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2007年8月31日 (金)

特許(2)

梅爺もエンジニアの端くれでありましたので、若い頃は、会社の奨励策もあり、「特許」を沢山出願する努力をしていました。

ある時、会社の特許担当者から、「あなたの特許が、当たって、会社に特許料が沢山支払われるようになりました」という連絡があり、梅爺は、色々思い巡らせて、「きっと、あの特許が当たったに違いない」と予測しました。しかし、実際に「当たった」特許は、梅爺が出願したことさえも忘れていた内容のものでした。

実際には、半導体チップを埋め込んだICカード(クレジットカードや銀行カード、最近では改札で使われるプレペイカードなど)に関する特許で、「半導体チップを、カードの中央ではなく、端に埋め込む」という内容のものでした。

カードの中央は、カードがしなった時などに応力が一番かかる場所ですので、半導体や周辺の回路が破壊される可能性が高いと考え、「応力を受けにくいカードの端に埋め込む」という、機械屋としてはごく当たり前の発想をしただけです。

海外から日本市場へ参入したカード会社が、この特許に抵触したため、梅爺が勤務していた会社には、年間数億円の特許料が入ってくることになりました。個人の特許であれば、梅爺は億万長者になって、左団扇の生活を送るようになったのかもしれませんが、サラリーマンの特許は、契約で会社のもの(発明者の名前だけは名誉として残ります)ですので、梅爺は、会社から、そこそこの「特別報奨金」をいただいただけでした。

梅爺のこの特許の例は、自分でも出願したことを忘れていた程度のアイデア特許で、苦心惨憺の末に生み出したものではありませんから、梅爺は「幸運であった」にほかなりません。念のために申し上げれば、この結果だけを鼻にかけて、「特許なんて所詮チョロイもの」と、甘く考えたりはしていません。

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2007年8月30日 (木)

特許(1)

特許制度というのは、現代社会では「常識」のようなもので、当たり前のものとして私達は受け容れていますが、最初にこの制度を生み出したのは、どの国だろうかと興味が湧きました。

「発明者個人」の権利を認めるということですから、「個人主義」や「民主主義」の考え方があるのだろうと推測し、残念ながらアジアの国家ではなく、そのような考え方に古い歴史を有するヨーロッパの国であろうと考え、イギリスかなと推測しました。

インターネットで調べてきると、意外なことに、1474年にイタリアのベネチア共和国が、歴史上成文として残る最初の国家であることが分かりました。梅爺の先入観で、イタリアが念頭に浮かばなかったことで、イタリア人に大変失礼なことをしてしまいました。

「特殊な技術やアイデアに裏づけされた優れた商品」の権利は、政治権力者(王様、殿様)の専有であったことは、ヨーロッパ、中国、日本の歴史を見れば、沢山の事例があります。マイセンの磁気や、日本の「藩」の焼き物などもそれに該当します。

商業国家のベネチア共和国で、最初の「特許制度」ができたのは、個人の権利を尊重したのではなく、実質的に政治権力者以上の力を保有していた商人へ権利を与えたものではないかと、梅爺は想像しました。間違っているかもしれません。

個人の権利として認めたのは、やはりイギリスが最初で、「特許」は1624年(ジェームス一世時代)、「著作権」は1710年(アン王女時代)であることが分かりました。梅爺の直感力も、まあまあです。

日本も、まんざら遅れているわけではなく、1721年(享保6年)に幕府が「新規御法度」を発令し、菓子や着物の他人のアイデアを真似て、少し変えて商品化することを禁じています。「楽して儲けるスタイル」が、儒教の精神に反するものと考えられたのか、幕府の利権が裏側にあったのか梅爺はわかりません。

「特許」や「著作権」に、過剰な権利を与えることは、人間社会の発展には良くないという意見もありますが、個人の能力や優れたアイデアを、権利として認めるという考え方は、基本的には意味があると梅爺は考えています。

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2007年8月29日 (水)

テレマティクス(Telematics)(2)

自動車の制御にかかわる情報システムを、マイクロコンピュータの数を統合して減らしたりして、整然としたシステムに改良することは、主として、「コスト削減」の目的で行われようとしていますが、車は、人命にかかわる道具なので、「安全性」に十分配慮が必要になります。システムの一部が故障しても、代替機能でバックアップするような、専門的には「フェール・セーフ」、「フォールト・トレランス」と呼ばれる、多重系のシステム構成が必要になりますし、センサーが異常を検出してから、実際の処理が行われるまでの時間も迅速でなければなりません。専門的には、リアルタイム処理と多重系処理が並存するきわめて高度なシステム技術が要求されます。パソコンのように、「不正な処理が発生しました。処理を終了します」などと、のんきなメッセージで済ますわけにはいきません。

梅爺がまだ現役だった2002年に、トヨタ自動車を訪問して、「テレマティクス」について、講演をするように求められたことがあります。もちろん、梅爺は、企業の情報システムをビジネスの対象にしている人間なので、自動車の制御システムには詳しいわけではありませんから、自動車と外部の情報システムとの関係について、「どう考えているのか」の意見を求められたことになります。

梅爺は、以下のような自分の意見を正直に申し上げました。

「外部情報システムの業界には、GoogleやYahooといったインターネット・ポータル会社、テレビ・ラジオの放送局、携帯電話の通信サービス提供会社がすでに存在していて、人が、家にいようと、オフィスや学校にいようと、街を歩いていようと、車に乗っていようと同じサービスをシームレス(継ぎ目無し)に提供しようとしており、そのサービス内容もますます多様になりつつあります。他の業界が今から自動車製造メーカーに転向することが難しいように、自動車メーカーが今からこの分野に進出することも困難です。基本的には、外部の優れた情報提供サービスを、受け入れるだけで良いのではないでしょうか」

しかし、この話は、トヨタの方々には必ずしも「好評」ではありませんでした。自動車メーカーの人たちは、自動車にかかわるビジネスは、すべて自分が主導権をもって行い、周囲は、部品メーカーのように、従順に従うことが「当然」と考えているからではないかと感じました。他人の傘下に甘んずることなどは、あまり考えたこともなく、不満、不安であったのでしょう。

どうしても、不満、不安であるというなら、論理的な方法は一つだけ残されていて、それは、豊富な資金を使って、外部情報サービス提供会社を「買収」すれば良い、というのが梅爺の考えで、今も、そのように考えています。しかし、経営の視点から見れば、あまり意味のある「買収」とは思えません。世の中、「餅は餅屋」でよいのではないでしょうか。

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2007年8月28日 (火)

テレマティクス(Telematics)(1)

昨日まで、読売新聞の記事に触発されて、自動車の制御にかかわるマイクロコンピュータの基本ソフトウェア(OS)について、ブログに書きました。今やほとんどの工業製品は、IT(情報通信処理技術)との関係なしには語れない時代になり、自動車もその例外ではありません。

自動車とITの総合的な関係は、「テレマティクス(Telematics)」という総称で呼ばれます。本来、テレマティクスという言葉は、自動車とは無関係で、ほぼIT(情報通信処理技術)と同じ意味で使われていましたが、いつの頃からか、自動車メーカーが、自分たち専用の言葉として、これを用い始めました。日本の自動車メーカーに追い詰められる以前の、まだ鼻息の荒かった頃の米国自動車メーカーの、自己中心的な発想が背後にあるように、梅爺は感じます。本来なら「オート・テレマティクス(Auto Telematics)」と謙虚に、かつ論理的に表現していただきたいところです。

「テレマティクス」の世界は、自動車の基本機能である「走る」「曲がる」「止まる」の制御にかかわる情報処理と、自動車の搭乗者に、外部の世界の情報を提供する情報処理サービス(ナビ、テレビ、インターネットなど)に大別できます。

大雑把に言ってしまえば、前者の制御用情報処理は、「自動車だけに必要な情報処理」であり、後者の外部情報サービスは、「自動車にも必要な情報処理」ということになります。同じ情報処理といっても、この二つは異質なもので、自動車メーカーの対応姿勢や、実現方法は異なったものになります。自動車の制御にかかわる情報処理は、自動車メーカーの腕の見せ所ですから、自ら主体的、能動的に取り組む必要がありますが、外部との情報交信サービスは、外部の業者が提供する一般サービス(ナビ情報、テレビ放送、インターネットなど)を、自動車でも受けられるようにすると言う点で、自動車メーカーとしては、受動的な対応でもよいことになります。

