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2007年10月31日 (水)

小柴俊昌先生の高校生向け物理講話(3)

またまた「神」の話で恐縮ですが、小柴先生流に言えば、「客体」としての「神」は、実在しないと、梅爺は仮説を繰り返してきました。

しかし、小柴先生の「人間は、客体と自分(主体)を一体化してしまうが故に、理解が難しい存在」という話を聴いて、人間は、実在しない「客体」をも、「存在する」と考える能力があり、その言わば「仮想の客体」を「実在の客体」と同様に、自分(主体)の中で、一体化することもできるという、更に不思議な能力をも持ち合わせているのではないかと思いつきました。「目から鱗が落ちた」と書いたのはこのことです。

「神」が「実在の客体」か「仮想の客体」を論ずることは、人間(主体)と神(客体)の間の「普遍的な関係」を見出そうとする、科学的なアプローチの時にのみ意味があると気づきました。

信仰ある人は、既に自分と神を「一体化」しているわけですから、この人にとって神が、実在か仮想かは、ある意味でどうでもよい話になります。その人には、「一体化できる対象」がその人の「神」ということになります。他人の悲しみに接して、自分も涙する人は、科学的には「客体」とは言いがたい「他人の悲しみ」という概念を自分と一体化して、自分も悲しむという反応をしていることになります。人間は、科学的には「客体」と判別できないものも、「仮想の客体」または概念としてとらえて、自分と一体化して反応するという、「摩訶不思議な存在」であることが分かります。科学者の小柴先生が、「理解が最も難しいものが人間」と言われることが、少し理解できたように思いました。

「人間の中の、主体と客体の渾然一体化」とは何か、という次なる大きな疑問が残りますが、宗教や芸術の領域における「渾然一体化能力」は、個人格差が極めて大きいことはすぐに分かります。同じモーツァルトの音楽を聴いて、心が洗われる人と、単なる不快な雑音にしか聴こえない人がいたり、同じ仏像を見て、仏の慈悲を感ずる人と、何も感じない人がいたりします。砂糖入りのお菓子を食べれば、甘いと感ずる、というような一般的な因果関係を見つけることが困難なため、科学の対象としては「難物」であることが分かります。

小柴先生のおかげで、「神」という概念と一体化できる人には、一体化が生み出す効果や反応が重要なのであって、「神」が本当に実在するかどうかという議論は、直接的な興味の対象ではないのかもしれないと、気づきました。これは、梅爺の大きな進歩です。この個人的効果は、他人が価値判断すべきものではありません。その個人には、「神」との内部一体化が大きな意味をもつことを認めた上でもなお、科学的な客体という意味では、「神」は存在しないという「仮説」に、梅爺は、まだ、しつこくこだわっています。

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2007年10月30日 (火)

小柴俊昌先生の高校生向け物理講話(2)

講話の後で、高校生が小柴先生に発した質問の中で、梅爺が、興味を持ったのは、「研究の過程で、最も苦労されたことは何ですか」「人間は将来、全部を知ることができるようになりますか」「ニュートリノが核物理と天文物理のの双方に関係していると、どうして気づいたのですか」とそれに「科学に倫理は必要ですか」の4つでした。日本の高校生も、なかなかやります。

「研究の過程で、最も苦労されたことは何ですか」に対する小柴先生の回答は明快で、「人は、自分が本当にやりたいと思うことをやっている時は、苦労などと感ずることはありません」でした。「苦労」と言う概念は、「幸福」同様に相対的なものということになりますので、梅爺のような小人ほど「いやー、苦労した」と気軽に言って、自己擁護、自己弁護していることになります。畏れ入るばかりでした。

「人間は、将来全部を知ることができるようになりますか」は、深遠な質問です。梅爺流に拡大解釈すれば、「宇宙の摂理を解明する(神に到達する)ことができますか」ですから、小柴先生がどう答えられるのか、つい身を乗り出してしまいました。

小柴先生は、質問者に「全部とは何を意味しますか」と問いただした上で、何と「世の中で最も難解なものは人間です」と答えられました。その後の説明で、梅爺は「目から鱗が落ちる」ように感じました。

『核物理学でも天体物理学でも、主体(観察追求する人間)と客体(観察の対象となる原子核、天体宇宙)の境界は明解で、主体と客体の間に存在する原則やルールは、客観的、普遍的に表現できますが、人間の場合、例えばある人がモーツァルトの音楽を聴いている状態では、既に、音楽は外部に存在する客体ではなく、人間の中で主体と一体になっていますので、主体と客体を分けた、一般化、普遍化が難しいことになります。人間の難しさはここにあります』というのが、小柴先生の回答の概要でした。

小柴先生は、「全てを知ることが可能かどうか」には、明言を避けられましたが、外部の客体(原子の核構造や天体宇宙)を究明する科学より、人間そのものの究明が難しいとおっしゃられたことになります。

なぜ、これを聴いて、梅爺の「目から鱗が落ちた」のかの説明は、長くなりますので、次回に書きます。

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2007年10月29日 (月)

小柴俊昌先生の高校生向け物理講話(1)

「地デジ」対応のために、我が家は地元のケーブルテレビのサービスを受けることにしたことは、既にブログに書きました。基本サービスパッケージの中に、いくつかのCSチャンネルが含まれていて、梅爺は、その中の、主としてスポーツチャンネルを楽しんでいます。

「G+」という、読売巨人軍の試合を主として放映するチャンネルで、野球が無い時に、なんと、ノーベル賞学者の小柴俊昌先生が、高校生向けに行った「物理講話」を放映していました。巨人軍と小柴先生は、どう見ても結びつきませんが、この「講話」は、読売新聞主催ということらしく、これが「接点」であることが分かりました。

小柴先生は、実験物理学の世界で、ミクロな核物理学と、マクロな天文物理学の関係を、「ニュートリノ」の観測で実証したことで、ノーベル賞を受賞されました。

梅爺は、核物理学にも天文物理学にも、全く素養がありませんので、「物理講話」は勉強になりましたが、それよりも、「語り口」を介して、得られた先生のお人柄が新鮮でした。ただ映し出すだけで、テレビが伝えるある種の情報量は、大変なもので、本を読むのとは異なった世界が体験できます。政治家が、いくら「うまいこと」を言っても、「嘘をついているらしい」と国民が、テレビを観て見抜いてしまうのと同じ話です。

声を荒げることもなく、淡々とゆっくり話される風情は、好々爺のご容貌とあいまって、えもいわれぬ雰囲気を観る人に伝えています。まだまだ「つっぱり爺さん」である梅爺には、程遠い境地ですが、是非研鑽を積んで、このような境地に到達したいものと、思いながら観ていました。

どのような基準で、受講の高校生が選ばれたのかは知りませんが、全員賢そうな学生ばかりで、普段駅や盛り場で見かける、へんてこな風采と、へんてこな日本語を話す高校生は一人もいませんでしたので、梅爺は、「日本も捨てたものではない」と意を強くしました。

講話の後の、高校生の質問に小柴先生が答えるところが、見もので、ここでも、先生は、質問者の高校生に「教える」という態度ではなく、「会話する」という姿勢で臨まれました。高校生の質問も、的を射たものが多く、これにも梅爺は感心しました。

やりとりの中で、梅爺が、「なるほど」と感心したものの内容紹介は、次回に書きます。

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2007年10月28日 (日)

現状認識

出典は覚えていませんが、昔、経営に関する本を読んだ時に、決断に関して以下の「Stein's Law(シュタインの法則)」というものの紹介がありました。

If something is unsustainable in the long run,
it will end.

If something is going to be a big deal in the future,
it’s got to start sometime.

梅爺流に意訳をすれば、次のようになります。

「現状を維持するのに無理があると思えるものは、いつかは立ち行かなくなる(だから、はやく現状依存をあきらめなさい)。将来大輪の花を咲かせ、大きな実を結ぶと思えることは、いずれ着手せざるを得ないことになる」

ごもっともな内容ですが、これは、個人が決断する時の「指針」であって、「法則」と呼ぶのは、適切ではないように思います。つまり、ある人が、「現状の維持は無理」と「感じたり」、「これはうまくいきそうだ」と「感じたら」、即刻「止める」か「始める」ようにしなさいという程度のことにすぎません。

仮に、その人の「現状認識」が客観的に正しければ、この「指針」に従ってよい結果につながりますが、「現状認識」が間違っていれば、後で後悔するようなことになります。この指針に従って、誰でも経営者として、成功するわけではありません。

つまり、この「指針」は、「現状認識が正しい」という前提で、意味を持ちますが、人間は、欲望やら、期待やらという雑念のために、「正しい現状認識」ができないのが一般的と考えた方が無難です。自分の現状認識が正しいと信じて、それを主張する人は沢山いますが、世の中の事象の大半には、「客観的に正しく、皆が納得する現状認識は存在しない」と考えた方が現実的であると思います。

指針に従って行動し、結果がうまくいかなかった時に、「だまされた」と指針のせいにせず、自分の現状認識が誤っていたと、認めることができる経営者は、大人物です。

梅爺も、現状認識を間違わないように努め、それに従って、自分の責任のもとに、次の行動を決めますが、いつも自分の現状認識が正しいと確信しているわけではありません。

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2007年10月27日 (土)

