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2007年11月30日 (金)

悪口禁止令

『オペラ鑑賞東欧旅行』の最中、ブタペストのホテルの英字新聞を読んでいましたら、ハンガリーの議会で、『Hate Speach Law』なるものが審議されているという記事がありました。『公の場で、誰かを蔑むような表現のスピーチはしてはいけない』ということですから、端的に言ってしまえば『悪口禁止令』です。なんと、最大2年の実刑ということですので、梅爺のような『辛らつな発言』をしがちな人間には、気になる話です。

ハンガリーの社会に、どのような事情があるのか、詳しいことは梅爺は知りませんが、社会の中の『少数派(少数民族、少数宗教派、同性愛者、少数団体など)』を擁護するための法律であるらしいことが分かりました。表向きはそうですが、どうも実態は、過激な『少数派』が、『多数派』に対して、目に余る『悪口雑言』を吐いているのは怪しからんという感情もあるように読み取れました。当然、この法律は民主主義の『発言の自由』を束縛するものだとして、反対論も多いとも書いてありました。

『他人の悪口を言ってはいけない』という道徳律を、『法律』にまで格上げするのは、確かに問題が多そうです。どこまでが、『公けな発言』で、どこからが『私的な発言』であるかを区分けすることも難しいですし、表現の方法で、どこからが『悪口』で、どこからが『正当な表現』かを区別することも、簡単ではないでしょう。

例えば、『チビ』『デブ』『ブス』『ハゲ』は、蔑みのニュアンスが含まれているので『悪口』となり、同じことでも『背が低い』『太っている』『美人ではない』『頭髪が薄い』は、客観的な事実を述べているだけで、『悪口』にはならないというわけにも、いかないのではないでしょうか。言われた方が、コンプレックスを持っていれば、どのような表現でも『自分の痛いところをつかれた』と思い『傷つく』ことには変わりがありません。

だいたい『ディベート』では、主として『相手の弱点をつく』ことが多いので、いちいち『自分が馬鹿にされた』と訴えられるのでは、おちおち議論もできなくなります。

『他人の悪口を言ってはいけない』は、日本では、是非道徳律に止めておいて、あまりにもひどい例のときのみ、単独の裁判で『判例』処理する程度にしていただきたいと、梅爺は願っています。

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2007年11月29日 (木)

男女平等の先進国ノルウェイ(5)

ノルウェイの理想的な社会理念は、「男女ともに仕事と家庭の両立する社会」であることがわかります。そのようなことを追求したら、仕事を優先する国との経済競争に勝てない、というのがノルウェイの大手企業の反対理由ですが、「子供・男女平等担当大臣」は、経済競争に勝つことよりも、子供が幼児期に両親と一緒に過ごす時間を多く持つことの方が重要で、そのことが心身ともに健全な大人を生み出す重要な要因であると強く主張しています。そういう大人で構成されるノルウェイは、ただ経済的に強い国よりも「人間らしく豊か」であるという信念に裏づけされているように、梅爺は理解しました。

家庭は家内に任せっきりにして、仕事に精を出してきた梅爺には、大変耳の痛い話ですが、経済的な豊かさを手に入れた「つけ」として、子供の「いじめ」や「親殺し」の事件が連日のように報道される日本の現状をみると、この大臣の発言は、大いに説得力があります。

ノルウェイでは、男性にも3ケ月以上の「育児休暇」が認められていて、職場復帰後も不利にならないことが、「社会常識」になりつつあるようです。3日も休んだら、自分の仕事がなくなるのではないかと怯える、日本のサラリーマンには、夢のような社会です。もともと女性の社会参加のために、考え出されたこのしくみですが、子供の情操教育に、大きな意味を持つという副次効果があることが判明し、ノルウェイの大臣は、そのことの方が、重要と発言していました。

父親の多くが、インタビューに、子供と一緒にいる時間は、自分にとっても「幸せで充実した時間」と答えています。

経済的な裕福さは、人間らしい生活を送るための要因の一つであることは、間違いありませんが、それだけで、人間や人間社会が幸せになると短絡的に考えることへの大きな警告と梅爺は感じました。

誰にも分かりそうな、このような「単純な話」が、日本では「単純な話」でなくなっているのは、何故なのでしょうか。

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2007年11月28日 (水)

男女平等の先進国ノルウェイ(4)

ノルウェイの「子供・男女平等担当大臣」(女性)が、番組の中で語っていたことの中で、梅爺が最も感銘を受けたのは、以下のような主張でした。

「ノルウェイにとって、将来どのような社会を築いていくかが、最大のテーマで、国民の誰にでも、平等にチャンスが与えられるという社会が最も重要と考えています。生まれた子供の男女の差、親の貧富の差で、子供の将来が規制される社会は好ましくありません。企業の役員の男女比率にまで、政府が介入することに、産業界から反対の声があることも承知しています。ノルウェイの企業が、国際競争で不利な状況になるといわれますが、私はそうは思いません。むしろ、長い目で見れば有能な人材が活用されて、有利な状況を作り出せると考えています。男女平等にかかわる法を強化することが目的ではありません。最終的には、そのようなことが問題にならない、法などを必要としない社会が理想です。現段階は、そのためのステップに過ぎません」

なんと、日本とは違ったアプローチでしょう。どういう考え方をベースにした国にしたいのか、そのために基本的なことは何か、それを実現するには、今なにをなすべきか、といった、極めて単純ですが、本質的、論理的な対応が政治によって展開されています。

ヨーロッパの北の辺境にあり、自然が豊富(気象条件は過酷)なノルウェイ(人口はたったの450万人)と、日本は、国家としての環境条件は異なりますので、具体的な政策でノルウェイの真似をしても始まりませんが、少なくとも政治のアプローチの方法は、参考にすべきで、梅爺は大変羨ましく思いました。経済的な優位性だけを追い求め、その分人心が荒廃していく日本は、ノルウェイに比べて、あまりに無策で、政治的に遅れている国であるように感じました。

派閥の領袖の談合で選出された「無難な首相」が、目の前の事象だけを、無難に処理すれば、国政が成り立つというのでは、あまりにレベルが低すぎます。

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2007年11月27日 (火)

男女平等の先進国ノルウェイ(3)

もう15年以上前のことですが、梅爺はアメリカへ出張して、ある会社とビジネス折衝をした時に、先方の責任者(部長格)は、女性で、部下の男性社員が、甲斐甲斐しく仕えているのを見て、「男女平等」とは、こういうことかと実感しました。女性の責任者が退席した時に、不躾とは思いましたが、男性社員に、「女性の上司に仕えることに抵抗はありませんか」と質問してみました。彼は、肩をすぼめ、ウィンクをしながら、自嘲気味に「It's my job」と答えました。

その雰囲気から、梅爺は、彼が「不本意であるが、やむをえない」と言っているのだろうと受け取りました。男性本位の考え方(Male Chauvinism)は、世界中どこにでも、根強く残っているのでしょう。

梅爺は、仕事の上で「女性の上司」に仕えたことがありませんので、そのような状況になったら、自分がどのように感ずるのかは、想像するしかありませんが、多分、あまりにも梅爺と異なった価値観の言動があれば、「女性であるため」と考えてしまうかもしれません。

そのほかに、男女間には、恋愛の感情が入り込む可能性があり、違った意味の「セクシャル・ハラスメント」の問題も生じます。裁判沙汰になった時に、男性が不利な裁定を受けやすいことがアメリカでは現実に問題になっていますし、そのようなテーマを題材にした小説も生まれています。

永年の風習になじんだ考えを改めて、新しい環境に適応するようになるには、男女とも色々な努力が必要になり、時間もかかることでしょう。

女性が国家のリーダーになれば、争いごとや戦争が減ると、単純な主張をされる方もおられますが、鉄の女サッチャー首相などの例を見ると、そうばかりとは言えないような気がします。

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2007年11月26日 (月)

男女平等の先進国ノルウェイ(2)

「男女平等」という概念は、「民主主義」同様、人類が永い歴史の中で、ごく最近獲得したものに過ぎません。しかし、これは、基本的な人間の権利に関して規定した概念で、「何もかも平等」と言っているわけではありません。世の中には、「平等」という言葉を皮相的に理解して、滑稽な主張に及ぶ人が時折おられます。ヒトは生まれながらに、それぞれ異なった能力と資質を保有している、そもそも「不平等」な存在であるがゆえに、社会生活では、「不平等」の程度が更に不当な拡大をすることを避けるために、「基本権利」を「平等」に扱おうという智恵が生まれたことになります。

「美人薄命」は、きっと、美人で無い人が言い出した言葉であろうと思いますが、確かに、恵まれた能力、資質が、思わぬ落とし穴になって、人を幸せにするとは限らないところが人生にはあり、人生の奥深いところです。