昨日までの話は、前者の制御用情報処理にかかわるもので、従来必要に応じて逐次採用してきたマイクロコンピュータの数が、1台の車の中でさえも、30~100個になってしまって、スパゲッティのように複雑怪奇なシステムになってしまったところを、整然としたコンピュータ・ネットワーク方式に変えようという意図で議論されています。

この成果は、将来の自動車の、「安全」「省エネ」「利便性」「価格」に直接反映しますので、企業の経営戦略、差別化戦略に大きな影響を与えます。それであるが故に、「みんなで仲良く一緒に開発しましょう」というわけには、いかないのではないか、というのが梅爺の懸念です。

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2007年8月27日 (月)

自動車制御用基本OS(2)

経済産業省が、国益のために税金をつぎ込んで、次世代自動車制御用の基本ソフトウェア(日の丸ソフト)の開発を、官民一体の開発機関「JaSPar」に委託する、という話は、一見日本人に、サッカーの日本代表が強い外国のチームを破って欲しいというのに似た期待を抱かせます。

しかし、コンピュータ業界の成功例とは言えない前例が示すように、この計画には、いくつかの疑問点があります。

基本的な疑問は、今や世界市場で「必ずしも弱い立場にない」日本の自動車メーカーや業界が、欧州企業やその共同体に対抗しなければならない事態は、日本企業自身の課題であって、ホンネで日本国政府の支援が必要と考えているのであろうか、ということです。梅爺には、年間1兆円以上の利益をたたき出す、トヨタ自動車にとって、十数億円の国の開発資金援助が、涙が出るほどありがたいものであろうとは、到底考えられません。

「JaSPar」計画は、業界が立案し経済産業省に支援を求めたものなのか、経済産業省が発想して、業界に参加を呼びかけたものなのか(業界は、お上に楯突かないほうが無難として応じたのか)、梅爺にはわかりませんが、いずれにしても、微妙な思惑が異なる会員企業間の意見を調整するだけでも時間を要し、各社が企業秘密を「JaSPar」に開示しなかったり、本当に優秀な人材をこの機関に出向させることを渋ったりするようなことはないのだろうかと、梅爺は心配になります。開発成果の「知的財産権」を、国と会員企業がどのようにシェアするのかも、やさしい問題ではありません。

たとえば、トヨタ自動車が「グループの総力を結集して、次世代制御用OS開発のために、研究組織をインド(またはイスラエル、ロシアなど)に設立し、世界から優秀な人材を登用することにした」というような報道があれば、梅爺は、「さすがトヨタ」と納得します。開発のスピード、意気込みなどなどは、業界共同体とは比べ物になりませんし、そうしなければ、国際競争には勝てないと思うからです。日本人だけで開発する「日の丸OS」が、世界を席巻することを、通商産業省は夢見ているのでしょうが、そのような「甘い世界」ではないように感じます。

日本には、国際市場で弱体な企業業界がまだ沢山ありますから、それを国が支援すると言う話なら、少しは理解しますが、まがりなりにも国際企業に成長できている業界の活動に、国が介入する必要は、あまり感じません。無害ならまだしも、有害な要素を含んでいるようにも感じます。

どんな場合でも、「国益」を最優先するという、明治維新のような発想では、日本は国際社会で、尊敬される国家には今やなりえません。世界を相手に戦うだけではなく、むしろ世界に貢献することが、めぐりめぐって日本の国益にもなるという、新しい視点が欲しいものです。

そういう視点の論評が、記事の中に一切ないと言う点で、日本のジャーナリズムも国際視点が身についてないと残念に思いました。

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2007年8月26日 (日)

自動車制御用基本OS(1)

7月29日の読売新聞一面に、「目指せ車版ウィンドウズ」という記事があり、日本の主要自動車メーカー、部品、電機メーカーが参加した共同事業体「JaSPar」に、経済産業省が研究委託(来年度予算十週億円程度)し、自動車制御用の国産基本ソフトウェア(日の丸OS)を5~10年後には実用化して、日本の自動車産業の世界市場での優位性に貢献したい、と書いてありました。背景は、自動車制御用基本ソフトウェアの分野で、欧州企業ボッシュや欧州の企業コンソーシアムが優位な市場展開をしており、それへの対抗措置と報じられていました。

自動車は、内燃機関、ステアリングなど、機械工学の象徴のような製品と思われがちですが、今や内部には、30~100個の制御用マイクロ・コンピュータを搭載する電子工学の粋を集めた製品でもあります。将来石化燃料がなくなり、内燃機関が電機モーターに置き換わることになると、自動車は一層、電機・電子の複合技術を体現した製品に変貌することでしょうから、制御用の基本ソフトウェア技術は、確かに鍵を握ります。

しかし、この記事を読んで、梅爺は、「官(経済産業省)の発想」が数十年前からあまり変わっていないと感じました。つまり、極端に言ってしまえば、「国益を最優先する」という考え方を金科玉条のように守っているということです。日本の自動車メーカーは、本社を日本に置く日本企業であると同時に、世界市場をビジネスの対象にするグローバル企業でもあります。世界市場でビジネスを円滑に行うためには、「日本の国益」は時に、「障害」になることもありえることを十分承知して行動しているはずです。

昔、コンピュータ業界が、米国のIBMの攻勢に晒されたとき、当時の通産省は、同じく「国益」のために業界に介入し、6社を3グループに企業再編するように「指導」しました。その後、国産の次世代コンピュータを開発するために、官民一体の共同の研究機関を設立したり、同じく国産のマイクロコンピュータ用OS「トロン」の開発・普及にも税金をつぎ込んで支援をしましたが、いずれも、これらの企ては、「成功した」とは言えないもので、尻つぼみに終わっています。コンピュータと自動車では、事情が違うという見方もありますが、梅爺は上記の「JaSPar」が、尻つぼみに終わるのではないかという懸念を抱きました。なぜそう思うかについては、長くなりますので、次回以降に書きます。

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2007年8月25日 (土)

可愛気(かわいげ)

少し旧聞に属しますが、8月1日の読売新聞のコラム「編集手帳」に、前の小泉首相と、安倍首相を比較する以下のような文章が掲載されていました。

評論家の谷沢永一さんは、人の性格のうち「可愛気(かわいげ)」にまさる長所はないと言う。「才能も智恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるという奴には敵わない」と(新潮社「人間通」)。ムキになる姿もどこか憎めなかった小泉氏の、余人にまねのできない長所は可愛気だろう。矢沢氏によれば、可愛気とは天性のもので、乏しい人は一段下の長所「律儀」を目指せばいいという。律儀なら努力によって手に入る、と。

これを読むと、すぐに「理屈」をこねまわす梅爺は、可愛気からは程遠い存在ですし、そうかといって、やるべきことは、いやなことでもコツコツやる、という2番目の律儀も持ち合わせていませんので、66年間、これでなんとかやってこれたことは「奇跡」のように、感じてしまいました。

ここで、止めておけばよいものを、「でも、可愛気とは何だろう」と考えてしまうところが、可愛気のない証拠で、大変恐縮です。

「自分を飾らず、正直に表現する」ことが、可愛気のもとになっているように感じます。他人の目を意識せずに、天真爛漫に振舞う幼児が、「可愛い」のはそのためでしょう。他人の目を意識したり、自分を良く見せようと考えた途端に、可愛気は失せていくことになります。

前の小泉首相が、天性の可愛気を持ち合わせていたのか、政治家として大衆の気持ちをつかむことに長けていて、意識的に可愛気を演出したのか、梅爺には判断がつきません。

安倍首相は、「可愛げがない」というより、生まれ育ちのせいか、言動が「綺麗ごと」すぎるように感じます。物事の本質を深く洞察せず、皮相な理解でとどまる人は、えてして「綺麗ごと」で事がすむと考えがちです。「綺麗ごと」は、他人の心に響きませんし、他人を動かしません。リーダーには、個性的な洞察力と、それを適切に表現する能力が求められます。「美しい日本」で表現が留まっていては、日本は「美しい日本」になりません。

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2007年8月24日 (金)

阿久悠の作詞憲法

日本の大衆音楽の作詞家として、名を馳せた阿久悠氏が、亡くなって、テレビの追悼番組を観ていましたら、彼が作詞するにあたって、自分に課していた何か条かの「憲法」があったことを知りました。