相対的な距離感(2)

IT(情報処理・通信技術)が、「情報の搬送時間」を短縮したことが、人間社会の相対的な距離感を短縮する直接の要因になっています。「ITは人類に大きな影響を与える」などと、一般論で言われてピンと来ない人でも、遠い国の事件やスポーツイベントを、ほぼ同時に我が家のテレビで観ていることの価値は、理解できるでしょう。視覚、聴覚で処理できる情報は、ほぼ瞬時に、世界を駆け巡ります。

おかげで、我が家も、アメリカのアトランタに住んでいる息子一家と、インターネットを利用した「Skype」テレビ電話で、いつでも無料で通話できます。梅爺も梅婆も、これで孫と会話ができることを楽しみにしています。少し前の時代を考えると、アメリカとの電話交信は、高価なものでしたので、現在の環境は、まるで夢のような話です。

経済行為は、戦争行為と同様に、「正しい情報を早くつかんだ方が勝ち」ですので、「IT」との組み合わせで、「経済のしくみ」や「戦争のしくみ」が、大きく変貌するであろうことは、容易に想像できますし、現に、「大きく変貌」しています。兵器や兵士を多量に保持することだけが、「軍事大国」の条件ではなくなりました。

特に、人間社会に大きなインパクトを与えたのが、ITを利用した電子決済という金融のしくみです。現金や為替証書の移送を伴わない「仮想決済」で多額の金が世界を駆け巡るわけですから、機転の利いた人や会社は瞬時に大もうけをし、機転の利かない人や会社は瞬時に破産するというような恐ろしい時代になりました。ここでも、「正しい情報を早くつかむ」ことが鍵となります。

職に就かずに、自宅で四六時中インターネットとにらめっこをして、電子的な株取引で生計をたてるという人たちが、日本や欧米だけでなく、中国でさえも増えつつあると報じられています。

「働かざるもの食うべからず」という価値観で育った梅爺などには、なにやら精神的に不健康な人たちに見えますが、「大もうけ」と「大損」の危険なリスクの中で、全神経をこれに使っている人から言わせれば、「お前のいう、働くということは、何ぼのものじゃ」ということになるのでしょう。

ITは、人間をより人間らしく、生活を快適にする手段にもなりますが、度を越すと、人間をモンスターのような「金の亡者」にしてしまう可能性も秘めています。言うまでも無く、ITが悪いのではなく、それを受け容れる側の人間の問題です。それでも「君子ITに近寄らず」だけでは済まされませんので、「節度をもってITと立ち向かう君子」になりたいものだと考えています。

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2007年10月26日 (金)

相対的な距離感(1)

だいぶ前に、「独裁国家で何が悪い?」というテレビ番組を観た感想をブログに書き、その時「おとさん」から、アメリカの著名なジャーナリストが書いた「The Lexus and the Olive Tree」という本を例に挙げてコメントをいただきました。同じトーマス・フリードマンというジャーナリストが、その後「The World is Flat」という本を出版し、梅爺が、大変興味深く読んだことを思い出しました。

「The Lexus and the Olive Tree」が、情報技術と新しい経済のしくみが組み合わされて、世界の各地で、「ローカルな(土着な)価値観」と「グローバルな(人類が共有できる)価値観」の確執が、より鮮明になることの問題を論じた本であったのと同様、「The World is Flat」も、情報技術と新しい経済のしくみが、地球上の「相対的距離感」を短縮してしまうことの問題を論じています。

大昔、ヒトは、「この世は、平らな平面である」と認識していましたが、やがて科学的な知識で、「地球は星のひとつで、球体である」ことを知りました。勿論、すんなりそのような事実が受け容れられたわけではなく、それを主張した科学者は、教会から尋問され、迫害を受けたことはご承知のとおりです。

そのような、人類の歴史を背景に、フリードマンは、洒落っ気で、「The World is Flat(地球は再び平らになりました)」と表現しています。

しかし、梅爺は、「相対的な距離感が短縮された」ことを表現するのに「Flat」という言葉を使うのは、誤解を招く可能性があり、あまり適切ではないと感じました。でも、そのことで、本の内容が損なわれるわけではありません。

この本によると、人類は「相対的な距離感の短縮」を、3度経験しています。最初は、「大航海時代」で、コロンブスやマゼランが活躍し、ヨーロッパの人たちは、「新世界」の存在を知りました。背景は、ロマンチックな「冒険心」だけではなく、むしろ「国家(君主)の利権獲得」でしたので、この時代の主役は「国家」でした。2番目の経験は、「産業革命」で、この時代の主役は、「国家」から「国際規模の大企業」に移りました。トヨタが「世界一の自動車会社」になろうとしているのは、この時代が今尚続いていることを示しています。3番目の経験が、「情報社会」で、21世紀に入って、その状況が顕著になり始めました。この時代の主役は、「能力のある個人、または競争力のある小規模企業」ということになります。「Google」などは、その典型的な例で、大企業でなくても、能力さえあれば、国際ビジネスが可能になりました。

地球が平らになって、どこでも人類が同じ価値観になるという主張は、ヒトの「物欲の価値観」に関しては、正しいような気がしますが、「物欲の価値観」は、経済行為が背景にあり、経済は地域的な格差を利用する(安い労働力を利用するなど)面がありますので、全部同じ環境になってしまうと成り立たないという矛盾も含んでいます。

一方、「精神的な価値観」は、そう簡単には、同じになるとは思えません。例えば、世界中が、英語を共通語として採用することは考えにくいからです。日本人が苦労して英語を喋っているのは、主として「経済行為」にそれが今は必要とされるからです。

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2007年10月25日 (木)

運命(2)

人の運命は、「天命」と「人意の自由度」の織り成す綾で決まると考えると、「人の運命は、予め天命で定められている」という表現も「人の運命は自らの努力で変えることができる」と言う表現も、見方によって正しくもあり、また、正しくないということになります。

どの部分が、「天命」でいかんともしがたいものに属し、どの部分が「人意」で自由になるものかを、正しく理解していないと、運命の全てを「天命」のせいにして、嘆いたり、逃避したりすることになります。

運命の内で、「人意の自由度」で決まる部分は、決して小さいものではなく、時によって、個人の「努力」の結果は、自分ばかりか、周囲の人たちの運命にも大きな影響を与えかねない力を持っています。家族、会社、社会、国家、世界のありかたさえも変えてしまうことがあります。

「天命」の制約の中で、「天命」の存在を承知しながら、「人意」の最大限の努力をするという生き方が、その人の「価値ある人生」ではないかと梅爺は思います。死ぬと分かっていても、延命の努力をすることは、決して意味の無いことではありませんし、「天命」の死が避けられないと悟った時に、延命の努力を自らの意思で断つという選択も、人に与えられた「崇高な権利」であるように思います。しかし、後者は、「自らの意思」かどうかの客観的な証明が難しく、論理的には「犯罪」と紙一重なために、日本では、個人の権利として、公には認められていません。「尊厳死」の問題は、今後も議論が続くことでしょう。

「天命」とは何か、にアプローチする方法は、「宗教」によるものと、「科学」によるものに大別できます。「科学」は、次々に生ずる疑問へ、あくなき追求をする姿勢になりますが、「宗教」は、「神」や「仏」という、存在を疑ってはいけないものを設定して、その前提の中で一見まとまった体系を作り出すことになります。「天命は神の意思」と言ってしまえば、議論が続かなくなることに、科学者は不満を感じ、一方、宗教者は、「天命」を追求することは、神への冒涜と非難することになります。

「天命」論争で、「宗教」が勝つか、「科学」が勝つか、梅爺は、興味深々ですが、残念ながらその結果を見届けるまで、生きてはいけそうにありません。

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2007年10月24日 (水)

運命(1)

宇宙や自然界が、何かしらの摂理(ルール)で支配されていることは、アインシュタインのような天才でない梅爺でも、「感ずる」ことができます。その摂理の、極々一部を、現代の人間は、科学の力や推測能力で、「知っている」に過ぎません。

自然の目に見える現象は「森羅万象」ですから、その大元の摂理も、複雑怪奇なものと想像しがちですが、意外に単純なルールの集合で構成されているのではないか、と梅爺は勝手に想像しています.。勿論それを立証する能力は持ち合わせていません。

人間も、「自然からみるとその一部であって、特別の存在ではない」ということになりますので、この摂理の支配を逃れることはできません。摂理の中で生まれ、摂理に従って死んでいくことになります。摂理に支配される部分を「天命」と呼ぶなら、誰も「天命」に抗することはできません。

しかし、短絡的に、「人生の全てが天命に支配されている」とあきらめる必要がないところが、「天命」の妙です。マクロなルールである「天命」の中で、ミクロな「人意による自由度」が許容されていることが、その「妙」の「妙」たる所以です。溶液の中の分子に、「ブラウン運動」というランダムな動きが許されているのこととのアナロジイ(類似性)を想起してしまいます。

人にとって、「天命」は、「お釈迦様の掌」で、その掌の中での「自由」が許容されているに過ぎないことになります。昔の人も、「天命」と「人意(自由)」の関係を、理解していたからこそ、「お釈迦様の掌」という見事な表現ができたのでしょう。

