、経済的、技術的な「実現可能性」に触れておらず、ただ、出来上がった状態の「あるべき姿」を述べているだけですので、これを観た人に、そういうものが存在する、または直ぐにでも存在可能というような誤解を与えかねません。「ユビキタスネットワーク」は、経済的、技術的な裏づけ無しには実現しませんし、社会技術基盤でもありますので、特に経済的な裏づけを必要とします。

キャッチフレーズに続いて、今度は、日本の「ユビキタスネットワーク」が普及した状態を、5年後、10年後を想定して「図」で表記しようということになり、分科会がつくられて、もっともらしい「図」が出来上がってきました。

これもまた、経済的、技術的な裏づけなしに提示することは、誤解の元となると梅爺は感じ、一層「空々しい」と感じました。

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2008年1月26日 (土)

ユビキタス(3)

2000年前後の事であったように記憶していますが、日本のコンピュータ・メーカ中心の業界団体「電子協(経済産業省の外郭団体)」で、日本のコンピュータ産業を世界市場でも強いものにしていくための「将来戦略」を議論したことがあります。

半導体プロセッサーや、ソフトウェアのオペレーティング・システム(OS)など、主要技術を全てアメリカに握られてしまっている状況では、おいそれと良いアイデアが浮かぶはずはなく、不毛な会議が続いていました。

経済産業省は、日本のメーカーが結束して、新しい日本方式のコンピュータ(日の丸コンピュータ)を開発したらどうかというような意向も持っていたようですが、どの日本のコンピュータメーカーも、生きていくためにアメリカのいずれかのコンピュータメーカーとの間で、既に技術やビジネスの「提携関係」を保有していましたので、日本だけの「結束」は、現実離れした夢物語にしかすぎませんでした。

それでも、なんとか国家としての「将来戦略」のレポートをまとめないと、格好がつかないため、「ユビキタスネットワークとその応用」で先行することが、日本の戦略であるという苦肉の策を考え付きました。レポートのキーワードとして「ユビキタス」という言葉を使ったように記憶しています。

ゲーム機やデジタル家電の分野で強さを発揮する日本の、「小型、軽量」化技術を、コンピュータ・ネットワークの携帯端末にも応用すれば、世界市場で「勝てる」のではないかという、論理でレポートがまとめられました。議論をした誰も、レポートができたことには安堵しましたが、そのような「勝算」に確信があったわけではありません。

梅爺も、この討議には参加しましたが、「ユビキタス」などという、分かりにくい言葉を使って、さも、内容に意味があるかのごとき印象を与えようと言う、姑息な考えには、反対でした。しかし、少数意見で否決されました。

その後、「ユビキタス」「ユビキタス」と、お経のように唱える人たちが、出現し、「ユビキタス」という言葉が、日本でも「市民権」を得そうな状況になってきました。

「ユビキタス」の主導権を、「経済産業省」に握られるのは、面白くないと考えたのかどうか知りませんが、2003年に今度は「総務省」が、「ユビキタスネットワーク技術の将来展望に関する調査研究会」という委員会を発足させました。日本の中央官庁は、歴史的ないきさつで、コンピュータは経済産業省管轄、通信・放送は総務省管轄となっているために、ITに関するプロジェクトは、常にどちらが主導権を握るかと言うような争いになりがちです。

梅爺は、今度は、勤務していた会社の代表として、総務省の「調査研究会」の委員の一人になりました。

委員長に指名された有名な大学の先生は、「バラ色の将来像」を描くことに熱心でしたので、へそ曲がりの梅爺には、この研究会は大変居心地の悪いものでした。

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2008年1月25日 (金)

ユビキタス(2)

「ユビキタス(遍く存在する)」という概念を、情報処理の世界と結びつけて使用したのは、アメリカのシリコン・バレーにあるパロ・アルトの「ゼロックス研究所」の研究者達で、勿論日本人ではありません。しかし、現在の普通のアメリカ人に「ユビキタス」と言ってみても、日本の流行語の意味では理解してもらえないでしょう。

パロ・アルトには、有名なスタンフォード大学があり、有能な人材が集まる場所ですので、近辺に多くの「研究機関」や、ITの分野で著名な会社が点在し、梅爺が現役時代に、仕事でもっとも多く出張したアメリカの都市の一つです。サンフランシスコから、車で1時間程度の所ですが、サンフランシスコはその地形故に、霧が多く、夏でも肌寒いような気候であるのとは異なり、パロ・アルトは、「カリフォルニアの青い空」という唄が、自然に脳裏に浮かぶような陽の光に溢れた明るいところです。

「ゼロックス・パロ・アルト研究所」は、一時、情報処理分野の「マン・マシン・インタフェース」に関する先端的な研究で、世界に名を馳せた有名な研究機関で、この分野のメッカでもありました。人間と機械(コンピュータ)が、どのようにしたら「効率よく会話する」ことが可能かを研究していたわけです。

この研究分野は、「人間」側が「機械」に歩み寄るか、「機械」側が「人間」に歩み寄るか、という二つのアプローチ手法がありますが、「ゼロックス研究所」は、「理想形」を追い求めるのではなく、経済性や、技術の成熟度合いといった現実の制約条件を配慮して、実践的で「実用できるアイデア」を次々に発表していきました。

今では、パソコンの世界で「常識」となっている「プルダウン・メニュー方式(画面である項目を選択すると、それに関連する複数の選択項目が帯状に現れる)」や、「マウス」などは、すべて「ゼロックス研究所」が最初に提示したアイデアです。

この「ゼロックス研究所」で、人間が情報処理をするために、特定の場所(ワークステーション)に行かなければならない制約から、人間を解放し、人間が今いる場所で情報処理を可能にしようと考え、「情報処理のユビキタス環境」という概念を編み出しました。しかし、当時は「情報処理装置の小型軽量化(携帯可能)技術」「無線技術」「バッテリー技術」に現実的な課題があり、「情報処理のユビキタス環境」は、概念の領域からは出ることができませんでした。

その後、IT技術の著しい進歩があり、以前に技術的に課題であったことが、障害にならなくなってきて、一躍「ユビキタス環境」の実現が現実味を帯びてきました。こういう時代の到来を「ゼロックス研究所」の研究員が見通していたわけですから、彼らは「ビジョナリー」として高い能力の保持者であったといえるのでしょう。

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2008年1月24日 (木)

ユビキタス(1)

最近の難しい流行語の一つが「ユビキタス」です。英語の名詞「ubiquity」の形容詞形「ubiquitous」が語源ですが、一般にはそう頻繁に使われる言葉ではありません。ラテン語の「ubique」の、「あらゆる所(everywhere)」をあらわす言葉が英語に転じたものですので、「ユビキタス」は、「どこにでも存在する」「遍く(あまねく)存在する」という状態を示す形容詞です。

分かりやすい例としては、「空気」があります。空気は、地球上、濃度の差はあれ、「どこにでも、遍く存在」しますので、空気のような状態を一言で表す言葉になります。漢字では、「汎」の意に近いのかと思いますが、日本語にはドンピシャリの言葉が見つかりません。信仰深い人にとっては、「神」もユビキタスな存在なのでしょう。

情報社会が進展すると、周囲に、どこでも、いつでも目的に応じた情報処理環境が存在するようになる、という情報社会の「理想郷」を表現するために、この言葉が使われるようになりました。つまり、この場合、ユビキタスという形容詞で修飾される名詞は、「情報処理環境」ということになります。

言葉の原則に、こだわって、堅いことを言えば、「ユビキタス」という形容詞で修飾される名詞が、直ぐ後に続かないと、何を言おうとしているのかが伝わりません。最近、広告の中のキャッチフレーズとして、「これからは、ユビキタスの時代」「ユビキタスでビジネスを強くする」などと、この言葉が名詞として使われていますが、文法にこだわれば、少々トンチンカンな話です。カッコイイ表現をしたつもりなのでしょうが、意味が伝わらないのであれば、独りよがりです。