生物進化論を肯定すれば、「男」は、獣や外敵と戦い、食料を獲得したり、家族を守ったりするために必要な資質を備え、「女」は、子供を生み育てるために必要な資質を備えることが、ヒトという種を存続させる要件であったために、優性遺伝子として受け継がれ、ヒトの男女の資質の違いが生まれたのではないでしょうか。自然の摂理は、「男尊女尊」の分担を種の継続のために生み出したのであって、本来、横暴な男性が、女性を服従させるために「男尊女卑」の分担を生み出したわけではないと梅爺は考えています。

しかし、その後、コミュニティの統括や、宗教的な統治の中で、「男尊女卑」が人為的に作り出されたことも事実であろうと思います。

現代は、知識集約型の社会構造になっていますので、「体力に勝る男性」が、リーダーや外の仕事に適しているとは限らない世の中になりました。男女を問わず、時代の要求にあった資質を有する人が、その任に着くのは当然のことです。

しかし、生物としての基本資質である「出産」を分担する女性が、ハンディキャップを背負うことは避けられませんので、ノルウェイは、この問題に、立ち向かったことになります。

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2007年11月25日 (日)

男女平等の先進国ノルウェイ(1)

NHKのBS放送ドキュメンタリー番組で、男女平等の先進国ノルウェイの事例が紹介され、梅爺は興味深く観ました。

日本で、「女性の品格」という本を出版された、昭和女子大学学長の坂東真理子氏が、ノルウェイの「子供・男女平等担当大臣」を訪ね、インタビューし、市民や産業界の意見も、合わせて紹介するという構成になっていました。市民の大半は、男女とも政府の政策を支持し、産業界の一部が、政治による介入に反対していると梅爺は理解しました。

ノルウェイの閣僚の半分は女性で、勿論「子供・男女平等担当大臣」も30歳半ばの女性でした。彼女は、高校を卒業した後、家庭の事情で大学進学をあきらめ、市役所の職員になり、その後、市会議員、国会議員の道を歩んだ人で、1回の離婚暦がありますが、今は、大臣をやりながら、家事や二人の子供の育児も行う「母親」も同時にこなしていました。

先ず、このような政治家のキャリアや、「大臣」と「家事」の両立などという、話を聴いただけで、日本とノルウェイが、それぞれ、いかに異なった社会的価値観で成り立っているかを、思い知ります。

イスラム教の厳格な教義に支配される国よりは、日本の「男女平等」は、進んでいるとは言えますが、先進国のノルウェイに比べると、「月とスッポン」で、「上には上があるものだ」と感心してしまいます。

梅爺は、「男女平等」の考え方には、異論がありませんが、具体的な対応のしかたで、ノルウェイが「正しく」、日本が「間違っている」と即断したわけではありません。どの国にも、歴史に裏づけされた社会的な価値観があり、その中で、改善の努力がなされているわけですから、単純な比較は誤解を招きかねません。現在の日本に、突然「ノルウェイ方式」を採用すれば、男性だけでなく、女性でさえも戸惑うことになるだろうと想像できます。

ヨーロッパの中でさえ、ノルウェイは、「男女平等」で突出した国です。ただ、地球上には、このような事例が既に存在するという意味で、その成果について私達は注目し、参考にすべきであろうと思いました。

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2007年11月24日 (土)

Peaceful Tomorrow(3)

「9.11」事件の後、アメリカ国民が「目には目を」で、テロリスト殲滅政策を強く支持する方向へ動きましたが、全てのアメリカ人が、そうであったとは思えません。少なくとも理性がある人は、「なぜ、アメリカはそれほど憎まれるのだろうか」と疑問を抱き、その原因への対応を議論する方が、テロを繰り返さないために、重要なことと考えたに違いありません。

しかし、大衆ヒステリーの恐ろしさは、これらの「良識」を覆い隠して、外から見ると、アメリカが「打って一丸となり、報復に走った」ように見えることです。良識のある人たちも、発言する危険を感じて、黙していたのかもしれません。そのような中で、犠牲者の遺族が「Peaceful Tomorrow」を結成したことの意味は、計り知れません。

日本人同様、大半のアメリカ人は、「イスラム」という異文化に関する知識を持ち合わせていませんから、自分達の視点で「イスラム」を見ることになります。世界中が「アメリカになる」ことが、「良いこと」と単純に信じている人たちには、これに反抗するオサマ・ビン・ラディンは、「悪(Evil)の元凶」となりますが、一方のオサマ・ビン・ラディンとその考え方を信奉する人たちにとっては、ブッシュ大統領が「悪の元凶」に見えているという客観的構図に思い至りません。「悪の元凶であるアメリカを倒すことは、聖戦(ジハード)であり、アラーの神の意思に沿うもの」と強く信じている人たちが、この世に存在するという事実を冷静に受け容れることは、大半のアメリカ人にとって難いことなのでしょう。

勿論、梅爺はオサマ・ビン・ラディンを擁護するつもりはありませんが、人は生まれ育った環境や、強い影響を受けて自己の中に確立した信条によっては、このような道を選んでしまうことがあることは理解できます。第二次世界大戦の折には、多くの日本人が「鬼畜英米」と叫んでいたことでも分かるように、誰でも、多かれ少なかれ、環境次第で、こういう状態になってしまう可能性を秘めています。決して他人事ではありません。

「信条の相違」を両陣営が相互に認め合って、干渉しないことが「共存」の原則ですが、自分の信条が攻撃されたと思うのは、「軍事」攻撃を受けた時だけでなく、「経済」「文化」「宗教」による侵略も対象になりますので、「異文化の共存」は、人間にとってもっとも難しい課題であると、思い知らされます。

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2007年11月23日 (金)

Peaceful Tomorrow(2)

人は、大きな精神的打撃を受けた時の直後の反応として、理性より感情に支配され易いということを、何度かブログに書いてきました。理性は、ヒトの進化の過程で、後段階で獲得した資質であり、感情は、動物的、原始的資質で、いざと言う時には、脳の中枢に近い感情資質に支配されてしまうのであろうと推測されます。

普段理性の高い人でも、「カッとなる」「キレてしまう」ということがあり、後刻冷静を取り戻した時に、理性による悔悟の念にとらわれる例は、沢山あります。「カッとなる」のは、自分にとって不都合と思えること(生命や名誉が攻撃された場合など)が周囲に発生した時で、この時には「相手」の立場や考えを思いやる余裕は、瞬間的に持ち合わせていないことになります。「キレにくい」人間をできるだけ増やそうとするなら、幼児期の「Emotional Intelligence」トレーニング(思いやりを育成する訓練)が、重要と、これも何度もブログに書いてきました。

「9.11」直後のアメリカ国民の反応を見てみると、ショックの「質」が2種類あることに気づきます。一般国民は、「悲しみ」というより、「無法者に国のプライドが傷つけられた」という「怒り」が優先しているのに対して、犠牲者の遺族は、「言いようの無い深い悲しみ」にとらわれました。犠牲者のショックの方が格段に大きかったことは容易に想像できます。

「怒り」に対する反応は、「暴力的な手段による報復」でしたが、「深い悲しみ」の中から犠牲者の遺族の一部が、「Peaceful Tomorrow」というグループを結成し、「報復」ではなく、むしろ「同じような悲しみを繰り返したくない」と言い出したことに、梅爺は深い感銘を受けました。大きなショックを受けたはずの遺族のほうが、むしろ先に理性を取り戻そうとしていることに、驚き、人間の不思議さをあらためて感じました。

「9.11」とそれに続くアメリカ国民の反応は、決して「対岸の火事」ではありません。今、平和を享受している日本が、仮に他国からのミサイル攻撃や、甚大なテロ攻撃を受けたら、日本人はどのように反応するのだろうかと考えてしまいました。「戦争反対」を唱えていた人たちは、あくまで無抵抗で対応すべきとそれでも言い続けるのでしょうか、それとも、国民の生命財産を守るための武力行使は「戦争」ではないと、強弁して、節を変えるのでしょうか。

「平和」な環境で、「平和が大切」「戦争は不幸を生むだけ」と唱えることは、誰にもできる簡単なことです。

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2007年11月22日 (木)

Peaceful Tomorrow(1)

ある国の国民が、「一つの事件」をきっかけに、理性を失い、興奮した群集に化してしまう現象は、歴史上沢山ありました。中には、為政者が、ある目的のために、意図的に国民をそのような状態にしようと、「陰謀事件」を画策したことさえもありました。

理性を失った群衆は、パニックに陥った動物の群れと同じで、予想できないような恐ろしい行動に走ります。人間も動物の一種であることの例証のような気がしますが、人間は智恵が働く分、動物よりも更に恐ろしい行動を思いつきます。

2001年9月11日に起きた、悲劇的な事件の後、アメリカ国民の多くが、このような群集に化したことを示す、NHKのBS放送のドキュメンタリー番組を観て、改めて梅爺は大きなショックを受けました。

テロ攻撃が、次は自分にも及ぶかもしれないという恐怖よりも、No.1国家のプライドが無残に傷つけられたという「怒り」が蔓延して、異常な状態に発展したように見えます。