「天命」からすれば、個々の「人意による自由度」などは、取るに足らないちっぽけなものですが、人にとっては、この「人意」は、その人の人生の内容を変える程の大きな意味を保有しています。

「人意」は、その人の「能力」「意思」「行動」で決まりますが、その基本は「脳」に依存し、その「脳の容量」は、一生酷使しても使い切れないほどのものが付与されていますので、「自由度」の範囲は、その人にとっては「無限」と言ってもよいほどのものになります。

「人意」だけに限れば、人は「無限の可能性」を秘めているといっても、過言ではありません。

「人意」ですばらしい努力をしていて、前途洋洋に見える人も、事故や災害に巻き込まれれば、過酷なことですが、天命のルールに従って、突然の死を迎えることになります。

人の「運命」は、「天命」と「人意」の織り成す綾で構成されていることになります。「天命」そのものは、人の「願い」などと無関係な、冷酷非情なもののように思えますが、「人意による自由」を許容していることが、唯一、人に対する「思いやり」のようにも思えます。

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2007年10月23日 (火)

「情育」のすすめ

人の「王道」の心を、作り上げる大きな要素が、幼児期の「情育(Emotional Intelligenceの発育を促すトレーニング)」ではないかと、昨日書きました。

生まれてきた赤ん坊が、人の顔を認識できるようになった時に、まず見るのは「目」であると、前に観たテレビで知りました。これは、人だけでなく、動物に共通した習性ではないかと思います。我が家の老犬も、梅爺と接する時には、懸命に梅爺の「目」を見て、梅爺が何を考えているかを知ろうとしているように見えます。多分、柔和な「目」と、怒っている時の「目」の違いは、本能的に察知しているのではないかと思います。

「情育」の中で、幼児と接する最適者は「母親」であろうと思いますので、母親と幼児が一緒に「情育」を受けることができるしくみが、好ましいと思いますが、事情があって、「情育」に参加できない母親もいますので、そのことも配慮したしくみが考案されることを願います。いずれにしても、幼児に接する人の「目」と笑顔が、最初に重要な役目を果たすのではないかと推察します。

「情育」が、どのような全体体系で行われるべきかについて、残念ながら梅爺には思い浮かびません。教育学者、心理学者、脳生理学者などの専門家を結集して、世界が注目するシステムを創出して欲しいと願います。

幼児が、「自分は周囲の人たちから愛され、大切にされていることを感ずる」こと、「自分の言動によっては、周囲の人が喜んだり、悲しんだりすることがあることを知る」こと、「周囲の人たちが喜んでくれることは、自分も嬉しいことであると知り、周囲の人たちを悲しませることは避けようとする」こと、などが「情育」の目的のように思います。

これを実現するために、「言葉」「スキンシップ」「愛玩動物との接触」「幼児仲間との接触」「他人の大人と接触」「ゆったりリラックスできる環境(部屋の色彩、音楽など)」「美しい自然の体験」などの要素が、組み合わされて利用されるのではないかと、まことに断片的で恐縮ですが推察します。

「情育」の効果の程は、幼児の「笑顔」や「目の輝き」で、測られるのではないでしょうか。勿論、長期的な追跡調査で、社会の「いじめ」が減少するかどうかも大きな指標になります。

税金がこういう「情育」のために使われることに反対する国民は、少ないのではないでしょうか。

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2007年10月22日 (月)

覇道と王道(3)

人間の作る組織は、多かれ少なかれ「覇道(強者の権利を優先)」と「王道(強者と弱者の共存を計る)」のバランスで運営されると昨日書きました。

人間の組織がこのような性格を持つのは、組織を構成する個人の心の中に、同じく「覇道」と「王道」の習性が存在していることを考えると、当然のことのように思えます。

人には、「自分が強者になりたい(相手を打ち負かしてまでも、有利な立場や栄誉を得たい)」という「覇道」の心と、「弱い相手を思いやりたい」という「王道」の心があります。

前者は、動物としての闘争本能に由来するもので、スポーツはその本能を昇華させた、人間ならではのすばらしいアイデアです。馬は生きるためや闘争本能では走りますが、精神的な栄誉のためには走りません。

後者の「思いやりの心」は、前に何回もブログに書いたように、人間の「Emotional Intelligence」がベースになります。生まれつきこの能力に恵まれた人と、そうでない人がいますが、幸いなことに、人間は幼児期に、この「Emotional Intelligence」を伸ばす訓練、教育を受けると、その後の人生に大きな影響があることが、教育学者や心理学者の研究で判明しています。

教育は、「知育」「体育」を対象に行われてきましたが、特に幼児期の「情育(梅爺の造語)」が、重要であることがわかります。「いじめ」は、「覇道」に偏った子供達が増えていることを示す端的な例です。

同じ日本人で構成される社会でも、時代によって、「いじめ」が「目立ったり」「目立たなかったり」するということは、社会の「覇道」と「王道」のバランスが、その時代によって異なることを示しています。

耳を疑うような、おどろおどろした犯罪が毎日のように報道されて、多くの人が、社会の荒廃を嘆きますが、対症療法の「道徳教育」「礼儀作法教育」などにばかりに議論がいって、誰も根本的な幼児期の「情育」の議論に至らないのは、梅爺には不思議で、不満です。

文部科学省には、世界が注目するような「幼児情育」のシステムを考えてもらいたいものです。身内(In-Group)への思いやりを越えて、他人(Out-Group)にまで、思いやりを配慮できる日本人が増えれば、日本は、「美しい国」になり、世界の人々からも尊敬されるようになるであろうと、梅爺は考えています。

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2007年10月21日 (日)

覇道と王道(2)

孫文の「西欧の覇道」の「覇道」とは、「強者が弱者を支配する(ことを当然とする)社会」のことで、「アジアの王道」の「王道」とは、「賢明な支配者や支配体制の下に、強者と弱者が共存できる社会」と理解することができます。これは、対比を鮮明にするための孫文のレトリックで、歴史上、西欧は全て「覇道」であり、アジアは全て「王道」で支配されていたわけではありません。

その意味で、「覇道」と「王道」は二者択一の考え方ではなく、どのような人類社会の組織(国家や企業など)も、両面を保有していることを理解する必要があります。バランスをどうとるか、どのような問題にはどちらを優先させるかの判断が求められます。「覇道」は「下克上」を許容することになり、社会は格差を生むものの、活性化しますが、独裁者が、「下克上」も許さない体制を一旦つくりあげてしまうと、北朝鮮のような、極端で悲惨な体制になる危険を孕んでいます。一方「王道」は、解釈を間違うと、「不当な平等」がはびこり、能力のある人たちの意欲を殺ぐことにもなりかねません。

日露戦争後の日本が、形だけは列強に名を連ね、「更に列強の中でも強い立場を確保したい」と考え、そのために「列強と同じように、利権を求める行動をとるのは当然」と考えたのではないででしょうか。明治維新以来の「富国強兵」政策が、正しかったと日露戦争の勝利を国民は受け止め(そのように教育され、日本は本当に強い国家だと思い込み)、現実には、極めて脆弱な国家の経済基盤などを考えずに、性急に「列強らしく振舞った」ことが、第二次世界大戦の敗戦にまでつながりました。

しかし、梅爺はその後の日本を知り、現在の日本の繁栄を享受しているので、このような「冷静なこと」が言えるのであって、もし、当時の日本国民の一人であったなら、どのように考え、行動したかと問われれば、全く確信を持って答えることができません。「国家のため」と信じて、結果的に不幸な判断をしてしまった先人を、全面的に「思慮の無い人間」として、侮蔑する気持ちにはなれません。梅爺も、「会社のため」と信じて、今となっては、結果的に間違った判断と言える決断を沢山してきました。それでも、会社が存続し続けているのは、梅爺の判断ミスの影響が幸い小さかったことと、幸運のためと言わざるを得ません。

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2007年10月20日 (土)

覇道と王道(1)

中国の清朝を辛亥革命で倒した孫文が、日本を拠点に、革命の準備をし、日本の思想家の宮崎滔天(とうてん)や頭山満の影響や支援を受け、財政的にも経済人の梅谷庄吉(映画会社日活の創始者)の多大な援助があったことは、知られています。

日露戦争に勝利した日本に、当時のアジア諸国に人たちに、大きな期待を抱かせたことは容易に想像できます。有色人種が白色人種に劣らないことを証明したと、単純に理解されたのでしょう。ロシアと直接戦争をしたのは日本ですが、日露戦争の軍費の多くは、アメリカの財界人の融資でまかなわれ、アメリカ政府は、中国の経済的な「門戸開放」という名目で、遅れをとっていた中国での利権を、融資の見返りで獲得しようと目論んでいました。当時、多くのアジア諸国は欧州国家の植民地や植民地に類する支配下にあり、人々は苦しい生活を余儀なくされていましたので、日本が、アジア各国の開放独立の「救世主」になってくれるのだろうと、「勝手に想像した」としても、無理からぬ話です。しかし「アジア人によるアジア国家の独立」を、当時の欧米諸国が、本当に望んでいたとは思えません。

日露戦争後、中国やインドの独立を目指す人たちが、多く日本へ亡命したり、留学したりして、日本を拠点に、「独立運動」を開始しました。孫文は、一度は辛亥革命に成功しますが、その後清朝の軍閥袁世凱の政権と国内対立することになり、本当の革命は果たせぬままに亡くなりました。