「Ubiquitous Network(どこでも利用可能なネットワーク)」とか「Ubiquitous Networked Environment(どこでもネットワークが利用可能な環境)」とか表現して初めて意味が通ずる話を、「ユビキタス」という一語で片付けようという魂胆は、分からないでもありませんが、無理があり、そもそも、飛躍がはなはだしく、論理的ではありません。

前にも書きましたが、流行語の内容を吟味しないで、直ぐに飛びつき、「私は、もうこの言葉を知っていますよ」と自慢げにその言葉を使用する風潮は、「小言幸兵衛」のようで大変恐縮ですが、梅爺には軽薄に見えます。

同じような意味で、「ユビキタス」の他に、「マルチメディア」「オフィス・オートメーション」なども、よく考えてみると何を言いたいのかわからない流行語です。前にブログに書いた「ネオダマ」に至っては論外です。

こういう言葉に遭遇すると、梅爺は、「Ubiquitous? So what?(ユビキタス?それがどうした)」と言いたくなる悪い癖があります。

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2008年1月23日 (水)

こんなに近く、こんなに遠く(3)

昨日は、映画のあらすじを、梅爺の拙い文章で紹介しましたが、この映画のすばらしさは、このあらすじの中に、何気なく挿入され、ちりばめられているエピソード、会話、シーン、小道具が、実に巧妙に、監督が伝えたい『主題』を浮き彫りにするよう仕組まれていることです。まさにプロの手腕です。

恵まれた生活の中で、人は傲慢になり、最も身近で大切なことを、見失い疎遠にしてしまっていて、追い詰められて初めてその問題に気づく愚かで哀しい存在であることを、監督は非難するのではなく愛情を込めて描いています。

『家族との絆』『人の生と死』『神の存在』などが、『そんなに近く、そんなに遠い』ものなのでしょう。このタイトルも秀逸です。永遠に存在し続けるように見える天体の星にも『誕生と死』があることを示唆するために、天体観測のエピソードが使われています。

主人公が砂漠へ向かう途中や、村に着いてから出会う、色々な人たちとの『会話』の中にも、観る人に『主題』を想起させるものがちりばめられています。勿論、この人たちは、主人公とは比べ物にならない貧しいにもかかわらず、『神(アラーの神)』を信ずる純朴な人たちで、あらゆる点で主人公との対比が絶妙です。主人公は、息子の死が近いことを予感して絶望感に苛まれ、『神は何もしてくれない。多くの患者の命を手術で救ってきたのは、『神』ではなく、自分である』と、涙ながらに嘆き、『神の存在』を否定しようとします。

しかし、最後の救出の場面で、ミケランジェロの『天地創造』の手の構図を用いて、監督は『神の存在』を暗示したのかもしれません。『人の生と死』や『神』は、誰もが解き明かせない問題ですが、にもかかわらず、その問題から目をそらして人は生きていくわけにはいかないということを、監督は映画を観る人に伝えたかったのではないでしょうか。

中国同様に、イランには映画の脚本については、国の事前検閲があるはずですので、イスラム教に批判的な内容はパスしません。宗教に関して、映画が観る人に誤解を与えないように、微妙で周到な配慮もあるように感じました。監督が、すばらしい教養人であることが良く分かります。

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2008年1月22日 (火)

こんなに近く、こんなに遠く(2)

イラン映画『こんなに近く、こんなに遠く』の主人公は、脳外科の名医で、金も名誉も手に入れた中年男性です。彼の家族は、遊び好きな妻(後妻)と、前妻との間にもうけた成人間近な息子です。この息子は天体観測趣味に熱中しています。主人公は、家政婦を雇い、プール付の豪邸に住み、ベンツを乗り回し、診察時間の合間に、インターネットを利用して競馬の馬券を買うなどと、『成功した男』の生活を満喫しているように見えますが、家族の心は他人のように疎遠になってしまっています。

息子の誕生日に、プレゼント用に購入した天体望遠鏡が勤務先の病院へ届き、それを持って帰宅しようとした時に、別の病院から手違いで送られてきた一人の患者の脳CTスキャン画像をふと目にします。そして、それがなんと自分の息子の診断画像であり、更に深刻な脳腫瘍に犯されていることを知ります。自分の患者には、どの馬券を買おうかと頭の隅で考えながら、事務的に冷酷な死の宣告をしてきたにも関わらず、息子の死を予感して動転し、同じ家に住みながら息子の異変にも気づかなかった自分を責め、家へ帰りそびれてしまいます。

翌朝、憔悴しきって帰宅しますが、妻は友人達と旅行へ出かけ、息子も誕生日に帰らない父親に絶望して、仲間と砂漠の中の村で行われる天体観測競技会へ参加するため出かけてしまったことを知ります。父親は、良心の痛みを抱えながら、天体望遠鏡をベンツに積んで、直ぐに息子の後を追いますが、目的の村に着いた時には、競技会の場所が、更に遠い砂漠の中の鉱山廃墟跡に変わっていて、息子に会うことができません。打ちひしがれて、鉱山廃墟跡をベンツで目指しますが、ガソリンは切れ、その上砂嵐に遭遇し、車ごと砂の中へ閉じ込められてしまいます。息子が小さな子供であった頃のことを朦朧とした意識の中で回想し、死を覚悟した時に、ベンツのサンルーフが割られ、息子達が救助に来たことを知ります。

車の中から差し伸べる父親の手と、サンルーフから差し伸べられた息子の手が、システィナ礼拝堂のミケランジェロの天井画『天地創造』のように、近づくところで、映画は終わります。

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2008年1月21日 (月)

こんなに近く、こんなに遠く(1)

梅爺は、テレビで放映される映画で、なんとなく観てみたいと思うものを、ビデオ録画装置(ハードディスク内臓)に録画しておき、気の向いた時に観るようにしています。テープに録画していた時代と違い、元の放送とほぼ同じレベルの画質で再生されますので、映画館の大画面の迫力には及びませんが、技術の進歩でもたらされた環境に満足しています。ハードディスクの中には、いつも20本近い『未だ観ていない映画』があって、順番を待っています。

最近、このうちの1本、『こんなに近く、こんなに遠く』というイランの映画(レザ・ミル・キャリミ監督、NHKのBS放送で放映)を観て、梅爺は、久々に『すばらしい映画を観た』と感動しました。アラビヤ語ではタイトルがどのような表現になっているのか分かりませんが、英語のタイトルは『So Close, So Far』です。

やたらと大金を投じ、最新の特撮技術を競うだけの現実離れした活劇映画がハリウッドの主流になっていますが、インド、ベトナム、タイ、イランなどには、すばらしい力量で『人間』を描く監督が沢山います。資金不足で、対抗上こういう映画しか作れないという現実的な側面もあるのかもしれませんが、経済的に貧しい国の知識人が、『アメリカ文化に対して無言の抵抗と警告を発している』ようにも思えて、梅爺はこちらに共感していまいます。

『こんなに近く、こんなに遠く』は、『人間の生と死とは何か、それに関わる神の役割とは何か?』を、観る人に問いかけた映画であると梅爺は理解しました。勿論、監督は、答を提示したり、説教がましいことを押し付けたりはしていません。むしろ監督自身も『分からない』と感じていることを表現しているのだろうと思うのですが、その『分からないレベル』が、梅爺のような凡人とは桁違いであることに圧倒されます。つまり、『何が分からないか』が『よく分かっている』ということを意味します。

多分、プロの映画関係者が観れば、『緻密な脚本』『適切なキャスティング(役割に合った俳優の選択)』『俳優の演技力』『撮影技術』『音楽』などのレベルの高さに、驚嘆するのではないでしょうか。梅爺は、以前『梅爺が選ぶ5本の映画』の一つに、中国のチャン・イー・モー監督(初恋が来た道)をブログでとり挙げましたが、このイランの監督は、チャン・イー・モー監督に勝るとも劣らない偉大な監督であると感じました。