側近を「ネオコン(保守的右派)」で固めたブッシュ大統領は、すぐに「報復」を宣言し、「アメリカは、テロリストを、世界の隅々までも追い詰めても、必ず根絶やしにする」と高らかに演説し、国民は、星条旗を打ち振って、これにこたえました。

しかし、驚いたことに、「9・11」で犠牲になった遺族の一部が、「Peaceful Tomorrow」というグループを結成し、ブッシュ政権の「報復政策(イラクやアフガニスタンに対する空爆など)」に「反対」の声をあげました。

「報復」をもっとも熱望してもおかしくない犠牲者の遺族が、こういう主張を始めたのですから、アメリカ人の多くが、理性を取り戻し、その主張に耳を傾けたのであろうと梅爺は想像しましたが、事実はそうではなく、このグループのメンバーは、全米から、「腰抜け、卑怯者、売国奴、殺すぞ、愛国心が無いなら国を出て行け」と、ありとあらゆる罵声を浴びせられることになります。

メンバーは、休職までして自費で全米を回り、講演会を開いて「自分達の主張」を多くの人に聴いてもらおうとしますが、身の危険さえも感ずるほどの反発に遭遇し、一部のメンバーは、運動から身を引くことにもなりました。

「報復は報復を呼び、また自分達と同じような悲惨な遺族を作り出すだけ」というこのグループの主張に梅爺は共鳴しますが、一方で「テロと言う理不尽な暴力には、暴力でしか対抗できない」という主張を、「間違い」と断ずる自信もありません。無抵抗は、テロリストの思う壺とも思えるからです。

問題は、テロへの対応議論ではなく、群集ヒステリーが、アメリカを、一瞬にして「言論自由の民主主義国家」でなくしてしまい、ある考え方以外は許さないという社会に変貌してしまったことです。「緊急時こそ、冷静に行動すべし。異なった意見にも耳を傾けるべし」などという、平時の教訓は、当てにならないことがわかります。

その後のイラク戦争の経過などから、ようやくアメリカ人の一部が「Peaceful Tomorrow」の主張に耳を傾け始めたと番組は伝えていました。梅爺は、身の危険までを覚悟して運動を進めた遺族のグループの真の勇気に、心を打たれました。人は動物とは違うと言えるのは、こういう人たちの行動を見たときです。

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2007年11月21日 (水)

オペラ鑑賞旅行(5)新語

今回の仲間は、以前にもグループで、国内外の旅行を楽しんできました。

旅行の度に、仲間内だけで通用する「新語」ができ、それ以後も使われてきましたが、今度の旅行では、「ジャマイカ党」と「ジロンド党」という対語ができ、流行しました。

「ジャマイカ党」は、「じゃ、まあいいか」と、少しくらい自分の考えと違っても、他人の言動を認める寛容な性質を意味し、転じて、あまり深く物事を考えずに、直情的に、発言したり、行動したりする人種を意味します。

一方「ジロンド党」は、勿論フランス革命時の「ジロンド党」とは無関係で、何事も理詰めで考え(自論を展開し)、理に合わないことは、許容したがらない性質の人種を意味します。

「梅爺閑話」でも自認しているように、梅爺は、昔から仲間内では「理屈っぽい人間」と考えられていることもあり、当然ながら、「ジロンド党」のレッテルが貼られてしまいました。

「ジャマイカ党」は、主として言動に「情」が強く作用する人間で、「ジロンド党」は反対に「理」が強く作用する人間、というような定義が旅行中に定着するようになりました。

梅爺は、「ジロンド党」に属することや、自己主張が強い人間と看做されるところまでは何とか許容できますが、「他人の考えを受け容れない狭窄な心の持ち主」とか「ユーモアも解さない謹厳一途な男」というような部類に入れられるのは、極めて遺憾です。「ジャマイカ党」の資質も大いに持ちながら、どちらかというと「ジロンド党」に近い、という程度の人間であると自認しています。梅爺に「ジロンド党」のレッテルを貼るのはともかく、党首に、推挙するような話にいたっては、もってのほかです。そこで、今後は、自分を「ジロンド党軟弱派」と称するようにすることにしました。事と次第によっては、いつでも「ジャマイカ党」に翻心できる軟弱な(柔軟な)資質も秘めていると自分では考えているからです。

このような、新語の創造を含め、親しい仲間が、一緒に旅行をすると、一層絆が深まることになります。梅爺のような年台の人間には、このような、利害関係に縛られない人と人との「絆」が、人生で何よりも貴重なものになってきました。健康の維持や、色々なしがらみの処理を全員抱えていますが、可能な限り、このような親睦旅行が続けられるように、願ってやみません。

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2007年11月20日 (火)

オペラ鑑賞旅行(4)東欧民主化

梅爺と梅婆は、1999年夏に、ウィーン(オーストリア)、プラハ(チェコ)、ブタペスト(ハンガリー)を訪れていますので、今回は8年ぶり、2回目の訪問となります。前回は、バスで各都市を巡回しましたので、各国の田舎の風景も楽しむことができましたが、今回は、移動は全て飛行機であったため、大都市のみの滞在となりました。

前回訪れた時は、チェコとハンガリーの共産主義政権が崩壊してから、ちょうど10年目でしたので、田舎も都会も、「豊かさを感じさせる国家」とは、程遠い状態であると感じました。それでも、人々は純朴な感じで、教育レベルの高さなどから、いずれは、西欧に肩をならべる国家になるであろうとの予感がありました。

それから、更に8年経って、その間、両国は2004年にEUに加盟したりしたことの影響も含め、どのように変貌しているのかを見ることも、今回の旅行の楽しみの一つでした。

確かに、目抜き通りには、西欧のブランドショップや、アメリカの大手ファストフードの店などが軒を連ね、車も、欧州車(特に、チェコは過去の国営企業シュコダが、現在はVWの子会社となって、外見デザインでは欧州車と遜色が無い車を生産、シェアも高い)、日本車、韓国車が氾濫していて、一見、その喧騒振りから豊かに見えますが、都会の治安が著しく悪化していることの一事をとっても、貧富の格差が広がって、人心の荒廃が社会問題になっていることが推測できます。とても、「しっとり落ち着いたヨーロッパの歴史都市」とはいえない状況と感じました。

EUに加盟したことで、優秀な技術者や医者といった人たちは、高給を求めて、EU内の経済先進国へ転出してしまう、人材空洞化の問題も抱えているのではないでしょうか。

プラハもブタペストも、観光の対象は、100年以上前の、繁栄していた時代の王宮や教会などの建造物で、特に鮮やかにライトアップされた夜景などは、観光客には「幻想的で美しい都市」には違いがありませんが、「過去の遺産」以外に、現在の国家が、「新しい国家価値」を生み出しつつあるという実感を梅爺は持てませんでした。

勿論、長く続いた共産主義時代の爪あとや風習を、20年弱の期間で、そう簡単に変えることは困難でしょうし、短期滞在の梅爺が受けた「感じ」は間違っているかもしれませんが、チェコやハンガリーが、ヨーロッパの中で、過去のような文化的、政治的、経済的な繁栄の地位を取り戻すには、まだまだ時間がかかりそうです。

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2007年11月19日 (月)

オペラ鑑賞旅行(3)治安

今回の旅行で、梅爺は、最初のウィーンのホテルに、髭剃り(乾電池式)と、血圧の薬が入った化粧バッグを置き忘れ、その後の行程で、少し困りましたが、これは、自分の不注意で、幸い、盗難などには、遭遇しませんでした。

しかし、グループの仲間の二人が、プラハで、置き引きとスリに遭遇してしまいました。置き引きでは、パスポート、クレジット・カード、現金入りのハンドバッグが、紛失し、スリでは、ハンドバッグの中からクレジット・カードと現金が盗まれました。奥さんのパスポートが無くなった夫婦は、結局その後の行程を断念し、プラハに滞在し続け、日本大使館から「特別渡航許可証(チェコから日本へ直行することを条件に)」を発行してもらって、最終日に、ウィーンの飛行場で、皆と合流し、帰国することになってしまいました。

梅爺も、昔イタリアのフィレンツェで、財布をすられ、アメリカのホテルでは、鍵のかかった部屋からカメラを盗まれた前歴がありますので、偉そうなことは言える立場ではありませんが、日本人は、世界中が日本同様の治安レベルと勘違いしがちです。言い換えれば、日本は、相対的には世界でも「稀に見る治安が良い国」ということでもあります。

日本も戦後の混乱期に、社会が荒廃して、犯罪は増えたのでしょうが、全員が貧しい社会では、たいして盗むものもない状態ではなかったかと推察できます。現在のヨーロッパの一見華やかな都会で、外国からの貧しい労働者がなだれ込んでいる来ているような所では、貧富差が激しく、富裕な外国人観光客が、格好の「盗み」のターゲットになり、中でも警戒心が乏しい日本人が狙われるのは、当然と言えば当然のことなのでしょう。これも、言い換えれば、相対的には日本は、幸せな国である証でもあります。