亡くなる数ヶ月前に、孫文は日本へ来て、神戸の女学校で講演をしており、「西欧の覇道か、東洋の王道か、どちらを選ぶかは日本人の決断である」と述べています。孫文を支援してくれた昔の日本とは異なった方向へ、日本政府が動きつつあることを感じ、期待と不安を込めて、このような講演をしたのでしょう。その後の歴史は、孫文の不安が的中する方向に動いたのは、ご承知のとおりです。

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2007年10月19日 (金)

メラトニン

我が家の梅婆は、不眠症気味になると、誘眠剤として「メラトニン」を服用していることを昨日書きました。

「メラトニン」は、日本では発売が許可されていないサプリメントですが、米国では、どこのドラッグストアやスーパーマーケットでも売っていて、日本人が購入し、自分の責任のもとで服用するなら、日本に持ち込むことも許されています。

梅爺は、詳しい知識を持ち合わせていませんが、「メラトニン」は、人間が日中陽の光に当たると体内に生成されるホルモンの一種で、したがって、夜間の血中濃度が日中に比べて高くなり、脳はそれで「夜」を感知し、眠くなるというしくみと聞きました。間接的に眠りを誘うということのようです。

海外旅行の「時差ぼけ」防止に「メラトニン」が効くというのも、この性質を利用したもので、環境が夜になったら、脳も夜のモードにしてしまうことができるからでしょう。

どの薬にも副作用があり、「メラトニン」もいくつかの定性的な事例が報告されていますが、常用の数100倍の量を服用しても、副作用が認められないという実験報告もあり、一般的には、珍しいくらい副作用がない薬と言われています。梅爺が参加している「横浜フォーラム」に、薬品会社の技術系役員を勤められた方がおられ、その方も「副作用は少ない」と言っておられますので、確かでしょう。

梅爺の甥の一家で飼っている犬が老犬になり(雌のゴールデン・リトリーバー)が、大病で死にかけた時に、最後の手段として「メラトニン」を飲ませたら、奇跡的に快復したという話を聞いたことがあります。

未開地の原住民に、腹痛の薬だといって、歯磨き粉を飲ませても「効く」という話は聞いたことがありますが、犬にはそのような「精神的効用」はないと思いますので、「メラトニン」が、何らかの効き目を発揮した可能性は高いように思います。

日本の厚生・労働省が、なぜ「メラトニン」を認可しないのかは、調べたことがありません。日本人を対象とした実験データが、ただ不足しているだけなのか、それとも、他の理由があるのかどうか、知りたいところです。

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2007年10月18日 (木)

不眠症

多かれ少なかれ、誰も「寝つきが悪い」ことは経験しているはずです。暑苦しいことや、海外旅行の時差などという、周囲の環境が原因の場合もあれば、精神が高揚していて、色々なことを考えて眠れないことがあります。

我が家の梅婆(家内)も、不眠症気味になると、ホームドクターから精神安定剤(誘眠剤)を貰い受けてきたり、アメリカ旅行の時に買い込んできた「メラトニン」などを服用しています。梅爺は、幸いにして薬に頼らなければならないような、重度の不眠症にはなったことはありません。「床に入ったらすぐ寝てしまうのは羨ましい」と梅婆に言われますが、梅爺とて、無神経の怪物ではありませんから、人並みに「寝つきが悪い」ことは何回も経験しています。現役時代は、会社の仕事や人間関係が思うようにならない時がそうでしたし、今も身内の誰かが病気になって心配がつのるような場合は、寝つきが悪くなります。

梅爺は、これといって「寝付く」ために特別の手段を意識的に講じていることはありませんが、強いて挙げれば、以下のようなことが効果を発揮しているのかもしれません。

(1) 就寝前に、適度のアルコールを摂取する。つまりナイトキャップですが、「適度」が意外に難しく、「過度」になると翌日の体調に響きます。ウィスキーの水割り2杯程度が、梅爺の適量です。

(2) 「眠らなければいけない」という強迫観念は持たないようにする。眠くなければ起きていれば良い、不眠症で死んだと言う話は聞いたことがないので、いつかは眠るだろう、と達観するようにしています。今は、夜更かし朝寝坊がある程度自由にできますので、この流儀に徹しています。

(3) 頭が冴えているときは、就寝前に「難しい英語の本」を読むようにする。人間の脳は不思議なもので、過度の負荷を与えると、一層冴えるのではなく、バランスを求めて「眠気」が襲ってくるようにできているのではないでしょうか。

もう一つ、最近、床に入ったら、目を閉じて、眼球を「下向き」に保つようにすると、気が休まって眠りやすいことを発見しました。人は、考え事をするときには、自然に眼球が「上向き」になりますし、眠れないときは、目は閉じていても眼球は「上向き」になっています。だまされたと思って、試してみてはいかがですか。

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2007年10月17日 (水)

ピーター・ラビット

「ピーター・ラビット」で有名な英国の女性絵本作家ベアトリクス・ポターの人生を描いた映画「ミス・ポター」が公開され、梅婆と二人で入間にあるシネマ・コンプレックスへ観にでかけました。

ベアトリクス・ポターが、人生の後半を送った、英国湖水地方、ウインダミア湖畔の「ヒルトップ農場」を、2002年に、英国を旅行した折に、梅婆と一緒に訪れたことがあり、あの美しい景色を、映画の大画面で再度観てみたいと思いついたからです。

ベアトリクス・ポターは、ロンドンの、遺産で裕福な生活を送る英国の上流階級の家に生まれましたが、子供の頃避暑で訪れた湖水地方の別荘で、自然や動物に接したことがきっかけで、あの「ピーター・ラビット」をはじめ、沢山のかわいらしい洋服をまとった動物達を主人公にした絵本を描きました。最初は、出版社の評価が得られず、苦労しましたが、出版されるや、たちまち世界的な大ベストセラーになり、現在までに、総出版数は1億冊以上に達しています。世界中の子供達に、大きな影響を与えた功績は、計り知れません。

印税で得た多額のお金を元に、湖水地方に農場や広大な農地(4000エーカー)を購入し、人生の後半はロンドンを離れ、自然の中で過ごしました。彼女は、40歳後半で結婚しましたが、子供はなく、遺産は、英国政府に寄付され、今もその姿のままに残されています。

あのような優しい絵を描く女性ですから、人柄は想像できますが、映画の主人公の人柄も、梅爺の想像とおりで、満足しました。「階級意識」や「男性優先」の考え方が残っている、英国の「古きよき時代」が、見事なキャスティングとともに再現されていますが、何よりも、英国の映画らしく、そこここに、上品なユーモアがちりばめられていて、梅爺は大いに堪能しました。

60歳以上の特権として、1000円で、ゆったり映画を観ることができるのも、大変ありがたい話です。

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2007年10月16日 (火)

地上波デジタルテレビ(3)

我が家に、2台のハイビジョン対応テレビがあるのは、1台は梅爺用、もう1台は梅婆用と分けているからです。元々、1台でしたが、梅爺が現役引退後、そのチャンネルを独占してしまうのが、梅婆には、「大きなストレス」であることを知り、慌てて1台買い増しました。どちらかが妥協をして、夫婦仲良く同じ番組を観るというのも、老後の智恵の一つであろうと思いますが、我が家の場合は、「無理して我慢しない」方法を採用しました。おかげで、梅爺は、心置きなく「スポーツ番組」「ドキュメンタリー番組」「ニュース」などを楽しんでいます。

我が家のテレビ環境を「地デジ」対応させるするために、近所の大型電気店へ出向いて、専用アンテナを設置した場合、受信可能かどうかを確認するために、電波強度を測定してくれないかと頼んでみました。我が家は、青梅市なので、東京タワーからの距離があり、心配であったためです。店員は困惑したようで、「アンテナを立ててみないと分からない。電波が弱ければブースターで補強する」とあやふやに答えました。測定器を持っていないか、方法を知らないかのどちらかと考え、店員との議論はやめにしました。

そのようなことがあって、どうしようかと迷っていましたら、地域のケーブル・テレビ会社から、「デジタル放送サービス開始」のチラシが入りましたので、早速、担当者に来てもらい、条件を確認しました。こちらは、さすがにプロで、梅爺の技術的な質問に全て的確に答えてもらえました。主要なスポーツ専門チャンネル(CS放送)が、基本そービスに含まれているというのも気に入りました。

早速工事をお願いし、我が家は、「地デジ」にも対応した、豪華なテレビ受信環境に変身しました。複数のテレビに信号を芋ずる配信するために、ブースターも取り付けてもらいましたので、従来よりも鮮明な画像がどのテレビからも楽しめるようになりました。

ケーブルテレビ専用のセットトップボックス用のリモコンが、また一つ増えてしまいましたが、梅爺は、複数のリモコンを器用に操りながら、ご機嫌で、好きなスポーツ番組を、観漁っています。

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2007年10月15日 (月)

地上波デジタルテレビ(2)

どこの国の言葉でも、長い単語は、短縮語にして、伝達の効率を上げることが行われます。「地上波デジタルテレビ(放送)」も、日本では「地デジ」と略され、表現されるようになりました。