普段ニュースに登場するイランは、アメリカに反抗して核兵器を開発しようとしている国であったり、熱狂的な反米デモが繰り広げられている国であったりしますから、なにやら『恐ろしい得体の知れない国』のイメージを抱きがちですが、イランの知識人や庶民が、どのような生活をしていて、どのような悩みを抱いているかを、このような映画は垣間見せてくれますので、親近感を覚えることになります。政治家の、内容の無い自国礼賛演説より、一本の映画の方が、外交に貢献しているともいえます。

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2008年1月20日 (日)

先生一族

「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳があるくらいですから、日本の社会には、先生と呼ばれる職業に対して、「世間離れしている人たち」という蔑視があるのかもしれません。

しかし、梅爺の身内を眺めてみると、先生(教職者)だらけで、類は類を呼ぶとはいえ、どうしてこういうことになったのだろうかと、不思議に感じています。

梅爺の父親(新潟大学工学部)、梅爺の母方の祖父(京都大学法学部)、同じく伯父(京都大学理学部数学科)を筆頭に、梅爺の次兄、梅婆(家内)の父親、弟、そして梅爺の息子のお嫁さんの父親まで、すべて先生(教職者)です。まさしく、「石を投げたら先生にあたる」という状況です。

話が少し反れますが、梅爺は大学受験のときに、京都大学も候補に入れましたが、祖父や伯父と比べられ「孫や甥の代になると、この程度か」と言われるのが癪で、東京の大学を選びました。しかし、社会に出て、京都大学出身の方には、個性的で魅力的な人が多いことにき気づき、若気の見栄で、進路を誤ったかもしれないと、悔いたことがあります。

大学卒業の時に、主任教授に呼ばれて、「あなたは、お父さんが先生なのですから、別の道を選んだらいかがですか」と薦められました。「あなたには先生の能力がない」ということだったのか「正直先生より実入りの多い職業もありますよ」と親切に言ってくださったのか、今となっては判然としません。

先生という職業の羨ましいところは、次世代の日本を担う人材に、直接影響を与えることができる立場であることで、生前父が、多くの教え子と交わしていた年賀状の数や、父の葬儀に沢山駆けつけた教え子の数を見ると、一層その気持ちを強くしました。

社会貢献などと言いながら、基本的には企業で利益追求第一の人生を送ってきた梅爺が、いまさら悔いても仕方がありませんが、もし、梅爺まで先生になっていたら、一体この一族はどうなっているのだろうとも考えてしまいます。

ブログ一族は、先生一族の特徴の一つなのかもしれません。

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2008年1月19日 (土)

ブログ一族

梅爺の身内には、梅爺のほかにもブログを書き続けている人間が何人かいて、「我が一族には、ブログとの相性が良いDNAが組み込まれているのでは」と、まじめに考えてしまいました。

その一人は、昨年、2年半に及ぶ介護・看護の末、配偶者を亡くした梅爺の長兄で、介護、看護および病状の変化の詳細を、「介護の守、老老介護日記」というタイトルで、一日も欠かさず書き続けました。梅爺の勝手気ままなブログとは違い、「つらい現実」を冷静に書きとめることは、かなりの強い意思がないとできないことです。上記のブログは、義姉の永眠に日に、終わりを告げましたが、今度は、まったく新しい「独居Q翁つぶやき」というタイトルのブログを開設し、介護・看護の体験談、病院の看護や、入院患者と家族の絆の実態、問題だらけの介護制度などについて、書き始めました。

長兄(Q翁)も、梅爺同様、「ボケて文章が支離滅裂になってきたらやめる」と公言していますが、今のところ文章の論理は明快で、そう簡単にボケるようには見えません。

長兄の、男の孫(大学工学部4年生)も、「ただ、感じるままに・・」というタイトルのブログを掲載しています。今年卒業後は、希望とおりに大手光学機メーカーへの就職がきまっていて、前途洋洋の青年ですが、瑞々しい感性としっかりした論理が文章に垣間見えて、梅爺も、自分がこの年代に、こんな文章は書けただろうかと、身内ながら感心しています。明るい性格なので、社会に出ても周囲に愛され、良い相手を見つけて、立派な家庭も築いていくだろうと、梅爺は確信しています。お爺さん(Q翁)と孫が、お互いのブログに尊敬をこめてコメントを書きながら、交流しているのも微笑ましい光景です。

我が家の娘も、結婚前から続けていた手料理の写真掲載をベースにブログを今でも書いています。仕事や家事の合間で、ブログを書く(作る)というのも、暇な梅爺とは違い、大変なはずです。

ブログを書く人は、自己顕示欲が強い、などと言われますが、どうも、我が一族には、それよりも、自分の頭で考えたことを、文章として書き表すという、プロセスをあまり苦にせず、むしろ自分の中では愉しんでいるところがあるように思えます。きっと、そういうDNAを残したご先祖様がいるのでしょう。

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2008年1月18日 (金)

『経営の神様』松下幸之助

大手家電メーカー『松下』が、従来の2つのブランド『ナショナル』『パナソニック』を『パナソニック』一本に統一するという1月11日付けの報道に関連して、創始者の松下幸之助が、『成功する経営者の資質』として、『可愛げ』『運が強そうなこと』『後姿』の三つを挙げていたという話が、読売新聞の『編集手帳』で紹介されていました。

経営者に必要な資質を三つ挙げなさいと言われれば、梅爺のような凡人は、得意げに『統率力』『決断力』『説得力』などと言うに違いありませんが、それは、誰もが思いつく、ごく当たり前な『経営者』の資質に過ぎません。松下幸之助が『成功する』経営者の資質として、凡人の虚をつくような3要素を挙げたことを知って、初めて多くの人は、その深い洞察力に驚きます。

『可愛げ』『運が強そうなこと』『後姿』が、何故『成功する経営者』の要件なのかは、『風が吹けば桶屋が儲かる』と同様、論理的な飛躍があります。特に『運が強いこと』ではなく『運が強そうなこと』という表現の違いは微妙ですし、『後姿』で松下幸之助が何を言おうとしたのかも、推測するしかありません。重要なことは、論理的に理解することより、松下幸之助が、人生の経験や洞察から、このような『人を観る視点』を持っていたということと、それを、このように自分の考えとして『表現』したことではないかと、梅爺は思います。薄ぼんやりながら、松下幸之助が求めた人物像が浮かび上がってくることが、この『表現』の卓越したところです。言い換えれば、これは、松下幸之助が、一生を通じて自らに求めた『理想像』でもあったのでしょう。『可愛げ』の無い人に、このような『表現』はできません。

この『表現』を、『単なる小賢しい、思いつきの羅列』として、評価しない方もおられるでしょうし、梅爺のよう『自分には、このような発想は到底できない』と畏れ入る人もまたおられるでしょう。

どちらであっても良いと思いますが、少なくとも『自分の考え』を示すことが重要であるように思います。他人を批判をするなら、その根拠なり、自分ならばどのように『表現』するかを示してからでないと、フェアとは言えません。『成功する経営者の資質を三つだけ挙げる』ということには、これが正解という答はありませんから、自分をさらけ出す覚悟が必要です。易しく見えて、決して易しいことではありません。

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2008年1月17日 (木)

超自然現象(7)

『幻覚状態』で、見る異次元の映像は、ちょうど私達が、テレビのチャンネルを変えたときに、異なった周波数に対応する違う映像を観ることに類似しています。人間の脳は、現代科学では解明できていませんが、現実世界と異なった異次元世界を『受信』する能力があるようにも見えます。梅爺には、即座に信じがたい話ですが、『幻覚状態』で、誰もが同じような『異次元の世界』を体験していることは確からしいので、この『仮説』を全面否定することはできません。