殺人強盗などの凶悪犯罪が頻発すれば、さすがの日本人も近寄らないことになるのでしょうが、スリ、置き引き程度では、日本人のものすごい「観光意欲」は殺がれないということなのでしょうか。大体現地の警察も、あまりの犯罪の多さに、このような被害は、捜査対象にしませんから、まさしく「盗人天国」です。

日本に住んでいると、「日本も、ひどい国になった」と嘆きたくなりますが、外国に出かけてみるとと、日本は、不思議なことに「極めて平穏な国」に見えます。その反面、外国では、周囲の人全てが「盗人」に見えてきたりします。このようなことを考えると「日本」および「日本人」は、世界の中では、特異な国であり、人種であると言われるのも、もっともなような気がします。

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2007年11月18日 (日)

オペラ鑑賞旅行(2)美術館

今回の旅行は、日本の旅行会社が、一般観光客用に添乗員付きでパックでサービスするものとは異なり、オペラ以外は、原則として、全て「自由時間」でしたので、出発前から、夫婦だけで時間をどう過ごそうかと、地図や旅行の手引書を見ながら、梅婆とあれこれ思案しました。

帰国後の11月25日に娘の結婚式をひかえ、それに合わせてアメリカから息子一家も帰国することもあり、「あまり欲張らず、無理をせず、体力の余力を残しておきたい」と梅婆が、言うものですから、オペラのほかは、美術館を主として観て回ろうと決めました。

ウィーンでは「美術史美術館」、プラハでは「国立美術館」、ブタペストでは「西洋美術館」を予定とおり観て回りました。

「美術史美術館」は、前にも観たことがありましたが、今度は、絵画のほかに、エジプトやギリシャの美術も含め、ゆっくり観てまわりました。幻の絵と言われるフェルメールの絵(この美術館は一点を所蔵)も含め、中世の巨匠の絵が、これでもか、これでもかと展示されているほか、美術館内の豪華なカフェで、軽食とコーヒーを楽しむこともできましたので、大いに満足しました。

プラハの「国立美術館」は、王宮の一角を利用したものですが、ソ連統治下で名画は、ソ連に持っていかれてしまったのかと疑うほど、展示内容は期待に反して貧弱で、少しがっかりしました。もっとも、プラハの場合は、「国立美術館」が、何箇所かに分散配置されていますので、今回、訪れなかった場所には、名画が沢山あるのかも知れません。

ブタペストの「西洋美術館」は、期待以上に、中世から近代に及ぶ名画が沢山あり、訪ねたことは、大正解でした。もっとも、この美術館は、ハンガリー人以外の画家の絵を展示していますので、ハンガリー美術を主として展示している、「国立美術館(王城の中)」を、時間の都合で観ることができなかったことは、少し残念です。

これらの美術館を本当に堪能するには、絵画に関する知識のほかに、ギリシャ神話、キリスト教、ヨーロッパの歴史(特に王族の系譜)の知識が求められます。梅爺が、なけなしの薀蓄を傾ける度に、梅婆から、「絵画は、理屈で観るものではない」と、たしなめられました。

オペラ同様、絵画のプロの表現力には、「人間は、才能があって、修行すればこんなレベルにまで到達できる」のだと、驚嘆するばかりでした。

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2007年11月17日 (土)

オペラ鑑賞旅行(1)オペラ

梅爺の大学時代の男声合唱団同期生が、夫婦同伴9組、個人参加3名の計21人で、ウィーン、プラハ、ブタペストをめぐり、現地で本場のオペラを鑑賞する10日間の旅を終えて、11月14日に帰国しました。

出発直前に、2組の夫婦が、身内の病状が悪化して、急遽参加ができなくなりました。人間は、「しがらみ」の中で生きていますので、こういう事態が発生することは、やむをえないことですが、考えようによっては、「自分が一人ではない」ことの証でもありますので、感謝すべきことなのかもしれません。せっかく楽しみにしていた旅行をキャンセルせざるをえないのは、残念なことですが、旅はいつでもできるのに反して、病人に付き添うことは、その時しかできないのですから。

オペラは、ウィーンで「アラベラ(R.シュトラウス)」、プラハで「ルサルカ(ドボルザーク)」、ブタペストで「トスカ(プッチーニ)」の三つを鑑賞しました。いずれも、幕間を入れて3時間ほどの公演ですので、途中で退屈して居眠りするのではないかと、出発前は案じていましたが、なんのなんの、最後まで楽しく鑑賞できました。これは、前にもブログで紹介したとおり、同行した仲間の一人で「オペラおたく」のUさんが、事前に三つのオペラのDVDを回覧してくださったばかりか、食事つきの「特別講習会」まで開催してくださったおかげです。梅爺は、音楽好きでは人後に落ちないと自負していますが、今まで「食わず嫌い」でオペラだけは、敬遠してきました。しかし、今回の経験で、少しばかりオペラが理解できたような気がします。

調子に乗って、プラハでの自由時間を利用し、梅爺と梅婆は、「操り人形芝居」の「ドン・ジョバンニ(モーツァルト)」まで、観てしまいました。

本場のオペラ劇場は、いずれも年季の入った建築物で、内装の豪華さに圧倒されました。ボックス席で1回(ウィーン)、平土間席で2回(プラハとブタペスト)観ましたが、ヨーロッパの奥深い文化の歴史の一端を窺い知ることができました。クロークの利用のしかた、幕間の時間の過ごし方、などという付随的なノウハウも得ることができましたので、今度は、一人でも、堂々と観に行けそうな気がします。

観客は、全員ドレスアップしているのかと思いきや、現地の人たちは、普段着も含めた、思い思いの服装で、オペラが日常生活の一部として、根付いていることも分かりました。日本出発前に、最低限の「正装」をするようにと、多くの人に忠告を受けましたが、必ずしもその必要が無いことが分かりました。

合唱をやっている梅爺には、オペラ歌手の発声方法、声量は、「同じ人間」かと思えるほどのもので、外国語で公演する(ハンガリーで観たトスカはイタリア語)ことも含め、「プロの凄さ」を思い知りました。

今回の経験で、梅爺が一挙に「オペラおたく」に変身することは、まだまだ無さそうですが、少なくとも「敬遠」はしない程度には、進歩したのではないかと思います。

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2007年11月16日 (金)

れうやく(良薬)口に苦し

久しぶりに、江戸いろはカルタに戻り、今回は「れ」、「れうやく(良薬)口に苦し」です。

調べてみると、出典は「孔子曰く、良薬は口に苦けれども病に利あり、忠言は耳に逆らえども行に利あり」ということですので、江戸庶民にまで、孔子の教えが浸透していたことが分かります。一方、庶民は、「論語読みの論語知らず」と、漢籍を表向き読み下せても、本当に意味を理解していない「頭でっかちだけで、偉そう振舞う人」を、笑い飛ばしていたわけですから、なかなかしたたかです。

梅爺は、「良薬口に苦し」といわれると、反射的に、幼い頃、お腹をこわした時に、母親から飲まされた「熊の胆(い)」を思い出します。苦いことだけは鮮明に覚えていますが、「熊の胆」が「良薬」で、本当に「病に効いた」のかどうかは、今でも確証がありません。

人は、自分の弱点や痛いところを、直接他人から指摘されると、誰でも始めはムッとします。これは、前にもブログに書いたように、人間の脳の中の、「情」をコントロールする部分が、動物同様に、最初に形成されていて、ヒトの進化の過程で後から形成された「理」をコントロールする部分より、先に強く反応するためではないかと思います。

その後、理性的な人間ならば、「理」が働いて、「この人の言い分は正しい」とか「自分のことを思って言ってくれている」などと、思い当たります。最初の「情」の反応から、次の「理」の反応までが、「短い」人ほど、「冷静・沈着」であることになります。梅爺は、まだ修行が足りませんので、だいぶ時間が経ってから、「忠言」であったかもしれないと、気づくことが多いので、いつでも「冷静・沈着」な人には、頭があがりません。

ヒトは誰でも、強弱の度合いはともあれ、「論理思考」をする基本的な能力を保有しています。つまり、「理」の素となる資質は備えていますが、その資質を利用して、「種々の具体的な論理」を情報として、身に着けるのは、後天的な努力によるものではないかと思います。

「自分には自分の考えがあるように、他人には他人の考えがある」という「論理」を、保有していない人には、「良薬口に苦し」は、「馬の耳に念仏」となります。

「甘言に乗るな」「おいしい話は要注意」などは、「良薬口に苦し」の反対のケースで、最初「情」では、心地よく感じたものも、実は「理」で判断すれば害になるということになります。

「他人の言っていることの真意を理性で判断しなさい」という共通の教訓が含まれていますが、言い方を換えると「他人は疑ってかかりなさい」ともなりますので、さじ加減を考えないと、人生は味気ないものになりかねません。

イラク攻撃の正当性にこだわり、強情を張るブッシュ大統領を見ていると、「プライド」や「思い込み」が強い時には、「良薬口に苦し」も、効力を発揮しないことが分かります。