日本人は、特に新しい「短縮語」を作るのが好きで、新しいものが出回り始めると、それを知らないことは、世間から取り残されるという恐怖感に襲われるのかのように、皆が自慢げに、それを口にするようになります。

「地デジ」「パソコン(パーソナル・コンピュータ)」「ワープロ(ワード・プロセッサー)」など、日本語の美感としては、あまり感心できる言葉ではないように思いますが、「伝達効率」には勝てないということなのでしょう。

日本人は、「短縮語」だけでなく、「新語」にも極めて敏感です。これも、それを知らないことで時代遅れと思われることを恐れるように、皆がすぐ口にしだします。「マルチメディア時代の到来」「ユビキタス社会の実現」などと、もっともらしく使われますが、「マルチメディア」「ユビキタス」の本質を正しく理解し、説明できる人は少ないのではないでしょうか。

新しい言葉に、なにか新しい魅力的な概念がありそうだと、敏感に対応する能力は、鈍感であるより好ましいことではありますが、本質の理解がないまま、言葉だけが独り歩きしてしまうのは、滑稽であったり、時に危険なことでもあります。

大正時代に、日本を訪れた米国の哲学者、ジョン・ヂューイは、「日本人は、我知り顔でデモクラシーという言葉を使うけれども、デモクラシーの本質はほとんど理解していない」と述べています。日本人は、言葉の理解と対応に関して、それ以来あまり進歩していないことが分かります。

話が脱線してしまいましたので、本題の「地デジ」に戻します。

我が家のテレビ受信環境は、今まで、「地上波アナログ放送」と「BS/CS衛星デジタル放送」だけでしたので、そろそろ「地デジ」対応も考えようかと思い立ちました。「地デジ」を体験しないで、死んでしまうのも癪な話だと、頭の隅で考えたのかもしれません。「地デジ」は、放送局の認可条件として、放送の50%は「ハイビジョン放送」が総務省から義務付けられています。我が家に2台ある「ハイビジョン対応可能なテレビ受像機」を、BS衛星デジタルだけでなく、「地デジ」でも有効活用しようと考えたからです。

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2007年10月14日 (日)

地上波デジタルテレビ(1)

2011年には、地上波アナログテレビの放送が無くなり、全て地上波デジタルテレビに代わるので、注意してください、協力してください、と総務省がテレビコマーシャルまで動員して国民に呼びかけています。本来は、国民や放送関係者に多大な出費を強いてまで、何故デジタル放送に代えなければいけないかという理由を、国民に説明するのが先のように思いますが、そうせずに、「協力だけを要請」するのは、いかにも公私の意味をわきまえない「官」のやりかたで、梅爺は不満です(最近のコマーシャルでは、少しだけ「説明」らしいものが挿入されるようになりましたが、まだ不十分)。

梅爺は、現役の頃、会社の代表で総務省のいくつかの委員会のメンバーでもありましたので、「アナログ放送からデジタル放送への切り替えの必要性」については、幸い理解できる立場にありました。ただ、梅爺の会社は、放送局の設備や、一般家庭向きのテレビ受像機を製造・販売している会社でもありましたので、ビジネスとしては、千載一遇のチャンスであることも明白で、立場は微妙でもありました。

切り替えの本当の理由は、日本で利用できる無線波の領域の中で、地上波アナログテレビ放送が占めている部分が大きく、このままにしておくと、将来増大が予想される新しい無線応用システムに対して、無線波帯域の割り当てが困難になるからです。効率の良いデジタル放送に代えて、将来の無線応用システムのために領域確保をしておこうというのが狙いです。ユビキタス・ネットワーク社会で世界の先進国を目指す日本としては、「将来の健康的な生活のために、今大変でも手術をしておこう」と総務省は考えたわけです。

社会インフラの一つである放送の技術基盤を変えるのは、国家の大事業であり、当然、「利点」と「弊害」があります。最大の弊害は、切り替え時に多大なコストが発生することです。放送設備、通信設備への再投資は放送関係業者に大きな負担ですし、国民も、テレビ受像機や専用チューナー、アンテナなどを新規購入しなければなりません。

それでなくても、経営が苦しい地方の民放テレビ局などには、この負担は過大なものですが、アナログ放送の利権をデジタル放送でも引き継げるという条件と、「国家の将来」のために、国の方針に従いました。狭い日本で、従来県単位に民放設立が許可されてきた(利権が与えられてきた)ことの良し悪しは、また別議論です。どの程度のコミュニティの規模に、専門の放送局が必要かは、経済性も含めて判断がやさしくありません。技術論だけなら、地上波デジタル放送ではなく、地方局も全て「衛星デジタル放送」利用に切り替えるという案も論理的には存在します。こうすれば、鹿児島の人も北海道の放送を観たければ観る事が可能になります。しかし、総務省は「地上波方式」を採用して、「県単位の放送行政」だけは継承しました。

確かに、デジタル放送は、画質(ハイビジョン対応など)、音質もよく、データ放送も可能などと、利点は多いのですが、利点を述べるだけで国民を説得せず、「国の将来のための施策」であることを、正々堂々と主張して、国民の理解を求めるべきではないかと、梅爺は思います。

多数の国民は、「そういうことなら分かりました」と納得するのではないでしょうか。そうでないと、「現状のテレビで、何の支障も無い。どうして高価な受像機を買い換えなければいけないのか」と、不満がくすぶることになりかねません。耳障りの良いことだけを説明して、ごまかそうとしても、うまくいかないことを、「官」や政治家は、そろそろ気づくべきです。

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2007年10月13日 (土)

価値観の相克(2)

ブータンは、今まで「ローカルな価値観」と「グローバルな価値観」のバランスを、極端なまでに「ローカルな価値観」寄りで保ってきた事例です。それを維持するために、専制的な王政を採用してきましたが、これは、北朝鮮の恐怖政治による独裁政治とは全く異なっています。

「おとさん」は、北朝鮮で国民にアンケートをとれば、100%「幸せです」と答えるであろうと、皮肉っておられるように、北朝鮮の場合は、そう答えないと「身に危険が及ぶ」からで、脱北者の多さから見ても、国民の多くの本心ではないことは明白です。

一方、ブータンは、本当に97%の人が「幸せです」と感じてきたわけですから、「外の世界との比較」という要素が無ければ、人間は、自分が属するコミュニティの中で、精神的な豊かさの価値を重要視して、「幸せ」と感ずることができることを示しています。

日本は、周囲に関する情報であふれかえっている社会ですから、誰でも物質的な豊かさの存在を実感でき、自分と他人の豊かさの違いも、知りえる状況にあります。物質的に持てるものが少ない人が、自分を惨めに思い、幸せでないと感じはじめると、切の無い話になります。物質的には、日本の大半の人がブータンの人より豊かであっても、「幸せです」と答える人が、少ないことになります。

ところが、人間は良くできていて、多くの人は「物質的な豊かさ」だけが、「幸せ」の根源ではなく、「精神的な豊かさ」も重要であることを知っています。

コミュニティが、「ローカルな価値観」と「グローバルな価値観」のバランスをどうするかという選択を迫られるように、個人も「物質的な豊かさ」と「精神的な豊かさ」のバランスをどうするかという選択を迫られる時代になりました。

金儲けの才覚があまりない梅爺は、生きるために必要な「物質的な豊かさ」があれば、それで感謝して、それ以上を求めず、できれば「心の豊かさ」を重視していきたいと、自分に言い聞かせています。もし、金儲けの才覚に恵まれていたら、違うことを言っていたかもしれません。

「幸せ」は相対的なもので、自分で「幸せ」かどうかを決めることができますから、大切なものですが、見方によっては、いい加減なものでもあります。

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2007年10月12日 (金)

価値観の相克(1)

「独裁政治で何が悪い?」というブログで、王様による専制政治から、王様自身の決断で「民主主義国家」へ変貌しようと模索中のブータンについて紹介しましたら、「おとさん」から、最近読まれた「The Lexus and the Olive Tree (Thomas L. Friedman)」という本を参照されたコメントをいただきました。

革命で、王政が打倒された事例は歴史に沢山ありますが、王様自身が王位を退位し、民主国家へ移行することを宣言した事例は、あまり聞いたことがありませんし、その上、民衆が「民主主義」への移行はしないで欲しいと王様へ陳情しているという話も、「民主主義」は良いもの、と教え込まれてきた日本人には、狐につままれたような話です。

ブータンは、コミュニティとして、ローカルな価値観を重視するのか、グローバルな価値観を重視するのかという、難しい課題に挑戦している、典型的な事例です。この異なった二つ価値観と対応は、ブータンだけではなく、21世紀の人類が共通に抱える問題であることを指摘したのが、ピューリッツァー賞を受賞したアメリカの有名なジャーナリスト、フリードマンです。彼の著作の「The Lexus and the Olive Tree」の「The Lexus」は、グローバルな価値観の象徴(トヨタの高級車名)で、「The Olive Tree」はローカルな価値観の象徴です。日本流に言えば「超高級マンションと鎮守の杜」というところでしょうか。梅爺も、前にこの本を読んで、彼の洞察力、分析力に感心しました。