阿久悠氏は、勤務していた広告代理店を辞めて、プロの作詞家に転向しましたが、友人の作曲家都倉俊一氏の評によれば、「大衆が何に飢えているかを嗅ぎ付ける鋭い嗅覚の持ち主」ということですので、ビジネスの言葉で言えば、「鋭いマーケティング感覚の持ち主」ということになります。広告代理店の勤務を続けても、大成されたものと思います。

大体、自分のペンネームに「悪友」をもじった「阿久悠」を採用することからも、大衆の興味をひきつけるセンスがうかがえます。

彼の作詞は、都はるみの演歌から、ピンクレディのポップス調音楽まで、ジャンルを問いませんので、この分野では、日本語を知り尽くしたプロ中のプロと言えるでしょう。

彼は、美空ひばりを尊敬し、彼女の「歌」を超える、日本の大衆音楽を目指したと言われていますが、「憲法」の中には、『「女」ではなく「女性」として表現する』や、『「どうせ」や「所詮」は使わない』などがあることを知りました。

「どうせはかない命なら」とか「所詮叶わぬ恋ゆえに」などと、「どうせ」や「所詮」は、演歌では定番の言葉で、日本人が共鳴するものと思われている中で、これを避けようとした阿久悠氏の心情に、梅爺は興味を抱きました。

『『女』ではなく『女性』として表現する』もそうですが、「身の定め」を自分ではどうにもならないものとして、外部要因に責任転嫁するよりも、泥にまみれても自分の責任で運命に立ち向かう人間を、好ましいと思っていたにちがいありません。

梅爺も、考えてみると「どうせ」とか「所詮」とかを、今まで深く考えずに使ってきたことに気づき、反省はしましたが、『「今更」』遅い』とも思いました。人間は、次から次へと「自己弁明」の方法を思いつくものです。

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2007年8月23日 (木)

霊感(インスピレーション)(2)

預言者の言葉も、一種の霊感によるものと思われます。後々、的中率が高いことが判明すれば、偉大な預言者になり得ますが、ノストラダムスのように、抽象的な詩文形式で表現されると、解釈に幅ができて、的中したのかどうかの判定が、意外に難しいことになります。たとえば、「阿鼻叫喚の声で満ち」とか「天空が黒い雲で覆われ」と書いてあったとしても、「阿鼻叫喚」と言える事件は、地球上では頻繁に起きますし、「天空の黒い雲」は、自然現象なのか、核戦争の結果なのか判別できませんので、それらしい事象を都合よく当てはめれば、「当たらなかった」と断ずることが難しくなります。

偶然、著名な事件や天災地変の発生を言い当てて、有名になる人はいますが、その人の予測は、そのほかのことでも、100発100中何でも当たるという人がいたという話は、少なくとも梅爺は、聞いたことがありません。したがって、本当に予言能力の高い人と、預言者らしく振舞う偽者を、区別することは、意外に難しいことになります。梅爺は、予言能力の高い人の存在を否定はしませんが、大半は、偽者ではないかと、失礼ながら疑っています。

宗教上の重要人物や預言者は、自らの力で、霊感を得たというより、「神の啓示」で霊感を得たと、主張することが多く、これも、他人には、本当に「神の啓示」なのか、それとも、その人の脳の力による霊感なのに、「神の啓示」によるものと勘違いしたのかは、判別が難しくなります。

「神の啓示」と言われてしまうと、水戸黄門の葵の紋の印籠のように、そこから先は、「問答無用」の世界になるというのも、最低限は「理」で、物事は判断したいと願う梅爺には、なかなか馴染みがたい世界です。

ここでも、梅爺は、宗教上、偉大な預言者と呼ばれる人の存在を、すべて否定するつもりはありません。しかし、中には「怪しげな預言者」もいたのではないかと、これまた大変失礼ながら、疑ったりしています。

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2007年8月22日 (水)

霊感(インスピレーション)(1)

「霊」は、ヒトの中にのみ存在する抽象概念ではないかと、今までのブログで書きました。ヒトの脳には、これとは別に「霊感(インスピレーション)」という能力があることは、梅爺の経験からも「確か」であるような気がします。

連続的な論理思考の延長ではなく、突然飛躍的に、新しいアイデアや将来予測が閃いたりすることは、多かれ少なかれ誰もが経験していることではないでしょうか。

横浜フォーラムの主宰者で、「お名前読み込み狂歌」の家元級達人のM氏は、昔の人の言葉を借りて、アイデアが浮かぶのは、「床上(寝ている時)」「鞍上(馬に乗っている時、転じて乗り物に乗っている時)」「厠上(トイレで用を足している時)」だと、前に書いて送ってくださいました。むしろ、脳が考えようという意思を放棄して、リラックスしている時の方が、アイデアが浮かぶという事実は、脳のカラクリを考える上で、深遠な意味があるように感じます。

脳が、飛躍的で新しいアイデアを思いつけるのはどうしてかは、梅爺には説明できませんが、多分、ある程度、脳の部位を定めた上で、脳神経間の結合が試行錯誤的に行われ、ある確率で、新しい概念を獲得することに遭遇する場合があるためではないかと、勝手に想像しています。白紙である、赤ん坊の脳が、段々に「概念」を獲得していく過程も、このアトランダムな脳神経間の結合機能によるもの(結合数は、むしろ成人の大人より当初多く、徐々に意味のある結合のみが残って、その他は消滅していく)と考えられていますので、大人になっても、この機能の一部は残っているのではないでしょうか。この推定は、間違っているかもしれません。

「霊感」は、ヒトの能力の一つですから、個人的な能力差があり、「特別霊感の強い人」が存在しても、おかしくはありません。歴史的に有名な、科学的な発明や発見の多くが、「霊感」によるものであることは、科学者自身の述懐で述べられています。

今のところ、「霊感」に関する脳のカラクリは、解明されていませんので、「摩訶不思議な能力」に見えますが、脳の解明が進むに連れて、そのしくみの因果関係が明らかになる可能性は高いと考えています。

ただ、人間にとっては、「摩訶不思議な能力」に止めておいた方が、ロマンチックかもしれません。「インスピレーションで恋に落ちる」というような話がなくなるのは、味気ないような気もします。

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2007年8月21日 (火)

霊(2)

ヒトは、「肉体」と「霊」で構成されていて、そのヒトが生きている時は、「肉体」と「霊」が同居しているが、「肉体」の死後は、「霊」のみが、永遠に存在し続ける、という考え方は、多くの宗教が説く考え方です。

「聖霊」や「悪霊」という言葉があるところを見ると、「霊」にも善悪があり、良い「霊」は天国に迎え入れられ、悪い「霊」は地獄に堕ちるらしいことが分かります。何を善悪の基準とするのかは、宗教・宗派によって教えが異なり、カソリックは、「生前の善行」を説きますが、ルターの宗教改革では、「神の存在を信ずること」が、その条件と説きました。「トルコとイスラム教」のブログにも書いたように、イスラム教に属するメヴラーナの教えでは、茶色の上着(肉体の象徴)を脱ぎ捨てて、白衣(霊の象徴)のみで、無心にクルクル回る踊りを続けることが、霊を清める方法と説いています。

ヒトは、自らの「死」を受け容れるにあたって、それでも自分に関する何かが、永遠不滅に残って欲しいと願い、「霊」という抽象概念を編み出したのではないでしょうか。特に、エジプトのファラオなどに代表される王や権力者は、権威の持続を強く願い、「霊」という概念を信じ、固執したのではないかと思います。

形あるものは不滅ではないという「諸行無常」の考え方を受け容れれば、不滅の「霊」は、「形が無いもの」であるはずですが、時折「霊の形や色が見える(幽霊、オーラ)」という人が、テレビに登場したりしますので、梅爺は戸惑ってしまいます。

「霊」は「神」同様、ヒトの脳が願望や畏れをベースに生み出した抽象概念でありながら、代々、語り継がれ、教え継がれてきたために、現在では、時に、疑うことさえ許されない強固な社会通念になっているものではないかというのが、何回も書いてきたように梅爺の仮説です。仮説ですから、これが「正しい」のかどうかは、梅爺もわかりません。仮説を覆す「事実」の遭遇すれば、いつでも変節する準備はできています。

このような仮説でさえも、「理」ではなく「心情」的に嫌う方々(特に、信仰心に厚い方々)が多いことは、梅爺も承知しています。国によっては、このような考えを述べただけで、迫害され、つまはじきにされる所もありますが、幸い日本では、「付き合いにくい、偏屈爺さん」程度で、済みそうなので、自分が生まれてきた時代や、場所(国)に感謝しています。