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2007年11月15日 (木)

民主主義とはなにか?(9)

このシリーズは10回放送されましたが、番組構成上「連夜の放送」ではなかったために、梅爺がどれか一つの録画指定を見落としていたらしく、9回目の今回が最後になります。いずれ、再放送されるようなことがあれば、欠落した部分を紹介申し上げたいと思います。

今回は、日本の川崎市の市会議員補欠選挙で、自民党候補の選挙運動の舞台裏を密着取材した「選挙」という内容でした。小泉元首相の人気絶頂期の話ですので、「構造改革」を唱える若手候補者は自民党の公募で選ばれ、選挙区に送り込まれます。候補者は、元々東京都の住民でしたが、奥さんと二人で、川崎市に移住し、立候補します。

「神棚に必勝祈願をする」「朝の通勤時に、駅頭で、有権者にいってらっしゃいませと叫ぶ」「選挙カーで、ただただ手を振り、名前を連呼する」「後援組織の集会や、老人のゲートボール大会にまで顔を出して、頭を下げる」など、日本人には、常識化した「日本の選挙運動」が繰り広げられる様が、紹介されます。

「政策」の話は、ほとんどそっちのけで、もっぱら、「正しい頭の下げ方、握手のしかた」「3秒間に一度は名前を叫ぶ原則」などの「形式」が、選挙参謀から厳しく候補者に、伝授されます。

西欧の人たちには、軍国主義から民主主義にすんなり変わった日本は、興味の対象であろうと思いますが、この番組を観ても、その謎は解けず、「日本流に土着化した民主主義」を観て、一層、謎は深まるばかりではないかと、梅爺は思いました。昨日の、中国の「こども民主主義」同様、民主主義の手段の一つに過ぎない「選挙」を、「形式化、様式化」することに異常なまでに熱心で、ついには「選挙」を民主主義そのものと勘違いし、本来の民主主義とは何か?という議論がなされない風土は、日本人にさえ解明できないことですので、外国人には、到底理解できないのではないでしょうか。

梅爺は、変わった日本人なので、「候補者の世襲」や、「選挙の時だけの握手作戦」や、「選挙カーの名前だけの連呼作戦」は、「アホらしい」ことと考えています。しかし、なんでも「見事に形式化してしまう」日本人の能力は、「アホらしい」とばかりは言えない、「意味」を含んでいるようにも感じています。

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2007年11月14日 (水)

民主主義とはなにか?(8)

第8夜目は、中国が舞台で、武漢の小学校3年生のクラスが、クラス委員長を選出するのに、「民主主義方式の選挙」を「試行」してみる話、「こども民主主義」でした。

中国は、共産党の一党独裁の国ですから、大人は言葉は知っていても「民主主義」を体験していません。したがって8歳位の子供達は、「民主主義」や「選挙投票」という言葉さえ知りません。先生も、選挙の進め方という方法は教えましたが、同じく、「民主主義」や「選挙」に関する、基本的な常識すら持ち合わせていないように、梅爺には見受けられました。

先生が、男の子二人と女の子一人の計3人を「候補者」として指定し、投票へ向けて、この3人が、「選挙運動」を繰り広げる過程が、密着取材で紹介されました。候補者が、クラス全員の前で、「特技」を披露したり、「演説」をしたり、候補者同士で「討論」を行ったりするのですが、裏では、大人の選挙顔負けの、「親派獲得の懐柔工作」「相手候補の誹謗・中傷」合戦が繰り広げられます。

梅爺が、一番面白いと思ったのは、候補者の親が、熱心にこの選挙に介入したことでした。一人っ子政策の国であるために、異常なほど親が子供の教育に熱心なことは想像できますが、「演説原稿を代筆」し、「討論で相手の弱点をつくためのテクニック」を教え込み、更には、クラス全員を電車旅行に招待したり、プレゼントを贈ったりと、「買収工作」まで加担します。子供は、操り人形のように、とても子供の発言とは思えないような内容の演説をするので、笑ってしまいました。

一見、ままごと遊びのような選挙ですが、考えてみると「民主主義国家で行われている大人の選挙の縮図」でもありますので、単純に笑ってばかりはいられないことに気づきます。

このような試みが許される程度に、中国が変わったことは評価されますが、本当の民主主義国家に変わる事は、少なくとも直ぐには期待できないことが良く分かりました。「民主主義」と「資本主義経済」の組み合わせにも、勿論問題がありますが、「共産主義」と「資本主義経済」の組み合わせで、どこまで舵取りが可能なのかは、今のところ誰にも分かりません。

表面的には裕福になった中国(この番組でも、学校設備、子供達の服装、家庭の暮らし向きを見れば歴然です)が、どのような社会様式を選択していくのかは、注目に値します。

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2007年11月13日 (火)

民主主義とはなにか?(7)

第7夜目は、インドをテーマにした「民主主義は誰にも良いものか?」でした。インドは独立以来、アジアでは民主主義を標榜する大国ということになっていますが、ヒンズー教とイスラム教の宗教対立、表向きは緩和されつつあるというものの、社会に根強く残るカースト制度という、民主主義にとっては、「難問」を抱えています。

番組は、ガンジーの出身地であるパキスタンに近いアーメダバードという町を起点に、ガンジーが独立を獲得するきっかけになった「塩の道」というデモ行進の行程をたどり、途中の村々で、「ガンジーの思想」が、現在にどのように受け継がれているのかを検証しようという内容でした。

さすがに、ゆかりの地ということで、各地に沢山のガンジーの銅像は残っていますが、彼の理想とした「思想」とは、全く逆の、「宗教間の暴力的な対立」「貧困層の絶望感」「階層に起因する陰湿な差別」が、むしろはびこっていて、「これで民主主義国家と言えるのか」というような状況になっていることがよく分かりました。

特に、ヒンズー教とイスラム教の対立は深刻で、アーメダバードが所属する州の州知事が、ヒンズー教徒で、あからさまにイスラム教徒を迫害する政策を進め、ヒンズー教の「原理主義者」グループが、イスラム教徒の大量虐殺、略奪、婦女暴行などを行っても、州政府も警官も「見てみぬ振りをする」というひどさでした。

ガンジーは、ヒンズー教徒でしたが、イスラム教徒との共存を目指し、カースト制度も、制度そのものは残しながら、上層階層が、下層階層に博愛の心で接するような国家を目指したわけですから、高い理想からは「程遠い国家」に逆戻りしている感じです。

一方、インドは経済成長率の高さを現在誇っていますので、グローバル経済に便乗して、大成功しているIT関連の企業や、一部の財閥に、富が偏り、3億人の人たちは、極貧と飢餓にあえぐという、日本では想像を絶する「格差」が、このような「心の荒廃」を生み出していることが分かります。中国の「格差」も、今後政治対応を一歩間違えば、国家が崩壊しかねないものですが、インドの「格差」はそれ以上です。

日本は、宗教、人種などという、深刻な対立を内包しない、均一性が特徴の「理想的な社会主義国家である」と外国人から揶揄されていますが、相対的なレベルで比較すれば、日本の「民主主義」は、意外に、環境に恵まれているせいもあって、世界の中では進化の先端をいっているものなのかもしれません。

少々「頼りにならない政治家」や、「政治に無関心な国民」の存在などという日本の問題は、インドに比べれば「贅沢な悩み」であるなのかもしれません。しかし、日本の民主主義を、環境条件が異なる他国に輸出することは、到底無理であることも良く分かりました。

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2007年11月12日 (月)

民主主義とはなにか?(6)

シリーズ6夜目は、軍政ながらパキスタンに民主主義導入を目指す、ムシャラフ大統領の真意を探るために、レポーターが大統領自身に行ったインタビュー、「大統領との晩餐」が中心の内容でした。

1999年、ムシャラフ将軍は、劇的なクーデター(将軍の帰国を阻止するため、将軍の乗った飛行機の着陸を認めない前政権を、軍がすんでのところで制圧し、燃料切れ寸前で着陸)を成功させ、宗教勢力と結託していた前政権を倒し、国政を掌握しました。

「9.11」以後、アメリカのテロ掃討作戦に加担したため、イスラム過激派からは「アメリカの犬」とののしられ、その後、3度、暗殺されそうになりました。

国民の大半が貧困で、幼い時からイスラムの教えを叩き込まれ、貧困さえも「神の思し召し」と受け容れる風土、地方によっては、国政ではなく部族長による支配が残っている現実の中で、「民主主義」を推進することが、如何に困難かが、番組からひしひしと伝わってきました。

大統領が、インタビューで言っていることがホンネなら、ムシャラフ大統領は、現状分析と対応方法をわきまえた、極めて聡明な人物と梅爺は感じました。民主主義が何たるかをよく理解しており、決して「アメリカの犬」というような単純な人物ではありません。彼と同等の聡明さを持ち合わせた側近が、どのくらいいるのかに、パキスタンの将来はかかっているようにも感じました。大統領の発言の要旨は以下です。