ローカルな価値観は、人間の精神活動(特に宗教やしきたり)に根ざしたものである場合が多く、グローバルな価値観は、人間のあくなき物欲に関係していますので、経済活動に根ざしている場合が多いことになります。

「あくなき物欲」は、他人との比較で問題になりますので、インターネットやテレビ等で、「他人のレベル」が分かってしまうと、途端に自分を惨めに感じたり、他人を羨むことになります。情報化社会が、グローバルな価値観と、ローカルな価値観の相克を助長していることになります。

時には、グローバルな価値観の浸透は、ローカルな価値観へ対する「許しがたい挑戦」であると考える人たちも現れ、戦争やテロへ発展する不幸な事態になります。

二つの価値観をどのようにバランスさせるかは、そのコミュニティの選択事項であって、二者択一の議論ではありません。

日本人は、世界の中では、かなりバランス感覚に優れた民族であるように思いますが、最近、「自分本位な言動を恥じない」人たちが、増えているところを見ると、「物欲」が、「周囲への思いやり」といった古来の習慣を駆逐しているようで心配です。日本人の智恵とバランス感覚で、「物欲一辺倒」の考えを押し戻す方向へ社会が動くようにと願っています。

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2007年10月11日 (木)

The God Delusion(6)

「The God Delusion」の著者は、無神論者ですから、今となっては、「神という概念が無い社会の方が健全」という主張になります。しかし、2000年近くの歴史を持ち、人間社会に広く浸透している考え方が、容易には覆らない現実も理解していますので、一人でも多くの人が「自ら目覚める」ことを期待してこの本を出版したのでしょう。

しかし、梅爺は、「神の概念」の排除だけで、健全な社会が実現できるとは思いません。人間は、自分の考えや行動を受け容れない相手を、忌避し、切羽詰れば抹殺しようとする、恐ろしい習性をもった生物です。宗教の対立は、この基本的な習性が顕在化している典型的な例にすぎません。最悪の結果を招かないためには、そういう習性を持っていることを自覚した上で、「考え方の異なった他人」と共存するための方法論を模索し、それを身に着けるための訓練を重ねる必要があります。幸い、人にはそれを実現する「智恵」も備わっているように思います。宗教の有無とは関係なく、ヒトは、「良い心」と「悪い心」の両面を保有する矛盾した存在です。宗教だけを悪者にしてみても、問題は解決しないように思います。

有神論者が無神論者に反論する時の言い分は、「神が存在しなければ、この世はモラルのない邪悪だけが支配するものになる」と、「人の心の悩みを救うものがなくなり、人の心は悲惨なものになる」の二つです。

前者の言い分の「神」が、キリスト教の「神」だとすると、フランシスコ・ザビエルが渡来する前の日本人は、「神」を知らなかったわけですから、日本はそれ以前は「邪悪だけが支配する社会」であったことになり、どうもピンときません。「万葉集」「枕草子」「徒然草」などに表現された、日本人の美しい自然観やすばらしい人生観は、「神」を知らずに生み出されているからです。

後者の「心の悩みを救う手段」という意味では、確かに「神」は大きな役割を果たしてきたことは否定できません。「心の悩み」の正体が、解明されていないために、「神の愛」や「仏の慈悲」が必要とされてきました。悩みの根源である「煩悩」も煎じつめると、ヒトの脳に「抽象概念」と「論理思考(特に推論)」が生まれつき付与されていることに起因しているように思えますので、人間として生まれてきた以上「煩悩」が付きまとうという厄介な話になります。しかし、「煩悩」と「神」とは別の話です。

「煩悩」を軽減する方法として宗教のほかに、科学的な「精神医学」「心理学」などがありますが、「煩悩」を緩和する手段として、宗教に代わりうる存在になれるのかどうか、梅爺には、今のところ判断がつきません。仮に「神」は「妄想の産物」だと認めても、一方において「煩悩」に対応するためには「神のようなもの」が必要だという、一種の「矛盾」を、梅爺ばかりではなく、多くの人たちが感じながら生きているのではないでしょうか。

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2007年10月10日 (水)

The God Delusion(5)

旧約聖書を少しでも読めば、ユダヤ教の「神(後にキリスト教の神、イスラム教の神の母体となる)」は、ユダヤ民族の「守り神」に過ぎないことが分かります。モーゼの「十戒」は、ユダヤ民族という「In-Group」で、守るべきこととして提示されています。その証拠に、ユダヤ人ヨシュアが、異民族の都市ジェリコを攻め落とした時の、徹底殺害、略奪行為は、むしろ、誇らしげに聖書に記述されています。「殺すなかれ」「盗むなかれ」は、「In-Group」の戒律で「Out-Group」には、適用されていません。

歴史的に迫害され続けたユダヤ民族には、「救世主」願望があったことも、当然のことと思われます。文字とおり「ユダヤ民族の苦難を救済する」話でしたが、キリスト教の布教時に「人類を罪から救済する」という民族の垣根を越えた高尚な話に「救世主」の意味が変わりました。しかし、今度はキリスト教信者というコミュニティに「In-Group」の概念が変わり、「Out -Group」のイスラム教徒は、「殲滅」の対象になって、十字軍などが行った、殺戮、略奪行為は、「神のため」に正当化されました。宗教に付きまとう、この「In-Group」「Out-Group」の対立の矛盾した概念が、仏教には薄いように見えるのは、仏教の優れた資質の一つであろうと思います。仏陀は、「人は誰でも仏性を自分の中に保有しているので、それに近づく修行が大切」と説いたわけですから、外部に存在する「神」のために、「神」を信じないものは殺戮の対象とするという論理が生じません。

「The God Delusion」の著者は、宗教の持つ「良い面」と「悪い面」の内、現代社会では、「悪い面」の弊害が顕著になりつつあることを、強く懸念しています。テロなどの現在人類が抱える問題の根元に「宗教対立」があるのは、明白ですが、その他にも、「科学の発展の阻害要因」となることも懸念の対象にしています。

「良い面」と「悪い面」が、同じ基盤に根ざしているために、「悪い面」を除去することは、宗教全体の否定につながるという難問に直面します。「健全な宗教」と「偏った宗教」の区別は、簡単ではありません。

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2007年10月 9日 (火)

The God Delusion(4)

梅爺がブログに、頻繁に「神」の話題を載せるので、梅爺は「神」にやたらとこだわる「変な爺さん」に見えるかもしれません。しかし、こんな梅爺も、数年前までは、「神」については深刻に考えたりしたことがありませんでした。というより、どうせ結論がでない問題を考えてみても「時間の無駄」程度に、受け止めていたという方が正しいでしょう。

「神学論争」を、「小田原評定」の代名詞として揶揄し、こういう議論は、「自分は何故存在するのか」などという議論同様、青臭い書生がやるものと考えていました。

梅爺が、「神」に目覚めたのは、宗教への関心がきっかけではなく、「The Language Instinct (Steven Pinker)」という、人間の言語能力に関する本を読んだことがきっかけです。

ヒトの脳の素晴らしいところは、「抽象概念を把握する能力」と「推論など論理思考ができる能力」を保有していることで、この能力が「言語」を進化させる原動力になっていますが、梅爺がもっとも新鮮に感じたのは、これらの能力は、ヒトが生まれながらに「本能として保有している」というこの本の主張でした。

幼児が、きわめて短期間に、「言語能力」を獲得していく不思議なプロセスも、この「仮説」でなら説明がつきます。親は、状況に応じて断片的な対応しかしていない(体系的に「言語」を教えていない)のに、子供は、複雑な体系として理解していくのは、脳にそれを可能にし、受け容れるプログラムが予め埋め込まれていると考えざるを得ません。

現代のような科学知識がなかった時代に、ヒトは周囲に存在する「理解できない、得体の知れないもの(自然現象など)」に動物同様「恐れ」を感じ、「神」や「悪魔」といった「抽象概念」を創りだしていったのは、当然のように思います。さらに高度な推論で「あの世(天国と地獄)」や「霊」などの抽象概念も追加されていったのではないでしょうか。

宗教は、これらをもとに「思想体系」として成立し、代々継承されて現在に至ったものと考えられます。梅爺が宗教の歴史に関して問題と思うことは、脳の中の抽象概念を、「外界にも実在するもの」と主張し始めたことと、自分達が信奉する教義のみが「正しい」として、「異教徒」を迫害しはじめたことです。

ヒトの脳の優れた能力(抽象概念処理能力、論理思考能力)が、「神」という抽象概念を生み出したのではないかという「仮説」にたどりついて、梅爺は最初は戸惑いましたが、その視点で色々なことを検証してみると、かえって納得できる事の方が多いように感じ始めました。

梅爺が、「神」を論ずる爺さんに変身した経緯は、ヒトの脳の神秘を再認識したためです。

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2007年10月 8日 (月)

The God Delusion(3)

生物学者のリチャード・ドーキンスが、「神は妄想の産物」という説を唱えることができるのは、現代科学が獲得した「知識」を保有しているからです。旧約・新約聖書が書かれた時代の人たちが保有していた「科学知識」とは比べ物になりませんから、旧約聖書の天地創造の話、「神が7日間かけて創った。初日に光と闇を創生したことに始まり、6日目には神に似せて人を創って、7日目は休んだ」や、人間の始まりの話、「アダムとイブ」を、現代の宇宙理論、生物進化論で反論することは、科学の正当性を重視する限り、容易なことです。