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2007年8月20日 (月)

霊(1)

梅爺の長兄は、永年連れ添った伴侶(梅爺の義姉)を7月25日に亡くし、29日に通夜、30日に葬儀が行われました。

通夜の席で、長兄は、義姉が亡くなって以来、毎晩のように、「義姉が蘇る夢を見る」と言っていました。この話を聞いて、梅爺は「ヒトの脳は、自分の意思だけではコントロールできない不思議なものだ」という感じをあらためて強く受けました。

長兄の脳の中には、数十年連れ添った義姉との思い出や、特に、義姉が心筋梗塞で倒れて以降、2年半にも及ぶ壮絶な看護(介護)を懸命に行ってきた思い出が、量、質ともに強烈な情報として、大量に蓄積されていて、亡くなってから数日しか経過しない時点では、「死を現実のこととして受け容れようとして理性が獲得している情報」を量的に、はるかに圧倒しているために、理性のコントロールが効かない夢の中では、新しい「死」の情報がトリガになって、「生きている義姉」が度々現れるのは、「当然のこと」であろうと思いました。ひょっとして、キリストの蘇りの話も、十字架の処刑直後の、弟子達の夢が、現実の話として語り伝えられたのではないかとも、妄想してしまいました。

梅爺が、このように書くと、「ヒトの霊は、肉体の死後も不滅」と、強く信じておられる方からは、「なんと味気ない解釈をするのか」とお叱りを受けるかもしれません。長兄の夢に、義姉が現れるのは、亡くなった義姉の霊が、長兄に働きかけているに違いないと、おっしゃられるのではないでしょうか。

勿論、梅爺の考え方は、梅爺の「仮説」であって、どちらの解釈が「正しい」という話ではありません。梅爺は、長兄の夢は、義姉の霊の成せる技ではなく、長兄自身の脳(つまりヒトの脳)のはたらきに由来するものと、考えた方が、自分自身納得できる度合いが高いと考えているにすぎません。

「自分は霊と自由に交信できる」と主張する「超能力者」が、テレビに出演し、もっともらしいトーク番組で人気を博したり、時には、行き詰った犯罪捜査を打開するために、「超能力者」が被害者の霊と交信して、真実を暴こうなどという試みの番組もあって、梅爺は、「なんとなく胡散臭いな」と感じながら観ています。梅爺の知識や論理思考では、これらの「超能力者」は、真っ赤な偽物なのか、それとも本物なのかを断ずることはできません。

しかし、「霊」は、ヒトの脳の抽象概念であり、歴史上誰かが創りだして、親子代々継承してきたものであって、本当は、生きているヒトの脳の中にしか存在しない(外の世界に現実に存在するものではない)という梅爺の「仮説」を覆すような「事実」に遭遇するまでは、梅爺はこの「仮説」に頑固にこだわりそうな気がします。

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2007年8月19日 (日)

煩に耐えよ

長兄が、配偶者の義姉を亡くして、数週間が経過し、長兄は孤独な一人住まいを始めることになりました。

毎日、その心情をブログで公開することを続けており、梅爺のように現状で恵まれた環境にあるものには、想像することも難しいような、心の寂寥感に関する表現をを読むだけでもつらくなります。

長兄は、「今は、全てのことが煩わしい」と書いています。虚脱してしまった心にとっては、今までは、さほど苦にならなかったことまでが、「煩わしい」ことに変わってしまったのでしょう。一人での食事の準備、部屋の掃除は勿論のこと、義姉が残したものの整理、遺産相続手続きなど、全てが煩わしい対象と書いています。

長兄の友人から、「煩(はん)に耐えよ」という励ましの言葉をもらったとブログに書いてありました。

見事に問題の本質を表現していますが、大きな「感情」に支配されている人には、このような「理性」的な説得は、なかなか通じないのではないでしょうか。ヒトは知性を持つ動物といわれますが、感性の方がずっと大きな支配力をもっているのではないかと、梅爺は、何度もブログに書いてきたとおりです。長兄も、理性では、何が重要かは、十分に理解しているはずです。

つらいときこそ、そのつらさの要因になっているイヤなことに、むしろ心を強くして立ち向かって克服しなさい、という助言は、梅爺のように現状で恵まれた環境にある人間には、論理的に理性で納得できる助言ですが、大きな虚脱感に支配されている人間には、あまり意味が無いことかもしれません。

「心がまぎれるようなことを、何か見つけるようにしなさい」という助言も同じでしょう。一時的に心をまぎらせても、その後に、もっと大きな寂寥感を抱くことになる恐れがあります。「時間がきっと解決してくれます」という言い方も、現実にはそうかもしれませんが、今は無責任な言葉で、慰めにはなりません。

人の肉体的な苦痛を見聞きすることは、つらいことですが、人の心の寂寥感を想像することもまた、つらいことです。

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2007年8月18日 (土)

トルコの観光遺跡(6)

イスタンブールは、有名な観光スポットが多く、テレビの紀行番組などでも、繰り返し紹介されていますから、おおかた予備知識があり、従って「これが有名なXXか」と確認するようなところがありました。

東ローマ帝国が建造した教会「アヤソフィア」、都市の地下水槽として作った「地下宮殿」、オスマントルコのスルタンの権力を象徴する、「ブルー・モスク」「トプカピ宮殿」「ドルマバフチェ宮殿」などが、旧市街、新市街に点在しています。

ドルマバフチェ宮殿は、オスマントルコ時代の最後の頃のスルタンが建築した、西欧風宮殿で、インテリアの豪華さは圧巻です。このために、オスマントルコの財政が疲弊し、没落を早めたとも言われているくらいで、観る人によっては、ベルサイユ宮殿以上と評価されると、ガイドは誇らしげに話していました。アタチュルクが、執務中に亡くなったのもこの宮殿であることは、前に書きました。西欧の宮殿と異なるのは、「後宮(ハーレム)」が併設されていることで、今では、その一部が観光のために公開されています。

イスタンブールで、ビルの工事や、地下鉄の工事をしようとすると、必ず「遺跡」が出てきて、工事は止まってしまうと、ガイドが言っていたのは、誇張ではなく、本当の話であろうと感ずるほど、この街には「歴史」が詰まっています。今回のツアーでは、イスタンブールに2泊しましたが、この程度では、「象の一部を撫でた」ようなものでしょう。

トルコに取り憑かれて、何度もトルコに出かける日本人も少なくないと聞きましたが、「さもあらん」と納得するほど、トルコには、色々な顔があることだけは、梅爺も感じて帰国しました。

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2007年8月17日 (金)

トルコの観光遺跡(5)

首都アンカラにある、「アナトリア文明博物館」は、ヒトの初期文明や考古学に少しでも興味のある方には、お奨めの観光スポットです。梅爺は、あまり予備知識無く出かけましたが、驚き、かつ満足しました。何しろ、紀元前7000年頃の、遺物から始まり、旧石器、新石器、青銅、アッシリア、ヒッタイト時代など、全て紀元前の遺跡に関係するもの、遺物が、これでもか、これでもかと展示されています。すべて、アンカラのあるアナトリア地方近辺だけで出土したものとのことですので、考古学者にとっては、「宝物殿」のような所であろうと思います。

紀元前7000年などという年代は、日本人には気の遠くなる時代ですが、その頃のヒトが残した壁画や住居跡(再現したもの)などをみると、ヒトより強い動物(雄牛や牡鹿など)に立ち向かうために、グループをつくり「共同作戦」をおこなっていたことがわかります。「共同作戦」には、最低限のコミュニケーション・ツールが必要ですので、何らかの言語機能を保有していたのであろうとこと推測できます。また動物の大きな角に、「神」や「魔性」が宿ると考えていたらしく、家の内部の壁には、雄牛の角が飾られています。日本の般若の面や、鬼にも角があり、インデアンの酋長も、角の被り物などをしていることを考えると、ヒトは、自分達が持たない角に、「強いもの象徴」「魔性を持つものの象徴」という、共通認識を抱く習性を持っているのかもしれません。

エジプトのヒエログラフ(象形文字)とは異なった、ヒッタイトの楔形(きっけい)文字の、本物も展示されています。解読された内容は、ラブレターであったり、契約書であったりしますので、紀元前1700年ごろの人たちに、急に親近感が湧いてきます。