「国民が、知性で自分の価値観を主張するようになることが大切。そのためには教育が必要で、改革には長い年月(数ジェネレーション単位)を要する。性急な民主化は成功しない。このために、貧困層へイスラム過激派が浸透することを避けたいと思っている。自ら判断能力を持った国民が、宗教統治を本当に望むなら、私はそれを、国際社会が何と言おうと受け容れる。それが民主主義であるからだ。私が独裁者と言われるのは、軍服を着ているからであろう」

イスラム教による統治も、一つの「選択肢」として判断できる国民が、大多数を占めるまで「待つ」という考え方に、梅爺は共鳴しますが、途方も無く時間がかかるだろうと感じました。

日本が、敗戦後、直ぐに「民主主義」を受け容れたことは、世界の歴史の「奇跡」の一つではないかとも思いました。この、一見いい加減に見える日本人の資質は、日本が本当の民主主義国家へ進化していく上で、誇ることのできる重要な要素ではないでしょうか。

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2007年11月11日 (日)

民主主義とはなにか?(5)

第5夜のドキュメンタリー「ロシア愛国者の村」を観て、梅爺は、暗い気持ちになりました。今まで観てきたシリーズ内容も、悲惨な「暴力」「貧困」「無知」が背景にありましたが、それに立ち向かう人の「智恵」や「勇気」に一縷の「希望」を感じましたが、今回は、それが無かったからです。

ロシアの実業家ミハイル・モロゾフ氏が、モスクワ郊外に、「愛国者を育成する道場」として建設した「愛国者の村」が紹介されました。入所者は、若い青年男女(男が多い)ですが、原則として、この村では、個人の考えを主張することは許されず、モロゾフ氏の「命令にのみ従う」ことが求められます。

モロゾフ氏の主張は、「天は神(ロシア正教)のもの、地は皇帝(ツァー)のもの。ロシア国民は、ロシアを偉大な国家にするために忠誠をつくすべし。ロシアに民主主義は不要」というものでした。現在のツァーは、プーチンであるとも言明しています。

ロシアには、歴史的にヨーロッパに対して、コンプレックスがあるとは感じていましたが、これほど屈折した根強いものとは思いませんでした。ソ連邦時代の「共産主義」は、ある意味でこのコンプレックス解消の手段として利用されましたが、経済破綻で、「資本主義的な考え方」を導入せざるをえなくなり、「資本主義」とは双子のような「民主主義」まで、とってつけたように導入せざるをえなくなりました。路線変更で生じた不具合は、民主主義のせいと考え、プライドが傷つけられたために、再びコンプレックスが芽生えて、その解消策に、「ロシア正教を政治的に利用した偉大なロシア主義」が台頭しているのだと、梅爺は感じました。

共産主義時代に、つらい思いをしたロシア正教が、権力の擁護を獲得して一息つく気持ちは分かりますが、プーチンが、空の神イリヤの記念日と空軍記念日を同日に決め、赤の広場を、軍人と僧侶が一緒に行進する姿は、梅爺には異様でした。権力と宗教は、現在はお互いを利用しあっていますが、いつかは深刻な相克に遭遇するでしょう。プーチンは宗教を都合よく利用しているだけであろうと想像しました。「愛国者の村」は、当然中央政権と結びついた話です。

個人にせよ、国家にせよ、コンプレックスの解消策として、「自分は強者である」と思い込むことは、決して良い結果に至らないと梅爺は思います。

洗脳されている若い人たちには同情しましたが、「自分の権力を誇示するために、神を利用する人たち」には、正直嫌悪を感じました。プーチンの正体は怪僧ラスプーチンかもしれません。当然、今回の内容には、本物の笑顔や上質なユーモアなどは、一切ありませんでした。

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2007年11月10日 (土)

民主主義とはなにか?(4)

シリーズの第4夜目は、2006年アフリカでは珍しい女性大統領に就任したエレン・ジョンソン・サーリーフの1年間を追い続けたドキュメンタリーでした。「鉄の女」と呼ばれる彼女の言動を見れば、コミュニティのリーダーは男性が好ましいなどという主張は、根拠が無いことが分かります。女性の感性と男性の理性の両面を見事に兼ね備え、その長所がいかんなく発揮されていて、このシリーズを今まで観てきた中では、梅爺は最も感動しました。笑顔やユーモアを絶やさない人柄も、昨日紹介したエジプトの市民団体リーダー(女性)と同じです。

リベリアは、アメリカで開放された奴隷が帰国して建国した国なので、言葉は英語であるという初歩的な知識さえ、梅爺は持ち合わせていませんでした。彼女の、子供や孫は、アトランタに住んでいると言うことなので、彼女も望めば、ゆったりした老後をアメリカで過ごせる人なのでしょう。激務の中で、「本を読み、テレビを見て、スーパーマーケットで買い物をしてみたい」と正直に述懐しています。

永年の内戦で、リベリアは、「基本的な国の体裁」を全く整えていない、経済的にも破綻に近い国ですから、政治といっても、想像を絶するレベルからの着手になります。彼女は、組閣に当たって、要職のいくつかも女性を任命しました。警察長官(女性)も、アメリカに亡命していた人を呼び戻し、任命しました。しかし警察と言ってもパトカーや拳銃も装備できないほどの貧困さです。

彼女は、どんな難問でも自分が最前線に出向き、相手が誰であろうと、正直に、自分の主張を、見事な論理で述べます。外資系の会社の欧米人経営者へは、労働者の不当な扱いを改善するように言い渡し、世界銀行の幹部や過去に資金援助をした国の首脳には、債務を「帳消し」にして欲しいと、直接的に迫ります。中国の首相が、「援助」を申し出に来訪した時も、丁重に対応していますが、原材料を安価に入手したいと言う中国のホンネは読みきっています。

梅爺が最も感銘を受けたのは、一つ政策を間違ったらまた内戦になるという緊迫した中で、抗議に押しかける民衆のリーダーと、必ず直接話し合い、ここでも、命がけで正直に本当のことを主張している姿でした。旧政権時代の軍人がリタイアしたのに、約束の年金が支払われていないと、抗議に押し寄せた時は、「あなた達の要求は正当ではあるけれども、あなた達が殺戮、略奪した農民のことを考えてからにしてほしい。政府が、あなた達にカネを支払えば、農民は、政府に失望し暴動を起こすでしょう」と母親が息子を諭すように説得していました。

ゼロからの国の建て直しに、「民主主義」を適応するのは、もっとも効率の悪い話かもしれませんが、しかし、時間がかかっても、もっとも堅固な国になるためには最良の策のように、梅爺は感じました。イラクの戦費の一部でも、リベリア救済に回せば、ブッシュは、偉大な大統領として歴史に名を残せるのにとも思いました。、

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2007年11月 9日 (金)

民主主義とはなにか?(3)

ドキュメンタリー・シリーズの第3夜目は、2005年に行われたエジプトの議会選挙で、与党が警察権力を利用して「反対勢力排除」しようとした暴挙に対して、3人の勇敢な女性が「私達は見ています」というグループを結成し、司法の良心的な判事達と組んで、国民的な「抗議運動」を展開している話でした。

投票所に来た市民が、「反対勢力支持者」なら警察力で「投票させない」という、あからさまな介入ですから、「民主主義国家」の人から見れば、「何のために選挙を行っているのか」とあきれてしまいます。

しかし、同じ一人の大統領に率いられ、25年連続政権を守っている与党には、それなりの「論理」があるのだろうと梅爺は思いました。一つは、外国からの非難を浴びないように、「民主的な選挙」が行われたという「体裁」を整えること、そして今は非合法とされている「イスラム原理主義者」が、政治的なグループに成長することを阻止することではないかと思います。勿論、与党の「保身戦術」ですが、「それが、エジプトをテログループの温床にしないということで、結果的には一番国民のためになる」という大義名分を掲げているのでしょう。為政者は、国民の判断力を本心信用していないということになります。

人や国家には、生きていくための「大義名分」や「信条(信念)」が必要ですが、このためには「他の価値」は認めない、という矛盾を孕むことになります。「和して同ぜず」という教訓を、具体的に実行することは容易ではありません。

このドキュメンタリー主役である3人の女性は、身の危険があるようなストレスだらけの環境でも、表現に笑顔やユーモアも失わない魅力的な人たちで、梅爺はその人柄に感心しました。流暢な英語でインタビューに答えることからも、高い教養と知性が感じられました。

大変失礼ながら、日本の野党の「ひきつった顔で反対を叫ぶオバサン」には、主張はともかくとして、人としての共感をおぼえません。魅力的な人柄が、魅力的な主張を生むものと、あらためて感じました。

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2007年11月 8日 (木)

民主主義とはなにか?(2)

ドキュメンタリー番組の第2夜は、2005年にデンマークの新聞が、イスラム教の預言者ムハンマド(モハメッド)を風刺画(テロリストとの関係を示唆)を掲載したことを契機に、イスラム社会で起きた、デンマークや西欧キリスト教社会(民主主義)に対するへの猛烈な抗議デモの真因に迫ろうとする、デンマークのジャーナリストが手がけた作品でした。