もう一つの『仮説』は、『異次元世界』は存在しないけれども、『幻覚状態』でヒトは、ある『情報』にアクセスできる資質を持っているという考え方に至ります。その『情報』はどこに存在するのかという話が次に持ち上がりますが、DNAの中に書き込まれているのではないかと、グラハム・ハンコックは推理しています。

DNAの情報の中で、『遺伝』に関わる情報は3%程度で、残りの97%は、何の目的なのか、現状では解明されていませんので、『ジャンク情報』と呼ばれています。生物の進化論を考えると、ヒトの生存に不必要な情報であるとは思えません。この『ジャンク情報』は、人間の言語に共通した特性を持っているという研究報告もあります。グラハム・ハンコックは、この『ジャンク情報』がヒトの『幻覚状態』と関連していると推理しています。

地球上のあらゆる生物体の細胞の中にDNAというしくみが組み込まれ、その細胞が分裂する時に、必ず同じDNAをコピーしていくというカラクリも、誰が一体このような巧妙なしくみを作り出したのかを考えると、呆然としてしまいます。自然の摂理の奥に、大変な知性が潜んでいるように見えるからです。

この知性は、地球上で生み出されたものではなく、宇宙のどこかで生み出され、飛行体に乗せられて、バクテリヤのような単純細胞として地球に届いたものという、『仮説』を説く学者も居ます。もし、そうだとすると、宇宙の知性体は、『生物進化論』で、いつの日にか地球上に『ヒトのような高等知生体』が出現することを予測していたとも考えられます。SFもどきの話ですが、可能性の一つとして、荒唐無稽と切り捨てられない内容を含んでいます。

グラハム・ハンコックの『Supernatural』を読んで、梅爺は、全てを信じたわけではありませんが、大いに知的好奇心を揺さぶられました。こういう好奇心があるうちは、ボケないのではないかと、全く根拠の無いことを理由にして、自己満足しています。

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2008年1月16日 (水)

超自然現象(6)

昔のヒトが『幻覚状態』の中で、遭遇した『生き物』を『神』と判断したであろうことは、容易に推察できます。亡くなった肉親や知人の『霊』に出会ったという報告は、この本ではあまり紹介されていませんが、出会った『生き物』を一般的な『死者の霊』と判断した(つまり、ヒトは死ぬと霊が別世界に存在し続けると感じた)事例は報告されています。

『蛇』や『半人半獣』が、沢山現れることで、古代の壁画や、エジプトの壁画(頭が犬や鳥で、身体が人間の神)、エジプト以外でも、羽の生えた天使、女神、妖精、小さい小人の魔物、ドラゴン(竜)が、神または神に関係するものとして、世界の各地で、代々伝えられてきた理由が推測できます。これらは、全て、ヒトの想像の産物ではなく、実際に『幻覚状態』で『見た』ものであった、という説は、説得力があります。日本や中国に多く残る『蛇神』伝説も説明がつきます。

宗教の多くは、これらの『幻覚状態』の経験が原点ではないかという説も、同じく説得力を持ってきます。モーゼ、ムハンマド(モハメット)、キリスト、パウロ、ジャンヌ・ダルクが、明るい光とともに神の啓示を受けたという話や、マリヤが天使から『受胎告知』を受けた、などという話も、『幻覚状態』と関係付ければ、途方も無い作り話ではない可能性(少なくとも本人は、そういう体験をしたと確信している)があることが分かります。

中世ヨーロッパの、妖精伝説、現代のUFO,宇宙人による拉致事件なども、全てある説明がつきます。

最大の謎は、何故、基本的に『同じような幻覚』をヒトが体験するのか、ということになります。ヒトの脳の構造が同じなので、同じような刺激には、同じような反応をするといってしまえばそれまでですが、現在の脳生理医学では、本当の説明ができません。

次に、体験者の『幻覚』の実態は、何かという問題が残ります。現代科学では感知できない『異次元世界』が本当に存在し、脳は、ある条件で、その『異次元世界』を感知できるという考え方と、人間の内部に、ある条件の時に対応ができる『情報』が生まれながらに組み込まれている(例えばDNAの中に)という考え方を、『仮説』として思いつきます。

現代の科学者は、『幻覚』は『幻覚』にすぎないと、この種の話を切り捨てますが、グラハム・ハンコックは、人間の宗教の起源や、脳の不思議を探求するのに、この『幻覚状態』を、研究材料にすることに、意味があるのではないか、と問いかけています。

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2008年1月15日 (火)

超自然現象(5)

『幻覚状態』の中で、ヒトはどのような体験をするのかは、残念ながら科学的な手法で、その時の体験内容を『写真や動画』に撮るような手段が現状では無いために、全て、体験者から事後に聴取したインタビュー内容を中心に、研究・解析が行われています。

『色彩の洪水を万華鏡のように体験する』『ある種の幾何学模様(水玉模様やジグザグの線)が見えてくる』『明るい光のシャフトの中を天空へ導かれるか、暗いトンネルのなかを、地中、水中へ深く吸い込まれるような移動体験をする』『自分の身体が槍で突き刺されたり、バラバラに解体されたり、身体の中に何かが埋め込まれたような体験をする(痛みがあるわけではない)』『蛇、トカゲ、カマキリ、ネコ(ジャガー)や異星人のような異界の生き物に遭遇する』『現実の世界には存在しない、身体の一部が動物で、一部が人間という半人半獣に遭遇する』『それらの生き物は、威嚇的ではなく、友好的であったり、啓示的であったり(何かを教えようとしている)するために、恐怖感はなく、精神が開放される感覚を得る』『それらの生き物とは、テレパシーで交信ができ、お互いの意思を通じ合うことができる』などが、共通した体験内容ですが、中には『それらの生き物と性行為を行い、子供が生まれ、養育する体験をする』人もでてきます。

梅爺は、死線をさまよって生還した人の話を、前に本で読んだことがありますが、死の直前で見た光景と『幻覚状態』の内容はどこか類似しているように感じました。

夢と異なり、体験者は、事後にその体験を鮮明に覚えていることも特徴です。アメリカの大学で行われた実験では、何人かの体験者は、『UFOに連れ去られ、宇宙人と会った』と語っています。その間、本人は病院のベッドに横たわっていたことが、確認されていますから、UFO体験は、幻覚であることは確かです。アメリカには、UFOに拉致され、生還したと証言する人が沢山居ますが、多くは、このような『幻覚』による体験であろうと推察できます。ごく少数の割合で、薬物を使用しなくても『幻覚状態に陥ることができる』人がいる証拠なのでしょう。

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2008年1月14日 (月)

超自然現象(4)

梅爺は、今まで『神』の概念は、ヒトが昔周囲の理解できない現象を畏怖し、その背後にその現象を支配する何者かがいると、『論理的に推理』し、創りだしたもの、つまり創造(想像)の産物と考えていましたが、グラハム・ハンコックの主張を認めれば、『神』や『霊』は、想像の産物ではなく、ヒトが『幻覚状態』の中で、『実際に遭遇した体験』を表現したものということになります。

『神』や『霊』が、ヒトの脳の中の存在であることは、共通していますが、『論理的な思考で考え出したもの』ではなく、『幻覚状態の中の仮想体験』という説の方が説得力がありますので、梅爺も今後この説に加担したいと思います。梅爺の『仮説』は、少し内容を変えて進歩したことになります。

アフリカや南米のシャーマンが、『幻覚状態』に陥った時に、『何を体験しているのか』をインタビューしたり、アメリカやイスラエルで、学者が政府の許可を得て、ボランティアを募り、DMTなどの薬剤を投与して、『幻覚状態』の体験者が、『何を体験をしているのか』を後刻インタビューして、その内容を研究の材料にしている学者が世界には、何人かいます。