紀元前2000年から3000年ころの、冶金時代の精巧な、金、銀、銅、錫などの装飾品なども見事で、もっぱら女性のツアー客はこちらに群がり、ため息をついていました。

7000年から9000年前に、現実にタイムスリップしたような経験は、そうはできるものではありませんので、この博物館は、梅爺には、文字通り「異空間」でした。

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2007年8月16日 (木)

トルコの観光遺跡(4)

トルコの西側は、エーゲ海に接していて、この地方には海路でギリシャとの交流が可能であったことから、沢山のヘレニズム文化の影響を受けた遺跡が残されています。今回の旅行では訊ねませんでしたが、考古学者シュリーマンの発掘で有名な「トロイの遺跡」なども含まれています。

梅爺たちは、その中の一つであるエフェスの遺跡を訪ねました。この土地に最初の都市が建設されたのは、紀元前11世紀頃で、ギリシャのイオニア人によるものと伝えられています。しかし、現存する遺跡の多くは、ローマ帝国によって受け継がれて、改築、新築されたものです。ギリシャ時代の大劇場が、ローマの剣闘士闘技場に改築されたり、ギリシャの神殿があるかと思えば、聖母マリア教会も存在するといった具合です。

この都市の最盛期は、ローマ帝国時代で、帝国の主要都市のひとつであったことがうかがえます。アントニュウスとクレオパトラが新婚旅行で訪れたとされ、クレオパトラのハネムーン・ロードという大通りも残されています。アレキサンドリア(エジプト)の大図書館に対抗するために建設した、図書館も表壁が、ほぼ完全な姿で残っています。貴族のための共同トイレなどという、現代人にも「理解しやすい場所」も、完璧に残されています。

野外劇場(闘技場)の収容人口が、2万4千人であることから、この都市の人口は24万人程度と推測されています。梅爺の住む青梅市より人口は多いということになります。主要な食料の穀物などは、エジプトから移送されたのであろうと思います。

50年ほど前に発掘が始まり、今でも発掘は続いています。墓や住居址からは、豊富な埋葬品や生活用品が出土していて、隣接の博物館には多用な出土品の展示が成されています。

梅爺は、ギリシャを訪れたことがありませんので、これに匹敵するような完全な都市遺跡が残っているのかどうかは知りませんが、ギリシャ、ローマの華麗な文化に興味がある方には、必見の観光地であろうと思います。

この巨大都市が、ローマ帝国の滅亡の後に、どのように衰退し、忘れ去られていったのかについては、詳しい説明がありませんでした。正しく「栄耀栄華の夢の址」といえる遺跡です。

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2007年8月15日 (水)

トルコの観光遺跡(3)

カッパドキア地方には、洞窟住居の他に、初期のキリスト教信者が、迫害のために遣わされた兵隊達から身を護るための、「地下都市」址がいくつか残されています。

文字通り「地下都市」といえるもので、地下10~20階にも相当する、多層構造の隠れ都市が、アリの巣のような複雑さで、掘られています。普段は、地表で農耕生活などを送っていて、弾圧の兵隊が押し寄せてきた時だけ、逃げ込む場所ですが、当然何千人もが共同生活で生きられるように、食料の貯蔵庫や飲み水の確保(井戸)、通風孔の確保が配慮されています。階層ごとに、石の扉が準備されていて、兵隊が多数一緒に攻め込めないような巧みな工夫も施されています。

この地下都市を完成させるのに、どのくらいの日時と労力を費やしたのかは想像を絶しますが、信仰や一族の生命を護るためとは言え、人間が発揮するエネルギーには圧倒されます。権力者の命令でつくりあげたピラミッドや万里の長城とは異なり、自分達を護るために、力を合わせてつくりあげたという点で、貴重な遺跡であると感じました。

当然、この地下都市内でも、宗教活動が行われたものと推測できますが、カッパドキアの洞窟礼拝堂とは異なり、ほとんど、壁画などの痕跡は残っていません。紀元2~3世紀の、本当の初期のキリスト教では、まだ宗教画のような「形式」は、確立していなかったのであろうと思います。

いずれにしても、受難時代のキリスト教の方が、信者自身が、権力とは関係なく、自分のための信仰として純粋に対応していたのではないかと、強く感じました。

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2007年8月14日 (火)

トルコの観光遺跡(2)

トルコのほぼ中央部に、カッパドキア地方という場所があり、火山の溶岩と粉塵が交互に層を成して堆積した地層が、その後の風化で、きのこのような岩の塔を沢山生み出して、世にも不思議な奇観が形成され、世界遺産にも登録されて、観光名所になっています。観る人は、自然が、時として人の想像を超えたものを生み出すことに驚嘆します。

このカッパドキアの岩の塔の内部や、谷間の岸壁をくりぬいて作った無数ともいえる岩穴住居址が、遺跡として残っています。紀元2~3世紀に、迫害されたキリスト教信者が、隠れ住んだのが発端とされていますが、4世紀にローマのコンスタンチノス帝が、キリスト教をローマ帝国の宗教として認めた後も、信仰深い人達が、この岩穴住居に住み続け、中に、礼拝堂も沢山あって、その内壁に描かれた、初期キリスト教の貴重な絵画が今でも残されています。このような過酷で遮断された環境で祈ることの重要性を説いた、ギリシャ正教の教えが踏襲されたものと考えられています。

絵画を見ると、キリストの生誕、十字架の処刑、復活、昇天などが描かれていて、この時代に、既にキリスト教の原型が確立していたことが分かります。ただ、キリストや聖母マリヤの像に並んで、キリスト教を認めたコンスタンチヌス帝の肖像も描かれていて、「政教一致」であったこともうかがい知ることができます。

この人たちの子孫(ギリシャ正教の信者)は、ごく最近までこの地方に住んでいましたが、トルコとギリシャの政治的な話し合いの末、トルコのキリスト教信者と、ギリシャに住むイスラム教信者を、交換移住することが実現したため、今では、「歴史的な遺跡」として残されているだけになりました。

洞窟内に残されている礼拝堂は、礼拝堂の原型のようなもので、世俗や権力の影響を受けない、初期キリスト教の純粋さをしのぶことができます。その後、コンスタンチノーブル(イスタンブール)に建築された、華麗なアヤ・ソフィア礼拝堂や、西欧各地に建設された、巨大な教会・礼拝堂のことを考えると、宗教と世俗権力の関係の功罪を考えざるをえませんでした。

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2007年8月13日 (月)

トルコの観光遺跡(1)

梅爺の旅行の楽しみの一つは、あまり予備知識を持たずに、現地に身を置いてみて、「新しい何かを感ずる」ことですので、珍しい景色や遺跡の話を差し置いて、昨日まで長々と、紀行文とは言えないような感想を書き綴ってきました。本当は、ズボラで事前勉強をサボっている弁解でもあります。

トルコは、歴史的な遺跡の宝庫ですが、オスマントルコが残したもの以外の大半は、厳密に言えば、現在のトルコ人の祖先が必ずしも残したものではないことを、理解しておく必要があります。日本の歴史的遺跡は、現在の日本人の祖先が残したものではない、といっているようなものですので、不思議な話です。

ギリシャ・ヘレニズム時代の遺跡、古代ローマ時代の遺跡、迫害されていた時代の初期キリスト教徒の遺跡、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代の遺跡、侵攻してきたヒッタイトやササーン朝ペルシャの遺跡などが、これに当たります。

エーゲ海、地中海にも面し、中東にも隣接するトルコの地形が、このような複雑な歴史遺跡を残した要因です。

エーゲ海沿いに残るヘレニズム文化のエフェスの遺跡(ほぼ完全に残る古代都市遺跡、後にローマ帝国が継承)などを見ると、見事な石造りの建造物、広大な野外劇場や、写実に優れた多数の彫刻などから、現代人と同じような感性や考え方を保有した人たちの存在を想像しがちですが、その時代の人たちの、人生観、宗教観(ギリシャの多神教)、価値観(奴隷制度など)は、現在とは異なっていることを理解して、これらの遺跡を見ないと混乱することになります。例えば、エフェスの遺跡の街の中心部に、売春宿らしい遺跡がありますが、これは当時の売春に対する考え方が、現在とは異なることを示しますし、女神アルテミスの神殿の存在は、当時の人達がアルテミスを本当の神と信じていたことを示しています。

昔のヒトと、現代のヒトは、何が同じで、何が違うのかを理解しながら、遺跡を見るのは、梅爺には興味深いことで、楽しいことでした。

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2007年8月12日 (日)