しかし、ユダヤ教やキリスト教の一部の人たちは、こんな不利な状況の中でも、頑なに「聖書の記述が正しく、現代科学の知識は間違い」とがんばるわけですから、梅爺は畏れ入るばかりです。

このような現代科学知識をヒトが獲得したのは、ヒトの歴史の中では「ごく最近」のことですから、科学的論理思考に優れていた、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ニュートンが、その時代の「知識」を駆使して、キリスト教をどう理解するかで、迷い、悩んだのではないかと梅爺は想像します。

ダ・ヴィンチが、カソリックを正統なキリスト教の継承者ではないと「疑っていた」ことを示す色々な史実がある(教義が形成された過程を問題にしていたのであって、神の存在までも疑っていたわけではない)ために、「ダ・ヴィンチ・コード」のような小説が生まれるのでしょう。

ニュートンは、敬虔なキリスト教信者でもありましたので、「聖書に書かれていることが正しいことを、科学的・論理的に証明しようと試みた」と伝えられています。これは、現代人からみれば、「信仰」と「理性的な思考」の矛盾を、なんとか自分なりに解消しようとした「涙ぐましい努力」に思えます。

アインシュタインは、聖書に記述された神は信じていなかったと思われますが、「宇宙は、人間が未だ全てを理解できていない、何らかの摂理(ルール)で動かされていると感ずる(信じる)」というようなことを言っています。アインシュタインほどの能力は持ち合わせていませんが、梅爺も、この考え方には同感です。したがって、この「宇宙の摂理」を仮に「神」と呼ぶのであれば、梅爺は「神」の存在を否定できないと、前にブログに書きましたし、今でもそう思っています。

言うまでもありませんが、この場合の「神」は、キリスト教や聖書が教える「神」とは、全く異なります。「宇宙の摂理」の中で、人間は生を営んで(生まれたり死んだり)いますが、「宇宙の摂理」は、残念ながら冷徹なもので、必ずしも人間に都合が良いものとは言えない場合もあると感じています。人間には過酷な天災も、「摂理」がもたらすもので、「摂理」は人間だけをを愛してくれたり、天国へ導いたりはしてくれるものではなさそうです。

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2007年10月 7日 (日)

The God Delusion(2)

この本のタイトルに使われている「Delusion」は、日本語に訳せば「妄想」というような強い意味が込められています。似たような言葉「Illusion」が、「幻想」と訳され、こちらは誰もがウッカリ勘違いするようなことに対応するのに対して、「Delusion」は、「特定の個人の強い思い込み」ということになります。

したがって、この本のタイトルを日本語に訳せば「神は妄想の産物」という刺激的な表現になります。梅爺のように、「これは面白そう」と飛びつく人と、タイトルを見ただけで「胡散臭い」と考えたり、「不謹慎で、けしからん」と怒って敬遠する人に分かれるものと思います。

まず、誤解が生じないように申し上げれば、この本で「神」として議論の対象にしいるのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「神」であって、特に「旧約、新約聖書」の内容を絶対正しいとするキリスト教の立場に批判が向けられています。「宗教史観」と「科学史観」の対立にご興味のある方は、お読みになって損の無い一冊です。

著者のリチャード・ドーキンスは、ダーウィンの進化論を支持する生物学者ですが、多分典型的な英国のインテリではないかと梅爺は想像しました。扇情的な言葉で、自分と対立する考えを糾弾するのではなく、きわめて抑制の効いた、思慮の行き届いた表現で、自分の論理を展開していくところが気に入りました。もっとも、英語の表現も難解で、小説を読むような速さでは読めませんでした。「神」は、人の脳の中に存在するだけの抽象概念という基本主張も、梅爺と同じで、大いに意を強くしました。

欧米の学者や知識人を対象に行ったアンケートでは、90%以上の人たちが、「本心では神(キリスト教の神)の存在を受け容れていない」ということらしいですので、梅爺も「そうだろうなぁ」と納得しました。理性や論理で物事を考え、判断しようという人たちは、「宗教」からすると厄介な存在に違いありません。

一方、「聖書に書かれていることは全て正しい」と今でも無条件に信じている人たちも、欧米には予想以上に多くいることを知って、梅爺は少し驚きました。聖書の内容には、現代にも通用するものと、昔の人が、その時代の認識で書いたものがあるので、この程度の誤謬はあってもしかたがないというものが、混在していると梅爺は柔軟に考えてしまいますが、そういう都合のよい解釈は「信者」には許されないということなのでしょう。

規範として聖書が信仰のよりどころであるという主張は理解できますが、内容の全てを絶対正しいものとして信じなければいけない、という考え方は、梅爺には受け入れ難いものです。

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2007年10月 6日 (土)

The God Delusion(1)

梅爺は、この本を読んだことをブログに書こうか書くまいか、少し迷いました。英国の生物学者のリチャード・ドーキンスが書いた「The God Delusion」という本です。

「神」「霊」「仏」など、宗教にかかわる話題をブログに、かなりの頻度で書いてきましたが、そのたびに家内(梅婆)から、「そういう話題は、親しい友人さえも失うことになりかねないのでおやめなさい。触らぬ神にたたりなし、と言うでしょう」とたしなめられてきたからです。

梅爺は、一貫して「神」「霊」「仏」といった抽象概念は、ヒトの脳が生み出したもので、ヒトの脳の中にだけ存在し、ヒトの脳の外に「実体」として存在するものではない、という「仮説」を言い続けてきたからです。言い換えると、「生きているヒト」の脳の中に「神」という抽象概念が存在することと、その存在意義は認めています。

梅爺のような「仮説」を説く人は、一般に「無神論者」と看做され、永い人間の歴史の中で、社会に確固たる地位を確立している「宗教」を信奉する人たちから見ると、不愉快な存在(モラルや人としての思いやりをまで欠く冷たい人間と思われ)であり、通常は「きわめて有害で、社会に害毒を流す存在」として、糾弾され、時代によっては、「異端者」として処刑されたりしてきました。

しかし、梅爺は、「蟷螂(とうろう)の斧」のような「仮説」を振りかざして、世の中の「宗教」と対決しようなどと、大それたことは何も考えておらず、きわめてちっぽけな自分の理性で考えてみると、この「仮説」の方が、自分には納得できる面が多いと考えているに過ぎません。つまり、誰かや何かをを非難したりするためではなく、純粋に自分の問題として、不謹慎な言い方かもしれませんが個人的な「哲学思考」を楽しんでいるとも言えます。

その証拠に、梅爺は宗教のしきたりに則った「冠婚葬祭」や「墓参」には出かけますし、その宗教の作法にかなった対応も心得ています。「考え」と「行動」が一致しないのは、けしからんとお叱りを受けるかもしれませんが、梅爺の「考え」はあくまでも仮説であって、他の「考え」の存在を承知の上で比較しているだけですから、今後この仮説がどういうことになっていくのかには関心がありますが、自分の仮説に殉じて、他の「考え」を排斥して、孤高な人生を送ろうなどとは、あまり考えません。この件に関しては、無節操な「ノンポリ」と言われてもしかたがありません。

肝心な「The God Delusion」という本の話は、次回以降に書きます。

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2007年10月 5日 (金)

独裁国家で何が悪い?(3)

この番組では、旧ソ連のゴルバチョフ首相、アメリカのキッシンジャー元国務長官、フィリピンのアキノ元大統領、ペルーのフジモリ元大統領などへのインタビュー(日本をどう見ているか、リーダーに必要な資質は何だと思うかなど)した内容も紹介されました。

「リーダーに必要な資質」に関しては、多くの人が、「将来へのビジョンを持ち、それを分かりやすく説明する能力」を挙げました。キッシンジャーは、「知性」と「分析力」を挙げましたが、その発言にはあまり「元気」がありませんでした。自国の現大統領は、「知性」と「分析力」を持ち合わせていないことへの「後ろめたさ」があったのかもしれません。梅爺は、これ以外にも「私利私欲を優先しない理性」が必要と思いますが、誰もそれには触れませんでした。「言うまでもないこと」なのかもしれません。

番組の最後に、中曽根元首相と石原都知事が同席したインタビューがあり、中曽根元首相は、日本の政治リーダーに一番求められるものは「愛国心」で、日本は「もっと大国らしく振舞うべき」と発言していました。中曽根元首相が、どのような意味で「愛国心」や「大国」という言葉を使われたのかを、詳細に理解しないといけませんが、梅爺は、少々「ステレオタイプ」な考え方ではないかと、気になりました。

外交にとって、国益を守るための「ディベート(立場を主張しあう)」は、重要な手段で、時に「タフ・ネゴシエーション(強腰姿勢)」も必要ですが、「国益」を近視眼的だけでとらえない考え方も重要ではないでしょうか。目の前の「国益」だけにとらわれず、国際社会へ日本が貢献することが、めぐりめぐって日本の本当の国益になるという、考え方が今求められているように、梅爺は感じています。

経済的には、日本は押しも押されぬ「大国」ですが、それだけで、「大国らしく振舞う」と、世界の各国から、「成金の鼻持ちならぬ国」と、嫌われる恐れがあります。「大国」より世界から「立派な国」と尊敬を受けるために、日本人はどうしなければならないのかが課題です。日本が「大国」であることを、心から受け容れてくれる他国は、多くはありません。