結果は、百人百様に、異なった幻覚を見ているのではなく、不思議なことに、時代、人種、文化的な背景の影響を受けずに、基本的なパターンは、極めて類似していることが判明しています(勿論、文化的、宗教的な背景や知識が、表現内容に影響を及ぼすことはあります)。

アルタミラの洞窟に絵を描いた3万年以上前のヒトと、我々現代人は、知識や文化レベルは異なりますが、ヒトとしての基本的資質は、そんなに変わっていないとすると、もし、当時のヒトが『幻覚状態』を経験する術を心得ていたならば、現代のヒトと『基本的には、同じような内容の幻覚』を見ていた事になります。

この視点で、アフリカやヨーロッパに残る洞窟壁画を観ると、従来謎であったいくつかのことが、『理に適うもの』として見えてくるというのが、この本の興味深い主張です。幼稚な人間が、幼稚な絵を描いたのではないという主張です。

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2008年1月13日 (日)

超自然現象(3)

人が『幻覚状態』に陥ることがあることは、良く知られています。日本の巫女は、一心腐乱に呪文を唱え続けることで、幻覚状態に陥り、その間霊界の霊と交信をすることができると言われてきました。

一般に、人間は、単調な打楽器の殴打の繰り返しや、聖堂にこだまする静寂で単調な音楽、激しいダンスの繰り返しなどで、『陶酔状態』や『幻覚状態』に陥りやすいことも、知られていて、どの宗教も、これをうまく利用しています。仏教の木魚はその代表例で、アフリカの部族では、焚き火の周りで踊りを続けるような手法がとられます。日本には、昔『踊る宗教』というのがありました。催眠術でも、これらの手法が利用されます。中には、自分の身体を痛めつけ、極限状態に追い込むことで、苦痛によって『幻覚状態』に達する方法もとられています。宗教によくある『荒行』はこれを利用しています。

『陶酔状態』『幻覚状態』では、人は、肉体と精神が遊離し、精神が異次元のすばらしい世界を体験できると言われ、宗教では、諸々の悩みから開放され『救いの境地』に達すると説明されます。

体質的に『幻覚状態』に陥りやすい人と、そうでない人がいますが、中には、ほとんど外部的な要因が無いのにも関わらず、突然『幻覚状態』に入ることができる人もいるといわれています。

昔から、『幻覚状態』になりやすい体質の人が、霊界との橋渡し役の『巫女』や『シャーマン』に選ばれてきたのでしょう。

最も簡単に、誰もが『幻覚状態』に入ることができるのは、『薬物』を利用することで、アフリカや南米のシャーマンは、ある種の植物から抽出した成分を利用します。先進国でも、DMTやLSDといった『薬物』がこの種の目的を果たすことは分かっていますが、一般には『麻薬』として、その利用は法律で禁じられています。しかし、南米などでは、宗教的な目的で、『植物の成分』を服用することが許されているところもあります。

人類の歴史で、ヒトがこの『幻覚状態』を知ったことが、人類の発展に大きな影響を及ぼし、『宗教』の原点も、ここにあるのではないかというのが、グラハム・ハンコックの主張です。

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2008年1月12日 (土)

超自然現象(2)

グラハム・ハンコックは、スペインのアルタミラをはじめ、ヨーロッパに沢山点在する3万年以上前の石器時代の『洞窟壁画』に注目します。

梅爺も、昨年夏に訪れたトルコ、アンカラの『アナトリア文明博物館』で、この種の洞窟壁画のレプリカ(人々が狩をしているように見える絵)の一つを観ました。

20世紀の半ばまで、この種の絵は、幼稚であった人類が、そのレベルで生活の様子(狩の様子など)を描いた、いわば『子供の絵』と同様なものと、学者によって説明され、多くの人がその説明を信じてきました。梅爺も、学校ではそのように習った記憶があります。

しかし、多くの絵(時に彫刻)が、光も届かず、そこへ地理的に到達するのも容易ではないような、洞窟の一番奥に描かれているのは何故か、人と動物の大きさのバランスが不自然なのは何故か、人や動物が空中に浮かんでいるように描かれているのは何故か、半人半獣のような現実に存在しない生き物が描かれているのは何故か、槍や矢に突き刺された人や動物が描かれているのは何故か、説明がつかない幾何学模様が描かれているのは何故か、などの多くの不可解な謎が残されています。

グラハム・ハンコックは、これらの絵は、古代人が、子供のお絵かき同様、気まぐれに描いたものではなく、シャーマンによる宗教的な儀式として描かれたものではないかと主張しています。この仮説は、グラハム・ハンコックが初めてではなく、20世紀の後半に、David Lewis-Williamsという学者が提唱し、今では、考古学者の中でも多くが支持している学説です。

シャーマンは、幻覚状態で、『異次元との交流』をしますが、洞窟は、異次元への『入り口』と考えられていたのではないかということです。描かれた絵は、幻覚状態で見られる光景ではないかということを、自ら追体験するために、グラハム・ハンコックは、合法的な方法で幻覚剤を服用したり、南米へ出かけて現存するシャーマンと一緒に、彼らが利用する、ある種の植物から抽出した薬物を服用して、その体験結果を克明に記しています。

職業とはいえ、その徹底振りに、まず読者は驚かされます。

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2008年1月11日 (金)

超自然現象(1)

人間は、自分達が現状で保有する『知識』では理解できない現象を、『超自然現象』として、不思議に思い、時には畏怖します。人間の知識は有限ですから、勿論世の中には沢山の『超自然現象』があってもおかしくありませんが、自分の知識を過信する人は、自分に理解できないことは『存在しない』『まやかしである』と考えがちで、科学者や、論理思考を好む人にはそういう習性が強い傾向があります。ユリ・ゲラーの『スプーン曲げ』は、インチキだと主張することや、梅爺が、『神』や『霊』は、個々の人間の脳の中に存在する『仮想概念』であって、外界には実在しないのではないかという『仮説』を現状で維持しているのは、その類です。

無機質物質で形成されていた地球に、どうして突然有機体の『生命』が発生したのかという疑問も、現状では解明されておらず、どの科学者も、実験室で無機質から有機体の生命を創りだすことに成功していませんから、『生命の始まり』は『超自然現象』であるともいえます。人間は、太古の単純なバクテリア細胞から進化を遂げた存在です(進化論を信ずれば)ので、『無機物が有機物に変わることはありえない』と主張することは、自分の存在を否定するパラドックスに陥ります。一つの論理的な解は、『生命体は、地球外からもたらされた』という主張で、まるで、SF小説のような仮説ですが、真剣にそれを主張する学者もいないわけではありません。ただし、この仮説は、『地球外に、なぜ生命体が存在したのか』『地球へ生命体を送り込んだのは誰で、その意図は何か』というような『謎』が新たに次々と発生し、問題の解決を先延ばしにするだけで、根本的な説明にはなりません。

前にブログにも書いた、グラハム・ハンコックというノンフィクション・ライターの新著『Supernatural(Meetings with The Ancient Teachers of Mankind)』を読んで、梅爺は大いにに知的好奇心を駆り立てられました。英文で700ページ以上の大冊でしたが、面白さに惹かれて読み通すことができました。

一言で、言ってしまえば、人類は、色々な方法で、『幻覚状態(神がかりな状態)』を体験する方法を覚えてから、急速に記号処理能力や宗教対応能力が旺盛になり、多くの生きるための『知識(特に病気を治癒するための知識)』も、この『幻覚状態』で学んだのではないか、という仮説がこの本の主題です。つまり、『シャーマニズム』が人類の発展に大きな貢献をしているという主張です。『幻覚状態』で、なぜ人間は、時代や環境とは関係無しに、『同じような体験(異次元の生き物らしいものとの遭遇など)』をするのだろうかという謎に迫っています。

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2008年1月10日 (木)