トルコの交通事情

アタチュルクが共和国を建国した時に、全国に鉄道網を整備しようとしましたが、財政難で困っていた時に、アメリカが、道路網を整備するなら資金援助すると申し出たという話をガイドから聞きました。アメリカの思惑は、その後石油や自動車を売り込むことで、その時の契約条件から、今でも近隣に産油国がありながら、アメリカから高い石油を購入させられているとのことでした。確かに、ガソリンの価格は日本より高価でした。

しかし、梅爺が見たところでは、走っている車の大半は欧州車で、日本車もアメリカ車も少なく、むしろ韓国のヒュンダイが健闘しているように感じました。レストランで鱸(すずき)の料理が出てきた時に、店主がこれは「スズキではなくミツビシです」と冗談を言っていましたので、日本の自動車会社のほとんどが、一応トルコ市場へ進出を果たしているのであろうことは想像できました。自動車に限らず、トルコでは、日本の大企業の看板を見かけることが少なく、日本の企業がトルコ市場を従来どのように評価してきたかが、推測できました。

旅行中の移動は、専用バスと飛行機でしたが、鉄道の線路を見かけることも、ましてやその上を走っている列車を見かけるのも稀で、日本のような行き届いた鉄道サービスが完備しているとは、とても思えませんでした。

一方、昔のシルクロード沿いには、朽ち果てたキャラバン・サライ(隊商宿)の残骸が沢山残っていますので、昔は、世界の幹線道路がトルコを横断していたことが分かります。交通事情を見て、歴史の今昔を感じました。

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2007年8月11日 (土)

トルコの料理

トルコ料理は、フランス料理、中華料理に並ぶ、世界3大料理の一つであると言われています。旅行前に、一度体験しておいた方が良いだろうと、梅婆と二人で、新宿にある有名なトルコ料理レストランに試食に出かけたことがあります。

トルコ人シェフが作ってくれた料理は、美味しいとは思いましたが、日本人が普段あまり使わない香辛料とオリーブ油が、ふんだんに使われていることを知りました。ラクという蒸留酒も、独特の香りで、強いことを体験しました。時々食べるのには良いにしても、これを、毎食毎食やられたら、参るかもしれないと覚悟して、旅行にでかけました。

しかし、現地で食べたトルコ料理は、思いのほかあっさり味で、油ギトギトでもありませんでしたので、助かりました。日本人観光客のための特別配慮かとも思いましたが、ホテルのビュッフェなどでは、他の外国人観光客と同じものを食べることになりましたので、日本人への特別配慮ではなく、これが通常の味であるらしいことを知りました。新宿のトルコ料理は、むしろトルコ料理の特徴を強調したものであったのでしょう。

生水は勿論飲んではいけないと注意されましたが、生野菜や果物も洗う水が問題と言われて、サラダやデザートを食べる時には、おっかなびっくりでした。一流ホテルは別としても、街のレストランなどで食事をとったとき、怪しいと思う場合は、食後に、気休めと知りながら正露丸を飲みました。幸い、家族全員おなかはこわさずに帰国しました。

1週間の旅行でしたが、代表的といわれるトルコ料理は、一通り体験できました。しかし、昨日も書いたように、梅爺の「固定観念」は強烈で、日本の料理が世界で一番美味しいという考えは、覆りませんでした。

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2007年8月10日 (金)

トルコとEU

トルコの一部の政治家が、トルコをEUに加盟させようと努力していることが報じられています。EU側も議論をしているようですが、イスラム教主体の国家を仲間に加えることへの抵抗(イギリスなど)が強く、直ぐには実現しそうにありません。

確かに、トルコがEUに加盟すれば、EU・イコール・キリスト教圏というイメージが変わりますから、画期的なことですが、EUが、イスラム教圏のある国家を非難するような決議をしようとしたときに、トルコも同調できるかどうかは、微妙な話になるでしょう。政治と宗教を分離しているとは言え、宗教的な連帯感は、「固定観念」として根強いからです。

基本的に農業国であるトルコの農産物は、高値でEU諸国へ売れるという経済的なメリットはありますが、一方、ユーロの導入による価格の平準化が作用して、トルコ国内の物価は上がることが予想されますので、経済的には、痛し痒しでしょう。最も恐ろしいシナリオは、トルコの労働者(単純作業、高度な専門職を問わず)が、高い賃金を求めてEUの他国へ流失し、トルコの産業が壊滅的な打撃を受けることと、それによって労働力の受け入れ側の諸国と、政治的な問題を多数抱えることになるということでしょう。将来のための痛みを伴う「大手術」を、今覚悟するかどうかの判断になります。

現地のガイドは、「個人的には加盟反対」と言っていました。庶民の生活が一層苦しくなるということも当然あるようですが、「歓迎されていないものを、わざわざお願いして入れてもらう必要はない」というプライドもあるように感じました。

ヨーロッパとアジアの境目に存在するトルコは、政治的、経済的、文化的に、何をするにも選択が難しい国ですが、現状では、100%近いイスラム教徒の国であることは事実ですから、ヨーロッパとの宗教の違いが、最も難しい問題であろうと梅爺は感じました。宗教が歴史を変えていく大きな要因のひとつであるという従来の「常識」が、21世紀でも通用し続けるのかどうか、梅爺には興味深いことです。

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2007年8月 9日 (木)

トルコとイスラム教(2)

トルコに限らず、イスラム教では、豚肉は不浄のものとして食べないことが知られています。今回往復共にトルコ航空を利用しましたが、食事のトレイには必ず「豚肉料理はありません」というメッセージ・カードが乗っていました。

何故豚肉を食べないかの、表向きな理由は簡単で、「草食動物は食べても良いが、豚は雑食性なのでダメ」ということのようです。この論理だと、羊、牛、馬は食べても良いが、犬や猫はダメということになります。なにやら勝手な論理のように思えますが、実際は、比較的高温な気候のイスラム圏で、豚肉に含まれやすい人体に有害な細菌を避けるための知恵ではないかと、現地のガイドは言っていました。

このガイドさんは、外見は白人女性で、アメリカにも留学したことのあるインテリでした。日本人男性と結婚し、四国の高松に3年間住んだことがあるようですが、10年前に離婚して子供と一緒にトルコへ帰ってきたとのことでした。勿論、日本語は堪能です。

彼女は、両親がお祈りもしない不熱心なイスラム教の家庭に育ったとのことですが、それでも「豚肉は食べてはいけない」という戒律は、幼少時から頭に植え付けられていたと言っていました。今では、頭の中では「別に食べてもかまわないのではないか」と「論理的」には考えるようになったとも言っていました。日本に滞在中、3度だけ、食べてしまってから、豚肉だと気づいた(教えられた)ことがあったそうですが、「食べてはいけない」という観念が強くて、「美味しいとは感じなかった」と言っていました。

梅爺は、この話を大変興味深く聴きました。子供のときに植え付けられた「固定観念」は、大人になって、論理的に納得して得た観念よりも、ヒトを強く支配する傾向があるということを示しているからです。ヒトの脳の、価値優先度が、どのようなカラクリで決められるのかを示す、面白い事例であると思いました。

梅爺も、蛇や蛙を食べろと言われれば、逡巡しますし、食べても格別美味しいとは感じません。

理屈で納得すれば、ヒトは行動するとよく言われますが、それほど単純なものではなく、脳の中に無意識に巣食っている「固定観念」が邪魔をすることを意味していますので、ヒトは厄介な生き物であるという考えが、一層強まりました。

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2007年8月 8日 (水)

トルコとイスラム教(1)

現在のトルコ人に、「信奉する宗教は?」と問えば、100%に近い人が「イスラム教」と答えるでしょうと、現地のガイドが教えてくれました。「問えば」と書いたのは、本当にイスラム教の教え通りの生活習慣を守っているのは、半数程度で、普段は何もしていない人が半数はいるということです。

欧米の人の何%が、真面目に日曜の教会礼拝に参列しているのかは、知りませんが、日常的な「宗教離れ」は、先進国では共通の現象ではないでしょうか。日本もその典型例のような気がします。

欧米の町や村に、必ず尖塔を持つキリスト教会があるように、トルコのどこへ行っても、ミナレット(尖塔)のあるモスクを見かけます。ミナレットは、昔は、お祈りの時間になると坊さんが上へ登って、大声で合図を送ったのだそうですが、梅爺が見かけたミナレットは、大きなスピーカーが上に装備されていて、時間になると、「録音テープ」の内容が合図として流されていました。坊さんもアラーのお許しを得て、「合理化」を受け容れたのでしょう。