国も個人も、「金を持っていること」だけでは、「尊敬」の対象にはなりません。

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2007年10月 4日 (木)

独裁国家で何が悪い?(2)

この番組は、「独裁国家」を礼賛することではなく、日本の「民主主義」を見直すためということでした。確かに、日本の「民主主義」は、形式は整っていますが、内容は多くの問題を抱えていることは、誰もが「感じて」います。

ビートたけしが、「100人中、51人がバカなら、民主主義はどうなるのか」と発言して、梅爺は笑ってしまいましたが、これは、「一人の賢人と99人のバカなら独裁が良い」というのと同じレトリックで、単なる論理のための論理に過ぎません。ただ、民主主義は、国民が、全員ある程度の良識と見識を備えていることを前提としていることは、確かです。その意味で、日本の民主主義が成熟していない責任は、政治家だけではなく、国民にもあります。

ブータンの王様は、多分仏教の教えが背景にあるためと思いますが、「独裁者」としては、異例の存在です。自分の存在が国民のためにならないと、判断する事自体が、「独裁者」ではないことを証明しています。北朝鮮の金正日に、ブータンの王様のつめの垢でも煎じて飲ませてあげたいところです。ただ、歴史は、「独裁者」はやがては排除されることを繰り返してきましたので、北朝鮮も例外ではないでしょう。いつ、どのような状況で排除されるのかは、今のところ不明ですが、「それが、いつか起きる」ことは、間違いないでしょう。「独裁者」の最大の欠点は、恐怖政治を強いることです。

現在の日本の「民主主義」体制の中で、国民に、日本の将来ビジョンを提示し、国民の多くの指示を受けて、それを実行に移せるリーダーが、現れるようには、思えません。現状は、内外で発生する問題を対症療法的に、受身で処理しているに過ぎないように思えます。このような場当たり政治で、日本が望ましい国になっていくとは、到底考えられません。

人間はだれでも個人レベルでは欠点を持ち合わせていますので、その部分だけを取り上げれば、誰でも非難の対象になります。「独裁者」ではない、「真の理想的なリーダー」を求めることが、無理難題なのかもしれません。

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2007年10月 3日 (水)

独裁国家で何が悪い?(1)

9月29日に、ビートたけしが司会する「独裁国家で何が悪い?」というバラエティ風特別番組があり、普段この種の番組を観ない梅爺も、製作者側のネーミング戦略にコロリと騙され、つい観てしまいました。

日本人の多くは、「独裁国家」というと、日本へ向けてミサイルを撃ち込みかねない北朝鮮を思い浮かべます。勿論、番組では北朝鮮や金正日に関わる話題もありましたが、現在世界に存在する、その他の「独裁国家(トルクメニスタン、スワジランド、キューバ、リビア、ブータン)」が、現地取材内容も含めて紹介されました。

梅爺が、特に興味をそそられたのは、少し前に「化身認定委員会」というブログで触れた仏教国ブータンでした。この番組で知った程度のことでも、ブータンの現状について知っていれば、「化身認定委員会」の内容も、少し違っていたかもしれません。「知らずにものを言う」ことを、少し恥じました。

ブータンは、ごく最近まで「鎖国」を守っていた国で、賢い王様によって統治されてきました。欧米や日本が、GNP(Gross National Product:国民総生産)の多寡を競い合っている時に、賢い王様は、GNH(Gross National Happiness:国民総幸福度)を国の指標と定めました。人は物的な裕福さだけでは幸せにならないことを見通した、すばらしい発想と言えます。この結果、国民の97%までが、「自分は幸せである」とアンケートに答えるような国になりました。「鎖国」によって、「外」との比較ができないためとはいえ、驚異的な数字です。

しかし、王様は、ブータンが世界の中で取り残されることを案じて、「鎖国」の緩和と、2008年には、自分が王位を退き、ブータンを民主主義制度の国家にすることを宣言しました。

「鎖国」の緩和は、具体的には、インターネットとテレビの解禁です。この解禁にあたり、王様は「良いことと、悪いことがもたらされる可能性があるので、注意して対応するように」と国民に訴えました。しかし、王様が案じたとおり、「外の世界」を知ってしまった国民、特に若者や子供は、ディスコに群がったり、闘争型のテレビゲームに熱中したりするようになり、GNHの考え方に、大きな変化が生じました。老人層は、「何とか民主主義への移行を断念して欲しい」と王様に、陳情していますが、今のところ、王様は予定とおりに、退任する意志を変えていません。

人間の社会で、物的な豊かさと、心の豊かさを、同時に求めることがいかに難しいかということを思い知らされました。二者択一ではないとしても、どのようなバランスが可能なのか、梅爺の興味は尽きません。

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2007年10月 2日 (火)

繰り返し表現

梅爺は、英語の本を読んでいて、日本語にある「(雨が)パラパラ(降る)」「(雨が)ザアザア(降る)」というような、擬音または感覚的擬音を繰り返して、状態表現する副詞が、英語には無いのは、何故だろうかと「常々」(これもまた繰り返し表現)不思議に思っていました。

繰り返し表現の副詞句を利用する日本語の方が、単純ながら表現が豊かになり、言語としては「頭が良い」方法のように感じますが、この相違の奥には、もっと深遠な意味があるようにも感じます。

梅爺は、言語学の素養は全く無いので、無鉄砲かもしれませんが、以下のように想像しました。当たっているのかどうか自信はありません。

日本語では、例えば「泣く」を、「シクシク泣く」「ワーワー泣く」と表現する場合、「泣く」という「同じ概念」の上に、「程度の違い」として表現しています。

一方英語では、「泣く」には、「cry」「weep」「sob」など、異なった単語が対応しますので、それぞれの単語に対応する「異なった概念」として捉えているように見えます。

日本語は、「何故泣くことになったのか」「どういう心情で泣いているのか」とは無関係に、外面的な状態を程度の違いとして表現していますが、英語の場合は、背景の要因や心情までも加味して、それぞれを異なった「概念」として捉えているのかもしれないと想像しました。もし、そうなら、日本語の方が「頭が良い」などとは、単純には言えませんし、日本人が英語を学ぶ難しさが更に倍加します。

英語は、そのような難しい話ではなく、ただ単に外来語の寄せ集め言語なので、同じ意味の言葉が数種類存在しているだけなのかもしれません。

日本語の場合も、日本人独特の発想ではなく、「粛々と進める」「早々に実現する」「淡々と対応する」など、元々中国語の表現様式を、マネして取り入れたのが起源ではないかと思います。

どなたか、言語に詳しい方で、「本当の背景」をご存知の方に、ご教示いただければ、幸甚です。

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2007年10月 1日 (月)

狂気と正気(2)

一握りの人たちの「狂気」に、民衆が扇動されて、取り返しのつかない歴史を作ってしまう例を、私達は、いくつか見てきました。ヒトラーのナチズムや、毛沢東の文化大革命などがそれです。

民衆は、最初「狂気」を「狂気」と判断できず、むしろ「正気」として受け入れたものと思われますので、民衆の智恵は、常に正しいものとして作用するとは限らない、危うい要素を含んでいることが分かります。

しかし、民衆の支持のもとに、一度「狂気」のリーダーが権力を把握すると、今度はその権力を維持するために、恐怖政治による専制体制を敷き、その時点で「狂気」に気づいた民衆も、自分の身を守るために、その体制に服従せざるを得なくなり、また一部の人たちは、むしろ権力者におもねることで、体制内の高い地位を得る誘惑に負けて、積極的に加担することになります。

ニュルンベルグ裁判の記録ドキュメンタリーなどを、今観てみると、戦犯の供述から、ナチズムを本当に信奉していた人たち、つまり自分の「狂気」を最後まで「狂気」と考えていなかった人たちと、どこかの時点から「何かおかしい」と感じながら、身の安全、出世のために、ヒトラーに従った人たちに分かれます。

文化大革命では、最後まで「狂気」を貫こうとした「4人組」が、大きな代償を払った後に「狂気」に気づいた民衆によって、排除されます。一度踊らされた民衆が、「正気」に戻って自ら修正の方向に動くという例は、珍しいケースのように思います。その分、中国の人たちは、つらい代償を払って獲得した「教訓」ですので、当分その反動として、簡単にカリスマ的なリーダーに盲従する可能性は、きわめて低いのではないでしょうか。何度も失脚しながら、不死鳥のように蘇った鄧小平は、「正気」のシンボルです。

日本が、太平洋戦争へ突き進んだ過程は、一握りのリーダーの「狂気」に踊らされたというような、単純な話ではないと梅爺は考えています。梅爺は、あの戦争を肯定するつもりはありませんが、現実には非常に複雑な要因が絡む問題を、単純に図式化してで論ずることは、誤認につながるように感じます。

「狂気」は、国家だけの問題ではなく、会社の経営にも存在します。保身や出世のために、「なんとなく、おかしい」と感じながら従ったという例は、サラリーマンなら、多かれ少なかれ誰もが体験していることではないでしょうか。

「狂気」と「正気」の問題は、私達の周囲に、どこにでも存在する、厄介なものです。

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