人間の脳の画像処理

人間の脳も、画像の最小処理単位は、画素(ピクセル)であろうと推測されています。梅爺が今お手伝いしている会社は、画像処理のソフトウェアを開発販売する会社ですが、この会社の画像処理の基礎技術は、CPFというピクセル・マッチング技術なので、ピクセルを基本処理していると言う点では同じです。

勿論、脳のカラクリが分かっていない以上、CPFは、人間の画像処理に似ているとは言えません。しかし、両者の類似性が、今後、人間の画像処理カラクリを解明する時に、大きな役割を果たすのではないかと、梅爺は、密かに期待しています。

人間の脳内部の、情報伝達速度は、コンピュータに比べると、惨めなくらい遅いことが分かっていますが、こんな遅い脳で、どうして『ステレオ音響付、高精細動画』を高速処理できるのか、詳しいことは、未だ分かっていません。多分、想像を絶する規模の『並列処理』が行われているのだろうとだけは、推測できます。

静止画(絵画、写真:モノクロ/カラー)や、モノラル音響は、技術が人間並みの情報再現に追いつけない時代に、やむなく考え出した便宜的な記録・再生方法です。絵画や写真(一部は芸術の領域にまで進展)に慣れてしまった私たちは、生活の中で、当たり前のものとして受け容れていますが、本来、時間で切り取った静止画という概念は、自然界にはありません。

私たちは、日ごろ、眼と耳と脳で、情報の大半を摂取し、処理しています。原始の時代から、人間自身は『ステレオ音響付、高精細カラー動画』処理だけを行ってきました。梅爺は、恥ずかしいことながら、こんな単純な事実に、最近ようやく気がついて、人間の情報処理能力の素晴らしさを再認識しました。

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2008年1月 9日 (水)

電子投票(2)

15年以上前の話であったように記憶していますが、『電子投票』を現実化する方法を考えて欲しいという商談が、梅爺が勤務していた会社の部門(コンピュータ・システムの販売)へ持ち込まれました。

要請者は、中央官庁(現在ならば総務省)ではなく、なんと、『選挙コンサルタント』という肩書きの民間人からでした。この人は、赤坂にオフィスを構え、『選挙で当選するためのあらゆるノウハウを保有』しており、全国の選挙区で『誰が当選するかを予測する能力』も、政党の選挙運営担当者より高いと一般に目されている、その道では有名な人でした。当時の大臣クラスや、自民党三役の有名な政治家を、『○○』と、呼び捨てにしていましたので、ある意味で、政界の『黒幕』の一人といっても良い存在であったのであろうと思います。

何故、このような民間人『黒幕』から、電子投票実用化の検討要請があったのかは明白で、もし、実用化されれば、システムに必要な機材やシステムそのものの調達・構築に、多大なお金が動くことになり、周辺に『利権』が発生することを、嗅ぎ取っていたからです。

そういう背景は承知した上でも、梅爺の会社にとっては、大きな商談で、社会システムの一つとして重要な意味があり、何よりも、みすみすライバル会社に負けるわけにはいかないと判断し、真剣に検討を開始しました。しかし、勿論のこと、梅爺の会社は『黒幕』と手を組んで、『できるだけ高価なシステム』を国へ売りつけようというような悪徳会社ではありませんでしたので、その時点で客観的に妥当であると、関係者に理解いただけるシステムを提案しようと智恵を絞りました。

必要な入力端末の数、必要なネットワークの規模とそれにかかる負荷、後方に配備するサーバ・コンピュータの数や能力に関しては、直ぐに見当がつきましたが、『誰でも違和感無く使える入力方式』『間違いや不正が起こらないシステム方式』を具体化することは、当時も容易ではありませんでした。

それでも、試作モデルまで作り、『黒幕』、政治家、中央官庁の関係者などにデモまで行って見てもらいましたが、結局、実現せずに終わりました。当時と現在では、技術環境も異なりますので、今度は、どのような形式で実現されるのか、梅爺は、大いに興味があります。

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2008年1月 8日 (火)

電子投票(1)

自民党が、国政選挙に『電子投票制度』を採用することを前向きに検討している、ということが少し前に報じられていました。これほど、ITが発達した社会なので、選挙を、『電子的』に行うことは、それほど難しくないだろうと、多くの方は想像されると思いますが、実は、それほど簡単な話ではありません。

情報機器を利用することが、不得手な老人などでも、違和感無く対応できる方法や、間違いや不正が入り込む余地の無いシステムを作り上げること、それに、ある程度の期間、採用した(投資をした)方式が陳腐にならず、準備や運用に多大なコストがかからない現実的な方法を、決めることは容易ではないからです。

うまい方法が実現できたとすれば、確かに『電子投票』は画期的なメリットが予測されます。投票の終了とほぼ同時に、『結果』が判明しますし、色々な分析データ(投票率や政党の支持率など)も同時に得られます。夜中まで、『開票速報』などという特別ニュース番組を観る必要もなくなります。

視点を変えて、大胆な予測をすれば、『電子投票』は、人類が永年かけて築き上げてきた『間接民主主義』のしくみを、ギリシャ時代の『直接民主主義』の原点へ、戻せる可能性も包含しています。地方自治体や国家の重要案件の最終決着は、全て『住民投票(国民投票)』で済ますことも夢ではないからです。勿論、梅爺は、これが『理想的で好ましい』と言っているわけではありません。重要課題の洗い出しや優先度の決定、複数の対応案の策定、それらのプロセスで行われる『議論』に、住民や国民が全員参加をすることは、現実的ではありませんし、住民や国民が、その時の『空気』や『感情』に流されずに、冷静な『判断(投票)』が、本当にできるのか、という問題や危険もはらんでいることは承知しています。しかし、『住民投票(国民投票)』の機会が増えれば、住民や国民の政治参画意識が大幅に変わりますし、現在の議員の数や、二院制のありかたも、再検討されることになるでしょう。そうすれば、政治家としての資質を持っているとは思えない人が、『先生』と呼ばれて、エラそうに幅を利かせることも減り、国民のイライラは解消する方向へ向かうかもしれません。

話が、少し脱線してしまいましたが、現状で検討されている『電子投票』は、従来、投票用紙への記名で行われていた投票様式を、紙を用いずに『電子的入力』に変えるという、手段の変更で、『選挙のしくみ』そのものの変更ではありません。例えば、『在宅投票』までも許すという話ではありません。

必要な技術要素は既に存在していますが、安全でコストも安価なシステム方式を定めることは、それほど容易ではないように、梅爺には見えます。

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2008年1月 7日 (月)

総領の甚六

江戸いろはカルタの「そ」、「総領の甚六」に関する話です。

「総領」は長男、「甚六」は、「のろま、機転の利かない、ぐーたら男」のことですので、「長男は、のろまが多い」ということになります。「宿六」も、親しみを込めた言葉ではありますが、少し「役立たず」といった蔑みの意味も込められていますので、「六」は、あまり良い意味に使われません。「ろくでもない」を思い浮かべるからでしょうか。

勿論、長男はのろまであるという、遺伝学上の事実はありませんので、生まれた後の環境で、のろまになってしまうということでしょう。

「長男は、家督相続人として家を継ぐ者」という、昔の社会風習の中で、両親やじいさん、ばあさんに、チヤホヤ育てられたり、他の兄弟とは違った待遇をうけたりしたに違いありません。江戸時代ばかりではなく、現代の日本にも、そのような考え方が残っているようにも感じます。幼い頃、チヤホヤされた分、家督を継いだら、親の老後の世話をみなければならないという、「代償」も準備されている(現在の日本では法的に、長男だけにそのような義務がかせられていませんが)ために、長男に嫁ぐことを嫌う、若い女の人は、今でもいます。

人は誰でも、チヤホヤされると、それを「当たり前のこと」と勘違いしてしまいがちです。中国の一人っ子政策の最大の問題は、寵愛をうけた子供が、「わがままな人間」になってしまうことだと、中国人から聞いたことがあります。