トルコに、どのくらいの数のイスラム教宗派があるのかは知りませんが、「イスラム教原理主義者」が入り込まないように、政治的な厳しい監視が成されているのではないかと推測しました。少しでも「事件」が起これば、観光収入が激減することになり、大打撃を受けますし、EU加盟も遠のくからです。

コンヤという街に、メヴラーナというイスラムの思想家が唱えた「ネヴラーナ教」と言う宗派があり、「踊る宗教」として有名です。白い衣装(人間の魂の象徴)を着て、ひたすらに、クルクル回り続ける踊りが特徴です。メヴラーナの教えは徹底した博愛主義で、「相手が100回過ちを犯したら、100回許せ」というようなことを言っています。

こういう宗派がイスラム教の主流になれば、世界は平和になるのでしょうが、アルカイダの人たちは、耳を貸さず、一顧だにしないことでしょう。「異端者(異教者)を殲滅すべし」と説く宗教が、21世紀中にどのような推移をたどることになるのでしょうか。

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2007年8月 7日 (火)

トルコの言葉

トルコ語は、ウラル・アルタイ語に属し、文法的には、日本語や韓国語に類似していると現地のガイドが教えてくれました。

オスマントルコ時代に、表記文字としてアラビア文字を採用しましたが、これは大失敗だったとのことです。理由は、簡単で、アラビヤ語には、母音が3つしかないのに対して、トルコ語は8つの母音があるからとのことでした。このため、子音の後に来る母音の一部は、想像することになり、言葉としては、効率が悪いとのことでした。これも、ガイドの説明の受け売りです。

現在のアルファベット表示は、共和国建国時にアタチュルクが断行し、成功した改革の一つです。アルファベットの一部は、対応する発音が無いので使われていないとのことでしたが、どの文字かは、教えてもらったのですが、忘れてしまいました。発音の法則さえ覚えれば、とりあえず声に出して読むことは出来そうだと感じました。街中の看板がアルファベット表示のために、日本人には、一見西欧風の街並みに見えますが、よく見ると、洗練さの度合いは中国の街並み程度であることは、前にも紹介しました。しかし、日本も少し前までは、こういうレベルでしたので、特に、自慢できる話ではありません。

当然、歴史的な影響を受けて、アラビア語、ラテン語、ギリシャ語を理解する人も多い上に、現在では、観光客に接するために、英語や、日本語を器用に操る人も沢山います。どんな田舎の観光土産店に行っても、店員は必ず日本語で対応してきます。日本人は、これで「相手が完全に日本語が出来る」と勘違いし、早口の日本語で難しい値切り交渉に及んだりします。相手の日本語レベルを思いやって、話してあげるというような配慮さえ思いつかない、日本人のオバサンが、今回のツアグループの中にいて、梅爺は苦笑してしまいました。外国語の習得の難しさを知らない(というより、それを習得する困難さを想像したこともない)、独りよがりの日本人は、意外に多いのではないでしょうか。

トルコの多くの人にとって、外国語は、教養ではなく、「生きるために欠かせない手段」になっているように感じました。歴史や地形がそうさせているわけですが、外国語を知らなくても、とりあえず生きていける日本に比べてみると、文化的には過酷な環境であることは間違いありません。

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2007年8月 6日 (月)

トルコ、アタチュルク(3)

イスラム教基盤のオスマントルコ時代に生まれ、その配下の優秀な軍人として育ったアタチュルクが、当時のトルコの常識を覆して、宗教の影響を極力排除した共和制国家を建国するという背景に、彼の信条や思想がどのように関わったのかについては、興味が尽きません。

幕臣であった勝海舟が、幕臣の常識を超越した洞察力で、明治維新に関与したこととの類似性を想起しました。そういえば、アタチュルクと勝海舟の鋭い眼光は似ています。現状の延長では滅亡しかないという極限状態で、歴史的な英雄が出現する確率が高いということなのでしょう。アタチュルクが明治維新を参考にしようとしたという話も肯けます。

日本の「黒船」には、トルコの「第一次大戦後の混乱」が相当します。戦後の混乱に乗じて、ギリシャ、イギリスや連合国が、オスマントルコ支配下のトルコを分割占拠しようとしたことに対して、アタチュルクは徹底抗戦し、ついに、連合国側に、「トルコ共和国の独立」を認めさせました。トルコの国旗の赤い色は、その時に流された血を象徴するものだと、ガイドに教えられました。

西欧国家に対抗するためには、自らも西欧流共和制国家の道を選択する他ないと、単純に考えたのかどうか梅爺にはわかりませんが、「世俗主義」というイスラム圏では珍しい政治思想を、現在にまで残す礎を築いた功績は大きく、名実共に「国家的英雄」であることは誰もが認める所以なのでしょう。

世界史の教科書の片隅に、名前と簡単な業績のみが記述されていて、梅爺には、単なる「情報の一片」にすぎなかったアタチュルクを、血の通う生身の人間として、感ずることができるようになったのは、この旅行の大きな収穫の一つでした。

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2007年8月 5日 (日)

トルコ、アタチュルク(2)

アタチュルクが、現代もトルコの英雄であることは、イスタンブールの街の中心部広場に銅像が建っていたり、独立運動の発祥地で、現在トルコの首都であるアンカラに、ゴミゴミした街並みとは別世界の、衛兵に守られた広大な霊廟があったりすることから容易に想像できます。彼は57歳でなくなりましたが、周囲はそのような早い死を予期していなかったために、何の準備もなく、霊廟建設には、時間を要したとガイドが教えてくれました。

公園のような広い霊廟の中に、ギリシャ神殿にような建物があり、その地下にアタチュルクの遺骸は埋葬されています。霊廟の地下には、記念博物館があり、アタチュルクの遺品や、蝋人形、愛犬の剥製まで展示されています。アタチュルクの写真や蝋人形から推察すると、体格は偉丈夫と言えるほどの大柄ではなく、むしろ小柄です。

独立を呼びかける演説の録音が、博物館で流されていましたが、梅爺が英雄の声として予想したものに反して、男性の声としては、甲高いものでした。しかし、何と言ってもアタチュルクの容貌の特徴は、その他人を射るような鋭い眼光です。

眼は最もその人の性格を表すものと、よく言われますが、アタチュルクの眼は、揺ぎ無い信念で他人を威嚇するほどのもので、カリスマ的な英雄要素を感じます。何事にも、自信が持てず絶えずオドオドしている梅爺の眼とは対照的です。動乱期のリーダーには、アタチュルクのような目つきが必要なのでしょう。

亡くなったのは、イスタンブールにある、オスマントルコのサルタンが残した西欧風宮殿、ドルマバフチェ宮殿で執務中(執務室を持っていた)で、宮殿内の時計は、今でも全て彼の死亡時間、9時5分を指しています。彼の死因は、激務と深酒であったと言われていますが、生前彼は、主治医に「死んだ時に、死因はラク(トルコの強い蒸留酒)であったとは書くな」と釘をさしていたと伝えられています。単なる見栄なのか、それとも英雄の弱みは、死後の混乱の原因となると考えたのか、梅爺にはわかりませんが、アタチュルクの人間が垣間見えて、親近感を覚えました。

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2007年8月 4日 (土)

トルコ、アタチュルク(1)

現トルコ共和国建国の中心人物アタチュルクが、どんな人物であったのかについて、梅爺は強く興味を惹かれました。日本では、ケマルパシャの別名でも知られていますが、「アタ」は父、「チュルク」はトルコで、アタチュルクは「トルコの父」、「ケマル」は完全な(有能な)、「パシャ」は将軍で、ケマルパシャは、「完全な将軍」を意味することからも分かるように、トルコ人が敬愛を込めて呼んだ「通称」で本名ではありません。

イスラム文化の中で育ったアタチュルクが、共和国建国と同時に、政治に対する宗教(イスラム教)の影響を排除しようとしたのは、どういう背景があったのか、単にイスラム国家の後進性を改革するには、「西欧流国家」の模倣が必要と考えただけなのか、などが梅爺の好奇心の対象です。いずれにしても、アタチュルクは、敬虔なイスラム教徒ではなかったであろうことは推測できます。

梅爺たちがトルコを訪問した時は、丁度大統領選挙の直前で、街のいたるところに大きな看板やポスターが掲示され、通りの頭上には、日本の万国旗のように紐で連ねた政党の旗が、お祭りのように飾られていました。しかし、政党や候補者の名前をスピーカーで連呼する車には一切遭遇しませんでしたので、そういう選挙行為は禁じられているのかもしれません。日本の騒々しいだけの選挙カーや、選挙のときだけの、空々しい握手戦術は、梅爺の好みではありませんので、これに関しては、トルコが羨ましくなりました。