レポーターは、勇敢にも、デンマーク大使館の焼き討ち事件まで起こした、ベイルートやテヘランにまで出向き、イスラム教の高い地位にある聖職者や、デモの首謀者などにインタビューしています。

民主主義は、個人の信仰の自由を保証するかわりに、宗教の政治への直接的な介入が無いようにしました。「直接的」と書いたのは、為政者個人や大多数の国民が、ある宗教のバックグラウンドを保有しているために、「間接的」な影響まで排除することは難しいという矛盾を抱えているためです。

民主主義で、宗教による統治を排除したのは、人間の歴史では、ごく最近のことですので、民主主義と宗教は、完全に分離したとは言いがたい問題を抱えているのは当然です。

デンマークの事件は、民主主義の基本ルールの一つ「表現の自由」と、宗教の絶対的価値観(今回は、預言者ムハンマドは神聖で犯さざるべきもの)のどちらを優先するかという、21世紀の人類が抱えている問題が、顕著に表面化したものです。

デンマーク首相や、同じ風刺画を転載したフランスで起きた裁判(イスラム教徒が提訴)では、「断固民主主義の基本ルールを守る」姿勢が貫かれています。もし、日本の風刺画家が、同じような問題を起こし、イスラム圏にある日本大使館が焼き討ちされたら、日本の政府、政治家はどのような姿勢で対応するのかと考えてしまいました。

強い信念同士の対立というのは、手に負えません。梅爺は、軟弱なので、そんなに原理原則を振り回さなくてもいいのにと考えてしまいます。「表現の自由」とは言え、「公序良俗に反するものはダメ」としておき、その時代の価値観で「公序良俗」を判定したらどうかと、譲歩したくなります。そのような譲歩は、殺しあうより賢明であると考えてしまいます。

この事件の本当の原因は、民主主義を最善の体制として、「神による統治が最善」と考えているイスラム社会にまで、無理に押し付けようとすることへの反発ではないでしょうか。更に、イスラムの人たちは、民主主義の美名の下に、「民主主義国家」が経済的な侵略を図っていると感じているのでしょう。

「神による統治」を選ぶか、宗教を分離した「民主主義」を選ぶかは、イスラム圏の人たちの選択です。ただ、世界経済の影響は、これらの国へも容赦なく及びますので、石油資源の無い国などが貧困問題にどう対処するのかなどは難問でしょう。宗教は、心の豊かさをもたらすかもしれませんが、物質的な生活の豊かさはもたらさないからです。

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2007年11月 7日 (水)

民主主義とはなにか?(1)

世界の33ケ国の放送メディアが共同制作した、「民主主義」というドキュメンタリー番組の10作品(1作品1時間)が、NHKのBS放送で、深夜1作品づつ放映され、梅爺は録画して観ました。500編の応募作品から、3年の討議で10本選んだと言うだけあって、いずれも深く考えさせられる内容です。

「世界のどこかに、真の民主主義といえるものが存在するのか」「人類は100年後も民主主義を信奉しているのか」など、番組のはじめに、問いかけがあります。1992年にFrancis Fukuyamaという日系米人が「The End of History and The Last Man」という著作で、人類は、民主主義と資本主義の連携と言う究極の社会体制を手に入れた、と主張しました。ソ連邦の崩壊、東西ドイツの統合などの直後でしたので、「究極な体制」かどうかは別にしても、相対比較をしてみて、これに代わる体制は、なかなか現れないだろうと思いながら梅爺は読んだ記憶があります。

夫婦や家族も、欠点を許したり補ったりして成り立っていますので、理想的な社会体制などが存在するとは梅爺も考えませんが、民主主義にも、その根源を揺るがしかねない、「問題」があることを、あらためて認識できる、番組の構成になっています。

第一夜は、アメリカ軍の、アフガニスタン、イラク、キューバのテロ容疑者捕虜収容所で行われた、非人道的な、「拷問」に関する、アメリカ制作のドキュメンタリーでした。殴る、蹴るの暴行や、裸にして首輪で犬のように引き回す行為、供述をとるための、猛犬による威嚇、大騒音で眠らせないようにする拷問、顔に水を流し続けて呼吸困難にする拷問などが、あったことが明らかになっています。まるで、ギャング映画や中世の拷問の世界です。

アフガニスタンの無実のタクシー運転手が、テロ容疑者として拘束され、拷問で死にいたった経緯を主題として、関係者の証言から、番組は、「なぜこのような暴挙がおこなわれたのか」に迫ろうとします。

「9・11」事件の後、アメリカ国民の安全を守るためには、手段を選ばないという考え方が強まり、政府も、イラク侵攻を正当化するため、フセインとアルカイダとの間に直接的な関係があったという証拠をつかもうと、「手段を選ばない尋問」を現場に強いたのではないかという「疑惑」が暗示されています。

普段は、他国の非人道的な行為に口出しする国家(アメリカ)が、自分のこととなると「In-Group」を優先し、「Out-Group」にひどいことをするという、構図は、日本へ原爆投下を許可した発想と変わっていません。

「民主主義を守るためなら、何をしても良いのか」という、基本的な問いに、私達は、まだ明確に答える能力がないことがわかります。

収容所から解放された人が、「あのような仕打ちを受ければ、テロリストでない人もテロリストになる」と答えているのが、印象的でした。テロ殲滅作戦が更にテロを生むと言う泥沼からの脱出方法も、人類はまだ知りません。

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2007年11月 6日 (火)

旅は道連れ

久しぶりに、江戸いろはカルタの「た」、「旅は道連れ」の話です。

「旅は道連れ、世は情」などと、江戸いろはカルタの中では、現在でも多用される言い回しの一つです。

「旅」を文字とおりに「旅行」と考えれば、「旅」の価値は、「道連れ」で決まると解釈でき、誰もが自分の経験と照らし合わせて、「それはそうだ」と思い当たることがあるのではないでしょうか。いがみあいながらの旅行は楽しくありませんし、「成田離婚」などは、その悲しい結末の例です。

しかし、「旅」を拡大解釈して、「人生」「修行」などと考えると、良い伴侶や良い友人に恵まれることが大切ですよ、と言っているようにも思えますし、梅爺は体験していませんが、四国お遍路などを経験された方は、「同行二人(どうぎょうににん)」を思い起こし、いつもお大師様(弘法大師)が、一緒にいてくださることの「ありがたさ」を思い起こすのかもしれません。

人間は、生きる上で、心を通わせることができる誰かを必要とし、他人にそれが見出せない時には、「神」や「仏」を思い浮かべ、時には、犬や猫を飼って、「誰か」の代わりにしたりします。ロビンソン・クルーソーも、フライディと出会って、生きる望みが強くなりました。人間にとっての一番辛いことは「孤独」だと思い当たります。

良い伴侶や、良い友人に恵まれないと、こぼす前に、自分が、相手にとって、良い伴侶、良い友人になろうとしているのかどうかを、内省してみることも大切です。自分の不幸は相手のせいだと、主張している人の多くの振る舞いを見ていると、「あなたは、どうなの」と言いたくなる例が沢山あります。

世の中は、「お互い様」のことが多いので、「旅は道連れ、世は情」と、続けていうことに大きな意味があることに、あらためて気づきました。

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2007年11月 5日 (月)

比較(4)

人間には、今のところ「定量化」の方法が分かっていないものがあり、「定量化」しないことに、むしろ意味がありそうなものもあるように思います。例えば、「定性的情報」は、受け取り手の感性能力に応じて、個人的に反応のレベルが異なります。このことは、人間の個性を表現する上で、重要なことと梅爺は考えています。過去も含め、地上に生まれてきたヒトは、全員他人とは異なっているという、自然が定めた「摂理」はすばらしいとあらためて痛感します。

しかし、昔に比べると、身の回りの情報の大半は、基本的な表現の部分で、「定量化」されるようになりました。いわゆる、IT(情報通信処理技術)の世界の、デジタル表現がそれにあたります。「1」と「0」の組み合わせで表現されるデジタル情報は、「定量化」されていますので、勿論「比較」処理ができやすくなっていますが、デジタル化の目的は、「比較」だけではありません。処理(比較はこの一部)効率のよさ、正確さが利点です。

自然界の音声や映像は、アナログなのに、CDやDVDなどで再現される音声や映像は、デジタル表現されるので、「人工的でキライ」というような、カタイことをおっしゃる方もおられますが、特別の能力を持っている人で無い限り、区別が難しいレベルにまで、技術は高度化されています。むしろ、「鮮明さ」が強調されているとも言えます。総合的な経済性の追求が、デジタル化の推進原動力になっており、現代では「経済性」は無視できません。

肝心の人間の脳も、約140億個の脳細胞が、「基本的なレベルでは、デジタル処理をしているらしい」ことが、分かってきましたので、「人間はアナログ処理、コンピュータはデジタル処理」と、一概には言えません。