「家督相続」が保証された長男は、最低限の生活基盤が保証されていると安心してしまうとすれば、人生では「寝首をかかれる」ことや「足をすくわれる」ことがあろうなどとは、なかなか思い至らないのでしょう。周囲からチヤホヤされ、安穏な生活が送れたら、どんなに良いだろうと思いがちですが、思わぬ落とし穴が待ち受けていることが多い、というのが人生の妙です。

梅爺は、4男の末っ子ですから、「目から鼻に抜ける」すばしこい人間のはずですが、どうもそうでないのは、末っ子という理由で、チヤホヤされたためか、生まれつき、そういう才覚を欠いているためか、自分には分かりません。ただこの歳になると、どんなことにもギラギラしている爺さんより、「甚六」と呼ばれる爺さんの方が、「疲れなくて良い」と考えています。

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2008年1月 6日 (日)

Secret Supper(4)

「Secret Supper」では、マグダラのマリアが伝えた教義に基づく「Cathar」という宗派の教義を、ダ・ヴィンチがこっそり支持したということになっています。勿論ローマン・カソリックからすると「Cathar」は、認めがたい異端者ということになります。

この本では、「Cathar」の教義は、以下のように説明されています。

世界を創造したのは、「神」ではなく、「悪魔」である。したがって、この世は邪悪に満ちている。人が邪悪に対抗するには、「神」の力を必要とする。人は「神」を自らの内に求めなければならない(仏教の教えに類似)。人と「悪魔」を仲介するものが「闇」であるように、人と「神」を仲介するものは「光」である。このような「神」の意図を最初に伝えた預言者は、キリストではなく「バプテスマのヨハネ」であり、キリストはヨハネから洗礼を受け、その教えを継承したにすぎない(ヨハネもキリストも「神」ではなく、預言者)。マグダラのマリアは、キリストの処刑後、遺骸と対面した時に、「光」を感じ、「神」の意図を確信した。罪人キリストの関係者としての追求を逃れるために、キリストの『遺骸』とともに、南フランスへ渡り、そこで布教を開始した(キリストは、肉体的に蘇ったわけではないところが注目点)。

いかがですか。キリスト教が従来教えてきた内容と、大きな違いがあることに気づかれたと思います。キリストは「神の子」ではなく、人間の預言者であり、肉体的には、蘇ったりしていないということになります。天地は悪魔の創造であり、神は悪魔に唯一対抗できるものという考え方は、見方を変えれば、悪魔も神も『絶対者』ではないことを意味し、ローマン・カトリックの教義はひっくりかえってしまいます。悪魔が人間を造った時に、人間は、悪魔だけでなく、神の方にも顔を向けることができる存在にしてしまった(悪魔が過ちを犯した)とも見えて、興味深い話です。宗教は、理性だけで論じてはいけないと、何人かの方から、ご忠告をいただいていますが、人間の理性で見れば、こちらの話の方が受け容れやすいように感じました。

科学による真理追究者で、当時のローマン・カソリックの世俗的な堕落に嫌気がさしていた、ダ・ヴィンチが、この教義の方が、真実に近いと考えたという、想像は説得力があります。ちなみに、モナリザは、ダ・ヴィンチがマグダラのマリアを想像して、モデルを用いて描いたものという説が有力です。背景の不思議な『荒野』も、何かを示唆しているのかもしれません。生涯、この絵を手元から離さなかったのも、そのためと言われています。

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2008年1月 5日 (土)

Secret Supper(3)

「Secret Supper」でも「ダ・ヴィンチ・コード」と同様に、マグダラのマリアが、重要な役割を果たしています。

マグダラのマリアは、キリストが処刑された3日後に、キリストの墓を訪ね、キリストの復活(蘇り)に立ち会った、唯一の重要人物とされていますが、ローマン・カソリックは、ごく最近まで、マグダラのマリアは娼婦であったと、主張してきました。聖書には、それが事実であることを示す記述はありませんから、ローマン・カソリックには、マグダラのマリアを、「貶める(おとしめる)」必要があったことになります。

キリストの処刑後、キリストの教えを伝道した中心は、12人の弟子の一人ペテロということになっていて、ローマン・カソリックは、この流れを、継承しています。ローマのカソリック総本山は、「聖ペテロ(ピーター)寺院」と呼ばれ、彼の墓が安置されています。

しかし、キリストの処刑後、教えを伝えたのは、ペテロだけではなく、マグダラのマリアと、弟子の中で最も若くキリストの寵愛を受けたといわれているヨハネによる伝道があったといわれています。問題は、ローマン・カソリックの教義と、マグダラのマリア、ヨハネが伝えた教義に、大きな違いがあることです。現在の新約聖書は、ローマン・カソリックが自分の教義に都合の良いものを選び、編集したものということになります。ローマン・カソリックが、マグダラのマリアを、貶めようとする理由はここにあります。

1945年にエジプトナイル川上流のナグ・ハマディという村で、13巻のヨハネが伝えたといわれる新しい「聖書」が発見され、初期のキリスト教には、色々な教義の違いによる宗派があったことが、確認されています。ヨハネの教義を信奉する宗派は、「グノスティック(Gnostic)」と呼ばれ、基本的には、神と人との直接交流を唱え、仲介者としての世俗的な教会や、権威付けされた聖職者は必要ないという考え方に立っています。ルターの宗教改革と同じような考え方です。しかし、この教義を認めることは、ローマン・カソリックの全てを否定することになりますから、ローマン・カソリックとしては、大変困る事態です。「グノスティック」の考えを継承した宗派が、中世にも南フランスや、北イタリア地方に存在し、ダ・ヴィンチは、その教義の方が正しいと考えていた、つまりマグダラのマリアは崇高な女性と考えていたという想定が、「Secret Supper」という小説の背景になっています。

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2008年1月 4日 (金)

Secret Supper(2)

スペイン人のザビエル・シエラが書いた「Secret Supper」は、タイトルが示すように、ダ・ヴィンチが、ミラノのサンタマリア・デル・グラチィエ修道院の食堂の壁に描いた「最後の晩餐」に、極秘でどのような「メッセージ」を組み込んだのかという話が主題です。

この絵は完成に数年間を要したと考えられていますが、この小説は、完成直前の短い期間に焦点が当てられています。登場人物は、ダ・ヴィンチをはじめ、歴史上の実在人物ですので、司馬遼太郎の歴史小説と同様、生きている人間のイメージで、読者の想像を刺激します。

「ダ・ヴィンチ・コード」のとっぴな発想とは異なり、史実と時代背景を、うまく利用し、ダ・ヴィンチの思想や行動が著述されていますので、「そうかもしれない」と思わせる説得力は、この本の方が数段上で、中世のミラノを中心とした上質の歴史小説に仕上がっています。ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」に、どのような手法で、どのような「メッセージ」を描きこんだのかという「謎解き」の内容も、ミステリー小説としてよくできています。

梅爺が、ここで、その「謎」の中身を明かすのは、今後読まれる方には興ざめですので、控えます。

歴史上、ローマン・カソリックは、自分の「教義」にとって都合の悪い考えを、徹底排除してきました。時には、異なった教義を信仰する町の女子供まで、全員を殺戮するというようなことまでやりました。ローマン・カトリックの教義に、それでも従わない人たちが、南フランスや北イタリア地方(ミラノ近辺)に、こっそり居住していたという史実がこの小説の背景になっています。カトリックにとっては、キリスト教の異なった教義だけでなく、古代ギリシャの、「人間の理性による真理・科学追究」という考え方も、排除の対象でしたので、「真理・科学追究」をむしろ積極的に推奨したイスラム教圏に、ヨーロッパは「科学、数学」などで大きな差をつけられてしまったという話は有名です。ギリシャの古典は、アラビア語に翻訳され、イスラムの神学校で利用されました。アルハンブラ宮殿の、すべて計算されつくした幾何学美などは、この成果です。