アタチュルクが進めた「世俗主義(政治と宗教の分離)」を支持するインテリ層と、逆に宗教(イスラム教)的行為を政治で規制することを緩和するように求める信者層との、覇権争いが選挙の中心で、選挙では後者が勝利を収めました。「世俗主義」では、男性は宗教的な被り物(帽子、ターバン)の着用は禁止されており、女性も公の場(大学、官公庁)などではヴェールの着用は禁止されています。これに反発する敬虔な女性信者が特に多いということでした。

宗教が政治に対して強い影響力を持つことも、逆に政治が宗教に深く介入して規制することも、「好ましくない」ことですが、トルコの現実は、日本人の感覚では理解が難しいのかもしれません。

アタチュルクは、今でも一般にはトルコ人の敬愛の対象になっていますが、建国の時にイスラム教神学校を閉鎖したりしたことに対する、信者の反感は一部残っていると現地のガイドは教えてくれました。

建国という難事を一気に進めるために、実行した施策(当時は優先度としてそれが必要だったとしても)が、国家として安定した今日にも適用されるべきかという難問であろうと、梅爺は感じました。

今、アタチュルクが生きていたら、「そんなにヴェールが被りたければ、被れば良いではないか」というのか、「私が決めたことに従え」というのか、どちらであろうかと、梅爺は考えてしまいました。

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2007年8月 3日 (金)

トルコの都市

梅爺は、外国の都市を見て、その文化レベルを比較するのに、看板のデザインや、店のショウウィンドウの飾りつけを、その目安にしています。20年位前に、欧米を訪れた時には、日本に比べて、洗練されたデザインや飾り付けに驚きましたが、今や日本の都会は、世界の最先端のデザインや飾り付けであふれていますので、世界中どこへ行っても、驚くようなことはありません。風呂屋の浴室の壁に描かれた「富士山と松並木」といった感じの絵に類する看板は、日本では、見受けられなくなりました。日本は、世界に誇りうる「デザイン先進国」ではないでしょうか。

トルコは、文字にアルファベット(とその変形)を利用していること、町を歩いている人が、西欧系の白人であったりすることで、日本人には、一見「きれい」に見えますが、よくよく見ると、デザインや飾り付けのレベルは、現在の中国の大都市と同等または、それ以下のように感じました。あくまでも、梅爺の主観です。一般のトルコ人が、日本を訪れ、日本の都会を歩いたら、20年前の梅爺同様に、ビックリするに違いありません。

経済指標で、国と国を比較し、今にも日本は中国に追い越されるように叫ぶ人がいますが、梅爺は、「治安の程度」「デザインの洗練度合い」「情報の共有度合い」「言論の自由度」「教育の浸透度合い」などの、文化指標でも、比較するべきではないかと考えています。こういう見方をすると、中国やトルコが、本当に日本に追いつく(追いつくことがあったとして)のには、まだまだ永い年月が必要であろうと感じています。日本人は、傲慢になったり、卑屈になったりする必要はありませんが、自分達の現状レベルを正しく認識すべきと思います。

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2007年8月 2日 (木)

トルコの貨幣

トルコは、数年前に通貨のデノミを実施して、現在は、新トルコリラ、クルシュが貨幣の単位になっています。梅爺が旅行した時の為替レートは、丁度、1新トルコリラが日本円の100円でしたので、買い物などの換算は、大変楽でした。1新トルコリラは100クルシュですので、1クルシュは1円ということになります。

観光地では、米ドル、ユーロに並んで、日本円がそのまま利用できる場所が多く、日本の経済力を再認識しました。日本人観光客目当てに、子供が寄ってきて、日本の100円硬貨を見せて「これと同じものを持っていたら、ちょうだい」とねだったりします。観光客には、高目の値付けがしてあることは、容易に想像できますが、それでも、日本人からすると、物価は安いと感じます。12枚綴りの絵葉書を日本円の100円で、カシミヤのスカーフ(?)を1000円で売りつけようと、沢山の売り子が近づいてきます。

観光地のトイレは、原則有料で、50~75クルシュ(50~75円)必要とします。決してきれいとは言えないトイレに、毎回小銭を用意して払うのは、わずらわしいことですが、こればかりは、人の弱みに付け込んだ商売で、利用しないわけにはいきません。外国の観光地で有料トイレは常識ですが、特にトルコでは、ばかにならない「隠れた観光収入」になっているのではないかと思いました。

日本人観光客目当てに、高価なトルコ石の宝石、絨毯、子羊の革を利用した衣料品の専門店が待ち構えていて、説明員や売り子が、流暢な日本語を操りながら、あの手この手で、売り込もうとします。商売のためとは言え、日本語をどうやって身につけたのか、そのバイタイリティには驚きます。日本とは異なり、歴史的に彼らにとって「外国語」は、欠かせない生活の手段であることが分かります。勿論、正価はあって無きがごとき世界ですから、「値切り交渉」が当たり前の世界です。

レストランのビール、コーヒー、紅茶は、日本よりも高価な値付けになっていますが、これもトルコの観光収入なのだろうと思い、大いに貢献してきました。

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2007年8月 1日 (水)

トルコ

7月の中旬に、家内と娘と一緒に、約1週間、トルコの観光旅行ツアパックに参加してきました。梅爺の長兄が、義姉の入院看護(介護)で、連日大変な苦労を続けていた時期でもありましたので、暢気な旅行は、差し控えようかと何度も考えましたが、11月末に結婚予定の娘との、最後の家族旅行のチャンスということもあり、自分達のわがままを優先して、早めの夏休みをとることにしました。トルコの旅行から帰国して10日後に、長兄の献身的な看護もむなしく、義姉は他界しました。病状が少し持ち直しつつあるように感じて少し安堵していた矢先の訃報でしたので、呆然としました。今は、ただ冥福を祈るばかりです。そして、長兄には、時間を要するとは思いますが、心身の疲れを、少しづつ回復してもらいたいと願っています。

トルコは、家内と数年前から、何度も旅行を計画しながら、色々な事情で実現しなかった所なので、期待してでかけました。夏季に入ったトルコは、内陸部で日中40度を越す暑さで、木陰や少しの風が、これほど有難いものであることを、初めて体感しました。幸い、3人とも、暑さ、異なった食事や飲み水の環境に耐えて(精神安定剤として、時折正露丸を飲みながら)、無事帰国できました。

勿論、たった1週間の旅行で主要観光地をめぐっただけですから、これでトルコの全てを理解できるはずはありませんが、テレビでトルコ紀行番組を観ているのとは違った、「現地ならではの感覚」を体験でき、満足しました。

トルコを理解するには、先ず、そのロケーションの特徴を認識する必要があります。特にイスタンブール(昔のコンスタンチノープル)は地球上で、これほど、「要衝の地」は無いと思えるほど、自然が創りだした見事なロケーションと言えます。マルマラ海と黒海という、二つの内海を結ぶ、ボスフォラス海峡に接し、河といっても良いほどの狭い幅のボスフォラス海峡で、ヨーロッパとアジアが対峙しているわけですから、ここが、「歴史の中心地」にならないはずがありません。

イスタンブールが、歴史上、何度も異民族の侵攻、占領の目的地であった名残は、キリスト教の教会とイスラム教のモスクが並存しているという、外観だけではなく、トルコ人の容貌をみれば、歴然としています。明らかにアジア系、ヨーロッパ系、アラブ系、アフリカ系の人がいるかと思えば、その混血と思える人もいて、日本では考えられないような、「混血文化」に圧倒されます。現地の観光案内人(白人系トルコ人女性、日本語堪能)に訊ねても、どのくらいの人種が混合しているかは、「わからない」という回答でした。

イラク、イラン、シリアとの国境がある、トルコ東南部は、軍による厳戒な体制が敷かれていて、勿論観光の対象地にはなっていませんが、多分こちらへ行けば、クルド人などの居住区があって、また異なったトルコの顔があるのであろうと想像しました。

アタチュルクが、共和国建国の際に、「日本をモデルにしようとした」という話は有名ですが、日本とトルコは、全てがあまりに違いすぎて、「日本の常識」でトルコを観ても、理解は難しいだろうというのが、梅爺の第一印象でした。

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