論理的には、140億個のデジタル処理の素子を組み合わせて、人工の「脳」ができるかもしれないと期待する人たちもいますが、脳細胞同士が、どのような組み合わせで、どのような方式(アルゴリズム)で処理をしているかの全貌は、分かっていませんので、現時点では、「論理的な可能性」に過ぎません。

もっとも、人工的に作られた「梅爺の脳」が、「嬉しい」とか「悲しい」とか主張したり、「神とは何か」などと、屁理屈を言い始めたりすることは、想像することさえ願い下げたい光景です。梅爺が生きている間は、こういう世界にならないように願っています。

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2007年11月 4日 (日)

比較(3)

「定量化」は、人間の論理思考、論理比較に有効であり、科学の実験検証などには欠かせない手段です。しかし、人間は、全ての事象を「定量化」して表現する能力を、現状では持ち合わせていません。

「悲しさ」「空しさ」「嬉しさ」「美しさ」等といった抽象概念は、定量化が困難です。物事の本質をとらえる手段として「定量化」は、多くの場合、有効に働きますが、「定性的な表現」が、本質を鋭く抉り出す場合も少なくありません。「定量的な表現」は、主として人間の「理」に働きかけ、「定性的な表現」は、「情」に働きかけるからではないかと、推測できます。人間の脳で受け止めた、「理」の情報は、次なる「理」の概念を想起させるのに対して、「情」で受け止めた情報は、次なる「情」の概念を想起させるという、連鎖反応を起こします。したがって、他人の「悲しみ」に接して、自らが涙するというようなことが生じます。

人間は、「理」と「情」に対する能力のバランスでできあがっています。生まれつきこれらの能力には、個人差があって、「理」の優れた子供は、「学校の成績」が一般に良く、「賢い子」と評価されます。一方、「情」の能力に恵まれた子供は、「思いやりのある、協調性のある優しい子」などと評価されます。

従来、日本の学校教育や、社会的な価値観では、「賢い子」の方が「優しい子」よりも、高い評価を得てきましたが、梅爺は大いに不満です。「賢さ」と「優しさ」のどちらが、人間として重要かという「比較」は、一般論としてはできませんが、「優しさ」の価値が「賢さ」より低いとは思いません。

「賢さ」は、遺伝的な資質で決まる要素が多いのに対して、「優しさ」は、後天的な訓練で、開発できるという可能性を秘めているという説を信じて、幼児期の「情育」のしくみを、早急に検討・実現して欲しいと、何度もブログに書いてきました。

昔の日本人は「情」に富んでいたのに、現在の日本人は「薄情」になってしまったと言うのが本当なら、同じDNAでも、環境や育ちで、「情」が変わる事の立証ですので、これを根拠に梅爺はの「情育」にこだわっています。

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2007年11月 3日 (土)

比較(2)

企業が、難しい選択をする場合は、「コスト」「利益」「市場占拠率(シェア)」などと言う、共通の数値尺度を利用することができます。

梅爺が勤務していた会社では、「問題は定量化して解決せよ」がモットーで、これに対応するためアメリカで開発された、数理統計手法をベースにした「方法論」が使われました。何万人という従業員全てに、これを徹底するわけですから、膨大な費用が、この研修のために使われていました。

確かに、このようなプロセスを踏む方が、直感やヤマ感だけに頼って判断するより成功する確率は高いのですが、これも程度の問題であって、企業の判断は、どんなことをしても最後のところは直感やヤマ感を必要とします。このことを理解せず、「方法論」さえあれば万能と誤解して、判断にリスクを負おうとしない経営者や管理者が、時折存在して、梅爺は難渋したこともあります。

「方法論」で企業の判断ができるのであれば、誰でも経営者になれます。しかし、本当の偉い経営者は、判断リスクを自分で負い、数値尺度だけでなく「従業員の就業意欲」「会社の信用度」「企業の倫理観」「ブランド」などといった、数値化ができにくいものの重要さも、鋭く感じ取って、対応する能力を持っています。

経営幹部が、部下に「事業計画書案」を作らせ、それを見て、「もっと、私でも判断できるように定量化しろ」といったりするのは、完全な責任放棄ですし、計画実行がうまくいった時は、自分の手柄にして、うまくいかなかった時は、計画案を策定した部下のせいにするのは、更にもってのほかです。

しかし、多くの企業で、「サラリーマンはつらいよ」と言いたくなる、このようなケースは、珍しいことではないというのが、実状ではないでしょうか。「そんなことが、あるのですか?」と言う方は、よほど恵まれた人です。

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2007年11月 2日 (金)

比較(1)

個人、組織(会社など)、コミュニティ(国家など)によらず、本来比較できないものを比較して、どちらかを選択しなければならない状況に遭遇します。なんとか、共通の「尺度」を見つけ出し「定量化」して、無理やり選択に妥当性を見出そうとしたりしますが、うまくいくとは限りません。先が見えないことを、思い切って選ぶ(実行する)という概念が必要になり、人間は、その概念を「勇気」と呼ぶようになりました。「勇気」は美しい行為のようにも見えますが、本来「カケ」ですから、必ずしも良い結果が得られるわけではなく、時に、不幸な死につながったりして、「勇気」は「無謀」であったと後で分かることもあります。

「名誉のために死を選ぶ」と「名誉を捨てて生き延びる」の選択に関して、第三者が、どちらかを「正しい」と断言することはできません。選択者の置かれた環境、選択を迫られるに至ったな経緯は、複雑な要因として絡み合っているからです。

しかし、人間は、「どちらが正しいか分からない」状態で放置しておくことには、「不安」を感じるために、「分からない」のは、自分の能力不足が原因かもしれないと疑ったりして、誰か他人に、「こっちが正しい」と断言してもらうことを期待します。「分かろうとしても無理だ」と考えることができる人は、実は「世の中が分かっている」人なのですが、多くの人は、「分からない」不安に耐え切れなくなるのでしょう。

このため、テレビには、「評論家」「解説者」「コメンテーター」と称する人たちが登場し、「自分もどちらが正しいか分かりません」と正直に言ってしまったら、お金がもらえませんから、自分の価値観で、「もっともらしい話」をし、視聴者は、それを聴いて(観て)、「そうか、こっちが正しいのか」と思い込んだりして「安心」します。中には、何を言っているのか分からない「評論家」もいますが、これは論外です。

「良く調べた上で、正しい判断(選択)をすべき」と教えられてきましたが、梅爺は、いくら調べても、どちらが正しいか分からないことの方が多いのが人生(世の中)ではないかと、感じています。

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2007年11月 1日 (木)

小柴俊昌先生の高校生向け物理講話(4)

高校生の質問の一つは、「ニュートリノが、核物理学と天文物理学とを結びつけるものと、どうして思いついたのか」というものでした。小柴先生は、少し考えた後に、「ヤマ感というほか、説明できません」と答えられました。梅爺が前にも書いた科学者の「霊感(インスピレーション)」と言うことになります。ご自分が「ヤマ感」としか言えないことも、「人間は一番理解困難ななもの」とおっしゃる根拠の一つなのかもしれません。

ニュートリノの研究は、一文の金儲けにもならないけれども、天体の星の生成する時点で、複数の元素が同時にでき、ニュートリノが生まれるというプロセスがあったからこそ、地球という星に、今ヒトという生物が存在しているのだという、関係だけは、是非理解して欲しい、ともおっしゃいました。正直で、すばらしいお人柄です。「一文の金にもならない」とおっしゃったのは、現代人へのシニカルな警告かもしれません。

「科学に倫理は必要か」という質問には、「科学そのものに善悪はない。それを利用する人間には、倫理が必要」と決然と言われた後に、「原爆の投下を指示した、トルーマン大統領は、人類の敵と考えている」と明言されました。梅爺も同感です。

前に、米国で「遺伝子操作テクノロジー、ナノテクノロジー、ロボットテクノロジー」は、21世紀中に、人類を滅亡に導く恐れがあるので、即刻研究中止すべきであるという議論があることを紹介しました。「テクノロジー」は「サイエンス(科学)」の応用(利用)分野なので、中止するというのは極端にしても、何らかの「倫理」が必要になることは明白です。

倫理に関する小柴先生の回答は、ごもっともですが、「サイエンス」と「テクノロジー」の境界は、極めて不鮮明であったり、「テクノロジー」のための研究もありえますから、倫理の問題は、人類皆が注視すべきことです。科学者も、事後の「応用」に対して、見識を持つ必要があると思います。「科学」には善悪はありませんが、「科学者」は必ずしも「無実」とは言えない場合があることを承知しておくべきでしょう。

「サイエンス」と「テクノロジー」の関係の本質を、まったく理解できない、政治家や経営者が、21世紀では指導者にはなり得ないことに、すぐ気づきますが、周囲を見回すと、20世紀どころか、19世紀の認識と発想かと、疑いたくなるような、言動の指導者が多く、老い先の短い梅爺でも、心配になります。

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