フローレンス(フィレンツェ)の富豪、メディチ家の庇護の下に、花開いたルネッサンスも、古典の再評価が基盤でしたが、これもローマン・カトリックには不快なものでした。

理性で、真理・科学を探究するダ・ヴィンチが、当然、ローマン・カトリックの教義に疑いを持っていたであろうことは、容易に想像できます。あからさまに反抗すれば、身の危険がありますので、ダ・ヴィンチが、こっそりメッセージを「最後の晩餐」に組み込んだというのが、この小説の設定です。

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2008年1月 3日 (木)

Secret Supper(1)

ダン・ブラウンという人が書いた「ダ・ヴィンチ・コード」という、ミステリー小説が話題になり、野次馬根性で、この種の「謎」に目がない梅爺は、早速読みました。調子に乗って、関連書籍やダン・ブラウンの他の小説まで読み、勿論、映画化された「ダ・ヴィンチ・コード」も、いそいそと観に出かけました。

この小説は、いくつかの断片的な史実を基に、著者が推測した、「キリストとマグダラのマリヤは結婚していて、その子孫(血統)を守り続ける秘密結社が、現代も存在し、ダ・ヴィンチはその秘密結社の歴代の総長の一人」という、信心深いクリスチャンが聞いたら、腰を抜かし、眉をひそめるようなストーリーで成り立っています。案の定、ローマン・カソリックは、この小説や映画を非難しました。

梅爺は、娯楽としては堪能しましたが、ストーリーには、少々強引なこじつけがあるとも感じました。しかし、キリスト教や、その素であるユダヤ教が、エジプトの古代太陽神信仰の宗教や、オシリス(男神)とイシス(女神)の神話などから、借用している「考え方」「習慣」があるという著者の主張には、興味をひかれました。「王誕生にまつわる逸話(星に導かれ、東方の3博士が三つの宝物:黄金、もつ薬、乳香:を献上しに訪問)」「王女が王子を抱く絵柄(聖母子像)」「王の死後の復活」「王の誕生祝祭日(クリスマスの設定)」「祈りの後に唱えるアーメン」などがそれらの事例です。聖書の著者やカソリックが、曖昧な部分を、権威付けのために「他の伝承」で補ったという説は、大いに「ありえること」と思いました。

「ダ・ヴィンチ・コード」がベストセラーになって、本屋に山積みにされていた時に、その隣に「Secret Supper(最後の晩餐の秘密)」という、スペイン人のザビエル・シエラという著者が書いた本がありました。梅爺は、すかさず「二匹目のドジョウ」を狙った、2流小説に違いないと思いましたが、「だまされてもともと」と思い購入しました。原書はスペイン語ですが、購入した本は英語への翻訳版です。

読んでみると、「Secret Supper」は、「ダヴィンチ・コード」より、数段上質な小説であることが判明しました。便乗商法の2流小説であろうと疑った自分を、今は大いに恥じています。

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2008年1月 2日 (水)

グラハム・ハンコック(2)

エジプトのギザのピラミッドは、誰が、何の目的で、いつ作ったのかという疑問に、考古学は、まだ決定的な結論をくだしていません。勿論、有力な「定説」はありますが、謎だらけです。例えば、てっぺんに「ベンベン石」と呼ばれる、巨大な隕石を加工した四角錐が、乗っていたことは分かっていますが、その石が何を意味したのかは分かっていません。大体当時の金属では歯が立たないような硬い隕石を、どのように加工したのかも良く分かっていません。

大ピラミッドは、クフ王の墓というのが、定説ですが、肝心な王の埋葬品・副葬品は一切見つかっていません。内部に、「王の間」「女王の間」やそれをつなぐ「回廊」というような、不思議な空間が見つかっていますが、埋葬品、副葬品はありませんでしたし、盗掘された跡もありません。

グラハム・ハンコックは、ギザのピラミッドは、天空の世界(ファラオの霊は死後星になって天空の世界で存続するという信仰)を、地上で再現したものという説を支持しています。「天の川」と「オリオン座の三ツ星」の配置関係は、ナイル川とギザの三つのピラミッドの配置関係と類似していることを根拠の一つにしています。三つのピラミッドは、代々の王が次々に建設したものではなく、最初から同時に作られたものとも推測しています。

ピラミッドは、「王の死」と関係がありますが、墓というより、むしろ「あの世」と「この世」を、王の霊が行き交うための、道具であったという主張です。

一方、多くの学者は、ピラミッドの内部か地下に、「王の副葬品」が必ず眠っていると予測しています。ギザのピラミッド以前のピラミッドの地下からは、複雑な迷路の先に「墓」が見つかっているからです。ギザのピラミッドでは、盗掘をさせないための、ものすごい「迷路、しかけ」が施してあるのだろうと予測されています。まるで、映画「インディ・ジョーンズ・シリーズ」のような、話です。

いずれにしても、ピラミッドは進んだ天文学、幾何学の知識や、建築技術が無ければ、建造できないものであることは確かですので、古代エジプトの人たちが、どうしてそのような文明を保有していたのか、という謎は、誰も十分に説明することができていません。特に、天文学は、気の遠くなるような永い期間の「観測データ」がなければ、当時は「ルール」を見出せないはずなので、不思議の一言ということになります。

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2008年1月 1日 (火)

グラハム・ハンコック(1)

グラハム・ハンコック(Graham Hancock)というノンフィクション・ライターとその著書をご存知の方は、梅爺同様、相当「好奇心旺盛」の方に違いありません。

彼は、スコットランド生まれのジャーナリストで、数々の著作がありますが、彼を一躍有名にしたのは、人類文明の発祥に関する、従来の考古学者の提示している「定説」に疑問を投げかける以下の著作を次々に発表してからです。

「神の刻印(The Sign and The Seal)」「神々の指紋(Fingerprints of The Gods)」「創生の守護神(Keeper of Genesis)」「惑星の暗号(Mars Mystery)」「天の鏡(Heaven's Mirror)」

現在の考古学は、氷河期末期(17000年から7000年前)以降の、現存する「地上の遺跡」中心に研究が行われてきましたが、氷河期の終焉とともに、海底に埋没してしまった広大な「過去の陸地」を調査すれば、そこには、現在我々がまだ知りえていない、先行した「ヒトの文明」があったのではないか、というのが、グラハム・ハンコックが投げかけている基本的な疑問です。海底に沈んだ「ムー大陸」などという伝説を、皆様も想起されるでしょう。

彼の「仮説」の根拠は、現在の考古学が、「最初のヒトの文明」としているものが、あまりにも短期間に高度な発展を遂げていて、不自然にみえることと、最初から天文学や幾何学の知識、それに巨石建造物を作る技術を保有していたと考えないと、説明がつかないことが多過ぎるということです。つまり、「最初の文明」は「最初」ではなく、先行して既に存在していた文明が、何らかの形で継承されたのではないかという意見です。

彼のような、門外漢から突きつけられた「仮説」に、考古学会は冷たく反応していますが、エジプトのような「遺跡」の宝庫でも、まだ説明がつかないことや新発見があるのですから、同じく門外漢で、なんの先入観も持ち合わせない梅爺は、「そういうことは、ありうるかもしれない」と、好奇心丸出しで、彼の著作を何冊も読んできました。

正直に申し上げれば、「何が正しいか」は、あまり梅爺の興味の対象ではなく、どの説が梅爺には、「納得いくことが多い」かということが興味の対象です。

グラハム・ハンコックの主張は、時に強引すぎることはありますが、「知的好奇心」をくすぐってくれるということで、読み始めるとやみつきになります。

彼の、あくなき追及をする姿勢、どこにでも出向いていく行動力は魅力的です。

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